アントニオ猪木
アントニオ猪木 | |
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プロフィール | |
リングネーム | アントニオ猪木 |
本名 | 猪木 寛至 |
ニックネーム |
燃える闘魂 アントン(前々夫人より) キラー猪木 寛ちゃん(幼少時代、入門時より) |
身長 | 191cm(プロレス時代の公称) |
体重 | 102kg |
誕生日 | 1943年2月20日(81歳) |
出身地 | 神奈川県横浜市 |
スポーツ歴 | 陸上競技 |
トレーナー |
力道山 豊登 カール・ゴッチ |
デビュー | 1960年9月30日 |
引退 | 1998年4月4日 |
アントニオ猪木 あんとにお いのき | |
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生年月日 | 1943年2月20日 |
出生地 | 神奈川県横浜市鶴見区 |
所属政党 | スポーツ平和党 |
公式サイト | アントニオ猪木 OFFICIAL BLOG |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1989年 - 1995年 |
アントニオ 猪木(アントニオ いのき、英語表記:Antonio-Inoki、1943年2月20日 - )は、日本の元プロレスラー、元参議院議員、事業家。本名は猪木 寛至(いのき かんじ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。
新日本プロレス創始者で元オーナー。愛称は「アントン」。
日本のプロレス・格闘技の歴史を語る上で(猪木自身は、プロレスと格闘技を区別することを嫌っているが)、力道山、ジャイアント馬場と並んで、多くのプロレスラー・格闘家に影響を与える存在である。
プロフィール
生い立ち
横浜市鶴見の石炭問屋を営む裕福な一家に生まれる。横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)で育つ。5歳の時に父親は死去。第二次世界大戦後、エネルギー源が石炭から石油に変わったこともあって実家の石炭問屋は倒産した。
これを受けて13歳の時に母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り(長兄は同行せず。祖父は渡航中に船上で毒性のあるまだ青いバナナを食べて死去)、サントス港を経由してサンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。
ブラジル移住
ブラジルへ移住した最初の1年半は、農場であまりにも過酷な労働を強いられた。コーヒー豆などを収穫する作業が中心だったが、作業のたびに手の皮がずる剥けになり血まみれになっていたという。1年半の契約だったため逃げることはできなかった。あまりにも過酷なため、作業が終わり与えられた電気も通っていない小屋に戻り着替えるためにTシャツを脱ぐと、Tシャツに染みこんだ汗の塩分のため、Tシャツが固まって立ったほどだったという。猪木の精神力はこのブラジルでの生活で強く培われたと言える。
ブラジルへ移住してからは陸上競技選手として砲丸投げなどで活躍し、その身体能力をいかんなく発揮する。なお陸上部の前にバスケットボール部に入っていた。ただし「うまくないから」という理由で退部。その後現地の砲丸投げ大会に出場、優勝した際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。しかし、幼少時代は運動神経が悪く、友達からは「運痴の寛ちゃん」と呼ばれていた程であったが、基礎体力はコーヒー園での肉体労働で培われたと言われている。
プロレスデビュー
1960年4月11日にサンパウロで興業を行っていた力道山から「日本に行くぞ」と直接スカウトされ、そのまま日本へ帰国し日本プロレスに入団した。猪木はこの出会いを振り返り、「本当に自分は運がいい」と今でも語っている。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという(後日談であるが、猪木の肉体は全盛期のルー・テーズにそっくりだった為、力道山もそこに目を付けたと言う。デビュー後に外国人トレーナーからもオファーが殺到したと言う)。
1960年9月30日、東京の台東体育館にて大木金太郎とデビュー戦を行った(敗戦)。デビューはジャイアント馬場と同日である。なお、リングネームは、先輩レスラー豊登道春による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、単に「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するため洋風な名前にされたということである(本人曰く「アントニオという名前は日本で鈴木や佐藤という名前が多いようにブラジルではありふれた名前」とのことであるが、実は苗字ではなくファーストネームであり日本でいえばヒロシやタケシ)。
なお、まだリングネームが決まる前に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山によりその名をつけられそうになったが、猪木自身はそれが気に入らず、その名前を付けるのであればやめるとまで言ったとの逸話もある。
また力道山は猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた。これは南アメリカでの興行を成功させる布石でもあり、弟子入りのために帰国した際には「日本語は話せますか?」と記者に問われた。その記事を見た横浜在住時の猪木の幼馴染が日本プロレスの道場を訪ね、「お前は横浜にいた猪木だろ?」と質問したが、猪木は「違う」と貫き通した。そのために当時の猪木は、片言の日本語でインタビューに答えたりした。猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山が亡くなった後である。
デビューしてからまもなくたって、力道山の付き人となったものの、力道山は赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、酔って口論となった暴力団組員に刺され、後に傷が元で死去した。その後に初めて「俺は日系ブラジル人と言われてましたが、列記とした神奈川県出身の日本人です。力さんの付き人になってからは何時も力さんに殴られるので、このままでは馬鹿に成ってしまうと思って(日本プロレスを)辞めようと思ってました。でも力さんが亡くなったので、これからは豊登さんに着いて行きます」と初めて日本人である事をマスコミに公表した。
その後の1964年に、アメリカへ武者修行へ赴く(この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった『リトル・トーキョー・トム』)。地方巡業を中心に活躍して2年後に帰国。なおアメリカ時代にアメリカ人女性と結婚している。
東京プロレス
かつて日本プロレス社長であった豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、豊登と東京プロレスを旗揚げする。猪木はエースとして扱われ、ジョニー・バレンタインとの一戦は昭和プロレス史に残る名勝負となって一躍猪木の名を有名にした。
しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱体、豊登の横領などにより急速に業績が悪化、3か月で東京プロレスは破産し、最終的に古巣である日本プロレスに戻ることになる。
日本プロレス復帰
日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、馬場のパートナーとしてインターナショナル・タッグ王座を獲得。NET(現テレビ朝日)が日本プロレス中継を開始すると日本テレビとの取り決めで、馬場の試合が日本テレビの独占とされた関係上、NETの日本プロレス中継のエースという格になり、UNヘビー級王座を獲得する。また、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した試合は名勝負として伝説になっている。
しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決はタブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど日本プロレスとの度重なる確執から1971年に追放処分を受ける(詳細については上田馬之助 (プロレスラー)#密告事件を参照)。なお、その直前の同年11月、女優の倍賞美津子と結婚した(1987年に離婚)。
新日本プロレス設立
日本プロレスを追放された後は新団体設立を画策し、1972年1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラーを多数招聘することが難しかったため、流血遺恨試合、釘板デスマッチなどの際物的な試合も多かったが、対戦相手の良さを引き出し、試合毎に成長させる猪木の卓越した手腕のおかげで、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなど外国人エースが育っていった。
さらに、WWFと提携してからは多数の外国人スターを呼べるようになり、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦など名勝負を繰り広げ、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。
異種格闘技戦
新日本プロレスにおいて、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」というストロングスタイルを標榜。その後のプロレスのスタイルに大きな影響を与える。最強の証明のため、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け後年の総合格闘技の礎を築いた。
中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本ではそのアリ戦は昼間の生中継と、同日のゴールデンタイム19時からNETテレビ(現テレビ朝日)にて録画中継という形で2度放送された。(アントニオ猪木対モハメド・アリ参照)。なお、1979年1月には元アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領イディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した。アミンは猪木戦を承諾したものの、その後アミンが反体制派クーデターを受けサウジアラビアに亡命したため、結局対戦は実現しなかった。
「過激なプロレス」
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
1980年に村松友視の『私、プロレスの味方です』が発表される。観客自身の想像力によりプロレスを過激にヒートアップするベクトルを示唆した本書にストロングスタイルの教祖であった猪木は当然反発すると見られたが「過激なプロレス」を標榜、新路線を開拓する。純粋にプロレスラーの技術や試合内容を楽しむ事に主眼が置かれた時代もあったが、1970年代における青少年層がプロレスを愛憎奏であう現実の人間社会として捉える事に対して素直に理解を示した(または、村松の「私的観戦」を便宜主義で利用した)。
その結果、会場における熱狂的ムーブメントがそれまでのプロレス文脈を全てを飲み込む結果となる。後日、プロレスライターのターザン山本は『私、プロレスの味方です』は、時代を変えたとまで書いている。しかし、旗を揚げた猪木自身にも、観客にも以降の方向性が見出せなかったために、「新日本プロレス」内部においては猪木自身の神格化でしかその終焉を迎えられなかった。
「猪木監禁事件」
1982年2月27日には、「ルールの無い命をかけた」果し合いを申し込んだ沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立した猪木。同年、漫画原作者の梶原一騎により、暴力団関係者を使い、大阪のリーガロイヤルホテルの一室に呼び出され、銃などを持っていることをほのめかされ、猪木が監禁される事件が起こった。当時週刊誌やスポーツ新聞のみならず、テレビや全国紙でも大きく取り上げられるニュースとなった。監禁に至った理由は、猪木が「寛水流」を設立したことに梶原が怒ったとされているが、真相は不明のままだ。
ちなみに梶原の著書『わが懺悔録』によるとこの事件は、「タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から支払われなくなっており、猪木も梶原を避けていたので全く連絡がつかなかった時にたまたまホテルで会ったので、部屋に招いてその件を問いただしただけで監禁恐喝は完全に冤罪である」とある。だが、梶原の他に「同席者」がいたことは否定していない。
IWGP立ち上げと世代交代
1983年には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げるが、同年6月2日に、自身の立ち上げた第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭であったハルク・ホーガンにロープ越しのアックスボンバーを受けリングサイドに落ちた際に頭を打ち脳震盪を起こし、衝撃の失神完全KO負けを喫した(詳細についてはIWGPリーグ戦の項を参照)。この際、頭を地面に打ったためとはいえ、ホーガンは猪木を失神させてしまったことに大変動揺していた。
また、この頃より猪木自身が「アントンハイセル」など様々な事業に新日本プロレスの資金を投資したものの、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、タイガーマスクや長州力の退団騒動がこの後に起こることになる。
1987年、不倫騒動で倍賞と離婚。そしてアントンハイセルへの借金。クーデターで最悪の精神状況の中、「リングで死ぬ」と言い、一番の敵であり、一番の仲間であったマサ斎藤と巌流島で観客なしのノーピープルマッチを敢行。2時間5分14秒の壮絶な闘いの末、猪木が勝利した。
1988年8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木負ければ引退か?」と憶測が飛び交った試合であるが、この一戦の前には長州力の不意打ちのラリアットをくらいピンフォール負けするなど、先行きが危ぶまれる中でIWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった。「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により、急きょ実況する設定の中行われた試合は、結果60分時間切れの引き分け。猪木がIWGPに挑戦した最後の試合となった。
1989年2月22日、両国国技館での長州力とのシングルマッチで完璧なピンフォール負けを喫した。猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。
政界進出
同年には「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙にも比例区から99万3989票を集めて初当選(キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」、史上初のレスラー出身の国会議員となり、「今話題になっているリクルート問題に対して私はこの一言で片付けたい“逆十字固め”」、「国会の場でも俺にしかできない事をやる」と宣言した。なお、当時参院比例区は政党名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた無効票が大量に出た(当時の参議院比例代表選挙は厳正拘束名簿式)。政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」で活動した。
1989年10月14日、福島県会津若松市で講演中に暴漢に刃物で襲われ左の頸部などを負傷すると、会場が一時騒然となる中、講演を中止する事無く、傷口をタオルで押さえたまま最後まで行った後、東京の病院に入院した。10月25日頭に包帯をし車椅子に乗った状態で、統一会派を組んだ民社党の配慮により、初めて質問に立った。
1990年12月1日、イラクにおいて「平和の祭典」を行うことを発表し、関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダードへ入った。このイベントの開催後に、人質状態にあった在留日本人と全人質が解放された。この勢いを元にその後行われた1992年7月第16回参議院議員通常選挙でも1議席を獲得(参議院会派で2議席目)した。
