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表現など調整。2009年の予想はどの評論家の中で?
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'''今中 慎二'''(いまなか しんじ、[[1971年]][[3月6日]] - )は、[[大阪府]][[門真市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、野球解説者。愛称は'''チュー'''または'''イマチュー'''
'''今中 慎二'''(いまなか しんじ、[[1971年]][[3月6日]] - )は、[[大阪府]][[門真市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、野球解説者。愛称は'''チュー'''または'''イマチュー'''。{{by|1993年}}から4年連続で[[開幕投手]]を務めるなど、[[1990年代]]の[[日本プロ野球|NPB]]を代表する左腕として活躍した<ref name="base_20011210_116">週刊ベースボール、2001年12月10日号、P.116</ref>


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== アマチュア時代 ===
=== アマチュア時代 ===
本来は右利きだが、小さい頃近所のおばちゃんにもらった[[グラブ]]がたまたま左利き用で、それを使って練習していたことから左投げになったというもともとは左投げ右打ちだった)。高校1年の時に母と死別。
本来は右利きだが、小さい頃に「近所の中年女性かった[[グラブ (野球)|グラブ]]が左利き用であったので、そのままそれを使ったことから左投げになった<ref>[[フルタの方程式]] 12月号[[テレビ朝日]])2009年12月6日放映分にて本人談。</ref>。高校1年の時に母と死別した


[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高等学校]]では3年夏の[[全国高等学校野球選手権大阪大会|大阪府大会]]で1回戦敗退する<ref name="base_20011210_118">週刊ベースボール、2001年12月10日号、P.118</ref>など、甲子園に出場することはなかった。漫然と大学への進学を予定していたが、145km/hの[[速球]]<ref name="base_19890410_73">週刊ベースボール、1989年4月10日号、P.73</ref>などによって全球団のスカウトが来校<ref name="base_20011210_118" />するほど高い注目を集めており、[[1988年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1988年のドラフト会議]]で[[中日ドラゴンズ]]に1位指名を受けて入団した。
[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高等学校]](入学時は[[大阪産業大学附属中学校・高等学校|大阪産業大学高等学校]]大東校舎、3年の時に改称)では甲子園出場経験は無い。

大阪桐蔭時代、初先発の試合の相手投手が、当時、[[大阪府立成城高等学校|大阪府立成城工業高等学校]]のエースピッチャーだった[[野茂英雄]](高3)であった。その試合、今中(高1)は野茂に投げ勝ったという{{要出典}}。


=== プロ選手時代 ===
=== プロ選手時代 ===
==== 現役前半 ====
{{by|1988年}}の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]1位で[[中日ドラゴンズ]]に入団。高卒ルーキーながら1年目から一軍で活躍し、2年目の{{by|1990年}}には10勝をマーク。{{by|1991年}}には[[佐々岡真司]](広島)との[[最優秀防御率]]のタイトル争いのため、シーズン最終戦の[[ダブルヘッダー]]に連続して先発するものの、タイトルは逃す。
プロ1年目の{{by|1989年}}は[[近藤真市|近藤真一]]や[[上原晃]]の例にならい、[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]から[[オープン戦]]の期間は二軍でランニングなど体力の強化や守備練習に明け暮れた<ref name="base_19890410_73" />。[[新宅洋志]]や[[稲葉光雄]]の指導を受けてフォーム修正や体力向上に取り組み<ref name="base_19890410_73" />、早くも5月26日には[[ナゴヤ球場]]での対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で一軍初登板を果たした<ref name="base_20011210_118" />。9月17日の[[広島市民球場 (初代)|広島]]での対[[広島東洋カープ|広島]]戦では先発して[[北別府学]]と投げ合い、2回に[[肉刺|マメ]]を潰しながらも[[アロンアルフア]]で固めて5回を投げ<ref name="base_20011210_118" />プロ初勝利を挙げている。オフの秋季キャンプには[[ロサンゼルス・ドジャース]]から臨時コーチが来ており、当時[[メジャーリーグベースボール|MLB]]で流行していた[[フォークボール|スプリット・フィンガード・ファストボール]]を習得した<ref name="kozo_201002_123">野球小僧、2010年2月号、P.123</ref>。

2年目の{{by|1990年}}はキャンプで投手コーチの[[池田英俊]]にフォロースルーなどを指導されてストレートの伸びや変化球のキレが改善した<ref name="base_19900423_25">週刊ベースボール、1990年4月23日号、P.25</ref>。3月4日に守備練習でノックの球をヒザに当ててノースローの調整が続いたが、3月24日に[[豊橋市民球場|豊橋]]で行われた[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]とのオープン戦では[[村田勝喜]]と投げ合って、5回で61球を投げ2安打無四球で無失点の好投を見せている<ref name="base_19900423_25" />。開幕後は将来の左のエースとしての期待をかけられ、主に先発として起用された<ref name="base_19900709_68">週刊ベースボール、1990年7月9日号、P.68</ref>。当時はまだ漫然と投げるようなところがあった<ref name="base_20011210_119">週刊ベースボール、2001年12月10日号、P.119</ref>ものの、6完投など[[規定投球回]]に達して[[先発ローテーション]]に定着し、10勝をマークしている。

{{by|1991年}}は[[1991年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に初めて出場し、第2戦の7回から2イニングを投げ1安打無失点に抑えている。同年は[[佐々岡真司]]との[[最優秀防御率]]を争い、シーズン最終戦の[[ダブルヘッダー]]に連続して先発したものの[[防御率]]0.08の差でタイトルを逃した。{{by|1992年}}は4月19日の対巨人戦でピッチャーゴロが左手首に当たって[[骨折]]し、3か月後の夏場に復帰している<ref name="sportiva_200708_74">Sportiva、2007年8月号、P.74</ref>。このケガからの[[リハビリテーション|リハビリ]]で痛みの軽い[[カーブ (球種)|カーブ]]だけで遠投を行ったことをきっかけに[[スローカーブ]]をマスターし<ref name="sportiva_200807_48">Sportiva、2008年7月号、P.48</ref><ref name="sportiva_200708_74" />、同年は11試合の登板に終わったものの8勝2敗で防御率1.77の成績を残している。

