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:「竜巻蹴り」とも称される。[[骨法]]の技の一つとされており、[[レオン・スピンクス]]戦前の骨法特訓にて習得。[[マッハ文朱]]や[[前田日明]]が得意とした縦回転二ールキックと混同される事が多いが、軸足を残してバランスを取る二ールキックとは、両足を離して宙に浮く点が大きく異なる。のちにシングルマッチでこの技を食らった[[天龍源一郎]]が、我流のアレンジを加えてこの技を継承している。
:「竜巻蹴り」とも称される。[[骨法]]の技の一つとされており、[[レオン・スピンクス]]戦前の骨法特訓にて習得。[[マッハ文朱]]や[[前田日明]]が得意とした縦回転二ールキックと混同される事が多いが、軸足を残してバランスを取る二ールキックとは、両足を離して宙に浮く点が大きく異なる。のちにシングルマッチでこの技を食らった[[天龍源一郎]]が、我流のアレンジを加えてこの技を継承している。

== 寛水流空手 ==
寛水流空手(かんすいりゅうからて)は、1982年2月27日に空手家水谷征夫氏とプロレスラーアントニオ猪木氏が創設したフルコンタクト空手の団体。 その名称はアントニオ猪木氏の本名である猪木寛至の寛と水谷の水を取って命名された。 現在は正式名称NPO法人世界寛水流空手道連盟(せかいかんすいりゅうからてどうれんめい)として東海地方を中心に活動している。

=== 寛水流空手発足の経緯 ===
『いつ何時誰の挑戦でも受ける』と表明した[[アントニオ猪木]]氏に対して、沖縄松林流空手東海支部長であった[[水谷征夫]]氏が『ルールのない命をかけた戦い』を申しいれた。
その申し出を猪木氏は承諾し、具体的な話が進められた。
交渉の中で、水谷氏は猪木氏に対して、プロレス界のスターでありながら、一空手家の挑戦をリスク覚悟で承諾した姿勢に尊敬の念を抱く。また、猪木氏は、自らの命をかけて戦いを挑んでくる日本人がいることに驚嘆する。
この話は当時『昭和の巌流島』とマスコミに取り上げられた。その渦中で新日本プロレスの新間氏はこの試合を中止するように二人に嘆願する。
『戦国時代ならいざ知らず、命がけの果し合いだけは中止してください。勝ち負けは時の運、猪木が死ねばプロレス界の損失、水谷さんが死ねば空手界の損失。どちらか勝った方もまともな体ではいられません。どうか新間に免じて格闘技界発展のために手を取り合ってください。』
二人の男は考えた結果 試合を取りやめる決断をする。命がけの戦いを前に対峙した二人には格闘家としての友情が芽生えたのである。
そして二人は寛水流を創設する。

初代会長は[[水谷征夫]]、名誉会長は[[アントニオ猪木]]。






2007年9月29日 (土) 16:27時点における版

アントニオ猪木
プロフィール
リングネーム アントニオ猪木
本名 猪木寛至
ニックネーム 燃える闘魂
アントン
身長 191cm
体重 102kg
誕生日 (1943-02-20) 1943年2月20日(81歳)
出身地 神奈川県横浜市
スポーツ歴 陸上競技
トレーナー 力道山
豊登
カール・ゴッチ
デビュー 1960年9月30日
引退 1998年4月4日
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アントニオ猪木(アントニオいのき、英語表記:Antonio-Inoki、1943年2月20日 )は、神奈川県横浜市鶴見区出身の元プロレスラー、元参議院議員。本名は猪木 寛至(いのき かんじ)。血液型はAB型。身長191cm、体重102kg。新日本プロレス創始者でオーナー。愛称はアントン

今日の日本のプロレス格闘技の歴史を語る上で(猪木自身は、プロレスと格闘技を区別することを嫌っているが)、力道山ジャイアント馬場と並んで欠く事の出来ない存在であり、多くの世界のプロレスラー・格闘家に影響を与えている存在である。1995年には北朝鮮で、「スポーツと平和の祭典」を開催している。北朝鮮政府によると、この大会では2日間で38万人の観客を動員した。

プロフィール

生い立ち

横浜市鶴見の石炭問屋を営む裕福な一家に生まれる。猪木5歳の時に父親は死去。第二次世界大戦後、エネルギー源が石炭から石油に変わったこともあって実家の石炭問屋は倒産し、14歳の時に母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り(長兄は同行せず。祖父は渡航中に毒性のあるまだ青いバナナを食べて死去)、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。

ブラジル移住

ブラジルへ移住した最初の1年半は、農場であまりにも過酷な労働を強いられた。コーヒー豆などを収穫する作業が中心だったが、作業のたびに手の皮がずる剥けになり血まみれになっていたという。1年半の契約だったため逃げることはできなかった。他の農場の脱走した者たちの中には牧場主に射殺された者もいたという。あまりにも過酷なため、作業が終わり与えられた電気も通っていない小屋に戻り着替えるためにTシャツを脱ぐと、Tシャツに染みこんだ汗の塩分のため、Tシャツが固まって立ったほどだったという。猪木の精神力はこのブラジルでの生活で強く培われたと言える。

力道山からのスカウト

その後、現地の砲丸投げ大会に出場、優勝した際、たまたまブラジル遠征に来ていた力道山の目に留まる。これが猪木の人生を大きく変えた運命的な出会いとなる。この時、力道山に「日本に行くぞ」とスカウトされてプロレス界入りした。猪木はこの出会いを振り返り、「本当に自分は運がいい」と今でも語っている。

リングネームは、先輩レスラー豊登道春による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、単にブラジル帰りを強調するため洋風な名前にされたということらしい(本人曰く「アントニオという名前は日本で鈴木や佐藤という名前が多いようにブラジルではありふれた名前」とのことであるが、実は苗字ではなくファーストネームであり日本でいえばひろしやたけし)。まだリングネームが決まる前に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山によりその名をつけられそうになったが、猪木自身はそれが気に入らず、その名前を付けるのであればやめるとまで言ったとの逸話もある。

また力道山は猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた。これは南米での興行を成功させる布石でもあり、弟子入りのために帰国した際には「日本語は話せますか?」と記者に問われた。その記事を見た横浜在住時の猪木の幼馴染が日本プロレスの道場を訪ね、「お前は横浜にいた猪木だろ?」と質問したが、猪木は「違う」と貫き通した。猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山が亡くなった後である。

「燃える闘魂」

キャッチフレーズは「燃える闘魂」、これは当時テレビ朝日プロレス中継アナウンサーの舟橋慶一の命名である。初めてのアメリカ武者修行時代のリングネームは「リトル・トーキョー・トム」(ロサンゼルスにある日本人街と同名)。

