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「ポール・ガスコイン」の版間の差分

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|画像=Gascoigne, Paul.jpg
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|画像の説明=ガスコイン(2006年4月)
|本名=ポール・ジョン・ガスコイン<br />Paul John Gascoigne
|本名=ポール・ジョン・ガスコイン<br />Paul John Gascoigne
|愛称=ガッザ
|愛称=ガッザ
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|背番号=
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|利き足=右足
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|ユース年=1980-1985|ユースクラブ={{Flagicon|ENG}} [[ニューカッスル・ユナイテッドFC|ニューカッスル・ユナイテッド]]
|クラブ={{Flagicon|ENG|size=18px}} [[ニューカッスル・ユナイテッドFC|ニューカッスル・U]]<br />{{Flagicon|ENG|size=18px}} [[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]<br />{{Flagicon|ITA|size=18px}} [[SSラツィオ|ラツィオ]]<br />{{Flagicon|SCO|size=18px}} [[グラスゴー・レンジャーズFC|グラスゴー・レンジャーズ]]<br />{{Flagicon|ENG|size=18px}} [[ミドルズブラFC|ミドルズブラ]]<br />{{Flagicon|ENG|size=18px}} [[エヴァートンFC|エヴァートン]]<br />{{Flagicon|ENG|size=18px}} [[バーンリーFC|バーンリー]]<br />{{Flagicon|CHN|size=18px}} [[甘粛天馬]]<br />{{Flagicon|ENG|size=18px}} [[ボストン・ユナイテッドFC|ボストン・ユナイテッド]]

|年=1985-1988<br />1988-1992<br />1992-1995<br />1995-1998<br />1998-2000<br />2000-2002<br />2002<br />2003<br />2004
|年1=1985-1988|クラブ1={{Flagicon|ENG}} [[ニューカッスル・ユナイテッドFC|ニューカッスル・ユナイテッド]]|出場1=92|得点1=21
|出場(得点)=92 (21)<br />92 (19)<br />43 (6)<br />74 (30)<br />41 (4)<br />32 (1)<br />6 (0)<br />4 (2)<br />4 (0)<!--国内リーグ戦の成績に限る-->
|年2=1988-1992|クラブ2={{Flagicon|ENG}} [[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]|出場2=92|得点2=19
|年3=1992-1995|クラブ3={{Flagicon|ITA}} [[SSラツィオ|ラツィオ]]|出場3=43|得点3=6
|年4=1995-1998|クラブ4={{Flagicon|SCO}} [[レンジャーズFC|レンジャーズ]]|出場4=74|得点4=30
|年5=1998-2000|クラブ5={{Flagicon|ENG}} [[ミドルズブラFC|ミドルズブラ]]|出場5=41|得点5=4
|年6=2000-2002|クラブ6={{Flagicon|ENG}} [[エヴァートンFC|エヴァートン]]|出場6=32|得点6=1
|年7=2002|クラブ7={{Flagicon|ENG}} [[バーンリーFC|バーンリー]]|出場7=6|得点7=0
|年8=2003|クラブ8={{Flagicon|CHN}} [[甘粛天馬]]|出場8=4|得点8=2
|年9=2004|クラブ9={{Flagicon|ENG}} [[ボストン・ユナイテッドFC|ボストン・ユナイテッド]]|出場9=4|得点9=0
|クラブ成績更新日=
|クラブ成績更新日=
|代表={{ENGf}} U-21<br />{{ENGf}} B<br />{{ENGf}}
|代表年1=1987-1988|代表1={{ENGf}} U-21|代表出場1=13|代表得点1=5
|代表年2=1989|代表2={{ENGf}} B|代表出場2=4|代表得点2=1
|代表年=1987-1988<br />1989<br />1988-1998
|代表年3=1988-1998|代表3={{ENGf}}<ref name="rsssf">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/gascoigne-intl.html|title=Paul John Gascoigne - International Appearances|publisher=rsssf.com|accessdate=2011-08-12}}</ref>|代表出場3=57|代表得点3=10
|代表出場(得点)=13 (5)<br />4 (1)<br />57 (10)
|代表成績更新日=
|代表成績更新日=
|監督年=2005|監督チーム={{Flagicon|ENG}} [[ケタリング・タウンFC|ケタリング・タウン]]
|監督年=2005
|監督チーム={{Flagicon|ENG|size=18px}} [[ケタリング・タウンFC|ケタリング・タウン]]
}}
}}
'''ポール・ガスコイン'''(Paul John Gascoigne, [[1967年]][[5月27日]] - )は、[[イングランド]]の元[[サッカー|サッカー選手]]、[[監督|サッカー指導者]]。[[イギリス]]・[[タインアンドウィア|タインアンドウィア州]]ゲイツヘッド出身。元[[サッカーイングランド表|イングランド代表]]。ポジションは[[ミッドフィールダー|MF]](攻撃的MF)。[[フランス]]の[[ガスコーニュ]]にそツを持つ
'''ポール・ガスコイン'''(Paul John Gascoigne, [[1967年]][[5月27日]] - )は、[[イングランド]]の元[[サッカー選手]]、[[監督|サッカー指導者]]。現役時ポジションは[[ミッドフィールダー|MF]](攻撃的MF)。愛称は「'''ガッザ'''」 (Gazza){{#tag:ref|元々は「ガッサ」と呼ばれていた<ref name="ガッザ66-67">[[#ガスコイ 2006|ガコイン 2006]]、66-67頁</ref>が、ニューカッスル・ユナイテッド練習生時代にガスコインを指導していた[[コリン・スゲット]]の出身地である[[サンダランド (イングランド)|サンダーランド]]訛りにより、「ガッザ」と呼ばれるようになった<ref name="ガッザ66-67"/>。|group=注}}


太目の体型ながら高いドリブルテクニックとパスセンス<ref name="グランヴィル359-360">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、359-360頁</ref><ref name="マルチ大事典">[[#国吉 2006|国吉 2006]]、165頁</ref><ref name="スポーツナビ">{{Cite web|和書|author=東本貢司|authorlink=東本貢司|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/england/column/01-02/ZZZT9XWU02D.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030221093357/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/england/column/01-02/ZZZT9XWU02D.html|title=ガスコインを動かした“明暗事情”と明日への希望(後編)|publisher=スポーツナビ|archivedate=2003-02-21|accessdate=2010-10-14}}</ref>の持ち主であり、愛嬌のあるキャラクターで[[1990年代]]には[[イギリス]]の国民的英雄と呼ばれ人気を集めた<ref name="サカマガ199103">{{Cite book|和書|chapter=`91の顔 The Face of `91 ポール・ガスコイン|title=[[サッカーマガジン]]|volume=1991年3月号|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|year=1991|pages=10-14}}</ref>。しかし、その一方で[[公序良俗]]に反するような言動、[[アルコール依存症|飲酒癖]]や[[うつ病]]にまつわるトラブルを頻繁に引き起こすことでも知られ<ref name="guardian">{{Cite web|url=http://www.guardian.co.uk/football/2008/feb/21/newsstory.sport2|title= Paul Gascoigne factfile: a troubled life|publisher=guardian.co.uk|date=2008-02-21|accessdate=2010-07-22}}</ref><ref name="AFPBB20080222"/>、引退後もしばしばメディアを賑わしている<ref name="Metro">{{Cite web|url=http://www.metro.co.uk/news/101055-turbulent-life-of-football-genius-paul-gascoigne|title= Turbulent life of football genius Paul Gascoigne|publisher=Metro.co.uk|accessdate=2010-10-14}}</ref>。
== 選手経歴 ==
===クラブ===
[[1980年]]に[[ニューカッスル・ユナイテッドFC]]の下部組織に入団すると頭角を現し、[[1985年]]に[[FAユースカップ]]優勝に貢献。同年4月にトップチームへの昇格を果たし[[クイーンズ・パーク・レンジャーズFC]]戦でデビューを飾った。[[1988年]]には当時の最高額の200万ポンドの金額で[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]へ移籍した。トッテナムでは監督の[[テリー・ヴェナブルズ]]の指導下で中心選手として活躍。同年には[[PFA年間最優秀若手選手賞]]を受賞するなど新たなスター候補として注目された。


== 生い立ち ==
[[1991年]]には[[ゲーリー・リネカー]]らと共に[[FAカップ]]優勝に貢献。しかし決勝の[[ノッティンガム・フォレスト]]戦において相手DFのゲイリー・チャールズに悪質なタックルを行った際に、自らが右膝[[靭帯損傷|靭帯断裂]]の重傷を負い、治療の為に1年以上試合から遠ざかった。この頃からアルコールに溺れトラブルを引き起こすようになった<ref name="guardian" >{{cite web|url=http://www.guardian.co.uk/football/2008/feb/21/newsstory.sport2 |title= Paul Gascoigne factfile: a troubled life |publisher= guardian.co.uk|date=2008年02月21日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。
[[タインアンドウィア|タインアンドウィア州]]ゲイツヘッドで[[煉瓦]]職人の父と母の間に長男として生まれた。ガスコインという姓は[[フランス]]<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、37頁</ref>南部の[[ガスコーニュ]]地方に由来し、本名の「ポール・ジョン」とは母親が[[ビートルズ]]のファンであり、[[ポール・マッカートニー]]と[[ジョン・レノン]]の名前に因んで名づけられた<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、38頁</ref>。幼少の頃からサッカーに親しみ地元のサッカークラブである[[ニューカッスル・ユナイテッドFC]]のサポーターであると共に、[[オランダ]]の[[ヨハン・クライフ]]や[[ブラジル]]の[[ペレ]]のファンだった<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、48頁</ref>。


ゲイツヘッド・ボーイズに在籍していた12歳の頃からサッカークラブのスカウトの関心を集め、[[イプスウィッチ・タウンFC|イプスウィッチ・タウン]]、[[ミドルズブラFC|ミドルズブラ]]、[[サウサンプトンFC|サウサンプトン]]のテストを受けたがいずれも不合格に終わり<ref name="ガッザ56-57">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、56-57頁</ref>、1980年にニューカッスル・ユナイテッドの学生会員となった<ref name="ガッザ56-57"/>。毎週火曜日の練習に参加しながら学校に通う日々を送っていたが、[[1982年]]8月、当時のイングランド代表のスター選手である[[ケビン・キーガン]]がクラブに入団した際には、キーガンの雑用係を務めていた<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、63-64頁</ref>。
[[1992年]]10月27日、550万ポンドの金額で[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[SSラツィオ|ラツィオ]]へ移籍<ref name="Metro"/>。最初のシーズンこそリーグ戦22試合で4得点の結果を残したが、肥満問題などから次第に調子を落とし<ref name="guardian" />、1994年には再び右膝を痛め1シーズンを棒に振ることになった。


[[1983年]]5月、16歳の誕生日に週給25ポンドの2年契約でニューカッスルと練習生契約を結んだ<ref name="ガッザ66-67"/>。ユースチームでは直ぐに頭角を現しチームの成績も好調だったが、この当時から太目の体型だった。指導者からは体重の事や私生活のトラブルの事でたびたび叱責を受けており、そのストレス発散のために[[神経性大食症|過食]]を繰り返していた<ref name="ガッザ77-78">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、77-78頁</ref>が、正規の練習の後に減量のためのランニングを課せられていた<ref name="ガッザ77-78"/>。
[[1995年]]7月、430万ポンドの金額で[[スコティッシュ・プレミアリーグ]]の[[グラスゴー・レンジャーズFC|レンジャーズ]]へ移籍。レンジャーズではかつてのプレーを取り戻し、1995-96シーズンのリーグと[[スコティッシュカップ|カップ]]の二冠獲得に貢献。1996年には[[スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞]]と[[スコットランドPFA年間最優秀選手賞]]を同時受賞した。翌1996-97シーズンもリーグ連覇と[[スコティッシュリーグカップ|リーグカップ]]の二冠獲得に貢献した。