1994年1月4日、東京ドーム大会で全日本プロレス出身の天龍源一郎と初対戦し、一旦はチョークスリーパーで天龍を落とし失神させたが、最後は天龍にパワーボムで敗北した。なお、この試合は1年間テレビ中継されなかった。なお、天龍は勝利したにもかかわらず、会場では涙を流した猪木に対する猪木コールに圧倒され、「猪木さんに飲み込まれた。僕はまだまだだね。」と語った
落選
1994年に、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子(当初は公設第2秘書であったが第1秘書の猪木快守が借金問題で秘書を解雇され昇格)およびスポーツ平和党前幹事長の新間寿らが、「政治資金規正法違反の問題」、「賄賂の問題」、「右翼(日本皇民党)との癒着問題」、「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板問題」、「税金未納問題」、「女性問題(カンボジアで13歳の少女買春)」などを中心とした、いわゆる「猪木スキャンダル」をぶち上げた。新間にそそのかされたTBSは、新間の記者会見を急遽生中継までして放送した。
なお、少女売春などこのうちのいくつかは完全なねつ造であり、特に政治資金規正法違反については、東京地検捜査中に時効となり、処分はまぬがれた。税金未納問題については、世田谷区役所および国税から差し押さえ処分。(官報に記載)
この前後に、もう1人のスポーツ平和党所属の議員であった江本孟紀と党の運営を巡って対立。特に党運営に関わる金銭疑惑による猪木への不信感により、大きな亀裂が生じた。また釈明記者会見の際に、激高した猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度も強い批判を浴びた。また、東京佐川急便事件との関与も報じられた。
一連の「猪木スキャンダル」もあって、1995年の参議院選挙で落選。なお、同じ参院選挙では高田延彦が副党首を務めた「さわやか新党」も立候補したが、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。選挙後、江本は離党した。
引退
1994年5月1日に福岡ドームでグレート・ムタと対戦、フォール勝ちしたものの、この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、「 3、2、1…」とカウントがダウンせずにアップしたことが話題を呼んだ)。
1998年4月4日に東京ドームで行われた引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で、小川直也などと対戦し勝ち上がったドン・フライと引退試合で対戦、グランド・コブラで勝利し引退した。
引退の際のスピーチ[1]は、いまだに盛んに春一番らがものまねの対象にしている。
引退後
引退後はUFO、PRIDE、INOKI BOM-BA-YEの盛り上げ役や、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催していく。なお、2002年8月28日に行われた「Dynamite!」では、上空4,000メートル(夜間規制があったため発表は3,000メートル)からのスカイダイビングに挑戦。このスカイダイビングに猪木は10億円の保険を懸けていた。
国立霞ヶ丘陸上競技場への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。2003年12月31日に日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。
2005年11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。
IGF設立
2006年4月にはアメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任し、同年9月には、IFL参戦のため東京サーベルズを結成し監督に就任する。同9月には自らが企画し、モハメド・アリの娘や猪木の娘(サイモン猪木の妻)などが参戦を表明した格闘技イベント「INOKI GENOME 〜格闘技世界一決定戦〜」の開催延期を発表するなど、試行錯誤を繰り返していたが、2007年3月、新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足させ、自身が社長となると共に6月に旗揚げ戦を行った。なお、同時期に娘婿であるサイモン・ケリー猪木も新日本プロレス社長を辞職、IGFへ合流した。
また、2007年7月11日、交友のあるTRIPLE-Pと“TRIPLE-P vs. アントニオ猪木”を組み、アントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売した。道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれているプロモーションビデオにも出演しDJプレイしたりサンプラーを叩いたりする。
2007年12月20日の有明コロシアムの小川直也対安田忠夫戦の試合終了後、レフェリーの制止をも聞き入れず暴れまわる小川直也を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。
プロレス
主な戦績
- 1960年9月30日、デビュー戦で大木金太郎(金一=キム・イル)に逆腕固め負け。
- 1966年11月19日、ジョニー・バレンタインと対戦し、勝利。US王座獲得。
- 1967年10月31日、ジャイアント馬場と組み、ビル・ワット、ターザン・タイラー組に勝利。インターナショナル王座獲得。
- 1969年12月2日、NWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアに挑戦、ノーフォールのまま60分時間切れ引き分けとなる。
- 1971年3月2日、ジョン・トロス戦に勝利。UNヘビー級王座を獲得。
- 1972年10月4日、カール・ゴッチと対戦、勝利世界ヘビー級王座を獲得。
- 1973年10月13日、坂口征二と組み、カール・ゴッチ、ルー・テーズ組と90分3本勝負で対戦、2-1で勝利。
- 1973年12月10日、ジョニー・パワーズと対戦。NWF世界ヘビー級王座獲得。
- 1974年3月19日、NWF世界ヘビー級選手権試合でストロング小林と対戦、大物日本人同士の対決が話題となる。ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利。
- 1974年4月26日、坂口征二と初対戦。30分1本勝負で時間切れ引き分け
- 1974年6月26日、タイガー・ジェット・シンと対戦し、相手の腕を折る(折ったと思わせる演出)。
- 1974年10月10日、NWF世界ヘビー級選手権試合で大木金太郎と対戦、13分13秒でバックドロップからフォール勝ち。
- 1975年12月11日、ビル・ロビンソンの挑戦を受けてNWF選手権、60分時間切れ引き分け。
- 1976年2月6日、ミュンヘンオリンピック柔道無差別級金メダリストウィレム・ルスカと初の異種格闘技戦。バックドロップ3連発で勝利。
- 1976年6月26日、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオン モハメド・アリと対戦、時間切れ引き分けに終わる。(アントニオ猪木対モハメド・アリ参照)
- 1976年10月7日、アンドレ・ザ・ジャイアントと格闘技世界一決定戦を戦いレフェリーストップで勝利。
- 1977年8月2日、空手のWKA世界スーパーヘビー級チャンピオンであった、ザ・モンスターマン(エベレット・エディ)と対戦、KO勝ち。
- 1979年8月26日、プロレス夢のオールスター戦で、ジャイアント馬場と組み、タイガー・ジェット・シン、アブドーラ・ザ・ブッチャー組と対戦、シンを逆さ押さえ込みに仕留めて勝利。
- 1979年11月30日、ボブ・バックランド戦に勝利。日本人初、WWFヘビー級王座獲得(王座はのちに返上)。
- 1980年2月27日、極真会館所属のウィリー・ウィリアムスと対戦、ドクターストップの無効試合となる。
- 1980年9月25日、スタン・ハンセンと対戦、逆ラリアートでフォール勝ち。
- 1982年11月4日、ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇と1対3変則マッチで対戦、寺西、浜口からフォールを奪うも木村にリングアウト負け。
