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放駒四郎兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はなれごま しろべえ

放駒 四郎兵衛
『放駒四郎兵衛』、日吉堂、1913年
生誕 生年不詳
日本の旗 日本 江戸浅草花川戸(現在の東京都台東区花川戸)
死没 没年不詳
別名 放駒の四郎兵衛 (はなれごま の しろべえ)
職業 侠客
親戚 夢市郎兵衛 (弟)
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放駒 四郎兵衛(はなれごま しろべえ、生没年不詳)は、江戸時代前期に実在したとされる日本の侠客である[1]夢市郎兵衛(夢の市郎兵衛)の実兄であり、幡随院長兵衛の子分として知られる[1][2]放れ駒 四郎兵衛(読み同)、放駒の四郎兵衛(はなれごま の しろべえ)とも表記される。

人物・来歴

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生年月日・生地ともに不詳である[1]。一般に長兵衛よりは年長と考えられ、江戸浅草花川戸(現在の東京都台東区花川戸)出身と考えられている[3]。当初、力士であったが、引退して植木屋をやっていたところ、実弟・夢の市郎兵衛の侠客としての売り出しとともに、自らも侠客の道に進んだ、という[3]。弟とともに幡随院長兵衛の子分となり、長兵衛四天王八天下のひとりに数えられる[3]

1657年8月27日明暦3年7月18日)、水野十郎左衛門(水野成之)に長兵衛が殺され、この仇討ちをしようとするが、捕らえられて処刑されたという[1]。正確な没年月日は不明である[1]。水野はその後、1664年4月23日寛文4年3月27日)に切腹処分になった[4]

伝説・物語

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初代桜田治助(1734年 – 1806年)が1769年(明和6年)に書いた『江戸花陽向曽我』に、「放駒四郎兵衛 実ハ鬼王新左衛門」として登場する[5]市村座三代目大谷廣次(1746年 – 1802年)がこれを演じ、同年、一筆斎文調が描いた[5]歌川国明は、1861年(文久元年)10月、四代目中村芝翫を『放駒四郎兵衛 中村芝翫』として描き、一寿斎国政(四代目 歌川国政、1848年 - 1920年)は、大島運四郎幡随院長兵衛、まむしの治兵衛(真虫次兵衛)、白柄重右衛門とともに5人を1枚に描いた[5]。三代目歌川豊国(歌川国貞、1786年 - 1865年)も、長兵衛とその子息・長松とともに3人を1枚に描いた[5]

1916年(大正5年)2月、岡本綺堂が書いた『番町皿屋敷』が初演され、六代目市川寿美蔵(三代目市川壽海)が四郎兵衛を演じた[6]。この初演でのほかの配役は、青山播磨を二代目市川左團次、腰元お菊を二代目市川松蔦、柴田十太夫を市川左升、権次を二代目市川荒次郎が演じた[6]。同作に登場する四郎兵衛のキャラクターは、お菊の相手役・青山播磨を白柄組旗本奴と設定したために、対立する町奴として登場するのである。

テアトログラフィ

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歌舞伎で「放駒四郎兵衛」を演じたおもな俳優の一覧である[5]。生誕順。

フィルモグラフィ

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日本映画データベースキネマ旬報映画データベース等にみられる「放れ駒四郎兵衛」(放駒四郎兵衛)の登場する劇映画一覧である。末尾の俳優が四郎兵衛を演じた。

脚注

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  1. ^ a b c d e 放駒四郎兵衛デジタル版 日本人名大辞典+Plusコトバンク、2012年7月30日閲覧。
  2. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『夢市郎兵衛』 - コトバンク、2012年7月30日閲覧。
  3. ^ a b c 醍醐、p.53-54.
  4. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『水野十郎左衛門』 - コトバンク、2012年7月30日閲覧。
  5. ^ a b c d e 放駒四郎兵衛早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、2012年7月30日閲覧。
  6. ^ a b 世界大百科事典 第2版『番町皿屋敷』 - コトバンク、2012年7月30日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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