湖西のみち
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『湖西のみち』(こせいのみち)は、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の第1巻第1章。「週刊朝日」の1971年1月1日号から1月21日号に連載された。「近江からはじめましょう」という司馬のことばで「街道をゆく」シリーズがはじまった。司馬の小説でも近江は重要な舞台となっている。訪れた時期は1970年、粉雪の舞う季節。近江は第24巻の『近江散歩』でも取り上げられた。
対象地域および行程など
[編集]- 対象地域
- 登場する同行者
- 編集部のH(橋本申一)
- 菅沼晃次郎(滋賀県の民俗研究家)
- 須田剋太
- 全行程
楽浪の志賀 - さざなみのしが -
[編集]かつて琵琶湖南西岸をこのように読んだ[1]。
話題
[編集]- 湖西の風土(モダン墓地化した京や大和と対比)
- 大和権力の視力はせいぜい静岡県あたりまで
- 湖東と湖西の対比。平野があり交通量の多い湖東に比べ、湖西は人煙が稀れでさびしい地域である。
- 民俗学の講演会(昭和24年頃、柳田國男と折口信夫)
- 古墳が朝鮮式。渡来人の入植
- 新羅と楽浪は同義(新羅王が北斉から「楽浪郡公新羅王」の称をもらう)
- 小松漁港の舟の減少
- 戦国時代に穴太の黒鍬(土木工事技術者)が諸国で活躍(広辞苑)
- 穴太の里の歴史の古さ(延喜式)。成務帝のころ都があった。(志賀高穴穂宮)
行程
[編集]大津 | |
| | 菅原と落ち合う。旅のスタート。新羅神社 |
穴太(あのう) | |
| | 穴太の黒鍬。志賀高穴穂宮 |
坂本 | |
| | 叡山という一大宗教都市の首都。楽浪の志賀。最澄の出身地。円珍 |
堅田 | |
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真野 | |
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北小松 | |
| | 漁港。菜を洗う老婦人。漁師。モロコ漁。伊藤姓の家(琵琶湖水軍の大将)。 古代安曇族。紅殻格子。暗渠(ショウズヌキ) |
白鬚神社 | |
| | 猿田彦。新羅 |
(安曇) |
登場人物
[編集]- 歴史上の人物
- 話題になった人物
- 鳥越憲三郎(民俗学の講演会の幹事)
- 須田国太郎
- 市井の人
- 京都の寺で拝観料をとっている婦人
- 菜(大根)を洗う老婦人
- 漁師
地名
[編集]書名
[編集]湖西の安曇人
[編集]話題
[編集]- 日本民族のルーツ(日本人の祖形)
- 朝鮮語
- 明治時代以後の朝鮮人に対する偏見
- 万葉集の防人の歌
- 奥里将建の「日本語系統論」
- 縄文時代の文化と弥生時代の文化
- 日本的思想(たとえば浄土教)と日本的美意識(たとえば茶道)のルーツ
- 福岡県糟屋郡阿曇郷
- 本居宣長の「古事記伝」
- 安曇人(安曇海人の神話)
- 宇佐、高良、磯賀という九州の大社
- 北九州との地名の一致>安曇、青柳(中江藤樹の生誕地)、志賀
- 伊吹山
行程
[編集]安曇 |
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青柳 |
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(朽木渓谷) |
登場人物
[編集]朽木渓谷
[編集]話題
[編集]- 街道とは空間的存在と同時に時間的存在である。
- 桶狭間の戦い
- 長篠の戦い
- 朝倉氏攻略(敦賀に集結し、木ノ芽峠を越え、越前平野へ)
- 浅井氏の裏切り
- 織田信長の朽木街道での退却。近世をまねきよせた信長の機略
- 大久保彦左衛門の「三河物語」
- 木下藤吉郎が殿軍(しんがり)
- 松永久秀の一生の悲哀
- 信長が朽木元綱に出合って驚く場面(武家事紀)
- 朽木氏のその後
行程
[編集]朽木渓谷 | |
| | 安曇川 |
野尻 | |
| | 朽木中学校に朽木氏の館跡 |
市場 | |
| | よろず屋があかあかと灯をつけている光景 |
(市場) |
登場人物
[編集]書名
[編集]朽木の興聖寺
[編集]話題
[編集]- 川(river)の話(ナイル川と鴨川、三条大橋にて)
- 渤海国からの朝貢
- 浦島伝説
- 安全保障に無感覚な日本人
- 日本の海外進出(秀吉と明治以後)
- 渤海国を滅ぼした契丹
- 古街道(若狭湾、敦賀-木ノ本-京、奈良)
- 花折峠から岩瀬へ
- 観光化されていない足利義晴の流寓の地の趣のよさ
- 興聖寺の読経(日没偈)
- 細川氏に圧迫され、興聖寺に流寓した足利義晴と、その枯山水の庭園
行程
[編集]市場 | |
| | 朽木の杣が集まってくる様子、溝のある風景 |
岩瀬 | |
| | 曹洞宗興聖寺。足利義晴の流寓の地。旅の終点 |
興聖寺 |
登場人物
[編集]- 歴史上の人物
- 話題になった人物
- 市井の人
- キコリの風体をした神主
- よろず屋の女性
- ミセス・コバヤシ(英語通訳)
- 山から降りてきた村人(興聖寺について尋ねる)
- 興聖寺の荒れた庭園で遊ぶ子供たち十人ばかり
- 興聖寺の老婦人
- 興聖寺の御住持・森泰翁
- 興聖寺の洞翁師(老婦人のご主人)
参考資料
[編集]- ^ 学研全訳古語辞典(学研)