「イノキボンバイエ」

イノキボンバイエ」のフレーズを持つ入場曲『炎のファイター』は、元々モハメド・アリの伝記映画『アリ・ザ・グレイテスト』の曲であったが、猪木と対戦したアリが、猪木に贈りアレンジしたものとされる(真相は猪木のマネージャー新間寿がアリ側にお願いして無理矢理そういうことにしてもらった)。ちなみに「ボンバイエ」とは、「Boma ye(ボマ・イェ)」(リンガラ語:彼を殺せ!)が訛ったもの。アリがコンゴの首都キンシャサジョージ・フォアマンと戦った際の声援が由来とされている。

得意技

得意技は卍固めコブラツイスト延髄斬り。選手としての晩年ではスリーパーホールドを多用した(一般に“チョークスリーパー”と呼ばれているが、プロレスではチョーク攻撃は禁止されており、これは実況アナウンサー辻よしなりの完全な誤認であると、解説(当時)のマサ斉藤も言っている)。

来歴

  • 1943年2月20日、誕生。横浜市鶴見区生麦町1687番地(現在の鶴見区岸谷3丁目)で育つ。
  • 1957年、一家でブラジルへ移住(渡航中、祖父が腸閉塞により死亡)。ブラジルへ移住してからは砲丸投げなどの陸上競技で活躍し、その身体能力をいかんなく発揮する。なお陸上部の前にバスケットボール部に入っていた。ただし「うまくないから」という理由で辞めたらしい。
  • 1960年4月11日、ブラジルへ立ち寄った力道山によりその才能を見出されスカウトされ、そのまま日本へ帰国し日本プロレスに入団。同年9月30日、東京の台東体育館にて大木金太郎とデビュー戦を行った(敗北)。デビューはジャイアント馬場と同日である。
  • 1964年、アメリカへ武者修行へ赴く(この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった『リトル・トーキョー・トム』)が、2年後に帰国。かつて日本プロレス社長であった豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、豊登と東京プロレスを旗揚げする。猪木はエースとして扱われ、ジョニー・バレンタインとの一戦は昭和プロレス史に残る名勝負となって一躍猪木の名を有名にした。しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱体、豊登の横領などにより急速に業績が悪化、3ヶ月で東京プロレスは破産し、最終的に古巣である日本プロレスに戻ることになる。
  • 復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、NETが日本プロレス中継を開始すると日本テレビとの取り決めで馬場の試合が日テレの独占とされた関係上、NETの日本プロレス中継のエースという格になり、UNヘビー級王座を獲得する。しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決はタブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど日本プロレスとの度重なる確執から1971年に追放処分を受ける。なお、その直前の同年11月、女優の倍賞美津子結婚している(1987年離婚)。

1971年日本プロレスを追放され新団体を設立

  • 1972年1月26日、今日に至る新日本プロレス旗揚げを発表。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であったが、世論は日本プロレス支持から次第に新日本プロレス支持に移り、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築く。
  • 新日本プロレス設立当初は、有力な外国人プロレスラーを多数招聘することが難しかったため、流血遺恨試合、釘板デスマッチなどの際物的な試合も多かった。その後、無名の外国人を使い続けて育て上げる一方で、WWFとの提携により多数の外国人スターを呼べるようになった。
  • 新日本プロレスにおいて、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」というストロングスタイルを標榜。その後のプロレスのスタイルに大きな影響を与える。最強の証明のため、“熊殺し”の空手家ウイリー・ウイリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け後年の総合格闘技の礎を築いた。中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本ではそのアリ戦は昼間の生中継と、同日のゴールデンタイム19時からNETテレビ(現テレビ朝日)にて録画中継という2度放送された。(アントニオ猪木対モハメド・アリ参照)
  • 1980年に村松友視の『私、プロレスの味方です』が発表される。観客自身の想像力によりプロレスを過激にヒートアップするベクトルを示唆した本書にストロングスタイルの教祖であった猪木は当然反発すると見られたが「過激なプロレス」を標榜、新路線を開拓する。純粋にプロレスラーの技術や試合内容を楽しむ事に主眼が置かれた時代もあったが、1970年代における青少年層がプロレスを愛憎奏であう現実の人間社会として捉える事に対して素直に理解を示した(または、村松の「私的観戦」を便宜主義で利用した)結果、会場における熱狂的ムーブメントがそれまでのプロレス文脈を全てを飲み込む結果となる。後日、プロレスライターのターザン山本は『私、プロレスの味方です』は、時代を変えたとまで書いている。しかし、旗を揚げた猪木自身にも、観客にも以降の方向性が見出せなかったために、「新日本プロレス」内部においては猪木自身の神格化でしかその終焉を迎えられなかった。
  • 1983年6月2日、自身の立ち上げた第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭であったハルク・ホーガンにロープ越しのアックスボンバーを受け疑惑の脳震盪による衝撃の失神完全KO負けを喫する。この頃から新日本プロレス内での世代交代の機運が高まってきた。
  • 1988年8月8日、猪木対藤波戦は、猪木負ければ引退か?と憶測が飛び交った試合であるが、この一戦の前には長州力の不意打ちのラリアットをくらいピンフォール負けするなど、先行きが危ぶまれる中でIWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜き、弟子の藤波辰爾が持つベルトに挑戦した。「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により、急きょ実況する設定の中行われた試合は、結果60分時間切れの引き分け。後に猪木がIWGPに挑戦した最後の試合となった。
  • 試合の模様はキー局のテレビ朝日が全国生中継で放送したが、試合の途中で、放送が終了していまい、クレームの電話が殺到した為か、その後の、久米宏のニュースステーションのスポーツコーナーで、試合結果を試合模様と共に放送した。意外にもスポーツ部が長年ワールドプロレスリングを担当して放送して来たにも拘らず、この番組でプロレスの試合結果を放送したのはこれが始めてである。
  • 1989年2月22日両国国技館で行われた長州力とのシングルマッチで、ラリアットの連打をくらい完璧なピンフォール負けを喫する。それまでは自分より若手の選手に負けた場合、休養あけで本調子でなかったとか、タッグマッチであったとか、過酷なリーグ戦の最中だったなどの理由が考えられたが、この試合はそうではなかった。猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。この後、政治家に転身している事から、この試合を事実上の"最後の第一線での試合"と見るファンは多い。