{{by|1993年}}は自身初の[[開幕投手]]を務め、開幕4連勝の後で5連敗を喫したがそこから大きく巻き返し<ref name="base_20011210_119" />、7月6日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]では当時のセ・リーグ最多タイ記録となる1試合16奪三振を記録した。2年ぶりに出場した[[1993年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]では第1戦に2番手として登板し、2回を投げ4安打2失点だった。同年は先発で週に1、2回は登板し<ref name="base_20011210_119" />、249イニングを投げている。また、9月2日のナゴヤ球場での対ヤクルト戦では9回2死から[[池山隆寛]]に同点本塁打を打たれ、延長まで投げ続けたものの15回引き分けに終わって首位浮上のチャンスを逃した。この試合は翌年の[[10.8決戦]]と並んで、現役時代で最も印象に残っているという<ref name="base_20011210_120">週刊ベースボール、2001年12月10日号、P.120</ref>。同年の最終的な成績は17勝7敗、防御率2.20、247奪三振で[[最多勝利]]、[[最多奪三振]]などに輝き、1990年代では唯一審査項目を全て満たして[[沢村栄治賞|沢村賞]]を受賞した。また、[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]と[[ゴールデングラブ賞]]にも選出されている。

{{by|1994年}}は[[1994年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]で第2戦の9回に登板し、[[イチロー]]らを三者凡退に打ち取っている。同年はチームがシーズン最終戦まで巨人と激しく優勝を争い、中2日や中3日の先発が続いたが痛みなどを訴える事はなかった。[[10.8決戦]]では[[中村武志]]ら選手会の面々に「勝っても負けてもいいから先発して欲しい」と頼み込まれて先発し、4回5失点で降板して敗戦投手となったものの他の選手達に悔いはなかったという<ref name="sportiva_200708_75">Sportiva、2007年8月号、P.75</ref>。同年の夏頃から左肩の状態が徐々に悪化していったと、今中自身は後に語っている<ref name="base_20011210_117">週刊ベースボール、2001年12月10日号、P.117</ref>。翌{{by|1995年}}は疲労などでカーブなど球のキレが悪くなっていた<ref name="sportiva_200708_75" />が、チーム内で唯一規定投球回に到達してリーグ2位の15完投を挙げた。[[1995年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]では第1戦に2番手として登板し、2イニングをパーフェクトに抑えている。また、MLBのスカウトからは同年に渡米した[[野茂英雄]]より高い評価を受けており、[[シンシナティ・レッズ]]監督の[[デーブ・ジョンソン]]からシーズン中にトレードによる獲得の打診があったという<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09november/KFullNormal20091101246.html スポニチ 日めくりプロ野球09年11月]</ref>。

{{by|1996年}}は4年連続で開幕投手を務め、6月27日のナゴヤ球場での対広島戦では球団史上最速の186試合で1000奪三振を達成する<ref name="base_20010416_42" />などの活躍で、7月までに9勝を挙げている。しかし、7月16日の[[東京ドーム]]での対巨人戦でプロ入り最短の1/3回で降板し、左肩の痛みを訴えた。翌日の検査で左肩関節周囲炎のため2週間の安静が必要という診断を受けて一軍登録を抹消され、直後の[[1996年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]は出場を辞退し、代わりに[[吉井理人]]が出場している<ref name="base_20010416_42">週刊ベースボール、2001年4月16日号、P.42</ref>。この故障の半月前にも腰痛で登板を回避していたが、優勝争いをしているチーム事情もあって1週間後には投球練習を再開し、7月29日に一軍に復帰、8月4日のナゴヤ球場での対巨人戦では1失点完投で勝利を挙げた。その後も左肩の違和感が残ったまま登板を重ねて<ref name="base_20010416_42" />さらに4勝し、4年連続2ケタ勝利となる14勝を記録している。

==== 現役後半 ====
{{by|1997年}}はキャンプ前に再び左肩を故障して従来とは明らかに異なる痛みを感じ<ref name="kozo_201002_126">野球小僧、2010年2月号、P.126</ref>、精密検査により奥の筋肉に損傷が確認された<ref name="base_19970407_21">週刊ベースボール、1997年4月7日号、P.21</ref>。このため肩の状態を確かめながら負担を抑えるスロー調整をしたものの、オープン戦初登板となった3月20日の対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦では球速が最高124km/hにとどまっている<ref name="base_19970407_21" />。さらに試合後には肩関節周囲炎の再発が判明して投球練習ができなくなり、5年連続の開幕投手を断念した。6月に一軍登録されて6月8日の[[ナゴヤドーム]]での対巨人戦で[[リリーフ]]としてシーズン初登板を果たしたものの、球威やキレが戻らず二軍に戻って再調整を続けた<ref name="base_20010416_43">週刊ベースボール、2001年4月16日号、P.43</ref>。8月に一軍に復帰して8月15日のナゴヤドームでの対ヤクルト戦でシーズン初先発し、最速143km/hの速球と90km/h台のスローカーブで6回を3安打1失点に抑えて初勝利を挙げた<ref name="base_19970901_18">週刊ベースボール、1997年9月1日号、P.18</ref>が、同年は2勝に終わっている。例年ノースローだった秋季キャンプでは、投手コーチの[[宮田征典]]が止めたにもかかわらず積極的に投球練習を行い、感覚が回復してきたと周囲に語っていた<ref name="base_20010416_43" />。

{{by|1998年}}は肩の状態が回復し、キャンプから筋力強化や遠投などを重ねた。6月5日のナゴヤドームでの対巨人戦では最速140km/hを記録して90km/hのスローカーブも戻り、8回131球を投げ2安打1失点の内容で勝利を挙げて復活の兆しを見せている<ref name="base_19981005_54">週刊ベースボール、1998年10月5日号、P.54</ref>。しかし好調が持続せず、自身4連敗で迎えた7月9日の対ヤクルト戦に先発して2/3回で5安打4失点とKOされて2勝8敗となると、監督の[[星野仙一]]に改めて軟投派への転向を命じられて一軍登録を抹消された<ref name="base_19981005_54" />。秋からはそれまで強く拒否していた[[ウエイトトレーニング]]にも進んで取り組み、ランニングや坂路走で下半身を強化し、自身初となる12月の自主トレも行っている<ref name="base_20010416_43" />。

