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松濤権之丞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松濤権之丞(1864年)

松濤 権之丞(まつなみ ごんのじょう、天保7年(1836年) - 慶応4年(1868年)4月末頃)は、日本の武士・幕臣。通称「権之丞」、諱名「泰明」で、正式名は「松濤権之丞泰明」。なお、「松濤」については、「松波」「松浪」「松並」等の表記例もある。

生い立ち

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母・波通(はつ)の子どもとして江戸に生まれたと考えられる[1]。父親の名前は具体的に伝わっていないが、「前田藩(加賀藩?)家老で、図書家から庄兵衛家に入った人物(?)」と云う話が伝えられており、通称「権之丞」は、実父の出自に由来する名付けだった可能性がある[2]。庶子だったため、江戸で生まれるとすぐに寺へ預けられ、そこである年齢まで育てられたという[3]。松濤家の家紋は「抱き茗荷」である。伝承によれば、姓も家紋も預けられた寺の住職から貰ったものだという[4]。住職の姓が「松濤」で家紋が「抱き茗荷」という寺茗荷」という寺[5]は、芝・増上寺前の妙定院[6]や宝松院、芝・西応寺町の○○寺、浅草の長松寺、最上寺などがあり、権之丞は今挙げた寺のいずれかにいたようである。

小笠原開拓とフランス渡航

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権之丞が何歳まで寺にいたかはわかっていないが、やがて御家人株を買って幕臣(御家人)になったらしい。はじめ神奈川御役所附上番、次いで外国奉行支配定役格同心となった。

文久元年(1861年)12月、幕府は外国奉行水野忠徳小笠原諸島に派遣し、日本領であることを宣言したが、権之丞はこれに随行(外交史料館に残る権之丞渡仏時の外交文書に「権之丞の親類」[7]として名前が出てくる小花作助外国奉行支配定役元締助として随行している)、咸臨丸で渡島して調査に当たった[8]

翌文久2年(1862年)に、忠徳の帰府後も、八丈島からの移民とともに残って小笠原島を管理した。この間の権之丞に関するエピソードとしては、中浜万次郎、林和一郎らと鳥島に上陸し、権之丞の筆による「日本属島鳥島」の標柱を立てた話などが伝えられている[9]。そして、権之丞は、文久3年(1863年)5月1日、ホーツン事件(日本人が初めて外国人を逮捕した事件)の罪人を連行して小笠原島を出帆し、5月11日に横浜に着船[10]

スフィンクスで記念撮影する一行(1864年)

文久3年12月29日1864年2月6日)、横浜鎖港談判のための遣仏使節の随員として、権之丞は、定役格同心という身分で、フランス艦ル・モンジュ号に乗り込み、横浜港を出航した。一行は途中エジプトに寄り、スフィンクスの前で記念写真を撮影[11]。前述の、外交史料館に残る外交文書には、この渡仏の際の権之丞の留守引受名前として、「同役 菰田謙輔」「親類 小花作之助」の名前がある[12]

一行は、元治元年(1864年)5月17日にパリを出発し、7月18日(1864年8月19日)、ピ・オ汽船会社のガンジス号にて横浜港に帰国する。なお、内藤遂著『遣魯傳習生始末』(東洋堂、1943年9月刊)という本の194頁に、この一行の帰国の時に、同心町に住んでいた権之丞の老父[13]が、大塚箪笥町にあった、マルセイユ黄熱病のために客死した随員の横山敬一[14]の家を訪れたという記述がある。すなわち、「松濤の老父は使節一行の横浜安着を報じ、且つ安心すべき旨を告げて辞去した。(中略)松濤の父はわざわざ同心町より、大塚箪笥町まで訪れたのであるから、安着を語る以外に、特殊な用件があったものと解される。すなわち松濤は当時パリより横山看病のため、マルセイユに下りたる一人であるから、老父は横山の死を篤と承知していたものと言わねばならない。しかし、横山家のただならぬ雰囲気を察知し、弔慰の言葉も言えずに、ただ安心すべき旨を告げて辞去したものと察せられる。」と書かれている。

フランスから帰国した後の権之丞については、富士見御宝蔵番格・騎兵差図役下役、同砲兵差図役並勤方を経て、小十人格・軍艦役並となり、慶応3年(1867年)11月には古屋佐久左衛門とともに海軍伝習所通弁掛になった。やがて勝海舟配下の軍事方の一人になり、幕府内部の恭順工作を担当するようになる。今の東京都足立区の五兵衛新田に大久保大和(新撰組局長近藤勇)を訪ねたのも、のち官軍に捕縛された近藤宛に書簡を送ったのもそのためらしい。

