岩城宣隆
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正12年(1584年) |
死没 | 寛文12年8月27日(1672年10月17日)[1] |
改名 | 彦太郎(幼名)→多賀谷宣家→佐竹宣家→岩城宣家→宣隆 |
戒名 | 円通院殿月宮観心大居士[2][1] |
墓所 | 秋田県由利本荘市岩城赤平の竜門寺[1][2] |
官位 | 従五位下・但馬守[1][2] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 佐竹義宣→徳川家光→家綱 |
藩 | 出羽亀田藩主 |
氏族 | 佐竹氏→多賀谷氏→佐竹氏→岩城氏 |
父母 |
父:佐竹義重、母:宝寿院(伊達晴宗娘) 養父:小野崎義昌[3]→多賀谷重経 |
兄弟 |
佐竹義宣、蘆名義広、 江戸実通室(後高倉永慶室)、貞隆、宣隆、佐竹義直 養兄弟:岩城常隆室 |
妻 |
正室:珪台院(多賀谷重経娘) 継室:顕性院(真田信繁五女) |
子 |
重隆、女子、隆家 養子:多賀谷隆経 |
岩城 宣隆(いわき のぶたか)は、江戸時代初期の大名。出羽亀田藩2代藩主。久保田藩士多賀谷家初代。
生涯
[編集]天正12年(1584年)、佐竹義重の四男として生まれる。当初は多賀谷重経の養嗣子となり、長兄・義宣より偏諱を受けて多賀谷宣家(たがや のぶいえ)と名乗る。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に多賀谷家が改易されたため、実家の佐竹家に戻る。
慶長7年(1602年)、長兄・義宣が出羽への転封となると養父・重経と共にそれに従った[4][5]。久保田藩重臣となると、初め仙北白岩城主、後に山本檜山城主となる。なお、宣家が岩城家を相続した際に、多賀谷家の名跡は佐竹一門・戸村義国の次男・彦太郎隆経が相続した。
寛永5年(1628年)8月、亀田藩主で甥の岩城吉隆(佐竹義隆)が久保田藩主で兄・佐竹義宣の養嗣子となったため、その跡を継いで藩主となる[6]。同年9月19日、江戸幕府2代将軍である徳川秀忠や、その子・家光に御目見している[2][7]。
寛永11年(1634年)、宣隆に改名する。寛永20年(1643年)、山形藩主・保科正之が陸奥国会津藩に転封となる際、戸沢政盛・六郷政勝と共に山形城番を務めた[8]。検地を行うなどして藩政の基礎を固め、明暦2年(1656年)7月25日に家督を嫡子の重隆に譲って隠居した[2][1]。
寛文12年(1672年)、死去。享年89。
系譜
[編集]父母
正室、継室
子女
養子
- 多賀谷隆経 - 戸村義国の次男
脚注
[編集]出典
[編集]- 三浦賢童編 「秋田武鑑 全」(無明堂出版、昭和56年初版、原著は「久保田家中分限帳」の著者)
- 『円福寺記録』
- 『常陸名家譜』(多賀谷氏)
- 『常総遺文』(七 多賀谷系図)
- 『亀田岩城家譜』
- 『佐竹秋田家譜』
- 『寛永日記』
- 『明正天皇紀』(寛永二十年 自七月二日至同十八日)
- 『寛政重修諸家譜』