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「橘丸事件」の版間の差分

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'''橘丸事件'''(たちばなまるじけん)とは、{{和暦|1945}}に[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]が国際法に違反して[[病院船]]「[[橘丸]]」で[[部隊]]・[[武器]]を輸送した事件である。日本陸軍創設史上最も多い約1500人の[[捕虜]]を出すこととなった。
'''橘丸事件'''(たちばなまるじけん)とは、{{和暦|1945}}に[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]が国際法に違反して[[病院船]]「[[橘丸]]」([[東海汽船]]、1,772トン)で[[部隊]]・[[武器]]を輸送した事件である。日本陸軍創設史上最も多い約1,500名の[[捕虜]]を出すこととなった。


なお、ここでは本編に先立って事件に至るまでの背景などを「前史」として解説する。「橘丸」の船歴については当該項を参照されたい。
== 概要 ==
1945年8月3日、[[第5師団 (日本軍)|第5師団]][[歩兵第11連隊]]第1・第2[[大隊]]、[[歩兵第42連隊]]1個[[中隊]]の総勢1562人と武器弾薬を積載し[[バンダ海]]を航行していた病院船「橘丸」を、[[アメリカ海軍]][[駆逐艦]]「{{仮リンク|コナー (DD-582)|en|USS Conner (DD-582)}}」、「{{仮リンク|チャレット (駆逐艦)|en|USS Charrette (DD-581)}}」が臨検した。兵士たちは白衣を着て患者を装い、武器等は[[赤十字社]]の標章を付して梱包していたが発見され、「橘丸」は拿捕され、全員が捕虜となった。その後、[[モロタイ島]]に連行され、将兵は[[フィリピン]]・[[マニラ]]の[[捕虜収容所]]に移送された。当時の師団長は引責自決した。


== 戦後 ==
== 前史 ==
{{quotation|しかし、陸軍病院船は作戦の合間に運送船から転用されたり、また運送船に戻ったりしている。しかとは言えぬが、国際赤十字社に登録された海軍病院船と異なり、日本の陸軍病院船は国際的に未認知であったようである このことが本船<ref group="注釈">「ぶゑのすあいれす丸」([[#野間]]p.148)</ref>の最期に関わったとも推測される。また本船には軍医と看護兵は乗船していたが、輸送船の機能しかなかった。これは、海軍病院船が手術室まで完備していたのと対照的である。看護婦の乗船勤務はシンガポール辺りまでの航海に限られ、これ以遠への航海には乗せていなかったといわれる|野間恒|『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』148ページ}}
[[File:TachibanaMaru-1946.jpg|thumb|right|戦後、復員輸送に従事する橘丸]]

橘丸事件の裁判は、[[第8軍 (アメリカ軍)|第8軍]][[司令官]]が招集した軍事委員会が主催する横浜法廷(場所:[[横浜地方裁判所]])で行われた。審理は{{和暦|1948}}3月に開始され、同年4月13日に判決が出された。
{{和暦|1943}}12月現在、日本軍が運用し[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側に通告済みの病院船は、日本陸軍が「橘丸」を含めて17隻、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が4隻であった<ref>[[#病院船]]pp.4-5</ref>。しかし、日本陸軍ではこの17隻の通告済み病院船の他に、未通告のまま病院船と称する船舶を何隻か運航させていた。そのうちの1隻、「はるぴん丸」(日本海汽船、5,167トン)は{{和暦|1942}}1月10日にアメリカ潜水艦「[[スティングレイ (潜水艦)|スティングレイ]]」 (''USS Stingray, SS-186'') に撃沈される。この事は昭和17年1月14日の[[大本営発表]]で公表され<ref name="a">[[#「ハルピン」丸撃沈事件]]p.4</ref>、当時の新聞は「国際條約を蹂躙」「天人倶に許すべからざる非人道的行為」と書き立てて<ref name="a"/>、いわゆる「アメリカ軍の非人道性」を大いに批判した。しかし、その実態は全く異なり、「'''「ハルピン」丸ハ船体黒塗ノママ赤十字標識ヲ附シアリ 敵国ニ対シ病院船トシテ通告モナシアラザリシモノニシテ国際法上ノ病院船トシテノ資格ナカリシモノナリ'''」<ref>[[#朝日丸(1)]]pp.12-13</ref><ref group="注釈">アメリカ側も、「はるぴん丸」が規定の塗装をしていなかったことを示す "painted war color"(戦時塗装)という記述を残している([[#SS-186, USS STINGRAY]]p.21)。</ref>と、日本海軍にあっさり「暴露」されるような代物であった。もちろん、当時の国民はそんな裏事情を知る由もなかった。これ以降も、日本の病院船への攻撃は収まらず、そのたびに「病院船が攻撃される→大本営発表で公表→米英非難報道」のパターンが繰り返された<ref>[[#「アラビア」丸]]</ref>。ついには、昭和18年11月27日に「[[ぶゑのすあいれす丸]]」([[商船三井|大阪商船]]、9,625トン)が[[カビエン]]近海で[[B-24 (航空機)|B-24]]の爆撃を受けて沈没し、その写真が公にされるという事態が起こる<ref>[[#野間]]pp.147-151</ref><ref>[[#写真週報308]]p.2</ref>。