- 1983年5月27日、第1回IWGP決勝リーグ戦で前田日明(当時は前田明)と(唯一のシングル)対戦、フォール勝ち。
- 1983年6月2日、第1回IWGP決勝戦でハルク・ホーガンと対戦、アックスボンバーによりリング外に転落し頭を打ちKO負け。
- 1983年11月3日、維新軍との4対4綱引きマッチで谷津嘉章と対戦、フォール勝ち。
- 1984年6月14日、第2回IWGP決勝戦で前年優勝したハルク・ホーガンに挑戦、2度の延長戦や長州が乱入するもののリングアウト勝ち。
- 1985年4月18日、ブルーザー・ブロディと対戦、両者リングアウト。
- 1985年12月12日、'85IWGPタッグリーグ戦決勝戦で坂口征二と組み、藤波辰巳、木村健吾組と対戦、藤波のドラゴン・スープレックスで敗北。
- 1986年2月6日、UWF代表の藤原喜明と対戦、疑惑の急所蹴りがあるものの勝利。
- 1986年6月17日、アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、世界初のギブアップ勝ち。
- 1987年3月27日、大阪城ホールでの「INOKI闘魂LIVE Part2」のマサ斎藤戦に海賊男が乱入。観客が暴動を起こす。
- 1987年10月4日、マサ斎藤と「巌流島の戦い」を行う。2時間5分14秒の死闘の末勝利。
- 1987年12月27日、たけしプロレス軍団の刺客、ビッグバン・ベイダーと対戦し、2分49秒で敗れる。再三のカード変更と猪木の敗北に観客が、大阪城ホールに続き暴動を起こす。
- 1988年7月22日、長州力と対戦、フォール負け。
- 1989年4月24日、「格闘衛星闘強導夢」と釘打ち、プロレス初の東京ドーム大会でショータ・チョチョシビリと異種格闘技戦。裏投げを食らい、左肩を脱臼し(異種格闘技戦初の)敗北。
- 1989年5月25日、大阪城ホールで再戦し、ギブアップ勝ちを収めている。
- 1990年2月10日、坂口征二と組み、蝶野正洋、橋本真也組の挑戦を受ける形で対戦し、結果は蝶野からフォール勝ち。この試合で初めて「1、2、3、ダー!」を披露。
- 1992年1月4日、馳浩と対戦、卍固めで勝利。
- 1994年1月4日、天龍源一郎と対戦、パワーボムで敗れる。
- 1994年5月1日、福岡ドームでグレート・ムタと対戦、フォール勝ち。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まる。
- 1998年4月4日、「ファイナルイノキトーナメント」を勝ち上がったドン・フライと引退試合で対戦、グランド・コブラで勝利。
通算成績
- シングル戦 - 611勝41敗50分
- タッグ戦 - 1466勝104敗130分
獲得したタイトル
- NWAタッグ
- WC世界タッグ
- NWA北米タッグ王座
- USヘビー級
- インターナショナル・タッグ王座
- 世界ヘビー級(カール・ゴッチ所有)
- NWFヘビー級
- アジアタッグ王座
- WWF格闘技ヘビー級
- WWFヘビー級王座
- IWGPヘビー級王座
- UWA世界ヘビー級
- NWAテキサスヘビー級
- NWA世界タッグチーム王座
- UNヘビー級王座
得意技
フィニッシュ・ホールド(必殺技)
- コブラツイスト(アバラ折り:アブドミナル・ストレッチ)
- 主に日本プロレス時代で頻繁に使用した技。ジャイアント馬場など他のレスラーが使い始めたあたりから必殺技としての説得力が薄れ、卍固めをフィニッシュとして使うようになるが、猪木のコブラツイストは他人を滅多に褒めることの無かったブルーザー・ブロディも絶賛していた。
- 卍固め(オクトパス・ホールド)
- アントニオ猪木の代名詞的な技。コブラツイストに代わる新しい必殺技として使用し始め、卍固めという名前は一般公募により名づけられた。別名アントニオスペシャル。相手の体に絡みついた上体と顔を同時に挙げ、相手を絞り上げる鬼気迫る表情は、下記リバース・インディアン・デスロックと並ぶ「様式美」の境地である。
- 延髄斬り(バック・ブレイン・キック)
- 運動中枢であり、人体の急所である延髄をジャンプして蹴る技。これも猪木の代名詞的な技である。
- バックドロップ(岩石落とし)
- 猪木はルー・テーズ式の"ヘソで投げる"と表現されるバックドロップの使い手である。
- ジャーマン・スープレックス・ホールド(原爆固め)
- 日本プロレス時代にカール・ゴッチから体得した技。ストロング小林戦で放ったときは投げの勢いがつきすぎてブリッジの際に足が一瞬浮き上がり、首だけで身体を支える形になった(この時のジャーマンはオールスタープロレスリングで必殺技として収録されている)。全盛期のブリッジの美しさには定評がある。
- ブロックバスター・ホールド
- ルー・テーズとのNWF戦でフィニッシュとして使用した。
主に晩年に使用された技
- グランドコブラ
- コブラツイストの体勢からグランドに移行し、フォールを取るか関節を決め、ギブアップを奪う技。引退試合のフィニッシュ・ホールドとなった。
- スリーパーホールド(裸絞め)
- 頸動脈を絞めて相手をギブアップさせる技で、「魔性のスリーパー」の異名を持つ。UWFとの対抗戦で、藤原喜明を締め落としてから使い出した(その頃からスリーパーホールドを極めると、観客から「落とせ」コールが起きるようになった)。決め技として説得力を持ち出したのは国会議員になった後からで、それ以前は繋ぎ技のひとつであった。相手を失神させるほどの威力があると言われている[誰?]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。猪木が使用していたいわゆる「魔性のスリーパー」はチョークスリーパーに近いものであった。
- 一部では“チョークスリーパー”と呼ばれているが、プロレスではチョーク攻撃は禁止されており、これは実況アナウンサー辻よしなりの完全な誤認であると、解説(当時)のマサ斎藤も言っている。
伝説の技・その他
- アーム・ブリーカー(腕折り)
- モハメド・アリとの試合の丁度2年前、1974年6月26日大阪府立体育会館猪木のベストバウトの1つに上げられる試合、NWFヘビー級選手権試合で、相手のタイガー・ジェット・シンに多用し腕を折った荒業(演出であった可能性大)。相手の手首を自分の肩越しにつかみ、二の腕から腕の付け根にかけて自分の肩に強打する、テコの原理を利用した技。「なんで逃げないの?」への答えは、「掌を押え、肘の関節を外に開く方向で力を加えているから、逃げようとするともっと痛い」。
- アントニオ・ドライバー(フロント・ネック・チャンスリー・ドロップ)
- 東京プロレス時代にのみフィニッシュとして使用していた投げ技で、腰を酷使するため使われなくなったと言われている[誰?]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。
- アリキック
- モハメド・アリとの異種格闘技戦で使用したためアリの名がつけられた蹴り技。自ら仰向けになり相手の脚の側面や裏側を蹴るこの技は、ボクシングとの異種格闘技戦におけるルールの盲点をついた効果的な攻撃であった(立ったまま、或いは「スライディングキック」で相手の脚を蹴るバージョンもあり)。アリの脚は試合後、紫色に腫れあがり、ホテルのエレベーターでがっくりと膝をついた、との挿話あり。以降は相手の足を狙ったローキックは、猪木が繰り出すとアリキックと呼ばれるようになる。
- リバース・インディアン・デスロック
- うつ伏せにした相手の交差させた足を極める技。自分の片足を相手の交差した両足に入れながら、そのまま後ろへ受身を取りダメージを与える。両手を叩きながら観客を煽り、派手に後ろへ倒れこむ様は、歌舞伎でいうところの大見得であり、アントニオ猪木が逆襲に転じる際の大きな見せ場の一つとなっている。倒れこんだ状態で相手のアゴを手で捉えブリッジする「鎌固め」に移行することも多い。また、足を絡めた状態から「変形弓矢固め」に移行するパターンもある。
- ナックル・パート
- 勢いよく振りかぶった拳を相手の顔面(主に額)に叩き込む技。技を出すときは、片手で相手の髪の毛を掴みつつ何度も繰り出すため、相手の額が割れることもある。拳骨はプロレスにおいて反則技だが、アントニオ猪木が激高した際に繰り出す定番の技で、レフェリーも猪木が使用するから、という理由で黙認していた(5カウント以内の反則であるため)。拳を固め、中指のみ突出させて相手の額に打ち付けることもある。別名「鉄拳制裁」、「弓を引くストレート」。弓を引くように思い切り振りかぶる様子から、「ナックルアロー」と呼ばれることもある。