1989年政界進出を宣言

  • 1989年スポーツ平和党結成。
  • 第15回参議院選挙比例区で立候補し初当選。史上初のレスラー出身の国会議員(=参議院議員)となり、様々な政治活動を行った
  • 1989年10月14日福島県会津若松市で講演中に暴漢に刃物で襲われ左の頸部などを負傷、東京の病院に入院した。10月25日頭に包帯をし車椅子に乗った状態で、同一会派を組んだ民社党の配慮により、初めて質問に立った。
  • 1994年1月4日東京ドーム大会で、馬場の遺伝子を受け継ぐ天龍源一郎と全日本でもレフェリングの経験を持つタイガー服部レフリーにより、対戦する。チョークスリーパーで天龍を落とし失神させたが(レフェリーは反則(5秒以内なので厳密には反則に当てはまらないのだが・・・)技のためダウンカウントを拒否)、蘇生した天龍に最後はパワーボムで敗れる。この試合は1年間テレビ中継されなかった。このシングル対戦は1回のみで猪木はリベンジ戦は行わなかった。
  • 1995年第17回参議院選挙で落選。最大の敗因は、かつて猪木の愛弟子=付け人だった高田延彦が副党首のさわやか新党が参戦し違いを明確に出来なかった事。
  • 1998年4月4日東京ドームで引退するまで、議員(は途中で落選したが)とレスラーの二足の草鞋を続け、プロレスファンのみならず、そして日本国内外を問わずに、高い人気を獲得する。
  • 引退後はUFOPRIDEINOKI BOM-BA-YEの盛り上げ役や、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催していく。
  • 2002年8月28日に行われた「Dynamite!」では、上空3,000メートルからのスカイダイビングに挑戦。91,107人(主催者発表)の観衆が待つ国立霞ヶ丘陸上競技場への着地に成功した。
  • 2005年11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。
  • 2006年4月、アメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任。
  • 2006年9月、IFL参戦のため東京サーベルズを結成し監督に就任する。
  • 2006年9月、「INOKI GENOME ~格闘技世界一決定戦~」の開催延期を発表する。

 モハメッド・アリの娘や猪木の娘(サイモン猪木の妻)などが参戦を表明するも大会は中止になる。

得意技

フィニッシュホールド(必殺技)

コブラツイスト(アバラ折り:アブドミナル・ストレッチ)
主に日本プロレス時代で頻繁に使用した技。ジャイアント馬場など他のレスラーが使い始めたあたりから必殺技としての説得力が薄れ、卍固めをフィニッシュとして使うようになるが、猪木のコブラツイストは他人を滅多に褒めることの無かったブルーザー・ブロディも絶賛していた。
卍固め(オクトパス・ホールド)
アントニオ猪木の代名詞的な技。コブラツイストに代わる新しい必殺技として使用し始め、卍固めという名前は一般公募により名づけられた。今日でも、猪木を上回る使い手は現れていない。別名アントニオスペシャル。相手の体に絡みついた上体と顔を同時に挙げ、相手を絞り上げる鬼気迫る表情は、下記リバース・インディアン・デスロックと並ぶ「様式美」の境地である。
延髄斬り(バック・ブレイン・キック、エンズイギリ)
運動中枢であり、人体の急所である延髄をジャンプして蹴る技。これも猪木の代名詞的な技である。後年様々なアレンジが加えられたが、現在で猪木式の延髄斬りの使い手は棚橋弘至が代表例として挙げられる。
バックドロップ(岩石落とし)
猪木はルー・テーズ式の"ヘソで投げる"と表現されるバックドロップの使い手である。
ジャーマン・スープレックス・ホールド(原爆固め)
日本プロレス時代にカール・ゴッチから体得した技。ストロング小林戦で放ったときは投げの勢いがつきすぎてブリッジの際に足が一瞬浮き上がり、首だけで身体を支える形になったことからファンの間で話題になった(この時のジャーマンはオールスタープロレスリングで必殺技として収録されている)。全盛期のブリッジの美しさには定評がある。
ブロックバスター・ホールド
ルー・テーズとのNWF戦でフィニッシュとして使用した。

主に晩年に使用された技

グランドコブラ
コブラツイストの体勢からグランドに移行し、ホールを取るか関節を決め、ギブアップを奪う技。引退試合のフィニッシングホールドとなった。
スリーパー・ホールド(裸絞め)
頸動脈を絞めて相手をギブアップさせる技で、「魔性のスリーパー」の異名を持つ。決め技として説得力を持ち出したのは国会議員になった後からで、それ以前は繋ぎ技のひとつであった。相手を失神させるほどの威力があると言われている。猪木が使用していたいわゆる「魔性のスリーパー」はチョークスリーパーに近いものであった。

伝説の技

アーム・ブリーカー(腕折り)
モハメド・アリとの試合の丁度2年前、昭和49年6月26日大阪府立体育館猪木のベストバウトの1つに上げられる試合、NWFヘビー級選手権試合で、相手のタイガー・ジェット・シンに多用し腕を折った荒業(演出であった可能性大)。相手の手首を自分の肩越しにつかみ、二の腕から腕の付け根にかけて自分の肩に強打する、テコの原理を利用した技。「なんで逃げないの?」への答えは、「掌を押え、肘の関節を外に開く方向で力を加えているから、逃げようとするともっと痛い」。
アントニオ・ドライバー(フロント・ネック・チャンスリー・ドロップ)
東京プロレス時代にのみフィニッシュとして使用していた投げ技で、腰を酷使するため使われなくなったと言われている。
アリキック
モハメド・アリとの異種格闘技戦で使用したためアリの名がつけられた蹴り技。自ら仰向けになり相手の脚の側面や裏側を蹴るこの技は、ボクシングとの異種格闘技戦におけるルールの盲点をついた効果的な攻撃であった(立ったまま、或いは「スライディングキック」で相手の脚を蹴るバージョンもあり)。アリの脚は試合後、紫色に腫れあがり、ホテルのエレベーターでがっくりと膝をついた、との挿話あり。
リバース・インディアン・デスロック
うつ伏せにした相手の交差させた足を極める技。自分の片足を相手の交差した両足に入れながら、そのまま後ろへ受身を取りダメージを与える。両手を叩きながら観客を煽り、派手に後ろへ倒れこむ様は、歌舞伎でいうところの大見得であり、アントニオ猪木が逆襲に転じる際の大きな見せ場の一つとなっている。倒れこんだ状態で相手のアゴを手で捉えブリッジする「鎌固め」に移行することも多い。また、足を絡めた状態から「変形弓矢固め」に移行するパターンもある。
ナックル・パート
勢いよく振りかぶった拳を相手の顔面(主に額)に叩き込む技。技を出すときは、片手で相手の髪の毛を掴みつつ何度も繰り出すため、相手の額が割れることもある。危険な反則技だが、アントニオ猪木が激高した際に繰り出す定番の技。拳を固め、中指のみ突出させて相手の額に打ち付けることもある。別名「鉄拳制裁」、「弓を引くストレート」。を引くように思い切り振りかぶる様子から、「ナックルアロー」と呼ばれることもある。
ドロップキック
助走無しで至近距離から蹴るのを得意としていた。全盛期には3回連続で使うこともあったが決め技としての効果は当然無く、試合中盤から反撃の口火を切る際に用いることが多かった。

