恵資
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経歴
[編集]大化元年(645年)8月、十師の制が設置された時に選ばれた一員に、恵至という僧侶がいるのだが[1]、彼と同一人物とする説がある[2]。同一人物だとすると、 白雉2年(651年)春三月、前年より取りかかっていた丈六の繍像(ぬいものほとけ)など36体の仏像が完成したので[3]、皇御母尊(すめらみおやのみこと)は十師を招請して、斎会を催しているが、これに参加していることになる[4]。
『本朝高僧伝』智円伝に、恵師という僧が登場するが、それによると、吉蔵に三論宗を学び、元興寺の僧であった、ともいう。
正式に記録に現れるのは、白雉3年(652年)の夏4月に内裏に沙門恵隠を招請して「無量寿経」の法門論議をおこなった際、他の1,000人の沙門を「作聴衆」(聴者)として論議者となっていることである[5]。論議は6日間つづき、終了したその日より雨の日がつづいた、という[6]。