{{by|1999年}}は、2月11日には投球練習を始めるなど早めの調整を行っていたが、一方で[[ブルペン]]に入るのが怖くなるほど状態が悪化していた<ref name="base_20010416_44">週刊ベースボール、2001年4月16日号、P.44</ref>。7月15日のナゴヤドームでの対広島戦に先発したものの2回6失点に終わり、[[福岡市]]の病院で改めて検査を受けた<ref name="base_20011210_117" />。当初はリハビリによる治療を考えていたが、良い肩の状態が数日しか続かない状況にケジメをつけるため、炎症の原因だった左肩の[[滑液包]]を除去して突起骨を3箇所切除する手術を8月20日に受けている<ref name="base_20010416_44" />。執刀医が驚くほど患部は悪化していたが5時間かかった手術は成功し、そのまま福岡で数ヶ月間リハビリを続けた。同年は入団後初めてチームがリーグ制覇を果たしたものの、9月30日の[[明治神宮野球場|神宮]]での対ヤクルト戦で優勝が決まった時も福岡市内で医師とともに夜釣りをしていたという<ref name="base_20011210_118" />。ダイエーとの[[1999年の日本シリーズ|日本シリーズ]]の際には経過報告を兼ねて福岡の宿舎を訪ね、チームメイトに激励の言葉をかけて静かに去っている<ref name="base_20010416_44" />。

{{by|2000年}}は11年ぶりに二軍キャンプでのスタートとなり、初めて一軍登板のないままシーズンを終えた。オフの契約更改は大幅な減俸となって翌年2月までかかり、星野監督からは「契約するだけでも感謝するように」という最後通告を受けている<ref name="base_20010416_44" />。一方、{{by|2001年}}は1月の[[伊良湖]]での合同自主トレで積極的にランニングに取り組む姿勢が投手コーチの[[山田久志]]に評価され、2年ぶりに一軍キャンプでのスタートとなった<ref name="base_20010416_44" />。キャンプ直前の1月30日には[[読谷平和の森球場|読谷球場]]のブルペンで100球を投げ込み、キャンプ中も投球練習の球数をこなしたが制球に問題があった。オープン戦では球速が最高131km/hにとどまったものの、[[フォークボール|フォーク]]や[[シュート (球種)|シュート]]を駆使して3月3日の対ロッテ戦では4回を1失点に抑えている。しかし野手の状態が上がるに連れて打たれる場面が増え、3月23日の教育リーグでの対[[阪神タイガース|阪神]]戦では5回106球を投げて8安打5四球3失点の内容で、開幕一軍入りを諦めた<ref name="base_20010416_45">週刊ベースボール、2001年4月16日号、P.45</ref>。同年は7試合に登板したものの、気力の限界などから10月に引退を決意。山田は中継ぎとしての再生を考え<ref name="base_20011001_126">週刊ベースボール、2001年10月1日号、P.126</ref>、他球団からも獲得の打診があったという<ref name="base_20011210_117" />。11月10日に引退の記者会見を開いている<ref name="base_20011210_117" />。

=== 現役引退後 ===
{{by|2002年}}より[[日本放送協会|NHK]]の野球解説者となり、名古屋の民放局でゲスト解説を行っているほか[[中日スポーツ]]野球評論家も務めてい。{{by|2009年}}のパ・リーグ順位予想では日本ハムのリーグ優勝を的中させた。{{by|2010年}}も、中日とソフトバンクの優勝を予想し的中させた。また、[[プロ野球マスターズリーグ]]では名古屋80D'sersに所属している。

== プレースタイル ==
=== 投球スタイル ===
細身の体型から全盛期には145-146km/h<ref name="base_19990308_129">週刊ベースボール、1999年3月8日号、P.129</ref>の切れの良い[[速球|ストレート]]と100km/h前後の[[カーブ (球種)|スローカーブ]]に[[フォークボール]]や70-80km/hという超スローカーブ<ref name="kozo_201002_125" />を混ぜた投球をしていた。さらに{{by|1996年}}頃からは[[チェンジアップ]]も使っていた<ref name="kozo_201002_125">野球小僧、2010年2月号、P.125</ref>。これらの変化球を意識的に全く同じフォームで投げ分けて打者を翻弄し、[[捕手]]の[[中村武志]]がリリース直前までサイン間違いかと不安になることも少なくなかったという<ref name="kozo_201002_125" />。特にカーブの方がストレートよりも力強く腕を振るように見えたため、打者はストレートに差し込まれたりカーブに体が突っ込んだりしやすくなった<ref name="sportiva_200708_75" />。

先発の時はいかに完投するかを常に考え、5回まではストレートとカーブで投球を組み立て、打者が3巡目から4巡目に入って慣れてくる6回頃から[[フォークボール]]を混ぜていった<ref name="kozo_201002_124">野球小僧、2010年2月号、P.124</ref>。フォークは多くても10球程度しか投げなかったが、終盤から球種を増やすことで狙いを絞りにくくさせて主導権を握り、さらに球種の少ない中盤までに攻略しようとして相手が焦る効果もあったという<ref name="kozo_201002_124" />。味方の得点に関わらず3点以内で完投するようなスタイルで、8点取ったら7点までは許すような[[山本昌]]とは対照的だったと中村武志は評している<ref name="sportiva_200708_75" />。このため、重要な試合では点を取られない所を評価されて先発を任されることが多かった<ref name="sportiva_200708_75" />。


