「今中慎二」の版間の差分
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{{Infobox baseball player |
{{Infobox baseball player |
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|選手名 |
|選手名 = 今中 慎二 |
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|身長 = 182 |
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|利き腕 = 左 |
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|守備位置 = [[投手]] |
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|ドラフト順位 = ドラフト1位 |
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|初出場 = 1989年5月26日 |
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|初出場 = 1989年5月26日 |
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|最終出場 = 2001年7月13日 |
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|年俸 = |
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|年俸 = |
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|経歴 = <nowiki></nowiki> |
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|経歴 = |
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* [[大阪産業大学附属中学校・高等学校|大阪産業大学高等学校大東校舎]] |
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* [[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高等学校]] |
* [[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高等学校]] |
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* [[中日ドラゴンズ]] (1989 - 2001) |
* [[中日ドラゴンズ]] (1989 - 2001) |
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|経歴補足題 = コーチ歴 |
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|経歴補足 = |
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* 中日ドラゴンズ (2012 - 2013) |
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'''今中 慎二'''(いまなか しんじ、[[1971年]][[3月6日]] - )は、[[大阪府]][[門真市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、野球解説者。愛称は「'''チュー'''」 |
'''今中 慎二'''(いまなか しんじ、[[1971年]][[3月6日]] - )は、[[大阪府]][[門真市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]]、左投左打)、[[野球解説者]]・[[野球評論家]]。 |
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[[愛称]]は、先輩からは「'''チュー'''」、同級生からは「'''イマチュー'''」と呼ばれる。 |
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現役時代は[[中日ドラゴンズ]]一筋でプレーし、[[最多勝利]]や[[沢村栄治賞]]を獲得するなど、[[1990年代]]の[[日本プロ野球|NPB]]を代表する左腕として活躍した<ref name="base_20011210_116">「惜別球人 6回 今中慎二『いいときも、悪いときもあった。でも気持ちよくできた13年間でした』」『[[週刊ベースボール]]』、2001年12月10日号、P.116</ref>。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== アマチュア時代 === |
=== アマチュア時代 === |
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大阪府[[門真市]]の[[古川橋駅]]周辺で生まれ<ref name="base_19930830_29">「天才サウスポーの原動力は打倒・巨人の心意気!」『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.29</ref>、3歳年上の兄の影響で[[門真市立浜町中央小学校|浜町小学校]]2年生の時に[[野球]]を始めた<ref name="base_19930830_30">『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.30</ref>。本来は右利きだが、兄が右投げ用の[[グラブ (野球)|グラブ]]を持って行ってしまい<ref>{{Cite web ja |title=「嫌いだったんですよ、巨人が」中学生で乱闘騒動…無気力で受けた"入団テスト" |website=Full-Count |date=2023-11-17 |author=山口真司 |url=https://full-count.jp/2023/11/17/post1472609/ |accessdate=2023-11-17}}</ref>、家のこたつに迷い込んだ[[ペルシャ (ネコ)|ペルシャ猫]]を譲った向かいの中年女性から左利き用のグラブをもらって使い始めたことがきっかけで、左投げになった{{R|base_19930830_30}}。3年生になると兄と同じ[[軟式野球]]チームに入ったが、自ら望んでの入団ではなく、兄が忘れた弁当を届けに行ったところ「明日から練習に来い」と言われての入団であった。4年生からは[[投手]]になった{{R|base_19930830_30}}。[[門真市立第一中学校|門真第一中学]]に進むと同年設立された[[リトルシニア]]チームである門真シニアに入団し、1年目からエースとなっている{{R|base_19930830_30}}。当時から球速があったが、チームの守備力が高くないことなどから大会ではなかなか勝てず、野球を辞めようかとも考えたという{{R|base_19930830_30}}。 |
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本来は右利きだが、小さい頃、近所のおばちゃんにもらった[[グラブ]]がたまたま左利き用で、それを使って練習していたことから左投げになったという(もともとは左投げ右打ちだった)。高校1年の時に母と死別。 |
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大阪産大高校大東校舎に進学後、入学当初は目立った存在ではなかったが、[[山本泰]]監督に徹底的に鍛え上げられ<ref>{{Cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/109266 |title=“おっさん”は8月天国に…愛弟子今中さんから中日・大野雄へ名将の教え マウンドに帽子置いた本当の意味 |newspaper=中日スポーツ・東京中日スポーツ |publisher=[[中日新聞社]] |date=2020-08-24 |accessdate=2024年6月8日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240608030738/https://www.chunichi.co.jp/article/109266 |archivedate=2024年6月8日 }}{{Cite web ja |author=柳川悠二 |date=2017-07-11 |url=https://www.news-postseven.com/archives/20170711_584702.html?DETAIL |title=大阪桐蔭野球部 PLとの差を埋めた「付き人制度の廃止」 |website=[[NEWSポストセブン]] |publisher=[[小学館]] |accessdate=2024年6月8日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210305172018/https://www.news-postseven.com/archives/20170711_584702.html?DETAIL |archivedate=2023年10月20日 }}{{Cite web ja |author=山口真司 |date=2023-11-19 |url=https://full-count.jp/2023/11/19/post1473600/ |title=客前での“懲罰”「今だったらあり得ない」 攻撃中ずっとウサギ飛びの鬼指令 |website=Full-Count |publisher=[[Creative2]] |accessdate=2024年6月8日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231120170758/https://full-count.jp/2023/11/19/post1473600/ |archivedate=2023年10月20日 }}</ref>、見違えるような[[速球]]を投げるようになり、同校を訪れた[[阪神タイガース]]スカウトの[[田丸仁]]からも高評価を受けたという{{R|base_19930830_30}}。1年夏の[[全国高等学校野球選手権大阪大会|大阪府大会]]からベンチ入りを果たし、秋の府大会では準々決勝の対[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]戦に登板した。この試合は0対1で敗れたものの、[[立浪和義]]や[[野村弘樹|野村弘]]を擁して翌年に[[甲子園連覇|春夏連覇]]を果たす強豪を相手に1失点に抑え、[[日本プロ野球|NPB]]の[[スカウト_(勧誘)|スカウト]]らから注目を集めるようになった{{R|base_19930830_30}}。2年の冬には[[クモ膜下出血]]で母を亡くし、精神的に大きく落ち込んだが<ref name="base_19930830_31">『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.31</ref>、3年時になると精神的に立ち直り、将来のプロ入りを明確に目指すようになった。 |
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[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高等学校]](入学時は[[大阪産業大学附属中学校・高等学校|大阪産業大学高等学校]]大東校舎、3年の時に改称)では甲子園出場経験は無い。 |
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3年生に進級した1988年度より大東校舎は[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高校]]として独立する。3年夏の大阪府大会では15個の三振を奪いながら延長戦の末に初戦で敗退し<ref name="base_20011210_118">『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.118</ref>、甲子園に出場することはなかった。[[就職]]を予定しており[[日本生命]]に内定していた<ref name="doradamaking20241023-1">[https://twitter.com/cbcradiodragons/status/1849031555890712621 ドラゴンズスペシャル] ドラ魂キング 2024年10月23日</ref>が、[[球速]]145 [[キロメートル毎時|km/h]]の[[速球]]<ref name="base_19890410_73">「期待のドラフト1位クンの中間報告 今中慎二」『週刊ベースボール』、1989年4月10日号、P.73</ref>などによって全球団のスカウトが来校{{R|base_20011210_118}}するほど高い注目を集めており、[[1988年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1988年度ドラフト会議]]で[[中日ドラゴンズ]]から1位指名を受けた<ref>{{Cite web ja |url=https://www.chunichi.co.jp/article/439513 |title=制度として無い『逆指名作戦』…中日は今中慎二の“一本釣り”にこうして成功した 2位で大豊獲得の会心ドラフト |website=中日スポーツ・東京中日スポーツ |date=2022-03-23 |accessdate=2024-04-20}}</ref>。ドラフト会議当日のことについて今中は「多くの報道カメラが待ち構えていて、名前が呼ばれた瞬間はカメラのシャッター音しか聞こえなかった」と述懐している<ref name="doradamaking20241023-2">[https://twitter.com/cbcradiodragons/status/1849031810459812291 ドラゴンズスペシャル] ドラ魂キング 2024年10月23日</ref>。担当スカウトは[[中田宗男]]{{R|doradamaking20241023-1}}で、契約金と年俸それぞれ6000万円、480万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる<ref>『読売新聞』、1988年12月4日付朝刊、P.19</ref>。同期には、[[バッテリー (野球)|バッテリー]]を組んでいた[[桐山明佳]](1988年に[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]に[[ドラフト外入団|ドラフト外]]で入団)がいる。 |
