深尾繁峯
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄10年6月23日(1697年8月9日)[1] |
死没 | 宝暦2年4月27日(1752年6月9日)[2] |
改名 | 孫八(幼名)→常重(初名)→繁峯 |
別名 | 通称:左京、平右衛門 |
官位 | 左京亮 |
主君 | 山内豊隆→豊常→豊敷 |
藩 | 土佐藩 |
氏族 | 深尾家 |
父母 | 父:深尾重方 |
兄弟 | 繁峯、稠済 |
妻 |
正室:中山篤親娘 側室:出雲路信直次女 |
子 |
繁英、山内豊之、山内茂信室 養子:稠済(実弟)、 茂澄(山内茂信子) |
深尾 繁峯(ふかお しげみね)は、江戸時代中期の土佐藩の家老。深尾家当主・佐川領主5代。
略歴
[編集]宝永3年(1706年)、父・重方が咎めを受けて隠居することとなり家督相続する。同年12月、家老職に任じられる。
享保5年(1720年)、土佐藩7代藩主・山内豊常の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で8代将軍・徳川吉宗に拝謁する。享保11年(1726年)、弟の稠済を養嫡子とし、藩主・豊常に御目見させる。享保17年(1732年)、病のため稠済が政務を代行する。
元文元年(1736年)、次男・豊之が藩主一門・山内豊成の婿養子となる。元文4年(1739年)、長男・繁英が稠済の養子となる。その後、稠済、繁英に先立たれたため、寛延2年(1749年)8月、山内隼人茂信(山内規重の子)の子の茂澄を養子に迎えた。
父・重方と同じく学問に熱心で、地元佐川の出身であった儒学者・富永惟安を招き儒臣として登用した。
系譜
[編集]家臣
[編集]- 上村八郎兵衛
- 岩神九兵衛
- 山田源左衛門
脚注
[編集]出典
[編集]- 『土佐諸家系図』東京大学史料編纂所
- 『土佐国羣書類従』東京大学史料編纂所
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