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2011年12月14日 (水) 04:39時点における版
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設立 | 1964年4月15日(日本国内航空) | |||
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ハブ空港 | 東京国際空港 | |||
マイレージサービス | JASマイレッジサービス | |||
会員ラウンジ | レインボーラウンジ | |||
保有機材数 | 85機[2] | |||
就航地 | 46都市 | |||
本拠地 | 日本東京都大田区羽田空港三丁目5番1号 |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | |
略称 | JAS |
本社所在地 |
日本 〒144-0041 東京都大田区羽田空港三丁目5番1号 |
設立 | 1964年4月15日 |
業種 | 空運業 |
事業内容 |
定期航空運送事業・不定期航空運送事業 航空機・付属品の売買・修理・賃貸業 |
代表者 | 代表取締役社長 舩曵寛眞(1995年6月 - 2004年3月) |
資本金 | 約615億円(2004年4月1日まで) |
従業員数 | 約6,000人(うち乗務員約2,000人/2004年3月31日まで) |
主要株主 |
東京急行電鉄株式会社 日本航空株式会社 近畿日本鉄道株式会社 ※いずれも2002年10月の日本航空との経営統合以前。 |
主要子会社 |
日本エアコミューター株式会社 株式会社北海道エアシステム 株式会社ハーレクィンエア |
外部リンク | http://web.archive.org/web/20030212210519/http://www.jas.co.jp/ |
株式会社日本エアシステム(にほんエアシステム、英称:JAPAN AIR SYSTEM CO.,LTD、略称:JAS)とは、1971年から2004年まで存在した日本の航空会社である。
日本航空 (JAL) 、全日本空輸(全日空、ANA)とともにかつての日本の三大航空の一翼を担っていた。1988年までの社名は東亜国内航空(とうあこくないこうくう、Toa Domestic Airlines:TDA)。航空会社コードはJAS/JD、コールサインはエアシステム (Air System) 。なお、東亜国内航空時代の航空会社コードはTDA/JD、コールサインはトーアドメス (Toa Domes) だった。
2004年4月1日に株式会社日本航空ジャパン(にほんこうくうジャパン)に商号変更し、日本航空ブランドの国内航路会社に転換され、事実上消滅した。そして日本航空ジャパンは2006年10月1日に、株式会社日本航空インターナショナル(現商号は日本航空株式会社)に吸収合併され、名実ともに消滅した。なお、旧日本国内航空の英語名に由来する2レター航空会社コード「JD」は、中華人民共和国の新興航空会社北京首都航空に転用されている。
歴史(日本航空との経営統合以前)
東亜国内航空
東亜国内航空 (Toa Domestic Airlines/TDA) は、東京・羽田空港を拠点に幹線と準幹線、ローカル線を運航していた日本国内航空 (JDA) と広島に本社を置き大阪・伊丹空港を拠点にローカル線を中心に運航していた東亜航空 (TAW) の2つの航空会社の合併によって1971年5月15日に発足した。存続会社は日本国内航空。
なお、日本国内航空自体も、日東航空(1952年7月4日設立)と富士航空(1952年9月13日設立)、北日本航空(1953年6月30日設立)という地域内ローカル線を中心に運航していた3社が、運輸省(現・国土交通省)の指導による合併の結果1964年4月15日に設立されたものだった。同社は幹線を運航していたこともあり、大型ジェット機のコンベア880やボーイング727を導入するなど積極的な動きを見せていたものの、日本航空と全日本空輸という大手2社に阻まれ苦戦し経営不振に陥っていた。
一方、政府は1964年の新幹線開業、1966年の航空事故多発による航空需要の落ち込みを背景に、1966年5月20日の閣議了解により、将来の統合を前提に日本航空と日本国内航空の提携を進めた。この過程において、日本国内航空は幹線から撤退し、同時にコンベア880やボーイング727も日本航空にリースされた。ところが、1967年以降状況は好転し、1969年度にはローカル路線を主に運航する日本国内航空と東亜航空がともに黒字を計上することとなったこともあり、1970年に先の閣議了解が変更され両社の合併が決まった[3]。この合併により、国内航空会社は日本航空、全日本空輸と東亜国内航空の三大航空会社体制になり、1972年にはこの3社に対して運輸省より事業(路線)割り当て(いわゆる45/47体制)が行われ、東亜国内航空は国内準幹線とローカル線の運航が割り当てられることになった。