骨法技

浴びせ蹴り
「竜巻蹴り」とも称される。骨法の技の一つとされており、レオン・スピンクス戦前の骨法特訓にて習得。マッハ文朱前田日明が得意とした縦回転二ールキックと混同される事が多いが、軸足を残してバランスを取る二ールキックとは、両足を離して宙に浮く点が大きく異なる。のちにシングルマッチでこの技を食らった天龍源一郎が、我流のアレンジを加えてこの技を継承している。

寛水流空手

寛水流空手(かんすいりゅうからて)は、1982年2月27日に空手家水谷征夫氏とプロレスラーアントニオ猪木氏が創設したフルコンタクト空手の団体。 その名称はアントニオ猪木氏の本名である猪木寛至の寛と水谷の水を取って命名された。 現在は正式名称NPO法人世界寛水流空手道連盟(せかいかんすいりゅうからてどうれんめい)として東海地方を中心に活動している。

寛水流空手発足の経緯

『いつ何時誰の挑戦でも受ける』と表明したアントニオ猪木氏に対して、沖縄松林流空手東海支部長であった水谷征夫氏が『ルールのない命をかけた戦い』を申しいれた。 その申し出を猪木氏は承諾し、具体的な話が進められた。 交渉の中で、水谷氏は猪木氏に対して、プロレス界のスターでありながら、一空手家の挑戦をリスク覚悟で承諾した姿勢に尊敬の念を抱く。また、猪木氏は、自らの命をかけて戦いを挑んでくる日本人がいることに驚嘆する。 この話は当時『昭和の巌流島』とマスコミに取り上げられた。その渦中で新日本プロレスの新間氏はこの試合を中止するように二人に嘆願する。 『戦国時代ならいざ知らず、命がけの果し合いだけは中止してください。勝ち負けは時の運、猪木が死ねばプロレス界の損失、水谷さんが死ねば空手界の損失。どちらか勝った方もまともな体ではいられません。どうか新間に免じて格闘技界発展のために手を取り合ってください。』 二人の男は考えた結果 試合を取りやめる決断をする。命がけの戦いを前に対峙した二人には格闘家としての友情が芽生えたのである。 そして二人は寛水流を創設する。

初代会長は水谷征夫、名誉会長はアントニオ猪木



豆知識

プロレス

  • 日プロ入門当初、ジャイアント馬場は付き人を経験せずにすぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたという完全に特別扱いだったが、猪木はその全く正反対で、力道山からはまるで目の仇のように厳しく育てられた。リングシューズを力道山に履かせる際、ちょっとした紐の掛け違いでも蹴飛ばされたほど。
  • 「ほうきを相手に試合をできる」程の卓越したプロレス・センスを持ち、過去に『ハンマープライス』内で素人と対戦したり、力道山メモリアル内で滝沢秀明と対戦している。なお『ハンマープライス』で猪木との試合権を購入したのは諸富祥彦明治大学文学部教授である。リングネームは「ゾンビー諸富」であった。
  • 「延髄斬り」は海外マットでもenzuigiriと呼称され、名詞として定着している。
  • 袂をわかってからジャイアント馬場を執拗に敵視し挑発してきたが、私生活ではホテル(キャピトル東急など)で馬場に会った際、「どーもどーも」と笑顔で握手に行き食事に勝手に同席した上、会計を馬場にまかせて去っていったなどの逸話がのこされており、公私は別にしていた。馬場も挑発には乗らなかったが、新日本のNWA加盟に対して妨害工作を行なうなど、内心ではかなり猪木を意識していたと考えられる。
  • 全盛期の猪木が格闘技戦やIWGP構想などの壮大なイベントを構想した発想の原点は、NWA世界ヘビー級王者としてプロレスラーの頂点を極めた馬場への激しい対抗心…と見る説がある。特に莫大な借金をしてまでして地球規模のイベントとなったアントニオ猪木対モハメド・アリ戦を実現させた事から、一時期の猪木にとって馬場の存在は地球にも匹敵するようなものとする説も。
  • 元アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領イディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上したことがあり、1979年1月にアミンは猪木戦を承諾したものの、反体制派クーデターの影響でお流れになったことがある。
  • 引退後もプロレス・格闘技のイベントや試合の開催案を不定期で発表するが、実現せずに終わることも多い。「できるかどうかは関係ない。まず発表してしまうこと。それでいろいろ周りを巻き込んで 実現へと向かわせればいい。それがオレのやり方」と、交渉の前に発表するという方法を使う。この方法は新日本プロレスおよびその派生団体で今も使われ続けている。当然のことながら名を挙げられた選手、所属団体のフロントなどからの反発も大きい。これはジャイアント馬場がもっとも嫌った手法であり、旧全日系の馬場の弟子が猪木を嫌う理由と同じであり、ジャンボ鶴田・三沢光晴ともに新日系レスラーの筋を通さずマスコミを動かしてなしくずしにもっていく手法を嫌い、否定している。その悪影響を最も受けたのが故橋本真也であった。
  • かつて「誰の挑戦でも受ける」とコメントしていたが、新日本に復帰した前田日明の挑戦は受けなかった(実際には前田にも猪木とシングルで対戦できる機会はあった。しかし、UWF代表者決定リーグ戦は藤原喜明に、第4回IWGPリーグ戦ではディック・マードックに負けてしまい、猪木への挑戦権を失った。因みに前田との対談で、前田に「なぜシングルで戦ってくれなかったんですか?」と聞かれ、笑いながら「逃げてたから」と答え、それを聞いた前田も笑っていた。これは猪木のジョーク混じりの返答と見るのが妥当だろう)。また闘魂三銃士のうちシングルで戦ったのは武藤(グレート・ムタ)のみであった。
  • 猪木は引退の時、「後継者は前田と思っていた」とコメントした。しかし前田自身は猪木のことを心良くは思っておらず、かつてインタビューで猪木のことを「格闘界に老人が徘徊しとるやんけ」と痛烈に批判している。
  • 引退までの数試合を「INOKI FINAL COUNT DOWN」と銘打ったが、COUNT DOWN 1、2、3…とカウントがダウンせずにアップした。