最期

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恭順工作の仕事ではかなり苦労したようである。結局、権之丞はこの恭順工作の最中に落命する。権之丞の最期については次のような話が伝わっている。

慶応4年のある日のこと、勝海舟のもとから、江戸の小石川茗荷谷の窪地にあった権之丞の屋敷に使いが来て、「館山にいる榎本武揚たちを説得したいので手伝って欲しい」とのこと。権之丞は馬に飛び乗って、館山へ向かった。その帰り、上総姉ヶ崎の某所で、会議中に刺されて死んだ。享年34。
-、伝承されている話
慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)、松濤権之丞(幕臣)二心あるとの疑いによって、撒兵頭取並松田や組頭らに斬殺される。
-、「幕末維新史事典」(新人物往来社)151頁より
(前略) 私(江原)は死を決して脱兵をまとめようと思い、上総木更津へ参りました。このときの撒兵頭は福田八郎右衛門、第一大隊長は私、第二大隊長は堀岩太郎、第三大隊長は増田直八郎、第四大隊長は戸田掃部、第五大隊長は真野鉉吉でした。(中略)4月17日は丁度権現様のお祭り日ゆえ一同でお祭りを致し、福田八郎右衛門がまず作戦計画を致しました。そもそも上総へ脱走しましたのは、江戸では何事もできず、一大勢力を作るには上総に屯集して、宇都宮地方の官軍の背後を襲うか江戸に逆さまに入るかというような方法を取らむと計ったのです。(中略)こういう次第でついに計画は決し、木更津は不都合ゆえ、国府台(鴻之台)地方へ押し出して居らむと海岸を沿うて船橋へ参りました。(中略)第一大隊は八幡の法華経寺、第二は船橋、第三は姉ヶ崎に屯集しましたが、第四第五は上総の萬里谷に滞陳し戦争は急に終わる様子もございませんでした。(中略)油断は少しも致しませんで、番兵を配置し、哨兵線をしきて十分に警戒しておりました。鎮城府日誌をご覧になれば詳細に書いてございます。こういう様子でしたが、戦争の起こりましたのは、まったく次のような取り扱いから衝突を致しましたのです。その時、田安殿の家来で松濤権之丞という人が来まして、謹慎の実を表するためには兵器を出すべしとの談判でしたが、私共はなかなか聞き入れは致しません。こちらにも見識があるからお帰りなさい、と言って帰しましたが、松濤は前説を主張し、わが隊の増田と激論を致しました。で終に斬り捨ててしまいました。(後略)
江原素六、「旧幕府」所載史談会記事(明治33年3月18日於上野東照宮社務所)より
(前略)4月28日先生の第一大隊中山法華経寺に入るに及び堀隊は船橋に進み、増田隊は五井に留まる。官軍これを見、兵を動かさずして降さんとし、田安家の家臣松濤権之丞を派遣し、謹慎の実を表するため兵器を官軍に納めよと命ぜしむ。隊長増田直八郎は松濤と激論となり、終に松濤を斬ってその首を木更津に梟す。(後略)
-、「江原素六先生伝」(大正12年刊)106~107頁より
閏四月六日、歩兵頭松濤権之丞といふ人、上総の姉ヶ崎にて暴人に殺されたり。ある人の曰く、この人は取締といふ役になりて、両総の辺に屯したる脱走人、または百姓一揆の取鎮などに力をつくしたりしが、其ころ脱走の兵士あまたあねがさきに滞留したるよしのきこえありければ、追討のために官軍おほく進発ありける趣を、松濤ききつけて、いそぎ脱走兵の隊長にあひて、源内府公恭順の深意を説諭し、妄りに兇器を動かすべからざるの理を説しに、誰料この脱走人の中に疎漏の頑物ありて、松濤をうたがひて、かれは官軍に通ぜしならんとて其夜ひそかに宿所にまねきよせ、不意に鉄砲をうちかけ、かたなを抜いて左右より斬り殺したり。誠にかわいさうなる事なり。この人はよき人にて世に益あるべき者なるべしと人々もおもひたのみたるを、かくむごきめにあひて、忠義の心もとほらず、非命の死をとげしは、くちをしきことなり。その所のむらさかひに松濤の首をばさらしおきけるが、その夜たれかとりしとぞ。
当時の新聞『もしほ草』に掲載されている記事より
九時四十分、押送艦ニテ海軍所ヨリ松濤権之丞・荒田平之丞来艦、総督(榎本武揚)暫ク議論。之ヨリ終ッテ右両人ハ木更津ヘ上陸ス。御艦ハ即刻抜錨、品海ニ投錨ス。此ノ日、松濤ハ福田ノ宿陣ヘ赴キ面会致シ候節、福田同盟ノ者松濤ノ心中ヲ疑ヒ暗殺ス。
蘆田退三、権之丞を木更津まで送り届けた徳川海軍の軍艦『蟠龍』の乗組員、蘆田退三の日録より[15]
閏四月廿日 寺井旦司来る。松濤権之丞横死の転末、且、跡目の事申し聞かさる。松濤、二心あるの疑ひにて撒兵頭取並、松田並びに組頭□□等、切害に及ぶといふ。
勝海舟、「勝海舟日記」より[16]

