河甲清
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河甲清 | |
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生誕 |
1924年6月27日 日本統治下朝鮮 慶尚南道昌寧郡 |
死没 |
1977年4月3日(52歳没) 韓国 ソウル特別市麻浦区延南洞 |
出身校 | 警備士官学校2期 |
在任期間 | 1964年12月15日 - 1969年2月26日 |
大統領 | 朴正煕 |
軍事経歴 | |
所属組織 | 大韓民国陸軍 |
軍歴 | 1946-1960 |
最終階級 | 准将 |
河 甲清(ハ・ガプチョン、하갑청、1924年6月27日 - 1977年4月3日)は大韓民国の軍人、政治家。最終階級は陸軍准将。4代文教部文化財管理局長。
経歴
[編集]1924年6月27日、慶尚南道昌寧郡出身[1]。志願兵として日本軍に入隊、階級は上等兵[2]。
1949年、釜山地区司令官[3]。朝鮮戦争開戦後の1950年、歩兵学校混成連隊(長:兪海濬中領)隷下の混成大隊長として漢江の戦いに参加。第21連隊長となり、1951年2月にラウンドアップ作戦に参加[4]。1951年7月15日、陸軍歩兵学校を経て第5連隊長[5]。1952年、陸軍大学を卒業し、陸軍本部参謀部企画統制官。1957年に国防大学院卒業後、第7師団長を経て特務部隊長を務めたが、四月革命後に解任され、1960年6月22日に予備役編入。
1964年に文教部文化財管理局長(1968年より文化広報部)に就任したが、1969年3月に光化門復元工事を巡り収賄で解任[6]。 義母や愛人らの家に匿われて逃亡を続けていたが、23日に逃亡先であった愛人の知人宅が金聖基検事[7]らの家宅捜索を受け、屋根裏部屋に隠れていたところを発見され逮捕。また、匿った3名も犯人秘匿で立件された[8]。
公判では、求刑懲役10年に対し、懲役5年の実刑判決が下されたものの、1970年に拘束停止。1973年7月に執行猶予5年が確定した[9]。
1977年4月3日、ソウル特別市麻浦区延南洞において死去[10]。
勲章
[編集]- 乙支武功勲章[2]
脚注
[編集]- ^ 霞関会 1971, pp. 24.
- ^ a b 정안기 2020, p. 378.
- ^ “流言蜚語(유언비어)를 警戒(경계)” (朝鮮語). 부산일보. (1949年7月15日) 2024年12月28日閲覧。
- ^ 児島襄 編『朝鮮戦争』 2巻、文芸春秋、1984年7月、401頁。NDLJP:12166866/202。
- ^ “韓國戰爭史第5巻 中共軍侵略과 再反擊作戰期(1950.12.1~1951.4.30)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 445. 2024年12月27日閲覧。
- ^ 民族問題研究所 編『コリア評論』 11巻、100号、コリア評論社、1969年7月、62頁。NDLJP:1410182/37。
- ^ のち35代法務部長官
- ^ “도피중이던 전문화재관국장 하갑청씨검거 [逃避中だった前文化財管理局長 河甲清氏検挙]”. 毎日経済新聞. (1969年3月24日) 2024年12月27日閲覧。
- ^ “前文化財管理局長(전문화재관이국장) 河甲清(하갑청)피고인執猶五年(집유오연)”. 동아일보. (1973年7月11日)
- ^ “河甲淸씨(전특무부대장, 문화재관리국장)별세”. 동아일보. (1977年4月4日)
参考文献
[編集]- 霞関会 編『現代韓国人名辞典 1971年版』霞ケ関出版、1971年、24頁。NDLJP:12166776/62。
- 정안기 (2020). 충성과 반역 : 대한민국 創軍・建國과 護國의 주역 일본군 육군특별지원병. 조갑제닷컴. ISBN 979-11-85701-69-1
公職 | ||
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先代 鄭文淳 |
大韓民国文教部文化財管理局長 第4代:1964.12.15 - 1969.2.26 |
次代 許鍊 |
軍職 | ||
先代 趙成華 |
第5連隊長 8代:1951年7月12日 - 1951年9月1日 |
次代 蔡命新 |
先代 金容培? |
第21連隊長 5代:1950年10月? - 1951年5月30日 |
次代 全富一 |
先代 朴正煕 |
第7歩兵師団長 第13代:1958.6.17 - 1959.10.10 |
次代 孫煕善 |
先代 金在鉉 |
特務部隊長 8代:1959年10月10日 - 1960年5月1日 |
次代 李召東 |