アゴ

  • 猪木と言えばアゴ。その特徴的なアゴが猪木を猪木たらしめており、コンプレックスでしかなかったそのアゴをやがては武器にまで昇華させてしまった。実際藤原喜明は「猪木にスリーパーをされると尖ったアゴが肩に食い込み非常に痛かった」と証言している。モハメド・アリとの対戦前の記者会見で、アリから「ペリカン野郎」とそのアゴをバカにされるが、猪木は「オレのアゴは尖っているからそれだけ強い」と、自分のアゴをアピールした。金的と並び鍛えようのない急所である喉元をガードしている、という意味でも武器であることは、本人も認めている。顎のしゃくれ方が花王のマークに似ていることから、若手時代にはレスラー仲間の間で「花王石鹸」というあだ名で呼ばれていたこともある。また、USAでタッグを組んだ事があるヒロ・マツダは、ある時のインタビューで「猪木のアゴはジャーマンの際に相手の背中に引っ掛かって邪魔になるから、綺麗なジャーマンにはならない」と言った事がある。
  • かつて倍賞美津子(前妻)が猪木の顎の深さを図ろうと、寝ている間に口を開けて、中指と薬指の2本を入れてみたら全部入ってしまった。

「猪木信者」

  • 力道山も馬場も、その支持者は「ファン」であるが猪木のファンは「猪木信者」である。猪木信者の代表的な人物は春一番桑田佳祐森岡隆三和田竜二石橋貴明など多数に上る。信者は猪木の事を「会長」と呼ぶのが特徴。森岡は、サッカーアジア杯で優勝した際に「1!2!3!ダァ~!」を行っていたが、その姿を見た彼の妻に「今度猪木のマネをしたら、離婚する」とまで言われたという。和田はテイエムオペラオー宝塚記念を勝った時には「ダァ~!」(1!2!3!は無し)を、同年の有馬記念では「1!2!3!ダァ~!」を行った。桑田佳祐は、サザンオールスターズのライブの際、ライブ終了後に「1!2!3!ダァ~!」をやるのがかつてのお約束であった。また、ダァ~!ばかりか桑田はライブが佳境を迎え盛り上がると、何度となくアゴを突き出しファイティングポーズを取っていた。
  • 竹内睦泰は『これだけは知っておきたい 世界の宗教 知識と謎 80』において、「イノキイズム」を「わが国において、宗教を超え、もっとも信仰を集めている思想」と評価している。

闘魂ビンタ

  • 闘魂ビンタ誕生秘話:国会議員当時、早稲田予備校での講演(題目「五月病に卍固め」)で、予備校生のパンチを腹部に受ける余興を行った。実はこの予備校生は極真空手の有段者であり、力を込めて殴り、更に予期せず2発目を殴った。この2発目の不意打ちに準備できなかった猪木は反射的に予備校生にビンタを打ってしまった。国会議員による暴力事件ともとれるが、予備校生は猪木ファンだったらしく、ビンタを受けた直後に「ありがとうございました」と一礼したことで事なきを得た。この様子は、テレビ中継されており、全国に流れた。その後、縁起が良いと東大受験生が受験前に猪木にビンタをお願いし、全員合格を果たした。このことから、縁起ものの『闘魂ビンタ』が生まれた。
  • 闘魂ビンタ秘話続編:有名になり、女性の有名人までもTV番組中に闘魂ビンタ(近年は「闘魂注入」と表されるケースが多い)をねだるまでになっているが、2006年のTV番組で語ったところによると、最近は闘魂ビンタをあまりやりたくないようである。理由はバカの一つ覚えみたいに闘魂ビンタだけしか能がないと他人に思われることを避けたいという思惑によるものという。

ポエム

  • (ポエム)を作るのが趣味で詩集も出版した。プロレス界きっての「ポエマー」として知られている。
  • 「この道を行けば…」という詩[1]を自らの引退試合で引退メッセージとしてファンに贈った。これは以後新日本プロレスの道場訓となった。このセリフは後のMr.Childrenの楽曲、『one two three』の最後の部分にほぼ原文のまま収録されている(桜井和寿が、この歌に説得力を持たせるために入れたらしい)。

「猪木監禁事件」

  • 1982年漫画原作者梶原一騎暴力団関係者を使い、猪木を大阪ホテルの一室に呼び出し監禁する事件が起こった。当時週刊誌スポーツ新聞のみならず、テレビ全国紙でも大きく取り上げられるニュースとなった。原因は猪木が寛水流という空手の流派を設立したことに怒ったとされるが真相は不明。なお寛水流空手は、猪木に対し「ルールの無い命をかけた」果し合いを申し込んだ沖縄松林流空手東海支部長であった水谷征夫が、後にアントニオ猪木と二人で創設したものである。尚、「ルールの無い命をかけた」果し合いとは急所攻撃を禁止しない、勝負は生死をもって決するというものである。水谷が鎌、サイ、トンファーなど琉球古武術の達人でもあったことから、猪木の素手に対して鎖鎌で戦いを挑んだという説があるが、これは完全な誤りである。鎖鎌での挑戦を猪木が受けるはずが無いのは自明である。この試合は両者で一旦は合意されたが、水谷の貫手による目への攻撃や蹴りによる急所攻撃によって猪木が万が一傷つくことを恐れた、新間寿の仲裁により直前で中止された。ちなみに梶原の著書『わが懺悔録』によるとあの事件は、タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から支払われなくなっており、猪木も梶原を避けていたので全く連絡がつかなかった時にたまたまホテルで会ったので、部屋に招いてその件を問いただしただけで監禁恐喝は完全に冤罪である、とある。だが、梶原の他に同席者がいたことは否定しておらず、猪木に対して何らかの威圧をかけることができる人物、もしくはその様な「物」を手にした人物が存在したのは事実のようである。

政治

  • 1989年"スポーツを通じて国際平和”の合言葉で、スポーツ平和党を結成。第15回参議院選挙にも比例区から99万3989票を集めて初当選(キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」。また当時衆参両院共通で比例区は政党名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた無効票が大量に出た)。比例区で最後の一議席をギリギリまで争ったのも猪木らしかった。
  • アントニオ猪木が結成したスポーツ平和党(1989年設立)は、自身が初当選するとその勢いに乗って、1992年7月第16回参議院議員通常選挙に、比例代表候補として元阪神タイガースのプロ野球解説者江本孟紀を擁立し、見事当選し参議院会派で2議席目を獲得する。

