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「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の版間の差分

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| 在位 = <small>プロイセン摂政王子:[[1858年]] - [[1861年]][[1月2日]]<br/>[[プロイセン国王|プロイセン王]]:[[1861年]][[1月2日]] - [[1888年]][[3月9日]]<br/>[[ドイツ皇帝]]:[[1871年]][[1月18日]] - [[1888年]][[3月9日]]</small>
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| 全名 = ヴィルヘルム・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・プロイセン
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'''ヴィルヘルム1世'''('''{{Lang|de|Wilhelm I.}}'''[[1797年]][[3月22日]] - [[1888年]][[3月9日]])は、第7代[[プロイセン国王|プロイセン王]](在位:[[1861年]][[1月2日]] - 1888年3月9日)また1871年より初代[[ドイツ皇帝]](在位:[[1871年]][[1月18日]] - 1888年3月9日)。
'''ヴィルヘルム1世'''('''{{Lang|de|Wilhelm I.}}''' [[1797年]][[3月22日]] - [[1888年]][[3月9日]])は、第7代[[プロイセン国王|プロイセン王]](在位:[[1861年]][[1月2日]] - 1888年3月9日)、初代[[ドイツ皇帝]](在位:[[1871年]][[1月18日]] - 1888年3月9日)。


== 概要 ==
剛直な武断派で、自由主義者を弾圧して「榴弾王子」と呼ばれたが、即位後は[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]を[[宰相]]として、穏健な[[保守派]]と協力しつつ上からの[[ドイツ統一]]を達成した。
第5代プロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]の次男として生まれた。[[1848年革命]]の際には剛直な武断派として自由主義者を弾圧して「榴弾王子」と呼ばれた。兄である第6代国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]に子がなかったため、王位継承者であり続け、1857年に兄王が精神病になると「国王代理」となり、1858年に[[摂政]]に就任した。摂政の頃には自由主義に一定の理解を示し、自由主義的保守派貴族による「新時代」内閣を誕生させた。


1861年、63歳の時に兄の崩御で第7代プロイセン王に即位。即位後は自由主義勢力の台頭に危機感を持ち、保守化を強めた。保守的な軍制改革を行おうとしたが、自由主義者が牛耳る議会にその予算を拒否され、無予算統治を強行する意思のある[[オットー・フォン・ビスマルク]]を[[宰相]]に任命した。ビスマルクの主導の下、プロイセンは[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|対デンマーク戦争]]、[[普墺戦争]]、[[普仏戦争]]と[[小ドイツ主義]]による[[ドイツ統一]]の道を進み、普仏戦争の勝利によって[[ドイツ帝国]]が建設され、ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝に即位した。

ビスマルクとはしばしば意見対立しながらも崩御まで彼を宰相として重用し続けた。1888年に崩御。長男の[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]が即位したが、フリードリヒ3世も在位3ヶ月ほどで崩御したため、ドイツ皇位・プロイセン王位は孫の[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]に引き継がれた。
{{-}}
== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 王太子時代 ===
=== 少年・青年期 ===
[[File:Wilhelm (Heusinger).jpg|230px|thumb|right|1810年のヴィルヘルム王子を描いた絵(ヨハン・ホイジンガ―画)]]
ヴィルヘルム1世は1797年3月22日、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]と[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|ルイーゼ]]王妃の子として[[ベルリン]]に生まれた。ヴィルヘルムは兄王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]とは性格も外見も違っており、青年時代はその長身と容姿で社交界に浮名を流したが、遠縁にあたる[[エリザ・ラジヴィウヴナ]]公女との恋愛結婚は、家柄の問題など様々な政治的思惑から実現しなかった。
1797年3月22日にプロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(同年11月16日に第5代プロイセン王に即位し、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]となる)と[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|ルイーゼ]]王妃の次男として[[ベルリン]]の[[皇太子宮殿 (プロイセン)|皇太子宮殿]]([[:de:Kronprinzenpalais (Berlin)|de]])に生まれた<ref name="LeMO">[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/WilhelmI/index.html Deutsches Historisches Museum LeMO]</ref>。


兄であるフリードリヒ・ヴィルヘルム(後の第6代プロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]])と同様に神学者・教育者ヨハン・ゴットリーブ・デルブリュック(Johann Gottlieb Delbrück)から教育を受けた<ref name="LeMO"/>。1807年にプロイセン軍に入隊し、1814年に[[大尉]]としてフランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト]]の支配に対抗する[[解放戦争 (ドイツ)|解放戦争]]に従軍し、[[鉄十字章]]を受けた<ref name="LeMO"/><ref name="Deutsches Reich">[http://www.deutsche-schutzgebiete.de/kaiser_wilhelm_1.htm Deutsches Reich]</ref>。この戦いを通じてナポレオンを生み落とした革命を激しく憎むようになり、革命から王権を守れるのは軍隊だけであると確信するようになったという<ref name="望田(1979)52">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.52</ref>。1818年に近衛歩兵旅団の[[少将]]、1825年には近衛軍団の[[中将]]となる<ref name="Deutsches Reich"/>。
1829年、ヴィルヘルムは[[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国|ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ]]大公女[[アウグスタ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ|アウグスタ]]と結婚し、のちの[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]と[[ルイーゼ・フォン・プロイセン (1838-1923)|ルイーゼ]]の2子をもうけた。ヴィルヘルムは[[ゴシック・リヴァイヴァル建築|新ゴティック様式]]の宮殿を建ててそこに住み、軍人として、また外交官として活躍した。1848年のベルリン[[1848年革命|三月革命]]では軍を率いて革命に干渉し、その断固たるやり方に対して'''[[キャニスター弾|榴弾]]王子'''(Kartätschenprinz)というあだ名をつけられている。また、その後[[バーデン (領邦)|バーデン大公国]]で起こった革命への暴力的干渉は、民衆の間に非常な憎しみを呼び起こし、このあだ名はさらに広まった。