なお、権之丞が無念の最期を遂げた地については諸説あるも、さまざまな伝承記事を総合すると、増田直八郎の指揮のもと、撒兵隊第三大隊が本陣を構えたところと伝わる、千葉県市原市姉崎453の顕本法華宗一乗山妙経寺境内と考える説が今のところ一番有力である。

松濤権之丞墓所(西教寺、1873年再建)

墓は、東京都文京区向丘2-1-10の浄土真宗本願寺派涅槃山西教寺にある[17]法名は、休現院殿恭光日誠居士[18]

権之丞没後の松濤家について(補足)

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権之丞の跡目は、「松濤権之丞惣領」として幕府にすでに届け出をしていた穐作(小花作之助・次男)がいったん相続したようである[19]。そして、徳川家の駿府移封に伴い、松濤家も小石川茗荷谷の屋敷から駿府の大谷村へ移る。その間、安子は権之丞と自分の子である泰近を何とか松濤家の跡取りにしようと動いたようである。その結果、権之丞跡目相続をした穐作は松濤家を出て実家小花家に戻ったようである。そして、泰近は明治2年(1869年)に穐作から松濤家の家督を相続する[20]。明治6年(1873年)11月20日、安子が亡くなり[21]、清水興津(現在の静岡市内)の日蓮宗教敬山耀海寺の墓地に松濤家の墓が建立され、権之丞と合わせて埋葬された。耀海寺の墓地には、今でも「松濤家之墓」の墓石が残っている[22]。泰近は、安子の亡くなった後、穐作や小花家を頼ることなく、「相馬さん(権之丞が捕縛された近藤勇に宛てて認めた書簡を託した新撰組隊士の相馬主計と同一人物と思われるが、詳細は不明)」の許にて育てられたという。その後、明治法律学校に「一期生」として学び[23]麻布区書記、荏原郡長、麻布区長、麹町区長などを歴任。最後は東京市長・後藤新平の下で仕事をし、大正10年(1921年)4月に麻布区長ならびに麹町区長を退任。その退任理由としては、大正9年(1920年)から捜査が始まった東京砂利疑獄事件に関わった部下への管理不行き届きの責任を痛切に感じたためという話が伝わっている。昭和17年(1942年)5月4日に鎌倉市乱橋材木座263番地にあった家で肝臓膿症[24]のために没。享年79歳。妻はカン(閑子。本郷の三谷家[25]の三谷藤兵衛の妹。家伝では、藤兵衛は小普請由来の大工だった由。[26])、子は四男一女[27]。泰近は生前熱心な読書家で、豊富な蔵書を持っていたという。「正岡子規全集」(改造社版)をはじめとする蔵書は、泰近没後に閑子によって鎌倉市の図書館に遺贈され、「松濤泰造(担当者が泰近の名前を誤記したものと見られる)文庫」として一時期広く活用された。 また、家に伝わる話として、泰近の許にある日松濤家に対する華族令に基づく子爵叙爵の話があったようである[28]。が、当時、長男哲之進は耳疾、次男権彌は脊椎カリエスを患っており、泰近は「健康な男子のいない家に叙爵されても意味がないから」と丁重にお断りをした、と伝えられている。

