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水谷勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東海の暴れん坊から転送)

水谷 勝(みずたに まさる、: Masaru Mizutani 1949年10月7日 - )は、愛知県出身のオートバイロードレースライダー。1982年の全日本ロードレース選手権・500ccクラスチャンピオン[1]

来歴

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「東海の暴れん坊」、「ミスター・スズキ」の異名を持つ 。

1982年に、全日本ロードレース選手権の最高峰である500ccクラスにおいて、参戦レース7戦全勝で国際A級500ccクラスチャンピオンに輝く[2]。1980年代のロードレースにおいて、スズキのエースライダーとして1985年までライバル・ヤマハ平忠彦とバトルを展開し、ロードレースを盛り上げた。1985年から1987年の3シーズンはウォルター・ウルフのカラーリングで参戦した。

現在は、自身のロードレースチームである『Team MIIR(チーム エム・ツー・アール)』を立ち上げ、全日本ロードレース選手権 JSB1000クラス、鈴鹿8時間耐久ロードレースに参戦を行っている。

水谷とウォルターウルフ

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1983年シーズン終了をもってスズキはワークス参戦を一時休止する。1984年からの水谷は、スズキから新規開発の止まったマシンの供給を受けるプライベーターとして全日本ロードレース選手権500ccクラスに継続参戦することになった。

1985年、スズキは、市販車であるRG-Γシリーズの販売促進のために、ウォルター・ウルフのイメージカラーをファクトリーレーサーであるRG-Γ(XR70)に施し、水谷勝にイメージ戦略を委ねる。

水谷の勇敢な走りと、ウォルター・ウルフのデザイン性から、市販車のRG-Γシリーズは大ヒットの商品となり、関連のヘルメットやレーシングスーツ、ブルゾンなどの関連商品も数多く販売された。

1986年には、ファクトリーレーサーを改良しXR70/50とするが、基本的に開発が終了しているスズキのスクエア4エンジン搭載マシンはヤマハやホンダの最新V4エンジン搭載ファクトリーレーサーより絶対的なパワー・直線スピードが不足していた。水谷は自らのコーナーへのブレーキングテクニックの腕を最大の武器としてライバルの平や八代俊二木下恵司と戦っていた。

1987年、スズキは新型マシンを開発しファクトリー活動を再開。エンジン形式は旧来のスクエア4タイプからV型4気筒へと変更され、形式名もRGV-Γ(XR72)となった。産声を上げたばかりのマシンだったが、水谷は全日本第2戦筑波大会で優勝を果たす。しかしこの年をもって、スズキのウォルター・ウルフブランドの版権契約が終了。翌1988年からはスズキワークスの青白のカラーリングとなった。

ウォルター・ウルフカラーで市販化されたオートバイはRG-Γシリーズ(50cc~500cc)のみならず、50ccスクーターHi」にも存在した。

「風の会」

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水谷はスズキ竜洋テストコースで行われた、スズキ車ユーザー参加の走行会にゲスト参加していた車椅子の青年を誘いテストコースでタンデム走行を行った。そのとき同乗した下半身不随の青年は、コーナーに差し掛かる度に、水谷の尻を太股で締める動きを見せた。

動かないはずの足に力が入ったことでオートバイに乗ることがリハビリになる可能性があると感動、この感動をプロライダーの仲間にも分かち合って欲しいと2002年にボランティア団体「風の会」を結成した。水谷は会長、副会長には上田昇が就任。毎年鈴鹿サーキットで開催される鈴鹿8時間耐久ロードレースの決勝前日、鈴鹿サーキットに現役・OBのプロライダーが集結し、身体的ハンディキャップをもつ方々を招待。サーキットコースをプロが運転する後部シートに同乗して2周するというイベントを開催している。

レース戦績

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  • 1976年 - 全日本筑波大会ジュニア250ccでロードレース初出場 ジュニア250ccクラス チャンピオン
  • 1977年 - 国際A級昇格
  • 1979年 - 全日本ロードレース選手権 国際A級750ccクラス チャンピオン
  • 1981年 - スズキ契約ライダーとなる。
  • 1982年 - 全日本ロードレース選手権 国際A級500ccクラス チャンピオン(7戦7勝)
  • 1984年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス ランキング4位
  • 1985年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス ランキング2位(ウォルター・ウルフ)
  • 1986年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス ランキング3位(ウォルター・ウルフ)、世界選手権スポット参戦(オランダ14位、ベルギー13位)
  • 1987年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス ランキング5位(ウォルター・ウルフ)
  • 1988年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス ランキング4位
    • ロードレースを一時引退、四輪レースに参戦する傍ら、若手ライダーの育成を行う
  • 1997年 - ロードレース活動を再開。鈴鹿8時間耐久レースに参戦 36位
  • 1998年 - 鈴鹿8時間耐久レース リタイア(チーム ライディングスポーツ)阿部孝夫と組んで出場
  • 1999年 - 鈴鹿8時間耐久レース 24位(チーム ライディングスポーツ)阿部孝夫と組んで出場
  • 2000年 - 鈴鹿8時間耐久レース 37位(スズキ創立80周年記念チーム)
  • 2001年 - 鈴鹿8時間耐久レース 34位(Team SURF JAJA)
  • 2002年 - 鈴鹿8時間耐久レース 34位(Team MIIR)
  • 2003年 - 鈴鹿8時間耐久レース 24位(Team MIIR)
  • 2004年 - 鈴鹿8時間耐久レース 規定周回数走行できず(Team MIIR)
  • 2005年 - 鈴鹿8時間耐久レース 19位(Team MIIR)
  • 2006年 - 鈴鹿8時間耐久レース 23位(Team MIIR)
  • 2010年 - 鈴鹿8時間耐久レース 23位(Team MIIR)還暦を迎え、且つ、負傷からのリカバリー後の復帰戦

ロードレース世界選手権

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クラス マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 順位 ポイント
1986年 500cc スズキ・RGΓ ESP ITA GER AUT YUG NED
14
BEL
13
FRA GBR SWE RSM NC 0
1987年 500cc スズキ・RGV-Γ JPN
Ret
ESP GER ITA AUT YUG HOL FRA GBR SWE CZE SMA POR BRA ARG NC 0
1988年 500cc スズキ・RGV-Γ JPN
17
USA ESP EXP NAC GER AUT HOL BEL YUG FRA GBR SWE CZE BRA NC 0

鈴鹿8時間耐久ロードレース

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車番 チーム ペアライダー マシン 予選順位 決勝順位 周回数
1978年 25 木下恵司 ヤマハ・TZ350 6 33位 70

参照

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  1. ^ 87世界選手権第1戦日本グランプリ 公式プログラム エントリーリスト ホンダランド 1987年3月発行
  2. ^ 1984 TOP RANKER 全日本選手権500cc ライディングスポーツ3月号増刊 YEARBOOK 1984-1985 184頁 武集書房 1985年4月1日発行

外部リンク

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タイトル
先代
上野真一
全日本選手権750cc チャンピオン
1979
次代
鈴木修
先代
木下恵司
全日本選手権500cc チャンピオン
1982
次代
平忠彦