ヴィルヘルムは兄王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]とは性格も外見も違っており、青年時代はその長身と容姿で社交界に浮名を流したが、遠縁にあたる[[エリザ・ラジヴィウヴナ]]公女との恋愛結婚は、家柄の問題など様々な政治的思惑から実現しなかった<ref name="LeMO"/><ref name="Deutsches Reich"/>。
=== 即位とビスマルクの起用 ===
ヴィルヘルムは1857年から、病床にある兄フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に代わって政務を執るようになり、翌1858年には[[摂政]]の地位に就いた。兄王の死去した1861年、ヴィルヘルム1世は既に63歳であったが、[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]をまねて[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]で自ら戴冠した。ヴィルヘルムはただの反動主義者ではなく、穏健な保守的自由主義との協調を目指した。しかし1861年の選挙では、保守派が大敗してわずか14議席しか取れなかったのに対して、急進的な進歩党が109議席獲得と躍進したため、王は即位早々危機に陥った。議会を解散させても状況は悪化する一方で、次の選挙では保守11議席に対して進歩党133議席となり、軍制改革の予算を巡っての論議で追い詰められた王は退位も考えた。


1829年、ヴィルヘルムは[[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国|ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ]]大公女[[アウグスタ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ|アウグスタ]]と結婚し、のちの[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]と[[ルイーゼ・フォン・プロイセン (1838-1923)|ルイーゼ]]の2子をもうけた<ref name="Deutsches Reich"/>。長い平和の間に軍人としての研鑽を積み、またしばしばロシア首都[[サンクトペテルブルク]]に派遣されて外交官として活躍した<ref name="Deutsches Reich"/>。
ヴィルヘルム1世はこの窮状を打開するため、[[パリ]]駐在大使ビスマルクを召還し、彼の主張する[[鉄血政策]]を実行させた。自身老練の政治家だったヴィルヘルム1世はビスマルクを理解し信頼していたが、強引なビスマルクとの間に常に良好な関係が保たれたわけではなく、「この男は私に、いつまでたっても気心の知れぬよそよそしさを覚えさせる」と側近にもらしたこともあるという。しかしそれでも鉄血政策は広範な支持を得ることに成功し、ヴィルヘルム1世を嫌っていた世論は、軍制改革の成功と[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国]]併合によって好転した。この地域の管理権を巡って起こった[[普墺戦争]]にもプロイセンは勝利し、[[北ドイツ連邦]]が結成されることになった。さらにこの動きを警戒していた[[フランス第二帝政|フランス]]の[[ナポレオン3世]]はプロイセンの挑発、[[エムス電報事件]]に乗せられて[[普仏戦争]]に突入し、1870年9月2日に[[セダンの戦い]]で降伏した。


{{Gallery
=== 気の進まぬ帝位 ===
|ファイル:Königin Luise mit ihren Söhnen.jpg|左からヴィルヘルム王子、母[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|ルイーゼ]]王妃、兄[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]皇太子([[カール・シュテフェック]]([[:de:Carl Steffeck|de]])画)
[[ファイル:Reichsgründung1871-AW.jpg|thumb|right|250px|フランス、ヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツ皇帝即位を布告するヴィルヘルム1世]]
|ファイル:Friedrich Wilhelm III. und seine Familie.jpg|国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]一家。左から次妹[[アレクサンドリーネ・フォン・プロイセン (1803-1892)|アレクサンドリーネ]]、長妹[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ1世皇后)|シャルロッテ]]、母[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|ルイーゼ]]王妃、父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]王、兄[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]皇太子、弟[[カール・フォン・プロイセン|カール]]王子、ヴィルヘルム王子。([[ハインリヒ・アントン・デーリンク]]([[:de:Heinrich Anton Dähling|de]])画)
[[ドイツ統一]]に向かうこれらの流れではビスマルクが主導的な役割を果たし、ヴィルヘルム1世はそれを追認するだけであったが、決して無能な君主ではなかった。軍制改革の実務を担当したのも、参謀総長[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ|大モルトケ]]を抜擢したのも王自身であり、当時の新聞漫画でしばしば皮肉られたように「国王ビスマルク1世」の操り人形だったとは言えない。しかし、ヴィルヘルム1世は世代としては古い世代に属する1人であって、新しい[[ドイツ帝国]]の[[ドイツ皇帝|皇帝]]という役目は非常に気の重いものだった。ドイツ帝国などというものができれば、古いプロイセン王国はその中に吸収されてしまうだろう、と憂いて戴冠式の前日まで反対を続けていたが、ビスマルクのほかに王太子フリードリヒ([[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]])の説得もあって、ついにヴィルヘルム1世は1871年1月18日に[[ヴェルサイユ宮殿]]鏡の間でドイツ皇帝として戴冠した。
}}
=== 1848年革命の鎮圧 ===
[[File:König Wilhelm.jpg|180px|thumb|right|[[壮年期]]のヴィルヘルム王子]]
1848年3月にベルリンで自由主義者・民主主義者・ナショナリストなどの市民軍と国王軍が衝突したことで[[1848年革命|三月革命]]が発生した。宮廷内の軍支持者の代表格として知られていたヴィルヘルム王子は市民の最大の憎悪の対象だった。国王軍の蛮行の責任を彼に求める論調が強まり、彼の名前を入れた市内の御用商人の看板が次々に破壊された<ref name="シュターデルマン(1978)85">[[#シュターデルマン(1978)|シュターデルマン(1978)]]、p.85</ref>。


