岩城隆恭
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 享保9年9月6日(1724年10月22日)[1] |
死没 | 天明2年11月3日(1782年12月7日)または同年11月5日[1] |
改名 | 鶴次郎(幼名)→伊達倫隆[1]→村寿[1]→岩城隆光→隆恭 |
別名 | 数馬→民部[1] |
戒名 | 正法院善明祖眼[1] |
墓所 | 東京都板橋区小豆沢の総泉寺[1] |
官位 | 従五位下・伊予守[1]、左京亮[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 出羽亀田藩主 |
氏族 | 伊達氏(岩谷堂伊達家)→岩城氏 |
父母 | 父:伊達村望、母:坂五郎左衛門(伊達氏家臣)娘 |
妻 |
正室:智鏡院(戸田忠余娘)[1] 継室:加藤泰温娘(後離縁)[1] 側室:4人 |
子 | 隆恕(次男)、八千姫(恵眼院、細川斉茲正室)、信(七女、織田信応正室)ら |
岩城 隆恭(いわき たかよし)は、江戸時代中期の大名。出羽国亀田藩6代藩主。
生涯
[編集]享保9年(1724年)9月6日、陸奥国仙台藩伊達家一門の岩谷堂伊達家5代当主・伊達村望の子として生まれる。
延享2年(1745年)11月10日、5代藩主・岩城隆韶の死去により、その末期養子として家督を継ぎ[注釈 1]、同年12月1日に御目見し、16日には従五位下・伊予守に叙任される[1]。こうした養子相続に伴い、藩内では隆恭に従って新たに亀田藩に入ってきた伊達家からの家臣と、旧来の岩城家家臣による権力闘争が起こり、さらに本家の出羽久保田藩との抗争も起こるなど、苦難が続いた。宝暦元年(1751年)には准后使、明和2年(1765年)には梶井御門跡、明和4年(1767年)2月には円満院御門跡の御馳走役を仰せつかっている[1]。
宝暦11年(1761年)8月16日、隆恭に改名する[1]。安永元年(1772年)11月8日、領内の御物川を通る船に税を課したことが幕府の知るところとなり、撤回させられ隆恭の謁見も差し止められた(雄物川一件)[2][3]。
藩財政も凶作が連年のように相次いで窮乏化し、藩士・領民も多数が逃散し(亀田藩士秋田退散事件)、城の石垣を再建することもできなかったと言われている。江戸上屋敷の雨漏れを修理することすらできず、雨漏れを油衣で凌いだため、「岩城の赤油衣」と揶揄されたという逸話がある。
天明2年(1782年)11月3日(または5日)、死去。享年59。跡を次男の隆恕が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室、継室
子女
系譜
[編集]岩城常隆-伊達政隆 - 国隆=宗規(仙台藩主・伊達忠宗の七男)- 村隆=村望(宗規の母方の実家・三沢氏からの入嗣)-岩城隆恭
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ これは、隆韶が伊達家一門からの養子だったからである。また、隆恭の実父・伊達村望は、岩城常隆の子孫にあたる岩谷堂伊達家の当主であり、岩城家の後裔(隆恭は常隆の6代目の子孫)であった。ただし伊達村望は三沢家からの養子であり、伊達・岩城のいずれの血統も引いていない。