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大阪桐蔭時代、初先発の試合の相手投手が、当時、[[大阪府立成城高等学校|大阪府立成城工業高等学校]]のエースピッチャーだった[[野茂英雄]](高3)であった。その試合、今中(高1)は野茂に投げ勝ったという{{要出典}}。 |
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=== プロ選手時代 === |
=== プロ選手時代 === |
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==== 現役前半 ==== |
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{{by|1988年}}の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]1位で[[中日ドラゴンズ]]に入団。高卒ルーキーながら1年目から一軍で活躍し、2年目の{{by|1990年}}には10勝をマーク。{{by|1991年}}には[[佐々岡真司]](広島)との[[最優秀防御率]]のタイトル争いのため、シーズン最終戦の[[ダブルヘッダー]]に連続して先発するものの、タイトルは逃す。 |
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{{by|1989年}}は[[近藤真市|近藤真一]]や[[上原晃]]の例に倣い、[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]から[[オープン戦]]の期間は[[中日ドラゴンズ (ファーム)|二軍]]([[ウエスタン・リーグ]])でランニングなど体力の強化や守備練習に明け暮れた{{R|base_19890410_73}}。バッテリーコーチの[[新宅洋志]]や二軍投手コーチの[[稲葉光雄]]の指導を受けてフォーム修正や体力向上に取り組み{{R|base_19890410_73}}、早くも5月26日には[[ナゴヤ球場]]での対[[読売ジャイアンツ]](巨人)戦で一軍([[セントラル・リーグ]])初登板を果たした{{R|base_20011210_118}}。9月17日の[[広島市民球場 (初代)|広島]]での対[[広島東洋カープ]]戦では先発して[[北別府学]]と投げ合い、2回に[[肉刺|マメ]]を潰しながらも[[アロンアルフア]]で固めて5回を投げ{{R|base_20011210_118}}プロ初勝利を挙げた。オフの秋季キャンプには[[ロサンゼルス・ドジャース]]から臨時コーチが来ており、当時[[メジャーリーグベースボール|MLB]]で流行していた[[フォークボール|スプリット・フィンガード・ファストボール]]系のフォークボールを習得した<ref name="kozo_201002_123">「オレに訊くな! ストレートとカーブの本格派左腕・今中慎二(元中日)に訊く フォークの使い方を教えて下さい」『野球小僧』、2010年2月号、P.123</ref>。 |
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{{by|1990年}}、キャンプで投手コーチの[[池田英俊]]にフォロースルーなどを指導されてストレートの伸びや変化球のキレが改善した<ref name="base_19900423_25">「人物ショートシヨート 開幕一軍て、本当に楽しいですネ! もはや左腕エースの扱い。星野監督は西本とあわせて30勝の皮算用」『週刊ベースボール』、1990年4月23日号、P.25</ref>。また、[[シンカー・スクリューボール|シンカー]]の習得にも挑戦した<ref>『読売新聞』、1990年3月2日付朝刊、P.19</ref>。3月4日に守備練習でノックの球を膝に当ててノースローの調整が続いたが、3月24日に[[豊橋市民球場]]で行われた[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]とのオープン戦では[[村田勝喜]]と投げ合って、5回で61球を投げ2安打無四球で無失点の好投を見せた{{R|base_19900423_25}}。開幕後は将来の左のエースとしての期待をかけられ、主に先発として起用された<ref name="base_19900709_68">「テクニカル・ポイント 中日・今中慎二 制球を気にしすぎて上体だけの投げ方に」『週刊ベースボール』、1990年7月9日号、P.68</ref>。当時はまだ漫然と投げるようなところがあった<ref name="base_20011210_119">『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.119</ref>ものの、[[先発ローテーション]]に定着して6完投を記録、[[規定投球回]]にも到達して10勝を記録している。 |
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{{by|1993年}}には[[開幕投手]]を務め、17勝7敗、防御率2.20で最多勝、最多奪三振、[[沢村栄治賞|沢村賞]](審査項目をすべて満たした[[20世紀]]で最後の投手となった)、[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]、[[ゴールデングラブ賞]]のタイトルを独占(最多勝は同僚[[山本昌]]、横浜の[[野村弘樹]]と3人の左腕で分け合う)。{{by|1993年}}7月6日には1試合16奪三振を記録(当時のセ・リーグ最多タイ記録)。{{by|1994年}}の[[10.8決戦]]で先発したが、集中打を浴びて4回5失点で降板、敗戦投手となる。 |
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{{by|1991年}}、[[1991年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に初めて出場し、第2戦の7回から2イニングを投げ1安打無失点に抑えている。同年は[[佐々岡真司]]との[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]を争い、シーズン最終戦の[[ダブルヘッダー]]に連続して先発したものの[[防御率]]0.08の差でタイトルを逃した。この年の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦で救援に失敗した際、[[プロ野球監督|監督]]の[[星野仙一]]が激怒してコンクリート製の火鉢を何度も蹴って骨折したことがあった。こればかりは今中に非はないが「今中の行動が遠因で起きたこと」として今中のエピソードとして語られることもある<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2018/01/07/0010876132.shtml |title=「怒られたけど、使ってくれた」 山本、中村、立浪、今中「4兄弟」が星野氏悼む |website=デイリースポーツ online |publisher=株式会社デイリースポーツ |date=2018-01-07 |accessdate=2022-11-17}}</ref>。 |
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{{by|1996年}}7月に左肩を痛めたが、優勝争いの為に酷使し登板、以降は不振に陥った。{{by|1999年}}に手術を行い、{{by|2001年}}に復活のマウンドに立つが、[[直球|ストレート]]は120km/h台前半で以前の球威は戻らず、同年限りで現役引退。なお、現役最後に奪った三振は[[松井秀喜]]から。 |
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星野に代わって[[高木守道]]が監督に就任した{{by|1992年}}は4月19日の対巨人戦でゴロの打球が左手首に当たって[[骨折]]し、3か月後の夏場に復帰している<ref name="sportiva_200708_74">「魔球伝説 『今中慎二のカーブを捕った』中村武志」『[[Sportiva]]』、2007年8月号、P.74</ref>。骨折が直って間もない頃はなかなか握力が戻らず、軽くキャッチボールをしても手首に鋭い痛みが走った。しかし、なぜか[[カーブ (球種)|カーブ]]だけは痛みがなく投げられたため、[[リハビリテーション|リハビリ]]としてカーブだけを用いた遠投キャッチボールを続けた。最初のうちはコントロールがつかなかったが次第にコツを掴み、これが今中の決め球ともいえる[[スローカーブ]]を習得したきっかけだという<ref name="sportiva_200807_48">「魔球伝説2008 本人が解説! カーブ 今中慎二 わざと不安定に握ることがコツ」『Sportiva』、2008年7月号、P.48</ref>{{R|sportiva_200708_74}}、また前腕の筋肉を鍛える中で左肘の[[離断性骨軟骨炎|遊離軟骨]]が偶然くっついたとも述べている<ref>『読売新聞』、1993年2月6日付朝刊、P.18</ref>。同年は11試合の登板に終わったものの8勝2敗で防御率1.77の成績を残している。 |
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[[2002年]]より[[日本放送協会|NHK]]の野球解説者となり、しばしば名古屋の民放局でゲスト解説を行っている。[[中日スポーツ]]野球評論家も務める。また、[[プロ野球マスターズリーグ]]の名古屋80D'sersに参加しており、現役時代より落差の大きいカーブを投げている。 |
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{{by|1993年}}、自身初の[[開幕投手]]を務め、開幕4連勝の後で5連敗を喫したがそこから大きく巻き返し{{R|base_20011210_119}}、7月6日の対ヤクルト戦では当時のセ・リーグ最多タイ記録となる1試合16奪三振を記録した。2年ぶりに出場した[[1993年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]では第1戦に2番手として登板し、2回を投げ4安打2失点だった。同年は先発で週に1、2回は登板し{{R|base_20011210_119}}、249イニングを投げている。また、9月2日のナゴヤ球場での対ヤクルト戦では9回二死から[[池山隆寛]]に同点本塁打を打たれ、延長まで投げ続けたものの15回引き分けに終わって首位浮上のチャンスを逃した。この試合は翌年の[[10.8決戦]]と並んで、現役時代で最も印象に残っているという<ref name="base_20011210_120">『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.120</ref>。同年の最終的な成績は17勝7敗、防御率2.20、247奪三振で[[最多勝利]]、[[最多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]]などに輝き、審査項目を全て満たして[[沢村栄治賞|沢村賞]]を受賞した。ちなみに、1990年代で審査項目を全て満たしたのは、今中以外には1991年の佐々岡真司のみである。また、[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]と[[ゴールデングラブ賞]]にも選出されている。 |
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==== 投球・その他 ==== |
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細身の体型から華麗なフォーム(しなるような腕の振り)で最速140km/h台後半の切れの良いストレートと遅い時には80km/h台のカーブ(スローカーブという呼称も用いられる)を全く同じフォームで投げ分ける緩急自在のピッチングで、打者が[[ストレート]]に完全に振り遅れ、スローカーブを腰を引きながら見逃してしまうこともあった。時には肩口から入ってきたスローカーブを打者のバットがストライクゾーンの内角高めを空振りし、そのボールが外角低目のボールゾーンのミットに収まるほど落差が大きかった。 |
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{{by|1994年}}、[[1994年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]で第2戦の9回に登板し、[[イチロー]]らを三者凡退に打ち取っている。同年はチームがシーズン最終戦まで巨人と激しく優勝を争い、中2日や中3日の先発が続いたが痛みなどを訴えることはなかった。[[10.8決戦]]では試合に先立って[[中村武志]]ら選手会の面々に「勝っても負けてもいいから先発して欲しい」と頼み込まれるほど信頼を集めており、4回5失点で降板して敗戦投手となったものの他の選手達に悔いはなかったという<ref name="sportiva_200708_75">『Sportiva』、2007年8月号、P.75</ref>。同年の夏頃から左肩の状態が徐々に悪化していったと、今中自身は後に語っている<ref name="base_20011210_117">『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.117</ref>。 |
