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念法眞教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
念法真教から転送)
念法眞教
開祖: 小倉霊現(親先生)
当代燈主: 桶屋良祐
成立年月日: 1925年大正14年)
本部所在地: 大阪府大阪市鶴見区
信者: 公称約40.3万人
※文化庁『宗教年鑑 令和5年版』
ウェブサイト: 念法眞教

念法眞教(ねんぽうしんきょう)は、日本仏教系の新宗教1925年大正14年)に小倉霊現によって立教された。

概要

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小倉霊現は、河内木綿を扱う商家に生まれたが、出生前に父が死去し祖父母に育てられた。しかし祖父と祖母も相次いで死去したため小学4年で中退、鍛冶屋や乾物屋で丁稚奉公の後、20歳で兵役に就いた[要出典]

除隊後に乾物屋を暖簾分けされ結婚もしたが、招集された第一次世界大戦で親友が戦死、出征中に家業を乗っ取られる、また自身の病気、長男の病死など、立て続けに起きた不幸に悩み、樋口セイ(近所に住んでいた霊媒師。同教団では霊生院と称す)に帰依し、心霊現象に傾倒した[要出典]

1925年(大正14年)8月3日阿弥陀如来から託宣(同教団は「ご霊告」と表現し同日付で立教とする)を受け、大峰山修験道修行の後、1928年昭和3年)に「神仏心霊感応会」を発会し、四天王寺前に道場を設立。1931年(昭和6年)に機関紙『鶯乃聲』を創刊、戦時下の新体制運動翼賛思想を鼓舞して教勢を拡大した[要出典]

教義に見える「世の立て直し」等の語句から、同時代に出口王仁三郎大本)より少なくない影響も察せられるが、体制迎合的な姿勢において正反対とも言える[要出典]

1939年(昭和14年)に天台宗傘下に納まり『金剛教会』に改称したが、戦後の新宗教ブームの追い風を受け、1947年(昭和22年)に『小倉山金剛寺』の名で独立、1952年(昭和27年)には現教団名の『念法眞教』に改め、宗教法人格を取得した。

小倉霊現は常に戦闘帽を被っていた[1]

大阪市鶴見区の総本山金剛寺(教団本部)以下、各地に念法寺および教会を置き、独特のお練り行列で注目される。1971年(昭和46年)より民放ラジオ局にて布教番組心のいこい』を放送し、教典である『念法法語集』などの内容を紹介・布教活動なども行っている。1973年(昭和48年)、全日本仏教会に加盟。

1982年(昭和57年)に初代小倉霊現没。次男の由貴夫(良現)が二代燈主に就任し、小倉霊現を襲名した。2001年平成13年)に二代目小倉霊現が没し、生前に後継指名されていた稲山霊芳が三代燈主に就いたが、三代目小倉霊現は名乗っていない。初代からの路線を継承して保守的な政治運動を活発に行い、機関紙に教育勅語の原文と口語訳を連載するなどしている他、日本会議で代表会員をつとめる信徒がいる。

2017年(平成29年)3月5日、教団は桶屋良祐教務総長を四代燈主に任命し、4月1日付で桶屋教務総長が三代燈主代行者に就任すると発表した。2018年(平成30年)6月17日、三代燈主・稲山霊芳が死去し、桶屋良祐が四代燈主に就任した。

『宗教年鑑 令和5年版』における信者数は約40.3万人。

歴代教主

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念法眞教では教主のことを「燈主」と呼称している。

氏名 就任年 退任年
初代 小倉霊現 1925年 1982年
2 小倉良現 1982年 1856年
3 稲山霊芳 2001年 2018年
4 桶屋良祐 2018年 現在

政治傾向

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愛郷心に立脚しながら、国土防衛と反共を強く説く[1]。機関紙「念法時報」の毎号の巻頭には、「教団を愛するとは、人を愛し、国を愛することである」等の「聖語」がある[1]。機関紙や月刊誌「鶯乃声」には保守論客・産経知識人の投稿・転載が多く掲載されている[1]

その他、育鵬社教科書採択運動のための「教科書改善と特別基金」の募金に協力している[2]

上杉聡は、過去に実施された日本会議のイベントの受付では、念法真教を含む各種宗教団体別の受付窓口が設けられており、「参加者を組織動員したこともあることがうかがえる」としている[3]

主な施設

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脚注

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  1. ^ a b c d 塚田穂高、宗教と政治の転轍点、花伝社、2015年。
  2. ^ 「ご協力者御芳名」、『教育再生』、日本教育再生機構、2015年9月号
  3. ^ 上杉聡「日本における『宗教右翼』の台頭と『つくる会』『日本会議』」戦争責任、39、2003年 53ページ。

関連項目

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外部リンク

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