コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

楠田英世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楠田十左衞門から転送)
楠田英世明法権頭(前列右から2人目)。前列左より、玉乃世履権大判事、福岡孝弟大輔、江藤新平司法卿、楠田、渡辺驥少丞。後列左より、丹羽賢少丞、島本仲道警保頭 、松岡康毅七等出仕、松本暢権大判事(元壬生藩御典医・石崎誠庵)、尾崎忠治中判事、阪本政均警保助。1872年。[1]

楠田 英世(くすだ ひでよ、文政13年11月19日1831年1月2日) - 明治39年(1906年10月22日)は、日本武士官僚。第一次新潟県知事元老院議官男爵。通称は十佐衛門、十助[2]

経歴

[編集]

肥前佐賀藩に生まれる。明治元年(1868年)、会津戦争仁和寺宮嘉彰親王の副参謀となる。明治2年2月22日1869年4月3日)から同年7月27日(9月3日)まで新潟県知事を務めた[3]。その後、大学少丞、同大丞、大史、司法少判事、制度御用兼勤、司法中判事などを経て、明治4年5月11日1871年6月28日)、明法権頭になる[3]。その後、司法大丞、司法大検事を兼任し、江藤新平箕作麟祥らとともに民法会議に出席し旧民法の編纂に従事した。その後、司法省三等出仕、兼明法頭、法制課長、左院御用掛などを歴任[3]1876年(明治9年)4月8日より1884年(明治17年)4月30日まで元老院議官を務める。この間、訴訟法取調委員、民法編纂委員などを務め、1881年(明治14年)7月27日、登記法取調掛委員長に就任[3]。明治39年(1906年)、死去。享年76。

栄典

[編集]

家族・親族

[編集]

妻・與野子は永倉久芳の次女[6]。與野子との間に2男2女をもうけた[6]。長女・千代子は長尾俊次郎と結婚し2女をもうけたが離婚したため俊次郎・千代子の長女・英子は英世の養女となった[6]。長男・申八郎は英世の死後家督を相続し襲爵したが子がなかったため姪で父・英世の養女となった英子を自らの養女とし[6]保科正益の次男・咸次郎を婿養子として迎えた[6]。咸次郎・英子夫妻の次女・相子は元三菱銀行頭取・田実渉に嫁いだ[6][7]

脚注・出典

[編集]
  1. ^ 的野半介『江藤南白 上』南白顯彰会、1914、p643
  2. ^ 『明治維新人名辞典』353頁。
  3. ^ a b c d 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』341-346頁。
  4. ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
  5. ^ 『官報』第5089号「叙任及辞令」1900年6月21日。
  6. ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成 上巻』541頁。
  7. ^ 『門閥』262-263頁、270頁。

参考文献

[編集]
公職
先代
小松彰
日本の旗 正院法制課
1873年 - 1874年
次代
(廃止→)塚本明毅
先代
西園寺公望
新潟府知事
新潟県知事
1869年
次代
壬生基修
水原県知事
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
楠田(英世)家初代
1900年 - 1906年
次代
楠田申八郎