山内正文
山内 正文 | |
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生誕 |
1891年10月8日 大日本帝国 滋賀県 |
死没 |
1944年8月6日(52歳没) ビルマ国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1913年 - 1944年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
山内 正文(やまうち まさふみ、1891年(明治24年)10月8日[1][2] - 1944年(昭和19年)8月6日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。旧姓・秋山。
経歴
[編集]滋賀県出身[1][3]。裁判官・秋山正義の息子として生まれる[1]。膳所中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業[1][2]。同期に青木重誠、武藤章、富永恭次、佐藤幸徳、田中新一、山崎保代らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第60連隊付となる[1]。
1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業[2][3][4]。綾部橘樹、有末精三、斎藤義次、小畑信良らが同期。陸軍きっての逸材と評されたが、中学出身であるため傍流とみなされていた[要出典]。1925年(大正14年)3月、歩兵第39連隊中隊長に就任[1]。以後、参謀本部付勤務、参謀本部員、歩兵第33旅団司令部付、第10師団司令部付を歴任[1]。
1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進し、同年11月からアメリカ駐在となり、1932年(昭和7年)、カンザス米陸軍大学校を卒業した[1]。同年6月、歩兵第8連隊付となり、同年8月、歩兵中佐に進級[1]。1933年(昭和8年)8月、陸大教官に就任[1][3]。1934年(昭和9年)11月から翌年1月までフィリピンに出張[1]。教育総監部課員を経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し台湾軍参謀に就任[1][3]。1937年(昭和12年)8月、兵科を航空兵科に転じ航空兵大佐となる[1]。同年12月から翌年2月まで、第5軍参謀を兼務した[1][3]。
1938年(昭和13年)4月、アメリカ大使館付武官となり、1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級[1][3]。同年12月、参謀本部付となる[1][3]。日本軍きってのアメリカ通と言われた[要出典]。1940年(昭和15年)3月、第36歩兵団長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。第12軍参謀長を経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍中将に進み第1独立守備隊司令官となる[1][3]。1942年(昭和17年)6月、第15師団長に親補され、インパール作戦に参戦[1][2][3]。同作戦中、多くの将兵と同じように自らもマラリヤに罹患し[要出典]、柳田元三と共に上官である牟田口廉也に忌避され[要出典]、1944年(昭和19年)6月10日、師団長を解任され参謀本部付[1][2][3]となる。のち収容先のメイミョウの兵站病院で結核のため病没した[1][2][3]。