コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

池田蕉園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
池田蕉園
生誕 榊原百合子(由理子)
1886年5月13日
東京府神田区
死没 (1917-12-01) 1917年12月1日(31歳没)
国籍 日本の旗 日本
教育 水野年方川合玉堂鈴木華邨
著名な実績 美人画版画挿絵
運動・動向 烏合会
テンプレートを表示

池田 蕉園(いけだ しょうえん、1886年明治19年)5月13日 [1]- 1917年大正6年)12月1日[2])は、明治から大正にかけての女性浮世絵師日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子[3])。夫も日本画家の池田輝方

生涯

[編集]

出自

[編集]

1886年(明治19年)5月13日、東京神田雉子町に[1]、榊原浩逸、綾子夫妻の長女として生まれる。下に一人の弟、三人の妹がいる[4][注 1]。父浩逸は旧岸和田藩士であったが、慶應義塾福沢諭吉に学び、彼の勧めによりアメリカラトガース大学に留学して鉄道を研究、日本鉄道に勤務したのち、岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)の幹事となった人物。母綾子は実業家にして歌人でもあった間島冬道の娘で、和歌に優れていたほか、1876年(明治9年)ごろからは国沢新九郎の主宰する彰技堂画塾に入門、国沢のほか本多錦吉郎にも師事して洋画を学んだ経験を持つ[5]。夫妻は鹿鳴館にも出入りしていた[6]名士であった。

修行時代

[編集]

1893年(明治26年)4月に両国の江東小学校に入学、1895年(明治28年)には一家が麹町区富士見町に転居したため、富士見小学校3年に編入する。この頃より、草双紙の絵を石版に描き写すなどして画才を発揮し始める。1898年(明治31年)4月に女子学院(現在の女子学院中学校・高等学校)に入学、当時開明的とされた教育を受けるが、1901年(明治34年)、学業のかたわら15歳で日本画家・水野年方(1866年 - 1908年)の主宰する慶斎画塾に入門する[1]。蕉園の号は、上村松園に憧れる百合子に、松園に負けぬ美人画家になるようにと、師年方が与えた。

入門翌年の1902年(明治35年)ごろに「桜狩」を発表して画壇デビューする。この頃より同門であった池田輝方と相思相愛の間柄となり、学業を放棄する。1903年(明治36年)からは、同門であった鏑木清方が主宰する研究グループ・烏合会に、村岡応東吉川霊華(1875年 - 1929年)らとともに参加してさらに研鑽を積む。同年、第9回絵画共進会で「つみ草」が、第10回の同会では「夕暮れ」が入選する。

苦悩を芸術に昇華

[編集]

同年、師の立会いのもと、池田輝方と婚約するも、その直後に輝方は別の女性と失踪した。この出来事の顛末は、田口掬汀による連載記事「絵具皿」で『万朝報』に報じられ、広く話題となった。蕉園は悲しみのあまり、しばらく作品制作から遠ざかったほどであったが、こうした経験がもたらした苦悩と、水野から学び受け継いだ浮世絵風の造形美が、独特の甘く感傷的な作風へと昇華されたといわれ、3年間のブランクの後、1906年(明治39年)に美術研精会に出品した「わが鳩」で研精賞碑を受賞、橋本雅邦に実力を認められる。1907年(明治40年)、21歳で東京勧業博覧会に『花の蔭』を出品して2等賞、同年秋に開催された第1回文部省美術展覧会(文展)では「もの詣で」で3等賞を受賞した。

閨秀画家の双璧

[編集]

1908年(明治41年)の第2回文展には「やよい」を出品して3等賞を受賞した。この年には師・年方が死去したため、翌1909年(明治42年)からは輝方とともに川合玉堂に師事し、鈴木華邨にも指導を受ける。こうした研鑽の甲斐あってか、この前後の数年間は彼女の全作品の半分以上が集中して生み出され、完成度の高い力作も集中する充実期となった。同年刊行の泉鏡花の『柳筥』の挿絵が知られており、同年の第3回巽画会展へは「帰途」、やはり同年の第3回文展に「宴の暇」、1910年(明治43年)の第4回展に「秋のしらべ、冬のまどい」、1915年(大正4年)の第9回展に「かえり路」を出品してそれぞれ3等賞、1916年(大正5年)の第10回展では「こぞのけふ」で特選を受賞し、1912年(大正元年)の第6回展第2科の「ひともしごろ」、1914年(大正3年)の第8回展の「中幕のあと」はともに褒状を受けた。1910年(明治43年)の日英博覧会には「紅葉狩」「貝覆」の二曲一双屏風を出品した。1911年(明治44年)の第1回東京勧業博覧会へ出品した「夢の跡」では、「朦朧派」の影響の下、人物の目元などにぼかしをかける叙情的な表現が用いられたが、これは伊東深水竹久夢二などの追随者を生んだ。