冒頭に掲げた野間恒の記述は、日本陸軍の病院船に関するある一面を表現している。連合国側への通告の点では「はるぴん丸」の例はさて置いても間違っているものの、17隻の通告済みの陸軍病院船の中で終戦時に残存したのは、この項の主役である「橘丸」だけであり<ref group="注釈">この17隻のほか、「有馬山丸」(三井船舶、8,696トン)と「和浦丸」(三菱汽船、6,804トン)が昭和20年に陸軍病院船に転じ連合国側に通告されている([[#和浦丸]])。「和浦丸」は終戦間際に[[釜山港]]で触雷して放棄されたが([[#駒宮(1)]]p.121)、「有馬山丸」は残存した([[#野間]]pp.592-593)。</ref>、他はすべて戦禍で失われた<ref group="注釈">例えば、「三笠丸」(東亜海運、3,143トン)は[[多号作戦]]で沈没している。</ref>。「輸送船の機能しかなかった」という一文に関しても、実際に陸軍病院船に関しては病院船というより「還送患者輸送船」といった感じで病院船を運用していた節がある<ref>[[#還送患者]]</ref>。もっとも、海軍病院船がそういう使われ方をしなかった、というわけではない<ref>[[#朝日丸(1)]]、[[#朝日丸(2)]]</ref>。

日本軍は条約を遵守して病院船に対して全く手出しをしなかったのかといえば「否」で、[[スラバヤ沖海戦]]直前の昭和17年2月26日の[[オランダ]]病院船「オプテンノート」(6,076トン)の抑留と、昭和18年5月14日の[[伊号第一七七潜水艦|伊号第一七七潜水艦(伊177)]]による[[オーストラリア]]病院船「{{仮リンク|セントー (病院船)|en|AHS Centaur|label=セントー}}」(3,222トン)撃沈<ref>[[#木俣潜]]p.440</ref>が、日本軍が病院船に手出しした例として挙げられる。前者は味方艦隊の行動海域を航行していることが「怪しい」<ref name="b">[[#原2011]]p.14</ref>と判断され、[[臨検]]の結果「とがむべき点は認められなかった」<ref name="b"/>にも関わらず、結局抑留されることとなった<ref group="注釈">後に「天応丸」、次いで「第二氷川丸」と命名され海軍病院船として行動。昭和20年8月18日に沈没([[#特設原簿]]p.113,118)</ref>。オランダ政府はこれに抗議し、日本側の病院船の不承認をちらつかせたりもした<ref name="bb">[[#オプテンノート]]</ref>。後者は伊177が「セントー」を「病院船とは気付いていなかったらしい」<ref name="c">[[#木俣潜]]p.441</ref>が、生存者は「日本の病院船への攻撃に対する報復」と受け止めていた<ref name="c"/>。[[太平洋戦争]]時以外では、[[日露戦争]]での[[日本海海戦]]の直前に、[[仮装巡洋艦]][[信濃丸]]([[日本郵船]]、6,388トン)が[[ロシア海軍#ロシア帝国海軍|ロシア帝国海軍]]の病院船「オリョール」(4,500トン)を臨検後、拿捕したことがある<ref>[[#山高]]p.108</ref>。

昭和20年に入ると、日本の何隻かの病院船の行く手行く所で水上艦艇による臨検および、航空機による威嚇飛行が繰り返されるようになる。昭和20年3月25日、[[基隆市|基隆]]に停泊中の陸軍病院船「ばいかる丸」(東亜海運、5,243トン)は、[[大本営]]命令により{{仮リンク|アパリ|en|Aparri, Cagayan}}に向かう<ref name="d">[[#駒宮(2)]]p.365</ref>。2日後にアパリに到着するも昼夜分かたぬアメリカ軍機の威嚇飛行を受け、バドリナオ岬に移動しても状況は変わらず、「ばいかる丸」はバドリナオ沖から去って3月30日に基隆に帰投した<ref name="d"/>。「ばいかる丸」のこの時の任務が何であったかについて駒宮真七郎は、「患者収容に見せかけ、特命の人員を[[台湾]]に連れ戻す」<ref name="d"/>のが目的であり、その「特命の人員」とは「「翼を失った戦闘機の搭乗員」若しくは「特攻隊員」との見方が本命」<ref name="d"/>としている。7月には、海軍病院船「[[高砂丸]]」([[商船三井|大阪商船]]、9,347トン)が船倉に食糧を搭載して、当時孤立無援の状態だった[[ウェーク島]]に向かったが、ウェーク島到着前日にアメリカ海軍駆逐艦「[[:en:USS Murray (DD-576)|マリー]]」 (''USS Murray, DD-576'') の臨検を受け<ref>{{Cite web|url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1945.html|title=The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter VII: 1945|publisher=HyperWar|language=英語|accessdate=2011-10-01}}</ref>、食糧にチェックが入った<ref name="e">[[#木俣残存]]p.358</ref>。これにより、食糧の陸揚げが出来なくなり、7月4日にウェーク島に入泊した高砂丸は患者輸送しか行えなかった<ref name="e"/>。その患者を乗せる際にも上空からの監視があり、出港後にもまた臨検された<ref name="e"/>。その「高砂丸」には燃料輸送用のタンクが設置される計画もあったが、これは「良識派の意見が通」って工事直前に中止になった<ref name="e"/>。「高砂丸」や、国際法をたてに軍部からの要請を再三にわたって退けた海軍病院船「[[氷川丸]]」(日本郵船、11,622トン)<ref>[[#郵船戦時]]p.552</ref>のように良心が邪心を退けたために、結果的に戦禍から逃れることができた例もあったが、臨検や威嚇飛行の段階に至らなくても、日本軍の場合は国際法によって病院船が禁じられている武器弾薬や将兵の輸送行為を<ref name="f">[[#西村]]p.11</ref>、連合国側に発覚されることなく行った事例が実際に存在する。海軍病院船「[[朝日丸]]」(日本郵船、9,326トン)は[[戦艦]]「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」、「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」宛の弾薬560発を輸送し<ref>[[#朝日丸(2)]]p.24,35</ref>、「橘丸」も拿捕前に、[[アンダマン諸島]]および[[ニコバル諸島]]から傷病兵に健全兵を「混ぜて」[[スラバヤ]]に輸送した疑惑がある<ref name="f"/>。真偽は定かではないが、野間恒によれば「関係者の話」<ref name="g">[[#野間]]p.148</ref>として、「ぶゑのすあいれす丸」も「内地から南方への航海には陸軍将兵を偽装して輸送したり」<ref name="g"/>、「[[ラバウル]]から[[パラオ]]に転進する将校が白衣を着て乗船していた」<ref name="g"/>。