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このスローカーブであるが、プロに入って3年ぐらいまでは投げていなかった。投げられるようになったきっかけはほんの偶然からであった。{{by|1992年}}4月19日の対巨人戦で左手首に打球が当たるアクシデントがあった。翌日、骨折が判明し、9針を縫う手術を行った。リハビリの際に手首を軟らかくする運動に取り組み、キャッチボールでは直球を投げると手首が痛くなるのでは、という不安からカーブばかりを放った。その年に戦列復帰を果たすと復帰してすぐの阪神戦で[[和田豊]]に対してカウント2ストライク3ボールからストレートのサインに首を振りカーブを投げると和田はあっさり見逃し三振に倒れた。そのときのキャッチャーの[[中村武志]]は今中が今まで落差の大きいカーブを投げていなかったため「どうしたんや。今のカーブは?」と驚いたという。今中自身も後のインタビューにて、放った瞬間には完全にすっぽ抜けたと感じたものの、それが急激に曲がりちょうど良い場所に決まった。普段見逃し三振など滅多にしない和田から見逃し三振を取れて驚き、これはいいぞと手応えを掴んだ、という内容のことを話している<ref>著書『悔いは、あります。』より</ref><ref>[[イチロー]]が今中に「サインください」とインタビュー中に頼んだ事がある。</ref><ref>肩にメスを入れてからは見違えてストレートの球筋が伸びなくなり、図らずも「肩にメスを入れた投手は復活できない」ことを体現してしまった。</ref>。 |
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{{by|1995年}}、疲労などでカーブなど球のキレが悪くなっていた{{R|sportiva_200708_75}}が、チーム内で唯一規定投球回に到達してリーグ2位の15完投を挙げた。[[1995年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]では第1戦に2番手として登板し、2イニングをパーフェクトに抑えている。また[[メジャーリーグベースボール|MLB]]のスカウトからは、同年に渡米して[[ロサンゼルス・ドジャース]]でプレーした[[野茂英雄]]より高い評価を受けており、[[シンシナティ・レッズ]]監督の[[デーブ・ジョンソン]]からシーズン中にトレードによる獲得の打診があったという。しかし本人の知らない所での話であり、本人もMLBに興味はなかったと後に語っている<ref>{{Cite web ja |title=故障隠して登板も「真面目に投げろ」 つらかった痛烈野次…球速出ない異変に「嘘でしょ」 |url=https://full-count.jp/2023/11/30/post1478852/ |website=Full-Count |date=2023-11-30 |access-date=2023-11-30}}</ref>。 |
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また与死球が極めて少ない投手だった。日本プロ野球では平均すると約30イニングにつき1回死球が出るが、今中は下記成績のとおり、1994、1995年には与死球0という快挙を達成している。本人も内角攻めは必要だが、あくまで打者が避けなくても当たらないくらいまでに限られるという内容の話をしており、今中の制球力の高さをうかがわせる。奪三球三振の多い投手でもある。巨人キラーでもあり、対巨人戦25勝20敗、3年連続5勝以上の[[金田正一]]、[[江夏豊]]の記録に一歩及ばなかった。 |
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星野が監督に復帰した{{by|1996年}}、4年連続で開幕投手を務め、6月27日のナゴヤ球場での対広島戦では球団史上最速の186試合で1000奪三振を達成する{{R|base_20010416_42}}などの活躍で、7月までに9勝を挙げている。しかし、7月16日の[[東京ドーム]]での対巨人戦でプロ入り最短の1/3回で降板し、左肩の痛みを訴えた。翌日の検査で左肩関節周囲炎のため2週間の安静が必要という診断を受けて一軍登録を抹消され、直後の[[1996年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]は出場を辞退し、代わりに[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]]が出場している<ref name="base_20010416_42">「にんげんドキュメント 野球浪漫 2回 今中慎二 天才サウスポーの孤独な闘い」『週刊ベースボール』、2001年4月16日号、P.42</ref>。この故障の半月前にも腰痛で登板を回避していたが、優勝争いをしているチーム事情もあって1週間後には投球練習を再開し、7月29日に一軍に復帰、8月4日のナゴヤ球場での対巨人戦では1失点完投で勝利を挙げた。その後も左肩の違和感が残ったまま登板を重ねて{{R|base_20010416_42}}更に4勝し、4年連続2ケタ勝利となる14勝を記録している。また、その間の9月24日の[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦([[横浜スタジアム]])では、6失点しながらも完投で13勝目を挙げたが、試合前のウォーミングアップで右手人差し指を骨折していた中での投球だった<ref>{{Cite web ja |title=故障隠して登板も「真面目に投げろ」 つらかった痛烈野次…球速出ない異変に「嘘でしょ」 |url=https://full-count.jp/2023/11/30/post1478852/ |website=Full-Count |date=2023-11-30 |access-date=2023-11-30}}</ref>。 |
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==== 1994年10月8日 ==== |
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下記『悔いは、あります。』によると、この日の今中の一日は次のとおりであった。なお、同書は、全236頁中24頁<ref group="悔いは、あります。">p.126~149</ref>をこの10.8決戦の描写にかけ、そのほかにもこの試合への言及が数箇所ある。 |
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* 7:00過ぎ |
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: 意味不明な電話で目が覚め、起床した。 |
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* いつもはだいたい14時過ぎの球場入りを上記の影響もあり、少し早めにした。また、普段は自分の自動車であるが、この日は、球団からの指示もあり、タクシーにした。 |
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* 試合開始2時間前 |
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: トレーニングルームで、いつものとおり、テーピングを巻いてもらった。 |
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* 18:20(原典による。実際は18:00) |
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: 巨人の先頭打者[[ヘンリー・コトー]]に第一球を投じて試合開始となった。 |
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* 試合終了後 |
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: この試合で負傷した[[立浪和義]]とともにタクシーに乗り込み、帰宅し、そのままベッドに倒れこみ、眠りについた。 |
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==== 現役後半 ==== |
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{{by|1997年}}、キャンプ前に再び左肩を故障して従来とは明らかに異なる痛みを感じ<ref name="kozo_201002_126">『野球小僧』、2010年2月号、P.126</ref>、精密検査により奥の筋肉に損傷が確認された<ref name="base_19970407_21">「中日・今中が開幕を断念」『週刊ベースボール』、1997年4月7日号、P.21</ref>。このため肩の状態を確かめながら負担を抑えるスローペースな調整をしたものの、オープン戦初登板となった3月20日の対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦では球速が最高124km/hにとどまっている{{R|base_19970407_21}}。更に試合後には肩関節周囲炎の再発が判明して投球練習ができなくなり、5年連続の開幕投手を断念した。6月に一軍登録され、6月8日の[[ナゴヤドーム]]での対巨人戦で[[リリーフ]]としてシーズン初登板を果たしたものの、球威やキレが戻らず二軍に戻って再調整を続けた<ref name="base_20010416_43">『週刊ベースボール』、2001年4月16日号、P.43</ref>。8月に一軍に復帰して8月15日のナゴヤドームでの対ヤクルト戦でシーズン初先発し、最速143km/hの速球と90km/h台のスローカーブで6回を3安打1失点に抑えて初勝利を挙げた<ref name="base_19970901_18">「遅すぎたエース復活 今中(中日)」『週刊ベースボール』、1997年9月1日号、P.18</ref>が、同年は2勝に終わっている。例年ノースローだった秋季キャンプでは、投手コーチの[[宮田征典]]が止めたにもかかわらず積極的に投球練習を行い、感覚が回復してきたと周囲に語っていた{{R|base_20010416_43}}。同年オフの12月6日には[[フジチク (名古屋市の企業)|フジチク]]の副社長を務めていた藤村芳行の長女との結婚披露宴を挙げ、星野や[[鈴木礼治]]([[愛知県知事一覧|愛知県知事]])、[[松岡利勝]](衆議院議員)、[[葛西敬之]]([[東海旅客鉄道]]代表取締役)らが出席<ref>『[[週刊文春]]』第44巻第23号(通巻:第2181号)、2002年6月13日号、26-31頁「星野仙一と鈴木宗男 絡み合いすぎる人脈と金脈 深層レポート「知られざる素顔」第2弾」([[文藝春秋]])</ref>、[[鈴木宗男]]夫妻が[[媒酌人]]を務めている<ref>『読売新聞』、1997年12月7日付朝刊、P.35</ref>。 |
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[[2009年]]のパリーグ順位予想で解説者で唯一[[北海道日本ハムファイターズ]]のリーグ優勝を予想したが見事に北海道日本ハムはリーグ優勝を果たした。 |
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{{by|1998年}}、肩の状態が回復し、キャンプから筋力強化や遠投などを重ねた。5月16日の横浜戦(ナゴヤドーム)では先発した1回に1点を失ったものの、その後は直球で押し、5回1失点の成績でシーズン2勝目を挙げたが<ref>『[[中日新聞]]』1998年5月17日朝刊第一スポーツ面29面「セ・リーグ 第7節 今中2勝、山崎猛打賞 継投竜、最後はサムソン」</ref><ref>『[[東京新聞]]』1998年5月17日朝刊第一スポーツ面21面「セ・リーグ 中日が快勝」</ref>、結果的にこの勝利が現役生活最後の勝ち星となった。6月5日のナゴヤドームでの対巨人戦では最速140 km/hを記録して90km/hのスローカーブも戻り、8回131球を投げ2安打1失点の内容で復活の兆しを見せた<ref name="base_19981005_54">「こんなハズじゃなかった… 今中慎二 速球派か?軟投派か?今が勝負どころの元エース」『週刊ベースボール』、1998年10月5日号、P.54</ref>。しかし好調が持続せず、自身4連敗で迎えた7月9日の対ヤクルト戦に先発して2/3回で5安打4失点とKOされて2勝8敗となると、監督の星野に改めて軟投派への転向を命じられて一軍登録を抹消された{{R|base_19981005_54}}。秋からはそれまで強く拒否していた[[ウエイトトレーニング]]にも進んで取り組み、ランニングや坂路走で下半身を強化し、自身初となる12月の自主トレも行った{{R|base_20010416_43}}。この年の契約更改は12月20日の16時に球団事務所で行う予定だったが、早めに家を出たにもかかわらず、名古屋市内の繁華街において、大渋滞に巻き込まれたことや同日17時にチームメイトである[[門倉健]]の結婚披露宴を控えており、今中や球団幹部も出席する予定だったことから、契約更改の場を急遽結婚式場に変更した上で行われた<ref>{{Cite web ja |title=なぜ? 「年俸ダウン」なのに祝福ムード…契約更改で起きたまさかの“珍事” |url=https://dot.asahi.com/articles/-/63178 |website=AERA dot. |date=2021-11-23 |accessdate=2021-11-23 |author=久保田龍雄 |page=1}}</ref>。 |
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{{by|1999年}}、2月11日には投球練習を始めるなど早めの調整を行っていたが、一方でブルペンに入るのが怖くなるほど左肩の状態が悪化していた<ref name="base_20010416_44">『週刊ベースボール』、2001年4月16日号、P.44</ref>。7月15日のナゴヤドームでの対広島戦に先発したものの2回6失点に終わり、[[福岡市]]の病院で改めて検査を受けた{{R|base_20011210_117}}。当初はリハビリによる治療を考えていたが、良い肩の状態が数日しか続かない状況にケジメをつけるため、炎症の原因だった左肩の滑液包を除去して突起骨を3箇所切除する手術を8月20日に受けている{{R|base_20010416_44}}。執刀医が驚くほど患部は悪化していたが5時間かかった手術は成功し、そのまま福岡で数ヶ月間リハビリを続けた。同年は入団後初めてチームがリーグ制覇を果たしたものの、9月30日の[[明治神宮野球場|神宮]]での対ヤクルト戦で優勝が決まった時も福岡市内で医師と共に夜釣りをしていたという{{R|base_20011210_118}}。結局、このシーズンはプロ入り初の未勝利に終わり、自身プロ入団後初のリーグ優勝には貢献できなかった。ダイエーとの[[1999年の日本シリーズ|日本シリーズ]]の際には経過報告を兼ねて[[福岡市|福岡]]の宿舎を訪ね、チームメイトに激励の言葉をかけて静かに去っている{{R|base_20010416_44}}。 |