外角低めの球をベースにしながら、それを活かすためにも内角を有効に使う事を重視していた。内角への投球はコースが甘くなると長打になりやすいため勇気とコントロールが必要だが、外角だけでは踏み込んで打たれるか四球による自滅に繋がると考えていた<ref name="base_20020715_13">週刊ベースボール、2002年7月15日号、P.13</ref>。
{{by|1993年}}には[[開幕投手]]を務め、17勝7敗、防御率2.20で最多勝、最多奪三振、[[沢村栄治賞|沢村賞]](審査項目をすべて満たした[[20世紀]]で最後の投手となった)、[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]、[[ゴールデングラブ賞]]のタイトルを独占(最多勝は同僚[[山本昌]]、横浜の[[野村弘樹]]と3人の左腕で分け合う)。{{by|1993年}}7月6日には1試合16奪三振を記録(当時のセ・リーグ最多タイ記録)。{{by|1994年}}の[[10.8決戦]]で先発したが、集中打を浴びて4回5失点で降板、敗戦投手となる。


=== スローカーブ ===
{{by|1996年}}7月に左肩を痛めたが、優勝争いの為に酷使し登板、以降は不振に陥った。{{by|1999年}}に手術を行い、{{by|2001年}}に復活のマウンドに立つが、[[直球|ストレート]]は120km/h台前半で以前の球威は戻らず、同年限りで現役引退。なお、現役最後に奪った三振は[[松井秀喜]]から。
スローカーブは{{by|1992年}}に骨折からのリハビリを機に習得している。復帰直後の対阪神戦で[[和田豊]]に対してフルカウントからカーブを投げて珍しく和田から見逃し三振を奪い、手応えを掴んだという<ref>今中慎二『悔いは、あります。』ザマサダ、2002年</ref>。[[人差し指]]と[[中指]]をボールの中心からずらして縫い目にかけ、非常にゆるく握って[[親指]]は添える程度にしていた。この状態から手首をひねらず、人差し指と親指の間からすっぽ抜けるような感じで顔の前でリリースして投げたという<ref name="base_20040607_14">週刊ベースボール、2004年6月7日号、P.14</ref>。ベース上に真上から落とすようなイメージで投げ、内外角の投げ分けも出来ていた<ref name="sportiva_200708_75" />。


打者からはストライクゾーンを外れるほど高い軌道から落ちてくるように見える上、ミットに入る前に空回りして止まりそうになるように感じられたという<ref name="sportiva_200708_74" />。このためバッターは腰砕けになる事が多く、[[トーマス・オマリー]]をはじめ外国人バッターに特に嫌がられた<ref name="sportiva_200708_75" />。[[原辰徳]]に対して8-9球連続でカーブだけを投げた時には全て[[ファウルボール|ファウル]]になっており<ref name="sportiva_200708_75" />、ファウルを打たせるのにもカウントを取るにも有効なボールだった。また反発力がないため打たれても飛ばず<ref name="kozo_201002_125" />、球速が遅いため打者が必ず反応する<ref name="sportiva_200807_48" />など使い勝手が良い球だったという。
[[2002年]]より[[日本放送協会|NHK]]の野球解説者となり、しばしば名古屋の民放局でゲスト解説を行っている[[中日スポーツ]]野球評論家も務める。また、[[プロ野球マスターズリーグ]]名古屋80D'sersに参加ており、現役時代より落差の大きいカーブを投げている。


==== 投球・その他 ====
=== フォークボール ===
指が短く開きも狭いため、しっかりボールを挟むフォークボールの習得は諦めていた。しかし{{by|1989年}}の秋季キャンプで握りの浅いスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークを習得し、{{by|1991年}}頃から使うようになった。落差にはバラつきがあったが、1試合の中でハッキリ落ちるのは1球程度と基本的に変化は小さかった<ref name="kozo_201002_124" />。高めに入ると絶好球となるが制球を重視しすぎると腕の振りから見破られるため、低めを意識しながらも腕を強く振ることを重視していたという<ref name="kozo_201002_123" />。
細身の体型から華麗なフォーム(しなるような腕の振り)で最速140km/h台後半の切れの良いストレートと遅い時には80km/h台のカーブ(スローカーブという呼称も用いられる)を全く同じフォームで投げ分ける緩急自在のピッチングで、打者が[[ストレート]]に完全に振り遅れ、スローカーブを腰を引きながら見逃してしまうこともあった。時には肩口から入ってきたスローカーブを打者のバットがストライクゾーンの内角高めを空振りし、そのボールが外角低目のボールゾーンのミットに収まるほど落差が大きかった。


握りが浅くなるためフォークは改良がしにくく、練習ではほとんど投げなかった。フォーク自体は痛打されることが多く、首脳陣から試合で投げるなと言われたりもしたが<ref name="kozo_201002_125" />、ストレートやカーブを活かすためにも投げ続けた<ref name="kozo_201002_126" />。{{by|1994年}}から対戦するようになった[[落合博満]]にも、フォークの存在が非常に大きいと評されている<ref name="kozo_201002_126" />。
このスローカーブであるが、プロに入って3年ぐらいまでは投げていなかった。投げられるようになったきっかけはほんの偶然からであった。{{by|1992年}}4月19日の対巨人戦で左手首に打球が当たるアクシデントがあった。翌日、骨折が判明し、9針を縫う手術を行った。リハビリの際に手首を軟らかくする運動に取り組み、キャッチボールでは直球を投げると手首が痛くなるのでは、という不安からカーブばかりを放った。その年に戦列復帰を果たすと復帰してすぐの阪神戦で[[和田豊]]に対してカウント2ストライク3ボールからストレートのサインに首を振りカーブを投げると和田はあっさり見逃し三振に倒れた。そのときのキャッチャーの[[中村武志]]は今中が今まで落差の大きいカーブを投げていなかったため「どうしたんや。今のカーブは?」と驚いたという。今中自身も後のインタビューにて、放った瞬間には完全にすっぽ抜けたと感じたものの、それが急激に曲がりちょうど良い場所に決まった。普段見逃し三振など滅多にしない和田から見逃し三振を取れて驚き、これはいいぞと手応えを掴んだ、という内容のことを話している<ref>著書『悔いは、あります。』より</ref><ref>[[イチロー]]が今中に「サインください」とインタビュー中に頼んだ事がある。</ref><ref>肩にメスを入れてからは見違えてストレートの球筋が伸びなくなり、図らずも「肩にメスを入れた投手は復活できない」ことを体現してしまった。</ref>。