「オプテンノート」、「ばいかる丸」、「高砂丸」の事例は、病院船といえども怪しい動きが敵側に察知されれば、国際法違反の疑念を抱かれて警戒が厳しくなる事を表す。「オプテンノート」抑留はその正当性に関して判断が分かれているが<ref name="bb"/><ref group="注釈">「違反していない」との見解を取るサイトもある({{Cite web|url=http://www.geocities.jp/tokusetsukansen/J/370/noattack.htm|title=大日本帝國海軍特設艦船DATA BASE 病院船に関する条約|publisher=戸田S.源五郎|language=日本語|accessdate=2011-10-01}})。</ref>、「ばいかる丸」は威嚇飛行だけに留まり、「高砂丸」は臨検されたもののシロと認定された。しかし、「橘丸」は国際法違反を冒した上に早々に敵側にマークされて臨検を受け、ついにはクロと認定されて拿捕されるという最悪の結末を迎えるのである。

== 事件 ==
[[モルッカ諸島]]の一部を成す[[カイ諸島]]には、[[第5師団 (日本軍)|第五師団]]([[山田清一]]陸軍中将)[[歩兵第11連隊|歩兵第十一連隊]]第一および第二[[大隊]]、[[歩兵第42連隊|歩兵第四十二連隊]]一個[[中隊]]の総勢1,562名<ref name="h">[[#西村]]p.19</ref>が駐屯していた。しかし、戦局が[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンの戦い]]もほぼ終わって[[ボルネオの戦い]]に移ると、この方面の兵力は戦略的価値が事実上失っていたも同然だった<ref name="f"/>。そこで[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]([[寺内寿一]][[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]])は[[第2軍 (日本軍)|第二軍]]([[豊嶋房太郎]]陸軍中将)に対し兵力の集約を行うよう命じ、命を受けた第二軍は遊軍と化していた第五師団をカイ諸島から引き揚げさせて、近いうちに連合軍が上陸してくるであろう[[シンガポール|昭南(シンガポール)]]<ref name="f"/>か[[ジャワ島]]<ref name="i">[[#木俣残存]]p.360</ref>の防衛に宛てることとした。この手の兵力後退輸送は、それ以前にも[[重巡洋艦]]「[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]」や[[軽巡洋艦]]「[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]」などが実施していたが<ref>[[#木俣軽巡]]pp.643-644</ref>、「足柄」も「五十鈴」も任務中途で撃沈されており、兵力輸送用船舶として、「唯一安全なアクセス」<ref name="f"/>として病院船に[[人身御供|白羽の矢]]が当たったわけである。

[[File:TachibanaMaru-1946.jpg|thumb|right|病院船仕様の「橘丸]]
「橘丸」による兵力後退輸送任務は「光輸送乙号作戦」と命名され<ref name="h"/>、命を受けた「橘丸」は[[機動艇|海上トラック]]「広瀬丸」という偽名をもらい<ref name="h"/><ref group="注釈">「広瀬」の由来は定かではない。なお、日露戦争時の[[軍神]]には「'''[[橘周太|橘]]'''」と「'''[[広瀬武夫|広瀬]]'''」がいる。</ref>、7月27日に昭南を出港して<ref>[[#西村]]p.11,19</ref>7月31日にトアールに入港する<ref name="i"/>。1,562名の将兵たちは白衣を着て患者を装い、軍服や各種武器等は[[赤十字社]]の標章を付して梱包していた。臨検された場合に備えたのか、適当な内容の[[診療録|カルテ]]まで準備された<ref name="h"/>。翌8月2日、「橘丸」はトアールを出港するが、この時すでに[[PBY (航空機)|PBY カタリナ]]が上空で張り付いていたのである<ref name="h"/>。