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{{by|2000年}}、11年ぶりに二軍キャンプでのスタートとなり、初めて一軍登板のないままシーズンを終えた。オフの契約更改は大幅な減俸となって翌年2月までかかり、星野監督からは「契約するだけでも感謝するように」という最後通告を受けている{{R|base_20010416_44}}。 |
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{{by|2001年}}は1月の[[伊良湖岬]]での合同自主トレで積極的にランニングに取り組む姿勢が投手コーチの[[山田久志]]に評価され、2年ぶりに一軍キャンプでのスタートとなった{{R|base_20010416_44}}。キャンプ直前の1月30日には[[読谷平和の森球場|読谷球場]]のブルペンで100球を投げ込み、キャンプ中も投球練習の球数をこなしたが制球に問題があった。オープン戦では球速が最高131km/hにとどまったものの、[[フォークボール|フォーク]]や[[シュート (球種)|シュート]]やこの年新しく試していたまっスラ([[カット・ファスト・ボール|カットボール]])を駆使して3月3日の対ロッテ戦では4回を1失点に抑えている。しかし野手の状態が上がるに連れて打たれる場面が増え、3月23日の教育リーグでの対[[阪神タイガース|阪神]]戦では5回106球を投げて8安打5四球3失点の内容で、開幕一軍入りを諦めた<ref name="base_20010416_45">『週刊ベースボール』、2001年4月16日号、P.45</ref>。同年は2年ぶりに一軍登板は果たしたがプロ入り初の一軍先発無しの7試合に登板にとどまり、星野監督の辞任発表翌日の9月26日に児玉光雄球団代表補佐から戦力外通告を受けた。これを機に気力の限界などから10月に引退を決意。山田は中継ぎとしての再生を考え<ref name="base_20011001_126">「残留か?退団か?その去就が注目される人たち」『週刊ベースボール』、2001年10月1日号、P.126</ref>、阪神からはテスト参加の誘いがあるなど<ref>{{Cite web ja |title=復活に苦心も「来年は契約できない」 肩は限界、阪神の誘い断念…選んだ“中日一筋” |url=https://full-count.jp/2023/12/01/post1479527/ |website=Full-Count |date=2023-12-01 |access-date=2023-11-30}}</ref>、他球団からも獲得の打診があったという{{R|base_20011210_117}}。11月10日に引退の記者会見を開いた{{R|base_20011210_117}}。 |
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=== 現役引退後 === |
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{{by|2002年}}3月23日にナゴヤドームでの[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]とのオープン戦の際に引退セレモニーが行なわれ、[[谷佳知]]と対戦した後に長男から花束が贈呈された<ref>『読売新聞』、2002年3月24日付朝刊、P.31</ref>。中日の選手の引退セレモニーがオープン戦で開かれるのは1997年の[[郭源治]]以来であり、今中の次は2010年の[[立浪和義]]であった。また、同年より[[日本放送協会|NHK]]の野球解説者となり、名古屋の民放局でもゲスト解説を行っているほか[[中日スポーツ]]野球評論家も務めている。 |
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{{by|2009年}}のパ・リーグ順位予想では日本ハムのリーグ優勝を的中させた。 |
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{{by|2010年}}も、中日とソフトバンクの優勝を予想し的中させた。また、[[プロ野球マスターズリーグ]]では名古屋80D'sersに所属している。 |
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{{by|2012年}}シーズンより古巣・中日の二軍投手コーチに就任。同シーズン後に[[権藤博]]一軍投手コーチが退団したことに伴い、一軍投手コーチに就任した。 |
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{{by|2013年}}当初はブルペン担当だったが、チームの不振により6月12日の対西武戦から[[近藤真市]]投手コーチと入れ替わりでベンチ担当となった。10月15日、球団より翌年の契約を結ばないことが発表された<ref>{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20131022220215/http://dragons.jp/news/2013/13101501.html |title=来季の契約について |website=中日ドラゴンズ 公式サイト |date=2013-10-15 |accessdate=2013-10-23}}</ref>。 |
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{{by|2014年}}からは再びNHKの野球解説者(主に総合テレビ東海ローカルの中日主管試合、BSのメジャーリーグ中継に出演)として活動する。 |
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== 選手としての特徴 == |
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=== 投球スタイル === |
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細身の体型から全盛期には最速150km/h近い<ref name="base_19990308_129">「今中慎二(復活かけて-背水の男たち)」『週刊ベースボール』、1999年3月8日号、P.129</ref>キレの良い[[速球]]と100km/h前後の[[カーブ (球種)|スローカーブ]]に[[フォークボール]]や70-80km/hの超スローカーブ{{R|kozo_201002_125}}を混ぜた投球をしていた。さらに1996年頃からは[[チェンジアップ]]も使っていた<ref name="kozo_201002_125">『野球小僧』、2010年2月号、P.125</ref>。これらの変化球を意識的に全く同じフォームで投げ分けて打者を翻弄し、[[捕手]]の[[中村武志]]がリリース直前までサイン間違いかと不安になることも少なくなかったという{{R|kozo_201002_125}}。特にカーブの方がストレートよりも力強く腕を振るように見えるフォームだったため、打者はストレートに差し込まれたりカーブに体が突っ込んだりしやすくなった{{R|sportiva_200708_75}}。 |
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先発の時はいかに完投するかを常に考え、5回まではストレートとカーブで投球を組み立て、打者が3巡目から4巡目に入って慣れてくる6回頃から[[フォークボール]]を混ぜていった<ref name="kozo_201002_124">『野球小僧』、2010年2月号、P.124</ref>。フォークは多くても10球程度しか投げなかったが、終盤から球種を増やすことで狙いを絞りにくくさせて主導権を握り、さらに球種の少ない中盤までに攻略しようとして相手が焦る効果もあったという{{R|kozo_201002_124}}。味方の得点に関わらず3点以内で完投するようなスタイルで、8点取ったら7点までは許すような[[山本昌]]とは対照的だったと中村武志は評している{{R|sportiva_200708_75}}。このため、重要な試合では点を取られない所を評価されて先発を任されることが多かった{{R|sportiva_200708_75}}。 |
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外角低めの球をベースにしながら、それを活かすためにも内角を有効に使うことを重視していた。内角への投球はコースが甘くなると長打になりやすいため勇気とコントロールが必要だが、外角だけでは踏み込んで打たれるか四球による自滅に繋がると考えていた<ref name="base_20020715_13">「レフティーの不思議 左対左の虚と実 左ピッチャーの秘密 左打者との対戦で何を考える? 今中慎二氏に聞く」『週刊ベースボール』、2002年7月15日号、P.13</ref>。 |
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=== スローカーブ === |
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スローカーブは1992年に骨折からのリハビリを機に習得している。復帰直後の対阪神戦で[[和田豊]]に対してフルカウントからカーブを投げて珍しく和田から見逃し三振を奪い、手応えを掴んだという<ref>今中慎二『悔いは、あります。』ザマサダ、2002年</ref>。[[人差し指]]と[[中指]]をボールの中心からずらして縫い目にかけ、非常にゆるく握って[[親指]]は添える程度にしていた。この状態から手首をひねらず、人差し指と親指の間からすっぽ抜けるような感じで顔の前でリリースして投げたという<ref name="base_20040607_14">「プロが公開『特上の握り』 変化球大図鑑 テクニカル・ポイント カーブ編 今中慎二」『週刊ベースボール』、2004年6月7日号、P.14</ref>。ベース上に真上から落とすようなイメージで投げ、内外角の投げ分けも出来ていた{{R|sportiva_200708_75}}。 |
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打者からはストライクゾーンを外れるほど高い軌道から落ちてくるように見える上、ミットに入る前に空回りして止まりそうになるように感じられたという{{R|sportiva_200708_74}}。このため打者は腰砕けになることが多く、[[トーマス・オマリー]]をはじめ外国人打者に特に嫌がられた{{R|sportiva_200708_75}}。[[原辰徳]]に対して8-9球連続でカーブだけを投げた時には全て[[ファウルボール|ファウル]]になっており{{R|sportiva_200708_75}}、ファウルを打たせるのにもカウントを取るにも有効なボールだった。また反発力がないため打たれても飛ばず{{R|kozo_201002_125}}、球速が遅いため打者が必ず反応する{{R|sportiva_200807_48}}など使い勝手が良い球だったという。 |
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=== フォークボール === |
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指が短く開きも狭いため、しっかりボールを挟むフォークボールの習得は諦めていた。しかし1989年の秋季キャンプで握りの浅いスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークを習得し、1991年頃から使うようになった。落差にはバラつきがあったが、1試合の中でハッキリ落ちるのは1球程度と基本的に変化は小さかった{{R|kozo_201002_124}}。高めに入ると絶好球となるが制球を重視しすぎると腕の振りから見破られるため、低めを意識しながらも腕を強く振ることを重視していたという{{R|kozo_201002_123}}。 |
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握りが浅くなるためフォークは改良がしにくく、練習ではほとんど投げなかった。フォーク自体は痛打されることが多く、首脳陣から試合で投げるなと言われたりもしたが{{R|kozo_201002_125}}、ストレートやカーブを活かすためにも投げ続けた{{R|kozo_201002_126}}。1994年から対戦するようになった[[落合博満]]にも、フォークの存在が非常に大きいと評されている{{R|kozo_201002_126}}。 |
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=== 成績 === |
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自身の通算記録では74[[完投]]を挙げたことが誇りだったという{{R|base_20011210_119}}。与[[死球]]が少なく1994年と1995年には与死球0の成績を残しているが、「死球の恐怖心がなければ打者は4割打てる」とも語っており<ref name="base_20020715_14">『週刊ベースボール』、2002年7月15日号、P.14</ref>、ある程度は死球も止むを得ないと考えていた。また、同時に敬遠も少ない年では先発としてフルシーズンを投げ敬遠0の記録も持っている。対巨人戦で多く登板する[[先発ローテーション]]を組まれたこともあり、当該カードは通算25勝を挙げた巨人キラーであるが{{R|base_20011210_119}}、[[金田正一]]や[[江夏豊]]の3年連続対巨人戦5勝以上の記録には一歩及ばなかった。 |