=== 成績 ===
また与死球が極めて少ない投手だった。日本プロ野球では平均すると約30イニングにつき1回死球が出るが、今中は下記成績のとおり、1994、1995年には与死球0という快挙を達成している。本人も内角攻めは必要だが、あくまで打者が避けなくても当たらないくらいまでに限られるという内容の話をしており、今中の制球力の高さをうかがわせる。奪三球三振の多い投手でもある。巨人キラーでもあり、対巨人戦25勝20敗、3年連続5勝以上の[[金田正一]]、[[江夏豊]]の記録に一歩及ばなかった。
自身の通算記録では74[[完投]]を挙げたことが誇りだったという<ref name="base_20011210_119" />。与[[死球]]が少なく{{by|1994年}}と{{by|1995年}}には与死球0の成績を残しているが、「死球の恐怖心がなければ打者は4割打てる」とも語っており<ref name="base_20020715_14">週刊ベースボール、2002年7月15日号、P.14</ref>、ある程度は死球も止むを得ないと考えていた。対巨人戦で多く登板する[[先発ローテーション]]を組まれたこともあってこのカードで25勝を挙げた[[巨人キラー]]でもあり<ref name="base_20011210_119" />、[[金田正一]]や[[江夏豊]]の3年連続5勝以上の記録には一歩及ばなかった。


また、左投げながら通算被打率は対左打者で.263(1301打数342安打)、対右打者で.244(3528打数860安打)と左打者によく打たれている<ref name="base_20020715_12">週刊ベースボール、2002年7月15日号、P.12</ref>。これについては、昔の左打者は外角へ逃げる球を苦手としていたが現代の左打者は左投手のスライダーなどにもうまく対応しており、左対左は投手有利という一般論が必ずしも成り立たない時代になった、と語っている<ref name="base_20020715_12" />。
==== 1994年10月8日 ====
下記『悔いは、あります。』によると、この日の今中の一日は次のとおりであった。なお、同書は、全236頁中24頁<ref group="悔いは、あります。">p.126~149</ref>をこの10.8決戦の描写にかけ、そのほかにもこの試合への言及が数箇所ある。
* 7:00過ぎ
: 意味不明な電話で目が覚め、起床した。
* いつもはだいたい14時過ぎの球場入りを上記の影響もあり、少し早めにした。また、普段は自分の自動車であるが、この日は、球団からの指示もあり、タクシーにした。
* 試合開始2時間前
: トレーニングルームで、いつものとおり、テーピングを巻いてもらった。
* 18:20(原典による。実際は18:00)
: 巨人の先頭打者[[ヘンリー・コトー]]に第一球を投じて試合開始となった。
* 試合終了後
: この試合で負傷した[[立浪和義]]とともにタクシーに乗り込み、帰宅し、そのままベッドに倒れこみ、眠りについた。


=== 解説者等して ===
== 他の選手の関係 ==
[[落合博満]]と[[前田智徳]]には簡単に安打を打たれるというイメージがあり、走者のいる場面などでは周囲に伝わるほど気合を入れて対決した<ref name="base_20011210_120" />。この二人が打者として最も印象に残っており、また自身の調子の[[バロメーター]]でもあったという<ref name="base_20011210_120" />。投手では[[桑田真澄]]が最も印象に残り、投球に全くバットが当たらなかった事に加え、投げ合って勝った記憶がないというほど相性の悪さを感じていた<ref name="base_20011210_120" />。
[[2009年]]のパリーグ順位予想で解説者で唯一[[北海道日本ハムファイターズ]]のリーグ優勝を予想したが見事に北海道日本ハムはリーグ優勝を果たした。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
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2010年10月12日 (火) 12:50時点における版

今中 慎二
基本情報
出身地 大阪府門真市
生年月日 (1971-03-06) 1971年3月6日(53歳)
身長
体重
182 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1988年 ドラフト1位
初出場 1989年5月26日
最終出場 2001年7月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

今中 慎二(いまなか しんじ、1971年3月6日 - )は、大阪府門真市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者。愛称はチューまたはイマチュー1993年から4年連続で開幕投手を務めるなど、1990年代NPBを代表する左腕として活躍した[1]

経歴

アマチュア時代

本来は右利きだが、小さい頃に「近所の中年女性から貰ったグラブ」が左利き用であったので、そのままそれを使ったことから左投げになった[2]。高校1年の時に母と死別した。

大阪桐蔭高等学校では3年夏の大阪府大会で1回戦敗退する[3]など、甲子園に出場することはなかった。漫然と大学への進学を予定していたが、145km/hの速球[4]などによって全球団のスカウトが来校[3]するほど高い注目を集めており、1988年のドラフト会議中日ドラゴンズに1位指名を受けて入団した。

プロ選手時代

現役前半

プロ1年目の1989年近藤真一上原晃の例にならい、キャンプからオープン戦の期間は二軍でランニングなど体力の強化や守備練習に明け暮れた[4]新宅洋志稲葉光雄の指導を受けてフォーム修正や体力向上に取り組み[4]、早くも5月26日にはナゴヤ球場での対巨人戦で一軍初登板を果たした[3]。9月17日の広島での対広島戦では先発して北別府学と投げ合い、2回にマメを潰しながらもアロンアルフアで固めて5回を投げ[3]プロ初勝利を挙げている。オフの秋季キャンプにはロサンゼルス・ドジャースから臨時コーチが来ており、当時MLBで流行していたスプリット・フィンガード・ファストボールを習得した[5]

2年目の1990年はキャンプで投手コーチの池田英俊にフォロースルーなどを指導されてストレートの伸びや変化球のキレが改善した[6]。3月4日に守備練習でノックの球をヒザに当ててノースローの調整が続いたが、3月24日に豊橋で行われたダイエーとのオープン戦では村田勝喜と投げ合って、5回で61球を投げ2安打無四球で無失点の好投を見せている[6]。開幕後は将来の左のエースとしての期待をかけられ、主に先発として起用された[7]。当時はまだ漫然と投げるようなところがあった[8]ものの、6完投など規定投球回に達して先発ローテーションに定着し、10勝をマークしている。