8月3日早朝、[[アメリカ海軍]][[駆逐艦]]「{{仮リンク|コナー (DD-582)|en|USS Conner (DD-582)}}」 (''USS Conner, DD-582'') と「{{仮リンク|チャレット (駆逐艦)|en|USS Charrette (DD-581)}}」 (''USS Charrette, DD-581'') は、[[バンダ海]]を航行中の「橘丸」に対し[[国際信号旗]] “S” “Q” “1” (停船せよ、さもなくば攻撃する)を掲げて停船を命じる<ref>[[#西村]]p.13</ref>。「橘丸」を挟み込むように接近した「コナー」と「チャレット」から臨検隊が送り込まれたが<ref name="h"/>、臨検隊に踏み込まれた「橘丸」の対応は墓穴を掘るばかりであった。「なぜ[[看護師|看護婦]]が乗っていないのか」<ref name="h"/><ref group="注釈">野間恒の記述にもあるが、陸軍病院船では看護婦の乗船している病院船とそうでない病院船が存在していた([[#還送患者]]p.8,10)。</ref>とか「なぜ怪我患者がいないのか」<ref name="h"/>という質問にまともに答えられず、「患者」の名前とその病名ですら答えることができなかった<ref name="h"/>。決定打は食堂下の船倉に収められていた赤十字の箱から出てきた小銃<ref name="h"/>、40トンの弾薬および[[曲射砲]]2門<ref name="i"/>で、ついに「橘丸」は国際法違反により拿捕された。

拿捕された「橘丸」には[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]が掲揚され、[[捕虜]]となった将兵は周囲から銃が突きつけられた[[サロン]]へ収容される<ref name="h"/>。将兵のうち、将校クラスは暴発を警戒して「コナー」と「チャレット」に移された<ref name="j">[[#西村]]p.21</ref>。8月8日、「橘丸」は[[モロタイ島]]に到着し、ここで将兵と乗組員は収容所送りとなった<ref name="j"/>。このうち将兵は貨物船に押し込められ、[[フィリピン]]・[[マニラ]]の[[モンテンルパ]][[捕虜収容所]]に移送された<ref name="j"/>。乗組員は「橘丸」に戻され、8月14日にマニラに入港<ref name="j"/>。乗組員もモンテンルパ収容所に収容されたが、終戦後に安田喜四郎船長を除く乗組員は無罪として釈放された<ref name="j"/>。その後の「橘丸」は、[[パラオ]]からウェーク島に回航され、ウェーク島からの[[復員|復員兵]]第一陣700名を乗せて<ref>[[#戦史62]]p.486</ref>10月20日に[[浦賀]]に帰投した<ref name="j"/>。

日本側が「橘丸」拿捕を知ったのは、少なくとも8月6日朝に連合軍側の放送、あるいは[[オーストラリア放送協会|オーストラリア放送]]<ref name="i"/>を傍受した時とみられ<ref>[[#東印部隊]]p.4</ref>、第五師団長の山田中将と同参謀長浜島厳郎大佐は8月15日に自決したが、それは「国際法違反」の責めによるものではなく、「'''将兵を無抵抗裡に敵手に委した'''」という理由からであったという<ref>{{Cite web|url=http://ro119.com/archive/yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-tachibana2.html|title=大東亜戦争研究室 橘丸/偽装病院船事件2|publisher=|language=日本語|accessdate=2011-10-02}}</ref>。

== 裁判 ==
橘丸事件の裁判は、[[第8軍 (アメリカ軍)|アメリカ第8軍]][[司令官]]が招集した軍事委員会が主催する横浜法廷(場所:[[横浜地方裁判所]])で行われた。審理は{{和暦|1948}}3月に開始され、同年4月13日に判決が出された。
; 起訴された人物と判決
; 起訴された人物と判決
* [[沼田多稼蔵]] [[中将]]([[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総参謀長):重労働7年
* [[沼田多稼蔵]] [[中将]]([[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総参謀長):重労働7年
* [[和知鷹二]] 中将(南方軍総参謀副長兼南方軍交通隊司令官):重労働6年
* [[和知鷹二]] 中将(南方軍総参謀副長兼南方軍交通隊司令官):重労働6年
* 渡辺三郎 [[少将]]([[船舶司令部|第3船舶輸送司令官]]):無罪
* 渡辺三郎 [[少将]]([[船舶司令部|第船舶輸送司令官]]):無罪
* [[長野祐一郎]] 中将([[第16軍 (日本軍)|第16軍]]司令官):無罪
* [[長野祐一郎]] 中将([[第16軍 (日本軍)|第十六軍]]司令官):無罪
* [[豊嶋房太郎]] 中将([[2 (日本軍)|第2軍]]司令官):重労働3年
* 豊嶋房太郎 中将(第軍司令官):重労働3年
* 森康則 [[中佐]](第5師団[[参謀]]):無罪
* 森康則 [[中佐]](第5師団[[参謀]]):無罪
* 大森繁 [[軍医]][[少佐]](第5師団軍医):無罪
* 大森繁 [[軍医]][[少佐]](第師団軍医):無罪
* 安川正清 少佐(歩兵第11連隊第1大隊長):重労働1年半
* 安川正清 少佐(歩兵第十一連隊第大隊長):重労働1年半
* 安田喜四郎 [[軍属]](橘丸船長):無罪
* 安田喜四郎 [[軍属]](橘丸船長):無罪

