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[[ファイル:Eric Hargan and Takeshi Iwaya 20070711.jpg|thumb|200px|[[2007年]][[7月11日]]、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ合衆国保健福祉省|保健福祉]]副長官代理[[:en:Eric Hargan|エリック・ハーガン]](右から3人目)らと]]
[[ファイル:Eric Hargan and Takeshi Iwaya 20070711.jpg|thumb|200px|[[2007年]][[7月11日]]、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ合衆国保健福祉省|保健福祉]]副長官代理[[:en:Eric Hargan|エリック・ハーガン]](右から3人目)らと]]


'''岩屋 毅'''(いわや たけし、{{Jdate|1957|8|24}} - )は、[[日本]]の[[政治家]][[自由民主党 (日本)|自由民主党]]所属の[[衆議院議員]](5期)。
'''岩屋 毅'''(いわや たけし、{{Jdate|1957|8|24}} - )は、[[日本]]の[[政治家]][[自由民主党 (日本)|自由民主党]]所属の[[衆議院議員]](5期)。


== 概要 ==
== 概要 ==
=== 略歴 ===
[[大分県]][[別府市]]出身。[[ラ・サール中学校・高等学校|ラ・サール高校]]、[[早稲田大学]]政治経済学部政治学科卒業。[[1987年]]に[[大分県議会]][[地方議会議員|議員]]に初当選。[[1990年]]、[[第39回衆議院議員総選挙]]に32歳で無所属から出馬し初当選。当選後は自民党に所属する。[[1993年]]、自民党を離党し[[新党さきがけ]]の結党に参加するが、直後の衆議院議員選挙で落選。その後、新党さきがけを離党する。[[小選挙区制]]導入後初めて実施された[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙]]には[[新進党]]公認で[[大分県第4区]]から出馬するものの[[横光克彦]]に敗れ落選し、後に自民党に復党。[[2000年]]の[[第42回衆議院議員総選挙]]では自民党公認で[[大分県第3区]]から出馬し、当選。7年ぶりの国政復帰を果たした。以降、[[第44回衆議院議員総選挙]]まで大分3区で連続3選。なお、96年の総選挙で岩屋を破った横光克彦は、大分4区の廃止に伴い3区に国替えした。
[[大分県]][[別府市]]出身。[[ラ・サール中学校・高等学校|ラ・サール高校]]、[[早稲田大学]]政治経済学部政治学科卒業。


[[1987年]]、[[大分県議会]][[地方議会議員|議員]]選挙に出馬し、初当選した。[[1990年]]、[[第39回衆議院議員総選挙]]に[[大分県第2区_(中選挙区)|旧大分県第2区]](定数3)から[[無所属]]で出馬し、[[日本社会党]]の[[阿部未喜男]]、[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]の[[田原隆]]に次ぐ3位で当選した。総選挙後、自民党に入党する。[[1993年]]、自民党を離党し[[新党さきがけ]]の結党に参加するが、直後の[[第40回衆議院議員総選挙]]では、定数が2に改めれた旧大分2区から出馬するも、阿部の後継で出馬した[[無所属]]の[[横光克彦]]、自民党の田原の後塵を拝し、3位で落選する。その後、新党さきがけを離党した。[[小選挙区制]]導入後初めて実施された[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙]]には[[新進党]]公認で[[大分県第4区]]から出馬するものの、再び[[横光克彦]]に敗れ落選し、後に自民党に復党する。
[[2005年]]の[[第44回衆議院議員総選挙]]では、[[郵政民営化法案]]に反対票を投じた自民党前職の[[衛藤晟一]]を、自民党大分県連が大分1区の候補者として推薦。一方、党本部が自民前職の[[佐藤錬]]を党公認候補として擁立。


