松平康豊
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 貞享2年(1685年)[1] |
死没 | 享保20年12月5日(1736年1月17日) |
改名 | 伝十郎(幼名)、康豊 |
別名 | 丹下、式部(通称) |
戒名 | 盛徳院殿懿誉興仁遊和大居士 |
墓所 | 京都府京都市左京区金戒光明寺の長安院 |
官位 | 従五位下・周防守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家宣→家継→吉宗 |
藩 | 石見浜田藩主 |
氏族 | 松井松平家 |
父母 |
父:松平康郷、母:不詳 養父:松平康員 |
兄弟 | 康豊、前田房長ら |
妻 |
亀井茲親養女 側室:井上氏 |
子 | 康福、内藤頼由正室 |
松平 康豊(まつだいら やすとよ)は、石見国浜田藩の第4代藩主。松井松平家5代。
生涯
[編集]分家の松平康郷(和泉岸和田藩主松平康重の五男・康敬の子)の長男として生まれる。宝永6年(1709年)4月6日、書院番士に任じられる。この頃、本家では第3代藩主の松平康員が病弱であり、養子の康房も早世して嗣子がなかったため、分家内部で後継者をめぐって内紛が起こった結果、8月2日に康員の養子となった。9月18日に康員の隠居にともない家督を継ぎ、従五位下・周防守に叙位・任官した。
家督相続後、自分を支持した岡田竹右衛門らを登用し、反対派を徹底的に粛清した。享保元年(1716年)、凶作が原因で一揆が起こり、結果として「春定」という課税法を停止せざるを得なくなった。その後も天災が相次いでは救済に追われ、また鏡山事件も起こるなどして藩は混乱した。
享保20年(1735年)12月5日に死去。享年51。跡を長男の康福が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
側室
- 井上氏
子女