徳川宗賢
人物情報 | |
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生誕 |
1930年11月27日 日本・東京府 |
死没 |
1999年6月6日(68歳没) 日本 心筋梗塞 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 学習院大学 |
配偶者 | 徳川陽子 |
両親 |
父:徳川達成 母:徳川元子 |
子供 | 松方冬子 |
学問 | |
時代 | 昭和・平成 |
研究分野 |
日本語学 方言学 |
研究機関 |
国立国語研究所 大阪大学 学習院大学 国語審議会 |
指導教員 | 東条操 |
学位 | 博士(文学) |
主な業績 |
方言地理学の理論と方法の深化 社会言語学の発展 |
主要な作品 | #著書 |
学会 |
国語学会 社会言語科学会 |
主な受賞歴 |
勲三等瑞宝章 正四位 |
徳川 宗賢(とくがわ むねまさ、1930年11月27日 - 1999年6月6日)は、日本の言語学者・国語学者。大阪大学名誉教授。博士(文学)。日本語の方言学の第一人者であった。
生涯
[編集]東京府出身。田安徳川家9代当主・徳川達孝伯爵の長男徳川達成(のち10代当主、伯爵)の次男として生まれる。母は徳川元子。
学習院大学文学部文学科国文学専攻卒業[1]。学習院大学大学院人文科学研究科国文学修士課程修了[1]。東条操に師事した[2]。
国立国語研究所研究員、大阪大学文学部教授を経て、学習院大学文学部日本語日本文学科教授。国語学会代表理事。社会言語科学会会長。第21期国語審議会委員。
急性心筋梗塞により死去[3]。勲三等瑞宝章を授与される[3]。叙正四位[3]。
業績
[編集]研究領域は幅広く、日本語教育や国際交流の分野でも活躍したが[4][5]、特筆すべきは日本語の方言に関する研究である。国立国語研究所が研究の一環として方言の全国調査に乗り出し、その調査結果を『日本言語地図』としてまとめたが、この企画・調査・編集作業に主導的役割を果たした[6][7]。従来の方言研究は「言語変異の空間的側面を捉えることによって成立する」というのが一般的な立場であったが、徳川は「空間的側面のみならず、地域社会の複雑な言語実態を総合的に捉えるべき」という立場から、個人差と地域差、年齢差と地域差、場面差と地域差などの観点から分析を進め、日本における方言学の流れを大きく変えた[6][8]。
この他、司馬遼太郎とも、対話「日本の母語は各地の方言」(『日本語と日本人』 中公文庫、のち『日本語の本質 - 司馬遼太郎対話選集2』 文春文庫)を行っている。また、テレビ番組「探偵!ナイトスクープ」のアホ・バカ分布図作成にアドバイスを行った。さらに広く、国語審議会委員、日本学術会議会員として、国の言語政策、文教政策にも重要な提言をした[9]。
人物
[編集]国立国語研究所の所員であった頃、『日本言語地図』作成のために調査に出かけ、県境の田舎にある農家の縁先に腰をかけたところ、出されたお茶の中に虫が混入していたが、注いでくれた老婆が後ろを向いた隙に虫を摘まみ出し、老婆がこちらへ向き直った時には、そのお茶を美味しそうに悠然と飲み干して調査を続行した[9]。
飾らない人柄から、周りの人からはよく「お殿様」と呼ばれたが[10]、親しい仲間では「トクちゃん」と呼ばれることが多かった[11]。出身や身分や年齢にこだわらず分け隔てなく接し、誰からどんな論文を送られてもすぐに感想をしたためて激励した[9]。卒業論文の成績評価に関しても、減点法ではなく加点法を採用し、的確に長所を見つけては助言した[12]。
非常に筆まめで、葉書の数通を会議の内職で簡単に書き上げていた[13]。来た手紙には必ず返信を書き、また自分から思いついたことがあれば、すぐに手紙を書いた[14]。
家族
[編集]妻の徳川陽子は物理学者で東京工芸大学名誉教授。娘の松方冬子は日本史学者、東京大学史料編纂所教授。
著書
[編集]編著・共編
[編集]- 『方言研究のすべて』(平井昌夫共編、至文堂) 1969
- 『類義語辞典』(宮島達夫共編、東京堂出版) 1972・1978
- 『方言地理学図集』(W・A・グロータース共編、秋山書店) 1976
- 『現代の日本語』(柴田武, 祖父江孝男共著、三省堂選書) 1977
- 『日本の方言地図』(中公新書) 1979
- 『上方ことばの世界』(武蔵野書院、武蔵野文庫、懐徳堂記念講座) 1985
- 『日米のコミュニケーション』(南雲堂) 1985
- 『新・方言学を学ぶ人のために』(真田信治共編、世界思想社) 1991
- 『関西方言の社会言語学』(真田信治共編、世界思想社) 1995
- 『集英社ポケット国語辞典』(集英社) 1996
- 『集英社ポケットカタカナ語辞典』(集英社) 1999
脚注
[編集]- ^ a b 真田信治 (1999b), p. 11.
- ^ 都染直也 (2012), p. 92.
- ^ a b c 真田信治 (1999b), p. 12.
- ^ 生越直樹 (1999), pp. 9–10.
- ^ 中井精一 (2020), p. 125.
- ^ a b 真田信治 (1999a), p. 101.
- ^ 中井精一 (2020), p. 124.
- ^ 中井精一 (2020), pp. 124–125.
- ^ a b c 加藤正信 (1999), p. 2.
- ^ 生越直樹 (1999), p. 7.
- ^ 宮島達夫 (1999), p. 4.
- ^ 都染直也 (2012), p. 100.
- ^ 宮島達夫 (1999), p. 5.
- ^ 生越直樹 (1999), p. 8.
参考文献
[編集]- 加藤正信「弔辞」『国語学』第199号、国語学会、1999年12月、1-3頁。
- 吉岡曠「お別れの言葉」『学習院大学国語国文学会誌』第44号、2001年3月、10-13頁。
- 宮島達夫「徳川さんの思い出」『国語学』第199号、国語学会、1999年12月、4-6頁。
- 渋谷勝己「徳川学の流れ:方言学から社会言語学へ」『社会言語科学』第2巻第2号、社会言語科学会、2000年3月、2-10頁。
- 真田信治「追悼 徳川宗賢先生」『言語』第28巻第8号、大修館書店、1999年8月、100-103頁。
- 真田信治、土岐哲、浜田麻里「追悼・徳川宗賢先生〔含 略歴・業績〕」『月刊日本語』第12巻第9号、アルク、1999年9月、96-101頁。
- 真田信治「徳川宗賢博士年譜および著述目録」『国語学』第199号、国語学会、1999年12月、11-16頁。
- 諏訪春雄「弔辞」『学習院大学国語国文学会誌』第44号、2001年3月、6-9頁。
- 生越直樹「徳川宗賢先生を偲んで」『国語学』第199号、国語学会、1999年12月、7-10頁。
- 中井精一「徳川宗賢」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、122-125頁。
- 都染直也「新日本語学者列伝:徳川宗賢」『日本語学』第31巻第3号、明治書院、2012年3月、92-100頁。