== クラブ経歴 ==
1998年3月に340万ポンドの金額で[[ミドルズブラFC]]へ移籍したが、この時期からプレーに精彩を欠くようになり下降線を辿っていった。また私生活においても無類の酒好きで知られ、[[アルコール依存症|アルコール依存]]に絡んだ問題をしばしば起こした<ref name="AFPBB20080222">{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uk/2354013/2665178 |title= ガスコイン氏 英当局に抑留される |publisher= AFPBB News|date=2008年02月22日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。
=== ニューカッスル ===
[[1984年]]6月、トップチームの監督に[[ジャッキー・チャールトン|ジャック・チャールトン]]が就任すると、更なる減量と食事制限を課し<ref name="ガッザ84-85">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、84-85頁</ref>、ユースチームの主将に任命された<ref name="ガッザ84-85"/>。同時期にリザーブチームに昇格を果たすと、[[1985年]]3月からはトップチームの遠征に帯同するようになり、同年4月13日の[[クイーンズパーク・レンジャーズFC|クイーンズパーク・レンジャーズ]]戦で途中交代からリーグデビューを果たした<ref name="ガッザ87-89">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、87-89頁</ref>。一方で、ユースチームの主将として挑んだ[[FAユースカップ]]では準決勝で[[バーミンガム・シティFC|バーミンガム・シティ]]を下して決勝戦に駒を進め、決勝では[[ワトフォードFC|ワトフォード]]を4-1で下し、1962年大会以来となる23年ぶり2回目の優勝に導いた<ref name="ガッザ87-89"/>。この優勝の後にトップチームと週給120ポンドでプロ契約を結んだ<ref name="ガッザ87-89"/>。


ニューカッスルでは[[クリス・ワドル]]らとチームメイトとなり、デビューとなった1984-85シーズンは2試合の出場に終わったが、翌1985-86シーズンになると出場機会が増え、3年目の1986-87シーズンレギュラーに定着し24試合で5得点を挙げた。これらの活躍により、それまで代表レベルでの経験のなかったガスコインは21歳以下のイングランド代表に招集される事になった<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、99頁</ref>。リーグ戦での活躍から「小さな宝石」や「期待の新星」として注目を集める<ref name="ガッザ104-106">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、104-106頁</ref>一方で、次第にクラブから移籍をしたいという気持ちが高まっていった<ref name="ガッザ104-106"/>。ガスコイン自身は第一志望として[[リヴァプールFC]]への移籍を希望していた<ref name="ガッザ104-106"/>が、[[ブライアン・ロブソン]]の後継者を探してた[[アレックス・ファーガソン]]が監督を務める[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]からも交渉を持ちかけられていた<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、110頁</ref>。ファーガソンから熱心な勧誘を受け移籍に気持ちが傾いた<ref name="ガッザ111-114">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、111-114頁</ref>が、[[テリー・ヴェナブルズ]]が監督を務める[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]から勧誘を受けた際の、ヴェナブルズの「私の下で指導を受ければ確実にイングランド代表に選ばれるだろう」との言葉に触発されて<ref name="ガッザ111-114"/>、トッテナムへ移籍する事が決まった<ref name="ガッザ111-114"/>。
[[2003年]]には中国のサッカークラブに移籍したが生活環境に馴染めず直ぐに退団。[[2004年]]に[[フットボールリーグ2]](4部リーグに相当)の[[ボストン・ユナイテッドFC]]に移籍し選手兼コーチとしてリーグ戦4試合に出場したが3ヵ月後に退団し、このまま現役を引退した。


=== イングランド代表 ===
=== トッテナム ===
[[1988年]]夏にトッテナムへ移籍したが、移籍金の220万ポンドは、当時のイングランドのクラブが支払った最高金額だった<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、117頁</ref>。ヴェナブルズの指導下で中心選手として活躍し、同年には[[PFA年間最優秀若手選手賞]]を受賞した。1989-90シーズンのリーグ戦では[[スペイン]]の[[FCバルセロナ]]から[[ゲーリー・リネカー]]が加入するとリーグ戦では二人のコンビプレーもあって<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、175-176頁</ref>チームを1988-89シーズンの6位から3位に押し上げた。
[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]としては[[1988年]]に同年9月の[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]との親善試合で代表デビューを飾った。監督の[[ボビー・ロブソン]]の下で[[1990年]]の[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イタリア大会]]では中心選手として6試合に先発出場。1次リーグ第3戦の[[サッカーエジプト代表|エジプト]]戦でのアシスト、決勝トーナメント1回戦、[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]戦でアシストを決める活躍などで地元開催の1966年以来となるベスト4進出に貢献。準決勝の[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦では試合中に[[トーマス・ベルトルト]]への反則により主審から警告を受け、仮に決勝進出を果たしても累積警告により出場が出来ないと知り涙を流す場面が見られた<ref name="Metro">{{cite web|url=http://www.metro.co.uk/news/101055-turbulent-life-of-football-genius-paul-gascoigne |title= Turbulent life of football genius Paul Gascoigne |publisher= Metro.co.uk |date= |accessdate=2010-10-14}}</ref><ref name="AFPBB20080222"/>。


ヴェナブルズの言葉通りに1988年にイングランド代表に選ばれ、[[1990年]]の[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イタリア大会]]ではベスト4進出の原動力となったが、この大会後にイギリス国内ではガスコインの人気が過熱し新たなスター選手として迎えられた(後述)<ref name="サカマガ199103"/>。1990-91シーズンに[[ヘルニア]]の手術を受けたため<ref name="ガッザ182-183">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、182-183頁</ref>、1か月間は試合から遠ざかった<ref name="ガッザ182-183"/>が、[[FAカップ]]準決勝の[[アーセナルFC]]戦ではフリーキックを直接決めて3-1の勝利に貢献<ref name="ガッザ182-183"/>し、[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]での決勝戦に駒を進めた。シーズンの最中からイタリアの[[SSラツィオ|ラツィオ]]がガスコインの獲得に関心を示しており<ref name="ガッザ188-189">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、188-189頁</ref>、FAカップ決勝がトッテナムでの最後の試合になると考えられていた<ref name="ガッザ188-189"/>。しかし決勝の[[ノッティンガム・フォレストFC]]戦において、前半17分に相手DFの{{仮リンク|ゲイリー・チャールズ|en|Gary Charles}}に悪質なタックルを行った際<ref name="ガッザ191-193">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、191-193頁</ref>に、自らが右膝[[靭帯損傷|靭帯断裂]]の重傷を負った<ref name="ガッザ191-193"/>。試合はガスコインを欠いたもののトッテナムが延長戦の末にノッティンガムを下しタイトルを獲得したが、ガスコイン自身は搬送された病院のテレビでこの模様を観戦<ref name="ガッザ191-193"/>しており、治療とリハビリのために1年4か月試合から遠ざかることになった<ref name="guardian"/>。この負傷に関して対戦相手のノッティンガムの選手だった[[スチュアート・ピアース]]は次のように評している。
その後は1991年に負った右膝の怪我のために1992年の[[UEFA欧州選手権1992]]の出場は断念。怪我からの復帰後には再び代表チームへの招集を受けたものの、[[1994 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・アメリカ大会]]予選では[[サッカーノルウェー代表|ノルウェー]]と[[サッカーオランダ代表|オランダ]]に競り負け本大会出場を逃した。
{{Quotation|彼はただ一人の力で試合の流れを変えてしまう、我々にとって悩ましい選手だった。しかしあの試合のタックルは彼のサッカー人生に重大な影響を及ぼしてしまい、二度と以前のプレーを取り戻すことは出来なかった<ref name="ガッザ181">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、181頁</ref>。|スチュアート・ピアース}}


=== ラツィオ ===
1996年の[[UEFA欧州選手権1996]]では鮮やかなプレーを披露し<ref name="guardian" />、[[UEFA欧州選手権1968|1968年大会]]以来となる準決勝進出に貢献。グループリーグ第2戦の[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]戦でのボレーシュートは大会史上に残る名場面の一つとして語り草となっている<ref name="Metro"/><ref>{{cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/2293394/Top-10-memorable-goal-celebrations.html |title= Top 10 memorable goal celebrations |publisher= Telegraph|date=2008年03月03日 |accessdate=2010-07-22}}</ref><ref name="TalkFootball">{{cite web |url=http://www.talkfootball.co.uk/guides/football_legends_paul_gascoigne.html |title= Paul Gascoigne - A Football Legend Profile |publisher= TalkFootball.co.uk |date= |accessdate=2010-10-14}}</ref>。これらの活躍から1998年の[[1998 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・フランス大会]]でも代表入りが有力視されていたが、当時の監督[[グレン・ホドル]]はガスコインの飲酒癖を懸念して大会直前にメンバーから外す決定を下した<ref name="Metro"/><ref name="TalkFootball"/>。イングランド代表での通算成績は国際Aマッチ57試合出場10得点。
[[1992年]]5月、550万ポンドの金額で[[セリエA (サッカー)|セリエA]]のラツィオへ移籍<ref name="Metro"/>。同年9月22日の[[ジェノアCFC]]戦でリーグ戦デビューを果たすと22試合に出場し4得点を記録<ref name="ガッザ219">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、219頁</ref>。チームはリーグ戦で5位に入り[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]出場権獲得するなど結果を残したが、国際大会への出場はチームにとって16年ぶりの出来事だった<ref name="ガッザ219"/>。しかし肥満問題などから次第に調子を落とすと<ref name="guardian" />、[[1994年]]4月には練習中に[[アレッサンドロ・ネスタ]]にタックルを仕掛けた際に右脚を骨折し<ref name="ガッザ233-234">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、233-234頁</ref>、1シーズンを棒に振ることになった<ref name="ガッザ233-234"/>。


== 引退後経歴 ==
=== レンジャーズ ===
[[1995年]]7月、430万ポンドの金額で[[スコティッシュ・プレミアリーグ]]の[[レンジャーズFC|レンジャーズ]]へ移籍<ref name="ガッザ243">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、243頁</ref>。[[ウォルター・スミス (サッカー選手)|ウォルター・スミス]]監督の下で1995-96シーズンのリーグと[[スコティッシュカップ|カップ]]の二冠獲得に貢献。1996年には[[スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞]]と[[スコットランドPFA年間最優秀選手賞]]を同時受賞した。翌1996-97シーズンには、私生活でのトラブル(後述)や脚の負傷により調子を落とし、批判を受ける機会があった<ref name="ガッザ275">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、275頁</ref>が、シーズン中盤に調子を取り戻すとリーグ連覇と[[スコティッシュリーグカップ|リーグカップ]]の二冠獲得に貢献した<ref name="ガッザ275"/>。
現役引退後、サッカー選手としてではなく、アルコール関係の騒動でマスコミの注目を集めるようになった。


1997-98シーズンには妻との離婚問題<ref name="ガッザ288-290">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、284-285頁</ref>だけでなく、武装組織の[[アイルランド共和軍|IRA]]のメンバーを名乗る人物からの脅迫<ref name="ガッザ284-285">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、284-285頁</ref>、サポーターへの挑発行為に関する騒動{{#tag:ref|1998年1月2日に行われた[[セルティックFC]]とのダービーマッチにおいて得点を決めた後にセルティックのサポーターに対し、[[フルート]]を吹くパフォーマンスを行って挑発したことが、[[カトリック教会|カトリック]]教徒への侮辱として問題視され、2万ポンドの罰金を科せられた<ref name="ガッザ284-285"/>。|group=注}}など、様々なトラブルに見舞われ、ストレスから逃れるために次第に[[アルコール]]に頼った生活を送る様になった<ref name="ガッザ288-290"/>。また飲酒だけでなく、[[不眠症]]を解消するために[[睡眠薬]]に頼るようになったことを契機に薬物中毒<ref name="ガッザ288-290"/>になったことが、プレーの面にも悪影響を及ぼすようになった<ref name="ガッザ288-290"/>。ガスコイン自身はレンジャーズでの最初の2年間はサッカー人生において最高の時期だったが、最後の数カ月間は人生において最悪の時期だったと振り返っている<ref name="ガッザ288-290"/>。
[[2005年]]10月27日から下部リーグの[[ケタリング・タウンFC]]の監督に就任し、指導者としての再起を図るも、就任から39日後の同年12月5日に飲酒によるトラブルにより解任された<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/eng_conf/4500388.stm |title= Kettering sack manager Gascoigne |publisher= BBC SPORT |date=2005年12月05日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。この日の深夜に[[リヴァプール]]市内のホテルの外で、新聞社のカメラマンへ暴行を加えた容疑により逮捕された<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/merseyside/4501974.stm |title= Gazza freed after assault inquiry |publisher= BBC NEWS |date=2005年12月06日 |accessdate=2010-10-14}}</ref>。