1991年オールスターゲームに初めて出場し、第2戦の7回から2イニングを投げ1安打無失点に抑えている。同年は佐々岡真司との最優秀防御率を争い、シーズン最終戦のダブルヘッダーに連続して先発したものの防御率0.08の差でタイトルを逃した。1992年は4月19日の対巨人戦でピッチャーゴロが左手首に当たって骨折し、3か月後の夏場に復帰している[9]。このケガからのリハビリで痛みの軽いカーブだけで遠投を行ったことをきっかけにスローカーブをマスターし[10][9]、同年は11試合の登板に終わったものの8勝2敗で防御率1.77の成績を残している。

1993年は自身初の開幕投手を務め、開幕4連勝の後で5連敗を喫したがそこから大きく巻き返し[8]、7月6日の対ヤクルトでは当時のセ・リーグ最多タイ記録となる1試合16奪三振を記録した。2年ぶりに出場したオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2回を投げ4安打2失点だった。同年は先発で週に1、2回は登板し[8]、249イニングを投げている。また、9月2日のナゴヤ球場での対ヤクルト戦では9回2死から池山隆寛に同点本塁打を打たれ、延長まで投げ続けたものの15回引き分けに終わって首位浮上のチャンスを逃した。この試合は翌年の10.8決戦と並んで、現役時代で最も印象に残っているという[11]。同年の最終的な成績は17勝7敗、防御率2.20、247奪三振で最多勝利最多奪三振などに輝き、1990年代では唯一審査項目を全て満たして沢村賞を受賞した。また、ベストナインゴールデングラブ賞にも選出されている。

1994年オールスターゲームで第2戦の9回に登板し、イチローらを三者凡退に打ち取っている。同年はチームがシーズン最終戦まで巨人と激しく優勝を争い、中2日や中3日の先発が続いたが痛みなどを訴える事はなかった。10.8決戦では中村武志ら選手会の面々に「勝っても負けてもいいから先発して欲しい」と頼み込まれて先発し、4回5失点で降板して敗戦投手となったものの他の選手達に悔いはなかったという[12]。同年の夏頃から左肩の状態が徐々に悪化していったと、今中自身は後に語っている[13]。翌1995年は疲労などでカーブなど球のキレが悪くなっていた[12]が、チーム内で唯一規定投球回に到達してリーグ2位の15完投を挙げた。同年のオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2イニングをパーフェクトに抑えている。また、MLBのスカウトからは同年に渡米した野茂英雄より高い評価を受けており、シンシナティ・レッズ監督のデーブ・ジョンソンからシーズン中にトレードによる獲得の打診があったという[14]

1996年は4年連続で開幕投手を務め、6月27日のナゴヤ球場での対広島戦では球団史上最速の186試合で1000奪三振を達成する[15]などの活躍で、7月までに9勝を挙げている。しかし、7月16日の東京ドームでの対巨人戦でプロ入り最短の1/3回で降板し、左肩の痛みを訴えた。翌日の検査で左肩関節周囲炎のため2週間の安静が必要という診断を受けて一軍登録を抹消され、直後のオールスターゲームは出場を辞退し、代わりに吉井理人が出場している[15]。この故障の半月前にも腰痛で登板を回避していたが、優勝争いをしているチーム事情もあって1週間後には投球練習を再開し、7月29日に一軍に復帰、8月4日のナゴヤ球場での対巨人戦では1失点完投で勝利を挙げた。その後も左肩の違和感が残ったまま登板を重ねて[15]さらに4勝し、4年連続2ケタ勝利となる14勝を記録している。

現役後半

1997年はキャンプ前に再び左肩を故障して従来とは明らかに異なる痛みを感じ[16]、精密検査により奥の筋肉に損傷が確認された[17]。このため肩の状態を確かめながら負担を抑えるスロー調整をしたものの、オープン戦初登板となった3月20日の対ロッテ戦では球速が最高124km/hにとどまっている[17]。さらに試合後には肩関節周囲炎の再発が判明して投球練習ができなくなり、5年連続の開幕投手を断念した。6月に一軍登録されて6月8日のナゴヤドームでの対巨人戦でリリーフとしてシーズン初登板を果たしたものの、球威やキレが戻らず二軍に戻って再調整を続けた[18]。8月に一軍に復帰して8月15日のナゴヤドームでの対ヤクルト戦でシーズン初先発し、最速143km/hの速球と90km/h台のスローカーブで6回を3安打1失点に抑えて初勝利を挙げた[19]が、同年は2勝に終わっている。例年ノースローだった秋季キャンプでは、投手コーチの宮田征典が止めたにもかかわらず積極的に投球練習を行い、感覚が回復してきたと周囲に語っていた[18]

1998年は肩の状態が回復し、キャンプから筋力強化や遠投などを重ねた。6月5日のナゴヤドームでの対巨人戦では最速140km/hを記録して90km/hのスローカーブも戻り、8回131球を投げ2安打1失点の内容で勝利を挙げて復活の兆しを見せている[20]。しかし好調が持続せず、自身4連敗で迎えた7月9日の対ヤクルト戦に先発して2/3回で5安打4失点とKOされて2勝8敗となると、監督の星野仙一に改めて軟投派への転向を命じられて一軍登録を抹消された[20]。秋からはそれまで強く拒否していたウエイトトレーニングにも進んで取り組み、ランニングや坂路走で下半身を強化し、自身初となる12月の自主トレも行っている[18]