ベルリン警視総監はヴィルヘルム王子が市民から命を狙われていると報告した<ref name="シュターデルマン(1978)82">[[#シュターデルマン(1978)|シュターデルマン(1978)]]、p.82</ref>。兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は第1位王位継承者である弟に万が一がないようにと配慮し、急遽英国女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]に会見する任務を言い渡され、3月19日にヴィルヘルム王子は亡命に近い形で国を離れた<ref name="エンゲルベルク(1996)258">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]]、p.258</ref><ref>[[#シュターデルマン(1978)|シュターデルマン(1978)]]、p.82-83</ref>。
ドイツ統一を成し遂げたヴィルヘルム1世の人気は不動のものとなり、民族的英雄[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|バルバロッサ]](赤髭王)になぞらえて「バルバブランツァ」(Barbablanca:白髭王)と呼ばれるほどだった。新生ドイツ帝国はフランスから得た賠償金によって[[グリュンダーツァイト]]と呼ばれる[[バブル景気]]に沸き、新会社設立が相次いで別名「泡沫会社乱立時代」とも呼ばれた。同時に所得の不均衡も進んで社会不安の原因となり、皇帝暗殺さえ2度まで計画され、1878年5月11日に[[マックス・ヘーデル]]([[:de:Max Hödel|Max Hödel]])による暗殺未遂事件が起きている。1888年3月9日、ヴィルヘルム1世は死去したが、後を継いだ[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]も喉頭癌に侵されており、わずか99日で死去している。ヴィルヘルム1世の死後、彼の葬られた[[ベルリン大聖堂]]には約20万人もの臣下たちが弔問に訪れた。


国王自身は脱出計画を思いとどまり、市民軍の管理下に入り、妥協できる自由主義者と結んで革命を穏健化させる道を選んだ<ref name="エンゲルベルク(1996)258"/>。ガス抜きの自由主義内閣を誕生させ、まもなく革命の勢いが落ちてくると、国王は5月12日にヴィルヘルム王子をイギリスから呼び戻すとの発表を行った。これに反発した市民が再び示威行進を行ったが、すでにそれは国王を翻意させるほどの物ではなかった<ref name="シュターデルマン(1978)87">[[#シュターデルマン(1978)|シュターデルマン(1978)]]、p.87</ref>
== エピソード ==

その後保守主義者が反転攻勢を強め、[[フランクフルト国民議会]](ドイツ国民議会)が定めた人民主権の[[フランクフルト憲法]](ドイツ帝国憲法)と同議会から下された帝冠を兄王が拒否した。これに反発した自由主義者・民主主義者・労働者団体などの間で憲法制定を求める運動が高まり、憲法を拒否した邦国を中心に蜂起が発生した。多くはすぐに鎮圧されたが、[[バイエルン王国]]領[[プファルツ地方]]と[[バーデン大公国]]での反乱は拡大した。特にバーデンでは革命の影響で常備軍が人民軍に改組されていた事もあり、5月14日にはバーデン大公[[レオポルト (バーデン大公)|レオポルト]]が亡命してプロイセンに助力を請う事態となった<ref name="エンゲルベルク(1996)320">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]]、p.320</ref><ref name="成瀬(1996,2)325">[[#成瀬(1996,2)|成瀬・山田・木村(1996) 2巻]] p.325</ref>。

これを受けてヴィルヘルム王子を司令官とする二個軍団・約6万人が反乱鎮圧に出征した。バイエルンはプロイセン軍の干渉を嫌い、鎮圧要請をしていなかったが、ヴィルヘルム王子の軍は独断でプファルツ地方に進軍し、バイエルン政府から事後承認を得て6月14日にプファルツ地方を占領した<ref name="成瀬(1996,2)325">[[#成瀬(1996,2)|成瀬・山田・木村(1996) 2巻]] p.325</ref>。さらに革命派が政権を掌握して「社会的民主共和国」を宣言していたバーデンへ進攻し、「神聖不可侵の国家理念に背いた者には容赦は無用である」として徹底的な鎮圧を命じ、[[マンハイム]]、[[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]]、[[ラスタット]]などで捕虜にした革命家や人民軍志願兵部隊を士官・一般兵問わず無差別に処刑した<ref name="エンゲルベルク(1996)320">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]]、p.320</ref>。その断固たるやり方に対して民衆の間に非常な憎しみを呼び起こし、'''[[キャニスター弾|榴弾]]王子'''(Kartätschenprinz)というあだ名をつけられた<ref name="望田(1979)52">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.52</ref>。[[フリードリヒ・エンゲルス]]は「ドイツ人民はラスタットの大量銃殺と防弾室を忘れない。この恥ずべき行いを命じた支配者どもを忘れない」と書いている<ref name="エンゲルベルク(1996)321">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]]、p.321</ref>。

=== 自由主義勢力への接近 ===
1849年に[[ヴェストファーレン県]]や[[ライン県]]の知事に就任し、妃アウグスタとともに[[コブレンツ選帝侯宮殿]]([[:de:Kurfürstliches Schloss (Koblenz)|de]])で暮らした<ref name="LeMO"/>。これ以降、妻の影響で自由主義派の学者と親交を深め、兄王と対立を深める中、「週報党」{{#tag:ref|比較的自由主義的な官僚や貴族たちによって構成されていた勢力。1851年に『プロイセン週報』という機関紙を発行するようになったためこう呼ばれる<ref name="ガル(1988)194">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]]、p.194</ref>。|group=#}}など自由主義的保守派がヴィルヘルムを取り巻くようになった。国王の周りには[[レオポルト・フォン・ゲルラッハ]](侍従武官長)をはじめとする側近グループ(カマリア)や「十字新聞派」などの強硬保守勢力が取り巻いていたため、ヴィルヘルムも兄王との違いを強調するために形式的に自由主義的な主張を行うようになった<ref name="望田(1972)84">[[#望田(1972)|望田(1972)]] p.84</ref>。

1854年に[[元帥 (ドイツ)|元帥位を有する上級大将]]に昇進の上、[[マインツ要塞]]([[:de:Festung Mainz|de]])の知事となった<ref name="Deutsches Reich"/>。

=== 「国王代理」から摂政へ ===
1857年秋になると兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の精神病が深刻化した<ref name="アイク(1994,2)14">[[#アイク(1994,2)|アイク(1994) 2巻]] p.14</ref>。プロイセン憲法上ヴィルヘルムが摂政に就任するべきところだったが、宰相[[オットー・テオドール・フォン・マントイフェル]]はじめ国王派は彼が摂政に就任することによって自由主義政策が行われることを恐れていた<ref name="前田光夫(1980)102">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.102</ref>。そのため摂政の設置に応じようとせず、10月23日にヴィルヘルムを3か月の期限付きで憲法上に規定がない「国王の代理人」なる地位に就けた<ref name="望田(1972)84"/><ref name="前田光夫(1980)101">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.101</ref>。完全なる君主権を有する摂政ではなく「国王代理人」とすることで国王の従来の方針にヴィルヘルムを縛りつけようとした。ヴィルヘルム派はこれを「憲法違反」として批判し摂政の設置を要求した<ref name="望田(1972)84"/>。