商号変更
その後も日本の航空業界では45/47体制が続いていたが、1985年にこれが廃止されることになり、東亜国内航空も国際線や国内幹線への就航が可能になった。なお、国内幹線に関しては、便数は希少ながら1975年以降、段階的に3路線の定期運航に参入していたが、本格的参入はこれ以降である。翌1986年にはこれを受けて国際チャーター便の運航を開始したものの、その後アジア諸国への国際線定期就航をする際に、社名の「東亜」という単語が太平洋戦争時に使用した「大東亜共栄圏」・「大東亜戦争」をイメージさせるとして、また国際定期便を運航するにあたり「国内」という名称がそぐわなくなることから、東京 - ソウル線就航に先立つ1988年4月に日本エアシステムへと商号を変更した[4]。
なお、英語社名表記の略称「JAS」の読みは当初は「ジェイエイエス」だった。これは、日本農林規格との混用を避ける意味であえてそう読んでいたと推測される。1990年代後半ごろからは「ジャス」に変更されている。中国語表記は「日本佳速航空」で、「佳速」は「ジャス」の当て字である。この「佳速」から発展してコーポレートスローガン「GOOD SPEED ALWAYS」が生まれた。
日本航空と経営統合の経緯
- 2002年10月1日 - 日本航空株式会社(2004年4月1日から2011年3月31日までの社名は株式会社日本航空インターナショナル)と日本エアシステムが株式移転し、持株会社を設立(株式会社日本航空システム:JALS)。旅客数において世界第6位、営業収入において世界第3位の航空連合となった。
- 2003年4月1日 - 日本航空と日本エアシステムの両社が運航していた国内路線を、原則どちらか一方のみの運航に統一した。ただし羽田 - 札幌・大阪・福岡などの幹線では時刻調整の上併存させた。
- 2004年4月 - 6月 - 日本航空便と日本エアシステム便を、日本航空便(JLXXXX便)に統合。これを反映した商号変更(日本航空株式会社→株式会社日本航空インターナショナル、株式会社日本エアシステム→株式会社日本航空ジャパン、株式会社日本航空システム→株式会社日本航空)。国際線と国内線の整理のもと、日本エアシステムの便名コード「JD」ならびに日本エアシステム (JAS) のブランドが終了した。貨物事業は国際・国内とも株式会社日本航空インターナショナルに全面移管された。
- 2006年10月1日 - 株式会社日本航空インターナショナル(旧:日本航空株式会社)による株式会社日本航空ジャパン(旧:株式会社日本エアシステム)の吸収合併。
運航機材
- 日本国内航空・東亜航空時代はそれぞれが多種多様な機材を揃えていたが、両社とも末期には保有機の統一化が進み、1971年の東亜国内航空発足時は旧東亜航空から移管した若干数のデ・ハビランドDH.114・タウロンを除いて保有機の大半がYS-11となり、この後1年は2機種のみでの運航となった。
- 東亜国内航空初のジェット機運航は、日本国内航空時代に日本航空にリースしていたボーイング727の返却を受け、1972年8月に羽田 - 大分線に投入した時だった。しかし、同社のその後のジェット化推進に際しては、旅客定員がほぼ同数で経済性の高いダグラスDC-9が選定されたため、同社ジェット化の先陣を果たしながらもボーイング727の運航は1年半余りの短期間に終わった。
- 日本国内航空時代に日本航空にリースしていたボーイング727は2機だが、同じくリースしていたコンベア880が訓練中の事故で喪失したため、その補償としてリース返却時に日本航空からボーイング727が1機譲渡されている。ハイジャック事件で知られた「よど号」 (JA8315) も日本国内航空からのリース機のうちの1機で(日本国内航空時代の愛称は「羽衣号」)、返却後は「たかちほ」の名で運航された。
- その後は徐々にダグラスDC-9シリーズの保有を増やすとともに、機材の大型化を図りエアバスA300の導入を進めたほか、1980年代以降は日本エアコミューターへのローカル線運航の移譲を進め、YS-11も日本エアコミューターなどの子会社へ移籍していった。
- 商号変更に伴い国際線進出をねらった日本エアシステムは国際線運用機材としてマクドネル・ダグラスDC-10-30を発注するが、すでにメーカーが製造ライン閉鎖を決定していた(後継機MD-11製造開始のため)。このため、本来空中給油機・KC-10として製造されたがアメリカ空軍のキャンセルによって余剰となったために急遽旅客用に改造された機材を入手することになった[5]。