=== その後 ===
[[2006年]]11月、[[ロンドン]]西部のナイトクラブで男性に暴行した容疑で地元警察に身柄を拘束された<ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2137434/1070883 |title= 元イングランド代表のガスコイン氏が暴行の容疑で警察に身柄を拘束される - 英国 |publisher= BBC SPORT |date=2006年11月08日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。
[[1998年]]3月に345万ポンド<ref name="ガッザ292">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、292頁</ref>の金額で[[フットボールリーグ]]・ディビジョン1(2部リーグに相当)の[[ミドルズブラFC]]へ移籍。当時のミドルズブラの監督はイングランド代表でチームメイトだったブライアン・ロブソンが務めており、シーズン終盤での加入だったが7試合に出場しチームの[[プレミアリーグ]]昇格と、[[フットボールリーグカップ]]準優勝に貢献した<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、294頁</ref>。しかし、代表チームではワールドカップの直前にメンバーから落選(後述)し、同年秋にはアルコール依存と[[うつ病]]の問題により自殺未遂を引き起こし<ref name="ガッザ322-327">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、284-285頁</ref>、[[精神科|精神病院]]に1か月間入院<ref name="ガッザ322-327"/>するなど、依然として問題を抱えていた。


[[2000年]]3月に、[[エバートンFC]]へ移籍。レンジャーズ時代の監督だったスミスの下で再びプレーすることになったが、私生活でもアルコール依存に絡んだ問題をしばしば起こし<ref name="AFPBB20080222">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2354013?pid=2665178|title=ガスコイン氏 英当局に抑留される|publisher=AFPBB News|date=2008-02-22|accessdate=2010-07-22}}</ref>、ヘルニアが再発するなど負傷を抱えたこともあってプレーに精彩を欠いていた。シーズン途中にスミスが退任したことでガスコインもチームを退団し、フットボールリーグ・ディビジョン1の[[バーンリーFC]]へ移籍し6試合に出場した。
[[2008年]]2月、ホテルの従業員から通報を受け警察は、深刻な精神障害に犯された者を強制的に精神病院に収容できるという心の健康に関する法律に基づき、イングランド北東部のゲートヘッドのホテルでガスコインを拘束(警察発表では負傷者及びホテルへの被害は無し)、“メンタルヘルス法”に基づき精神病院へ強制収容された<ref name="AFPBB20080222" />。同年9月18日、パブの窓を激しく叩いたとして器物損壊容疑で逮捕された<ref>{{cite web|url=http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPJAPAN-33846720080919 |title= サッカー=元イングランド代表ガスコイン、器物損壊容疑で逮捕 |publisher= Reuters |date=2008年09月19日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。


[[2003年]]1月、[[中華人民共和国]]の{{仮リンク|甘粛天馬|en|Gansu Tianma F.C.}}に移籍し4試合で2得点を挙げたが、同国で[[SARSウイルス]]が流行したことによりリーグ戦が中止されたことを受けてそのままチームを退団し<ref name="ガッザ372">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、372頁</ref>、アメリカ合衆国に渡って治療とカウンセリングを受けた<ref name="ガッザ372"/>。[[2004年]]に[[フットボールリーグ2]](4部リーグに相当)の[[ボストン・ユナイテッドFC]]に移籍し選手兼コーチとしてリーグ戦4試合に出場したが3ヵ月後に退団し、このまま現役を引退した。
同年11月、国税庁から未納金推定20万ポンドの支払いを命じられ納税まで9週間の猶予が与えられたが、自己破産の可能性も出てきたとの報道もされた<ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uk/2536086/3501633 |title= ガスコイン氏 税金滞納で自己破産の可能性 |publisher= Reuters |date=2008年11月07日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。12月には息子が[[チャンネル4]]制作のドキュメンタリー番組のインタビューに応じ「出来ることなら家族の前から消えてほしい」と発言するなど身内からも見放された状態となった<ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uk/2552807/3636645 |title= ガッザの息子 父親が「消える」ことを望むと報じられる |publisher= AFPBB News |date=2008年12月27日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。このような状況から、彼を取り巻く状況は日を増すたびに悪化していったが、2009年のインタビューではリハビリ施設にて健康維持療法を受け、アルコールと薬物依存から決別し健全な生活を取り戻すことに意欲を示していた<ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uk/2553966/3647102 |title= ガスコイン氏 「これが最後のチャンス」 |publisher= AFPBB News |date=2009年01月02日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。


== 代表経歴 ==
[[2010年]]2月8日、[[ノース・ヨークシャー]]の飲食店で友人と共に騒動を起こし、飲酒運転の容疑で警察に逮捕された<ref>{{cite web|url=http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20100210-594406.html |title= ガスコイン氏 飲酒運転で逮捕 |publisher= AFPBB News |date=2010年02月09日 |accessdate=2010-07-22}}</ref>。翌日に揃って保釈されたが、出所祝いに立ち寄ったバーで店員と口論となり2夜連続で逮捕された<ref>{{cite web|url=http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20100210-594406.html |title= ガスコイン氏2夜連続で逮捕される |publisher= nikkansports.com |date=2010年02月10日 |accessdate=2010-10-23}}</ref>。また、選手生活で手に入れた1400万ポンド(約20億円)の財産が底をつき自活不能な状況にあるため、プロフットボール選手協会(PFA)に住居を確保してくれるよう依頼があったとの報道がされた<ref>{{cite web|url=http://news.livedoor.com/article/detail/4612559/ |title= 元イングランド代表FWがホームレス ? |publisher= livedoor スポーツ |date=2010年02月18日 |accessdate=2010-10-14}}</ref>。
ニューカッスルの練習生時代にはイングランド学生代表に選ばれた経験はなかったが、1987年に21歳以下のイングランド代表に選出され、[[トゥーロン国際大会]]に出場し5位。翌1988年の同大会では準優勝に貢献するなど13試合に出場し5得点を記録した。


=== 1990 FIFAワールドカップ ===
9月には[[ノーザンプレミアフットボールリーグ]]ディヴィジョン1ノ-ス(8部リーグに相当)の[[ガーフォース・タウンAFC|ガーフォース・タウン]]の監督に就任するとの報道がされた<ref name="ESPN20100926">{{cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=827212&sec=england&cc=4716 |title= Gascoigne given managerial chance at Garforth |publisher= ESPN Soccernet |date=2010年09月26日 |accessdate=2010-09-29}}</ref><ref>{{cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=827212&sec=england&cc=4716 |title= 元イングランド代表のガスコインが8部リーグの監督に就任 |publisher= スポーツナビ |date=2010年09月29日 |accessdate=2010-09-29}}</ref>。本人も現場復帰に意欲を見せ<ref name="ESPN20100926"/>、同クラブの代表者は「営利目的ではなく、困難な人生を歩んでいる彼のような人物に再びチャンスを与えたい」と発言していた<ref name="ESPN20100926"/>。PFAの最高責任者もガスコインの復帰に関して今後もサポートを続けていくことを表明していたが<ref>{{cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=827648&cc=4716 |title= PFA will continue to support Gascoigne |publisher= ESPN Soccernet |date=2010年10月11日 |accessdate=2010-10-14}}</ref>、最終的にこのオファーを辞退<ref name="BBC20101011">{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-tyne-11512670 |title= Paul Gascoigne facing second drink-driving charge|publisher= BBC News |date=2010年10月11日 |accessdate=2010-10-14}}</ref><ref>{{cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=830317&sec=england&cc=4716 |title= No Gascoigne in sight as his Garforth Town win |publisher= ESPN Soccernet |date=2010年10月11日 |accessdate=2010-10-14}}</ref>。
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 200px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]]
{{Image label|x=0.21|y=0.33|scale=200|text=[[ゲーリー・リネカー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''リネカー'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.58|y=0.33|scale=200|text=[[ピーター・ベアズリー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ベアズリー'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.21|y=0.48|scale=200|text=[[デビッド・プラット|<span style="font-size: 90%; color: white">'''プラット'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.61|y=0.48|scale=200|text=[[クリス・ワドル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ワドル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.61|scale=200|text=<span style="font-size: 90%; color: white">'''ガスコイン'''</span>}}
{{Image label|x=0.71|y=0.78|scale=200|text=[[ポール・パーカー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''パーカー'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.07|y=0.78|scale=200|text=[[スチュアート・ピアース|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ピアース'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.61|y=0.90|scale=200|text=[[デス・ウォーカー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ウォーカー'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.25|y=0.90|scale=200|text=[[マーク・ライト (1963年生のサッカー選手)|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ライト'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=1.03|scale=200|text=[[テリー・ブッチャー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ブッチャー'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.41|y=1.18|scale=200|text=[[ピーター・シルトン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''シルトン'''</span>]]}}
</div>
|-
|style="font-size: smaller;"|[[1990年]][[7月4日]]、[[1990 FIFAワールドカップ]]準決勝、[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦のメンバー<ref>{{Cite book|和書|author=[[牛木素吉郎]]、平木健一|chapter=イタリア'90 ワールドカップの技術と戦術|title=サッカーマガジン|volume=1990年12月号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1990|page=143}}</ref>
|}
イングランド代表としては同年9月14日の[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]との親善試合で代表デビューを果たし<ref name="rsssf"/>、同年11月16日に行われた[[1990 FIFAワールドカップ・予選]]の[[サッカーアルバニア代表|アルバニア]]戦で代表初得点を決めた<ref name="rsssf"/>が、当初は[[ボビー・ロブソン]]監督の信頼を得るまでには至らなかった<ref name="グランヴィル360">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、360頁</ref>。翌1990年にイタリアで開催される本大会に向けた代表メンバーの中では当落線上の選手の一人だったが<ref name="グランヴィル360"/>、同年4月25日の[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]との親善試合を前にした記者会見でのロブソンの「この試合が最後のチャンス」との言葉に奮起し<ref name="グランヴィル360"/>、1得点を挙げるなど結果を残した事で代表メンバーに選出された<ref name="グランヴィル360"/>。


大会ではロブソン監督の中心選手として6試合に先発出場。1次リーグ第3戦の[[サッカーエジプト代表|エジプト]]戦でのアシスト、決勝トーナメント1回戦、[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]戦で[[デビッド・プラット]]の決勝点をアシストする活躍などで地元開催の1966年以来となるベスト4進出に貢献。準決勝の[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦では、相手のエースである[[ローター・マテウス]]を上回るプレーを見せながらも<ref name="グランヴィル185">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、185頁</ref>、1-1の同点のまま迎えたPK戦の末に敗れて決勝戦進出を逃した。また、この試合の延長戦においてガスコインは[[トーマス・ベルトルト]]への反則により主審から警告を受けたが、仮に決勝進出を果たしても累積警告により出場が出来ないと知り涙を流した<ref name="AFPBB20080222"/><ref name="Metro"/><ref name="グランヴィル185"/><ref name="森田2009">[[#森田 2009|森田 2009]]、85-90頁</ref>。この試合での一幕はテレビを通じて世界中に放映されていたことから「ガッザの涙」として知られるようになった<ref name="森田2009"/>が、イギリス国内での反響は大きく、「敗戦に悔し涙を流す」国民的な英雄<ref name="森田2009"/>として扱われただけでなく、後のサッカー文化に影響を与えたとも言われている<ref name="森田2009"/>。
この報道から数日後の10月8日、[[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]]市内の路上で白昼に飲酒の上、蛇行運転をしていた容疑により再び逮捕<ref name="BBC20101011"/>。取調べの際に法律で定められている酒気帯び運転の基準値の約4倍の濃度のアルコールが検出された<ref name="BBC20101020">{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-tyne-11584520 |title= Jail warning for Gazza for drink driving |publisher= BBC News |date=2010年10月20日 |accessdate=2010-10-23}}</ref>。