関連項目

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脚注

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  1. ^ 波通の壬申戸籍の除籍謄本を入手確認できないため、波通と権之丞の関係が「実母子」であったのか「養母子」であったのかはわからない。波通の名前は、権之丞実子の泰近が後に青山霊園に建てた松濤家之墓の墓石に「泰近祖母波通 明治七年九月廿二日逝」として刻まれている。波通の姓については、そもそも松濤姓は権之丞が生後直ぐに預けられたお寺住職から貰った姓だった故、松濤とは別姓だった可能性が高い。「松濤波通」ではなく「泰近祖母波通」と泰近がわざわざ彫刻したのは、それが理由だったのかもしれぬ。
  2. ^ 加賀前田藩の支藩「大聖寺藩」の家老を務めていた山崎権丞家(加賀藩士山崎庄兵衛家を宗家とする一門。加賀藩士山崎長徳娘は前田利長養女となって加賀藩士青山吉次の養子青山長正(青山豊後守長正)に嫁いで四人の男児(長男正次、二男俊次、三男長鏡、四男宗長)を産んだが、長男正次は父長正後嗣となるも幼い息子吉隆を残して早世、二男俊次が分家として青山本家の後嗣吉隆後見になるも、吉隆齢十四の年、俊次から青山本家へ青山家伝来の武器銃器引き渡しの際に俊次が返却を渋り、吉隆の世話役となる青山家の家老早崎と諍いになり、俊次が早崎を手打ちにする事態が起き、吉隆は公に俊次の所業を訴え、俊次は能登富木へ流刑に処せられ、俊次の立てた分家は絶家となった。三男長鏡は外祖父山崎長徳の養子となって初代山崎庄兵衛長鏡となり、長鏡の長男は二代目山崎庄兵衛(但し病死により絶家)、次男(本来は三男。長鏡二男宗次は長鏡の弟の四男青山宗長の養子となった。)は大聖寺藩士山崎権丞家の初代山崎権丞となった。さらに、『加賀藩史稿』の「青山宗長」の項には、青山豊後長正四男青山織部宗長には子がなく、兄の山崎庄兵衛長鏡の二男勘左衛門宗次を養子とするも、宗次は子の長貞を遺して早世したため、宗長の後は長貞が継ぐも、ちょうど青山本家では時の五代目当主長重に子が無かったため、請われて長貞が分家と本家とを統合する形で青山本家の六代目当主になった、とある。)の当主は代々「山崎権丞(ごんのじょう)」を称していた。また、幕末期加賀藩における改革派家老として知られた山崎範古(のりひさ)はもともとは山崎権丞家の生まれ。権丞家五代目雅之丞無一(権丞家三代目権丞清記の三男。無一の実兄であり清記の長男、権丞家四代目権丞伊織が子のないまま亡くなったため権丞家を継いだ。)の庶子として生まれたため、最初は一門の図書家二代目図書小三郎(無一の実弟。権丞家三代目権丞清記の五男。権丞家二代目権丞の四男、山崎図書家初代図書長考の娘の婿養子となる。)のところに養子として入るも、宗家の山崎庄兵衛家当主を先に継いでいた無一の長男で範古の実兄伊織長恒が早逝したため、急遽図書家後嗣の立場を離れて山崎庄兵衛家当主となり、後に加賀藩家老に任ぜられた。ちなみに、図書家の跡目は、大聖寺藩士斎藤忠兵衛家の後嗣養女となった権丞家三代目権丞清記の娘が婿養子寺西新蔵改め二代目忠兵衛を迎えて産んだ息子三代目忠兵衛の三男、つまり、権丞家三代目権丞清記の外曽孫が図書家二代目図書小三郎の娘の婿養子となり、三代目図書となった。その息子が四代目図書、山崎久兵衛。
  3. ^ 庶子ゆえに生まれるとすぐに母親から離されて寺へ預けられ育てられた、という伝承からは、本当の実父が加賀前田藩の家臣クラスの山崎範古ではなく藩主クラスの誰かだったのかもしれぬとの疑念も生ずる。事実、当時の加賀藩主は「前田斉泰」で、権之丞の諱名「泰明」の「泰」の字を名前に持っており、さらに権之丞は実子に「泰近」と名付けている。また、山崎範古は、かつて藩主斉泰世子の慶寧の傅(ふ)を務めたこともあったように斉泰からの信頼のまことに厚い人物だった。以下、一つの仮説を記す。前田斉泰は16歳のときに将軍家斉息女の溶姫と婚礼を挙げ、3年後、斉泰19歳のとき、将軍家斉の孫でもある長男慶寧が誕生。斉泰は大事な世子である慶寧の教育係に当時43歳の山崎範古を当てた。