- 日本航空との統合時、日本エアシステムが運航していた機種で特に目立つのはエアバスA300、ボーイング777、マクドネル・ダグラスMD-90などだった。またエアバス機を主力としていたため、日欧貿易においてヨーロッパからの大口輸入の象徴的存在とされていた。
- エアバスA300-600Rは1998年に旅客型の生産が実質終了しているが、その後も日本エアシステム向けには2002年まで貨物機の合間を縫って生産されていた。同年受領したJA016Dは旅客型の最終号機で、日本航空との経営統合後に受領した唯一のエアバス機でもある。
- ボーイング777導入に際しては、国際線の拡大が図られていた頃、一旦はボーイング747-400の導入を決定、9機を発注したものの、財政難から断念、"導入延期"となり、機体のコストや運航上の経済性を重視しボーイング777へ発注を切り替えた、という経緯がある。
- 日本国内航空・東亜国内航空・日本エアシステムが発注したボーイング社製航空機の顧客番号(カスタマーコード)は89で、航空機の形式名は727-89、777-289の2機種のみとなる。
- DC-9導入以前に日本国内航空はフランスのシュド・カラベルの導入を検討しており、調査団の派遣日程まで決められていたが突然中止になったという[6]。
日本エアシステム時代
- エアバスA300-B4-2C
- エアバスA300-B2K-3C
- エアバスA300-600R
- ボーイング777-200
- マクドネル・ダグラスDC-9-40
- マクドネル・ダグラスDC-10-30 (ER)
- マクドネル・ダグラスMD-90-30
- マクドネル・ダグラスMD-81 (DC-9 Super80)
- TDA時代に導入した「DC-9 Super80」とJAS時代の「MD-81」はコックピット仕様に差異があるため、運航面では別機種扱いとされていた。
- マクドネル・ダグラスMD-87
- 日本航空機製造YS-11
- ビーチクラフト B200スーパーキングエア
- ヒューズ369HS
- アエロスパシアルAS350B
契約のみ未導入
- ボーイング747-400(計画・契約のみ)
- ボーイング777-300 - 正確には日本エアシステム機として導入されているが、新生JALの「太陽のアーク」塗装で引き渡され、型式番号末尾のカスタマーコードも機体引渡し時点ではJASの89ではなくJALの46となっているためこの項にて記す。
東亜国内航空時代および以前
固定翼機
NAL日東航空
- パイパーPA-18カブ
- デ・ハビランドDHC-2ビーバー
- デ・ハビランドDHC-3オター
- グラマンG44スーパーウィジョン
- グラマンG73マラード
- コンベアCV-240
- デ・ハビランドDH114-1Bヘロン
- デ・ハビランドDH114タウロン
- ビーチクラフトD-50ツインボナンザ
- エアロコマンダー500A
- セスナ170
- セスナ170B
- セスナ172
- セスナ172B
- セスナ172C
- セスナ172D
- セスナ175B
FAL富士航空
- ビーチクラフトC-18Sツイン・ビーチ
- ビーチクラフトC-50ツインボナンザ
- ビーチクラフトD-50ツインボナンザ
- パイパーPA-23アパッチ
- コンベアCV-240
- デハビランドDH114-1Bヘロン
- デハビランドDH114タウロン
- セスナ172
NJA北日本航空
TAW東亜航空
- デハビランドDH104-1Bダヴ
- デハビランドDH114タウロン
- コンベアCV-240
- ビーチクラフトD-18 (C-18S)
- ビーチクラフトC-50ツインボナンザ
- YS-11
- セスナ170B
JDA日本国内航空
- パイパーPA-18カブ
- パイパーPA-23アパッチ
- グラマンG44スーパーウィジョン
- ダグラスDC-3A
- ノール262A-14
- コンベアCV-240
- デハビランドDHC-2ビーバー
- デハビランドDH114-1Bヘロン
- デハビランドDH114タウロン
- コンベア880-22M
- ボーイング727-100
- YS-11
- セスナ170
- セスナ170B
- セスナ172B
- セスナ172C
- セスナ172D
- セスナ175B
- セスナ195
TDA東亜国内航空
- コンベアCV-240
- デハビランドDH114-1Bヘロン
- デハビランドDH114タウロン
- ボーイング727-100
- YS-11
- DC-9-31(米国からリース)
- DC-9-41
- DC-9-51(米国からリース)
- DC-9-81
- エアバスA300B2K-3C
回転翼機(NAL・FAL・NJA・TAW・JDA・TDA)
- 川崎BK-117
- ベル47J
- 川崎ベル47G-2
- 川崎ベル47G-2A
- 川崎ベル47G-3B-KH-4
- ベル214B
- 川崎ヒューズ369-HS