- ドロップキック
- 助走無しで至近距離から蹴るのを得意としていた。全盛期には3回連続で使うこともあったが決め技としての効果は当然無く、試合中盤から反撃の口火を切る際に用いることが多かった。日本プロレス時代は背面とびが多かったが、新日本プロレス時代ではスクリュー式を多用した。
- ニー・ドロップ
- 通常は寝ている相手に対して膝から落ち、ダメージを与える技だが、猪木の場合はトップロープから飛び降り、寝ている相手の顔、または反対方向を向いている相手の後頭部に膝蹴りを繰り出す。トップロープに登り、相手の身体に降下するまでの一連のムーブに無駄がなくスピーディであり、そのためか避けられることはまずない。アンドレ・ザ・ジャイアント戦や北朝鮮興行におけるリック・フレアー戦などが有名。
骨法技
- 浴びせ蹴り
- 「竜巻蹴り」とも称される。骨法の技の一つとされており、レオン・スピンクス戦前の骨法特訓にて習得。マッハ文朱や前田日明が得意とした縦回転ニールキックと混同される事が多いが、軸足を残してバランスを取るニールキックとは、両足を離して宙に浮く点が大きく異なる。のちにシングルマッチでこの技を食らった天龍源一郎が、我流のアレンジを加えてこの技を継承している。
「燃える闘魂」
新日本プロレス設立後〜現在に至るまでのキャッチフレーズは「燃える闘魂」、これは当時テレビ朝日プロレス中継アナウンサーの舟橋慶一の命名である。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」、由来は不明。
「イノキボンバイエ」
「イノキボンバイエ」のフレーズを持つ入場曲『炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜』は、元々モハメド・アリの伝記映画『アリ・ザ・グレイテスト』の曲であったが、猪木と対戦したアリが、猪木に贈りアレンジしたものとされる(実は新間寿がアリ側に頼み込んで無理矢理そういう事にしてもらった)。ちなみに「ボンバイエ」とは、「Boma ye(ボマ・イェ)」(リンガラ語:“彼を殺せ!”。“やっちまえ”程度の意味)が訛ったもの。アリがコンゴの首都キンシャサでジョージ・フォアマンと戦った際の声援が由来とされる。猪木の弟子で、「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれる藤田和之は、オーケストレーション・バージョンを入場曲とする。
2006年韓国のヒップホップ・グループSide-B(サイドビー)が「SB BOMBA YE」としてラップ風にカバー、2007年にDJ OZMAが同曲を「疾風迅雷〜命BOM-BA-YE〜」として再カバーした。
猪木の弟子たち
- 猪木の最初の弟子は藤波辰爾であり、日本プロレス時代の付き人であった。
- 猪木を慕って来た者の中にはその後袂を分かったケースも少なくない。前田日明(猪木の関係する旧UWFへエースとして参加→崩壊)、佐山聡(旧UWF→シューティング→UFO→決裂)、高田延彦(「PRIDE」で共闘するも後に絶縁)、いわゆる闘魂三銃士(武藤敬司=全日本プロレスへ移籍、橋本真也=ZERO ONE設立)などである。
- 現在、猪木を頼りにしている者は安田忠夫や藤田和之、星野勘太郎等。
寛水流空手
寛水流空手(かんすいりゅうからて)は、1982年2月27日に空手家・水谷征夫とアントニオ猪木が創設したフルコンタクト空手の団体。その名称はアントニオ猪木の本名である猪木寛至の「寛」と水谷の「水」を取って命名された。現在は正式名称を「NPO法人 世界寛水流空手道(せかいかんすいりゅうからてどう)」として東海地方を中心に活動している。
寛水流空手発足の経緯
『いつ何時誰の挑戦でも受ける』と表明したアントニオ猪木に対して、安藤昇の小説『東海の殺人拳』のモデルとして知られる空手家・水谷征夫が『ルールの無い命をかけた戦い』を申し入れた。
その申し出を猪木は承諾し、具体的な話が進められた。なお、「ルールの無い命をかけた戦い」とはプロレスと空手のいかなる技も自由とし、急所攻撃さえ禁止しない、勝負は生死をもって決するというものである。
水谷が鎌、サイ、トンファーなど琉球古武術の達人でもあったことから、猪木の素手に対して鎖鎌で戦いを挑んだといわれているが、これは完全な誤りである。 素手に対して武器を持った相手の挑戦を猪木が受けるはずが無いのは明らかである。また、鎖鎌は日本本土の忍者が日本刀を持った相手に対して鎖の先に分銅を付け、振り回しながら刀を絡め取り、相手の首を鎌でしとめるために創案した武器であり、沖縄には存在しない(琉球古武術に使われる武器は農具を源流としており、農耕用の鎌を使った二丁鎌の型があるが、鎖鎌が使われることはない)。
この試合は両者で一旦は合意され、当時マスコミに「昭和の巌流島」として取り上げられた。猪木有利の予想の中、新間寿は水谷の実力を冷静な目で判断していた。そして、テレビ放映のスポンサーがつかなかったことと、水谷の貫手による目への攻撃や蹴りによる急所攻撃によって猪木に万一のことがあることを恐れた新間の必死の仲裁により、直前で中止された。
交渉の過程で水谷は猪木に対して、プロレス界のスターでありながら、一空手家の挑戦をリスク覚悟で承諾した姿勢に尊敬の念を抱く。また、猪木は、自らの命をかけて戦いを挑んでくる日本人がいることに驚嘆する。戦いを前に鋭く対立した二人であったが、その後交流を深め寛水流空手を創設した。水谷は1990年に死去したが、訃報を知った猪木は、盟友の早すぎる死に涙したという。 寛水流出身のプロレスラーには後藤達俊、松永光弘などがいる。
政治
略歴
- 1989年に「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。同年に行われた第15回参議院選挙に比例区から出馬し初当選し、史上初のレスラー出身の国会議員(=参議院議員)となり、猪木チャリティーテレホン(ダイヤルQ2)など様々な政治活動を行った。
- 東京スポーツは "レスラー・猪木" と "参議院議員・猪木" で扱いを分けていた。「猪木」と呼び捨ての記事にした場合はレスラー・アントニオ猪木、「猪木さん」「猪木氏」と書いた場合は参議院議員・猪木寛至についての記事。
- ソ連邦から勇利アルバチャコフ・オルズベック・ナザロフをはじめとするアマチュアボクシングのトップ選手を親交の深い金平正紀率いる協栄ボクシングジムに預け日本でプロデビューする道を拓いた。
- 湾岸戦争前夜にイラクにおいて行ったイベントにより、人質状態にあった在留日本人と全人質の解放に貢献。なお、北朝鮮でもイベント「平和の祭典(リック・フレアーと対戦し勝利を収めている)」を開催した。
- 1992年7月に実施された第16回参議院議員通常選挙には、比例代表候補として元阪神タイガースのプロ野球解説者江本孟紀を擁立。当選し参議院会派で2議席目を獲得。
- 猪木は第8代自民党総裁・清和政策研究会初代会長の福田赳夫に可愛がられ、福田の実弟の福田宏一が猪木の格闘家としての後援会会長を務め、また福田の愛弟子で第19代自民党総裁・清和会第4代会長森喜朗とも親交が深い。
- 二階堂進は日本プロレスリングコミッション(新日本プロレス・国際プロレス)のコミッショナーも勤めていた。1985年、新国技館(両国国技館)の新日本プロレス使用を、前年の蔵前国技館でのファンの暴動騒ぎ(IWGPリーグ戦第二回大会決勝戦の項を参照)から相撲協会が貸し出しを渋った際には、仲介の労をとった。
- いわゆる「猪木スキャンダル」によって、1995年の参議院選挙で落選する。
- 同年に突如江本副代表から党の運営を巡って対立する。特に党運営に関わる金銭疑惑による猪木への不信感は2人の関係に大きな亀裂を生じてしまう。江本孟紀副代表は離党し無所属になってしまい、元公設第1秘書(借金問題で一度は解雇された)だった、実兄である猪木快守(テノール歌手・パブロ猪木)が党首(代表)に就任。
- その後スポーツ平和党は主立った政治活動を行わなくなり、2007年3月には公式サイトを閉鎖。既に政治団体解散届を総務大臣に提出している。
イラク在留邦人人質解放までの真相
1990年湾岸戦争が危惧される中、イラクのサダム・フセイン大統領は、在留外国人を国外出国禁止(事実上の人質)とした。その中に多くの日本人が含まれており、安否が気遣われていたが、外務省主導による、人質解放交渉は遅々として進まなかった。