ガスコインの下にはテレビ番組、各種イベント、[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]出演、関連グッズ販売など様々な依頼が殺到し<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、164-165頁</ref>、ワールドカップ終了後の1年間に数百万ポンドの利益を得た<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、166-167頁</ref>。ガッザ・マニアと呼ばれる熱狂的なファンが登場するなどの社会現象となり、ロックバンドの『[[ビートルズ]]』の人気に匹敵すると評された<ref name="サカマガ199103"/>。また同年には[[英国放送協会]] (BBC) の視聴者が選ぶ[[BBCスポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー|スポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー]]に選ばれた<ref name="サカマガ199103"/><ref name="BBC200912">{{Cite web|url=http://www.bbc.co.uk/pressoffice/keyfacts/stories/spoty.shtml|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140117140401/http://www.bbc.co.uk/pressoffice/keyfacts/stories/spoty.shtml|title=Sports Personality Of The Year|publisher=BBC|date=2009-12|archivedate=2014-01-17|accessdate=2010-07-22}}</ref>が、これはサッカー選手としては[[1966年]]の[[1966 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イングランド大会]]の年に[[ボビー・ムーア]]が受賞して以来、2人目の出来事だった<ref name="サカマガ199103"/>{{#tag:ref|サッカー選手では1998年に[[マイケル・オーウェン]]、2001年に[[デビッド・ベッカム]]、2009年に[[ライアン・ギグス]]が受賞した<ref name="BBC200912"/>。|group=注}}。
同月21日、自宅に薬物を隠し持っていた容疑で逮捕された<ref>{{cite web|url=http://uk.news.yahoo.com/18/20101022/tuk-gascoigne-arrested-on-suspicion-of-d-2c0ffe7.html |title= Gascoigne arrested on suspicion of drugs possession |publisher= Yahoo! News UK |date=2010年10月22日 |accessdate=2010-10-23}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-tyne-11605163 |title= Gazza arrested over drug offence |publisher= BBC News |date=2010年10月22日 |accessdate=2010-10-23}}</ref><ref>{{cite web|url=http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPJAPAN-17802620101023 |title= サッカー=元イングランド代表ガスコイン逮捕、薬物所持容疑 |publisher= Reuters |date=2010年10月23日 |accessdate=2010-10-24}}</ref>。ガスコインの逮捕は2010年に入って4度目。


=== 1994 FIFAワールドカップ予選 ===
[[2011年]]4月6日、[[サンチャゴ・ベルナベウ]]で行われたCLクウォーターファイナル第一戦、[[レアル・マドリー]]と古巣[[トッテナム・ホットスパー]]の試合を観戦した。その際にレアル・マドリーの監督である[[ジョゼ・モウリーニョ]]からの計らいで、「スペシャル・ワンへ」というメッセージを添えたボックス席のチケットをプレゼントされた。
1991年に負った右膝の十字靭帯断裂のために1992年の[[UEFA EURO '92|UEFA EURO]]の出場は断念。怪我からの復帰後には再び代表チームへの招集を受け、同年10月に行われた[[1994 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・アメリカ大会]]予選の[[サッカーノルウェー代表|ノルウェー]]戦で復帰を果たした。その後もガスコインは招集を受けたが{{仮リンク|グラハム・テイラー (サッカー選手)|label=グラハム・テイラー|en|Graham Taylor (footballer)}} 監督との関係は良好ではなく、自身も出場機会が巡っても多くの結果を残すことは出来ず<ref name="ガッザ231">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、231頁</ref>、最終的にノルウェーと[[サッカーオランダ代表|オランダ]]に競り負け本大会出場を逃した。1994年に所属クラブで脚を骨折したため、1年近く代表の試合からは遠ざかった<ref name="ガッザ233-234"/>。

=== UEFA EURO '96 ===
地元開催の[[UEFA EURO '96]]に向けて、トッテナム時代に指導を受けたヴェナブルズが監督に就任した。1995年6月に行われた[[サッカー日本代表|日本]]との親善試合で復帰を果たすと、ベナブルズ指揮下の代表チームにおいて重要な選手と見なされるようになった。1996年の本大会ではグループリーグ初戦で[[サッカースイス代表|スイス]]に引き分けたが、続く[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]戦を2-0、第3戦の[[サッカーオランダ代表|オランダ]]戦を4-1で下して首位で決勝トーナメントへ駒を進めた。準々決勝では[[サッカースペイン代表|スペイン]]をPK戦の末に下し、[[UEFA欧州選手権1968|1968年大会]]以来28年ぶりに準決勝進出を果たしたが、準決勝はドイツに1990年のワールドカップの際と同様にPK戦の末に敗れ、決勝進出を逃した。

なお、グループリーグ第2戦のスコットランド戦において、相手DFの[[コリン・ヘンドリー]]の頭上にボールを浮かしてタックルを交わし、浮き球を右足でボレーシュートを決めたシーンは「世紀のゴール」と呼ばれ語り草となっている<ref name="マルチ大事典"/><ref name="Metro"/><ref>{{Cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/2293394/Top-10-memorable-goal-celebrations.html|title=Top 10 memorable goal celebrations|publisher=Telegraph|date=2008-03-03|accessdate=2010-07-02}}</ref><ref name="TalkFootball">{{Cite web|url=http://www.talkfootball.co.uk/guides/football_legends_paul_gascoigne.html|title= Paul Gascoigne - A Football Legend Profile|publisher= TalkFootball.co.uk|accessdate=2010-10-14}}</ref>。またガスコイン自身はグループリーグ第3戦のオランダ戦での勝利をイングランド代表史上に残る勝利に挙げているが<ref name="ガッザ264">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、264頁</ref>、この大会について次のように評している。
{{Quotation|欧州選手権も1990年のワールドカップも勝てたはずだった。ロブソンとヴェナブルズという名監督の下で最高のチームで挑んだが、2度ともPK戦でドイツに敗れ、2度ともドイツが優勝した。彼らが優れていたわけじゃない、我々に運が無かっただけだ<ref name="ガッザ181"/>。|ポール・ガスコイン}}

=== 1998 FIFAワールドカップ予選 ===
欧州選手権終了後にヴェナブルズの後任として[[グレン・ホドル]]が監督に就任したが、引き続き代表に招集され、[[1998 FIFAワールドカップ・予選|ワールドカップ・フランス大会予選]]に出場。1997年10月11日に敵地の[[ローマ]]で行われた[[サッカーイタリア代表|イタリア]]戦は0-0の引分けに終わったが、この試合の結果により予選グループ首位で本大会出場を決めた。自身はこの試合を選手キャリアにおいて最高のパフォーマンスを発揮した試合の一つに挙げている<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、307-308頁</ref>。翌1998年の[[1998 FIFAワールドカップ|本大会]]に向けた28人の代表候補に選ばれ、同年5月のスペイン合宿に参加したが、ホドルはガスコインの体調と精神面を懸念して<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、301頁</ref>大会直前にメンバーから外す決定を下した<ref name="Metro"/><ref name="TalkFootball"/>。

ガスコインを欠いたイングランド代表は決勝トーナメントに進出したが、[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]に敗れてベスト16で敗退。この結果について当時のチームメイトだった[[デビッド・ベッカム]]は2003年に出版した自伝の中で「ガッザがいれば違った結果になっていたかもしれない。ガッザなら彼にしか為し得ない何かをチームにもたらしたはず」と発言している<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、316頁</ref>。その後、代表チームに招集される機会はなく<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、410頁</ref>、1998年5月29日に行われたベルギーとの親善試合が最後の試合出場となった<ref name="rsssf"/>。イングランド代表での通算成績は国際Aマッチ57試合出場10得点。

== 引退後経歴 ==
[[2005年]]10月27日から下部リーグの[[ケタリング・タウンFC]]の監督に就任し、指導者としての再起を図るも、就任から39日後の同年12月5日に飲酒によるトラブルにより解任された<ref>{{Cite web|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/eng_conf/4500388.stm|title= Kettering sack manager Gascoigne |publisher= BBC SPORT|date=2005-12-05|accessdate=2010-07-22}}</ref>。この日の深夜に[[リヴァプール]]市内のホテルの外で、新聞社のカメラマンへ暴行を加えた容疑により逮捕された<ref>{{Cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/merseyside/4501974.stm|title= Gazza freed after assault inquiry|publisher= BBC NEWS|date=2005-12-06|accessdate=2010-10-14}}</ref>。

[[File:Paul Gascoigne.jpg|right|thumb|チャリティマッチに出場したガスコイン(2006年)]]
[[2006年]]11月、[[ロンドン]]西部のナイトクラブで男性に暴行した容疑で地元警察に身柄を拘束された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2137434/1070883|title=元イングランド代表のガスコイン氏が暴行の容疑で警察に身柄を拘束される - 英国|publisher=[[フランス通信社|AFPBB News]]|date=2006-11-08|accessdate=2010-07-22}}</ref>。

[[2008年]]2月、ホテルの従業員から通報を受け警察は、深刻な精神障害に犯された者を強制的に精神病院に収容できるという心の健康に関する法律に基づき、イングランド北東部のゲートヘッドのホテルでガスコインを拘束(警察発表では負傷者及びホテルへの被害は無し)、“メンタルヘルス法”に基づき精神病院へ強制収容された<ref name="AFPBB20080222" />。同年9月18日、パブの窓を激しく叩いたとして器物損壊容疑で逮捕された<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPJAPAN-33846720080919|title=サッカー=元イングランド代表ガスコイン、器物損壊容疑で逮捕|publisher=[[ロイター|Reuters]]|date=2008-09-19|accessdate=2010-07-22}}</ref>。

同年11月、国税庁から未納金推定20万ポンドの支払いを命じられ納税まで9週間の猶予が与えられたが、自己破産の可能性も出てきたとの報道もされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2536086?pid=3501633 |title= ガスコイン氏 税金滞納で自己破産の可能性|publisher=AFPBB News|date=2008-11-07|accessdate=2010-07-22}}</ref>。12月には息子が[[チャンネル4]]制作のドキュメンタリー番組のインタビューに応じ「出来ることなら家族の前から消えてほしい」と発言するなど身内からも見放された状態となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2552807?pid=3636645|title=ガッザの息子 父親が「消える」ことを望むと報じられる|publisher=AFPBB News|date=2008-12-27|accessdate=2010-07-22}}</ref>。このような状況から、彼を取り巻く状況は日を増すたびに悪化していったが、2009年のインタビューではリハビリ施設にて健康維持療法を受け、アルコールと薬物依存から決別し健全な生活を取り戻すことに意欲を示していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2553966?pid=3647102|title= ガスコイン氏 「これが最後のチャンス」|publisher= AFPBB News|date=2009-01-02|accessdate=2010-07-22}}</ref>。

[[2010年]]2月8日、[[ノース・ヨークシャー]]の飲食店で友人と共に騒動を起こし、飲酒運転の容疑で警察に逮捕された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20100210-594406.html|title= ガスコイン氏 飲酒運転で逮捕|publisher=AFPBB News|date=2010-02-09|accessdate=2010-07-22}}</ref>。翌日に揃って保釈されたが、出所祝いに立ち寄ったバーで店員と口論となり2夜連続で逮捕された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20100210-594406.html|title=ガスコイン氏2夜連続で逮捕される|publisher=nikkansports.com|date=2010-02-10|accessdate=2010-10-23}}</ref>。また、選手生活で手に入れた1400万ポンド(約20億円)の財産が底をつき自活不能な状況にあるため、プロフットボール選手協会(PFA)に住居を確保してくれるよう依頼があったとの報道がされた<ref>{{Cite web|和書|url=http://news.livedoor.com/article/detail/4612559/|archiveurl=https://archive.fo/20120711082211/http://news.livedoor.com/article/detail/4612559/|title=元イングランド代表FWがホームレス ?|publisher=livedoor スポーツ|date=2010-02-18|accessdate=2010-10-14|archivedate=2012-07-11}}</ref>。