==脚注==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=西村慶明|year=2005|title=橘丸 {{small|モデルアート 日本の客船シリーズ No.1}}|publisher=モデルアート|ref=西村}}
*{{Cite book|title=SS-186, USS STINGRAY|url=http://issuu.com/hnsa/docs/ss-186_stingray?mode=a_p|format=Issuu|publisher=Historic Naval Ships Association|ref=SS-186, USS STINGRAY}} (後半の一部に難読部分あり)
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]
**Ref.{{Cite book|和書|author=A06031090300|title=写真週報 第三百八号|ref=写真週報308}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030730300|title=昭和二十年八月 東印部隊戦斗詳報|ref=東印部隊}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030762900|title=自昭和十七年一月一日至昭和十七年一月三十一日 特設病院船朝日丸戦時日誌|pages=pp. 1-22|ref=朝日丸(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030762900|title=自昭和十七年二月一日至昭和十七年二月二十八日 特設病院船朝日丸戦時日誌|pages=pp. 23-45|ref=朝日丸(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C04123862000|title=還送患者輸送実施ノ件報告|ref=還送患者}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=B02032923000|title=帝国軍用病院船ヲ「ソロモン」方面ニ派遣スルコトニ対スル考察|ref=病院船}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=B02032925100|title=「アラビア」丸他五隻不法攻撃事件新聞切抜|ref=「アラビア」丸}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=B02032923600|title=陸亜普第一五九五号 敵国ニ病院船通告ノ件照会|ref=橘丸}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=B02032923900|title=和蘭政府ノ帝国病院船不承認ニ関スル件|ref=オプテンノート}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=B02032924100|title=陸亜普第二一一号 敵国ニ病院船通告ノ件照会|ref=和浦丸}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=B02032924600|title=「ハルピン」丸撃沈事件|ref=「ハルピン」丸撃沈事件}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=B02032926300|title=病院船高砂丸他三隻ニ対スル不法攻撃ニ付抗議申入ノ件|ref=高砂丸}}
*{{Cite book|和書|author=財団法人海上労働協会(編)|year=2007|origyear=1962|title={{small|復刻版}} 日本商船隊戦時遭難史|publisher=財団法人海上労働協会/成山堂書店|isbn=978-4-425-30336-6|ref=戦時遭難史}}
*{{Cite book|和書|author=日本郵船戦時船史編纂委員会|year=1971|title=日本郵船戦時船史|publisher=日本郵船|volume=下|ref=郵船戦時}}
*{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1972|title={{small|写真と図による}} 残存帝国艦艇|publisher=図書出版社|ref=木俣残存}}
*{{Cite book|和書|author=[[防衛研究所]]戦史室編|coauthors=|year=1973|title=戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2){{small|昭和十七年六月以降}}|publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]|ref=戦史62}}
*{{Cite book|和書|author=山高五郎|year=1981|title=図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)|publisher=至誠堂|ref=山高}}
*{{Cite book|和書|author=駒宮真七郎|year=1981|title=続・船舶砲兵 {{small|救いなき戦時輸送船の悲録}}|publisher=出版協同社|isbn=|ref=駒宮(1)}}
*{{Cite book|和書|author=駒宮真七郎|year=1987|title=戦時輸送船団史|publisher=出版協同社|isbn=4-87970-047-9|ref=駒宮(2)}}
*{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1989|title=日本軽巡戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣軽巡}}
*{{Cite book|和書|author=野間恒|coauthors=山田廸生|year=1991|title={{small|世界の艦船別冊}} 日本の客船1 {{small|1868~1945}}|publisher=海人社|isbn=4-905551-38-2|ref=日本の客船1}}
*{{Cite book|和書|author=[[チェスター・ニミッツ|C・W・ニミッツ]]|coauthors=E・B・ポッター|others=[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)|year=1992|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|isbn=4-7704-0757-2|ref=ニミッツ、ポッター}}
*{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1993|title=日本潜水艦戦史|publisher=図書出版社|isbn=4-8099-0178-5|ref=木俣潜}}
*{{Cite book|和書|author=野間恒|year=2004|title=商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史|publisher=野間恒(私家版)|ref=野間}}
*{{Cite book|和書|author=林寛司(作表)|coauthors=戦前船舶研究会(資料提供)|year=2004|title=戦前船舶 第104号・特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿|publisher=戦前船舶研究会|ref=特設原簿}}
*{{Cite book|和書|author=[[原為一]]|year=2011|origyear=1955|title=帝国海軍の最後|publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-24557-7|ref=原2011}}
* [[御田重宝]]『人間の記録 太平洋戦争下偽装病院船事件 - 「橘丸」と戦犯裁判』現代史出版会、発売:徳間書店、1977年。
* [[御田重宝]]『人間の記録 太平洋戦争下偽装病院船事件 - 「橘丸」と戦犯裁判』現代史出版会、発売:徳間書店、1977年。

== 関連項目 ==
* [[病院船]]
* [[戦時国際法]]

== 外部リンク ==
* {{Cite web|author=UniversalNewsreels(投稿者)|url=http://www.youtube.com/watch?v=6c2UDu84WeU|title=Japanese Surrender 1st Pics; De Gaulle Arrives 1945/8/23|publisher=[[YouTube]]|language=英語|accessdate=2011-10-02}}
**オリジナルは{{仮リンク|ユニバーサル・ニュース|en|Universal Newsreel}}。3分2秒から3分50秒までの "Armed Jap Mercy Ship Captured" が、橘丸事件を伝える映像
* [http://ro119.com/archive/yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-tachibana2.html 大東亜戦争研究室 橘丸/偽装病院船事件2]