しかし当のヴィルヘルム自身は摂政就任を望んでおらず、「国王代理人」の職を神から与えられた使命と感じており、兄の「善良な人柄」と義姉の王妃[[エリーザベト・ルドヴィカ・フォン・バイエルン|エリーザベト]]への思いやりを念頭に行動した<ref name="アイク(1994,2)23">[[#アイク(1994,2)|アイク(1994) 2巻]] p.23</ref>。1858年1月、4月、7月と3か月の期限を迎えるたびに国王の勅書によってヴィルヘルムの「国王代理人」職が更新された<ref name="前田光夫(1980)102"/>。マントイフェル宰相は出来る限りこの状態を継続させたかったが、法相や議会から憲法上の根拠の乏しさを追求され、とうとう内閣でも摂政を設置すべきとの意見が多数派となった<ref name="前田光夫(1980)103">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.103</ref>。10月7日にヴィルヘルムを[[摂政]]に任じる勅書が出された<ref name="望田(1972)84"/><ref name="前田光夫(1980)103"/><ref name="アイク(1994,2)14">[[#アイク(1994,2)|アイク(1994) 2巻]] p.14</ref>。

===「新時代」 ===
[[File:König Wilhelm I..jpg|180px|thumb|right|1858年頃の摂政ヴィルヘルム]]
兄王は政治的遺言書の中で「憲法宣誓すべきではない。立憲体制を否定するクーデタをおこすべき」とヴィルヘルムに要求したが、ヴィルヘルムはこれを無視して摂政就任後の10月26日に議会において憲法宣誓を行い、立憲統治を宣言した<ref name="前田光夫(1980)103"/>。

11月6日にマントイフェル宰相を解任し<ref name="アイク(1994,2)22">[[#アイク(1994,2)|アイク(1994) 2巻]] p.22</ref>、プロイセン王家[[ホーエンツォレルン家]]の分家である[[ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家|ジグマリンゲン家]]の[[カール・アントン (ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯)|カール・アントン侯]]を宰相、[[ルドルフ・フォン・アウエルスヴァルト]]([[:de:Alfred von Auerswald|de]])を副宰相とする自由主義的な保守派の貴族による内閣を誕生させた(この体制は「[[新時代]]([[:de:Neue Ära|de]])」と呼ばれた)<ref name="エンゲルベルク(1996)423">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]]、p.423</ref><ref name="林(1993)168">[[#林(1993)|林(1993)]] p.168</ref><ref name="前田光夫(1980)104">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.104</ref>。「新時代」内閣はマントイフェルやゲルラッハの頃の絶対主義体制と決別し、議会を尊重する姿勢を示した。とはいえこの内閣は完全な自由主義ではなく、君主を議会から独立させることに固執するなど保守的傾向も示した。これについてメーリンクは「自由主義内閣はその自由主義のためにではなく、その自由主義が無害であるために任命された」と評する<ref name="前田光夫(1980)104">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.104</ref>。ヴィルヘルムも内閣に統治綱領(Regierungsprogramm)を提示し、その中で改革について「恣意的なもの、時代の諸要請に逆行するものが示される部分には細心の改革の手が差し伸べられねばならない」と表現するにとどめた<ref name="前田光夫(1980)105">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.105</ref>。

またゲルラッハなどの強硬保守主義者たちは政府や宮廷から追放したが、軍の実力者である軍事内局局長[[エドヴィン・フォン・マントイフェル]]([[:de:Edwin Freiherr von Manteuffel|de]])中将だけは強硬保守でも留め置いている<ref name="望田(1979)57">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.57</ref>。

=== 軍制改革 ===
ヴィルヘルムは上記の統治綱領において軍制改革の必要性について言及し<ref name="前田光夫(1980)127">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.127</ref>、1859年12月3日の閣議にその最終案を提出した<ref name="前田光夫(1980)148">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.148</ref>。

ヴィルヘルムの軍制改革は徴兵数増加と3年兵役の維持と郷土軍から野戦軍の機能を除くことを中心としていた。当時のプロイセン軍では1814年兵役法により兵役3年が定められていたが、財政状況から兵役が2年もしくは2年半に減じられていた。しかしヴィルヘルムには「新兵は最初の2年間教練に圧倒されており、3年目に入ってはじめて軍人の尊厳や職務の重大性、軍に必要不可欠な身分精神を自覚するようになる」「ヨーロッパにおいては軍人のこの身分精神こそが革命や自由主義勢力から王位を保護する」という持論があり、3年兵役制の短縮は国民を「兵士ではなく教練を受けた農夫」にしてしまうとして断固反対であった<ref name="前田光夫(1980)132">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.132</ref>。

同様の理由から郷土軍にも批判的であった。郷土軍は1813年の対フランス開戦に際して常備軍の兵力不足を補うために創設された常備軍に所属しない軍隊だが、戦後もフランスの報復に備えるためとして東プロイセン州議会がこれを存続させた。国王の命令によらずに創設されたため国民的・ナショナリズム的な要素を持つようになり<ref name="前田光夫(1980)151">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.151</ref>、1848年革命の際には動員令に応じなかった<ref name="渡部(2009)126">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.126</ref>。そのため1848年革命の鎮圧者であったヴィルヘルムは郷土軍を「兵士であることより選挙民であることの意識が強い」と看做し、不信感を持っていた<ref name="前田光夫(1980)133">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.133</ref>。ヴィルヘルムの軍制改革はこの郷土軍を野戦軍ではなく、常備軍の兵站・要塞守備などを担当する後備軍とするものであった<ref name="前田光夫(1980)150">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.150</ref>。