党運営を巡って対立

  • 1995年突如江本副代表から党の運営を巡って対立する。特に党運営に関わる金銭疑惑による猪木への不信感は2人の関係に大きな亀裂を生じてしまう。
  • いわゆる猪木スキャンダルによって、1995年の選挙で落選する、江本孟紀副代表は離党し無所属になってしまい、元公設第1秘書(借金問題で一度は解雇されたはず・・・)だった、実兄である猪木快守テノール歌手・パブロ猪木)が党首(代表)に就任。
  • 東京スポーツ(大阪スポーツなど)は "レスラー・猪木" と "参議院議員・猪木" で扱いを分けていた。「猪木」と呼び捨ての記事にした場合はレスラー・アントニオ猪木、「猪木さん」「猪木氏」と書いた場合は参議院議員・猪木寛至についての記事。
  • 成田空港で渡航前後に記者会見を行い、今後の自分の動向や、プロレス・格闘技界に意見を言う「成田会見」が定番である。
  • また、猪木は自由民主党第8代総裁・清和政策研究会初代会長福田赳夫に可愛がられ、福田の実弟の福田宏一が猪木の格闘家としての後援会会長を務め、また福田の愛弟子で自民党第19代総裁・清和会第4代会長森喜朗とも親交が深い。
  • 二階堂進(自民党衆議院議員=田中派→二階堂グループ)は日本プロレスリングコミッション(新日本プロレス・国際プロレス)のコミッショナーも勤めていた。1985年、新国技館(両国国技館)の新日本プロレス使用を、前年の蔵前国技館でのファンの暴動騒ぎ(IWGPリーグ戦第二回大会決勝戦の項を参照)から相撲協会が貸し出しを渋った際には、仲介の労をとった。
  • 2007年3月公式サイト閉鎖。既に政治団体解散届を総務大臣に提出している。

国会議員

史上初のレスラー出身の国会議員(=参議院議員)となり、猪木チャリティーテレホン(ダイヤルQ2)など様々な政治活動を行った。


イラク在留邦人人質解放までの真相

  • 1990年湾岸戦争が危惧される中、イラクサダム・フセイン大統領は、在留外国人を国外出国禁止(事実上の人質)とした、その中に多くの日本人が含まれており、安否が気遣われていたが、外務省主導による、人質解放交渉は遅々として進まなかった、解決の糸口さえ見えない外務省の人質交渉に痺れを切らした猪木が動いた、それは被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント"スポーツと平和の祭典"を行う為、バッグダットに向かうと言うものだった。
  • 外務省は猪木に対しイラク行きを止めるよう説得するもこれを拒否、すると今度は人質被害者家族に対し圧力を掛け「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任を持てない。そんな所に行くことはまかりならん、もしどうしても猪木議員とイラクに行く場合は、・・・それはあなた方も含めて命の保証が無いと言う意味です。」と猛烈に反対した。
  • イラク邦人人質被害者家族は悩んだ末に、外務省ではなく猪木に全てを託す事にしたのである。
  • 1990年11月猪木は日本の各航空会社にイラクへの出航を要請したが、外務省の強い圧力により一度決まっていたフライトをキャンセルされると、他のいずれの航空会社も拒否してきたことでイラクへの直行便の計画は暗礁に乗り上げた。
  • やむなく猪木はユセフ・トルコに相談し、チャーター機の費用を猪木個人が負担トルコ航空によるトルコ経由でのバッグダット入りを決意する。
  • 1990年12月1日 そして平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバッグダット入りを果たす。
  • イラクでのスポーツと平和の祭典は12月2日、3日の両日に渡りイラク人観衆、邦人人質と人質被害者家族が会場を中心に向き合う中で始まり、ロックコンサートと、日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント、そして最後にプロレスが行われ無事終了し平和の祭典は成功を収める一方、イベントの間に家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。
  • 焦りと落胆の中、帰路に着くべく機中に着いた時、フライト直前の猪木にイラク政府から「大統領からお話があります」と告げられ急遽猪木だけ飛行機を降り、この結果まず12月5日在留邦人の解放が決まり、7日には人質全員の解放が決定する。
  • 各メディアは人質の解放の事実だけを伝えて、解放に至るまでの経緯や事の真相に触れるマスコミは殆ど無かった。

なぜイラクは解放に応じたのか?

  • イラクのサダム・フセイン大統領が、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたと言う。
  • 猪木はかつて新日本プロレスのパキスタン遠征において、格闘技の英雄アクラム・ペールワン[2]と対戦し腕を折るなどして勝利を収めると一躍国民的一大事になり、イスラエル国王と並んで国民に紹介されるなど猪木はアラブ諸国において英雄として扱われていた事が、イラクを解放に向かわせた大きな要因と言える。

東京都知事出馬と撤退

  • かつてNHKのニュースキャスターだった磯村が出馬を表明して、その後、アントニオ猪木が出馬を表明したがマスコミから「なぜ出馬したのか?」と聞かれ猪木が「彼(磯村)には、かつて『ニュースセンター9時』でアリとの試合を茶番扱いされたので」と答えた。
  • アントニオ猪木(参議院=当時)が都知事選に出馬を宣言したが、福田赳夫(元首相)に説得され、出馬を断念する。
  • 出馬断念に至る裏には、数千万円の現金が動いたとの証言があり、東京スポーツの激闘の永田町にスクープを書いた菊池久を名誉毀損で民事告訴し、マスコミを賑わせたが、判決は領収書の所在が不明との判断で金銭授受を否定して菊池側の敗訴となる。
  • 地裁判決には、猪木と新間寿も出廷していたが、判決後にはが菊池久に対して『もう少しうまく話し合いが出来ればねえ』と余裕の表情で語っていた。
  • 一説に資金は小沢一郎(自民党幹事長)からの物だったとされているが真実は不明。

参議院落選迄の裏側

  • 参議院2期目落選までに、税金未納問題、女性問題などスキャンダルを連発する、これらは全て、佐藤久美子元公設第1秘書(当初は公設第2秘書だったが第1秘書の猪木快守が借金問題で秘書を解雇され昇格した。)とスポーツ平和党前幹事長の新間寿によるものであった為、TBSは、新間寿の記者会見を急遽生中継までして放送した。この時も"仕掛け人"の異名を持つ新間寿の手によるものと言われている。
  • 新間寿は記者会見で、"女性の方は耳を塞いで下さい。"と言って、"アントニオ猪木のPKO、それは○ン○ン、来い来い、オ○ンコやろう。"と放送禁止用語を生中継にも拘らず発言し物議を醸す。
  • その後、猪木スキャンダルの首謀者と言われ対決していた佐藤久美子元公設第1秘書は、数年後に何故か多額の現金を手にしてオーストラリアでの悠々自適な生活が報道されると、やはり陰謀の感がぬぐえない。