- ヒューズ36P
- 富士204B/B2(ベル・エアクラフト)
- エアロスパシアルAS-350B
- シコルスキーS-76A
- シコルスキーS-62J
最優秀オペレーター賞
日本エアシステムは、エアバス機を特に安全に運航・整備しているとして、エアバス・インダストリー社より
- 1989年3月「1987 - 1988年度A300型機最優秀オペレーター賞」
- 1996年6月「1995年度A300B2/B4型機最優秀オペレーター賞」
を受賞した。
塗装
日本エアシステム運航機は塗装の多様さで有名であり、デザインの多くは虹をイメージしたもので「レインボー・デザイン」と呼ばれた。
- 東亜国内航空時代、当初の塗装はオレンジを基調とし、窓枠にはオレンジライン、垂直尾翼に気流をデザイン化した社章を施したものだった。その後1974年に本格的に導入されたマクドネル・ダグラスDC-9に、「レッド&グリーン」と呼ばれた垂直尾翼を赤と緑に塗り分け、その2色のラインを窓枠まで延長した形の新しいデザインが施され、YS-11も徐々にこの塗装へ切替、7年にわたり同社のコーポレートカラー的役割を果たした。
- レインボーカラーへの切替に端を発したのは、1981年から導入したエアバスA300に、エアバス・インダストリー社のデモフライト機に使用されていたカラーを気に入った役員が譲り受けを申し入れたことだった。「東亜国内航空」のイメージは、同社初のワイドボディ機である同機の導入と共に一新される形となった。
- 続いて導入されたマクドネル・ダグラスMD-81にもエアバス色からオレンジを抜いた類似のカラーが施され、既存の保有機も順次同様のカラーに変更され、「日本エアシステム」への社名変更2年後の1990年頃までに「レッド&グリーン」カラーは子会社保有機の一部を除き一掃された。オレンジを抜いた理由は、機体の大きさに合わせたという説と、マクドネル・ダグラス社がエアバス塗装を拒否したという説がある。ただし、DC-10はオレンジを抜いていないエアバス塗装で納入されている。
- 続いて1996年から導入されたマクドネル・ダグラスMD-90には映画監督・黒澤明が手がけた全7種のデザインが施され、黒澤の代表作品名をもじって「七人の侍」の異名でも呼ばれた。また、黒澤明はこの塗装をデザインした後ほどなくして死去し、一種の遺作ともいえる塗装だったため、JAL「太陽のアーク」塗装への変更が進められるなかでこの塗装の存続を求める声が数多くあった。一部では「『Kurosawa』と塗装されてある機材は残存するのではないか?」とも言われたが、他の機体同様塗装変更が進められた。2011年現在、日本航空のホームページでは黒澤側の許可が得られず、この機体を旧塗装として紹介することができず、必ずしも両者の関係が良好とは言えない状況となっている。
- 1997年から導入したボーイング777-200では、黒澤明も審査委員を務めたインターネットなどによる一般公募によって北海道千歳市の中学生が考案した虹色の帯を機体にロールした形のデザインが選ばれ、就航後は「レインボーセブン」の愛称で親しまれた。このように徐々に「虹の翼」のイメージを確立していった。なお、この塗装になった理由として、ボーイング社が自社の飛行機にエアバス社のコーポレートカラーである「レインボーカラー」をベースにした塗装を施されるのを嫌ったということがあげられる。JALとの経営統合後に全機が「太陽のアーク」塗装に変更されたことで消滅したが、世界唯一の左右非対称デザインだった。
アドカラー
日本エアシステムは、本格的なアドカラーを国内航空会社としては初めて導入し1997年から1998年にかけて、大塚製薬のポカリスエットをイメージした塗装のエアバスA300「JAS・ポカリスエット号」を運航していた。また機内においても、関連会社の大塚ベバレジの製品であるジャワティの他にポカリスエットを提供していた。
その他
- アルカディア号
- 漫画『宇宙海賊キャプテンハーロック』に登場する宇宙戦艦「アルカディア号」にちなんでDC-9型機に「アルカディア号」と塗装し、「当日にならなければ行き先がわからない。行き先不明の旅。」というミステリーフライトのキャンペーンを展開していた。
- ピーターパンフライト
- 近畿日本ツーリストとの共同企画による国際プログラム・チャーター。DC-10-30 (JA8551) にダイアナ妃が名誉総裁を務める「ピーターパンこども基金」と協賛しピーターパン塗装を施した。ピーターパンの周囲にあった星屑についてはステッカーで対応したため、飛行の度に剥がれることが多く、その都度修復する必要から当時の整備ハンガーには星のステッカーが多量にあったと言われている。
- フレンドリーバード
- 機材としては経年機となっていたエアバスA300 (JA8472) に施された創立30周年記念の塗装。
- 人気者でいこう!
