松平康映
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和元年(1615年) |
死没 | 延宝2年12月30日(1675年1月25日) |
改名 | 松千代丸(幼名)、康映 |
戒名 | 雲峰院殿照誉浄閑大居士 |
墓所 | 京都府京都市左京区黒谷の光明寺 |
官位 | 従五位下・淡路守、周防守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
藩 | 和泉岸和田藩主→播磨山崎藩主→石見浜田藩主 |
氏族 | 松井松平家 |
父母 | 父:松平康重、母:不詳 |
兄弟 | 康政、康映、康命、康紀、康敬、康久、林、慶寿院、西園寺公満室、牧野康成正室、松平利綱正室、竹中重義正室、岡田元直室、貫名重用室、貝塚某室ら |
妻 | 岡部宣勝の娘 |
子 | 康官、康明、村瀬康致、松仙院ら |
松平 康映(まつだいら やすてる)は、和泉国岸和田藩の第2代藩主。後に播磨国山崎藩主を経て、石見国浜田藩初代藩主となった。松井松平家2代。
生涯
[編集]元和元年(1615年)、丹波篠山藩主・松平康重の次男として篠山で生まれる[1]。兄の康政が早世したため、寛永10年(1633年)に世子に指名され、12月28日に従五位下・淡路守に叙位・任官する[2]。寛永17年(1640年)、父の死去により家督を継いで岸和田藩主となる。しかし間もなく播磨山崎に移封となった[1]。
慶安2年(1649年)8月12日、石見浜田に移封される。その後は検地を行なうなどして藩政の基礎を固めた。万治元年(1658年)、家老・石川正西(昌隆)に『聞見集』の作成を命じる(完成は万治2年(1659年))。延宝2年12月30日(1675年)に死去した。享年60。跡を三男の康官が継いだ[1]。
甥に「石見国名所松葉集」を記した新清元麿(弟・康紀の子)がいる。
系譜
[編集]父母
- 松平康重(父)
正室
- 岡部宣勝の娘
子女