木下助之
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(木下季吉から転送)
木下 助之 きのした すけゆき | |
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生年月日 | 1825年 |
出生地 | 肥後国菊池郡 |
没年月日 | 1899年1月31日 |
前職 | 熊本県会議長 |
選挙区 | 熊本2区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1890年7月2日 - 1892年 |
木下 助之(きのした すけゆき、1825年(文政8年11月) - 1899年1月31日[1])は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。初代熊本県会議長。孫は『夕鶴』で知られる劇作家の木下順二[2]。
経歴
[編集]- 1825年(文政8年) 木下右衛門の四男として肥後国菊池郡に生まれる[3]。
- 1848年 玉名郡南関手永(手永:近世に細川氏が豊前、肥後で設けた地方行政単位)惣庄屋の木下初太郎の娘・那智と結婚して養子となり、補佐役を務める[3]。
- 1864年(元治元年) 勘定所主幹[3]。
- 1865年(慶応3年) 玉名郡内田手永惣庄屋兼代官[3]。
- 1868年(慶応4年) 時習館(肥後藩の藩校)訓導助勤・学校方奉行触[3]。
- (明治元年) 玉名郡南関手永惣庄屋兼代官[3]。
- 1869年(明治2年) 中小姓役吟味役[3]。
- 1870年(明治3年) 会計局主計に任じられ、禄百石を賜った[3]。
- 1872年(明治5年) 上京し、東京府八等出仕[3]。
- 1874年(明治7年) 東京府大属・郷村取扱課長心得に任命され、東京府荏原郡等々力村の灌漑治水工事にあたる[3]。
- 1876年(明治9年) 東京府大属を免官[3]。
- 1878年(明治11年) 伊倉小学校教師[3]。
- 1879年(明治12年) 初代熊本県会議長[4]。
- 1880年(明治13年) 玉名郡長[3]。
- 1890年(明治23年)7月1日 第1回衆議院議員総選挙熊本2区に出馬し、初当選。
- 1892年(明治25年) 第2回衆議院議員総選挙に立候補せず、引退。
- 1899年(明治32年) 死去[3]。
家族
[編集]- 兄の木下犀潭は儒学者[6]。その息子の木下広次は初代京都帝国大学総長、娘の鶴は井上毅の妻となった。
- 妻は二人で、那智(木下初太郎の娘)と、友。初太郎の弟の妻は竹崎順子で、横井小楠や徳富蘇峰ら多くの名士と姻戚関係にある。
- 娘のツネ(那智の子)は、助之の甥・木下広次といとこ結婚した。子に木下道雄、木下正雄(東工大教授)、トネ(鈴木由哲三男・鈴木三郎の妻)。
- 次男の木下彌八郎(1870-1950、那智の子)は、1896年に家督を相続し、1902年に東京帝国大学農科大学を卒業後工科大学進学、日露戦争従軍後、農商務技師となり1918年退職して実業界に入り、渋沢栄一が設立した中央開墾の重役になった[7]。伊倉町長も務めた[8]。妻の重との三女・シズは木下道雄といとこ結婚。重との子・木下国助(1900-1931)は東京天文台技師を務めた天文学者で、Kunisukeと命名された小惑星があるが、30歳で早世した。妻の三愛子(佐々醒雪の妹)との子に劇作家の木下順二[7]。
- 三男-木下季吉(1877-1935、友の子)は放射線学者で東京帝国大学教授。長岡半太郎に学び、東京帝大物理科卒業後、アーネスト・ラザフォードに師事した[9][10]
- 四男-木下熊雄(1881-1947、友の子)は生物学者で、深海サンゴ研究で知られる。東京帝大理学部動物学科卒[9]
脚注
[編集]- ^ 『肥後先哲偉蹟 後篇』肥後先哲偉蹟後編刊行会、1928年、p.465
- ^ 木下助之の周辺
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 1880年代教育史研究会ニューズレター2012.4.15 木下広次をめぐる人びと(1)-木下助之について-
- ^ 歴代議長・副議長-熊本県庁
- ^ 前田 案山子(まえだ かがし) 政治的活動
- ^ 1880年代教育史研究会ニューズレター2012.1.15 木下広次をめぐる人びと
- ^ a b 木下彌八郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ “企画展 「木下家とその交流 -木下順二寄贈品展-」”. 玉名市. 2024年5月27日閲覧。
- ^ a b 企画展 「木下家の人々 -季吉(すえきち)・熊雄・父助之-」玉名市、2017年5月1日
- ^ 木下季吉デジタル版 日本人名大辞典+Plus