堀悌吉
堀 悌吉 | |
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生誕 |
1883年8月16日 日本 大分県国東半島速見郡杵築町(現・杵築市) |
死没 |
1959年5月12日(75歳没) 日本 東京都世田谷区世田谷 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1905年 - 1934年 |
最終階級 | 海軍中将 |
除隊後 |
日本飛行機社長 浦賀船渠社長 |
堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日 - 1959年〈昭和34年〉5月12日)は、日本の海軍軍人。海軍中将。大分県杵築市出身[1]。
先輩の米内光政、同期生の山本五十六、後輩の井上成美からの信頼が厚く、山本権兵衛、加藤友三郎らの系譜を継ぎ海軍軍政を担うと目されていたが、軍縮会議後の大角人事により中将で予備役に編入される。東條内閣の海相・嶋田繁太郎が、「堀が開戦前に海軍大臣であれば、もっと適切に時局に対処できたのではないか」と述べているように[2]、その才幹を惜しまれた人物である。また"戦争自体は悪である"との持論であった[3]。
人物・来歴
八坂字生桑の矢野弥三郎の次男として生まれる。母はタマ。10歳で杵築煙硝倉の士族・堀正治の養子となる[4]。
大分県立杵築中学校から海軍兵学校(32期)入校。席次は入校時190名中3番、卒業時192名中首席。同期生の山本五十六、2期後輩(34期)の古賀峯一は遠慮のない親友の間柄であった。堀は同期生が"神様の傑作のひとつ堀の頭脳"と述べたほどの秀才で兵学校、海軍大学校甲種、海軍砲術学校普通科学生を恩賜で卒業した。また芸術をよく好んだという。「三笠」乗組として日本海海戦に参戦。ワシントン軍縮会議では随員を務め、全権・加藤友三郎を補佐。「国防は軍人の専有物にあらず」という加藤の言葉を筆記したのが堀である。
1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議において、補助艦の比率は米英に対し7割は必要という艦隊派の意見が海軍部内では根強かった。軍務局長であった堀は、英米に対しては不戦が望ましいという意見をもち、会議を成立させるべきという立場で次官の山梨勝之進を補佐した(条約派)。結局は米国と日本の妥協が成立し、日本は対米比6割9分7厘5毛でロンドン海軍軍縮条約に調印した。しかし艦隊派が台頭する海軍内で堀の立場は弱くなり、海軍中央から遠ざけられることになった。第3戦隊司令官、第1戦隊司令官を歴任し1933年(昭和8年)に海軍中将に昇進したが、翌1934年(昭和9年)、艦隊派が主動したいわゆる大角人事により予備役に編入された。このとき山本五十六は「(日本海軍にとって)巡洋艦戦隊(条約の7割に足りない分、つまり重巡での対米7割と6割の差をこのように表現した)と堀の頭脳の、どちらが重要か分かっているのか」と嘆き、自らも海軍を退くことを考えたという。しかし堀は山本を励まし思いとどまらせた。1936年(昭和11年)1月、政府は堀が尽力したロンドン海軍軍縮条約からの脱退を通告する。日本は太平洋戦争の一因にもなった無期限軍備拡張の時代に突入した。
退職した1935年(昭和10年)には生家に帰り、「矢野氏系伝記」を著述。1936年(昭和11年)には日本飛行機社長、1941年(昭和16年)には浦賀船渠株式会社[5]の社長に就任した[6]。
戦後は公職追放指定を受けた。数社の役員、顧問等となり1952年(昭和27年)に追放指定は解除された。
述志
堀は山本が書き、その死後開封された「述志」二通を保管していた。この二通は堀が著書で内容を公開していたが、原本自体は不明であった。しかし堀の孫が大分県立先哲史料館へ寄贈した堀の遺品から発見され、2008年(平成20年)12月1日に公表された。この二通は1939年(昭和14年)5月31日と1941年(昭和16年)12月8日付けである。
年譜
- 1883年(明治16年)8月16日 - 大分県速見郡杵築町(現在の杵築市)生
- 1901年(明治34年)
- 1904年(明治37年)11月14日 - 海軍兵学校卒業。海軍少尉候補生。「韓崎丸」乗組。日露戦争勃発に拠り遠洋航海中止。近海航海限定
- 1905年(明治38年)
- 1906年(明治39年)
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)
- 1909年(明治42年)
- 1910年(明治43年)
- 1911年(明治44年)12月15日 - 横須賀鎮守府附軍法会議判士
- 1913年(大正2年)1月10日 - フランス駐在陸海軍観戦武官
- 1914年(大正3年)12月1日 - 任海軍少佐
- 1915年(大正4年)
- 1918年(大正7年)
- 1919年(大正8年)12月1日 - 任海軍中佐
- 1921年(大正10年)9月27日 - ワシントン軍縮会議全権随員
- 1922年(大正11年)
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)
- 1925年(大正14年)
- 1926年(大正14年)