解決の糸口さえ見えない外務省の人質交渉に痺れを切らした猪木があることを決断する。それは被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント"スポーツと平和の祭典"を行う為、バグダードに向かうと言うものだった。
猪木に対して外務省はイラク行きを止めるよう説得するもこれを拒否、すると今度は人質被害者家族に対し圧力を掛け「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任を持てない。そんな所に行くことはまかりならん、もしどうしても猪木議員とイラクに行く場合は、……それはあなた方も含めて命の保証が無いと言う意味です。」と猛烈に反対した。イラク邦人人質被害者家族(あやめの会)は悩んだ末に、外務省が動かないために、猪木に全てを託す事にしたのである。
1990年11月、猪木は日本の各航空会社にイラクへの出航を要請したが、外務省の強い圧力もあり、他のいずれの航空会社も拒否してきたことでイラクへの直行便の計画は暗礁に乗り上げた。やむなく猪木は、園遊会の会場で当時の駐日トルコ特命全権大使に懇願したところチャーター機の費用を猪木個人が負担することが条件で、トルコ大使の仲介によりトルコ航空の協力でバグダード入りが可能となる。
1990年12月1日、平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダード入りを果たす。この時サダム・フセイン大統領は、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたという。
イラクでのスポーツと平和の祭典は邦人人質を中心に人質被害者家族とイラク人観衆が会場を中心に向き合う中で始まり、12月2日、3日の両日に渡り、ロックコンサートと、日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント、そして最後にプロレスが行われ無事終了し平和の祭典は成功を収める一方、イベント開催中に家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。
焦りと落胆の中、帰路に着くべく機中に着いた時、フライト直前の猪木にイラク政府から「大統領からお話があります」と告げられ急遽猪木だけ飛行機を降り、この結果まず12月5日在留邦人の解放が決まり、7日には人質全員の解放が決定する。
猪木はかつて新日本プロレスのパキスタン遠征において、格闘技の英雄アクラム・ペールワン[3]と対戦し腕を折るなどして勝利を収めると一躍国民的一大事になり、同行した妻の倍賞美津子と共に猪木が国王と並んで国民に挨拶をする姿が当地のマスメディアで大きく紹介されるなど、猪木はアラブ諸国において英雄として扱われていた事が、イラクへの入国と人質解放に向かわせた大きな要因と言える。
これらの背景には、反米感情を背景に米国ブッシュ大統領との対決姿勢を強める中、イラク国民に敬虔なイスラム教徒を強くアピールしていたサダム・フセインは、英雄的存在であり同じイスラム教徒(一時猪木がイスラム教徒に改宗していた)である猪木の扱いを通じてイスラム諸国や国王の支持を取付けたいとの政治的思惑があったとされる。
東京都知事出馬と撤退
1991年東京都知事選挙に、かつてNHKのニュースキャスターだった磯村尚徳が出馬を表明した後に出馬を表明したが、マスコミから「なぜ出馬したのか?」と聞かれ猪木が「彼(磯村)には、かつて『ニュースセンター9時』でアリとの試合を茶番扱いされたので」と答えた。
その後スポンサー佐川急便会長や福田赳夫に説得され、出馬を断念し磯村と政策協定結んだ。出馬断念に至る裏には、数千万円の現金が動いたとの証言があり、東京スポーツの激闘の永田町にスクープを書いた菊池久を名誉毀損で民事提訴し、マスコミを賑わせたが、判決は領収書の所在が不明との判断で金銭授受を否定して菊池側の敗訴となる。
地裁判決には、猪木と新間寿も出廷していたが、判決後には猪木が菊池久に対して『もう少しうまく話し合いが出来ればねえ』と余裕の表情で語っていた。
参議院落選まで
1995年参議院出馬するが、1993年に佐藤久美子元公設第1秘書とスポーツ平和党前幹事長新間寿に告発された「政治資金規正法違反の問題」「賄賂の問題」「右翼(日本皇民党)との癒着問題」「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板問題」「税金未納問題」、「女性問題」などスキャンダルが発覚。政治資金規正法違反については、時効となり、処分はまぬがれたがこの影響により落選。TBS・フジテレビ・日本放送は、新間寿の記者会見を急遽生中継までして放送した。
数多くのスキャンダルに対して猪木本人は完全否定したが、マスコミから「なぜちゃんと反論しないのか」と聞かれ猪木は「めんどくせえ!!」の一言で終わらせた。
なお、TBSは、新間の記者会見を急遽生中継までして放送した。これも「仕掛け人」の異名を持つ新間の手によるものと言われている[誰?]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。
新間はその記者会見で、「女性の方は耳を塞いでください。」と言って、「アントニオ猪木のPKO、それはパンパン、来い来い、オマンコやろう。」と放送禁止用語を生中継にもかかわらず発言し物議を醸す。
その後佐藤はオーストラリア在住の日本人と結婚永住。現在は現地IT企業勤務。
事業
猪木の旺盛な野心はリング内に収まらず、多くの事業に挑戦している。ただし成功を収めたものはほとんど無い。数多くの事業の大半はブラジルに関係する事が多く、アントンハイセルに私財を投げ打ってまで事業を進める事に対して夫人(倍賞美津子=当時)は新間寿(新日本プロレス営業本部長=当時)に「なぜそこまでしてブラジルに拘るのか」と聞いた程である。下記のように、猪木はプロレスだけに止まらず、様々な事業に手を広げているが、本人は「(事業欲が旺盛であった)力道山と祖父の影響が大きい」と述べている。かつて「さんまのまんま」に出演した際、明石家さんまに対して「さんまさん預金いくらあるの?うまい儲け話があるけど投資してみない?」と語っていたが、さんまはやんわりと拒否している。
「アントン・トレーディング」
「アントン・トレーディング」という貿易会社を設立。この会社は一時日本国内でのタバスコ(マキルヘニー・カンパニー)の販売権を持っていたことがあるが、別件で借金を抱えたため手放している。当時はまだタバスコは一般的ではなく、その後激辛ブームや宅配ピザが広まり需要が大幅に伸びた。また、「タバスコを最初に日本に持ち込んだのは猪木」という話を勝俣州和がTV番組・ダウンタウンDXの中で話したこともあるが、確認された事実とはいえない。
「アントン・フーズ」
スペアリブのレストランチェーン「アントンリブ」を展開する他に、健康食品などを販売していた。そのほかにも「アントンマテ茶」やスナック菓子「ひまわりナッツ」を販売。ワールドプロレスリングの番組内で古舘伊知郎アナウンサーが宣伝したが、販売実績は振るわなかった。
「アントン・ハイセル」
ブラジル政府を巻き込んだ国際的な大プロジェクト「アントン・ハイセル」(1980年に設立)は、猪木自身にとって生涯最大の事業であった。これは、ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすを有効活用法として考案された事業で、当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをエネルギーとして使用する計画を進めており、現代で言うところのバイオテクノロジー系ベンチャービジネスの先駆けである。このアントンハイセルを開始するにあたって、猪木は自民党の大物議員に「アントン・ハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」と言って協力を呼びかけたが断られ逆に辞めるように言われたが、猪木はこの一大事業に傾倒して行く。
この一大プロジェクトとも言える計画に、解決しなければならない大きな問題が発生する、それは弊害としてサトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りかす(バカス)が公害問題となった。そこで家畜に飼料として食べさせるが、直ぐに下痢を起こしてしまう。また、土中にバカスをそのまま廃棄すると、土質を悪化させる為、その土地では農作物が取れなくなるなどの弊害が生じる結果になってしまう。