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2011年10月2日 (日) 11:41時点における版

橘丸事件(たちばなまるじけん)とは、1945年(昭和20年)に日本陸軍が国際法に違反して病院船橘丸」(東海汽船、1,772トン)で部隊武器を輸送した事件である。日本陸軍創設史上最も多い約1,500名の捕虜を出すこととなった。

なお、ここでは本編に先立って事件に至るまでの背景などを「前史」として解説する。「橘丸」の船歴については当該項を参照されたい。

前史

しかし、陸軍病院船は作戦の合間に運送船から転用されたり、また運送船に戻ったりしている。しかとは言えぬが、国際赤十字社に登録された海軍病院船と異なり、日本の陸軍病院船は国際的に未認知であったようである このことが本船[注釈 1]の最期に関わったとも推測される。また本船には軍医と看護兵は乗船していたが、輸送船の機能しかなかった。これは、海軍病院船が手術室まで完備していたのと対照的である。看護婦の乗船勤務はシンガポール辺りまでの航海に限られ、これ以遠への航海には乗せていなかったといわれる — 野間恒、『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』148ページ

1943年(昭和18年)12月現在、日本軍が運用し連合国側に通告済みの病院船は、日本陸軍が「橘丸」を含めて17隻、日本海軍が4隻であった[1]。しかし、日本陸軍ではこの17隻の通告済み病院船の他に、未通告のまま病院船と称する船舶を何隻か運航させていた。そのうちの1隻、「はるぴん丸」(日本海汽船、5,167トン)は1942年(昭和17年)1月10日にアメリカ潜水艦「スティングレイ」 (USS Stingray, SS-186) に撃沈される。この事は昭和17年1月14日の大本営発表で公表され[2]、当時の新聞は「国際條約を蹂躙」「天人倶に許すべからざる非人道的行為」と書き立てて[2]、いわゆる「アメリカ軍の非人道性」を大いに批判した。しかし、その実態は全く異なり、「「ハルピン」丸ハ船体黒塗ノママ赤十字標識ヲ附シアリ 敵国ニ対シ病院船トシテ通告モナシアラザリシモノニシテ国際法上ノ病院船トシテノ資格ナカリシモノナリ[3][注釈 2]と、日本海軍にあっさり「暴露」されるような代物であった。もちろん、当時の国民はそんな裏事情を知る由もなかった。これ以降も、日本の病院船への攻撃は収まらず、そのたびに「病院船が攻撃される→大本営発表で公表→米英非難報道」のパターンが繰り返された[4]。ついには、昭和18年11月27日に「ぶゑのすあいれす丸」(大阪商船、9,625トン)がカビエン近海でB-24の爆撃を受けて沈没し、その写真が公にされるという事態が起こる[5][6]

冒頭に掲げた野間恒の記述は、日本陸軍の病院船に関するある一面を表現している。連合国側への通告の点では「はるぴん丸」の例はさて置いても間違っているものの、17隻の通告済みの陸軍病院船の中で終戦時に残存したのは、この項の主役である「橘丸」だけであり[注釈 3]、他はすべて戦禍で失われた[注釈 4]。「輸送船の機能しかなかった」という一文に関しても、実際に陸軍病院船に関しては病院船というより「還送患者輸送船」といった感じで病院船を運用していた節がある[7]。もっとも、海軍病院船がそういう使われ方をしなかった、というわけではない[8]

日本軍は条約を遵守して病院船に対して全く手出しをしなかったのかといえば「否」で、スラバヤ沖海戦直前の昭和17年2月26日のオランダ病院船「オプテンノート」(6,076トン)の抑留と、昭和18年5月14日の伊号第一七七潜水艦(伊177)によるオーストラリア病院船「セントー英語版」(3,222トン)撃沈[9]が、日本軍が病院船に手出しした例として挙げられる。前者は味方艦隊の行動海域を航行していることが「怪しい」[10]と判断され、臨検の結果「とがむべき点は認められなかった」[10]にも関わらず、結局抑留されることとなった[注釈 5]。オランダ政府はこれに抗議し、日本側の病院船の不承認をちらつかせたりもした[11]。後者は伊177が「セントー」を「病院船とは気付いていなかったらしい」[12]が、生存者は「日本の病院船への攻撃に対する報復」と受け止めていた[12]太平洋戦争時以外では、日露戦争での日本海海戦の直前に、仮装巡洋艦信濃丸日本郵船、6,388トン)がロシア帝国海軍の病院船「オリョール」(4,500トン)を臨検後、拿捕したことがある[13]