同年7月9日、ガスコインは同月3日に刑務所を出所したばかりの男が元恋人の交際相手を[[銃殺]]し逃走した容疑で指名手配された事件({{仮リンク|2010年ノーサンブリア事件|en|2010 Northumbria Police manhunt}})に関心を持ち、容疑者がイングランド北東部の[[ノーサンバランド]]にある{{仮リンク|ロスベリー|en|Rothbury}}という村で発見され警官隊に包囲されたと知ると[[タクシー]]を使って現場を訪れ「彼は私の友人だ」と主張した<ref name="Daily Star20100929">{{Cite web|url=http://www.dailystar.co.uk/news/view/155928/Gazza-I-don-t-know-Raoul-Moat-I-was-just-drunk/|title=GAZZA: I DON'T KNOW RAOUL MOAT, I WAS JUST DRUNK |publisher=Daily Star|date=2010-09-29|accessdate=2012-01-29}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/crime/7882762/Raoul-Moat-Gazza-arrives-in-Rothbury-to-offer-his-support.html|title=Raoul Moat: Gazza arrives in Rothbury to 'offer his support'|publisher= Telegraph|date=2010-07-09|accessdate=2012-01-29}}</ref>。その際に飲食物([[ビール]]と数個の[[鶏肉|チキン]])と[[釣り竿]]と[[衣類]]を差し入れ容疑者との面会を求めた<ref name="Daily Star20100929"/>が、ガスコインの申し出は警察により拒否され、容疑者は警察が包囲してから6時間後に拳銃自殺を図った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2552807?pid=3636645|title=英の元恋人銃撃事件、容疑者自殺で逃走劇に幕|publisher= AFPBB News|date=2010-07-10|accessdate=2012-01-29}}</ref>。後にガスコインは、この時の騒動について「自宅で酒を飲んでいたところ、ニュースで事件を知った。彼とは面識はない<ref name="Daily Star20100929"/>」「(容疑者に面会を求めたのは)彼には話し相手が必要だと考えたからだ。しかし、容疑者が元恋人の交際相手を殺害し警官を狙撃したことは理解していなかった。あの時の行動を考えると気が咎める<ref>{{Cite web|url=
http://www.telegraph.co.uk/news/celebritynews/8370593/Paul-Gascoigne-I-didnt-know-Raoul-Moat-had-shot-a-police-officer.html|title=Paul Gascoigne: I didn't know Raoul Moat had shot a police officer|publisher=Telegraph|date=2011-05-09|accessdate=2012-01-29}}</ref>」と回答している。

同年9月、[[ノーザンプレミアフットボールリーグ]]ディヴィジョン1ノース(8部リーグに相当)の[[ガーフォース・タウンAFC|ガーフォース・タウン]]の監督に就任するとの報道がされた<ref name="ESPN20100926">{{Cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=827212&sec=england&cc=4716|title= Gascoigne given managerial chance at Garforth|publisher= ESPN Soccernet|date=2010-09-26|accessdate=2010-09-29}}</ref>。本人も現場復帰に意欲を見せ<ref name="ESPN20100926"/>、同クラブの代表者は「営利目的ではなく、困難な人生を歩んでいる彼のような人物に再びチャンスを与えたい」と発言していた<ref name="ESPN20100926"/>。PFAの最高責任者もガスコインの復帰に関して今後もサポートを続けていくことを表明していたが<ref>{{Cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=827648&cc=4716|title=PFA will continue to support Gascoigne|publisher=ESPN Soccernet|date=2010-10-11|accessdate=2010-10-14}}</ref>、最終的にこのオファーを辞退<ref name="BBC20101011">{{Cite web|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-tyne-11512670|title=Paul Gascoigne facing second drink-driving charge|publisher= BBC News|date=2010-10-11|accessdate=2010-10-14}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=830317&sec=england&cc=4716|title=No Gascoigne in sight as his Garforth Town win|publisher= ESPN Soccernet|date=2010-10-11|accessdate=2010-10-14}}</ref>。

この報道から数日後の10月8日、[[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]]市内の路上で白昼に飲酒の上、蛇行運転をしていた容疑により再び逮捕<ref name="BBC20101011"/>。取調べの際に法律で定められている酒気帯び運転の基準値の約4倍の濃度のアルコールが検出された<ref name="BBC20101020">{{Cite web|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-tyne-11584520|title=Jail warning for Gazza for drink driving|publisher= BBC News|date=2010-10-20|accessdate=2010-10-23}}</ref>。

同月21日、自宅に薬物を隠し持っていた容疑で逮捕された<ref>{{Cite web|url=http://uk.news.yahoo.com/18/20101022/tuk-gascoigne-arrested-on-suspicion-of-d-2c0ffe7.html|title= Gascoigne arrested on suspicion of drugs possession|publisher=Yahoo! News UK|date=2010-10-22|accessdate=2010-10-23}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-tyne-11605163|title=Gazza arrested over drug offence|publisher=BBC News|date=2010-10-22|accessdate=2010-10-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPJAPAN-17802620101023|title= サッカー=元イングランド代表ガスコイン逮捕、薬物所持容疑|publisher= Reuters|date=2010-10-23|accessdate=2010-10-24}}</ref>。ガスコインの逮捕は2010年に入って4度目。


== 人物 ==
== 人物 ==
=== 評価 ===
愛称は「'''ガッザ'''」。1990年代のイングランド・サッカー界において人気選手として注目を集めた存在であり、[[デイヴィッド・ベッカム]]が登場するまでは国民的英雄であった。ピッチ内外での悪童ぶりでも知られ、夫人に対する[[ドメスティック・バイオレンス|DV]]や審判や相手選手への奔放な言動はしばしば注目された<ref name="guardian" /><ref name="Metro"/><ref name="AFPBB20080222"/>。一方で、ピッチ上ではずんぐりした体型からは考えられないほどのドリブルテクニックとパスセンスで異彩を放っていた<ref>{{cite web |author=[[東本貢司]] |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/england/column/01-02/ZZZT9XWU02D.html |title= ガスコインを動かした“明暗事情”と明日への希望(後編) |publisher= スポーツナビ |date= |accessdate=2010-10-14}}</ref>。自伝は英国最優秀スポーツブック賞を受賞しており、悪童と呼ばれる反面、その愛嬌あるキャラクターで愛されてきたガッザの栄光と挫折、苦悩が赤裸々に語られている。
プレースタイルに関しては「イングランドサッカー史上において最も優れた才能の持ち主<ref name="グランヴィル359-360"/><ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、291頁</ref>」「[[ボビー・チャールトン]]と[[ジョージ・ベスト]]の才能を足して2で割ったような選手<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、206頁</ref>」「稀代の国際的な選手<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、254頁</ref>」などの高い評価を得ながら、前述のように奇行癖や飲酒癖にまつわるトラブルの数々<ref name="guardian"/>から、人物そのもののとしては「サッカーの上手な愚か者<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、267頁</ref>」「自己破滅的<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、171頁</ref>」「酔っ払っていなければ最高の選手<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、239頁</ref>」「刹那的<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、231頁</ref>」などと評されている。

半生を綴った自伝の''Gazza My Story'' (邦題: ガッザの涙--フットボーラーポール・ガスコイン自伝)は、2005年に英国最優秀スポーツ書籍賞 ([[:en:British Book Awards#The Sports Book of the Year|The Sports Book of the Year]]) を受賞している<ref name="ガッザ477">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、477頁</ref>が、実質的な執筆はビートルズの公式伝の執筆者として知られるジャーナリストの{{仮リンク|ハンター・デイヴィス|en|Hunter Davies}} が行っている<ref name="ガッザ477"/>。

=== 私生活 ===
元モデルであり、既婚者で2人の子供の母親であった{{仮リンク|シェリル・ガスコイン|en|Sheryl Gascoigne}}とは1991年頃から交際が始まった<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、184-187頁</ref>。ガスコインとシェリルは長い交際期間の末に1996年7月に結婚式を挙げたが、同年10月にガスコインが休暇中のホテルで口論の末に暴力<ref name="ガッザ271-272">[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、271-272頁</ref>を振るったことを契機に別居生活に入り<ref name="ガッザ271-272"/>、調停の末に1998年8月に離婚が成立した。元妻との継娘である{{仮リンク|ビアンカ・ガスコイン|en|Bianca Gascoigne}}はモデルや[[俳優|女優]]を務めている。

== 個人成績 ==
=== クラブでの成績 ===
2004-05シーズン終了時の成績<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.national-football-teams.com/v2/player.php?id=14400|title=Player - Paul Gascoigne|publisher=National Football Teams|accessdate=2011-07-17}}</ref>
{{Football player statistics 1|YY}}
|-
|1984-85||rowspan="4"|[[ニューカッスル・ユナイテッドFC|ニューカッスル・ユナイテッド]]||rowspan="4"|[[フットボールリーグ|ディビジョン1]]||2||0||0||0||0||0||colspan="2"|-||2||0
|-
|1985-86||31||9||1||0||3||0||colspan="2"|-||35||9
|-
|1986-87||24||5||0||0||2||0||colspan="2"|-||26||5
|-
|1987-88||35||7||3||3||3||1||colspan="2"|-||41||11
|-
|1988-89||rowspan="4"|[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]||rowspan="4"|[[フットボールリーグ|ディビジョン1]]||32||6||0||0||5||1||colspan="2"|-||37||7
|-
|1989-90||34||6||0||0||4||1||colspan="2"|-||38||7
|-
|1990-91||26||7||6||6||5||6||colspan="2"|-||37||19
|-
|1991-92||0||0||0||0||0||0||colspan="2"|-||0||0
|-
|1992-93||rowspan="3"|[[SSラツィオ|ラツィオ]]||rowspan="3"|[[セリエA (サッカー)|セリエA]]||22||4||4||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||26||4
|-
|1993-94||17||2||0||0||colspan="2"|-||0||0||17||2
|-
|1994-95||4||0||0||0||colspan="2"|-||0||0||4||0
|-
|1995-96||rowspan="3"|[[レンジャーズFC|レンジャーズ]]||rowspan="3"|[[スコティッシュ・プレミアリーグ|プレミアリーグ]]||28||14||4||3||3||1||7||1||42||19
|-
|1996-97||26||13||1||0||4||3||3||1||34||17
|-
|1997-98||20||3||3||0||0||0||5||0||28||3
|-
|1997-98||rowspan="3"|[[ミドルズブラFC|ミドルズブラ]]||[[フットボールリーグ|ディビジョン1]]||7||0||0||0||1||0||colspan="2"|-||8||0
|-
|[[FAプレミアリーグ1998-1999|1998-99]]||rowspan="2"|[[プレミアリーグ]]||26||3||1||0||2||0||colspan="2"|-||29||3
|-
|[[プレミアリーグ1999-2000|1999-00]]||8||1||1||0||2||0||colspan="2"|-||11||1
|-
|[[FAプレミアリーグ2000-2001|2000-01]]||rowspan="2"|[[エヴァートンFC|エヴァートン]]||rowspan="2"|[[プレミアリーグ]]||14||0||0||0||1||0||colspan="2"|-||15||0
|-
|[[FAプレミアリーグ2001-2002|2001-02]]||18||1||4||0||1||0||colspan="2"|-||23||1
|-
|2001-02||[[バーンリーFC|バーンリー]]||[[フットボールリーグ・チャンピオンシップ|チャンピオンシップ]]||6||0||0||0||0||0||colspan="2"|-||6||0
|-
|2003||[[甘粛天馬]]||[[中国サッカー・甲級リーグ|甲級]]||4||2||0||0||0||0||colspan="2"|-||4||2
|-
|2004-05||[[ボストン・ユナイテッドFC|ボストン・ユナイテッド]]||[[フットボールリーグ2|リーグ2]]||4||0||0||0||1||0||colspan="2"|-||5||0
{{Football player statistics 3|4|ENG}}267||45||16||9||30||9||colspan="2"|-||313||63
{{Football player statistics 4|ITA}}43||6||4||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||47||6
{{Football player statistics 4|SCO}}74||30||8||3||7||4||15||2||104||39
{{Football player statistics 4|CHN}}4||2||0||0||0||0||colspan="2"|-||4||2
{{Football player statistics 5}}378||83||28||12||37||13||15||2||468||110
{{Football player statistics end}}

