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山野辺義忠

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最上光茂から転送)
 
山野辺 義忠
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正16年(1588年
死没 寛文4年12月14日1665年1月29日
改名 比治利丸(幼名)→最上光茂(初名)→山野辺光茂→山野辺義忠→道慶(法名)
戒名 良源院殿前堅門貞誉松座道慶大居士
墓所 茨城県那珂市瓜連の常福寺
官位 従五位上、右衛門大夫
主君 最上義光家親義俊徳川頼房光圀
出羽山形藩山野辺城主→常陸水戸藩家老
氏族 最上氏山野辺氏
父母 父:最上義光
兄弟 最上義康最上家親清水義親義忠上野山義直大山光隆駒姫
義致義堅、阿岩(山野辺義清室)
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山野辺 義忠(やまのべ よしただ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士最上氏の一門。後に水戸藩家老職となった。

生涯

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天正16年(1588年)、最上義光の四男として生まれる。母の名や出身は不明であるが、現在の大石田町深堀郷士の娘という伝承がある。[1]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前に徳川家康の人質として預けられる。戦後、翌慶長6年(1601年)までには光茂とし、出羽山形に帰国、同年(1601年)、山野辺19,300石の城主となり、山野辺氏の名跡を継いだ。山野辺に入った光茂(義忠)は、山野辺城の拡張改修を始め、城下町の建設と市の開設、釣樋堰に見られるような治水事業、神社仏閣や交通網の整備を行い、善政に努めた。

元和3年(1617年)、兄の最上家親が死去した後、家親の子であり義忠の甥にあたる家信が当主となるも、『最上氏系図』(『寛政重修諸家譜』)では、「家信若年にして国政を聴く事を得ず。しかのみならず常に酒色を好みて宴楽にふけり、家老これを諌むといえどもきかざるにより、家臣大半は叔父・光茂(義忠)をして家督たらしめんことをねがう」と批判されるほど、人望・実力が無かったため、鮭延秀綱楯岡光直ら、多くの家臣から家親の後継者候補として擁立された。

これにより、最上家は家信派と光茂(義忠)派に分裂して、後に最上騒動と呼ばれる内紛を引き起こすに至った。江戸幕府は家信方の松根光広を追放処分とし、山形藩内の融和を求めるも、ほとんどの家臣が家信への協力を拒否した。これが原因で元和8年(1622年)8月に幕命によって改易されることとなった。光茂(義忠)もその責を負って備前国岡山に流罪となり、池田忠雄にその身柄を預けられた。その頃、諱を義忠と変えたものと推測される。なお、岡山には2人の息子を含め16人の近臣が付き従い、35歳から46歳までの12年間を幽閉のなかで送った。

寛永10年(1633年)9月、徳川家光の命により水戸藩主徳川頼房にその身柄を預けられ、1万石を得て水戸藩家老職となった。そして世子光圀の教育係も務めている。光圀の代になった寛文3年(1663年)9月、隠居して仏門に入り道慶と号した。翌寛文4年(1664年)12月16日死去。享年77。義光の男子の中で、唯一天寿を全うした。

子の義堅も光圀に仕え、子孫は代々家老職に就いた。御附家老中山備前守家に次ぐ禄高を持った山野辺家であったが、最上騒動の経験から、江戸後期、1820年代後半(文政年間)までは、主に朝廷や将軍などへの儀礼を行い、藩政には大きく携わらなかったという。

脚注

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  1. ^ 後藤嘉一『私説・やまのべ風土記』

参考資料

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