横堀三子
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横堀 三子(よこぼり さんし、1852年10月27日(嘉永5年9月15日[1])- 1914年(大正3年)3月24日[2])は、明治時代の政治家、台湾総督府官僚。自由民権運動家。衆議院議員(4期)。旧姓・土屋、諱・龍、字・雲卿、号・鉄研、通称・三子[3]。
経歴
[編集]下野国那須郡黒羽[1](黒羽県、栃木県那須郡黒羽町を経て現大田原市)で、黒羽藩士[4]土屋新二郎の二男として生まれ[5]、のち同国大田原藩領芳賀郡祖母井村(祖母井町を経て現芳賀町)に移り住む[1]。幼くして大田原藩の儒臣・金枝柳村の門に入り漢籍を修める[1]。1874年(明治7年)横堀源平の養子となり[1][5]、1876年(明治9年)3月1日家督を相続した[5]。1878年(明治11年)[4]芳賀郡書記を経て[6]、1879年(明治12年)[注 1] 栃木県会議員に当選し、同議長を務め、常置委員、地方勧業諮問会員、地方衛生会員などを歴任した[1]。自由民権運動に加わり、1880年(明治13年)下野有志共同会が設立されると総部長に就任し、塩田奥造と共に国会請願捧呈委員となった[4]。のち芳賀郡長、台湾総督府台中県苗栗支庁長、同県書記官などを歴任した[7]。
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では栃木県第1区から出馬し当選[6]。第2回から第6回総選挙まで星亨らと戦って落選が続いた[4]。その後、第7回、第8回、第9回総選挙では当選し衆議院議員を通算4期務めた[2]。
親族
[編集]- 妻 横堀もん(養父長女)[5]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『栃木県歴史人物事典』633頁では明治13年。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 大久保利夫『衆議院議員候補者列伝 : 一名・帝国名士叢伝 第1編』六法館、1890年。
- 篠田正作 編『明治新立志編』鍾美堂、1891年 。
- 『人事興信録 第2版』人事興信所、1908年。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。
- 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。