- 当時の番組企画で短期間だけボーイング777-200 (JA007D) に施されたステッカー。1998年5月19日放送の同番組「爆裂カラオケ企業バトル」コーナーでJASが参戦してレギュラー陣に敗れたため、そのペナルティとして貼付されたものである。
就航路線
日本エアシステムの就航路線も参照。
国内線
東亜国内航空時代は45/47体制の下で、運輸省の指導の下ローカル線や国内準幹線を中心として運航していた。45/47体制の撤廃後は国内線幹線や近距離国際線にも進出したものの、依然としてその多くは採算が取りにくい国内準幹線やローカル線が中心だった。1980年代以降はエアバスA300を幹線や準幹線を中心に、マクドネル・ダグラスDC-9シリーズを準幹線やジェット機乗り入れが可能なローカル線を中心に、日本航空機製造YS-11型機をローカル線を中心に運航していた。
また、一部離島路線や地方発着ローカル線の一部は、日本エアコミューターなどの子会社がYS-11型機やサーブ 340型機を使って運航していた。
就航先(一部)
- 新千歳空港
- 函館空港
- 旭川空港
- 青森空港
- 三沢空港
- 花巻空港
- 秋田空港
- 山形空港
- 仙台空港
- 新潟空港
- 東京国際空港
- 小松空港
- 名古屋空港
- 信州まつもと空港
- 関西国際空港
- 大阪国際空港
- 広島空港
- 南紀白浜空港
- 出雲空港
- 高松空港
- 徳島空港
- 松山空港
- 福岡空港
- 大分空港
- 熊本空港
- 宮崎空港
- 鹿児島空港
- 那覇空港
国際線
国際線就航時には、将来的にアメリカ本土やヨーロッパの主要都市への就航も考えられていた。しかしバブル景気の崩壊や湾岸戦争の勃発による乗客の減少、成田空港の発着枠制限といった厳しい現実に阻まれた。
特に一旦は定期運航を実現したシンガポール、ホノルル線などは、成田空港の発着枠に制限があったことや、競合他社によって発着枠の獲得の妨害にあったためにデイリー運航が不可能だった。ツアーに利用しづらく、旅行会社に敬遠されがちで、そのために採算が取れなかったことが早期撤退を余儀なくされた一因とされている。なお、これらの中長距離路線を運航するために、1988年にマクドネル・ダグラスDC-10-30 (ER) 型機を2機導入したが、上記のような状態のため2機のうちJA8551は大韓航空に1年弱リースされた後の就航となった。最長距離とされていたホノルル線は、集客などに無理が重なり僅か3年程で運航を終了した。その後は香港線へとシフトしたが、主力のA300-600Rの機材メンテナンスや集客状況などでの機材変更程度であった。その香港線も、1998年の香港国際空港開港時点で予備のA300-600Rで賄えるようになったことから2機とも2000年には米ノースウエスト航空(現・デルタ航空)へ売却した。その後これら2機はオムニエア・インターナショナルINCで運用されており、時折米軍横田基地などにも飛来している。
一方、日本航空との経営統合までは中華人民共和国の各都市への運航に尽力した。特に日本航空や全日本空輸が就航していない西安・広州・昆明等の地方都市への運航に活路を見出していたこと、また韓国の首都であるソウルへの毎日2便運航が収入源となっていたのも特徴的だった。
就航先
定期便はすべて、成田国際空港および関西国際空港発着だった。他にも福岡空港や広島空港などの地方空港からのチャーター便もあった。
- ホノルル国際空港
- シンガポール・チャンギ国際空港
- 仁川国際空港(2001年まで金浦国際空港)
- 香港国際空港(1998年まで啓徳空港)
- 上海浦東国際空港(1999年まで上海虹橋国際空港)
- 西安咸陽国際空港
- 広州白雲国際空港
- 昆明巫家壩国際空港
コードシェア運航
ノースウエスト航空やKLMオランダ航空、中国南方航空と日本国内の主要路線や成田 - アムステルダム線(KLM機材での運航)などの国際線のコードシェア運航を行っていた他、マイレージの提携も行っていた。2009年9月時点ではワールドパークスでは日本航空インターナショナルの路線でマイルを加算することはできなかった。ただし実際にはノースウエスト航空が独自に行う(日本航空を含む国内航空各社とは無関係)「ニッポン500マイルキャンペーン」で一般会員の場合年間10回[7]に限り会社・距離・運賃にかかわらず一律500マイルを加算することができた[8]。また、日本航空に統合後も日本航空インターナショナルの路線で特典旅行することは可能だったが、2008年10月1日以降特典旅行に交換できる会員は上級会員か指定された提携クレジットカード会員のみに制限され、その後2009年4月1日を以って日本航空との提携解消に伴いこれらの会員でも交換できなくなった。