昭和20年に入ると、日本の何隻かの病院船の行く手行く所で水上艦艇による臨検および、航空機による威嚇飛行が繰り返されるようになる。昭和20年3月25日、基隆に停泊中の陸軍病院船「ばいかる丸」(東亜海運、5,243トン)は、大本営命令によりアパリ英語版に向かう[14]。2日後にアパリに到着するも昼夜分かたぬアメリカ軍機の威嚇飛行を受け、バドリナオ岬に移動しても状況は変わらず、「ばいかる丸」はバドリナオ沖から去って3月30日に基隆に帰投した[14]。「ばいかる丸」のこの時の任務が何であったかについて駒宮真七郎は、「患者収容に見せかけ、特命の人員を台湾に連れ戻す」[14]のが目的であり、その「特命の人員」とは「「翼を失った戦闘機の搭乗員」若しくは「特攻隊員」との見方が本命」[14]としている。7月には、海軍病院船「高砂丸」(大阪商船、9,347トン)が船倉に食糧を搭載して、当時孤立無援の状態だったウェーク島に向かったが、ウェーク島到着前日にアメリカ海軍駆逐艦「マリー」 (USS Murray, DD-576) の臨検を受け[15]、食糧にチェックが入った[16]。これにより、食糧の陸揚げが出来なくなり、7月4日にウェーク島に入泊した高砂丸は患者輸送しか行えなかった[16]。その患者を乗せる際にも上空からの監視があり、出港後にもまた臨検された[16]。その「高砂丸」には燃料輸送用のタンクが設置される計画もあったが、これは「良識派の意見が通」って工事直前に中止になった[16]。「高砂丸」や、国際法をたてに軍部からの要請を再三にわたって退けた海軍病院船「氷川丸」(日本郵船、11,622トン)[17]のように良心が邪心を退けたために、結果的に戦禍から逃れることができた例もあったが、臨検や威嚇飛行の段階に至らなくても、日本軍の場合は国際法によって病院船が禁じられている武器弾薬や将兵の輸送行為を[18]、連合国側に発覚されることなく行った事例が実際に存在する。海軍病院船「朝日丸」(日本郵船、9,326トン)は戦艦金剛」、「榛名」宛の弾薬560発を輸送し[19]、「橘丸」も拿捕前に、アンダマン諸島およびニコバル諸島から傷病兵に健全兵を「混ぜて」スラバヤに輸送した疑惑がある[18]。真偽は定かではないが、野間恒によれば「関係者の話」[20]として、「ぶゑのすあいれす丸」も「内地から南方への航海には陸軍将兵を偽装して輸送したり」[20]、「ラバウルからパラオに転進する将校が白衣を着て乗船していた」[20]

「オプテンノート」、「ばいかる丸」、「高砂丸」の事例は、病院船といえども怪しい動きが敵側に察知されれば、国際法違反の疑念を抱かれて警戒が厳しくなる事を表す。「オプテンノート」抑留はその正当性に関して判断が分かれているが[11][注釈 6]、「ばいかる丸」は威嚇飛行だけに留まり、「高砂丸」は臨検されたもののシロと認定された。しかし、「橘丸」は国際法違反を冒した上に早々に敵側にマークされて臨検を受け、ついにはクロと認定されて拿捕されるという最悪の結末を迎えるのである。

事件

モルッカ諸島の一部を成すカイ諸島には、第五師団山田清一陸軍中将)歩兵第十一連隊第一および第二大隊歩兵第四十二連隊一個中隊の総勢1,562名[21]が駐屯していた。しかし、戦局がフィリピンの戦いもほぼ終わってボルネオの戦いに移ると、この方面の兵力は戦略的価値が事実上失っていたも同然だった[18]。そこで南方軍寺内寿一元帥陸軍大将)は第二軍豊嶋房太郎陸軍中将)に対し兵力の集約を行うよう命じ、命を受けた第二軍は遊軍と化していた第五師団をカイ諸島から引き揚げさせて、近いうちに連合軍が上陸してくるであろう昭南(シンガポール)[18]ジャワ島[22]の防衛に宛てることとした。この手の兵力後退輸送は、それ以前にも重巡洋艦足柄」や軽巡洋艦五十鈴」などが実施していたが[23]、「足柄」も「五十鈴」も任務中途で撃沈されており、兵力輸送用船舶として、「唯一安全なアクセス」[18]として病院船に白羽の矢が当たったわけである。

病院船仕様の「橘丸」

「橘丸」による兵力後退輸送任務は「光輸送乙号作戦」と命名され[21]、命を受けた「橘丸」は海上トラック「広瀬丸」という偽名をもらい[21][注釈 7]、7月27日に昭南を出港して[24]7月31日にトアールに入港する[22]。1,562名の将兵たちは白衣を着て患者を装い、軍服や各種武器等は赤十字社の標章を付して梱包していた。臨検された場合に備えたのか、適当な内容のカルテまで準備された[21]。翌8月2日、「橘丸」はトアールを出港するが、この時すでにPBY カタリナが上空で張り付いていたのである[21]

8月3日早朝、アメリカ海軍駆逐艦コナー (DD-582)英語版」 (USS Conner, DD-582) と「チャレット (駆逐艦)」 (USS Charrette, DD-581) は、バンダ海を航行中の「橘丸」に対し国際信号旗 “S” “Q” “1” (停船せよ、さもなくば攻撃する)を掲げて停船を命じる[25]。「橘丸」を挟み込むように接近した「コナー」と「チャレット」から臨検隊が送り込まれたが[21]、臨検隊に踏み込まれた「橘丸」の対応は墓穴を掘るばかりであった。「なぜ看護婦が乗っていないのか」[21][注釈 8]とか「なぜ怪我患者がいないのか」[21]という質問にまともに答えられず、「患者」の名前とその病名ですら答えることができなかった[21]。決定打は食堂下の船倉に収められていた赤十字の箱から出てきた小銃[21]、40トンの弾薬および曲射砲2門[22]で、ついに「橘丸」は国際法違反により拿捕された。