=== 議会との対立のはじまり ===
[[オルミュッツ協定]]の屈辱の教訓からプロイセン下院の自由主義者たちも軍事力の増強には賛成であったので、徴兵数を増やすことには反対しなかったが、兵役3年と郷土軍縮小には反対した。「長い兵役は国民の自由と所有権に対する経済的な侵害」、「郷土軍縮小は国王と貴族の権力上昇を目的としている」と看做したためであった<ref name="前田光夫(1980)150"/>。そのため1860年1月12日に召集された下院軍事委員会は軍制改革について徴兵数増加に賛成しつつ、3年兵役制と郷土軍の野戦軍からの分離、多額の経費には反対した<ref>[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.157-158</ref>。

「軍の組織については国王と立法、軍の編成については国王と継続行政の管轄であり、兵役義務は組織の問題なので立法が必要」という点は政府も下院も共通認識だったが、政府の見解ではそれはすでに1814年兵役法により定められているのであって、国王はその枠内であれば議会の協賛がなくても統帥権に基づいて自由に兵力決定を行えるという立場であった<ref name="前田光夫(1980)162">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.162</ref>。したがってヴィルヘルムは軍制改革を拒否している下院は国王の統帥権を干犯していると理解していた<ref name="前田光夫(1980)158">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.158</ref>。ただし軍制改革のうち郷土軍を野戦軍から分離するという案は兵役法に反しており、これを統帥権の名の下に強行することは、命令による法律の改正にあたるため、後に下院で違法行為として追及される。陸軍省もこの点を指摘していたが、ヴィルヘルムは取り合わなかった<ref name="前田光夫(1980)164">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.164</ref>。

政府は軍制改革は国王の統帥権で実施し、議会にはその予算問題のみ掛けることとし、陸軍大臣に900万[[ターレル]]の使用を認める暫定法案を議会に提出した。下院の自由主義者たちはこの金額では3年兵役制は実施できないし、短期間ごとに軍制改革予算を特別経費として議会が審議することを常態化するチャンスと考えた。またヴィルヘルムの提案を拒否しすぎて彼を完全に保守陣営の側に追いやりたくはなかった。そうした意図から自由主義者たちが賛成に回り、暫定法は1860年5月15日の下院本会議においてほぼ満場一致で可決された<ref name="前田光夫(1980)166">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.166</ref>。

ヴィルヘルムはこの大差の可決を単純に軍制改革は国民代表からも支持を得ている証拠と理解し、意気揚々とこの経費を使って新[[連隊]]編成に着手した<ref name="前田光夫(1980)166"/>。

=== プロイセン王即位 ===
1861年1月2日に兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が[[崩御]]し、摂政ヴィルヘルムが63歳にして正式にプロイセン国王に[[即位]]した。ヴィルヘルム1世が即位後に初めて行った統治行為は自らが新設した連隊の戦闘旗を祝別することだった<ref name="前田光夫(1980)169">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.169</ref>。1月18日には「統帥権行使に関する勅令」(Allerhöchste Kabinettsorder)を発令し、軍事予算・軍事行政に関わる問題に関してのみ国王は陸軍大臣の副署を必要とすることとし、軍勤務事項と軍人事の問題に関しては陸軍大臣の副署を不要とし、可能な限り軍を議会の影響から遠ざけようとした。この勅令は1919年10月まで存続し、プロイセンとドイツ帝国の大元帥の統帥権の基礎となった<ref>[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.176-177</ref>。

1月14日に国王としてはじめて招集した下院開院式の勅語で国民代表が軍制改革に協賛することを要求した<ref name="前田光夫(1980)168">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.168</ref>。しかしこの会期ではすぐに国王と下院の対立がはじまった。政府は軍制改革問題について統帥権により当然に実施されるものとしてもはやこれを特別な経費とせず、[[一般会計予算]]に計上した。一方下院軍事委員会は先の暫定法の措置はあくまで暫定的措置であることを強調し、また「郷土軍は1814年兵役法により定められている制度であり、これを国王が命令で勝手に改変することはできない」点を指摘した<ref name="前田光夫(1980)168">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.168</ref>。本会議での議論は紛糾したが、最終的には自由主義右派(旧派自由主義)の主導で政府原案の61年下半期の軍制改革経費490万ターレルから75万ターレルを削減し、[[特別会計予算]]として決議した<ref name="前田光夫(1980)169"/>。また「軍制改革のために取られた措置を継続させるには1814年兵役法の改正が必要である」とする見解を圧倒的多数で決議した。これに対して陸相[[アルブレヒト・フォン・ローン]]は「改正法案は提出するが、それは政府が自らに課した義務であり、議会に対して政府が拘束される義務ではないと理解している」と述べて下院を牽制した<ref name="前田光夫(1980)169">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.169</ref>。

ヴィルヘルム自身は形式にはこだわりはなく、6月5日の閉院式の勅語で「承認の形式は偉大なる措置(軍制改革)の生命原理に関わる問題ではないので、私はこれを無視する」と宣言した<ref>[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.169-170</ref>。

10月28日に[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]の前例に則ってベルリンではなく[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]で戴冠式を行った。参列した下院議員一同に向かって[[王権神授説]]の勅語を述べ、自由主義勢力を牽制した<ref name="アイク(1995,3)111">[[#アイク(1995,3)|アイク(1995) 3巻]] p.111</ref>。

{{Gallery
|ファイル:Krönung 1861.JPG|[[ケーニヒスベルク城]]([[:de:Königsberger Schloss|de]])でのヴィルヘルム1世の[[戴冠式]]([[アドルフ・フォン・メンツェル]]([[:de:Adolph Menzel|de]]画)
|ファイル:Krönungszug Königsberg (1861).JPG|ケーニヒスベルク城でのヴィルヘルム1世の戴冠式([[ジョージ・ハウスマン・トーマス]]([[:en:George Housman Thomas|en]])画)
|File:The Coronation of the King of Prussia.JPG|戴冠式でのヴィルヘルム1世と皇太子[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ]]妃[[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]]
}}