その6年後、江戸にて泰明誕生。波通と泰明の関係性を明かすことのできる唯一の史料である波通の壬申戸籍の除籍謄本が閲覧不可のため、ここでは、泰明の「実母」は不詳とする。泰明実母はもしかすると産後間もなく亡くなっているかもしれぬ。波通は産まれたばかりの泰明を抱えて加賀屋敷に駆け込むかなにかして斉泰からの何らかの証拠の品を示して相応の待遇を求めて訴え出、屋敷の者に赤子の泰明を預けたかもしれぬ。応対責任者の山崎範古がさんざん知恵を絞り、斉泰の名前を貶めぬよう、将軍家斉にも角が立たぬよう、泰明の実父を範古として泰明を加賀藩ゆかりの江戸のどこかのお寺に預けることにしたのかもしれぬ。これはあくまでも仮説である。
  4. ^ 本当の実父が山崎範古ではなくて前田斉泰だったかもしれぬ一方で、言い伝え通り、実父は山崎範古だった可能性もある。昔から芝増上寺門前には、前田斉泰正室の徳川家斉息女溶姫と何らかの縁があったかもしれぬ徳川家ゆかりの寺が多く、また、松濤姓の住職の寺も多く存在した。さらに、住職の名前が代々〈松濤泰○〉の寺もあったことから、松濤権之丞泰明の諱〈泰明〉の泰は、赤ん坊を預けられた寺の住職が寺に因む名前として命名した可能性もある。
  5. ^ 芝増上寺門前には住職が松濤姓(かつて松濤姓だった、も含む)の寺が多く、松濤(まつなみ)会という団体があるほどである。
  6. ^ 浄土宗増上寺別院の妙定院は、第九代将軍徳川家重開基で、もともと徳川家との縁が深い。前田家との縁は不詳も、もしかしたら前田斉泰正室の徳川家斉息女溶姫と何らかの縁があったかもしれぬ。
  7. ^ 小笠原開拓での上司小花作助は次男小花秋作を部下松濤のために嗣養子として差し出した。
  8. ^ 島での様子については、文倉平次郎『幕末軍艦咸臨丸』(上下、中公文庫、1993年)の上巻.第十八章「小笠原島の開拓」に詳述されている。
  9. ^ 前掲『幕末軍艦咸臨丸』、上巻.392頁参照。
  10. ^ 前掲『幕末軍艦咸臨丸』、上巻.394頁参照。
  11. ^ この旅行については、尾佐竹猛著『夷荻の国へ』(講談社学術文庫)や、鈴木明著『維新前夜』(小学館ライブラリイ)などに詳述されている。
  12. ^ 『続通信全覧』〈類輯之部10 修好門〉477頁、雄松堂出版参照。
  13. ^ これは、79歳の山崎庄兵衛範古ではないかと考えられる。というのも、その頃範古は隠居して江戸にいたのではないかと推測されるからである。加賀藩では、元治元年に世子前田慶寧が上洛した折、範古の子庄兵衛範正が家老を務め、松平大弐らとこれに従っていたが、時折しも、権之丞たちが横浜に帰港した翌日の7月19日に禁門の変が勃発し、慶寧は範正ら藩兵を率いて退京してしまう。このことが藩で大問題となった。隠居して穏斎と称していた範古は、かつて慶寧の傅(ふ)を務めたこともあり、慶寧の滞留先の近江海津へ向かおうと途中の福井まで出掛けたが、思い直して引き返した。範古のこの行動は藩の中で厳しく咎められ、8月10日、範古は謹慎を命じられた。
  14. ^ 前掲書『遣魯傳習生始末』によれば、彼横山敬一の実家の横山家は加賀前田藩家老を輩出した加賀八家の横山家の親戚筋にあたる家であったという。加賀八家の横山家へは人持組の山崎家の娘が嫁入りをしており、横山家と山崎家とは親戚関係にあった。
  15. ^ 軍艦『蟠龍』は4月28日に総督府側へ引き渡さなかった四艦〈開陽、回天、千代田形、蟠龍〉の一つであり、したがってこの日録の記述は、4月28日以降のものと考えられている。
  16. ^ 勝は、その三日後に、松濤の家(母波通、妻<安子か。>、惣領秋作<小花作之助次男秋作と同一人物。明治以降小花家に戻りのち伊藤家に婿入。外務省勤務。>、泰近<安子の息子で、続柄「権之丞弐男」。>)に十二両を遣わし、組下の者へは三十六両の手当を渡したという。
  17. ^ 墓石側面には、1873年明治6年)の火災により毀損したために1878年明治11年)に再建された旨と、建立者として、後に海軍大主計になった旧幕臣・静岡県士族の山縣正房(十三、1879年明治12年)38歳で没)の名前が刻まれている。
