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岩川与助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岩川 与助(與助[1]、いわかわ よすけ、1886年明治19年)1月10日[2] - 1969年昭和44年)7月10日[3])は、大正から昭和期の実業家政治家衆議院議員(4期)。

経歴

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鹿児島県[注釈 1]馭謨郡屋久島)、のちの上屋久村(熊毛郡上屋久村、上屋久町[4]を経て現屋久島町)で生まれる。同村宮之浦地区で郵便配達をしながら独学[4]。その後神戸に移り、浪速銀行神戸支店で奉公人として働きながらパルモア英学院(のちパルモア学院専門学校)で学び[4]、1910年(明治43年)に卒業した[3][5]

その後、浪速銀行神戸支店書記補を経て[3]、1916年(大正5年)三十字商会支配人となる[3][4]。その後、藤田商事取締役、大和海上火災専務取締役、太平洋海上火災専務取締役、朝日生命専務取締役、第一毛糸監査役などを務めた[3][4][5]

1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙で鹿児島第1区から中立で出馬して初当選[3][4][6]。1930年(昭和5年)2月の第17回総選挙では立憲政友会公認で立候補したが落選した[7]。1936年(昭和11年)鹿児島商船の社長に就任し離島航路の開発を行い、秋田硫黄鉱業専務取締役、合同硫黄鉱業専務取締役、日東鉱業汽船専務取締役なども務めた[3][4]

1947年(昭和22年)8月の第1回参議院議員通常選挙鹿児島県地方区補欠選挙に無所属で立候補して落選[8]。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙鹿児島県第3区から民主自由党公認で出馬して再選された[4][9]。以後、第25回第26回総選挙でも連続して再選され[10]、衆議院議員に通算4期在任した[3]。この間、自由党総務などを務めた[3][5]。1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙に立候補したが落選し[4][11]、政界を引退した[4]

1964年(昭和39年)秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章[12]

その他、大日本炭礦社長、同会長、ヤマトボーリング社長、興化工業社長、昭和電気建設社長、鹿児島商船会長などを務めた[3][4][5]

1969年(昭和44年)7月10日死去、83歳。死没日をもって従四位に叙される[1]

国政選挙歴

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』80頁、『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』77頁では東京。

出典

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  1. ^ a b 『官報』第12775号17-18頁 昭和44年7月17日号
  2. ^ 衆議院『第五十五回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1928年、34頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』80頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 『郷土人系 上』147-148頁。
  5. ^ a b c d 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』77頁。
  6. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第16回』537頁。
  7. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第17回』591頁。
  8. ^ a b 『国政選挙総覧:1947-2016』533頁。
  9. ^ a b 『国政選挙総覧:1947-2016』385頁。
  10. ^ a b c 『国政選挙総覧:1947-2016』386頁。
  11. ^ a b 『国政選挙総覧:1947-2016』387頁。
  12. ^ 『官報』第11369号6頁 昭和39年11月4日号

参考文献

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  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第16回』衆議院事務局、1928年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第17回』衆議院事務局、1930年。
  • 南日本新聞社編『郷土人系 上』春苑堂書店、1969年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
  • 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。