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また、左投げながら通算被打率は対左打者で.263(1301打数342安打)、対右打者で.244(3528打数860安打)と対左打者の方が相性が悪い<ref name="base_20020715_12">『週刊ベースボール』、2002年7月15日号、P.12</ref>。これについては、「昔の左打者は外角へ逃げる球を苦手としていたが現代の左打者は左投手のスライダーなどにもうまく対応しており、左対左は投手有利という一般論が必ずしも成り立たない時代になった」、と引退後の2002年に語っている{{R|base_20020715_12}}。 |
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25歳までに通算85勝をあげながら、その後の故障で100勝に届くことなくユニフォームを脱いだ。同時期に台頭し、50歳まで現役を貫き219勝をマークした僚友・山本昌の息の長さと対照的となった。だが、中日ファンへ残した印象は山本に劣らず強いものがあり、磐石の二枚エースぶりとともに長く語り伝えられている。 |
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== 他の選手との関係 == |
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[[落合博満]]と[[前田智徳]]には簡単に安打を打たれるというイメージがあり、走者のいる場面などでは周囲に伝わるほど気合を入れて対決した{{R|base_20011210_120}}。この2人が打者として最も印象に残っており、また自身の調子のバロメーターでもあったという{{R|base_20011210_120}}。投手では[[桑田真澄]]が最も印象に残り、投球に全くバットが当たらなかったことに加え、投げ合って勝った記憶がないというほど相性の悪さを感じていた{{R|base_20011210_120}}。 |
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正捕手を務めていた[[中村武志]]への信頼は厚く、引退後に出演した『[[サンデードラゴンズ]]』内で中村からの餞別ビデオを見た際に涙を流す一面を見せた<ref>サンデードラゴンズ 2001年11月11日放送</ref>。 |
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== 詳細情報 == |
== 詳細情報 == |
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=== 年度別投手成績 === |
=== 年度別投手成績 === |
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{| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}} |
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|- |
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|style="text-align:center"|{{by2|1989}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1989}} |
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|rowspan="12" style="text-align:center"|[[中日ドラゴンズ|中日]] |
|rowspan="12" style="text-align:center;white-space:nowrap;"|[[中日ドラゴンズ|中日]] |
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|10||7||0||0||0||1||4||0||--||.200||200||40.2||71||5||17||0||0||30||1||0||32||31||6.86||2.16 |
|10||7||0||0||0||1||4||0||--||.200||200||40.2||71||5||17||0||0||30||1||0||32||31||6.86||2.16 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1990}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1990}} |
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|31||19||6||1||1||10||6||1||--||.625||641||144.2||169||12||54||2||4||85||2||0||67||62||3.86||1.57 |
|31||19||6||1||1||10||6||1||--||.625||641||144.2||169||12||54||2||4||85||2||0||67||62||3.86||1.57 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1991}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1991}} |
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|36||27||8||4||2||12||13||0||--||.480||822||193.0||192||10||59||6||3||167||6||0||66||54||2.52||1.31 |
|36||27||8||4||2||12||13||0||--||.480||822||193.0||192||10||59||6||3||167||6||0||66||54||2.52||1.31 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1992}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1992}} |
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|11||8||6||1||2||8||2||0||--||.800||294||76.1||52||8||19||2||0||66||0||0||17||15||1.77||0.93 |
|11||8||6||1||2||8||2||0||--||.800||294||76.1||52||8||19||2||0||66||0||0||17||15||1.77||0.93 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1993}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1993}} |
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|31||30||'''14'''||3||0||'''17'''||7||1||--||.708||982||'''249.0'''||183||20||59||1||2||'''247'''||5||0||67||61||2.20||0.98 |
|31||'''30'''||'''14'''||3||0||'''17'''||7||1||--||.708||'''982'''||'''249.0'''||183||20||59||1||2||'''247'''||5||0||67||61||2.20||0.98 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1994}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1994}} |
||
|28||25||14||2||1||13||9||3||--||.591||785||197.0||166||18||42||2||0||156||8||0||68||63||2.88||1.06 |
|28||25||'''14'''||2||1||13||9||3||--||.591||785||197.0||166||18||42||2||0||156||8||0||68||63||2.88||1.06 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1995}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1995}} |
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|25||24||15||3||3||12||9||0||--||.571||773||189.0||178||18||45||2||0||150||6||1||72||69||3.29||1.18 |
|25||24||15||3||'''3'''||12||9||0||--||.571||773||189.0||178||18||45||2||0||150||6||1||72||69||3.29||1.18 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1996}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1996}} |
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|25||24||11||2||1||14||8||0||--||.636||757||179.2||175||13||57||0||1||153||8||0||75||66||3.31||1.30 |
|25||24||11||2||1||14||8||0||--||.636||757||179.2||175||13||57||0||1||153||8||0||75||66||3.31||1.30 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1997}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1997}} |
||
|10||8||0||0||0||2||2||0||--||.500||195||44.2||42||5||19||1||3||18||0||0||23||20||4.03||1.43 |
|10||8||0||0||0||2||2||0||--||.500||195||44.2||42||5||19||1||3||18||0||0||23||20||4.03||1.43 |
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|- |
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|style="text-align:center"|{{by2|1998}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1998}} |
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|14||14||0||0||0||2||8||0||--||.200||276||62.1||64||4||28||2||1||50||1||0||41||37||5.34||1.49 |
|14||14||0||0||0||2||8||0||--||.200||276||62.1||64||4||28||2||1||50||1||0||41||37||5.34||1.49 |
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|- |
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|style="text-align:center"|{{by2|1999}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1999}} |
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!colspan="2"|通算:12年 |
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|233||187||74||16||10||91||69||5||--||.569||5812||1395.1||1315||115||406||18||15 |
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* 各年度の'''太字'''はリーグ最高 |
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高 |
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=== タイトル === |
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* |
* [[最多勝利]]:1回(1993年) |
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* [[最多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]]:1回(1993年) |
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=== 表彰 === |
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* [[沢村栄治 |
* [[沢村栄治賞]]:1回(1993年) |
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* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:1回(投手部門:1993年) |
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* [[最多勝利]]:1回 (1993年) |