それでも猪木は世界の食料危機問題に対応すべく、バカスの再生飼料を食べた家畜の糞を有機肥料として、農業生産の向上と家畜の増産を目指すも、結局は日本とブラジルの気候の違いから発酵処理に失敗する。さらに追い討ちをかけるように、ブラジル国内のインフレが原因で生産コストはさらに悪化の一途を辿る。
これらの原因により、現代のエコプロジェクトの先駆けであり国家的事業であったにもかかわらず、経営は数年で破綻する。およその負債額は数十億円とも言われ[誰?]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。、テレビ朝日から数億円(12億円との説も)の肩代わり(後に、株券と引き換えに佐川清=佐川急便会長に債権を移動)してもらうがそれだけでは補えず、遂には新日本プロレスの収入の大半を補てんしてしまう。しかしこれがアダとなり新日本プロレスではタイガーマスク(初代佐山聡)や長州力などスター選手をはじめ13名もの選手が大量離脱するなど当時クーデターと言われた騒動は、やがて社長解任劇に発展する。山本小鉄などの動議により経営の責任を取らされる形で、猪木寛至代表取締役社長と坂口征二副社長は解任されテレビ朝日の社員が役員に就任したが、混乱の終結と共に数か月後に復帰する。
なお、ブラジルではサトウキビからエタノールを抽出して燃料とする事業は環境対策や原油価格高騰などから、内容が見直され積極的に行われている。現在はようやく事業化のめどがついたといわれるが、アントン・ハイセルは既に猪木の手を離れている。
「永久機関」
INP技術研究所の名誉会長となっている。同社は「永久電気」用発電機を開発していたが、途中から「高効率モーター」に変化している。研究開発には莫大な資金を投じ、新日本プロレスの経営にも悪影響を及ぼした。
かつてマスコミ関係者(スポーツ新聞やプロレス雑誌の編集者)を集めて永久電気の発表会を開いた事があったが、実験は失敗に終わった。猪木の弁明は「ネジを一本締め忘れた」というものであった。
「アントニオ猪木酒場」
東京・池袋に2006年、居酒屋「アントニオ猪木酒場」を開店した。「午後八時のプロレスを見ながら食べたメニューを再現する」がうたい文句の居酒屋で、店内は古きよき昭和の時代をイメージし、常時プロレスが放送されている。なお実際の店舗運営は、IGFのスポンサーでもあり、焼肉屋さかいなどを傘下に収める外食産業大手のジー・コミュニケーションが行っており、猪木は経営には関与していない。ジー・コミュニケーションでは同ブランドのフランチャイズ展開を進めているが、沖縄店・仙台店・千葉店が既に閉店するなど展開は順調とはいえず、2009年6月現在店舗数は4店舗(池袋・新宿・広島・福岡)にとどまっている。
その他
「サンダリッパ」や「とうふパン」のプロデュースも手掛けた。
エピソード
プロレス
- 日プロ入門当初、ジャイアント馬場は付き人を経験せずにすぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたという完全に特別扱いだったが、猪木はその全く正反対で、力道山からはまるで目の仇のように厳しく育てられた。例えば、力道山にリングシューズを履かせる際、ちょっとした紐の掛け違いでも殴られたり蹴飛ばされたりしたほどであった。
- 「ほうきを相手に試合をできる」程の卓越したプロレス・センスを持ち、過去に『ハンマープライス』内で素人と対戦したり、力道山メモリアル内で滝沢秀明と対戦している。なお『ハンマープライス』で猪木との試合権を購入したのは諸富祥彦明治大学文学部教授である。リングネームは「ゾンビー諸富」であった。
- 「延髄斬り」は海外マットでもenzuigiriと呼称され、名詞として定着している。
- 猪木は力道山の生前に馬場と16回対戦したが、16戦全敗で、馬場には一度も勝てなかった。
- 袂を分かってからジャイアント馬場を執拗に敵視し挑発してきたが、私生活ではホテル(キャピトル東急など)で馬場に会った際、「どーもどーも」と笑顔で握手に行き食事に勝手に同席した上、会計を馬場にまかせて去っていったなどの逸話が残されており、公私は別にしていた。馬場も挑発には乗らなかったが(そもそも馬場は「猪木をライバルと思ったことはない」と生涯語っていた)、新日本のNWA加盟に対して妨害工作を行うなど、内心ではかなり猪木を意識していたと考えられる。
- 引退後もプロレス・格闘技のイベントや試合の開催案を不定期で発表するが、実現せずに終わることも多い(実現しても大赤字に終わってしまうケースが多い)。「できるかどうかは関係ない。まず発表してしまうこと。それでいろいろ周りを巻き込んで 実現へと向かわせればいい。それがオレのやり方」と、交渉の前に発表するという方法を使う。この方法は新日本プロレスおよびその派生団体で今も使われ続けている。当然のことながら名を挙げられた選手、所属団体のフロントなどからの反発も大きい。
- かつて「誰の挑戦でも受ける」とコメントしていたが、新日本に復帰した前田日明の挑戦は受けなかった。因みに前田との対談で、前田に「なぜシングルで戦ってくれなかったんですか?」と聞かれ、笑いながら「逃げてたから」と答え、それを聞いた前田も笑っていた。また闘魂三銃士のうちシングルで戦ったのは武藤(グレート・ムタ)のみであった。
- 猪木は引退の時、「後継者は前田と思っていた」とコメントした。しかし前田自身は猪木のことを心良くは思っておらず、かつてインタビューで猪木のことを「格闘界に老人が徘徊しとるやんけ」と痛烈に批判している。
- 成田空港で渡航前後に記者会見を行い、今後の自分の動向や、プロレス・格闘技界に意見を言う「成田会見」が定番である。
- 力道山は、角界と関係修復を計る際、『猪木を一度大相撲に入門させ、十両になったらプロレスに復帰させる』と言う計画を持っていたが、猪木自身はこの事を知らなかった。
アゴ
その特徴的な尖ったアゴは猪木を猪木たらしめており、コンプレックスでしかなかったそのアゴをやがては武器にまで昇華させてしまった。藤原喜明は「スリーパーをされると尖ったアゴが肩に食い込み非常に痛かった」と語っている。モハメド・アリとの対戦前の記者会見で、アリから「ペリカン野郎」とそのアゴをバカにされるが、猪木は「オレのアゴは尖っているからそれだけ強い」と、自分のアゴをアピールした。金的と並び鍛えようのない急所である喉元をガードしている、という意味でも武器であることは、本人も認めている。
顎の形が花王の「月のマーク」に似ていることから、若手時代には「花王石鹸」というあだ名で呼ばれていたこともある。また、アメリカでタッグを組んだ事があるヒロ・マツダは、「猪木のアゴはジャーマン・スープレックスの際に相手の背中に引っ掛かって邪魔になるから、綺麗なジャーマン・スープレックスにはならない」と語った事がある。
「猪木信者」
- 力道山も馬場も、その支持者は「ファン」であるが猪木のファンは「猪木信者」である。猪木信者の代表的な人物は春一番、桑田佳祐、森岡隆三、和田竜二、石橋貴明、岡野雅行など多数に上る。信者は猪木の事を「会長」と呼ぶのが特徴。森岡は、サッカーアジア杯で優勝した際に「1!2!3!ダァ〜!」を行っていたが、その姿を見た彼の妻に「今度猪木のマネをしたら、離婚する」とまで言われたという。和田はテイエムオペラオーで宝塚記念を勝った時には「ダァ〜!」(1!2!3!は無し)を、同年の有馬記念では「1!2!3!ダァ〜!」を行った。桑田佳祐は、サザンオールスターズのライブの際、ライブ終了後に「1!2!3!ダァ〜!」をやるのがかつてのお約束であった。また、ダァ〜!ばかりか桑田はライブが佳境を迎え盛り上がると、何度となくアゴを突き出しファイティングポーズを取っていた。
- 竹内睦泰は『これだけは知っておきたい 世界の宗教 知識と謎 80』において、「イノキイズム」を「わが国において、宗教を超え、もっとも信仰を集めている思想」と評価している。
闘魂ビンタ
- 国会議員当時、早稲田予備校での講演(題目「五月病に卍固め」)で、予備校生のパンチを腹部に受ける余興を行った。その中の予備校生一人は、実は少林寺拳法の有段者であり、力を込めて殴った。この不意打ちに準備できなかった猪木は反射的に予備校生にビンタを打ってしまった。国会議員による暴力事件ともとれるが、予備校生は猪木ファンであり、ビンタを受けた直後に「ありがとうございました」と一礼したことで事なきを得た。この様子は、テレビ中継されており、全国に流れた。その後、縁起が良いと東大受験生が受験前に猪木にビンタをお願いし、全員合格を果たした。このことから、縁起ものの『闘魂ビンタ』が生まれた。その後も有名になり、女性の有名人までもテレビ番組中に闘魂ビンタ(近年は「闘魂注入」と表されるケースが多い)をねだるまでになっているが、2006年のテレビ番組で語ったところによると、最近は闘魂ビンタをあまりやりたくないとのこと。