サービス
東亜国内航空時代より、ブランドイメージと規模で優先していた競合2社との差別化に苦慮していた日本エアシステムは、この状況を打破するためにいくつかの独創的なサービスを導入している 。また、以下のようなサービスを日本で最初に導入している。
- ヘアヌードが掲載されている雑誌の搭載を取りやめ。
- 半額運賃の国内線割引運賃を設定。
- 女性優先トイレを設置。
- パソコン通信で国内線予約、空席・運航状況の情報提供を開始。
- 機体1機ごとにスペシャルマーキングを塗装。これは史上初だった。
- 本格的な広告マーキングを塗装。
- インターネットで機体デザインを募集。
- 国内線3クラスシートを導入。
- 日本で最初に全席に個人用テレビを設置した機材を導入。
- コンビニチケットレス予約サービスの設定。
- バースデー割引の制定。
- 飲み物
- 日本の航空会社として唯一、大塚製薬と提携し、同社およびグループ企業の主力製品であるジャワティやポカリスエットなどを搭載していた。他にも暖かいスープ、緑茶やカゴメの六条麦茶、ジュースなどを搭載していた。
- ビジネスクラス
- 成田 ― ホノルル線の就航に伴ってDC-10型機に導入されたビジネスクラス。後のスーパーシートの前身と言えるが、形態は日本航空のそれに類似する。機内食もエコノミークラスより豪華であり、主に和食を中心としたものの他、軽食も提供された。なお、ホノルル空港のラウンジはクラスに関係なく利用が可能だった。
- スーパーシート
- ボーイング777-200へのスーパーシート導入に合わせ、1997年4月1日からA300-600R型機においても、スーパーシートを導入。座席数は一機あたり12席、ピッチ102cm、幅47cm。ボーイング777-200との違いは、フットレストが手動式であることと、テレビは通路天井部にビデオモニターを設置していたことである。バゲージ・チェックイン・ラウンジ(ラウンジのない空港では空港内売店で使用できる商品券)・機内食などのサービスはボーイング777-200と同一だった。
- ボーナスシート
- 1997年4月1日からの一時期、機体最後尾にエンジンが装備されているDC-9-81、MD-81、MD-87、MD-90型機に導入された格安座席。「窓がない」、「エンジンの音がうるさい」、「座席がリクライニングしない」と不人気だった機内最後部の5 - 7席の運賃を、通常運賃の50%としたもの。事前購入割引ではなく定額運賃だった。当クラスを含むとJASの座席クラスは4種となる。
- チャイ・ランメニュー
- 2001年より、香港を代表する映画制作会社、ゴールデン・ハーベストの副社長兼プロデューサーで、食通としても知られる蔡瀾(チャイ・ラン)が監修した機内食が成田 - 香港線で提供されていた。
- 民族衣装
- 2001年に、関西国際空港 - 昆明線のみの限定サービスとして、客室乗務員が中華人民共和国雲南省の少数民族の衣装を着用して機内サービスを行った。
- フローラルルーム(女性優先トイレ)
- 客室乗員部乗務室長(当時)の吉田千鶴子の発案により、1996年3月に日本の航空会社として初めて設置された女性優先トイレ(化粧室)。ドライフラワーのハーブが香る個室内には、コロンやハンドクリーム、ウェットティッシュなどアメニティグッズなどが設置されていた。まれに書籍などで「女性専用トイレ」と表記されることがあるが、あくまで「優先」であり、男女とも利用可能だった。日本航空との経営統合後も継続して設置している[9]。
- 機内誌
- 日本エアシステムは、機内誌として「ARCAS」(アルカス)を搭載し、他に機内販売の案内などを搭載していた。
3クラスシート
日本エアシステムは東亜国内航空以降初のボーイング機となるボーイング777シリーズを導入するとともに、国内線で同様にボーイング777を導入している他の2社との格差をつけるべく、日本エアシステムの最大の売りである独自のサービスを重視することとなり、国内線初の3クラスシートを導入することを決定した。これら3クラスの全ての座席には、液晶テレビモニターが設置され映画やゲームを楽しむことができ、これも国内線初の試みだった。
これらのエンターテイメントサービスは、JAL便への統合に際して3クラス廃止・機内改装によって廃止された。ただし、未改装のまま運航されている機材については、日本エアシステム時代のゲームなどがそのまま残されている。
全席にテレビを設置するなどこれらのサービススピリッツは、元JAS職員が経営陣を勤めるスターフライヤーで受け継がれている。
