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持地六三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
もちじ ろくさぶろう

持地 六三郎
生誕 (1867-09-15) 1867年9月15日慶応3年8月18日
陸奥国(現・福島県
死没 (1923-08-16) 1923年8月16日(55歳没)
千葉県安房郡北条町(現・館山市
国籍 日本の旗 日本
出身校 帝国大学法科大学
職業 官吏
肩書き 従三位勲二等
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持地 六三郎(もちじ ろくさぶろう、1867年9月15日慶応3年8月18日[1] - 1923年大正12年)8月16日[2])は明治時代から大正時代にかけての日本の統治地域官僚

経歴

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福島県出身。1893年明治26年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業。大蔵属、内務属を経て、1894年(明治27年)に山口高等中学校教授に任じられた。1897年(明治30年)、石川県参事官に転じ、同県書記官文部省視学官、同省参事官、台南県書記官、台湾総督府参事官を歴任。1909年(明治42年)から台湾総督府通信局長を務めた。その後、朝鮮総督府に転じ、土木局長を務めた後、1917年(大正6年)から逓信局長官[3]、逓信局長を務めた。退官後、1921年(大正10年)12月28日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[4]

親族

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  • 高橋親吉 - 長女の夫。高雄州知事、台湾総督府殖産局長、台北州知事。

著作

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著書
訳書
  • 経済学評論』 威徳瓦蘭杜原著、経済雑誌社、1890年5月
    Edward Clark Lunt. The present condition of economic science and the demand for a radical change in its method and aim. の翻訳。

脚注

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  1. ^ 人事興信録 第4版 1915.
  2. ^ 『官報』第3318号、大正12年8月21日。
  3. ^ 『官報』第1454号、大正6年6月7日。
  4. ^ 『官報』第2824号、大正10年12月29日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。 

関連文献

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  • 金子文夫 「持地六三郎の生涯と著作」(『台湾近現代史研究』第2号、台湾近現代史研究会、1979年8月)
  • 駒込武著 『植民地帝国日本の文化統合』 岩波書店、1996年3月、ISBN 4000029592
  • 「総督府官僚の台湾統治構想と統計調査 : 持地六三郎の台湾認識」(佐藤正広著 『帝国日本と統計調査 : 統治初期台湾の専門家集団』 岩波書店、2012年3月、ISBN 9784000099202
公職
先代
逓信局長官
池田十三郎
日本の旗 朝鮮総督府逓信局長
1919年 - 1920年
逓信局長官
1917年 - 1919年
次代
竹内友治郎
先代
(新設)
日本の旗 朝鮮総督府土木局長
1912年 - 1917年
次代
宇佐美勝夫
先代
鹿子木小五郎
日本の旗 台湾総督府通信局長
1909年 - 1910年
次代
局長事務取扱
鈴木三郎
先代
校長
田中敬一
日本の旗 台湾総督府国語学校長心得
1906年 - 1907年
次代
校長
本荘太一郎
先代
局長
中村是公
日本の旗 台湾総督府総務局長心得
1906年 - 1907年
次代
局長
大島久満次