1999年は、2月11日には投球練習を始めるなど早めの調整を行っていたが、一方でブルペンに入るのが怖くなるほど状態が悪化していた[21]。7月15日のナゴヤドームでの対広島戦に先発したものの2回6失点に終わり、福岡市の病院で改めて検査を受けた[13]。当初はリハビリによる治療を考えていたが、良い肩の状態が数日しか続かない状況にケジメをつけるため、炎症の原因だった左肩の滑液包を除去して突起骨を3箇所切除する手術を8月20日に受けている[21]。執刀医が驚くほど患部は悪化していたが5時間かかった手術は成功し、そのまま福岡で数ヶ月間リハビリを続けた。同年は入団後初めてチームがリーグ制覇を果たしたものの、9月30日の神宮での対ヤクルト戦で優勝が決まった時も福岡市内で医師とともに夜釣りをしていたという[3]。ダイエーとの日本シリーズの際には経過報告を兼ねて福岡の宿舎を訪ね、チームメイトに激励の言葉をかけて静かに去っている[21]

2000年は11年ぶりに二軍キャンプでのスタートとなり、初めて一軍登板のないままシーズンを終えた。オフの契約更改は大幅な減俸となって翌年2月までかかり、星野監督からは「契約するだけでも感謝するように」という最後通告を受けている[21]。一方、2001年は1月の伊良湖での合同自主トレで積極的にランニングに取り組む姿勢が投手コーチの山田久志に評価され、2年ぶりに一軍キャンプでのスタートとなった[21]。キャンプ直前の1月30日には読谷球場のブルペンで100球を投げ込み、キャンプ中も投球練習の球数をこなしたが制球に問題があった。オープン戦では球速が最高131km/hにとどまったものの、フォークシュートを駆使して3月3日の対ロッテ戦では4回を1失点に抑えている。しかし野手の状態が上がるに連れて打たれる場面が増え、3月23日の教育リーグでの対阪神戦では5回106球を投げて8安打5四球3失点の内容で、開幕一軍入りを諦めた[22]。同年は7試合に登板したものの、気力の限界などから10月に引退を決意。山田は中継ぎとしての再生を考え[23]、他球団からも獲得の打診があったという[13]。11月10日に引退の記者会見を開いている[13]

現役引退後

2002年よりNHKの野球解説者となり、名古屋の民放局でもゲスト解説を行っているほか中日スポーツ野球評論家も務めている。2009年のパ・リーグ順位予想では日本ハムのリーグ優勝を的中させた。2010年も、中日とソフトバンクの優勝を予想し的中させた。また、プロ野球マスターズリーグでは名古屋80D'sersに所属している。

プレースタイル

投球スタイル

細身の体型から全盛期には145-146km/h[24]の切れの良いストレートと100km/h前後のスローカーブフォークボールや70-80km/hという超スローカーブ[25]を混ぜた投球をしていた。さらに1996年頃からはチェンジアップも使っていた[25]。これらの変化球を意識的に全く同じフォームで投げ分けて打者を翻弄し、捕手中村武志がリリース直前までサイン間違いかと不安になることも少なくなかったという[25]。特にカーブの方がストレートよりも力強く腕を振るように見えたため、打者はストレートに差し込まれたりカーブに体が突っ込んだりしやすくなった[12]

先発の時はいかに完投するかを常に考え、5回まではストレートとカーブで投球を組み立て、打者が3巡目から4巡目に入って慣れてくる6回頃からフォークボールを混ぜていった[26]。フォークは多くても10球程度しか投げなかったが、終盤から球種を増やすことで狙いを絞りにくくさせて主導権を握り、さらに球種の少ない中盤までに攻略しようとして相手が焦る効果もあったという[26]。味方の得点に関わらず3点以内で完投するようなスタイルで、8点取ったら7点までは許すような山本昌とは対照的だったと中村武志は評している[12]。このため、重要な試合では点を取られない所を評価されて先発を任されることが多かった[12]

外角低めの球をベースにしながら、それを活かすためにも内角を有効に使う事を重視していた。内角への投球はコースが甘くなると長打になりやすいため勇気とコントロールが必要だが、外角だけでは踏み込んで打たれるか四球による自滅に繋がると考えていた[27]

スローカーブ

スローカーブは1992年に骨折からのリハビリを機に習得している。復帰直後の対阪神戦で和田豊に対してフルカウントからカーブを投げて珍しく和田から見逃し三振を奪い、手応えを掴んだという[28]人差し指中指をボールの中心からずらして縫い目にかけ、非常にゆるく握って親指は添える程度にしていた。この状態から手首をひねらず、人差し指と親指の間からすっぽ抜けるような感じで顔の前でリリースして投げたという[29]。ベース上に真上から落とすようなイメージで投げ、内外角の投げ分けも出来ていた[12]

打者からはストライクゾーンを外れるほど高い軌道から落ちてくるように見える上、ミットに入る前に空回りして止まりそうになるように感じられたという[9]。このためバッターは腰砕けになる事が多く、トーマス・オマリーをはじめ外国人バッターに特に嫌がられた[12]原辰徳に対して8-9球連続でカーブだけを投げた時には全てファウルになっており[12]、ファウルを打たせるのにもカウントを取るにも有効なボールだった。また反発力がないため打たれても飛ばず[25]、球速が遅いため打者が必ず反応する[10]など使い勝手が良い球だったという。

フォークボール

指が短く開きも狭いため、しっかりボールを挟むフォークボールの習得は諦めていた。しかし1989年の秋季キャンプで握りの浅いスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークを習得し、1991年頃から使うようになった。落差にはバラつきがあったが、1試合の中でハッキリ落ちるのは1球程度と基本的に変化は小さかった[26]。高めに入ると絶好球となるが制球を重視しすぎると腕の振りから見破られるため、低めを意識しながらも腕を強く振ることを重視していたという[5]

握りが浅くなるためフォークは改良がしにくく、練習ではほとんど投げなかった。フォーク自体は痛打されることが多く、首脳陣から試合で投げるなと言われたりもしたが[25]、ストレートやカーブを活かすためにも投げ続けた[16]1994年から対戦するようになった落合博満にも、フォークの存在が非常に大きいと評されている[16]

成績

自身の通算記録では74完投を挙げたことが誇りだったという[8]。与死球が少なく1994年1995年には与死球0の成績を残しているが、「死球の恐怖心がなければ打者は4割打てる」とも語っており[30]、ある程度は死球も止むを得ないと考えていた。対巨人戦で多く登板する先発ローテーションを組まれたこともあってこのカードで25勝を挙げた巨人キラーでもあり[8]金田正一江夏豊の3年連続5勝以上の記録には一歩及ばなかった。