スーパーシート
スーパーシートは、1997年4月1日からボーイング777-200型機・A300-600R型機において導入された。追加料金は4,000円。座席数は一機あたり12席、ピッチ約107cm、幅53cm。2-2-2の6アブレスト。最大角度25度のリクライニング・ランバーサポートは電動であり、フットレストはレッグレストに収納されていた。座席には「レインボービジョン」(テレビ)のコントローラーが設置されており、チャンネルの切り替え、ゲームの操作、読書灯、キャビンクルーの呼び出しなどを操作できた。スーパーシートの乗客は、チェックインを専用のカウンターで行い、搭乗前に後述する「レインボーラウンジ」でくつろぐことができる。また朝・昼・夕の時間帯には国内線としては豪華な機内食が提供された。16時以降に出発する便ではワインのクォーターボトルがサービスされた。機内食の出ない時間帯では軽食として弁当か菓子のどちらかを選択することができた。機内では、コートや上着を専用のクローゼットに預けるサービスがあったほか、スリッパと靴ベラもサービスされていた。到着後は、専用のタグをつけた手荷物が優先的に引き渡された。予約は専用電話「レインボーコール」で受け付けた。JAL便に統合後の2004年6月以降はクラスJとして設定されている。
レインボーシート
レインボーシートは、1997年4月1日より、国内線の普通席とスーパーシートの間に設定された中間クラスである。追加料金は1,000円(就航当初は2,500円)。座席数は一機あたり38席、ピッチ97cm、幅45cm。2-4-2の8アブレスト。ボーイング777-200のみで提供され、スーパーシートと違い空港のラウンジや専用カウンターなどのサービスは省かれていたものの、ゆったりしたシートを安価に利用できることもあり固定ファンが多かった。また、手荷物の優先や専用電話での予約受付などはスーパーシートと同様だった。日本航空に経営統合後の2004年6月に同じコンセプトのサービスが「クラスJ」の名称で開始された。
普通席
国内航空会社で初めて全席にテレビモニターが設置されたエコノミークラス。ボーイング777型機の2-5-2の9アブレストは、日本航空や全日本空輸にはない独自のものであり、満席状況の最混雑時を除くと実質上2-2-2-2の8アブレストとして運用されるとともに、3 - 5人グループ客は同列に配席するなど顧客の立場において柔軟な運用が行われた。
レインボーラウンジ
主に「スーパーシート」を利用していた乗客に対し、日本エアシステムは羽田・札幌・福岡など主要空港で「レインボーラウンジ」と呼ばれるラウンジサービスを提供していた。落ち着いた内装のレインボーラウンジには、専門の係員が配置され、軽食やドリンクのサービスを実施していた。日本航空に経営統合後は「サクララウンジ」として提供されている。
マイレージ
他の国内大手2社と同様にマイレージサービス「JASスカイメリット」を導入していたものの、自社の国際線ネットワークが少なく、国際線の特典航空券の選択肢が少なかったことなどから、ノースウエスト航空やKLMオランダ航空マイレージの提携を行っていた。末期にはコンチネンタル航空との間でもマイレージ提携に向けた交渉が始まっていた。併せて東急グループ傘下の東急ホテルズや東急リゾート、東急TOPカード(現「TOP&カード」)などとも提携していたのが特徴だった。
また、マイルの有効期限が他の2社に比べて長いことや、貯めたマイルは誰でも使用可能なこと、他社との競争が熾烈な幹線で多くマイルが貯まる点も特徴とされていた。カード自体のデザインも、ファンや利用者には人気だった。
広告
他の国内大手2社同様に夏季には沖縄・奄美群島キャンペーンや北海道キャンペーンを実施したほか、他の寄港地や貨物部門での広告キャンペーンも行われた。また、1990年頃、「ハートフルJAS」というコピーが用いられた時期に和田アキ子、ホノルル線就航時に中村吉右衛門といった著名人をテレビCMに起用したこともあった。
キャンペーンガール
- ジョディ・マッケンジー(1979年)
- 稲光朱火(1980年)
- 石川優子(1981年)
- 松本真実(1983年)
- 財前直見(1984年)
- ジーナ・ナナ(1985年)
- シュリー・アスンシオン(1986年)
- 武市幸子(1987年/俳優・高松英郎の長女)
- 西田ひかる(1988年)
- 坂井泉水(1989年/'89フルロードキヤンペーン/蒲池幸子名)
- 坂井泉水(1989年/JASカーゴ/蒲池幸子名)
- 坂井泉水(1990年/JASカーゴ/蒲池幸子名)
- 及川麻衣(1991年)
- 川島令美(2000年 - 2001年)
