森田淳悟
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基本情報 | |||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||
生年月日 | 1947年8月9日(77歳) | ||||||||||||||
出身地 | 北海道北見市 | ||||||||||||||
ラテン文字 | MORITA Jungo | ||||||||||||||
身長 | 194cm[1] | ||||||||||||||
選手情報 | |||||||||||||||
愛称 | ミスターバレーボール | ||||||||||||||
ポジション | MB | ||||||||||||||
利き手 | 右 | ||||||||||||||
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森田 淳悟(もりた じゅんご、1947年8月9日 - )は、日本のバレーボール元選手、元全日本代表・指導者。日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本体育大学卒業。
現在は日本体育大学体育学科教授[2]、NPO法人日本オリンピアンズ協会理事。前・公益財団法人日本バレーボール協会強化事業本部本部長[3]。
来歴
[編集]北海道北見市出身。中学時代は野球部で、2年の時に陸上部を作ってハイジャンプもしていた。日本大学鶴ヶ丘高等学校入学後に長身を見込まれてバレーボールをはじめる。恩師の原田先生の出身校でもある日本体育大学へ進学。[4]入学した1966年に世界選手権で全日本デビュー。ミスターバレーボールと云われている。1968年メキシコ五輪で銀メダルを獲得。
大学卒業後の1970年に日本リーグの日本鋼管(当時)に入社。日本リーグでは最高殊勲選手1回、敢闘賞4回などを受賞した。
1972年のミュンヘン五輪で金メダルを獲得。横田忠義、大古誠司とともに全日本ビッグスリーと呼ばれ、相手の攻撃コースを読んだ緻密なブロックはフジヤマブロックと呼ばれた。森田のドライブサーブは世界一の速さと言われ、強烈なドライブサーブで相手のレシーブを崩した。ミュンヘンオリンピック後、全日本を離れたが、1977年に日本で行われたワールドカップで復帰。日本を銀メダルに導いた。
一人時間差をはじめとする[5]自ら考案した多彩な攻撃は、日本バレー史に名を刻み、2003年にはバレーボール殿堂入りを果たした[6]。
現役引退後の1981年からは、母校の日本体育大学バレーボール部コーチに就任し[7]、後に監督となって、2007年から2008年にかけて全日本インカレ2連覇に導いた。2009年12月の全日本インカレをもって監督を勇退[8]。
球歴
[編集]- 所属チーム履歴
- 日本大学鶴ヶ丘高等学校 → 日本体育大学 → 日本鋼管
- 受賞歴
- 1970年 - 第4回日本リーグ ブロック賞、サーブ賞、ベスト6
- 1971年 - 第5回日本リーグ 敢闘賞、ブロック賞、サーブ賞、ベスト6
- 1972年 - 第6回日本リーグ ベスト6
- 1973年 - 第7回日本リーグ サーブ賞、ベスト6
- 1974年 - 第8回日本リーグ 敢闘賞、ブロック賞、ベスト6
- 1975年 - 第9回日本リーグ 敢闘賞、ベスト6
- 1976年 - 第10回日本リーグ 敢闘賞、ベスト6
- 1977年 - 第11回日本リーグ 最高殊勲選手賞、ベスト6
- 1978年 - 第12回日本リーグ ベスト6
- 2007年 - Vリーグ栄誉賞(優勝貢献、個人記録)
脚注
[編集]- ^ Jungo Morita sports-reference.com
- ^ “教員一覧 - 日本体育大学”. 2012年6月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年6月22日閲覧。
- ^ 強化事業副本部長に川合氏ら=バレーボール - 時事ドットコム 2011年6月21日
- ^ オリンピアンかく語りき 第8回 五輪を制した「一人時間差」 森田淳悟 スポーツ歴史の検証
- ^ “ヒーローが見た夢#72”. 日本テレビ放送網. 2010年9月17日閲覧。
- ^ “Jungo Morita”. バレーボール殿堂. 2010年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年9月17日閲覧。
- ^ ミスターバレーボール森田淳悟物語/森田淳悟/著 本・コミック : オンライン書店e-hon
- ^ 月刊バレーボール 2010年2月号 116ページ
著書
[編集]- ミスターバレーボール 森田淳悟物語 ISBN 4794707398 叢文社 (2015/5/1)