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'''岩屋 毅'''(いわや たけし、{{Jdate|1957|8|24}} - ) |
'''岩屋 毅'''(いわや たけし、{{Jdate|1957|8|24}} - )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]所属の[[衆議院議員]](5期)。 |
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== 概要 == |
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=== 略歴 === |
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[[大分県]][[別府市]]出身。[[ラ・サール中学校・高等学校|ラ・サール高校]]、[[早稲田大学]]政治経済学部政治学科卒業。[[1987年]]に[[大分県議会]][[地方議会議員|議員]]に初当選。[[1990年]]、[[第39回衆議院議員総選挙]]に32歳で無所属から出馬し初当選。当選後は自民党に所属する。[[1993年]]、自民党を離党し[[新党さきがけ]]の結党に参加するが、直後の衆議院議員選挙で落選。その後、新党さきがけを離党する。[[小選挙区制]]導入後初めて実施された[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙]]には[[新進党]]公認で[[大分県第4区]]から出馬するものの[[横光克彦]]に敗れ落選し、後に自民党に復党。[[2000年]]の[[第42回衆議院議員総選挙]]では自民党公認で[[大分県第3区]]から出馬し、当選。7年ぶりの国政復帰を果たした。以降、[[第44回衆議院議員総選挙]]まで大分3区で連続3選。なお、96年の総選挙で岩屋を破った横光克彦は、大分4区の廃止に伴い3区に国替えした。 |
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[[大分県]][[別府市]]出身。[[ラ・サール中学校・高等学校|ラ・サール高校]]、[[早稲田大学]]政治経済学部政治学科卒業。 |
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[[1987年]]、[[大分県議会]][[地方議会議員|議員]]選挙に出馬し、初当選した。[[1990年]]、[[第39回衆議院議員総選挙]]に[[大分県第2区_(中選挙区)|旧大分県第2区]](定数3)から[[無所属]]で出馬し、[[日本社会党]]の[[阿部未喜男]]、[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]の[[田原隆]]に次ぐ3位で当選した。総選挙後、自民党に入党する。[[1993年]]、自民党を離党し[[新党さきがけ]]の結党に参加するが、直後の[[第40回衆議院議員総選挙]]では、定数が2に改めれた旧大分2区から出馬するも、阿部の後継で出馬した[[無所属]]の[[横光克彦]]、自民党の田原の後塵を拝し、3位で落選する。その後、新党さきがけを離党した。[[小選挙区制]]導入後初めて実施された[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙]]には[[新進党]]公認で[[大分県第4区]]から出馬するものの、再び[[横光克彦]]に敗れ落選し、後に自民党に復党する。 |
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大分県連会長の立場にあった岩屋は対応に苦慮するが、党本部の要求を拒否。総選挙終了後、県連が非公認候補を推薦したことは「党規違反」に当たるとして、党執行部から県連の体制の一新を求められ、2005年11月28日に自民党大分県連会長を辞任した。 |
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[[2001年]]、[[第2次森内閣_(改造 中央省庁再編後)|第2次森改造内閣]]で、[[防衛庁長官政務官]]に就任。なお、この時の[[防衛庁副長官]]は[[石破茂]]。 |
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*「[[全国貸金業政治連盟]]」(全政連)から[[政治献金]]を受けている<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-09-12/14_01.html パーティ券リストの面々] [[しんぶん赤旗]] 2003年9月12日</ref>。 |
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*新党結党のために離党した[[舛添要一]]、[[与謝野馨]]の両名は、自民党党紀委員会では賛成9票・反対3票で除名処分となったが、党紀委員を務めていた岩屋はTwitterで「自分としては心を鬼にした」と賛成票を投じたことを示唆するコメントをしている<ref>[http://twitter.com/takeshi108/status/12918890443 Twitter / 岩屋たけし]</ref>。 |
*新党結党のために離党した[[舛添要一]]、[[与謝野馨]]の両名は、自民党党紀委員会では賛成9票・反対3票で除名処分となったが、党紀委員を務めていた岩屋はTwitterで「自分としては心を鬼にした」と賛成票を投じたことを示唆するコメントをしている<ref>[http://twitter.com/takeshi108/status/12918890443 Twitter / 岩屋たけし]</ref>。 |
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*[[Twitter]]においては、同僚の[[石破茂]]のことを「ゲル」と呼ぶことがしばしばある。 |