ポエム
- 詩(ポエム)を作るのが趣味で詩集も出版した。プロレス界きっての「ポエマー」として知られている。
- 「この道を行けば…」という詩[1]を自らの引退試合で引退メッセージとしてファンに贈った。これは以後新日本プロレスの道場訓となった。このセリフは後のMr.Childrenの楽曲、『one two three』の最後の部分にほぼ原文のまま収録されている。
その他
- 日系ブラジル人と今でも勘違いされているが、自伝で「私は生粋の日本人だ」と強調。実際公表されたのは力道山の死後となる。
- テレビ番組にて司会者から身長を聞かれ、「昔は189位あったんですけど、今はちょっと縮んで186位」と答えている。公称身長は191cm。
- 1986年にアントニオ猪木と倍賞美津子の娘である猪木寛子がミュージカル『アニー』のアニー役で主演をつとめている。現在、猪木寛子は新日本プロレス前社長のサイモン・ケリー猪木の妻である。
- よく大量の氷を入れた水風呂に入る。のちに猪木自身が語ったところによるとこれは「糖尿病で血糖値が上がった際、氷風呂に入り全身の筋肉をガチガチと痙攣させ血糖を消費させるため」だったらしい。医師は「とんでもないことだ」と驚愕し、「普通の人間は真似してはいけない」と語っている。
- 「愛読書は朝日新聞」と語っている。
- ある日古舘伊知郎に1万円を借りたがその事を忘れてしまった。当時若手だった古舘にとって1万円は高額であったが、相手は大スターであり中々言うに言えず困っていた。ところがある日、猪木は急にその事を思い出し「いや〜、ごめんごめん」と30倍にして返した。
- 「1! 2! 3! ダー!」は商標登録されている(登録商標としての表記は「1・2・3・ダァーッ」)。この登録商標を使ったラーメンが「1・2・3・ダァーッ麺」という名で発売されている。ちなみに猪木の「1! 2! 3! ダー!」が商標登録されている事は2004年3月3日のフジテレビの『トリビアの泉』で紹介された。なお、「ボンバイエ」、「猪木イズム」、「闘魂」も商標登録されている。
- キューバとパラオにアントニオ猪木の名前がつけられた「猪木アイランド」と呼ばれる無人島を所有している。2島とも政府から贈られたものであり、猪木は休暇の際に利用しているという。
- 渡米時代アメリカ人の女性リンダと結婚し1児をもうけるが死亡している。その後、女優の倍賞美津子と1億円の結婚式を挙げて当時の話題になった。離婚後、現在の22歳程離れた妻と3度目の結婚をしている。
- 1984年発表(1983年度)のいわゆる長者番付でプロスポーツ部門で1位(納税額8,268万円)になる。
- 力道山はエンターテイメント施設「リキパレス」を建設。猪木は若い時から付き人として夜遊びのお供をしていた。猪木はロサンゼルスからニューヨークに住居を引っ越し、そして最近では日本を拠点に興行活動を再開したが、その為か夜遊びが多い。猪木の場合はやはり銀座、赤坂、六本木が夜の主戦場で何軒もハシゴをして遊んでいるのが確認されている。
- テレビの生放送で猪木が「ブスには気をつけろ!! ブスッと刺されるからな」と言って出演者を慌てさせた事があった。
- 笑っていいとも!にゲスト出演した時、「1! 2! 3! 抱っこしたい!」と言って坂下千里子を抱こうとしたらビックリして逃げられた。その時の猪木は少しうなだれていた。
- 圓鍔勝三が熱心なプロレスファンだったことが縁で空襲で焼失した東京の池上本門寺の仁王像再建の際、モデルを依頼され快諾。数十枚の写真撮影を行いこれをもとに仁王像が作られた。仁王像は近年修復され、本殿に安置されている。
- ホームレスの人たちに食べ物を配るなどしてボランティア活動も積極的に行っている。自身も「俺はアメリカにしか家がないから日本ではホテル住まいだ。実質、日本ではホームレスだな」と語っている。
- 大好物は函館漁港に水揚げされたイカ。
猪木語録
- いくぞー! 1! 2! 3! ダーッ!
- 元気ですかーっ!
- 馬鹿ヤロー!
- 元気があれば何でもできる!(元々はステーキレストラン店長の標語から拝借)
- 馬鹿になれ!(IGF設立時にはその後に"しかし紳士たれ"が付加されていた)
- いつ何時、誰の挑戦でも受ける
- 私のアゴの筋肉は鍛えられています
- たとえ時に試合を休むことがあっても激しいいい試合を見せる方が大事だと思うから、おめでとうとは言わない(馬場がデビュー以来3000試合無欠場記録を達成した時の談話。もっとも、猪木は馬場と組んでインターナショナル・タッグの防衛戦が組まれていたのを雪で会場入りできずに穴を開けたことがある)
- 俺の首をかっきってみろ!
- 紙一重の差
- こんなプロレスを続けていたら10年持つ選手生命が1年で終わってしまうかもしれない。ただ、それがファンに対してのわれわれの義務ですから(1974年、ストロング小林戦の試合後に)
- ちょっと早い大掃除(1984年9月長州力、谷津嘉章選手などの大量離脱で)
- 両国の皆さん聞いてくれー!(1987年6月12日両国国技館で)
- その気で来るなら俺は受けてやるぜー!手前ぇらの力で勝ち取ってみろ、コノヤロー!(世代闘争勃発)
- 神のお告げ(記者に物事の理由を聞かれた時に良く使われる)
- 折れ!折れ!(足4の字固めをかけられながら、ポイントを指で指しながら)
- 坂口? 片手で3分だよ(それを聞いた坂口は、「俺は片手じゃなくて両手で1分だ!」答えた。)
- 相手の力を9引き出して10の力で勝つ(いわゆる“風車の理論”)
- 極める角度が違う、逆だよ(藤原喜明との試合中、藤原の関節技をかけられながら)
- 出る前に負けること考えるバカいるかよ![2]
- 道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ!
- やれるのか、おい!
- どーですか!(「どーですか、お客さん!」は井手らっきょのネタであり、猪木自身は実際に「お客さん」とは言っていない)
- 命がけで勝負します。誰でもかかって来い! その代わりテメーも覚悟して来い!
- 今、俺は人生のホームレスをやっております
- 俺の心はオープン24時間!
- 蝶野には力があるから…チョウノー力(超能力)
- 何でもアリ(有り)のモハメッド
- 秋は行ってしまったけれど、高田の妻は向井亜紀
- お前はそれでいいや(リング上で中西学に「お前は何が許せないんだ?」と問い「全日本プロレスに行った武藤です!」と答えたことに対して)
- 俺は触ってねーですから(新日の興行がこけた際)
- 私をミスター・タバスコと呼んでください
- どうってことねえよ(多額の負債を背負った際)
- 花が咲こうと咲くまいと、生きていることが花なんだ
- ルールを守れ! 殺すぞ!
- 猪木が笑えば世界が笑う
- 出ればタイソン、戻ればヒクソン
- 子供に夢を持たせたければ 大人こそ夢を持て
- 俺は仙人
その他
- DREAM競馬-2008年の菊花賞、オープニングに登場。京都競馬場で観客と「1・2・3ダー」をした。
- 日刊スポーツ東海・関西版(東海地方・北陸地方・近畿地方・山口県以外の中国地方・四国地方向けの新聞)コラム・「猪木のコトバ」(水曜日テレビ面)
CM
- 陶陶酒本舗 陶陶酒(日本プロレス時代に出演)
- エースバッグ 企業イメージCM
- 日本ハム ジャンボフランク
- OSGコーポレーション 低周波治療器「リズムタッチ」
- サントリー 缶コーヒー「BOSS」
- 久光製薬 エアーサロンパスEX
- ロッテ モナ王
- ポッカコーポレーション ポッカコーヒー顔缶
- ABCマート 企業イメージCM
パチンコ・パチスロ
- パチンコ
- パチスロ
- アントニオ猪木という名のパチスロ機(2002年・平和)
- アントニオ猪木自身がパチスロ機(2003年・平和)
- アントニオ猪木も燃えるパチスロ機(2007年・平和)
2006年秋にフィールズが猪木に関するパチンコ・パチスロの商品化権独占使用許諾契約を結んだため、「CR燃える闘魂〜」以後の機種はフィールズから販売されている。
ものまねをする人物
他
関連項目
- プロレスラー一覧
- 猪木アリ状態
- 東京スポーツ新聞社「激闘の永田町」著者/菊池久
- 森山愛子(アントニオ猪木が芸名の名付け親)
- カリスマ
- イスラーム
- 遠くへいきたい
- 餓狼伝(グレート巽のモデルとされるのが猪木)
外部リンク
脚注
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