[[2000年]]の[[第42回衆議院議員総選挙]]では自民党公認で[[大分県第3区]]から出馬し、7年ぶりの国政復帰を果たした。以降、[[第44回衆議院議員総選挙]]まで大分3区で連続3選。なお、96年の総選挙で岩屋を破った横光克彦は、大分4区の廃止に伴い、岩屋の3区に国替えした。
大分県連会長の立場にあった岩屋は対応に苦慮するが、党本部の要求を拒否。総選挙終了後、県連が非公認候補を推薦したことは「党規違反」に当たるとして、党執行部から県連の体制の一新を求められ、2005年11月28日に自民党大分県連会長を辞任した。


[[2001年]]、[[第2次森内閣_(改造 中央省庁再編後)|第2次森改造内閣]]で、[[防衛庁長官政務官]]に就任。なお、この時の[[防衛庁副長官]]は[[石破茂]]。
[[2006年]]9月26日に発足した[[安倍内閣]]では、[[麻生太郎]][[外務大臣]]の下で[[副大臣]]に任命された。


[[2005年]]の[[第44回衆議院議員総選挙]]では、[[郵政民営化法案]]に反対票を投じた自民党前職の[[衛藤晟一]]を、自民党大分県連が大分1区の候補者推薦する。一方、党本部が自民前職の[[佐藤錬]]を党公認候補として擁立。大分県連会長の立場にあった岩屋は対応に苦慮するが、党本部の要求を拒否。総選挙終了後、県連が非公認候補を推薦したことは「党規違反」に当たるとして、党執行部から県連の体制の一新を求められ、2005年11月28日に自民党大分県連会長を辞任した
[[2009年]]8月30日に行われた[[第45回衆議院議員総選挙]]では、過去2回の選挙で破った[[民主党_(日本 1998-)|民主党]]の横光克彦に8429票差をつけられ、初めて横光に小選挙区で敗れたが重複立候補していた[[比例九州ブロック]]で復活し、5選。


[[2010年]]9月に設置された[[自由民主党シャドウ・キャビネット]]での[[防衛大臣]]に任。
[[2006年]]9月26日発足した[[安倍内閣]]では、[[麻生太郎]][[外務大臣]]下で[[外務副大臣]]に任命された

[[2009年]]8月30日に行われた[[第45回衆議院議員総選挙]]では、過去2回の選挙で破った[[民主党_(日本 1998-)|民主党]]の横光克彦に8429票差をつけられ、初めて横光に小選挙区で敗れたが、[[重複立候補]]していた[[比例九州ブロック]]で復活し、5選。

[[2010年]]9月に設置された[[自由民主党シャドウ・キャビネット]]で影の[[防衛大臣]]に就任。[[予算委員会]]の他、[[外務委員会]]や[[安全保障委員会]]に所属しており、自民党の[[外交]]・[[安全保障]]の論客の1人である。


== 人物 ==
== 人物 ==
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*「[[全国貸金業政治連盟]]」(全政連)から[[政治献金]]を受けている<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-09-12/14_01.html パーティ券リストの面々] [[しんぶん赤旗]] 2003年9月12日</ref>。
*「[[全国貸金業政治連盟]]」(全政連)から[[政治献金]]を受けている<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-09-12/14_01.html パーティ券リストの面々] [[しんぶん赤旗]] 2003年9月12日</ref>。
*新党結党のために離党した[[舛添要一]]、[[与謝野馨]]の両名は、自民党党紀委員会では賛成9票・反対3票で除名処分となったが、党紀委員を務めていた岩屋はTwitterで「自分としては心を鬼にした」と賛成票を投じたことを示唆するコメントをしている<ref>[http://twitter.com/takeshi108/status/12918890443 Twitter / 岩屋たけし]</ref>。
*新党結党のために離党した[[舛添要一]]、[[与謝野馨]]の両名は、自民党党紀委員会では賛成9票・反対3票で除名処分となったが、党紀委員を務めていた岩屋はTwitterで「自分としては心を鬼にした」と賛成票を投じたことを示唆するコメントをしている<ref>[http://twitter.com/takeshi108/status/12918890443 Twitter / 岩屋たけし]</ref>。
*[[Twitter]]においては、同僚の[[石破茂]]のことを「ゲル」と呼ぶことがしばしばある。
*[[Twitter]]においては、同僚の[[石破茂]]のことを「ゲル」と呼ぶことがしばしばある。[[2011年]]2月15日には、石破と共に[[踊る!さんま御殿!!]]に出演した