*[[Twitter]]においては、同僚の[[石破茂]]のことを「ゲル」と呼ぶことがしばしばある。[[2011年]]2月15日には、石破と共に[[踊る!さんま御殿!!]]に出演した。 |
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== 主な所属議員連盟 == |
== 主な所属議員連盟 == |
2011年2月22日 (火) 01:30時点における版
岩屋 毅 いわや たけし | |
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画像募集中 | |
生年月日 | 1957年8月24日(67歳) |
出生地 | 大分県別府市 |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部政治学科 |
前職 |
弁護士 大分県議会議員 |
所属政党 |
(無所属→) (自由民主党→) (新党さきがけ→) (新進党→) 自由民主党(麻生派) |
称号 | 政治学士(早稲田大学) |
親族 | 岩屋啓(父・大分県議会議員) |
公式サイト | 衆議院議員 岩屋たけし |
選挙区 |
(旧大分2区→) (大分3区→) 比例九州ブロック |
当選回数 | 5回 |
在任期間 |
1990年 - 1993年 2000年 - 現職 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1987年 - 1990年 |
岩屋 毅(いわや たけし、1957年(昭和32年)8月24日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(5期)。
概要
略歴
大分県別府市出身。ラ・サール高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
1987年、大分県議会議員選挙に出馬し、初当選した。1990年、第39回衆議院議員総選挙に旧大分県第2区(定数3)から無所属で出馬し、日本社会党の阿部未喜男、自由民主党の田原隆に次ぐ3位で当選した。総選挙後、自民党に入党する。1993年、自民党を離党し新党さきがけの結党に参加するが、直後の第40回衆議院議員総選挙では、定数が2に改めれた旧大分2区から出馬するも、阿部の後継で出馬した無所属の横光克彦、自民党の田原の後塵を拝し、3位で落選する。その後、新党さきがけを離党した。小選挙区制導入後初めて実施された1996年の第41回衆議院議員総選挙には新進党公認で大分県第4区から出馬するものの、再び横光克彦に敗れ落選し、後に自民党に復党する。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では自民党公認で大分県第3区から出馬し、7年ぶりの国政復帰を果たした。以降、第44回衆議院議員総選挙まで大分3区で連続3選。なお、96年の総選挙で岩屋を破った横光克彦は、大分4区の廃止に伴い、岩屋の3区に国替えした。
2001年、第2次森改造内閣で、防衛庁長官政務官に就任。なお、この時の防衛庁副長官は石破茂。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、郵政民営化法案に反対票を投じた自民党前職の衛藤晟一を、自民党大分県連が大分1区の候補者に推薦する。一方、党本部が自民前職の佐藤錬を党公認候補として擁立。大分県連会長の立場にあった岩屋は対応に苦慮するが、党本部の要求を拒否。総選挙終了後、県連が非公認候補を推薦したことは「党規違反」に当たるとして、党執行部から県連の体制の一新を求められ、2005年11月28日に自民党大分県連会長を辞任した。
2006年9月26日に発足した安倍内閣では、麻生太郎外務大臣の下で外務副大臣に任命された。
2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙では、過去2回の選挙で破った民主党の横光克彦に8429票差をつけられ、初めて横光に小選挙区で敗れたが、重複立候補していた比例九州ブロックで復活し、5選。
2010年9月に設置された自由民主党シャドウ・キャビネットで影の防衛大臣に就任。予算委員会の他、外務委員会や安全保障委員会に所属しており、自民党の外交・安全保障の論客の1人である。
人物
- 身長180cm。家族は妻、二女。
- ソフトバンク代表取締役社長の孫正義と、高校一年生の時に友人の紹介で知り合った。
- 為公会(麻生派)所属。麻生太郎外務大臣の下で副大臣に就任し、麻生派の定例会で司会進行を務めるなど、麻生の側近の1人として知られる。過去4回の総裁選では全て麻生太郎に投票しており、2007年自由民主党総裁選挙で麻生派を除く8派閥が麻生包囲網を敷いた際は、これを強く批判していた。また鳩山邦夫が自民党に在籍していた頃は、鳩山が主催する「有機野菜を食べる会」に参加するなど、田村憲久や河井克行、古川禎久らと共に鳩山に近いとされていた。
- 保守色の強い議員であり、外国人参政権や人権擁護法案には反対する姿勢を鮮明にしている。
- パチンコチェーンストア協会政治分野アドバイザー。
- 「全国貸金業政治連盟」(全政連)から政治献金を受けている[1]。
- 新党結党のために離党した舛添要一、与謝野馨の両名は、自民党党紀委員会では賛成9票・反対3票で除名処分となったが、党紀委員を務めていた岩屋はTwitterで「自分としては心を鬼にした」と賛成票を投じたことを示唆するコメントをしている[2]。
- Twitterにおいては、同僚の石破茂のことを「ゲル」と呼ぶことがしばしばある。2011年2月15日には、石破と共に踊る!さんま御殿!!に出演した。
主な所属議員連盟
- 真の人権擁護を考える懇談会
- 国際観光産業振興議員連盟(会長代行)
- 国家主権と国益を守るために行動する議員連盟(共同座長)
脚注
- ^ パーティ券リストの面々 しんぶん赤旗 2003年9月12日
- ^ Twitter / 岩屋たけし
外部リンク
議会 | ||
---|---|---|
先代 佐藤茂樹 |
衆議院文部科学委員長 2008 - 2009 |
次代 田中眞紀子 |
公職 | ||
先代 塩崎恭久 金田勝年 |
外務副大臣 浅野勝人と共同 2006 - 2007 |
次代 小野寺五典 木村仁 |