その他

  • 寛水流創設
    • 空手の流派で、猪木の本名「寛至」の「寛」と「水谷征夫」の「水」を取って命名された。後に世界寛水流空手道連盟が継承している。
  • 以前ダウンタウンDXに出演した際に司会の浜田雅功に身長を聞かれ、「昔は189位あったんですけど、今はちょっと縮んで186位」と答えている。公称身長は191cm。
  • よく大量の氷を入れた水風呂に入る。のちに猪木自身が語ったところによるとこれは「糖尿病で血糖値が上がった際、氷風呂に入り全身の筋肉をガチガチと痙攣させ血糖を消費させるため」だったらしい。医師はとんでもないことだと驚愕し、もちろん普通の人間は真似してはいけない。
  • 「愛読書は朝日新聞」と語っている。
  • ある日古舘伊知郎に1万円を借りたがその事を忘れてしまった。当時若手だった古舘にとって1万円は高額であったが、相手は大スターであり中々言うに言えず困っていた。ところがある日、猪木は急にその事を思い出し「いや~、ごめんごめん」と30万円にして返した。
  • よくバラエティ番組などで「1! 2! 3!…」と「ダー!」という前でカットされることが多いのは、「ダー!」を放送すると数十万円のギャラを猪木に支払わなければならないからである。ちなみに「ダー」一回30万、ビンタ(『闘魂注入』)1発10万、『道』の朗読100万と言われているが、街中などで猪木と出会った際にビンタを頼むと普通にタダで張ってくれるので、ビンタに関しては曖昧なようである。「1! 2! 3! ダー!」は商標登録されている(登録商標としての表記は「1・2・3・ダァーッ」)。ちなみに猪木の「1! 2! 3! ダー!」が商標登録されている事は2004年3月3日のフジテレビの『トリビアの泉』で紹介された。なお、「ボンバイエ」、「猪木イズム」、「闘魂」も商標登録されている。
  • キューバパラオにアントニオ猪木の名前がつけられた「猪木アイランド」と呼ばれる無人島を所有している。2島とも政府から贈られたものであり、猪木は休暇の際に利用しているという。

事業

猪木の旺盛な野心はリング内に収まらず、多くの事業に挑戦している。ただし成功を収めたものはほとんど無い。

  • 数多くの事業の大半はブラジルに関係する事が多く、アントンハイセルに私財を投げ打ってまで事業を進める事に対して夫人(倍賞美津子=当時)は新間寿(新日本プロレスリング営業本部長=当時)に「何故そこまでしてブラジルに拘るのか」と聞いた程である。
  • アントンフーズ」という会社を設立し、スペアリブレストランチェーン「アントンリブ」を展開する他に、健康食品などを販売していた。この会社は一時日本国内でのタバスコマキルヘニー社)の販売権を持っていたことがあるが、別件で借金を抱えたため手放している。またタバスコを最初に日本に持ち込んだのは猪木と言われることもあるが、事実ではない。
  • アントンハイセル」(1980年に設立)というブラジル政府をも巻き込み国際的な大プロジェクトは猪木自身にとっても最大の事業と言える。ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすを有効活用を考えた事業で、当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをエネルギーとして使用する計画を進めていた。いわばバイオテクノロジーのベンチャービジネスである。
  • ところが、弊害としてサトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りかす(バカス)が公害問題となった。そこで家畜に飼料として食べさせるが、直ぐに下痢を起こしてしまう。また、土中にバカスをそのまま廃棄すると、土質を悪化させる為、その土地では農作物が取れなくなるなどの弊害が生じる結果になってしまう。
  • それでも猪木は世界の食料危機問題に対応すべく、バカスの再生飼料を食べた家畜の糞を有機肥料として、農業生産の向上と家畜の増産を目指すも、結局は日本とブラジルの気候の違いから発酵処理に失敗する。
  • さらに追い討ちをかけるように、ブラジル国内のインフレが原因で生産コストはさらに悪化の一途を辿る。
  • これらの原因により、現代のエコプロジェクトのであり国家的事業であったにも拘らず、経営は僅か数年で破綻する。およその負債額は数十億円とも言われ、テレビ朝日から数億円(12億円との説も)の肩代わり(後に佐川清=佐川急便会長(故人)に債権を移動、株券と引き換えに)してもらうがそれだけでは補えず、さらに新日本プロレスの収入の大半を補てんしてしまう。これがアダとなり新日本プロレスでは当時クーデターと言われた、社長解任劇に発展する。
    • 社長解任劇

タイガーマスクや長州力などスター選手がの大量離脱するなど猪木寛二と坂口征二が解任されテレビ朝日の社員が役員に就任したが、数ヵ月後に復帰する。

  • なお、環境対策がより必要となっているサトウキビからエタノールを抽出して燃料とすることは2007年現在でも積極的に行われている。現在はようやく事業化のめどがついたといわれるが、アントン・ハイセルは既に猪木の手を離れている。
  • INP技術研究所の名誉会長となっている。同社は「永久電機」用発電機を開発していたが、途中から「高効率モーター」に変化している。
  • 東京池袋2006年、居酒屋「アントニオ猪木酒場」を開店した。「午後八時のプロレスを見ながら食べたメニューを再現する」がうたい文句の居酒屋で、店内は古きよき昭和の時代をイメージし、常時プロレスが放送されている。既に沖縄にも2号店がオープンしているほか、今後フランチャイズチェーン展開も計画されている。なお実際の店舗運営は、IGFのスポンサーでもあり、焼肉屋さかいなどを傘下に収める外食産業大手のジー・コミュニケーションが行っている。
  • 近年ではサンダリッパや豆腐パンのプロデュースも手掛けた。
  • このように、猪木はプロレスだけに止まらず、様々な事業に手を広げているが、力道山と祖父の影響と思われる。

猪木語録

  • いくぞー! 1! 2! 3! ダーッ!
  • 元気ですかーっ!
  • 馬鹿ヤロー!
  • 元気があれば何でもできる!
  • 馬鹿になれ!(IGF設立時にはその後に"しかし紳士たれ"が付加されていた)
  • いつ何時、誰の挑戦でも受ける
  • 私のアゴの筋肉は鍛えられています
  • たとえ時に試合を休むことがあっても激しいいい試合を見せる方が大事だと思うから、おめでとうとは言わない(馬場がデビュー以来3000試合無欠場記録を達成した時の談話。もっとも、猪木は馬場と組んでインターナショナル・タッグの防衛戦が組まれていたのを雪で会場入りできずに穴を開けたことがある)
  • 俺の首をかっきってみろ!
  • 紙一重の差
  • こんなプロレスを続けていたら10年持つ選手生命が1年で終わってしまうかもしれない。ただ、それがファンに対してのわれわれの義務ですから(1974年、ストロング小林戦の試合後に)
  • ちょっと早い大掃除(1984年9月長州力、谷津嘉章選手などの大量離脱で)
  • 両国の皆さん聞いてくれー!(1987年6月12日両国国技館で)
  • その気で来るなら俺が受けてやるぜー!手前ぇらの力で勝ち取ってみろー!(世代闘争勃発)
  • 神のお告げ(記者に物事の理由を聞かれた時に良く使われる)
  • 折れ!折れ!(足4の字固めをかけられながら、ポイントを指で指しながら)
  • 坂口? 片手で3分だよ
  • 相手の力を9引き出して10の力で勝つ(いわゆる“風車の理論”)
  • 極める角度が違う(UWFが使う関節技について)
  • 出る前に負けること考えるバカいるかよ!(この後アナウンサーに張り手を食らわせる。さらに控え室から)出てけ!コラ!
  • 道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ!
  • やれるのか、おい!
  • どーですか!(「どーですか、お客さん!」は井手らっきょのネタであり、猪木自身は実際に「お客さん」とは言っていない)
  • プロレスとは何ですか? まだ、その答えは見つかっておりません…
  • 命がけで勝負します。誰でもかかって来い! その代わりテメーも覚悟して来い!
  • 今、俺は人生のホームレスをやっております
  • 俺の心はオープン24時間!
  • 蝶野には力があるから…チョウノー力(超能力)
  • 何でもアリ(有り)のモハメッド
  • 秋は行ってしまったけれど、高田の妻は向井亜紀
  • お前はそれでいいや(リング上で中西学に「お前は何が許せないんだ?」と問い「全日本プロレスに行った武藤です!」と答えたことに対して)
  • 俺は触ってねーですから(新日の興行がこけた際)
  • 私をミスター・タバスコと呼んで下さい
  • どうってことねえよ
  • 猪木が笑えば世界が笑う

