岡崎平内
岡崎 平内 おかざき へいない | |
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生年月日 | 1848年4月3日 |
出生地 | 鳥取県鳥取市馬場町 |
没年月日 | 1917年8月12日 |
初代鳥取県会議長 | |
在任期間 | 1881年 - 1884年 |
岡崎 平内(おかざき へいない、1848年4月3日(嘉永元年2月28日[1])- 1917年(大正6年)8月12日[2])は、日本の政治家。7代目平内[3]。元衆議院議員[4]。初代鳥取県会議長[4]。初代鳥取市長[4]。
明治の鳥取士族、政治界の指導者として、明治の100年式典の時、県政功労者となった[4]。幼名は兵太郎、長じて可観と改め、後明治13年(1880年)9月父の名を継ぎ平内と改める[5]。
経歴
[編集]鳥取の馬場町、藩御用係500石の藩士の家に生まれた[4]。平内の嫡男[5]。
明治7年(1874年)、「愛国社」に入り自由民権運動に参加したが、一転して明治10年(1877年)に陸軍省に入省[4]。まもなく帰郷して「共立社」に入って士族の矯正に当たる一方、機織場を設立して殖産興業に努めた[4]。
明治9年(1876年)に全国で大規模な府県の合併が行われ、鳥取県は一時島根県に組み込まれた[3]。島根県時代に、日野郡長、県会議員となり、「愛護会」会長として鳥取県再置に尽力した[4]。明治14年(1881年)に鳥取県が再置されると、初代鳥取県会議長となり、山田県政を支えた[4]。
明治21年(1888年)に市制が公布されると、初代鳥取市長となり、帝国議会が開設されると衆議院議員に選出されて、政府系の「大政会」に所属した[4]。しかし、国会が政争の場に終始しているのを見て辞任[4]。請われて西伯郡長、岩美郡長、市参事会委員などを歴任した[4]。
家系
[編集]岡崎家の先祖はもともと作州(岡山県北部)の大名であった森家に仕えていたが、寛文5年(1655年)に池田家に召しかかえられて鳥取に移り住み、代々「平内(へいない)」を名乗った[3]。
5代目平内の頃、鳥取藩は多くの借金を抱えていた[3]。その財政立て直しに活躍したのが平内で、その仕事ぶりを認められて屋敷を与えられた[3]。
その他
[編集]岡崎平内が住んでいた屋敷は、鳥取市に今も残る数少ない武家屋敷のひとつで、日本で最初の女性弁護士である中田正子が暮らしていたことでも知られている[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 130頁
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『鳥取県議会史 別巻』鳥取県議会、1975年。