=== 議会との対立激化 ===
1861年11月19日と12月6日に下院選挙が行われたが、自由主義左派の[[ドイツ進歩党]]([[:de:Deutsche Fortschrittspartei|de]])が109議席、自由主義右派が95議席、カトリック派が54議席、自由主義中央左派が52議席、ポーランド人派が23議席を獲得した。一方保守派はわずか15議席だった。この議会状況では政府の軍事法案が可決される見通しは皆無だった<ref name="前田光夫(1980)172">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.172</ref>。

1862年1月14日に召集した下院は予想通り進歩党の主導で3年兵役制を拒否した。また進歩党・中央左派・ポーランド人派の賛成により予算の細目化を求める採択がなされた。この情勢から軍制改革続行不可能と判断した「新時代」内閣は3月8日にヴィルヘルム1世に辞表を提出した。しかしヴィルヘルム1世は大臣任免権はあくまで自分にあり、議会にあるのではないと考えていたため総辞職を拒否し、3月11日に議会を解散した。しかし自由主義右派系の閣僚たちは議会内の自由主義右派勢力と強調して進歩党に対抗する必要があると主張し、郡制と大臣責任法の改正、62年度予算案細目化、軍制改革費用削減を要求し、保守派閣僚たちと内部抗争を起こした。ヴィルヘルム1世が保守派を支持した結果、自由主義右派閣僚たちは辞職し、「新時代」内閣は崩壊した<ref>[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.182-183</ref>。

ヴィルヘルム1世は新内閣のトップを高貴な者で飾りたいと願い、政治から離れていた[[アドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲン]]公爵を宰相とした。「新時代」内閣からの残留である陸相ローン、外相[[アルブレヒト・フォン・ベルンシュトルフ]]伯爵([[:de:Albrecht von Bernstorff|de]])、蔵相[[アウグスト・フォン・デア・ハイト]]男爵([[:de:August von der Heydt (1801–1874)|de]])が内閣の中心であった。特にハイトが事実上の内閣の指導者であった<ref name="前田光夫(1980)183">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.183</ref>。

しかし4月28日と5月6日に行われた解散総選挙の結果は一層壊滅的であった。保守派の議席は11議席にまで落ち込み、軍制改革に賛成したカトリック派や自由主義右派もそれぞれ28議席、65議席と議席を大きく落とした。反政府派の急進的自由主義者である進歩党と中央左派は躍進し、それぞれ135議席、96議席を獲得した。政府と下院の協調の可能性は一層なくなった<ref name="前田光夫(1980)185">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.185</ref>。

=== 妥協案の拒否と退位の意思表示 ===
8月4日の下院予算委員会は軍制改革の予算を財政における軍事偏重が過ぎる故に特別会計としても認められないと決議した。しかし委員のうち進歩党の[[カール・トヴェステン]]([[:de:Karl Twesten|de]])、中央左派の[[フリードリヒ・シュターヴェンハーゲン]]([[:de:Friedrich Stavenhagen|de]])と[[ハインリヒ・フォン・ジイベル]]([[:de:Heinrich von Sybel|de]])の三者はドイツ問題解決のため軍の強化自体は必要不可欠と考えており、また争議が激化してヴィルヘルム1世が強硬保守内閣を誕生させる恐れがあることから政府と妥協する必要があると考えていた。彼らは兵役2年と多少の軍事予算減額だけを条件とした妥協案を提出した<ref name="前田光夫(1980)187">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.187</ref>。

しかしヴィルヘルム1世に妥協の意思はなく、彼は議会を無視して無予算統治で軍制改革を強行する決意を固めたが、ハイトが無予算統治は憲法上の根拠がないとして反対した。さりとて解散しても良い選挙結果になる見通しはなく、陸相ローンは上記の妥協案で妥協する決意をし、9月17日の下院本会議でそれを発表した結果、下院も融和的な空気になった。しかし同日の国王臨席の閣議において閣僚たちが次々と妥協案に賛成する中、ヴィルヘルム1世は「3年兵役制が拒否されるのであれば退位する」旨を宣言した。この脅迫に閣議の空気はすっかり変わり、ハイトとベルンシュトルフをのぞく全閣僚がヴィルヘルム1世の無予算統治路線を無条件で支持する旨を表明した<ref name="前田光夫(1980)193">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.193</ref>。ローンは翌18日に前日の妥協案を飲む旨の発言を撤回し、それに激怒した下院は再び政府と徹底抗戦の構えを見せ、妥協案を圧倒的多数で否決した<ref name="前田光夫(1980)194">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.194</ref>。

弟カール王子や国王副官[[グスタフ・フォン・アルヴェンスレーベン]]([[:de:Gustav von Alvensleben|de]])中将、軍事内局局長エドヴィン・フォン・マントイフェル中将らは議会に対するクーデタを進言した<ref name="前田光夫(1980)212">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.212</ref>。一方内閣指導者ハイトはなおも兵役2年で妥協するよう進言し続けた。ヴィルヘルム1世にはクーデタの意思も妥協の意思もなく退位の準備を開始した<ref name="前田光夫(1980)194"/>。しかし皇太子フリードリヒは父の退位を諌止していた。9月19日の閣議も内閣は分裂状態であったが「国王の退位は王権の継続的弱体化を招く」としてヴィルヘルム1世の退位を諌止することでは一致した。この閣議の後にハイトは無予算統治を行おうとする内閣には所属できないとして辞表を提出したのでヴィルヘルム1世は辞職を許可し、内閣は指導者を失って事実上崩壊した<ref name="前田光夫(1980)195">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.195</ref>。

=== ビスマルクを宰相に任じる ===
[[File:General Otto von Bismarck.jpg|180px|thumb|right|宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]]]
この状況に陸相ローンは独断で次の宰相候補として[[パリ]]駐在大使ビスマルクをベルリンに召喚した<ref name="前田光夫(1980)212">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.212</ref>。ヴィルヘルム1世とビスマルクは9月22日に[[バーベルスベルク]]離宮で会見した<ref name="エンゲルベルク(1996)494">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.494</ref><ref name="ガル(1988)308">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.308</ref>。ヴィルヘルム1世は軍制改革を断行する勇気のある大臣が現れないのであれば、退位する旨をビスマルクに伝えたが、ビスマルクは自分は王権に尽くす忠臣であり、軍制改革を断行し、議会が承認しないなら無予算統治を行う覚悟であることを表明した。これを受けてヴィルヘルム1世は「それならば貴下とともに戦うのが私の義務である。私は退位しない。」と述べ、退位の意思を撤回し、ビスマルクを宰相に任命した<ref>[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.308-309</ref>。

