松崎蔵之助
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人物情報 | |
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生誕 |
1866年2月1日(慶応元年12月16日) 上総国望陀郡上根岸村(現・千葉県木更津市) |
死没 | 1919年11月12日(53歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 帝国大学法科大学 |
配偶者 | エツ子(野村綱長女) |
子供 |
重義 武之助 愛子(遠山友郷妻) 慶(岩倉具高妻) |
学問 | |
研究分野 | 経済学(財政学) |
研究機関 |
帝国大学農科大学→東京帝国大学農科大学 東京帝国大学法科大学 東京帝国大学経済学部 |
学位 | 法学博士(日本・1899年) |
主要な作品 | 『最新財政学』(1912年) |
学会 |
帝国学士院 法学協会 |
松崎 蔵之助(まつざき くらのすけ、1866年2月1日(慶応元年12月16日) - 1919年(大正8年)11月12日)は明治時代から大正時代にかけての日本の経済学者。法学博士。
略歴
[編集]- 請西藩士の松崎圭輔の子として生まれる。東京府中学校では澤柳政太郎、狩野亨吉らと同期だった。大学予備門を経て、
- 1888年(明治21年) 帝国大学法科大学卒業、大学院入学
- 1892年(明治25年) 帝国大学農科大学助教授、東京専門学校(早稲田大学の前身)・海軍経理学校各講師
- 1896年(明治29年) 独仏留学を経て、農科・法科大学教授就任
- 1901年(明治34年) 台湾協会学校(拓殖大学の前身)学監就任(大正3年辞任)
- 1902年(明治35年) 東京帝大法科教授(財政学担当)東京高等商業学校(一橋大学の前身)校長に就任(明治40年まで)
- 1919年(大正 8年) 東京帝大経済学部教授就任
帝国学士院賞受賞、他に日本銀行設立委員、東洋拓殖会社創立委員
人物
[編集]松崎は、国家主義的権力主義的な人であったが、逆に、門下生の柳田国男・高野岩三郎・河上肇は、3人とも自由主義的民主主義的な学風を構築した[1]。
栄典
[編集]脚注
[編集]関連文献
[編集]- 大内兵衛 「松崎博士の訃を悼む」(『国家学会雑誌』第33巻第12号、1919年12月)
- 日本学士院編 『学問の山なみ 第二 : 物故会員追悼集』 日本学士院、1980年3月
- 「故法学博士 松崎蔵之助」(井関九郎監修 『大日本博士録 第壱巻 法学博士及薬学博士之部』 発展社、1921年1月)
- 吉田震太郎 「官学におけるドイツ財政学の輸入 : 松崎蔵之助」(佐藤進編 『日本の財政学 : その先駆者の群像』 ぎょうせい、1986年2月、ISBN 4324003416)
- 大淵利男 「松崎蔵之助における財政学の体系化について」(『政経研究』第25巻第1号、日本大学法学会、1988年3月、NAID 40002027677)
- 「松崎蔵之助における初期の財政思想について」(『法学紀要』第30巻、日本大学法学部法学研究所、1989年2月、NAID 40003457862)
- 「教育の実業的再編論とその限界 : 松崎蔵之助教授『文政危言』を中心に」(杉林隆著 『明治農政の展開と農業教育』 日本図書センター、1993年2月、ISBN 4820540556)
関連項目
[編集]その他の役職 | ||
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先代 (新設) |
東洋協会専門学校学監 1907年 - 1915年 台湾協会専門学校学監 1904年 - 1907年 台湾協会学校学監 1901年 - 1904年 |
次代 新渡戸稲造 東洋協会植民専門学校学監 |