拿捕された「橘丸」には星条旗が掲揚され、捕虜となった将兵は周囲から銃が突きつけられたサロンへ収容される[21]。将兵のうち、将校クラスは暴発を警戒して「コナー」と「チャレット」に移された[26]。8月8日、「橘丸」はモロタイ島に到着し、ここで将兵と乗組員は収容所送りとなった[26]。このうち将兵は貨物船に押し込められ、フィリピンマニラモンテンルパ捕虜収容所に移送された[26]。乗組員は「橘丸」に戻され、8月14日にマニラに入港[26]。乗組員もモンテンルパ収容所に収容されたが、終戦後に安田喜四郎船長を除く乗組員は無罪として釈放された[26]。その後の「橘丸」は、パラオからウェーク島に回航され、ウェーク島からの復員兵第一陣700名を乗せて[27]10月20日に浦賀に帰投した[26]

日本側が「橘丸」拿捕を知ったのは、少なくとも8月6日朝に連合軍側の放送、あるいはオーストラリア放送[22]を傍受した時とみられ[28]、第五師団長の山田中将と同参謀長浜島厳郎大佐は8月15日に自決したが、それは「国際法違反」の責めによるものではなく、「将兵を無抵抗裡に敵手に委した」という理由からであったという[29]

裁判

橘丸事件の裁判は、アメリカ第8軍司令官が招集した軍事委員会が主催する横浜法廷(場所:横浜地方裁判所)で行われた。審理は1948年(昭和23年)3月に開始され、同年4月13日に判決が出された。

起訴された人物と判決

脚注

注釈

  1. ^ 「ぶゑのすあいれす丸」(#野間p.148)
  2. ^ アメリカ側も、「はるぴん丸」が規定の塗装をしていなかったことを示す "painted war color"(戦時塗装)という記述を残している(#SS-186, USS STINGRAYp.21)。
  3. ^ この17隻のほか、「有馬山丸」(三井船舶、8,696トン)と「和浦丸」(三菱汽船、6,804トン)が昭和20年に陸軍病院船に転じ連合国側に通告されている(#和浦丸)。「和浦丸」は終戦間際に釜山港で触雷して放棄されたが(#駒宮(1)p.121)、「有馬山丸」は残存した(#野間pp.592-593)。
  4. ^ 例えば、「三笠丸」(東亜海運、3,143トン)は多号作戦で沈没している。
  5. ^ 後に「天応丸」、次いで「第二氷川丸」と命名され海軍病院船として行動。昭和20年8月18日に沈没(#特設原簿p.113,118)
  6. ^ 「違反していない」との見解を取るサイトもある(大日本帝國海軍特設艦船DATA BASE 病院船に関する条約”. 戸田S.源五郎. 2011年10月1日閲覧。)。
  7. ^ 「広瀬」の由来は定かではない。なお、日露戦争時の軍神には「」と「広瀬」がいる。
  8. ^ 野間恒の記述にもあるが、陸軍病院船では看護婦の乗船している病院船とそうでない病院船が存在していた(#還送患者p.8,10)。

出典

参考文献

  • 西村慶明『橘丸 モデルアート 日本の客船シリーズ No.1』モデルアート、2005年。 
  • (Issuu) SS-186, USS STINGRAY. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-186_stingray?mode=a_p  (後半の一部に難読部分あり)
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • Ref.A06031090300『写真週報 第三百八号』。 
    • Ref.C08030730300『昭和二十年八月 東印部隊戦斗詳報』。 
    • Ref.C08030762900『自昭和十七年一月一日至昭和十七年一月三十一日 特設病院船朝日丸戦時日誌』、pp. 1-22頁。 
    • Ref.C08030762900『自昭和十七年二月一日至昭和十七年二月二十八日 特設病院船朝日丸戦時日誌』、pp. 23-45頁。 
    • Ref.C04123862000『還送患者輸送実施ノ件報告』。 
    • Ref.B02032923000『帝国軍用病院船ヲ「ソロモン」方面ニ派遣スルコトニ対スル考察』。 
    • Ref.B02032925100『「アラビア」丸他五隻不法攻撃事件新聞切抜』。 
    • Ref.B02032923600『陸亜普第一五九五号 敵国ニ病院船通告ノ件照会』。 
    • Ref.B02032923900『和蘭政府ノ帝国病院船不承認ニ関スル件』。 
    • Ref.B02032924100『陸亜普第二一一号 敵国ニ病院船通告ノ件照会』。 
    • Ref.B02032924600『「ハルピン」丸撃沈事件』。 
    • Ref.B02032926300『病院船高砂丸他三隻ニ対スル不法攻撃ニ付抗議申入ノ件』。 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 日本郵船戦時船史編纂委員会『日本郵船戦時船史』 下、日本郵船、1971年。 
  • 木俣滋郎『写真と図による 残存帝国艦艇』図書出版社、1972年。 
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降朝雲新聞社、1973年。 
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』至誠堂、1981年。 
  • 駒宮真七郎『続・船舶砲兵 救いなき戦時輸送船の悲録』出版協同社、1981年。 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年。 
  • 野間恒、山田廸生『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2 
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、冨永謙吾(共訳)、恒文社、1992年。ISBN 4-7704-0757-2 
  • 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年。ISBN 4-8099-0178-5 
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』野間恒(私家版)、2004年。 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)『戦前船舶 第104号・特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿』戦前船舶研究会、2004年。 
  • 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7 
  • 御田重宝『人間の記録 太平洋戦争下偽装病院船事件 - 「橘丸」と戦犯裁判』現代史出版会、発売:徳間書店、1977年。

関連項目

外部リンク