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* [[ |
* [[ゴールデングラブ賞]]:1回(投手部門:1993年) |
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* [[最優秀投手]]:1回 |
* [[最優秀投手]]:1回(1993年) |
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* [[ |
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:1回(投手部門:1991年8月) |
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* [[ |
* [[IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞]]:1回(1993年) |
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* 優秀[[JCB・MEP賞]]:2回(1993年、1995年) |
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=== |
=== 記録 === |
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; 初記録 |
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* 初登板:1989年5月26日、対[[読売ジャイアンツ]]戦([[ナゴヤ球場]])1-4 8回より登板し、2回1失点 |
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* 初 |
* 初登板:1989年5月26日、対[[読売ジャイアンツ]]9回戦([[ナゴヤ球場]])、8回表に3番手で救援登板・完了、2回1失点 |
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* 初奪三振:同上、8回表に[[篠塚和典|篠塚利夫]]から |
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* 初完投:1990年6月2日、対[[横浜ベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]戦(ナゴヤ球場)5-1 被安打8 奪三振2 四死球1 |
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* 初 |
* 初先発登板:1989年5月30日、対[[広島東洋カープ]]5回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、4回3失点で敗戦投手 |
||
* 初 |
* 初勝利:1989年9月17日、対広島東洋カープ22回戦(ナゴヤ球場)、5回1失点 |
||
* 初完投勝利:1990年6月2日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]8回戦(ナゴヤ球場)、9回1失点 |
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* 初セーブ:1990年8月25日、対読売ジャイアンツ19回戦(ナゴヤ球場)、7回表一死に2番手で救援登板・完了、2回2/3無失点 |
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* 初完封勝利:1990年8月29日、対広島東洋カープ23回戦(ナゴヤ球場) |
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* 初本塁打:1996年4月23日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]4回戦([[明治神宮野球場]])、3回表に[[テリー・ブロス]]から右越ソロ |
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; 節目の記録 |
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* 1000投球回数:1995年7月6日、対読売ジャイアンツ15回戦(ナゴヤ球場) ※史上261人目 |
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* 1000奪三振:1996年6月27日、対広島東洋カープ14回戦(ナゴヤ球場)、5回表に[[金本知憲]]から ※史上97人目 |
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; その他の記録 |
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* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:4回(1991年、1993年 - 1995年) ※1996年も選出されるも出場辞退<ref>『[[ベースボール・レコード・ブック]]1997』、1996年12月発売、P.828</ref> |
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=== 背番号 === |
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* '''14'''(1989年 - 2001年) |
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* '''71'''(2012年 - 2013年) |
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== 関連情報 == |
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=== 出演番組 === |
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* [[NHKプロ野球]] |
* [[NHKプロ野球]] |
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* [[サンデードラゴンズ]] |
* [[サンデードラゴンズ]] |
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* [[どですか!|土曜どですか!]] |
* [[どですか!|土曜どですか!]] |
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== 著書 == |
=== 著書 === |
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* 『悔いは、あります。』([[ザ・マサダ]] |
* 『悔いは、あります。』([[ザ・マサダ]]、2002年5月、ISBN 4883970787) |
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* 『中日ドラゴンズ論:"不気味"さに隠された勝利の方程式』([[ベストセラーズ]](ベスト新書)、2010年10月、ISBN 4584123047) |
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<references group="悔いは、あります。" /> |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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<div class="references-small"><references /></div> |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 関連項目 == |
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* [[中日ドラゴンズの選手一覧]] |
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2024年10月23日 (水) 21:43時点における最新版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府門真市 |
生年月日 | 1971年3月6日(53歳) |
身長 体重 |
182 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1988年 ドラフト1位 |
初出場 | 1989年5月26日 |
最終出場 | 2001年7月13日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
| |
この表について
|
今中 慎二(いまなか しんじ、1971年3月6日 - )は、大阪府門真市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)、野球解説者・野球評論家。
愛称は、先輩からは「チュー」、同級生からは「イマチュー」と呼ばれる。
現役時代は中日ドラゴンズ一筋でプレーし、最多勝利や沢村栄治賞を獲得するなど、1990年代のNPBを代表する左腕として活躍した[1]。
経歴
[編集]アマチュア時代
[編集]大阪府門真市の古川橋駅周辺で生まれ[2]、3歳年上の兄の影響で浜町小学校2年生の時に野球を始めた[3]。本来は右利きだが、兄が右投げ用のグラブを持って行ってしまい[4]、家のこたつに迷い込んだペルシャ猫を譲った向かいの中年女性から左利き用のグラブをもらって使い始めたことがきっかけで、左投げになった[3]。3年生になると兄と同じ軟式野球チームに入ったが、自ら望んでの入団ではなく、兄が忘れた弁当を届けに行ったところ「明日から練習に来い」と言われての入団であった。4年生からは投手になった[3]。門真第一中学に進むと同年設立されたリトルシニアチームである門真シニアに入団し、1年目からエースとなっている[3]。当時から球速があったが、チームの守備力が高くないことなどから大会ではなかなか勝てず、野球を辞めようかとも考えたという[3]。
大阪産大高校大東校舎に進学後、入学当初は目立った存在ではなかったが、山本泰監督に徹底的に鍛え上げられ[5]、見違えるような速球を投げるようになり、同校を訪れた阪神タイガーススカウトの田丸仁からも高評価を受けたという[3]。1年夏の大阪府大会からベンチ入りを果たし、秋の府大会では準々決勝の対PL学園戦に登板した。この試合は0対1で敗れたものの、立浪和義や野村弘を擁して翌年に春夏連覇を果たす強豪を相手に1失点に抑え、NPBのスカウトらから注目を集めるようになった[3]。2年の冬にはクモ膜下出血で母を亡くし、精神的に大きく落ち込んだが[6]、3年時になると精神的に立ち直り、将来のプロ入りを明確に目指すようになった。
3年生に進級した1988年度より大東校舎は大阪桐蔭高校として独立する。3年夏の大阪府大会では15個の三振を奪いながら延長戦の末に初戦で敗退し[7]、甲子園に出場することはなかった。就職を予定しており日本生命に内定していた[8]が、球速145 km/hの速球[9]などによって全球団のスカウトが来校[7]するほど高い注目を集めており、1988年度ドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受けた[10]。ドラフト会議当日のことについて今中は「多くの報道カメラが待ち構えていて、名前が呼ばれた瞬間はカメラのシャッター音しか聞こえなかった」と述懐している[11]。担当スカウトは中田宗男[8]で、契約金と年俸それぞれ6000万円、480万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる[12]。同期には、バッテリーを組んでいた桐山明佳(1988年に日本ハムファイターズにドラフト外で入団)がいる。
プロ選手時代
[編集]現役前半
[編集]1989年は近藤真一や上原晃の例に倣い、キャンプからオープン戦の期間は二軍(ウエスタン・リーグ)でランニングなど体力の強化や守備練習に明け暮れた[9]。バッテリーコーチの新宅洋志や二軍投手コーチの稲葉光雄の指導を受けてフォーム修正や体力向上に取り組み[9]、早くも5月26日にはナゴヤ球場での対読売ジャイアンツ(巨人)戦で一軍(セントラル・リーグ)初登板を果たした[7]。9月17日の広島での対広島東洋カープ戦では先発して北別府学と投げ合い、2回にマメを潰しながらもアロンアルフアで固めて5回を投げ[7]プロ初勝利を挙げた。オフの秋季キャンプにはロサンゼルス・ドジャースから臨時コーチが来ており、当時MLBで流行していたスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークボールを習得した[13]。
1990年、キャンプで投手コーチの池田英俊にフォロースルーなどを指導されてストレートの伸びや変化球のキレが改善した[14]。また、シンカーの習得にも挑戦した[15]。3月4日に守備練習でノックの球を膝に当ててノースローの調整が続いたが、3月24日に豊橋市民球場で行われた福岡ダイエーホークスとのオープン戦では村田勝喜と投げ合って、5回で61球を投げ2安打無四球で無失点の好投を見せた[14]。開幕後は将来の左のエースとしての期待をかけられ、主に先発として起用された[16]。当時はまだ漫然と投げるようなところがあった[17]ものの、先発ローテーションに定着して6完投を記録、規定投球回にも到達して10勝を記録している。
1991年、オールスターゲームに初めて出場し、第2戦の7回から2イニングを投げ1安打無失点に抑えている。同年は佐々岡真司との最優秀防御率を争い、シーズン最終戦のダブルヘッダーに連続して先発したものの防御率0.08の差でタイトルを逃した。この年の対ヤクルトスワローズ戦で救援に失敗した際、監督の星野仙一が激怒してコンクリート製の火鉢を何度も蹴って骨折したことがあった。こればかりは今中に非はないが「今中の行動が遠因で起きたこと」として今中のエピソードとして語られることもある[18]。
