斎藤孝至
斎藤 孝至(さいとう こうし、1860年4月18日(万延元年3月28日) - 1927年(昭和2年)10月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]磐城平藩士・斎藤道渓の二男として生まれる。1873年(明治6年)10月、海軍兵学寮(7期)に入寮。1883年(明治16年)11月、海軍少尉任官。1886年(明治19年)3月、参謀次長伝令使に就任。以後、海軍参謀本部副官心得、イギリス留学、「摩耶」「松島」の各分隊長などを経て、1894年(明治27年)5月、海相秘書官となり西郷従道大臣に仕えた。1895年(明治28年)2月、海軍少佐に昇進し軍令部第1局員兼大本営副官に就任した。
1895年12月、侍従武官に転じ、1897年(明治30年)12月、海軍中佐に昇進した。1898年(明治31年)5月、「鎮遠」副長に発令され、同年10月、「常磐」副長に転じ同艦をイギリスから回航した。1899年(明治32年)7月、「筑紫」艦長に就任。「大和」艦長を経て、1899年9月、海軍大佐に進級し「和泉」艦長に着任。
1900年(明治33年)9月、「浪速」艦長となり、同年12月、海軍省副官に転じた。以後、兼軍務局第1課長兼軍務局第2課長、兼軍務局局員を経て、1905年(明治38年)1月、第三艦隊参謀長に就任し日露戦争に出征。日本海海戦などに参戦した。1905年11月、「八雲」艦長となり、その後、佐世保鎮守府参謀長に移り、1906年(明治39年)11月、海軍少将に進級した。
1907年(明治40年)10月、軍令部参謀(第1班長)に就任し、呉予備艦隊司令官を経て、1909年(明治42年)12月、待命となる。1910年(明治43年)12月に休職し、1911年(明治44年)4月17日、海軍中将昇進と同時に予備役編入となった[1]。1916年(大正5年)3月28日、後備役となる[2]。墓所は雑司ヶ谷霊園。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1883年(明治16年)12月25日 - 正八位[3]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 正七位[4]
- 1895年(明治28年)4月15日 - 従六位[5]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 正六位[6]
- 1909年(明治42年)12月20日 - 従四位[7]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)10月18日 - 勲五等双光旭日章[8]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、旭日中綬章、明治三十七八年従軍記章[9]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[10]