岩下製陶
岩下製陶(いわしたせいとう)[1]は、栃木県芳賀郡益子町にある益子焼の窯元・陶器製造業者である[2][3]。
現在の店舗名は「古窯いわした」[4][5]。古くは「岩下窯」と呼ばれ[6]、「岩下製陶所」と呼称していた[7][8]。
現在地には、益子町の有形文化財に指定され[9]、また文化庁の認定する日本遺産ストーリー「かさましこ~兄弟産地が紡ぐ"焼き物語"~」の構成文化財に認定された、北関東最大級の、そして「益子最古」の登り窯があることで有名である[1][10][11]。
沿革
[編集]江戸時代末期の慶応元年12月(1866年1月)[1]、2代目・岩下作右衛門(岩下製陶初代当主)が農間余業[12]として瀬戸焼業:窯業を大田原藩に願い出て[6]、慶応2年6月(1866年7月)[2][13]大平村で創業した[6]。翌慶応3年4月(1867年5月)には初めて窯を焼き上げたと言われている[6][13]。
慶応3年(1867年)に2代目作右衛門が没した後、3代目・岩下作右衛門:後の岩下太平[3][7][14][15][16](岩下製陶2代目当主)に窯業が受け継がれた[6]。
1876年(明治9年)7月、館林村に弟である岩下吉造(別表記に吉蔵[17])の名義で支店、1877年(明治10年)頃には千葉県野田の瀬戸川岸に出張店、1885年(明治18年)には益子村に「岩下吉造商店」を設置した[6]。
1881年(明治14年)から1882年(明治15年)の頃、太平は吉造に岩下家の家督を譲り、太平は益子村に移転して仲買業を営んだ[6]。1887年(明治20年)には太平・吉造が両者ともに益子村で営業しており、1889年(明治22年)の仲買業組合の名簿には、太平と吉造の両名の名が記してあった[6][18]。
1898年(明治31年)には茨城県結城にあった川島停車場に出張所を設置した[6]。
この後も益子村の窯場を多く傘下に持ち、事業を拡大していった[6]。
1906年(明治39年)10月25日には太平と吉造は江川甲子五郎と共に「丸三合資会社」を設立。陶器や薪や灰などの売買を行った[6][19][20]。
1907年(明治40年)に弟・吉造が亡くなると[21]、岩下窯の事業の大部分は兄・太平が主導権を握ることになった。太平は大正前期には益子陶器同業組合の組長も務めた[6][22]。
弟の岩下吉造家は農業を受け継いでいくが、兄の岩下太平家はその後も窯業を続け[6]、岩下貞九郎(岩下製陶3代目)、岩下文二(岩下製陶4代目)と続いていき、現在は個人陶芸家を営んでいる岩下製陶5代目・岩下哲夫[1][2][6][23][24]、そして岩下製陶6代目となる岩下宗晶へと続いている[2][25]。
現在は益子焼販売店である「古窯いわした」の他、「益子陶芸教室」も営んでいる[26]。また益子陶器市開催時には「古窯いわした:岩下製陶」でテント市の一つである「古窯いわした広場」が開かれている[27]。
また6代目・宗昌が中心となり、2014年(平成26年)から、制作過程で欠けてしまった陶器など、日の目を見ずに捨てられてしまった作品を供養する「陶器供養」となる「ともしびのよる」を企画実行するなど、後述の「益子最古の登り窯」を用いた「新しい益子の文化」を開催している[28][29][30]。
岩下製陶の登窯:古窯、太平窯
[編集]現在、岩下製陶内で保存公開されている2基の登り窯[24]。
東側には岩下製陶2代目の岩下太平が1893年(明治26年)に築いた益子町最古の登り窯・通称「古窯」があり[9]。また西側には1918年(大正7年)に築かれた、現存する中では北関東最大級の登り窯・岩下太平になぞらえた通称「太平窯」がある[9][24]。
共に2007年(平成19年)7月18日に益子町の有形文化財に指定され[2][9][24]、また2020年度(令和2年度)には笠間市と益子町が連携したストーリー「かさましこ」として、文化庁から「日本遺産」の構成文化財の一つに認定された[10]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 「下野新聞」1989年(平成元年)9月4日付 14面「新・陶源境 とちぎの陶工たち 48」「岩下 哲夫(益子)」「「太平窯」の技を基本に」
- ^ a b c d e 岩下製陶について、2023年4月18日閲覧。
- ^ a b 『全国工場通覧 昭和15年』「栃木縣」P1081 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年4月18日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
- ^ 古窯いわした(岩下製陶)
- ^ 古窯いわした(岩下製陶)|益子町観光協会
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『益子町史 第5巻 (窯業編)』「第二章 近世・近現代」「第一節 陶業家とその製品」「(二〇)大平・岩下窯」P263 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年4月18日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