星野に代わって高木守道が監督に就任した1992年は4月19日の対巨人戦でゴロの打球が左手首に当たって骨折し、3か月後の夏場に復帰している[19]。骨折が直って間もない頃はなかなか握力が戻らず、軽くキャッチボールをしても手首に鋭い痛みが走った。しかし、なぜかカーブだけは痛みがなく投げられたため、リハビリとしてカーブだけを用いた遠投キャッチボールを続けた。最初のうちはコントロールがつかなかったが次第にコツを掴み、これが今中の決め球ともいえるスローカーブを習得したきっかけだという[20][19]、また前腕の筋肉を鍛える中で左肘の遊離軟骨が偶然くっついたとも述べている[21]。同年は11試合の登板に終わったものの8勝2敗で防御率1.77の成績を残している。
1993年、自身初の開幕投手を務め、開幕4連勝の後で5連敗を喫したがそこから大きく巻き返し[17]、7月6日の対ヤクルト戦では当時のセ・リーグ最多タイ記録となる1試合16奪三振を記録した。2年ぶりに出場したオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2回を投げ4安打2失点だった。同年は先発で週に1、2回は登板し[17]、249イニングを投げている。また、9月2日のナゴヤ球場での対ヤクルト戦では9回二死から池山隆寛に同点本塁打を打たれ、延長まで投げ続けたものの15回引き分けに終わって首位浮上のチャンスを逃した。この試合は翌年の10.8決戦と並んで、現役時代で最も印象に残っているという[22]。同年の最終的な成績は17勝7敗、防御率2.20、247奪三振で最多勝利、最多奪三振などに輝き、審査項目を全て満たして沢村賞を受賞した。ちなみに、1990年代で審査項目を全て満たしたのは、今中以外には1991年の佐々岡真司のみである。また、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出されている。
1994年、オールスターゲームで第2戦の9回に登板し、イチローらを三者凡退に打ち取っている。同年はチームがシーズン最終戦まで巨人と激しく優勝を争い、中2日や中3日の先発が続いたが痛みなどを訴えることはなかった。10.8決戦では試合に先立って中村武志ら選手会の面々に「勝っても負けてもいいから先発して欲しい」と頼み込まれるほど信頼を集めており、4回5失点で降板して敗戦投手となったものの他の選手達に悔いはなかったという[23]。同年の夏頃から左肩の状態が徐々に悪化していったと、今中自身は後に語っている[24]。
1995年、疲労などでカーブなど球のキレが悪くなっていた[23]が、チーム内で唯一規定投球回に到達してリーグ2位の15完投を挙げた。同年のオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2イニングをパーフェクトに抑えている。またMLBのスカウトからは、同年に渡米してロサンゼルス・ドジャースでプレーした野茂英雄より高い評価を受けており、シンシナティ・レッズ監督のデーブ・ジョンソンからシーズン中にトレードによる獲得の打診があったという。しかし本人の知らない所での話であり、本人もMLBに興味はなかったと後に語っている[25]。
星野が監督に復帰した1996年、4年連続で開幕投手を務め、6月27日のナゴヤ球場での対広島戦では球団史上最速の186試合で1000奪三振を達成する[26]などの活躍で、7月までに9勝を挙げている。しかし、7月16日の東京ドームでの対巨人戦でプロ入り最短の1/3回で降板し、左肩の痛みを訴えた。翌日の検査で左肩関節周囲炎のため2週間の安静が必要という診断を受けて一軍登録を抹消され、直後のオールスターゲームは出場を辞退し、代わりに斎藤隆が出場している[26]。この故障の半月前にも腰痛で登板を回避していたが、優勝争いをしているチーム事情もあって1週間後には投球練習を再開し、7月29日に一軍に復帰、8月4日のナゴヤ球場での対巨人戦では1失点完投で勝利を挙げた。その後も左肩の違和感が残ったまま登板を重ねて[26]更に4勝し、4年連続2ケタ勝利となる14勝を記録している。また、その間の9月24日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)では、6失点しながらも完投で13勝目を挙げたが、試合前のウォーミングアップで右手人差し指を骨折していた中での投球だった[27]。
現役後半
[編集]1997年、キャンプ前に再び左肩を故障して従来とは明らかに異なる痛みを感じ[28]、精密検査により奥の筋肉に損傷が確認された[29]。このため肩の状態を確かめながら負担を抑えるスローペースな調整をしたものの、オープン戦初登板となった3月20日の対ロッテ戦では球速が最高124km/hにとどまっている[29]。更に試合後には肩関節周囲炎の再発が判明して投球練習ができなくなり、5年連続の開幕投手を断念した。6月に一軍登録され、6月8日のナゴヤドームでの対巨人戦でリリーフとしてシーズン初登板を果たしたものの、球威やキレが戻らず二軍に戻って再調整を続けた[30]。8月に一軍に復帰して8月15日のナゴヤドームでの対ヤクルト戦でシーズン初先発し、最速143km/hの速球と90km/h台のスローカーブで6回を3安打1失点に抑えて初勝利を挙げた[31]が、同年は2勝に終わっている。例年ノースローだった秋季キャンプでは、投手コーチの宮田征典が止めたにもかかわらず積極的に投球練習を行い、感覚が回復してきたと周囲に語っていた[30]。同年オフの12月6日にはフジチクの副社長を務めていた藤村芳行の長女との結婚披露宴を挙げ、星野や鈴木礼治(愛知県知事)、松岡利勝(衆議院議員)、葛西敬之(東海旅客鉄道代表取締役)らが出席[32]、鈴木宗男夫妻が媒酌人を務めている[33]。
1998年、肩の状態が回復し、キャンプから筋力強化や遠投などを重ねた。5月16日の横浜戦(ナゴヤドーム)では先発した1回に1点を失ったものの、その後は直球で押し、5回1失点の成績でシーズン2勝目を挙げたが[34][35]、結果的にこの勝利が現役生活最後の勝ち星となった。6月5日のナゴヤドームでの対巨人戦では最速140 km/hを記録して90km/hのスローカーブも戻り、8回131球を投げ2安打1失点の内容で復活の兆しを見せた[36]。しかし好調が持続せず、自身4連敗で迎えた7月9日の対ヤクルト戦に先発して2/3回で5安打4失点とKOされて2勝8敗となると、監督の星野に改めて軟投派への転向を命じられて一軍登録を抹消された[36]。秋からはそれまで強く拒否していたウエイトトレーニングにも進んで取り組み、ランニングや坂路走で下半身を強化し、自身初となる12月の自主トレも行った[30]。この年の契約更改は12月20日の16時に球団事務所で行う予定だったが、早めに家を出たにもかかわらず、名古屋市内の繁華街において、大渋滞に巻き込まれたことや同日17時にチームメイトである門倉健の結婚披露宴を控えており、今中や球団幹部も出席する予定だったことから、契約更改の場を急遽結婚式場に変更した上で行われた[37]。
1999年、2月11日には投球練習を始めるなど早めの調整を行っていたが、一方でブルペンに入るのが怖くなるほど左肩の状態が悪化していた[38]。7月15日のナゴヤドームでの対広島戦に先発したものの2回6失点に終わり、福岡市の病院で改めて検査を受けた[24]。当初はリハビリによる治療を考えていたが、良い肩の状態が数日しか続かない状況にケジメをつけるため、炎症の原因だった左肩の滑液包を除去して突起骨を3箇所切除する手術を8月20日に受けている[38]。執刀医が驚くほど患部は悪化していたが5時間かかった手術は成功し、そのまま福岡で数ヶ月間リハビリを続けた。同年は入団後初めてチームがリーグ制覇を果たしたものの、9月30日の神宮での対ヤクルト戦で優勝が決まった時も福岡市内で医師と共に夜釣りをしていたという[7]。結局、このシーズンはプロ入り初の未勝利に終わり、自身プロ入団後初のリーグ優勝には貢献できなかった。ダイエーとの日本シリーズの際には経過報告を兼ねて福岡の宿舎を訪ね、チームメイトに激励の言葉をかけて静かに去っている[38]。
2000年、11年ぶりに二軍キャンプでのスタートとなり、初めて一軍登板のないままシーズンを終えた。オフの契約更改は大幅な減俸となって翌年2月までかかり、星野監督からは「契約するだけでも感謝するように」という最後通告を受けている[38]。
2001年は1月の伊良湖岬での合同自主トレで積極的にランニングに取り組む姿勢が投手コーチの山田久志に評価され、2年ぶりに一軍キャンプでのスタートとなった[38]。キャンプ直前の1月30日には読谷球場のブルペンで100球を投げ込み、キャンプ中も投球練習の球数をこなしたが制球に問題があった。オープン戦では球速が最高131km/hにとどまったものの、フォークやシュートやこの年新しく試していたまっスラ(カットボール)を駆使して3月3日の対ロッテ戦では4回を1失点に抑えている。しかし野手の状態が上がるに連れて打たれる場面が増え、3月23日の教育リーグでの対阪神戦では5回106球を投げて8安打5四球3失点の内容で、開幕一軍入りを諦めた[39]。同年は2年ぶりに一軍登板は果たしたがプロ入り初の一軍先発無しの7試合に登板にとどまり、星野監督の辞任発表翌日の9月26日に児玉光雄球団代表補佐から戦力外通告を受けた。これを機に気力の限界などから10月に引退を決意。山田は中継ぎとしての再生を考え[40]、阪神からはテスト参加の誘いがあるなど[41]、他球団からも獲得の打診があったという[24]。11月10日に引退の記者会見を開いた[24]。
現役引退後
[編集]2002年3月23日にナゴヤドームでのオリックス・ブルーウェーブとのオープン戦の際に引退セレモニーが行なわれ、谷佳知と対戦した後に長男から花束が贈呈された[42]。中日の選手の引退セレモニーがオープン戦で開かれるのは1997年の郭源治以来であり、今中の次は2010年の立浪和義であった。また、同年よりNHKの野球解説者となり、名古屋の民放局でもゲスト解説を行っているほか中日スポーツ野球評論家も務めている。
2009年のパ・リーグ順位予想では日本ハムのリーグ優勝を的中させた。
2010年も、中日とソフトバンクの優勝を予想し的中させた。また、プロ野球マスターズリーグでは名古屋80D'sersに所属している。
2012年シーズンより古巣・中日の二軍投手コーチに就任。同シーズン後に権藤博一軍投手コーチが退団したことに伴い、一軍投手コーチに就任した。
2013年当初はブルペン担当だったが、チームの不振により6月12日の対西武戦から近藤真市投手コーチと入れ替わりでベンチ担当となった。10月15日、球団より翌年の契約を結ばないことが発表された[43]。
2014年からは再びNHKの野球解説者(主に総合テレビ東海ローカルの中日主管試合、BSのメジャーリーグ中継に出演)として活動する。
選手としての特徴
[編集]投球スタイル
[編集]細身の体型から全盛期には最速150km/h近い[44]キレの良い速球と100km/h前後のスローカーブにフォークボールや70-80km/hの超スローカーブ[45]を混ぜた投球をしていた。さらに1996年頃からはチェンジアップも使っていた[45]。これらの変化球を意識的に全く同じフォームで投げ分けて打者を翻弄し、捕手の中村武志がリリース直前までサイン間違いかと不安になることも少なくなかったという[45]。特にカーブの方がストレートよりも力強く腕を振るように見えるフォームだったため、打者はストレートに差し込まれたりカーブに体が突っ込んだりしやすくなった[23]。
先発の時はいかに完投するかを常に考え、5回まではストレートとカーブで投球を組み立て、打者が3巡目から4巡目に入って慣れてくる6回頃からフォークボールを混ぜていった[46]。フォークは多くても10球程度しか投げなかったが、終盤から球種を増やすことで狙いを絞りにくくさせて主導権を握り、さらに球種の少ない中盤までに攻略しようとして相手が焦る効果もあったという[46]。味方の得点に関わらず3点以内で完投するようなスタイルで、8点取ったら7点までは許すような山本昌とは対照的だったと中村武志は評している[23]。このため、重要な試合では点を取られない所を評価されて先発を任されることが多かった[23]。
外角低めの球をベースにしながら、それを活かすためにも内角を有効に使うことを重視していた。内角への投球はコースが甘くなると長打になりやすいため勇気とコントロールが必要だが、外角だけでは踏み込んで打たれるか四球による自滅に繋がると考えていた[47]。
スローカーブ
[編集]スローカーブは1992年に骨折からのリハビリを機に習得している。復帰直後の対阪神戦で和田豊に対してフルカウントからカーブを投げて珍しく和田から見逃し三振を奪い、手応えを掴んだという[48]。人差し指と中指をボールの中心からずらして縫い目にかけ、非常にゆるく握って親指は添える程度にしていた。この状態から手首をひねらず、人差し指と親指の間からすっぽ抜けるような感じで顔の前でリリースして投げたという[49]。ベース上に真上から落とすようなイメージで投げ、内外角の投げ分けも出来ていた[23]。
打者からはストライクゾーンを外れるほど高い軌道から落ちてくるように見える上、ミットに入る前に空回りして止まりそうになるように感じられたという[19]。このため打者は腰砕けになることが多く、トーマス・オマリーをはじめ外国人打者に特に嫌がられた[23]。原辰徳に対して8-9球連続でカーブだけを投げた時には全てファウルになっており[23]、ファウルを打たせるのにもカウントを取るにも有効なボールだった。また反発力がないため打たれても飛ばず[45]、球速が遅いため打者が必ず反応する[20]など使い勝手が良い球だったという。
フォークボール
[編集]指が短く開きも狭いため、しっかりボールを挟むフォークボールの習得は諦めていた。しかし1989年の秋季キャンプで握りの浅いスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークを習得し、1991年頃から使うようになった。落差にはバラつきがあったが、1試合の中でハッキリ落ちるのは1球程度と基本的に変化は小さかった[46]。高めに入ると絶好球となるが制球を重視しすぎると腕の振りから見破られるため、低めを意識しながらも腕を強く振ることを重視していたという[13]。
握りが浅くなるためフォークは改良がしにくく、練習ではほとんど投げなかった。フォーク自体は痛打されることが多く、首脳陣から試合で投げるなと言われたりもしたが[45]、ストレートやカーブを活かすためにも投げ続けた[28]。1994年から対戦するようになった落合博満にも、フォークの存在が非常に大きいと評されている[28]。
成績
[編集]自身の通算記録では74完投を挙げたことが誇りだったという[17]。与死球が少なく1994年と1995年には与死球0の成績を残しているが、「死球の恐怖心がなければ打者は4割打てる」とも語っており[50]、ある程度は死球も止むを得ないと考えていた。また、同時に敬遠も少ない年では先発としてフルシーズンを投げ敬遠0の記録も持っている。対巨人戦で多く登板する先発ローテーションを組まれたこともあり、当該カードは通算25勝を挙げた巨人キラーであるが[17]、金田正一や江夏豊の3年連続対巨人戦5勝以上の記録には一歩及ばなかった。
