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三沢淳

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三沢 淳
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 島根県浜田市
生年月日 (1952-10-01) 1952年10月1日
没年月日 (2022-03-03) 2022年3月3日(69歳没)
身長
体重
182 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1970年 ドラフト3位
初出場 1972年4月16日
最終出場 1986年8月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴

三沢 淳(みさわ じゅん、1952年昭和27年〉10月1日 - 2022年令和4年〉3月3日)は、島根県浜田市出身のプロ野球選手投手)・解説者政治家、元衆議院議員(1期)。

経歴

中学・高校時代

浜田市立第一中学校で野球を始める。主に三塁手を務め、投手もこなしたが、中学当時は上手投げだった。野球部の1年後輩に梨田昌孝がいる。島根県立江津工業高等学校へ進学後、下手投げ投手に転向。同校では3年時の1970年に春夏連続で甲子園出場を果たす。江津工は春夏ともに初出場であった。春の選抜は2回戦(初戦)で北陽高に敗退。夏の選手権では初戦で鹿児島商工に完封勝ちし、県予選から59イニング連続無失点と記録を伸ばす。2回戦で東邦高水谷啓昭に抑えられ敗退[1]

ドラフト指名からプロ入りまで

同年のドラフト会議にて中日ドラゴンズから3位指名を受けるが、交渉権を保留したまま1971年新日鉄広畑へ入社。同年の都市対抗では住友金属から補強された山中正竹を毎試合リリーフして勝ち上がり、決勝での丸善石油戦を制し優勝、小野賞を受賞。他のチームメートに佐々木恭介一塁手がいた。同年、第9回アジア野球選手権大会野球日本代表に選出され日本の準優勝に貢献した。次回のドラフト会議に向けて読売ジャイアンツが指名の動きを見せ、新日鉄のガードも堅い中、ドラフト会議を4日後に控えた1971年11月に中日へ入団。

三沢家が頑なだったのは「プロより先に声を掛けてくれたのが新日鉄だったから」[2]というのが理由。1年遅れでの中日入りも、筋を通す形となった。

現役時代

アンダースローからのシュートを武器に、内野ゴロで打たせて取る投球を持ち味とした。入団2年目となる1973年には10勝8敗を記録し、初の規定投球回(リーグ9位、防御率2.56)に達した。1974年からは先発の一角として起用され11勝、1975年は自己最多の13勝と3年連続2桁勝利をあげる。1978年はチーム最多の55試合に登板。防御率3.40(リーグ7位)の好成績を記録するなど長年主力投手として活躍。しかしシュートを得意とするだけに与死球も多く、1974年1976年にはリーグ最多与死球を記録。左打ちの打撃を得意とし、たびたび好打を見せた。1974年は11勝をあげて20年ぶりのリーグ優勝に貢献。ロッテとの日本シリーズでは2試合にリリーフとして登板した。

1979年6月8日巨人戦(ナゴヤ)では、9回2死から柳田真宏に安打を打たれノーヒットノーランを逃すも、この時点では0-0であり、裏の攻撃で自軍が1点取りサヨナラ勝ちをおさめた。中日在籍中は松本幸行と親交が深かった。

1981年4月4日の巨人戦(後楽園)にて開幕投手を務め、プロ初打席の原辰徳をセカンドフライに討ち取る。

1982年4月22日の巨人戦(平和台)にて中畑清にプロ入り初のサヨナラ3ラン本塁打を浴びる。同年は8勝してリーグ優勝に貢献。

1984年オフ、金銭トレードにて日本ハムファイターズへ移籍。プロ入り初のリリーフ専任となったが好成績を挙げた。

1986年限りで現役を引退。

引退後

引退後は、日本テレビ中京テレビ東海ラジオ野球解説者、中日スポーツ野球評論家(1987年 - 1995年)に就任。ズームイン!!朝!の『プロ野球いれコミ情報』では中京テレビのドラゴンズ担当を長く務めた。1996年から政治家に転身して衆議院議員を1期務める(詳細後述)。

その後は地域の野球教室にて子どもたちへの指導を行うようになり、2013年に制定された学生野球資格回復研修制度によって同年度に資格を回復。アパレル加工会社『シェイク・ハンド企画のぞみ』に勤務しつつ、2017年7月末から春日井商業高校にて無給でコーチを務めた[3]