宰相となったビスマルクは9月30日の下院予算委員会で[[鉄血演説]]を行ってドイツ統一戦争の意思と軍備拡張の必要性を語り、進歩党のナショナリズムを高めて政府の軍制改革を支持させようとしたが、失敗した<ref>[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.323-326</ref>。結局ヴィルヘルム1世とビスマルクは1866年の普墺戦争勝利に至るまでの4年にわたって無予算統治を行い、軍制改革を強行した。これにより無予算統治を憲法違反と批判する自由主義者と無予算統治を[[空隙説]]([[:de:Lückentheorie (Politik)|de]])で正当化する政府との間に[[プロイセン憲法闘争|憲法闘争]]([[:de:Preußischer Verfassungskonflikt|de]])が巻き起こった<ref name="林(1993)171">[[#林(1993)|林(1993)]] p.171</ref>。

ビスマルクはこの憲法闘争を[[小ドイツ主義]]統一を推し進めることによって解決を図り、最終的に1866年の普墺戦争中に行われた下院総選挙で保守派が圧勝したことにより、[[事後承認法]](免責法とも訳される)([[:de:Indemnitätsgesetz|de]])が決議されて1862年以来の無予算統治がすべて免責されて終結している<ref name="林(1993)182">[[#林(1993)|林(1993)]] p.182</ref><ref name="アイク(1996,4)215">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.215</ref><ref name="ヴェーラー(1983)56">[[#ヴェーラー(1983)|ヴェーラー(1983)]] p.56</ref><ref name="成瀬(1996,2)379">[[#成瀬(1996,2)|成瀬・山田・木村(1996) 2巻]] p.379</ref><ref name="前田光夫(1980)335">[[#前田光夫(1980)|前田光夫(1980)]] p.335</ref>。
=== ドイツ諸侯会議出席問題 ===
1863年8月3日、ヴィルヘルム1世はオーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]から[[フランクフルト]]で行うドイツ諸侯会議への出席を要請された。この頃オーストリアは[[大ドイツ主義]]的な[[ドイツ連邦]]改革案を提起しており、会議はそれについて話し合うためであった。ビスマルクの頭越しに君主間で申し入れられた要請であった。ビスマルクはこの会議への出席に反対の意を示し、ヴィルヘルム1世に欠席するよう激しい圧力をかけた<ref name="ガル(1988)364">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.364</ref>。

ヴィルヘルム1世は曖昧な態度をとっていたが、オーストリアは8月17日に諸侯会議を開催し、会議上で改めてヴィルヘルム1世に出席を要請した。ヴィルヘルム1世と親しい関係にあったザクセン王[[ヨハン (ザクセン王)|ヨハン]]がこの要請を[[バーデン・バーデン]]に滞在していたヴィルヘルム1世のもとへ届けにきた<ref name="ガル(1988)364"/>。ヴィルヘルム1世も立場を明確にする必要に迫られた。彼はビスマルクに対して「25名の統治者が集まっているのに、1人の国王だけが急使として訪れるのは問題がある」と主張して出席する意思を示した。しかしビスマルクはなおも反対し、辞職を脅しに使ってヴィルヘルム1世の説得にあたった。この際の論争はかなり激しい物であったらしく、ヴィルヘルム1世は興奮のあまりむせび泣きし、ビスマルクも国王の部屋を退出した後、自室で洗面器を粉々にしてストレス発散したという<ref name="ガル(1988)365">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.365</ref>。

しかし結局ヴィルヘルム1世が折れた。「問題となる連邦体制の変革について、またその変革とプロイセンの力に見合った正当な地位および国民の正当な利益について詳細な検討が加えられた時に初めて(出席の)決意を固めることができます。私は私の国とドイツの大義に対して私が負う責任ゆえに、そのような検討が加えられる以前に私を拘束するような言明を連邦諸侯に与えることはできません」として出席を拒否した<ref name="ガル(1988)365"/>。

=== 対デンマーク戦争 ===
[[File:AlsenKreuz2.jpg|180px|thumb|right|[[アルス島|アルゼン島]]上陸作戦の戦功に対して授与される[[アルゼン十字章]]([[:de:Alsenkreuz|de]])。ヴィルヘルム1世の横顔が刻まれている]]
北ドイツの[[シュレースヴィヒ公国]]、[[ホルシュタイン公国]]、[[ザクセン=ラウエンブルク|ラウエンブルク公国]]の三公国はデンマーク王が[[同君連合]]で統治していたが、住民の大多数がドイツ系であるためデンマークからの独立運動が発生していた。1863年11月にデンマーク国王となった[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]は[[第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]([[:de:Schleswig-Holsteinischer Krieg (1848–1851)|de]])の時に結ばれた[[ロンドン議定書]]に違反して[[シュレースヴィヒ公国]]をデンマークに併合した。これにより当事国のシュレースヴィヒ、ホルシュタイン、ラウエンブルクの三公国のみならず全ドイツで自由主義ナショナリズムが高まり、[[フリードリヒ8世・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン|アウグステンブルク公フリードリヒ]]が三公国の大公に擁立されてドイツ系住民が蜂起した<ref name="エンゲルベルク(1996)513">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.513</ref><ref name="ガル(1988)375">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.375</ref><ref name="成瀬(1996,2)372">[[#成瀬(1996,2)|成瀬・山田・木村(1996) 2巻]] p.372</ref>。

