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法橋善作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
法橋善作

法橋 善作(ほっきょう ぜんさく[1][2]1847年11月12日弘化4年9月28日[3] - 1923年大正12年)2月19日[2][4])は、日本の実業家[1]政治家衆議院議員(鳥取県郡部選出、当選1回)[2][5]大阪商業会議所副会頭[6]。族籍は大阪府平民[6][7]

経歴

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鳥取県日野郡阿毘縁村(現日南町)に生まれる[5]。法橋助作の二男[6][7]漢学を学ぶ[1][5]明治初年郷里を出て、大阪に来る[8]。後に東京に遊ぶ[8]。この間翻訳書を読んで略世界の事情に通じ、官民の間に多くの交友を有する[8]

1882年洋銀相場に手を出して一敗地に塗れ、ほとんど起つことができなくなる[8]。しかしようやくにして失敗を挽回し1887年頃より、小泉清左衛門、森作太郎、播本孝良等と共に公共事業に奔走する[8]

鉱山業と海産貿易商その他を営み、大阪貿易取締会所監事、帝国工業理事、日本海上保険会社支配人、中国鉄道、日東漁業各取締役を務めたほか[4]、大阪築港研究会を創立した[1][2][4]。また、大阪市会議員、大阪商業会議所議員、同副会頭となった[4]

1912年第11回衆議院議員総選挙において鳥取県郡部から無所属で立候補して当選した[9]。衆議院議員を1期務め、1915年第12回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補したが落選した[10]。1923年2月19日に死去した[2]

人物

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住所は大阪市西区南堀江通一丁目[6]新町南通三丁目[7]。趣味は談話[8]

家族

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法橋家
  • 養父・彌四郎[6]
  • 妻・タツ1851年 - ?、大阪、林友四郎の長女[6]、林タカの長女[7]
  • 長男・修一[7]1884年 - ?、法橋写真館、大阪写真専修所長[11]) - 住所は大阪市西区新町南通三丁目[11]
  • [7]

脚注

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  1. ^ a b c d 『鳥取県大百科事典』887頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年9月14日閲覧。
  2. ^ a b c d e 『議会制度七十年史 第11』440頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年5月2日閲覧。
  3. ^ 衆議院『第二十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1912年、34頁。
  4. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』567頁。
  5. ^ a b c 『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』68頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月20日閲覧。
  6. ^ a b c d e f 『人事興信録 第4版』ほ21頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月22日閲覧。
  7. ^ a b c d e f 『人事興信録 第6版』ほ19頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月20日閲覧。
  8. ^ a b c d e f 『大阪人物小観 公人私人 上篇』53 - 55頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年5月2日閲覧。
  9. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』54頁。
  10. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』58頁。
  11. ^ a b c d e f 『人事調査録 再版』ホ1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年3月19日閲覧。

参考文献

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  • 吉本義秋、鵜崎熊吉編『大阪人物小観 公人私人 上篇』吉本義秋、1903年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』衆議院事務局、1936年。
  • 人事調査録刊行会編『人事調査録 再版』人事調査録刊行会、1938年。
  • 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年。
  • 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
  • 新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会編『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。