2022年3月3日、中皮腫により名古屋市内の病院で死去。69歳没。3月6日、中日球団より訃報が伝えられた[4]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1972 中日 33 7 0 0 0 3 5 -- -- .375 306 75.2 58 13 19 1 6 44 0 0 36 31 3.67 1.02
1973 45 9 4 1 0 10 8 -- -- .556 531 137.0 103 13 34 3 6 87 0 1 45 39 2.56 1.00
1974 45 27 7 3 1 11 9 0 -- .550 822 200.2 169 30 55 5 12 90 1 1 97 77 3.45 1.12
1975 38 30 3 2 0 13 7 0 -- .650 748 185.0 163 18 44 5 9 89 0 1 74 66 3.21 1.12
1976 43 33 1 1 0 9 12 1 -- .429 797 176.2 229 34 54 10 12 74 2 2 110 105 5.34 1.60
1977 25 9 0 0 0 4 4 1 -- .500 282 64.2 64 16 22 0 5 49 0 0 38 37 5.12 1.33
1978 55 22 3 1 0 12 9 1 -- .571 789 187.2 185 28 58 4 6 90 2 0 80 71 3.40 1.29
1979 45 28 7 4 1 13 11 0 -- .542 864 203.0 226 28 53 3 9 97 2 0 95 84 3.72 1.37
1980 37 22 4 0 0 8 12 0 -- .400 661 153.2 156 16 52 5 4 81 0 0 78 70 4.09 1.35
1981 37 24 4 0 0 7 10 2 -- .412 685 163.2 159 17 49 9 1 69 0 0 70 61 3.35 1.27
1982 30 25 2 0 1 8 7 0 -- .533 634 144.0 164 14 46 8 5 74 0 1 69 57 3.56 1.46
1983 22 13 1 0 0 4 8 0 -- .333 375 82.2 114 12 20 1 1 39 0 0 59 53 5.77 1.62
1984 30 4 0 0 0 3 3 1 -- .500 192 42.1 52 4 22 4 1 16 1 0 33 28 5.95 1.75
1985 日本ハム 15 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 139 35.0 26 2 12 1 1 12 0 0 9 8 2.06 1.09
1986 5 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 35 8.2 7 0 2 0 0 3 0 0 1 1 1.04 1.04
通算:15年 505 253 36 12 3 107 106 6 -- .502 7860 1860.1 1875 245 542 59 78 914 8 6 894 788 3.81 1.30
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

初記録
  • 初登板・初勝利:1972年4月16日、対読売ジャイアンツ2回戦(中日スタヂアム)、7回表に4番手で救援登板、1回無失点
  • 初奪三振:同上、7回表に森昌彦から
  • 初先発:1972年5月18日、対読売ジャイアンツ8回戦(後楽園球場)、6回3失点で敗戦投手
  • 初先発勝利・初完投勝利:1973年4月28日、対読売ジャイアンツ2回戦(中日スタヂアム)、9回3失点
  • 初完封勝利:1973年9月27日、対大洋ホエールズ19回戦(下関市営球場
  • 初セーブ:1976年10月11日、対広島東洋カープ22回戦(ナゴヤ球場)、7回表に2番手で救援登板・完了、3回無失点
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 11 (1972年 - 1984年)
  • 21 (1985年 - 1986年)

政治家としての経歴

三沢 淳
みさわ じゅん
生年月日 (1952-10-01) 1952年10月1日
出生地 日本の旗 日本 島根県浜田市
没年月日 (2022-03-03) 2022年3月3日(69歳没)
死没地 日本の旗 日本 愛知県名古屋市
出身校 島根県立江津工業高等学校
所属政党新進党→)
自由党→)
(保守党→)
保守新党

選挙区 愛知4区
当選回数 1回
在任期間 1996年10月21日 - 2000年6月2日
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1996年(平成8年)、第41回衆議院議員総選挙にて新進党公認で愛知4区から立候補。自由民主党公認候補の塚本三郎(元民社党委員長)を破り、衆議院議員に初当選を果たした(比例区に単独立候補した元旧公明党委員長石田幸四郎から地盤を継承)。

議員在任中には衆議院内閣委員会理事・青少年特別委員会理事・行政改革特別委員・災害対策特別委員を務める。1999年、訪米を控えMLBシカゴ・カブスの公式戦にて始球式を務める予定だった小渕恵三首相にピッチングを指導した[5]

自由党を経たのち、2000年保守党の結党に参加。同年の第42回衆議院議員総選挙では保守党公認で愛知4区から立候補するが民主党公認候補の牧義夫に敗れ落選。2001年第19回参議院議員通常選挙比例区から立候補するが、再び落選。2003年第43回衆議院議員総選挙には、保守新党公認で愛知6区に国替えする。元新進党所属で参議院議員に転じていた草川昭三(公明党)の事実上の後継として立候補したが落選。以降、選挙には立候補しなかった。

過去のテレビ出演

脚注

  1. ^ 「江津工に大きな歴史刻んだ」 三沢さん死去、球友が人柄しのぶ”. 山陰中央新報 (2022年3月6日). 2024年8月15日閲覧。
  2. ^ 古き良き時代の野球人、また一人逝く…ドラフト指名受けた“1年後”に入団会見 三沢淳さんが通した義理と人情:中日スポーツ・東京中日スポーツ”. 中日スポーツ・東京中日スポーツ. 2022年3月17日閲覧。
  3. ^ “元竜戦士 高校野球で新たな夢 三沢淳さん 春日井商コーチに 長く活躍できる「プロ育てたい」”. 中日スポーツ. (2017年10月25日) 
  4. ^ 中日などで投手として活躍した三沢淳さんが死去 69歳・中皮腫 1996年から衆院議員も1期務める:中日スポーツ・東京中日スポーツ”. 中日スポーツ・東京中日スポーツ. 2022年3月6日閲覧。
  5. ^ “(平成とは 取材メモから:29)20世紀のうちに:7 「だめだ。大統領に聞け」”. 朝日新聞. (2018年9月13日). https://www.asahi.com/articles/DA3S13677492.html 2022年3月7日閲覧。 

関連項目

外部リンク