この活躍により、同様の動きを見せていた京都上村松園とともに「東の蕉園、西の松園」「閨秀画家の双璧」「東西画壇の華」とされた他、のちには大阪島成園を加えて「三都三園」と呼ばれたりもした。こうした一方で、泉鏡花の『柳筥』『白鷺』の口絵を手がけ、徳田秋声の『誘惑』、雑誌「女学世界」「女鑑」「少女世界」「少女画報」などの挿絵も描いた。蕉園自身は泉鏡花の文学の熱烈なファンでもあり、1908年(明治41年)には彼を支持する人々の集まり「鏡花会」に参加、鏡花本人のほか、長谷川時雨との交友も盛んとなった。このほか観劇、邦楽などの愛好家としても知られた。

文展のおしどり画家、そして死

[編集]

1911年(明治44年)、放浪生活から戻った輝方と結婚、輝方も蕉園同様に文展で受賞を重ね、夫婦で屏風や双幅を合作したりもして、「文展のおしどり画家」と呼ばれた。1914年(大正3年)には再興・第1回日本美術院展(院展)に輝方の「お夏」とともに「おはん」を出品しているが、これは2人のただ1回の院展出品となった。そのころには国民的名士として知られ、上流階級の夫人、令嬢を多く門弟としたほか、大正天皇の前で絵を描いてみせたりもし、作品は高値で買い取られた[7][注 2]一方、文展には多くの模倣作が溢れて識者の顰蹙を買い、私生活での行動までもが人々の興味の対象となった[8]。1916年(大正5年)の第10回文展での特選受賞は夫婦揃ってのものだったが、蕉園はこの翌年1917年(大正6年)に結核に倒れ、夫輝方の献身的な看病もむなしく、やがて肋膜炎を併発、同年12月1日、31歳で死去した。犬養毅、当時の皇后宮大夫、文部次官など政、官界の要人、高村光雲鏑木清方、徳田秋声、松岡映丘ら多くの美術人、門弟、愛好家たちが参列する盛大な葬儀[4]が営まれ、谷中墓地に埋葬された。法名は「彩雲院蕉園妙観大姉」。夫の輝方も4年後の1921年(大正10年)に38歳で没した。

弟子に、木谷千種松本華羊ポール・ジャクレーなど。

作品

[編集]

肉筆画

[編集]

木版画

[編集]

口絵

[編集]
  • 「柳筥」 泉鏡花作 春陽堂版 明治42年
  • 「白鷺」 泉鏡花作 春陽堂版 明治43年(1910年)
  • 「女暫」(『演芸倶楽部』) 博文館版 大正元年(1912年)
  • 「やよひ」(『文芸倶楽部』第19巻4号) 博文館版 大正2年(1913年)
  • 「逝く春」(『文芸倶楽部』第19巻16号) 博文館版 大正2年
  • 「盆灯籠」(『新小説』第20年7巻) 春陽堂版 大正4年(1915年)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ なお日本美術院百年史・第3巻上では4人姉妹の長女としている。
  2. ^ 「この日いつでも真先に買約を付ける博文館の大橋新太郎氏」が「買約済みの札を貼ったは『雨のあと』紺谷光俊氏(価格五十円)、『つやさん』樋口富麿氏(五十円)、『かえり路』池田蕉園女史(三百五十円)、『霜月十五日』河崎蘭香女史(二百五十円)」とあり、このほかにも幕内誠雲「秋景山水」に五十円、速水松琴「葉桜」に八十五円、伊藤少坡「製作の前」に百七十円、高島岑楓「涼気」に六十円の値がつけられた、と報じられている(時事新報・大正4年10月16日)。

出典

[編集]
  1. ^ a b c 監修 細野正信『日本美術院百年史3巻上』財団法人日本美術院、49、784頁。 
  2. ^ 佐藤靄子『日本名画家伝』青蛙房、1967年11月25日、137頁。 
  3. ^ 日本女性人名辞典 72ページ
  4. ^ a b 大正ニュース事典 第3巻 20ページ
  5. ^ 松浦あき子 (1988). “池田蕉園の人と芸術”. 三彩 (484): 84. 
  6. ^ 日本美術院百年史 3巻上・図版編 784ページ
  7. ^ 大正ニュース事典 第2巻 757ページ
  8. ^ 大正ニュース事典 第2巻 757ページ 「池田輝方、同蕉園両氏の絵の前に立った二人の若い婦人は‥‥『お二人ともどうしてこのように髪の線描きが似て居るのでせうね』『詰まりお名前が違つても、両方でお手伝いをなさるのよ』『まァ流石御夫婦は違ったものね』」(大正4年10月16日 時事新報)

参考文献

[編集]
  • 吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年
  • 河北倫明総監修 『日本美術院百年史 第3巻上・図版編』 日本美術院、1992年
  • 千足伸行監修 『すぐわかる女性画家の魅力』 東京美術、2007年4月、ISBN 978-4-8087-0809-2
  • 細野正信監修 『日本絵画の楽しみ方 完全ガイド』 池田書店、2007年12月、ISBN 978-4-2621-4526-6
  • 桃投伸二(堀川浩之) 「池田(榊原)蕉園・天分のみでなく努力でもない、情熱から生じた特殊な芸術」(美術誌『Bien(美庵)』Vol.47、特集「個性の時代にキラリと光る、女性ならではの視点とは? —松園、蕉園、成園—」、藝術出版社 、2008年春[5]ISBN 978-4-434-11631-5
辞典類

外部リンク

[編集]