=== 代表での成績 ===
:出典<ref name="rsssf"/>
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
!colspan="8"|[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]
|-
!rowspan="2"|年
!colspan="2"|国際大会
!colspan="2"|親善試合
!colspan="2"|合計
|- style="background:beige"
!出場
!得点
!出場
!得点
!出場
!得点
|-
|1988
| 0 || 0 || 2 || 0 || 2 || 0
|-
|1989
| 2 || 1 || 2 || 0 || 4 || 1
|-
|1990
| 7 || 0 || 6 || 1 || 13 || 1
|-
|1991
| 0 || 0 || 1 || 0 || 1 || 0
|-
|1992
| 2 || 2 || 0 || 0 || 2 || 2
|-
|1993
| 6 || 2 || 0 || 0 || 6 || 2
|-
|1994
| 0 || 0 || 1 || 0 || 1 || 0
|-
|1995
| 0 || 0 || 6 || 0 || 6 || 0
|-
|1996
| 8 || 2 || 3 || 1 || 11 || 3
|-
|1997
| 3 || 1 || 5 || 0 || 8 || 1
|-
|1998
| 0 || 0 || 3 || 0 || 3 || 0
|-
!通算
! 28 || 8 || 29 || 2 || 57 || 10
|-
|}

=== 代表での得点 ===
:出典<ref name="rsssf"/>
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
|-
!!align="center"| #!! 開催日 !! 開催地 !! 対戦国 !! 結果 !! 大会
|-
| 1 || 1989年4月26日 || [[イングランド]]、[[ロンドン]] || {{ALB1946f}} || 5-0 || [[1990 FIFAワールドカップ・予選]]
|-
| 2 || 1990年4月25日 || イングランド、ロンドン || {{TCHf}} || 4-2 || 親善試合
|-
| 3 || rowspan="2"|1992年11月18日 || rowspan="2"|イングランド、ロンドン || rowspan="2"|{{TURf}} || rowspan="2"|4-0 || rowspan="2"|[[1994 FIFAワールドカップ・予選]]
|-
| 4
|-
| 5 || 1993年5月13日 || [[トルコ]]、[[イズミル]] || {{TURf}} || 2-0 || 1994 FIFAワールドカップ・予選
|-
| 6 || 1993年9月8日 || イングランド、ロンドン || {{POLf}} || 3-0 || 1994 FIFAワールドカップ・予選
|-
| 7 || 1996年5月23日 || [[中華人民共和国|中国]]、[[北京]] || {{CHNf}} || 3-0 || 親善試合
|-
| 8 || 1996年6月15日 || イングランド、ロンドン || {{SCOf}} || 2-0 || [[UEFA EURO '96]]
|-
| 9 || 1996年9月1日 || [[モルドバ]]、[[キシナウ]] || {{MDAf}} || 3-0 || [[1998 FIFAワールドカップ・予選]]
|-
| 10 || 1997年10月11日 || イングランド、ロンドン || {{MDAf}} || 4-0 || [[1998 FIFAワールドカップ・予選]]
|-
|}


== 個人タイトル ==
== 個人タイトル ==
*[[PFA年間最優秀若手選手賞]] (1988年)
*[[PFA年間最優秀若手選手賞]](1988年)
*[[英国放送協会|BBC]]選定年間最優秀スポーツ選手 (1990年)
*[[英国放送協会|BBC]]選定年間最優秀スポーツ選手(1990年)
*[[スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞]] (1996年)
*[[スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞]](1996年)
*[[スコットランドPFA年間最優秀選手賞]] (1996年)
*[[スコットランドPFA年間最優秀選手賞]](1996年)
*[[イングランドサッカー殿堂]] (2002年)
*[[イングランドサッカー殿堂]](2002年)
*グラスゴー・レンジャーズFC 殿堂(2006年)
*レンジャーズFC 殿堂(2006年)


== 著書 ==
== 著書 ==
*ガッザの涙--フットボーラーポール・ガスコイン自伝』([[東本貢司]]翻訳、カンゼン2006年)ISBN 978-4901782739
* {{Cite book|和書|author=ポール・ガスコイン|translator=[[東本貢司]]|title=ガッザの涙--フットボーラーポール・ガスコイン自伝|publisher=カンゼン|year=2006|isbn=4-901782-73-8}}
* {{Cite book|last=Paul Gascoigne|coauthors=John McKeown, Hunter Davies|year=2006|title=''Being Gazza: Tackling My Demons''|publisher=HeadlinePublishing|location=London|isbn=978-0755315437}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注" />
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=ブライアン・グランヴィル|others=[[賀川浩]]監修|translator=田村修一、土屋晃、田邊雅之|year=1998|title=決定版ワールドカップ全史|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794208187|ref=グランヴィル 1998}}
* {{Cite book|和書|author=ポール・ガスコイン|translator=[[東本貢司]]|year=2006|title=ガッザの涙--フットボーラーポール・ガスコイン自伝|publisher=[[カンゼン]]|isbn=978-4901782739 |ref=ガスコイン 2006}}
* {{Cite book|和書|author = 国吉好弘|others = [[サッカーマガジン|週刊サッカーマガジン]]責任編集|title = サッカーマルチ大事典 改訂版|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|year = 2006|isbn = 4583038801|ref = 国吉 2006}}
* {{Cite book|和書|author=森田浩之|year=2009|title=メディアスポーツ解体──〈見えない権力〉をあぶり出す|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|series=[[NHKブックス]]|isbn=978-4140911488|ref=森田 2009}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.sporting-heroes.net/football-heroes/searchresults.asp?ButtonLeap=0&countryLinkDescription=+matching+search+results&FootballHeroName=gasc&FootballHeroClubCountry=&FootballHeroDecade=Select+One&SearchButton=Search Photos, biographies & stats at sporting-heroes.net]
* [http://www.sporting-heroes.net/football-heroes/searchresults.asp?ButtonLeap=0&countryLinkDescription=+matching+search+results&FootballHeroName=gasc&FootballHeroClubCountry=&FootballHeroDecade=Select+One&SearchButton=Search Photos, biographies & stats at sporting-heroes.net]
* [http://www.nationalfootballmuseum.com/pages/fame/2002.htm English Football Hall of Fame Profile]
* [https://web.archive.org/web/20070930181548/http://www.nationalfootballmuseum.com/pages/fame/2002.htm English Football Hall of Fame Profile]


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{{Navboxes|title = イングランド代表- 出場大会
|title=タイトル・受賞歴
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{{1990 FIFAワールドカップイングランド代表}}
{{UEFA欧州選手権1996イングランド代表}}
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{{スコットランドPFA年間最優秀選手賞}}
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{{DEFAULTSORT:かすこいん ほおる}}
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2024年10月6日 (日) 02:42時点における最新版

ポール・ガスコイン
ガスコイン(2006年4月)
名前
本名 ポール・ジョン・ガスコイン
Paul John Gascoigne
愛称 ガッザ
ラテン文字 Paul Gascoigne
基本情報
国籍 イングランドの旗 イングランド
生年月日 (1967-05-27) 1967年5月27日(57歳)
出身地 ゲイツヘッド
身長 178cm
体重 74kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
ユース
1980-1985 イングランドの旗 ニューカッスル・ユナイテッド
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1985-1988 イングランドの旗 ニューカッスル・ユナイテッド 92 (21)
1988-1992 イングランドの旗 トッテナム・ホットスパー 92 (19)
1992-1995 イタリアの旗 ラツィオ 43 (6)
1995-1998 スコットランドの旗 レンジャーズ 74 (30)
1998-2000 イングランドの旗 ミドルズブラ 41 (4)
2000-2002 イングランドの旗 エヴァートン 32 (1)
2002 イングランドの旗 バーンリー 6 (0)
2003 中華人民共和国の旗 甘粛天馬 4 (2)
2004 イングランドの旗 ボストン・ユナイテッド 4 (0)
代表歴
1987-1988 イングランドの旗 イングランド U-21 13 (5)
1989 イングランドの旗 イングランド B 4 (1)
1988-1998 イングランドの旗 イングランド[1] 57 (10)
監督歴
2005 イングランドの旗 ケタリング・タウン
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ポール・ガスコイン(Paul John Gascoigne, 1967年5月27日 - )は、イングランドの元サッカー選手サッカー指導者。現役時代のポジションはMF(攻撃的MF)。愛称は「ガッザ」 (Gazza)[注 1]

太目の体型ながら高いドリブルテクニックとパスセンス[3][4][5]の持ち主であり、愛嬌のあるキャラクターで1990年代にはイギリスの国民的英雄と呼ばれ人気を集めた[6]。しかし、その一方で公序良俗に反するような言動、飲酒癖うつ病にまつわるトラブルを頻繁に引き起こすことでも知られ[7][8]、引退後もしばしばメディアを賑わしている[9]

生い立ち

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タインアンドウィア州ゲイツヘッドで煉瓦職人の父と母の間に長男として生まれた。ガスコインという姓はフランス[10]南部のガスコーニュ地方に由来し、本名の「ポール・ジョン」とは母親がビートルズのファンであり、ポール・マッカートニージョン・レノンの名前に因んで名づけられた[11]。幼少の頃からサッカーに親しみ地元のサッカークラブであるニューカッスル・ユナイテッドFCのサポーターであると共に、オランダヨハン・クライフブラジルペレのファンだった[12]

ゲイツヘッド・ボーイズに在籍していた12歳の頃からサッカークラブのスカウトの関心を集め、イプスウィッチ・タウンミドルズブラサウサンプトンのテストを受けたがいずれも不合格に終わり[13]、1980年にニューカッスル・ユナイテッドの学生会員となった[13]。毎週火曜日の練習に参加しながら学校に通う日々を送っていたが、1982年8月、当時のイングランド代表のスター選手であるケビン・キーガンがクラブに入団した際には、キーガンの雑用係を務めていた[14]

1983年5月、16歳の誕生日に週給25ポンドの2年契約でニューカッスルと練習生契約を結んだ[2]。ユースチームでは直ぐに頭角を現しチームの成績も好調だったが、この当時から太目の体型だった。指導者からは体重の事や私生活のトラブルの事でたびたび叱責を受けており、そのストレス発散のために過食を繰り返していた[15]が、正規の練習の後に減量のためのランニングを課せられていた[15]

クラブ経歴

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ニューカッスル

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1984年6月、トップチームの監督にジャック・チャールトンが就任すると、更なる減量と食事制限を課し[16]、ユースチームの主将に任命された[16]。同時期にリザーブチームに昇格を果たすと、1985年3月からはトップチームの遠征に帯同するようになり、同年4月13日のクイーンズパーク・レンジャーズ戦で途中交代からリーグデビューを果たした[17]。一方で、ユースチームの主将として挑んだFAユースカップでは準決勝でバーミンガム・シティを下して決勝戦に駒を進め、決勝ではワトフォードを4-1で下し、1962年大会以来となる23年ぶり2回目の優勝に導いた[17]。この優勝の後にトップチームと週給120ポンドでプロ契約を結んだ[17]

ニューカッスルではクリス・ワドルらとチームメイトとなり、デビューとなった1984-85シーズンは2試合の出場に終わったが、翌1985-86シーズンになると出場機会が増え、3年目の1986-87シーズンレギュラーに定着し24試合で5得点を挙げた。これらの活躍により、それまで代表レベルでの経験のなかったガスコインは21歳以下のイングランド代表に招集される事になった[18]。リーグ戦での活躍から「小さな宝石」や「期待の新星」として注目を集める[19]一方で、次第にクラブから移籍をしたいという気持ちが高まっていった[19]。ガスコイン自身は第一志望としてリヴァプールFCへの移籍を希望していた[19]が、ブライアン・ロブソンの後継者を探してたアレックス・ファーガソンが監督を務めるマンチェスター・ユナイテッドFCからも交渉を持ちかけられていた[20]。ファーガソンから熱心な勧誘を受け移籍に気持ちが傾いた[21]が、テリー・ヴェナブルズが監督を務めるトッテナム・ホットスパーから勧誘を受けた際の、ヴェナブルズの「私の下で指導を受ければ確実にイングランド代表に選ばれるだろう」との言葉に触発されて[21]、トッテナムへ移籍する事が決まった[21]