  18. ^ この院殿号法名は、西教寺ではなく静岡県清水興津の日蓮宗耀海寺で付けられた法名の可能性がある。西教寺の慶応年間の古い過去帳には、権之丞の法名として「禮譲院釋至誠恭明居士」と「慶応四年壬四月六日 徳川藩松浪権之丞恭明」並びに「土」(土葬の意)の記載がある。また、西教寺に残る「お焚き上げをした江戸時代の古いご位牌の記録」には、耀海寺ならびに西教寺の墓石に刻まれている院殿号法名とともに耀海寺の墓石にある俗名「松濤一歩」の名前がある。
  19. ^ 竹芝桟橋の小笠原協会所蔵の『小花日記』を読まれた鈴木高弘先生のblog記事によれば、「小花は、男子ばかり8人の子だくさんですが、その次男穐作を小笠原以来懇意の松浪に養子にあげる約束をし、内地に戻るとすぐに実行します。松浪には実は他に男子がいたのですが、正妻の子ではないということで穐作を迎えたのです(このため後に穐作は小花家に戻ります)。」とのこと。つまり、小笠原諸島開拓に出掛ける以前から権之丞には正妻以外の女性との間に男児がいたらしい。権之丞小笠原在島以降の元治元年7月20日生まれの泰近の除籍謄本には、続柄欄に「権之丞弐男」とあるので、これが他に「長男」の男児がいた証拠になるのだろうか。その「長男」が他家に里子か養子に出されていた可能性も考えられるが、そもそも家に伝えられている話に「長男」の消息に関するものが一切ないことがあらためて不可解。いずれにせよ、正妻との間の子でなかったことからその子をすんなり権之丞の惣領にすることはできず、そこで小花作助に相談したらしい。
  20. ^ 正式に参照できる泰近の最古の除籍謄本記録によれば、権之丞は泰近の「父」、穐作は泰近の「養父」となっている。
  21. ^ 西教寺の墓石に刻まれている安子の法名と没日は、「皆遥院殿妙龍日成大姉」、「明治六年十一月二十日」。権之丞の没年が実際よりも後ろにずらされて「明治三年」と刻まれていることから、この安子の墓石の没年月日が正しいものなのかどうかは不明。
  22. ^ なお、耀海寺に残るメモ書きによれば、その後大正時代になって泰近は、松濤家の正式な墓を鎌倉(?)のお寺に移すので耀海寺檀家から外れる旨を耀海寺側に伝えている。
  23. ^ 明治大学に残る卒業生名簿に拠れば、泰近の名前は明治15年(1882年)卒業の明治法律学校一期生の中にはなく、明治21年(1888年)12月卒業の箇所にあり、職業は「市吏員」となっている。明治法律学校は明治19年(1886年)に法律学部と行政学部の二学部を新たに設置しており、泰近は行政学部一期生だった可能性がある。
  24. ^ 家伝では胃癌とされている。
  25. ^ 本郷区役所にあった三谷家除籍謄本は東京大空襲で焼失。
  26. ^ 『寛政譜以降旗本家百科事典』(東洋書林、1998年)第5巻p2732、2733によれば、〈三谷惣兵衛元直(二丸留守居)、父:三谷左兵衛、本国:甲斐、屋敷:駿河台袋町、禄:100俵、弘化4年(1847年)10月逝去。〉〈三谷錮(こ)之丞(当分小石川馬場脇御書院番三宅左兵衛方同居、小普請諏訪支配)〉〈三谷惣三郎(重立肝煎(小普請)役金御免)、祖父:三谷惣兵衛・二丸留守居、父:三谷三郎兵衛・書院番 嘉永元年(1848年)5月4日家督相続小普請入り〉の三名の記述あり。
  27. ^ 長男哲之進(てつのしん)、長女文江(ふみえ)、次男権彌(ごんや)、三男恭麿(やすまろ)、四男泰亨(やすみち)。なお、泰近次男・権彌は、権之丞の最期に関わったとされる江原素六が創立した麻布学園に、恐らく17期生として入学、在学中に脊椎カリエスを発症して一年休学した後、18期生として大正2年(1913年)に卒業したようである。沼津市明治史料館には、泰近が校長江原素六に宛てた、印刷の麻布区長退任挨拶の手紙が現存する。
  28. ^ 権之丞や泰近の働きが評価されたようである。

主な参考文献

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外部リンク

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