- 1927年(昭和2年)
- 4月26日 - 兼ジュネーブ海軍軍縮会議全権随員
- 7月13日 - 帰朝
- 12月1日 - 戦艦「陸奥」艦長
- 1928年(昭和3年)12月10日 - 任海軍少将・第2艦隊参謀長
- 1929年(昭和4年)9月6日 - 海軍省軍務局長兼将官会議議員
- 1930年(昭和5年)4月2日 - レジオンドヌール勲章受章(コマンドゥール)
- 1931年(昭和6年)
- 11月2日 - 軍令部出仕
- 12月1日 - 第3戦隊司令官
- 1932年(昭和7年)11月15日 - 第1戦隊司令官
- 1933年(昭和8年)1月15日 - 任海軍中将・軍令部出仕
- 1934年(昭和9年)
- 1936年(昭和11年)11月4日 - 日本飛行機取締役社長就任
- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年)1月10日 - 大日本兵器取締役就任
- 1945年(昭和20年)
- 1947年(昭和22年)11月28日 - 公職追放令該当指定
- 1951年(昭和26年)1月24日 - 新海軍再建委員会顧問
- 1952年(昭和27年)2月25日 - 公職追放令該当解除
- 1959年(昭和34年)5月12日- 東京世田谷で死去。享年76。墓所は東京世田谷豪徳寺、及び故郷大分県杵築市八坂生桑生家裏山に分骨
栄典
- 1905年(明治38年)10月4日 - 正八位[7]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 従七位[8]
- 1909年(明治42年)12月20日 - 正七位[9]
- 1924年(大正13年)1月21日 - 従五位[10]
主要著述物
- ロンドン軍縮会議と統帥権問題
映像作品
テレビドキュメンタリー
初回放送日 2014年8月11日【出演】半藤一利 【朗読】坂東三津五郎
(前編)「真珠湾への道」 21:00~21:50 (後編)「遺された手紙」 22:00~22:49
登場する映画
- 聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-(2011年 堀-坂東三津五郎 山本-役所広司)
- この空の花 長岡花火物語(2011年)
脚注
- ^ “山本五十六の遺髪、親友の遺品から見つかる 「非戦」訴えた堀中将との固い絆”. 西日本新聞 (2018年10月18日). 2021年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月2日閲覧。
- ^ 池田清『海軍と日本』(中公新書)p83
- ^ 宮野澄『海軍の逸材 堀悌吉』光人社NF文庫p45
- ^ 杵築市誌編集委員会『杵築市誌 本編』2005年
- ^ “住友重機械工業株式会社 平成29年3月期 有価証券報告書 4頁、第一部「企業情報」第1「企業の概況」2「沿革」”. 住友重機械工業 (2017年6月29日). 2018年2月24日閲覧。
- ^ 杵築市誌編集委員会『杵築市誌 本編』2005年
- ^ 『官報』第6682号「叙任及辞令」1905年10月5日。
- ^ 『官報』第7329号「叙任及辞令」1907年12月2日。
- ^ 『官報』第7949号「叙任及辞令」1909年12月21日。
- ^ 『官報』第3423号「叙任及辞令」1924年1月23日。
参考文献
- 堀 悌吉資料集・上下巻(芳賀 徹監修・水交会)
- 不遇の提督 堀 悌吉 山本五十六、井上成美が尊敬した海軍の逸材の生涯 (宮野 澄著・光人社) ISBN 4-7698-0535-7 C0095 ISBN 4-7698-2120-4 C0195
- 高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井篤・豊田隈雄編・中央公論新社) ISBN 4-12-490040-6 C0320
- 山本五十六(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300415-0 C0093
- 平川祐弘「軍人の栄辱――日本における国家主義と国際協調主義」、『西欧の衝撃と日本』(人類文化史6)講談社 1974年、講談社学術文庫、1985年10月 ISBN 4061587048 所収
- 米内光政(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300413-4 C0093
- 井上成美(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300414-2 C0093
- 高木惣吉日記と情報・上下巻(みすず書房) ISBN 4-622-03506-5 C3031
- 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代資料研究会編・東京大学出版会)
- 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)
- 海軍兵学校出身者名簿(小野崎誠 編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)