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山田宗徧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山田 宗徧(やまだ そうへん、寛永4年(1627年) - 宝永5年4月2日1708年5月21日))は、江戸時代前期の茶人宗徧流茶道を興した。茶号は四方庵・不審庵・今日庵。

生涯

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寛永4年(1627年)、東本願寺末寺である京都上京二本松長徳寺の住職・明覚(長徳寺四世)の子として長徳寺に生まれた。母は山田監物(松江藩主・堀尾忠晴重臣)の娘。僧名は周学(しゅうがく)。父から寺の住職職を継いだが、還俗して茶道を志すようになり、小堀遠州に入門。さらに正保元年(1644年)、18歳のときに千宗旦に弟子入りする。承保元年(1652年)、宗旦の皆伝を受け、京都郊外の鳴滝村三宝寺に茶室を建てた。このお祝いに宗旦から千利休の伝来の品である四方釜を譲られた。また大徳寺の翠巌和尚からも「四方庵」の茶号を贈られている。

明暦元年(1655年)、千宗旦の推挙で三河国吉田藩愛知県豊橋市)主・小笠原忠知に茶道をもって30石5人扶持(100石格)で仕えるようになった。また長徳寺を離れるにあたって、母方の姓・山田をとって「山田宗徧家定」と改名している。父の明覚も山田道玄と改名した。この時すでに晩年であった千宗旦には利休以来の庵号「不審庵」及び宗旦の庵号「今日庵」の使用を許されている[1]。吉田で与えられた屋敷は今は豊橋公園(豊橋市今橋町)の一角となっている(現在、石碑が有る)。臨済寺(同市東田町)で参禅得道し、栽松庵を設けた。また、飯村(いむれ、同市飯村町)や小坂井(こざかい、豊川市小坂井町)に大名接待の茶屋を設立した。以降40年以上にわたり小笠原家に仕える。

元禄10年(1697年)、吉田小笠原家の職を二世宗引へ譲って吉田を去り、東海道江戸に下り、本所に居を構える。宗徧流茶道を興した。赤穂事件の際には、本所に屋敷替えになった高家吉良義央(義央も千宗旦の弟子の一人)から、しばしば吉良邸の茶会に招かれて出席している。

宝永5年4月2日1708年5月21日)に江戸で死去。享年82。浅草本願寺中の願竜寺に葬られたが、遺言により墓石は建てていない。石灯竜と紅梅を残すも、前者は享保の大火で消失、後者は関東大震災で消失した。法名は不審庵周学宗徧居士。著書に『茶道便蒙抄』『茶道要録』などがある。

唯一の遺構とされる茶室「淇篆庵(きろくあん)」が愛知県岡崎市明願寺にある[2][3]

遺品

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創作・脚色

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忠臣蔵では、脇屋新兵衛と変名した赤穂浪士大高忠雄が宗徧に弟子入りし、宗徧から「12月14日に吉良邸で茶会」という情報を聞きだして、討ち入り日を決定した、とされる巷談が残る。山田宗徧は脇屋新兵衛の正体を知りながら、赤穂浪士達の無念を思いやってわざと吉良邸茶会の日を教えた、という設定になっている。

また、討ち入りに吉良邸に泊った宗徧も居合わせてしまい、茶器の名物「桂籠(花入)」[5]を抱えて逃げ隠れる際に大高に襲撃され、その時の刀傷(隠れている処を突かれた為、槍傷だとする場合あり)が茶器に残った、などとする脚色もある。このストーリーでは大高は「桂籠」を奪い、潮田高教に持たせ泉岳寺に運び去っている。

しかし史実では、山田宗徧に大高が入門したという事実も、宗徧が茶会の日程を教えた史料も存在しない。宗徧は四十年の間、茶道指南として小笠原家に仕えていたが、当日の正客は吉良と昵懇の仲の小笠原長重であった。一歩間違えば主君の命も危なかったわけであり、現実的ではない。事件後、小笠原は赤穂義士の全員斬首を主張している。 宮澤誠一は、「宗徧による日程の漏洩説は大高に活躍の場を与えるための俗説」としてこれを退けている[6]

妻子

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妻は生駒氏。三男一女であり、長男・宗倫は早世したが、次男・山田宗屋と三男・生駒権平宗俊は小笠原家に近習として仕えた。長女は吉田石塚大聖寺住職・清山に嫁ぎ、一男・永守を産んだとある。

登場する作品

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脚注

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  1. ^ 茶の湯テキストブック 宗徧流 十世家元山田宗徧 主婦の友社 ISBN 4-07-914496-2
  2. ^ 東海新聞社編纂『岡崎市戦災復興誌』岡崎市役所、1954年11月10日、1174-1175頁。 
  3. ^ 淇篆庵並水屋(きろくあんならびにみずや) | 文化財ナビ愛知
  4. ^ 矢部良明「山田宗徧」(2014年、茶人叢書)
  5. ^ 香雪美術館所蔵「籠花入 銘桂川」
  6. ^ 宮澤誠一『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』 p157(三省堂、1999年)。ISBN 978-4385359137

参考文献

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