トッテナム

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1988年夏にトッテナムへ移籍したが、移籍金の220万ポンドは、当時のイングランドのクラブが支払った最高金額だった[22]。ヴェナブルズの指導下で中心選手として活躍し、同年にはPFA年間最優秀若手選手賞を受賞した。1989-90シーズンのリーグ戦ではスペインFCバルセロナからゲーリー・リネカーが加入するとリーグ戦では二人のコンビプレーもあって[23]チームを1988-89シーズンの6位から3位に押し上げた。

ヴェナブルズの言葉通りに1988年にイングランド代表に選ばれ、1990年ワールドカップ・イタリア大会ではベスト4進出の原動力となったが、この大会後にイギリス国内ではガスコインの人気が過熱し新たなスター選手として迎えられた(後述)[6]。1990-91シーズンにヘルニアの手術を受けたため[24]、1か月間は試合から遠ざかった[24]が、FAカップ準決勝のアーセナルFC戦ではフリーキックを直接決めて3-1の勝利に貢献[24]し、ウェンブリー・スタジアムでの決勝戦に駒を進めた。シーズンの最中からイタリアのラツィオがガスコインの獲得に関心を示しており[25]、FAカップ決勝がトッテナムでの最後の試合になると考えられていた[25]。しかし決勝のノッティンガム・フォレストFC戦において、前半17分に相手DFのゲイリー・チャールズ英語版に悪質なタックルを行った際[26]に、自らが右膝靭帯断裂の重傷を負った[26]。試合はガスコインを欠いたもののトッテナムが延長戦の末にノッティンガムを下しタイトルを獲得したが、ガスコイン自身は搬送された病院のテレビでこの模様を観戦[26]しており、治療とリハビリのために1年4か月試合から遠ざかることになった[7]。この負傷に関して対戦相手のノッティンガムの選手だったスチュアート・ピアースは次のように評している。

彼はただ一人の力で試合の流れを変えてしまう、我々にとって悩ましい選手だった。しかしあの試合のタックルは彼のサッカー人生に重大な影響を及ぼしてしまい、二度と以前のプレーを取り戻すことは出来なかった[27] — スチュアート・ピアース

ラツィオ

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1992年5月、550万ポンドの金額でセリエAのラツィオへ移籍[9]。同年9月22日のジェノアCFC戦でリーグ戦デビューを果たすと22試合に出場し4得点を記録[28]。チームはリーグ戦で5位に入りUEFAカップ出場権獲得するなど結果を残したが、国際大会への出場はチームにとって16年ぶりの出来事だった[28]。しかし肥満問題などから次第に調子を落とすと[7]1994年4月には練習中にアレッサンドロ・ネスタにタックルを仕掛けた際に右脚を骨折し[29]、1シーズンを棒に振ることになった[29]

レンジャーズ

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1995年7月、430万ポンドの金額でスコティッシュ・プレミアリーグレンジャーズへ移籍[30]ウォルター・スミス監督の下で1995-96シーズンのリーグとカップの二冠獲得に貢献。1996年にはスコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞スコットランドPFA年間最優秀選手賞を同時受賞した。翌1996-97シーズンには、私生活でのトラブル(後述)や脚の負傷により調子を落とし、批判を受ける機会があった[31]が、シーズン中盤に調子を取り戻すとリーグ連覇とリーグカップの二冠獲得に貢献した[31]

1997-98シーズンには妻との離婚問題[32]だけでなく、武装組織のIRAのメンバーを名乗る人物からの脅迫[33]、サポーターへの挑発行為に関する騒動[注 2]など、様々なトラブルに見舞われ、ストレスから逃れるために次第にアルコールに頼った生活を送る様になった[32]。また飲酒だけでなく、不眠症を解消するために睡眠薬に頼るようになったことを契機に薬物中毒[32]になったことが、プレーの面にも悪影響を及ぼすようになった[32]。ガスコイン自身はレンジャーズでの最初の2年間はサッカー人生において最高の時期だったが、最後の数カ月間は人生において最悪の時期だったと振り返っている[32]

その後

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1998年3月に345万ポンド[34]の金額でフットボールリーグ・ディビジョン1(2部リーグに相当)のミドルズブラFCへ移籍。当時のミドルズブラの監督はイングランド代表でチームメイトだったブライアン・ロブソンが務めており、シーズン終盤での加入だったが7試合に出場しチームのプレミアリーグ昇格と、フットボールリーグカップ準優勝に貢献した[35]。しかし、代表チームではワールドカップの直前にメンバーから落選(後述)し、同年秋にはアルコール依存とうつ病の問題により自殺未遂を引き起こし[36]精神病院に1か月間入院[36]するなど、依然として問題を抱えていた。

2000年3月に、エバートンFCへ移籍。レンジャーズ時代の監督だったスミスの下で再びプレーすることになったが、私生活でもアルコール依存に絡んだ問題をしばしば起こし[8]、ヘルニアが再発するなど負傷を抱えたこともあってプレーに精彩を欠いていた。シーズン途中にスミスが退任したことでガスコインもチームを退団し、フットボールリーグ・ディビジョン1のバーンリーFCへ移籍し6試合に出場した。

2003年1月、中華人民共和国甘粛天馬英語版に移籍し4試合で2得点を挙げたが、同国でSARSウイルスが流行したことによりリーグ戦が中止されたことを受けてそのままチームを退団し[37]、アメリカ合衆国に渡って治療とカウンセリングを受けた[37]2004年フットボールリーグ2(4部リーグに相当)のボストン・ユナイテッドFCに移籍し選手兼コーチとしてリーグ戦4試合に出場したが3ヵ月後に退団し、このまま現役を引退した。

代表経歴

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ニューカッスルの練習生時代にはイングランド学生代表に選ばれた経験はなかったが、1987年に21歳以下のイングランド代表に選出され、トゥーロン国際大会に出場し5位。翌1988年の同大会では準優勝に貢献するなど13試合に出場し5得点を記録した。

1990 FIFAワールドカップ

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1990年7月4日1990 FIFAワールドカップ準決勝、西ドイツ戦のメンバー[38]

イングランド代表としては同年9月14日のデンマークとの親善試合で代表デビューを果たし[1]、同年11月16日に行われた1990 FIFAワールドカップ・予選アルバニア戦で代表初得点を決めた[1]が、当初はボビー・ロブソン監督の信頼を得るまでには至らなかった[39]。翌1990年にイタリアで開催される本大会に向けた代表メンバーの中では当落線上の選手の一人だったが[39]、同年4月25日のチェコスロバキアとの親善試合を前にした記者会見でのロブソンの「この試合が最後のチャンス」との言葉に奮起し[39]、1得点を挙げるなど結果を残した事で代表メンバーに選出された[39]

大会ではロブソン監督の中心選手として6試合に先発出場。1次リーグ第3戦のエジプト戦でのアシスト、決勝トーナメント1回戦、ベルギー戦でデビッド・プラットの決勝点をアシストする活躍などで地元開催の1966年以来となるベスト4進出に貢献。準決勝の西ドイツ戦では、相手のエースであるローター・マテウスを上回るプレーを見せながらも[40]、1-1の同点のまま迎えたPK戦の末に敗れて決勝戦進出を逃した。また、この試合の延長戦においてガスコインはトーマス・ベルトルトへの反則により主審から警告を受けたが、仮に決勝進出を果たしても累積警告により出場が出来ないと知り涙を流した[8][9][40][41]。この試合での一幕はテレビを通じて世界中に放映されていたことから「ガッザの涙」として知られるようになった[41]が、イギリス国内での反響は大きく、「敗戦に悔し涙を流す」国民的な英雄[41]として扱われただけでなく、後のサッカー文化に影響を与えたとも言われている[41]

ガスコインの下にはテレビ番組、各種イベント、コマーシャル出演、関連グッズ販売など様々な依頼が殺到し[42]、ワールドカップ終了後の1年間に数百万ポンドの利益を得た[43]。ガッザ・マニアと呼ばれる熱狂的なファンが登場するなどの社会現象となり、ロックバンドの『ビートルズ』の人気に匹敵すると評された[6]。また同年には英国放送協会 (BBC) の視聴者が選ぶスポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた[6][44]が、これはサッカー選手としては1966年ワールドカップ・イングランド大会の年にボビー・ムーアが受賞して以来、2人目の出来事だった[6][注 3]

1994 FIFAワールドカップ予選

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1991年に負った右膝の十字靭帯断裂のために1992年のUEFA EUROの出場は断念。怪我からの復帰後には再び代表チームへの招集を受け、同年10月に行われたワールドカップ・アメリカ大会予選のノルウェー戦で復帰を果たした。その後もガスコインは招集を受けたがグラハム・テイラー英語版 監督との関係は良好ではなく、自身も出場機会が巡っても多くの結果を残すことは出来ず[45]、最終的にノルウェーとオランダに競り負け本大会出場を逃した。1994年に所属クラブで脚を骨折したため、1年近く代表の試合からは遠ざかった[29]

UEFA EURO '96

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地元開催のUEFA EURO '96に向けて、トッテナム時代に指導を受けたヴェナブルズが監督に就任した。1995年6月に行われた日本との親善試合で復帰を果たすと、ベナブルズ指揮下の代表チームにおいて重要な選手と見なされるようになった。1996年の本大会ではグループリーグ初戦でスイスに引き分けたが、続くスコットランド戦を2-0、第3戦のオランダ戦を4-1で下して首位で決勝トーナメントへ駒を進めた。準々決勝ではスペインをPK戦の末に下し、1968年大会以来28年ぶりに準決勝進出を果たしたが、準決勝はドイツに1990年のワールドカップの際と同様にPK戦の末に敗れ、決勝進出を逃した。

なお、グループリーグ第2戦のスコットランド戦において、相手DFのコリン・ヘンドリーの頭上にボールを浮かしてタックルを交わし、浮き球を右足でボレーシュートを決めたシーンは「世紀のゴール」と呼ばれ語り草となっている[4][9][46][47]。またガスコイン自身はグループリーグ第3戦のオランダ戦での勝利をイングランド代表史上に残る勝利に挙げているが[48]、この大会について次のように評している。

欧州選手権も1990年のワールドカップも勝てたはずだった。ロブソンとヴェナブルズという名監督の下で最高のチームで挑んだが、2度ともPK戦でドイツに敗れ、2度ともドイツが優勝した。彼らが優れていたわけじゃない、我々に運が無かっただけだ[27] — ポール・ガスコイン

1998 FIFAワールドカップ予選

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欧州選手権終了後にヴェナブルズの後任としてグレン・ホドルが監督に就任したが、引き続き代表に招集され、ワールドカップ・フランス大会予選に出場。1997年10月11日に敵地のローマで行われたイタリア戦は0-0の引分けに終わったが、この試合の結果により予選グループ首位で本大会出場を決めた。自身はこの試合を選手キャリアにおいて最高のパフォーマンスを発揮した試合の一つに挙げている[49]。翌1998年の本大会に向けた28人の代表候補に選ばれ、同年5月のスペイン合宿に参加したが、ホドルはガスコインの体調と精神面を懸念して[50]大会直前にメンバーから外す決定を下した[9][47]

ガスコインを欠いたイングランド代表は決勝トーナメントに進出したが、アルゼンチンに敗れてベスト16で敗退。この結果について当時のチームメイトだったデビッド・ベッカムは2003年に出版した自伝の中で「ガッザがいれば違った結果になっていたかもしれない。ガッザなら彼にしか為し得ない何かをチームにもたらしたはず」と発言している[51]。その後、代表チームに招集される機会はなく[52]、1998年5月29日に行われたベルギーとの親善試合が最後の試合出場となった[1]。イングランド代表での通算成績は国際Aマッチ57試合出場10得点。