また、左投げながら通算被打率は対左打者で.263(1301打数342安打)、対右打者で.244(3528打数860安打)と対左打者の方が相性が悪い[51]。これについては、「昔の左打者は外角へ逃げる球を苦手としていたが現代の左打者は左投手のスライダーなどにもうまく対応しており、左対左は投手有利という一般論が必ずしも成り立たない時代になった」、と引退後の2002年に語っている[51]。
25歳までに通算85勝をあげながら、その後の故障で100勝に届くことなくユニフォームを脱いだ。同時期に台頭し、50歳まで現役を貫き219勝をマークした僚友・山本昌の息の長さと対照的となった。だが、中日ファンへ残した印象は山本に劣らず強いものがあり、磐石の二枚エースぶりとともに長く語り伝えられている。
他の選手との関係
[編集]落合博満と前田智徳には簡単に安打を打たれるというイメージがあり、走者のいる場面などでは周囲に伝わるほど気合を入れて対決した[22]。この2人が打者として最も印象に残っており、また自身の調子のバロメーターでもあったという[22]。投手では桑田真澄が最も印象に残り、投球に全くバットが当たらなかったことに加え、投げ合って勝った記憶がないというほど相性の悪さを感じていた[22]。
正捕手を務めていた中村武志への信頼は厚く、引退後に出演した『サンデードラゴンズ』内で中村からの餞別ビデオを見た際に涙を流す一面を見せた[52]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | 中日 | 10 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | -- | .200 | 200 | 40.2 | 71 | 5 | 17 | 0 | 0 | 30 | 1 | 0 | 32 | 31 | 6.86 | 2.16 |
1990 | 31 | 19 | 6 | 1 | 1 | 10 | 6 | 1 | -- | .625 | 641 | 144.2 | 169 | 12 | 54 | 2 | 4 | 85 | 2 | 0 | 67 | 62 | 3.86 | 1.57 | |
1991 | 36 | 27 | 8 | 4 | 2 | 12 | 13 | 0 | -- | .480 | 822 | 193.0 | 192 | 10 | 59 | 6 | 3 | 167 | 6 | 0 | 66 | 54 | 2.52 | 1.31 | |
1992 | 11 | 8 | 6 | 1 | 2 | 8 | 2 | 0 | -- | .800 | 294 | 76.1 | 52 | 8 | 19 | 2 | 0 | 66 | 0 | 0 | 17 | 15 | 1.77 | 0.93 | |
1993 | 31 | 30 | 14 | 3 | 0 | 17 | 7 | 1 | -- | .708 | 982 | 249.0 | 183 | 20 | 59 | 1 | 2 | 247 | 5 | 0 | 67 | 61 | 2.20 | 0.98 | |
1994 | 28 | 25 | 14 | 2 | 1 | 13 | 9 | 3 | -- | .591 | 785 | 197.0 | 166 | 18 | 42 | 2 | 0 | 156 | 8 | 0 | 68 | 63 | 2.88 | 1.06 | |
1995 | 25 | 24 | 15 | 3 | 3 | 12 | 9 | 0 | -- | .571 | 773 | 189.0 | 178 | 18 | 45 | 2 | 0 | 150 | 6 | 1 | 72 | 69 | 3.29 | 1.18 | |
1996 | 25 | 24 | 11 | 2 | 1 | 14 | 8 | 0 | -- | .636 | 757 | 179.2 | 175 | 13 | 57 | 0 | 1 | 153 | 8 | 0 | 75 | 66 | 3.31 | 1.30 | |
1997 | 10 | 8 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | -- | .500 | 195 | 44.2 | 42 | 5 | 19 | 1 | 3 | 18 | 0 | 0 | 23 | 20 | 4.03 | 1.43 | |
1998 | 14 | 14 | 0 | 0 | 0 | 2 | 8 | 0 | -- | .200 | 276 | 62.1 | 64 | 4 | 28 | 2 | 1 | 50 | 1 | 0 | 41 | 37 | 5.34 | 1.49 | |
1999 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 38 | 8.0 | 11 | 1 | 1 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 7 | 7 | 7.88 | 1.50 | |
2001 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 49 | 11.0 | 12 | 1 | 6 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 4 | 3.27 | 1.64 | |
通算:12年 | 233 | 187 | 74 | 16 | 10 | 91 | 69 | 5 | -- | .569 | 5812 | 1395.1 | 1315 | 115 | 406 | 18 | 15 | 1129 | 37 | 1 | 539 | 489 | 3.15 | 1.24 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
[編集]表彰
[編集]- 沢村栄治賞:1回(1993年)
- ベストナイン:1回(投手部門:1993年)
- ゴールデングラブ賞:1回(投手部門:1993年)
- 最優秀投手:1回(1993年)
- 月間MVP:1回(投手部門:1991年8月)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(1993年)
- 優秀JCB・MEP賞:2回(1993年、1995年)
記録
[編集]- 初記録
- 初登板:1989年5月26日、対読売ジャイアンツ9回戦(ナゴヤ球場)、8回表に3番手で救援登板・完了、2回1失点
- 初奪三振:同上、8回表に篠塚利夫から
- 初先発登板:1989年5月30日、対広島東洋カープ5回戦(広島市民球場)、4回3失点で敗戦投手
- 初勝利:1989年9月17日、対広島東洋カープ22回戦(ナゴヤ球場)、5回1失点
- 初完投勝利:1990年6月2日、対横浜大洋ホエールズ8回戦(ナゴヤ球場)、9回1失点
- 初セーブ:1990年8月25日、対読売ジャイアンツ19回戦(ナゴヤ球場)、7回表一死に2番手で救援登板・完了、2回2/3無失点
- 初完封勝利:1990年8月29日、対広島東洋カープ23回戦(ナゴヤ球場)
- 初本塁打:1996年4月23日、対ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、3回表にテリー・ブロスから右越ソロ
- 節目の記録
- 1000投球回数:1995年7月6日、対読売ジャイアンツ15回戦(ナゴヤ球場) ※史上261人目
- 1000奪三振:1996年6月27日、対広島東洋カープ14回戦(ナゴヤ球場)、5回表に金本知憲から ※史上97人目
- その他の記録
背番号
[編集]- 14(1989年 - 2001年)
- 71(2012年 - 2013年)
関連情報
[編集]出演番組
[編集]著書
[編集]- 『悔いは、あります。』(ザ・マサダ、2002年5月、ISBN 4883970787)
- 『中日ドラゴンズ論:"不気味"さに隠された勝利の方程式』(ベストセラーズ(ベスト新書)、2010年10月、ISBN 4584123047)
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 「惜別球人 6回 今中慎二『いいときも、悪いときもあった。でも気持ちよくできた13年間でした』」『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.116
- ^ 「天才サウスポーの原動力は打倒・巨人の心意気!」『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.29
- ^ a b c d e f g 『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.30
- ^ 山口真司「「嫌いだったんですよ、巨人が」中学生で乱闘騒動…無気力で受けた"入団テスト"」『Full-Count』2023年11月17日。2023年11月17日閲覧。
- ^ ““おっさん”は8月天国に…愛弟子今中さんから中日・大野雄へ名将の教え マウンドに帽子置いた本当の意味”. 中日スポーツ・東京中日スポーツ (中日新聞社). (2020年8月24日). オリジナルの2024年6月8日時点におけるアーカイブ。 2024年6月8日閲覧。柳川悠二「大阪桐蔭野球部 PLとの差を埋めた「付き人制度の廃止」」『NEWSポストセブン』小学館、2017年7月11日。2023年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月8日閲覧。山口真司「客前での“懲罰”「今だったらあり得ない」 攻撃中ずっとウサギ飛びの鬼指令」『Full-Count』Creative2、2023年11月19日。2023年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月8日閲覧。
- ^ 『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.31
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- ^ a b ドラゴンズスペシャル ドラ魂キング 2024年10月23日
- ^ a b c 「期待のドラフト1位クンの中間報告 今中慎二」『週刊ベースボール』、1989年4月10日号、P.73
- ^ 「制度として無い『逆指名作戦』…中日は今中慎二の“一本釣り”にこうして成功した 2位で大豊獲得の会心ドラフト」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』2022年3月23日。2024年4月20日閲覧。
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- ^ 『読売新聞』、1988年12月4日付朝刊、P.19
- ^ a b 「オレに訊くな! ストレートとカーブの本格派左腕・今中慎二(元中日)に訊く フォークの使い方を教えて下さい」『野球小僧』、2010年2月号、P.123
- ^ a b 「人物ショートシヨート 開幕一軍て、本当に楽しいですネ! もはや左腕エースの扱い。星野監督は西本とあわせて30勝の皮算用」『週刊ベースボール』、1990年4月23日号、P.25
- ^ 『読売新聞』、1990年3月2日付朝刊、P.19
- ^ 「テクニカル・ポイント 中日・今中慎二 制球を気にしすぎて上体だけの投げ方に」『週刊ベースボール』、1990年7月9日号、P.68
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- ^ 『週刊文春』第44巻第23号(通巻:第2181号)、2002年6月13日号、26-31頁「星野仙一と鈴木宗男 絡み合いすぎる人脈と金脈 深層レポート「知られざる素顔」第2弾」(文藝春秋)
- ^ 『読売新聞』、1997年12月7日付朝刊、P.35
- ^ 『中日新聞』1998年5月17日朝刊第一スポーツ面29面「セ・リーグ 第7節 今中2勝、山崎猛打賞 継投竜、最後はサムソン」
- ^ 『東京新聞』1998年5月17日朝刊第一スポーツ面21面「セ・リーグ 中日が快勝」
- ^ a b 「こんなハズじゃなかった… 今中慎二 速球派か?軟投派か?今が勝負どころの元エース」『週刊ベースボール』、1998年10月5日号、P.54
- ^ 久保田龍雄「なぜ? 「年俸ダウン」なのに祝福ムード…契約更改で起きたまさかの“珍事”」『AERA dot.』2021年11月23日、1頁。2021年11月23日閲覧。
- ^ a b c d e 『週刊ベースボール』、2001年4月16日号、P.44
- ^ 『週刊ベースボール』、2001年4月16日号、P.45
- ^ 「残留か?退団か?その去就が注目される人たち」『週刊ベースボール』、2001年10月1日号、P.126
- ^ 「復活に苦心も「来年は契約できない」 肩は限界、阪神の誘い断念…選んだ“中日一筋”」『Full-Count』2023年12月1日。2023年11月30日閲覧。
- ^ 『読売新聞』、2002年3月24日付朝刊、P.31
- ^ 「来季の契約について」『中日ドラゴンズ 公式サイト』2013年10月15日。2013年10月23日閲覧。
- ^ 「今中慎二(復活かけて-背水の男たち)」『週刊ベースボール』、1999年3月8日号、P.129
- ^ a b c d e 『野球小僧』、2010年2月号、P.125
- ^ a b c 『野球小僧』、2010年2月号、P.124
- ^ 「レフティーの不思議 左対左の虚と実 左ピッチャーの秘密 左打者との対戦で何を考える? 今中慎二氏に聞く」『週刊ベースボール』、2002年7月15日号、P.13
- ^ 今中慎二『悔いは、あります。』ザマサダ、2002年
- ^ 「プロが公開『特上の握り』 変化球大図鑑 テクニカル・ポイント カーブ編 今中慎二」『週刊ベースボール』、2004年6月7日号、P.14
- ^ 『週刊ベースボール』、2002年7月15日号、P.14
- ^ a b 『週刊ベースボール』、2002年7月15日号、P.12
- ^ サンデードラゴンズ 2001年11月11日放送
- ^ 『ベースボール・レコード・ブック1997』、1996年12月発売、P.828
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 今中慎二 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE