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徳網茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徳網 茂
1955年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府
生年月日 1924年3月30日
没年月日 (1976-05-23) 1976年5月23日(52歳没)
身長
体重
170 cm
65 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1950年
初出場 1950年
最終出場 1959年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

徳網 茂(とくあみ しげる、1924年3月30日 - 1976年5月23日)は、京都府出身のプロ野球選手、野球指導者。

経歴

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京都商業学校時代は捕手として神田武夫投手とバッテリーを組み、1939年夏の第25回全国中等学校優勝野球大会から1940年夏の第26回全国中等学校優勝野球大会まで3季連続で甲子園に出場。1940年春の第17回選抜中等学校野球大会では3番打者として準優勝。その後、同志社大学に進学。同期に後に池田高校を率いて、甲子園優勝を果たす名監督蔦文也、3年先輩に後のチームメイトとなる渡辺博之、1年後輩に同じくチームメイトとなる櫟信平がいる。卒業後は大洋漁業(現:マルハ)に所属し、都市対抗野球にも出場した。

1949年に翌年新設される毎日オリオンズに入団が決まったが、それから程なく、大阪タイガースの正捕手・土井垣武10年選手制度によって毎日オリオンズへと移籍することが決まる。これを受けて、1950年のリーグ開始前に大館勲との1対1の交換トレードで大阪に移籍した。1年目から135試合に出場、職業野球東西対抗戦(翌年よりオールスターゲーム)にも出場し[要出典]、新人球団記録となる69打点を挙げ、スタメンとしての地位を確立した。以後、1956年石垣一夫にスタメンを奪われるまで正捕手の座を守った。1959年オフに引退

引退後は、母校・京都商業の系列校である京都学園大学の講師となり、同大学の野球部監督も務めた[1]。1976年5月23日に52歳で死去。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1950 阪神 135 521 487 53 122 20 5 2 158 69 12 1 5 -- 29 -- 0 29 10 .251 .293 .324 .617
1951 101 301 277 32 70 13 0 1 86 32 5 0 8 -- 15 -- 1 16 12 .253 .294 .310 .604
1952 112 337 311 36 78 6 3 2 96 34 6 1 9 -- 16 -- 1 18 2 .251 .290 .309 .598
1953 108 370 353 27 100 14 2 1 121 33 4 2 9 -- 8 -- 0 18 3 .283 .299 .343 .642
1954 107 292 268 21 72 6 1 0 80 24 6 2 8 1 15 -- 0 13 5 .269 .307 .299 .606
1955 105 304 287 11 63 6 3 0 75 20 3 3 3 5 8 2 1 13 9 .220 .243 .261 .505
1956 45 86 83 2 14 1 0 1 18 6 1 0 1 0 2 0 0 5 1 .169 .188 .217 .405
1957 15 22 20 1 8 0 0 0 8 2 0 0 1 1 0 0 0 3 1 .400 .400 .400 .800
1958 52 116 113 4 15 0 0 0 15 6 0 0 1 0 2 0 0 6 5 .133 .148 .133 .281
1959 2 2 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:10年 782 2351 2200 187 542 66 14 7 657 226 37 9 46 7 95 2 3 121 48 .246 .279 .299 .577

記録

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背番号

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  • 13 (1950年 - 1959年)

脚注

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  1. ^ 京都学園大学硬式野球部の紹介京都学園大学硬式野球部公式サイト

関連項目

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