その他
- 和田アキ子(1990年/ハートフルJAS)
- 中村吉右衛門(1991年/ホノルル線就航)
- 平賀雅臣(1997年/レインボーセブン就航)
- 山口智子(2001年/バースデー割得)
- 山口智子(2001年/ウルトラ割得)
- 山口智子(2002年/ウルトラ割得ジャンプ)
- 沢田研二・田中裕子(2002年/結婚記念日割得)
株主
設立当初から東京急行電鉄が大株主であり、東急グループとの結びつきが強く事実上は東急グループの1社だった。しかし1990年代のバブル崩壊に伴い東急グループ全体が深刻な経営不振に陥り、一傘下企業の経営不振の解消にまで手が回らなかった。これが、同社が経営不振から立ち直れないまま日本航空への吸収合併へと至った原因のひとつとみられている。
他の大株主としては近畿日本鉄道、不二サッシ、三井物産、野村証券、富士火災海上保険、東京生命保険、東京海上火災や日本航空および国内主力行などだった。なお、東京急行電鉄は経営統合で日本航空の大株主の一員となったが、2010年1月14日に全株の売却を発表し経営から完全に撤退した。
子会社
航空会社の子会社は、ローカル線専門の子会社2社と国際線チャーター便の運航を目的とした連結子会社を所有していた。日本航空に吸収合併後もローカル線専門の2社については当時の社名のまま現存している。なお、ハーレクィンエアは人材派遣業に特化したのち、2008年3月31日をもって解散した。
他にも整備や地上ハンドリング、グッズ販売企画などの子会社もあった。
航空会社
- 日本エアコミューター (JAC)
- 北海道エアシステム (HAC)
- ハーレクィンエア (HLQ)
整備・地上ハンドリング会社
- 日東航空整備 (NTM)
- 東亜エアーサービス (TAS)
- 北海道エアーサービス (HAS)
- 仙台エアーサービス (SAS)
- 金沢エアシステム (KAS)
- グランドエアーサービス (GAS)
地上支援機材・車両整備
- 日本エアモーターサービス (JAMS)
航空機部品・設備の保管・払出・輸出入
- ジェイエイエスメンテナンスサポート (JMC)
- ジェイエイエスエアクラフト (JASA)
予約業務
- SAS
- KAS
- エアロコミュニケーションサービス (ACS)
- 大阪エーシーエス (OSAACS)
- 福岡エーシーエス (FUKACS)
商事業務・空港売店運営・保険代理業
- ジェイエイエストレーディング (JTR)
- ジェイエイエス商事(JSC/商事業務/平成12年4月より以下社名)
- ジャスナイスウイング(商事業務・パッケージツアーの主催)
旅行業
- ジェイエイエス商事 (JSC)
- ジェイトラベル東京 (JTT)
- ジェイトラベル北海道 (JTH)
- ジェイトラベル大阪 (JOO)
- ジェイトラベル名古屋 (JTN)
- ジェイエイエスカストマーサービス (JCS)
その他
- ジェイエイエス旭川リゾート開発(JARD/ゴルフ場経営)
- JAS香港(JASHKG/香港地区総販売代理店/旧名JASH.K.日本佳速航空香港有限公司)
事故
日本国内航空を経て東亜国内航空時代から墜落、全損事故を含む数回の重大事故を発生している。国内線の運航が主だったこともあり日本国外での事故はない。
また、1966年8月26日に、日本国内航空所属のコンベア880が、貸出先の日本航空により羽田空港で訓練中、離陸直後に墜落炎上し乗員4名および運輸省航空局職員1名が死亡した。詳細は日本航空羽田空港墜落事故を参照のこと。
脚注
- ^ 日本航空ジャパンでのコールサインは「J Bird」。
- ^ JAL・JAS 経営統合について (PDF)
- ^ 第065回国会 運輸委員会 第14号
- ^ 粂喜代治・元日本エアシステム整備本部長によれば、ソウル線開設時に韓国側から非公式に社名変更の要求があった、とのこと(出典:「イカロスMOOK JAL JET STORY」 2009年 イカロス出版)。
- ^ 「イカロスMOOK JAL JET STORY」 2009年 イカロス出版 P162
- ^ 「イカロスMOOK JAL JET STORY」 2009年 イカロス出版 P153
- ^ 暦年ではなく日本の年度で区切られる。
- ^ デルタ航空との合併に伴い、ワールドパークスは2009年10月にスカイマイルに統合されたが、同キャンペーンは2009年度は旧ワールドパークス会員に限り継続されていた。2010年度はスカイマイルの全会員が対象となる。
- ^ JAL国内線 - 女性優先化粧室「フローラルルーム」をご用意しています - 日本航空