- ^ a b 『栃木県統計書 昭和7年 第3編 産業・金融』「附錄」P21 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年4月18日閲覧。
- ^ 『全国特産品案内窯 仕入の手引』 「26 陶磁器」「益子焼」P244- 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年6月3日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧
- ^ a b c d “岩下製陶(太平窯)登窯”. 文化財詳細. 2022年4月18日閲覧。
- ^ a b “岩下製陶(太平窯)登窯”. かさましこ~兄弟産地が紡ぐ"焼き物語"~. 2022年4月18日閲覧。
- ^ 文化庁. “かさましこ~兄弟産地が紡ぐ“焼き物語”~”. 日本遺産ポータルサイト. 2023年4月19日閲覧。
- ^ 農間余業(のうかんよぎょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク
- ^ a b 『益子町史 第4巻 (近現代史料編)』「第1章 近代社会の成立」「第3節 物産と産業」「17「陶磁器取調書」(明治18年)」P134 - 136 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年4月25日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
- ^ 『窯業銘鑑 大正13年度版』「栃木縣」「下野」ぬ一頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年5月2日閲覧。
- ^ 『窯業銘鑑 大正13年度版』「栃木縣 榮業者」「芳賀郡」「陶器(益子燒)販賣業」ぬノ二頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年5月2日閲覧。
- ^ 『全国特産品製造家便覧 訂再版』「栃木縣の部」「益子燒」P219 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年5月2日閲覧。
- ^ 『栃木県河内芳賀二郡名家揃』「益子町」 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年4月25日閲覧。
- ^ 『益子町史 第4巻 (近現代史料編)』「第2章 明治の益子」「第3節 益子焼」「4 陶器仲買人名簿(明治22年)」P255 - 256 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年4月25日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
- ^ 『官報』 1906年11月05日 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年4月23日閲覧。
- ^ 『日本全国諸会社役員録 明治40年』「下編 栃木県之部」P136 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年4月19日閲覧。
- ^ 『官報 1909年04月10日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年4月25日閲覧。
- ^ 『益子町史 第4巻 (近現代史料編)』「第3章 大正・昭和初期の社会と生活」「第3節 益子焼と陶工争議」「3 益子陶器同業組合収支決算報告書(大正4年度)」P434 - 437 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年4月25日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
- ^ 岩下 哲夫| 作家・窯元・販売店紹介 | 益子WEB陶器市
- ^ a b c d 枻出版社,焼き物の里を訪ねて益子・笠間 2009, p. 32.
- ^ 岩下 宗晶 (@mu_mu_05) - Instagram
- ^ 益子陶芸教室(岩下製陶)、2023年4月18日閲覧。
- ^ 古窯いわした広場 – 益子陶器市
- ^ 「下野新聞」2014年(平成26年)9月19日 18面「最後の役割 陶器に別れ」「増子の陶芸家ら」「感謝込め供養イベント」
- ^ 「下野新聞」2015年(平成27年)9月18日付 25面「使われなかった陶器供養」「益子であすからイベント」
- ^ 「下野新聞」2015年(平成27年)9月30日付 21面「日の目を見ない器を供養」「益子で「ともしびのよる」」
参考文献
[編集]- 『焼物の里を訪ねて 益子・笠間 器の里、最新ガイド。』株式会社 枻出版社〈エイムック 1816〉、2009年10月20日、32頁。ISBN 9784777914579。
外部リンク
[編集]古窯いわした
[編集]- 地図 - Google マップ - 古窯いわした(岩下製陶)
古窯いわした広場
[編集]座標: 北緯36度27分58.4秒 東経140度06分28.1秒 / 北緯36.466222度 東経140.107806度