引退後経歴

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2005年10月27日から下部リーグのケタリング・タウンFCの監督に就任し、指導者としての再起を図るも、就任から39日後の同年12月5日に飲酒によるトラブルにより解任された[53]。この日の深夜にリヴァプール市内のホテルの外で、新聞社のカメラマンへ暴行を加えた容疑により逮捕された[54]

チャリティマッチに出場したガスコイン(2006年)

2006年11月、ロンドン西部のナイトクラブで男性に暴行した容疑で地元警察に身柄を拘束された[55]

2008年2月、ホテルの従業員から通報を受け警察は、深刻な精神障害に犯された者を強制的に精神病院に収容できるという心の健康に関する法律に基づき、イングランド北東部のゲートヘッドのホテルでガスコインを拘束(警察発表では負傷者及びホテルへの被害は無し)、“メンタルヘルス法”に基づき精神病院へ強制収容された[8]。同年9月18日、パブの窓を激しく叩いたとして器物損壊容疑で逮捕された[56]

同年11月、国税庁から未納金推定20万ポンドの支払いを命じられ納税まで9週間の猶予が与えられたが、自己破産の可能性も出てきたとの報道もされた[57]。12月には息子がチャンネル4制作のドキュメンタリー番組のインタビューに応じ「出来ることなら家族の前から消えてほしい」と発言するなど身内からも見放された状態となった[58]。このような状況から、彼を取り巻く状況は日を増すたびに悪化していったが、2009年のインタビューではリハビリ施設にて健康維持療法を受け、アルコールと薬物依存から決別し健全な生活を取り戻すことに意欲を示していた[59]

2010年2月8日、ノース・ヨークシャーの飲食店で友人と共に騒動を起こし、飲酒運転の容疑で警察に逮捕された[60]。翌日に揃って保釈されたが、出所祝いに立ち寄ったバーで店員と口論となり2夜連続で逮捕された[61]。また、選手生活で手に入れた1400万ポンド(約20億円)の財産が底をつき自活不能な状況にあるため、プロフットボール選手協会(PFA)に住居を確保してくれるよう依頼があったとの報道がされた[62]

同年7月9日、ガスコインは同月3日に刑務所を出所したばかりの男が元恋人の交際相手を銃殺し逃走した容疑で指名手配された事件(2010年ノーサンブリア事件英語版)に関心を持ち、容疑者がイングランド北東部のノーサンバランドにあるロスベリー英語版という村で発見され警官隊に包囲されたと知るとタクシーを使って現場を訪れ「彼は私の友人だ」と主張した[63][64]。その際に飲食物(ビールと数個のチキン)と釣り竿衣類を差し入れ容疑者との面会を求めた[63]が、ガスコインの申し出は警察により拒否され、容疑者は警察が包囲してから6時間後に拳銃自殺を図った[65]。後にガスコインは、この時の騒動について「自宅で酒を飲んでいたところ、ニュースで事件を知った。彼とは面識はない[63]」「(容疑者に面会を求めたのは)彼には話し相手が必要だと考えたからだ。しかし、容疑者が元恋人の交際相手を殺害し警官を狙撃したことは理解していなかった。あの時の行動を考えると気が咎める[66]」と回答している。

同年9月、ノーザンプレミアフットボールリーグディヴィジョン1ノース(8部リーグに相当)のガーフォース・タウンの監督に就任するとの報道がされた[67]。本人も現場復帰に意欲を見せ[67]、同クラブの代表者は「営利目的ではなく、困難な人生を歩んでいる彼のような人物に再びチャンスを与えたい」と発言していた[67]。PFAの最高責任者もガスコインの復帰に関して今後もサポートを続けていくことを表明していたが[68]、最終的にこのオファーを辞退[69][70]

この報道から数日後の10月8日、ニューカッスル市内の路上で白昼に飲酒の上、蛇行運転をしていた容疑により再び逮捕[69]。取調べの際に法律で定められている酒気帯び運転の基準値の約4倍の濃度のアルコールが検出された[71]

同月21日、自宅に薬物を隠し持っていた容疑で逮捕された[72][73][74]。ガスコインの逮捕は2010年に入って4度目。

人物

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評価

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プレースタイルに関しては「イングランドサッカー史上において最も優れた才能の持ち主[3][75]」「ボビー・チャールトンジョージ・ベストの才能を足して2で割ったような選手[76]」「稀代の国際的な選手[77]」などの高い評価を得ながら、前述のように奇行癖や飲酒癖にまつわるトラブルの数々[7]から、人物そのもののとしては「サッカーの上手な愚か者[78]」「自己破滅的[79]」「酔っ払っていなければ最高の選手[80]」「刹那的[81]」などと評されている。

半生を綴った自伝のGazza My Story (邦題: ガッザの涙--フットボーラーポール・ガスコイン自伝)は、2005年に英国最優秀スポーツ書籍賞 (The Sports Book of the Year) を受賞している[82]が、実質的な執筆はビートルズの公式伝の執筆者として知られるジャーナリストのハンター・デイヴィス英語版 が行っている[82]

私生活

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元モデルであり、既婚者で2人の子供の母親であったシェリル・ガスコイン英語版とは1991年頃から交際が始まった[83]。ガスコインとシェリルは長い交際期間の末に1996年7月に結婚式を挙げたが、同年10月にガスコインが休暇中のホテルで口論の末に暴力[84]を振るったことを契機に別居生活に入り[84]、調停の末に1998年8月に離婚が成立した。元妻との継娘であるビアンカ・ガスコイン英語版はモデルや女優を務めている。

個人成績

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クラブでの成績

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2004-05シーズン終了時の成績[85]

クラブ成績 リーグ カップ リーグ杯国際大会 通算
シーズンクラブリーグ 出場得点出場得点 出場得点 出場得点 出場得点
1984-85 ニューカッスル・ユナイテッド ディビジョン1 2 0 0 0 0 0 - 2 0
1985-86 31 9 1 0 3 0 - 35 9
1986-87 24 5 0 0 2 0 - 26 5
1987-88 35 7 3 3 3 1 - 41 11
1988-89 トッテナム・ホットスパー ディビジョン1 32 6 0 0 5 1 - 37 7
1989-90 34 6 0 0 4 1 - 38 7
1990-91 26 7 6 6 5 6 - 37 19
1991-92 0 0 0 0 0 0 - 0 0
1992-93 ラツィオ セリエA 22 4 4 0 - - 26 4
1993-94 17 2 0 0 - 0 0 17 2
1994-95 4 0 0 0 - 0 0 4 0
1995-96 レンジャーズ プレミアリーグ 28 14 4 3 3 1 7 1 42 19
1996-97 26 13 1 0 4 3 3 1 34 17
1997-98 20 3 3 0 0 0 5 0 28 3
1997-98 ミドルズブラ ディビジョン1 7 0 0 0 1 0 - 8 0
1998-99 プレミアリーグ 26 3 1 0 2 0 - 29 3
1999-00 8 1 1 0 2 0 - 11 1
2000-01 エヴァートン プレミアリーグ 14 0 0 0 1 0 - 15 0
2001-02 18 1 4 0 1 0 - 23 1
2001-02 バーンリー チャンピオンシップ 6 0 0 0 0 0 - 6 0
2003 甘粛天馬 甲級 4 2 0 0 0 0 - 4 2
2004-05 ボストン・ユナイテッド リーグ2 4 0 0 0 1 0 - 5 0
通算 イングランド 267 45 16 9 30 9 - 313 63
イタリア 43 6 4 0 - - 47 6
スコットランド 74 30 8 3 7 4 15 2 104 39
中国 4 2 0 0 0 0 - 4 2
総通算 378 83 28 12 37 13 15 2 468 110

代表での成績

[編集]
出典[1]
イングランド代表
国際大会 親善試合 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1988 0 0 2 0 2 0
1989 2 1 2 0 4 1
1990 7 0 6 1 13 1
1991 0 0 1 0 1 0
1992 2 2 0 0 2 2
1993 6 2 0 0 6 2
1994 0 0 1 0 1 0
1995 0 0 6 0 6 0
1996 8 2 3 1 11 3
1997 3 1 5 0 8 1
1998 0 0 3 0 3 0
通算 28 8 29 2 57 10

代表での得点

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出典[1]
# 開催日 開催地 対戦国 結果 大会
1 1989年4月26日 イングランドロンドン アルバニアの旗 アルバニア 5-0 1990 FIFAワールドカップ・予選
2 1990年4月25日 イングランド、ロンドン チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア 4-2 親善試合
3 1992年11月18日 イングランド、ロンドン トルコの旗 トルコ 4-0 1994 FIFAワールドカップ・予選
4
5 1993年5月13日 トルコイズミル トルコの旗 トルコ 2-0 1994 FIFAワールドカップ・予選
6 1993年9月8日 イングランド、ロンドン ポーランドの旗 ポーランド 3-0 1994 FIFAワールドカップ・予選
7 1996年5月23日 中国北京 中華人民共和国の旗 中国 3-0 親善試合
8 1996年6月15日 イングランド、ロンドン スコットランドの旗 スコットランド 2-0 UEFA EURO '96
9 1996年9月1日 モルドバキシナウ モルドバの旗 モルドバ 3-0 1998 FIFAワールドカップ・予選
10 1997年10月11日 イングランド、ロンドン モルドバの旗 モルドバ 4-0 1998 FIFAワールドカップ・予選

個人タイトル

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著書

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  • ポール・ガスコイン 著、東本貢司 訳『ガッザの涙--フットボーラーポール・ガスコイン自伝』カンゼン、2006年。ISBN 4-901782-73-8 
  • Paul Gascoigne; John McKeown, Hunter Davies (2006). Being Gazza: Tackling My Demons. London: HeadlinePublishing. ISBN 978-0755315437 

脚注

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注釈

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  1. ^ 元々は「ガッサ」と呼ばれていた[2]が、ニューカッスル・ユナイテッドの練習生時代にガスコインを指導していたコリン・スゲットの出身地であるサンダーランド訛りにより、「ガッザ」と呼ばれるようになった[2]
  2. ^ 1998年1月2日に行われたセルティックFCとのダービーマッチにおいて得点を決めた後にセルティックのサポーターに対し、フルートを吹くパフォーマンスを行って挑発したことが、カトリック教徒への侮辱として問題視され、2万ポンドの罰金を科せられた[33]
  3. ^ サッカー選手では1998年にマイケル・オーウェン、2001年にデビッド・ベッカム、2009年にライアン・ギグスが受賞した[44]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f (英語) Paul John Gascoigne - International Appearances”. rsssf.com. 2011年8月12日閲覧。
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  3. ^ a b グランヴィル 1998、359-360頁
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  5. ^ 東本貢司. “ガスコインを動かした“明暗事情”と明日への希望(後編)”. スポーツナビ. 2003年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月14日閲覧。
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  33. ^ a b ガスコイン 2006、284-285頁
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  39. ^ a b c d グランヴィル 1998、360頁
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  41. ^ a b c d 森田 2009、85-90頁
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  57. ^ ガスコイン氏 税金滞納で自己破産の可能性”. AFPBB News (2008年11月7日). 2010年7月22日閲覧。
  58. ^ ガッザの息子 父親が「消える」ことを望むと報じられる”. AFPBB News (2008年12月27日). 2010年7月22日閲覧。
  59. ^ ガスコイン氏 「これが最後のチャンス」”. AFPBB News (2009年1月2日). 2010年7月22日閲覧。
  60. ^ ガスコイン氏 飲酒運転で逮捕”. AFPBB News (2010年2月9日). 2010年7月22日閲覧。
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  62. ^ 元イングランド代表FWがホームレス ?”. livedoor スポーツ (2010年2月18日). 2012年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月14日閲覧。
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  64. ^ Raoul Moat: Gazza arrives in Rothbury to 'offer his support'”. Telegraph (2010年7月9日). 2012年1月29日閲覧。
  65. ^ 英の元恋人銃撃事件、容疑者自殺で逃走劇に幕”. AFPBB News (2010年7月10日). 2012年1月29日閲覧。
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参考文献

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外部リンク

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