== 主な所属議員連盟 ==
== 主な所属議員連盟 ==

2011年2月22日 (火) 01:30時点における版

岩屋 毅
いわや たけし
岩屋毅
画像募集中
生年月日 (1957-08-24) 1957年8月24日(67歳)
出生地 大分県別府市
出身校 早稲田大学政治経済学部政治学科
前職 弁護士
大分県議会議員
所属政党無所属→)
自由民主党→)
新党さきがけ→)
新進党→)
自由民主党(麻生派
称号 政治学士(早稲田大学)
親族 岩屋啓(父・大分県議会議員)
公式サイト 衆議院議員 岩屋たけし

選挙区旧大分2区→)
大分3区→)
比例九州ブロック
当選回数 5回
在任期間 1990年 - 1993年
2000年 - 現職

当選回数 1回
在任期間 1987年 - 1990年
テンプレートを表示
2007年7月11日アメリカ合衆国保健福祉副長官代理エリック・ハーガン(右から3人目)らと

岩屋 毅(いわや たけし、1957年昭和32年)8月24日 - )は、日本政治家自由民主党所属の衆議院議員(5期)。

概要

略歴

大分県別府市出身。ラ・サール高校早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。

1987年大分県議会議員選挙に出馬し、初当選した。1990年第39回衆議院議員総選挙旧大分県第2区(定数3)から無所属で出馬し、日本社会党阿部未喜男自由民主党田原隆に次ぐ3位で当選した。総選挙後、自民党に入党する。1993年、自民党を離党し新党さきがけの結党に参加するが、直後の第40回衆議院議員総選挙では、定数が2に改めれた旧大分2区から出馬するも、阿部の後継で出馬した無所属横光克彦、自民党の田原の後塵を拝し、3位で落選する。その後、新党さきがけを離党した。小選挙区制導入後初めて実施された1996年第41回衆議院議員総選挙には新進党公認で大分県第4区から出馬するものの、再び横光克彦に敗れ落選し、後に自民党に復党する。

2000年第42回衆議院議員総選挙では自民党公認で大分県第3区から出馬し、7年ぶりの国政復帰を果たした。以降、第44回衆議院議員総選挙まで大分3区で連続3選。なお、96年の総選挙で岩屋を破った横光克彦は、大分4区の廃止に伴い、岩屋の3区に国替えした。

2001年第2次森改造内閣で、防衛庁長官政務官に就任。なお、この時の防衛庁副長官石破茂

2005年第44回衆議院議員総選挙では、郵政民営化法案に反対票を投じた自民党前職の衛藤晟一を、自民党大分県連が大分1区の候補者に推薦する。一方、党本部が自民前職の佐藤錬を党公認候補として擁立。大分県連会長の立場にあった岩屋は対応に苦慮するが、党本部の要求を拒否。総選挙終了後、県連が非公認候補を推薦したことは「党規違反」に当たるとして、党執行部から県連の体制の一新を求められ、2005年11月28日に自民党大分県連会長を辞任した。

2006年9月26日に発足した安倍内閣では、麻生太郎外務大臣の下で外務副大臣に任命された。

2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙では、過去2回の選挙で破った民主党の横光克彦に8429票差をつけられ、初めて横光に小選挙区で敗れたが、重複立候補していた比例九州ブロックで復活し、5選。

2010年9月に設置された自由民主党シャドウ・キャビネットで影の防衛大臣に就任。予算委員会の他、外務委員会安全保障委員会に所属しており、自民党の外交安全保障の論客の1人である。

人物

主な所属議員連盟

脚注

外部リンク


議会
先代
佐藤茂樹
日本の旗 衆議院文部科学委員長
2008 - 2009
次代
田中眞紀子
公職
先代
塩崎恭久
金田勝年
日本の旗 外務副大臣
浅野勝人と共同
2006 - 2007
次代
小野寺五典
木村仁