また、左投げながら通算被打率は対左打者で.263(1301打数342安打)、対右打者で.244(3528打数860安打)と左打者によく打たれている[31]。これについては、昔の左打者は外角へ逃げる球を苦手としていたが現代の左打者は左投手のスライダーなどにもうまく対応しており、左対左は投手有利という一般論が必ずしも成り立たない時代になった、と語っている[31]

他の選手との関係

落合博満前田智徳には簡単に安打を打たれるというイメージがあり、走者のいる場面などでは周囲に伝わるほど気合を入れて対決した[11]。この二人が打者として最も印象に残っており、また自身の調子のバロメーターでもあったという[11]。投手では桑田真澄が最も印象に残り、投球に全くバットが当たらなかった事に加え、投げ合って勝った記憶がないというほど相性の悪さを感じていた[11]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1989 中日 10 7 0 0 0 1 4 0 -- .200 200 40.2 71 5 17 0 0 30 1 0 32 31 6.86 2.16
1990 31 19 6 1 1 10 6 1 -- .625 641 144.2 169 12 54 2 4 85 2 0 67 62 3.86 1.57
1991 36 27 8 4 2 12 13 0 -- .480 822 193.0 192 10 59 6 3 167 6 0 66 54 2.52 1.31
1992 11 8 6 1 2 8 2 0 -- .800 294 76.1 52 8 19 2 0 66 0 0 17 15 1.77 0.93
1993 31 30 14 3 0 17 7 1 -- .708 982 249.0 183 20 59 1 2 247 5 0 67 61 2.20 0.98
1994 28 25 14 2 1 13 9 3 -- .591 785 197.0 166 18 42 2 0 156 8 0 68 63 2.88 1.06
1995 25 24 15 3 3 12 9 0 -- .571 773 189.0 178 18 45 2 0 150 6 1 72 69 3.29 1.18
1996 25 24 11 2 1 14 8 0 -- .636 757 179.2 175 13 57 0 1 153 8 0 75 66 3.31 1.30
1997 10 8 0 0 0 2 2 0 -- .500 195 44.2 42 5 19 1 3 18 0 0 23 20 4.03 1.43
1998 14 14 0 0 0 2 8 0 -- .200 276 62.1 64 4 28 2 1 50 1 0 41 37 5.34 1.49
1999 5 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 38 8.0 11 1 1 0 1 6 0 0 7 7 7.88 1.50
2001 7 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 49 11.0 12 1 6 0 0 1 0 0 4 4 3.27 1.64
通算:12年 233 187 74 16 10 91 69 5 -- .569 5812 1395.1 1315 115 406 18 15 1129 37 1 539 489 3.15 1.24
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 14 (1989年 - 2001年)

タイトル・表彰

個人記録

  • 初登板:1989年5月26日、対読売ジャイアンツ戦(ナゴヤ球場)1-4 8回より登板し、2回1失点
  • 初勝利:1989年9月17日、対広島東洋カープ戦(ナゴヤ球場)4-1 先発し、5回1失点
  • 初完投:1990年6月2日、対横浜大洋ホエールズ戦(ナゴヤ球場)5-1 被安打8 奪三振2 四死球1
  • 初セーブ:1990年8月25日、対読売ジャイアンツ戦(ナゴヤ球場)4-3 7回1死より登板、2回2/3無失点
  • 初完封:1990年8月29日、対広島東洋カープ戦(ナゴヤ球場)6-0 被安打8 奪三振3 四死球4

現在の出演番組

著書


脚注

  1. ^ 週刊ベースボール、2001年12月10日号、P.116
  2. ^ フルタの方程式 12月号(テレビ朝日)2009年12月6日放映分にて本人談。
  3. ^ a b c d e 週刊ベースボール、2001年12月10日号、P.118
  4. ^ a b c 週刊ベースボール、1989年4月10日号、P.73
  5. ^ a b 野球小僧、2010年2月号、P.123
  6. ^ a b 週刊ベースボール、1990年4月23日号、P.25
  7. ^ 週刊ベースボール、1990年7月9日号、P.68
  8. ^ a b c d e 週刊ベースボール、2001年12月10日号、P.119
  9. ^ a b c Sportiva、2007年8月号、P.74
  10. ^ a b Sportiva、2008年7月号、P.48
  11. ^ a b c d 週刊ベースボール、2001年12月10日号、P.120
  12. ^ a b c d e f g h Sportiva、2007年8月号、P.75
  13. ^ a b c d 週刊ベースボール、2001年12月10日号、P.117
  14. ^ スポニチ 日めくりプロ野球09年11月
  15. ^ a b c 週刊ベースボール、2001年4月16日号、P.42
  16. ^ a b c 野球小僧、2010年2月号、P.126
  17. ^ a b 週刊ベースボール、1997年4月7日号、P.21
  18. ^ a b c 週刊ベースボール、2001年4月16日号、P.43
  19. ^ 週刊ベースボール、1997年9月1日号、P.18
  20. ^ a b 週刊ベースボール、1998年10月5日号、P.54
  21. ^ a b c d e 週刊ベースボール、2001年4月16日号、P.44
  22. ^ 週刊ベースボール、2001年4月16日号、P.45
  23. ^ 週刊ベースボール、2001年10月1日号、P.126
  24. ^ 週刊ベースボール、1999年3月8日号、P.129
  25. ^ a b c d e 野球小僧、2010年2月号、P.125
  26. ^ a b c 野球小僧、2010年2月号、P.124
  27. ^ 週刊ベースボール、2002年7月15日号、P.13
  28. ^ 今中慎二『悔いは、あります。』ザマサダ、2002年
  29. ^ 週刊ベースボール、2004年6月7日号、P.14
  30. ^ 週刊ベースボール、2002年7月15日号、P.14
  31. ^ a b 週刊ベースボール、2002年7月15日号、P.12

関連項目