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新思潮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『新思潮』(第1次)創刊号の表紙

新思潮(しんしちょう、旧字体新思潮󠄀)は、日本文芸雑誌である。『帝国文学』に対抗して1907年明治40年)小山内薫が創刊したが振るわず挫折。以後、帝大生により復活され、東京大学東京帝国大学)系の同人誌として後に続いた。特に第3次-第4次新思潮の同人菊池寛芥川龍之介久米正雄松岡譲らを新思潮派といい、大正文学の一つの拠点になった。新思潮の名は前任者の了解を取れば誰でも使用する事が出来た。

沿革

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東京帝国大学を卒業する1916年(大正5年)頃の第4次『新思潮』のメンバー。一番左から久米正雄、松岡譲、芥川龍之介、成瀬正一。
第1次 1907年(明治40年)10月 - 1908年(明治41年)3月
小山内の編集により総合的な文芸雑誌として創刊。資金は小山内の知人の援助による。チェーホフの翻訳やイプセン研究会の記録(藤村花袋らが参加)などを掲載。6号まで刊行。
第2次 1910年(明治43年)9月 - 1911年(明治44年)3月
谷崎潤一郎和辻哲郎芦田均木村荘太後藤末雄大貫晶川、小泉鉄らが参加。谷崎はデビュー作「誕生」や出世作「刺青」などを発表。小山内が創刊号に小説を寄稿。実態は東大の学生だった谷崎らの同人誌で、有名な『新思潮』の名を借りたようなもの。芦田によるアナトール・フランスの短篇小説[要出典]の翻訳が原因で発売禁止処分を受け[注釈 1]、財政難で終焉を迎える。
第3次 1914年(大正3年)2月 - 1914年(大正3年)9月
第一高等学校在学中の山宮允を中心に創刊。久米正雄松岡譲豊島与志雄山本有三らが活躍。小山内が創刊号に評論を寄稿。芥川龍之介(筆名:柳川隆之助)も翻訳などで参加、近衛文麿や井川恭(恒藤恭)もアイルランド出身作家の作品を翻訳。ほかに成瀬正一土屋文明佐野文夫藤森成吉菊池寛(筆名:菊池比呂士、3月号から草田杜太郎)。久米が劇作家として、豊島が小説家として注目された。
第4次 1916年(大正5年)2月 - 1917年(大正6年)3月
成瀬正一、久米正雄、菊池寛、芥川龍之介、松岡譲が参加。創刊号に掲載された芥川の「」が夏目漱石に激賞され、久米、芥川が小説家として世に出た。
第5次 1918年(大正7年) - 1919年(大正8年)
中戸川吉二佐治祐吉福田悌夫村松正俊、亘理正。
第6次 1921年(大正10年)2月 - 1923年(大正12年)8月
川端康成今東光鈴木彦次郎石濱金作酒井真人らが参加。彼らはのちに『文藝時代』に発展する。
第7次 1924年(大正13年) -
大宅壮一飯島正湯地孝浅野晃手塚富雄小方庸正らが参加。
第8次 1925年(大正14年)
秋山六郎兵衛、手塚富雄ら。
第9次 1925年(大正14年) - 1929年(昭和4年)
雅川滉(成瀬正勝)、深田久弥小林勝青江舜二郎ら。
第10次 1929年(昭和4年) - 1930年(昭和5年)
第9次の雅川、深田、小林、青江に加え、福田清人那須辰造一戸務が参加し、1929年5月号から第10次とする。雅川が『文芸都市』、深田が『文学』、小林がP.C.L.脚本部へと分散し、1年ほどで終了。福岡高等学校出身の福田、那須、浦和高等学校出身の一戸が入り、一高系という伝統は崩れた。
第11次 1932年(昭和7年)
小林正[要曖昧さ回避]中村哲[要曖昧さ回避]嘉門安雄
第12次 1934年(昭和9年)
第13次
小島輝正堤重久山下肇平田次三郎ら。
第14次 1947年(昭和22年) - 1948年(昭和23年)
中井英夫吉行淳之介嶋中鵬二
第15次 1950年(昭和25年) - 1958年(昭和33年)
旧制高知高校同窓の三浦朱門阪田寛夫・荒本孝一によって1950年に創刊。翌年に東大独文のグループの能島廉・林玉樹・村上兵衛らや、久慈宏一、臼井吉見の紹介により曽野綾子が参加。その後も岡谷公二村島健一の紹介により竹島茂、原春雄、有吉佐和子梶山季之らが参加。また阿川弘之奥野健男も関わっている。雑誌『新潮』で、同人誌推薦作としての作品掲載もあった。また1957年に芥川賞推薦の一票を得た。有吉、曽野は同時期の原田康子と並べて「才女の時代」とも称された。1958年まで17号を発行した。作品集として『愛と死と青春と』(徳間書店、噂発行所、1972)がある。
第16次 1961年(昭和36年) - 1964年(昭和39年)
磯田光一小野二郎近藤耕人柘植光彦蟻二郎中井多津夫らが晶文社を版元として刊行した。
第17次 1964年(昭和39年) - 1967年(昭和42年)
1号(1964.10) - 6号(1967.8)晶文社版。 柘植光彦を中心に数名が同人として参加。野口武彦金鶴泳郷正文元吉瑞枝矢島輝夫が加わる。
第18次 1969年(昭和44年) - 1970年(昭和45年)
第19次 1976年(昭和51年) - 1979年(昭和54年)
東大の学生を中心に5号続いた。沼野充義(道吉昭治)、松浦寿輝川崎賢子澤井繁男宗近真一郎、木下渉、藤田衆らが参加した。
第20次 1987年(昭和62年)
第21次 2022年(令和4年)
21世紀に入ってからは初となる復刊。これまでは「代替わりする際には、必ず前任者の了解を得て刊行する」という不文律がハードルとなって刊行は途絶えた状態が続いてきたが、東京大学メディアデザイン部の活動により第19次、第20次当時のメンバーの了解を得、晴れて復刊の運びとなった[2][3]。また、クラウドファンディングによる資金調達を行った[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 芦田均の翻訳作品は1911年はフランソワ・コペー英語版『パンテオンの対話』(原題不詳)。アナトール・フランス『青髭物語』の翻訳は1912年である[1]

出典

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関連項目

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参考文献

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