主な戦歴

エピソード

  • 力道山は、角界と関係修復を計る際、『猪木を一度大相撲に入門させ、十両になったらプロレスに復帰させる』と言う計画を持っていたが、猪木自身はこの事を知らなかった。
  • 『その気で来るなら俺が受けてやるぜー!手前ぇらの力で勝ち取ってみろー!(長州に)お前もかー(藤波に)お前もかー(前田に)お前もかーあー?やるかー!』と絶叫するが、木村健悟に対しては無視。
  • 猪木はニューリーダーの中で常に木村健悟に対しては、往年のような闘志を剥き出しにする。
  • 1990年2月10日坂口征二とタッグを組み、蝶野正洋橋本真也組と試合前の、インタビューでテレビ朝日の佐々木正洋アナウンサーが「もし負けるという事が有ると、勝負は時の運と言う事では済まないんじゃないですか?」との問いかけにブチ切れ、張り手を食らわし「出る前に負ける事考えるバカいるかよ!・・・出てけーコラ-ッ!!」と怒鳴ったシーンは、同時に対戦する橋本が、インタビューで「時が来た・・・それだけだ!」と答えると、横で聞いていた蝶野正洋は、『堪えきれず笑った顔を手で鼻をこすってごまかした』事も相まって、ファンの間ではつとに有名で語り草になった。[3]

通算成績

  • シングル戦 - 611勝41敗50分
  • タッグ戦 - 1466勝104敗130分

獲得したタイトル

  • NWAタッグ
  • WC世界タッグ
  • NWA北米タッグ
  • USヘビー級
  • インターナショナル・タッグ
  • 世界ヘビー級(カールゴッチ所有)
  • NWFヘビー級
  • アジアタッグ王座
  • WWF格闘技ヘビー級
  • WWFヘビー級
  • IWGPヘビー級王座
  • UWA世界ヘビー級
  • NWAテキサスヘビー級
  • NWA世界タッグ
  • UNヘビー級

入場テーマ曲

  • 炎のファイター~INOKI BOM-BA-YE~
    • ちなみに、DJ OZMAが『疾風迅雷~命 BOM-BA-YE~』としてカヴァーしている。

ものまね

以下の人物が彼のものまねをやっている。かつてはアゴを突き出し「何だコノヤロー!」が定番だったが、「春一番」以降マイクを持っての話から「1.2.3 ダーッ!」でしめるのが主流となった。現在の主流は「シャッ、コノヤロ」「ムフフ、そぉ~ですねぇ」

など

パチンコ・パチスロ

2006年秋にフィールズが猪木に関するパチンコ・パチスロの商品化権独占使用許諾契約を結んだため、「CR燃える闘魂~」以後の機種はフィールズから販売されている。

CM

猪木の弟子たち

  • 猪木の最初の弟子は藤波辰巳である。日本プロレス時代の付き人であった。その後、猪木は多くの新弟子を迎える事になるが現在猪木の技を一番継承していると言えるのは、猪木イズムとゴッチイズムを体得している西村修である。
  • しかし、かつて猪木を慕って来た者の中にはその後袂を分かったケースも少なくない。前田日明(猪木の関係する旧UWFへエースとして参加→崩壊)小川直也佐山聡(旧UWF→シューティング→UFO→決裂)、高田延彦(猪木VSホーガン戦をアホらしいと言っている→第2次UWF参加)、所謂闘魂三銃士(の内武藤敬司=猪木批判をし全日本プロレスへ移籍、橋本真也=猪木に嫌われ事実上の追放=ZERO ONE設立)などである。
  • 猪木は力道山の付き人をしていた時代、いつも理由もなく殴られたと語っていた。また、マスコミ好きで目立ちたがり屋だった力道山から一番影響を受けている事を本人は気が付いてないようである。
  • 現在、猪木を頼りにしている者は安田忠夫藤田和之そして星野勘太郎(?)などかなり多い。いずれにせよ力道山と同じく選り好みが激しく、自分が気に入らない者は認めたがらない。特に武藤、橋本や永田など第三世代と言われるグループに多い。
  • 対して蝶野や長州などは過去に遺恨があったが、のちに猪木を尊敬の念を表す人に対しては寛容であると言える。それを利用しているのか、藤原喜明佐山聡、弟子ではないが新間寿は、猪木と何度も決裂→罵倒→関係修復を繰り返している。

武勇伝

  • 猪木の女性関係だが、渡米時代アメリカ人の女性と結婚している。その後、女優の倍賞美津子と1億円の結婚式を挙げて当時の話題になった。離婚後、現在の20歳程離れた妻と3度目の結婚をしている。
  • 1984年発表(1983年度)のいわゆる長者番付でプロスポーツ部門で1位(納税額8,268万円)になる。
  • テレビのバラエティ番組でキャバクラ遊びなどを実況しているが、あのうれしそうな笑顔は本人の素顔でもある。猪木はカメラに撮られる時は意識して作り笑いをしている時が殆どだが、若い子の前ではデレッとニタニタ顔になるのでその違いは顕著に表れている。
  • 力道山はリキパレスというエンターテイメント施設を建設。猪木は若い時から付き人として夜遊びのお供をしていたので女遊びは染みついているようだ。猪木はロサンゼルスからニューヨークに住居を引っ越し、そして最近では日本を拠点に興行活動を再開したようだが、その為か夜遊びが多い。猪木の場合はやはり銀座、赤坂、六本木が夜の主戦場で何軒もハシゴをして遊んでいるのが確認されている。

脚注

  1. ^ 猪木は一休の言葉として紹介したが、実際には、文言に多少の相違はあるものの、もとは清沢哲夫の『道』という詩であったと見られる。[1]

関連項目

外部リンク