高まるナショナリズムを背景にヴィルヘルム1世も自由主義者の王太子フリードリヒや王太子妃ヴィクトリアの影響を受けるようになり、ロンドン議定書から脱退して三公国からデンマークの支配を廃し、アウグステンブルク公統治の独立公国を誕生させるべきであると考えるようになった<ref name="アイク(1995,3)30">[[#アイク(1995,3)|アイク(1995) 3巻]] p.30</ref><ref name="望田(1972)149">[[#望田(1972)|望田(1972)]] p.149</ref>。またアウグステンブルク公がプロイセン軍将校であった事もヴィルヘルム1世が彼に好感を寄せる要素だった<ref name="アイク(1995,3)40">[[#アイク(1995,3)|アイク(1995) 3巻]] p.40</ref>。

一方宰相ビスマルクはアウグステンブルク公の独立公国が自由主義者の集合場所となって反プロイセン的になることを恐れており、この地をプロイセンに併合したがっていた。しかしそれは国際的にも国内的にも支持を得られないのは明らかだったので、さしあたってデンマークにロンドン議定書を守らせる(=シュレースヴィヒ公国の独立を維持したうえでデンマーク王の同君連合状態)という立場を取った<ref name="望田(1972)149">[[#望田(1972)|望田(1972)]] p.149</ref>。

この問題はヴィルヘルム1世が政治路線をはっきり示した珍しいケースであったが<ref name="アイク(1995,3)41">[[#アイク(1995,3)|アイク(1995) 3巻]] p.41</ref>、結局ビスマルクに「列強と対立しないためにはロンドン議定書を守らねばならない」と口説き落とされた<ref name="アイク(1995,3)47">[[#アイク(1995,3)|アイク(1995) 3巻]] p.47</ref>。

プロイセンとオーストリアの主導でドイツ連邦議会はロンドン議定書を守らせるため三公国を強制執行することを決議した<ref name="アイク(1995,3)51">[[#アイク(1995,3)|アイク(1995) 3巻]] p.51</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)514">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.514</ref>。1864年2月より開始された[[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]([[:de:Deutsch-Dänischer Krieg|de]])でデンマークに勝利したプロイセンとオーストリアはロンドン議定書もアウグステンブルク公の統治も認めず、[[ガシュタイン条約]]によって三公国を併合した。ヴィルヘルム1世は自らが軍制改革で育て上げたプロイセン軍が[[ドゥッブル堡塁の戦い|デュッペル防塁攻略]]と[[アルス島|アルゼン島]]上陸に戦果をあげたことを大いに喜んだ<ref name="アイク(1995,3)126">[[#アイク(1995,3)|アイク(1995) 3巻]] p.126</ref>。ラウエンブルク(ガシュタイン条約でオーストリアが権利をプロイセンに売却)を正式に獲得した1865年9月15日にヴィルヘルム1世はその功績としてビスマルクに伯爵位を与えている<ref name="ガル(1988)430">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.430</ref>。

=== 普墺戦争 ===
シュレースヴィヒとホルシュタインの支配権をめぐってプロイセンとオーストリアの対立は深まった。ヴィルヘルム1世は英国女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]に仲裁を頼むなどオーストリアとの和解を希望していたが、ビスマルクにその意思はなかった。またビスマルクと同様にヴィルヘルム1世もシュレースヴィヒとホルシュタインの併合を断念する意思はなく、それが是認された上での和解を考えていたので、英国女王ヴィクトリアがこの併合を侵略と看做していた以上、ヴィルヘルム1世の希望通りの和解が成立する見込みはなかった<ref name="アイク(1996,4)63">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.63</ref>。

結局ヴィルヘルム1世は両公国に対する彼の主権がオーストリアによって妨害されているというビスマルクの言を信じて、1866年6月9日にプロイセン軍をホルシュタインへ進駐させた<ref name="アイク(1996,4)145">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.145</ref>。これによりオーストリア・バイエルンの主導でドイツ連邦軍を動員する決議がなされ、ビスマルクはプロイセンをドイツ連邦から脱退させた。それがきっかけとなって[[普墺戦争]]が勃発した<ref>[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.230-231</ref>。

戦況はケーニヒグレーツの戦いにプロイセン軍が勝利したことでプロイセン優位に傾いた。ヴィルヘルム1世は開戦前はオーストリアとの戦争に慎重だったが、ケーニヒグレーツの勝利に舞い上がって将校たちと同じようにウィーン入城を希望するようになっていた<ref name="望田(1979)133">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.133</ref>。しかしフランス皇帝ナポレオン3世が講和交渉を斡旋すると介入してきたためプロイセンも講和に入る必要に迫られた。その講和をめぐってヴィルヘルム1世とビスマルクは7月22日から[[ミクロフ|ニコルスブルク]]の大本営において鋭く対立した<ref name="エンゲルベルク(1996)574">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.574</ref>。

オーストリアはナポレオン3世を介して自国と最もオーストリアに忠実に戦った[[ザクセン王国]]の領土保全を休戦協定の条件として提示していた。しかしヴィルヘルム1世はザクセンがこの戦争の「主犯」と考えており、オーストリアとザクセンの領土を削減したがっていた<ref name="アイク(1996,4)180">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.180</ref><ref>[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.575-576</ref><ref name="ガル(1988)473">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.473</ref>。一方ビスマルクはオーストリアを将来にわたるまで敵としないため、オーストリアの要求を飲み、この二国の領土には手出しすべきではないと主張した<ref name="エンゲルベルク(1996)575">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.575</ref>。代わりに[[ビアリッツの密約]]でフランスが小ドイツ主義統一を行うことを許可していた北ドイツ敵国(ザクセン以外)に対して過酷な処置を行うべきであると主張し、ハノーファー王家やヘッセン選帝侯家などの君主家を廃絶しプロイセンに併合すべきと主張した<ref name="エンゲルベルク(1996)575"/>。しかしヴィルヘルム1世は[[正統主義]]の立場から君主家の廃絶を嫌がり<ref name="アイク(1996,4)181">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.181</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)576">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.576</ref><ref name="ガル(1988)474">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.474</ref>、また「主犯格」が「無罪放免」にされてハノーファーやヘッセン選帝侯国だけが併合されることに納得しなかった<ref name="ガル(1988)474"/>。これに対してビスマルクはオーストリアが納得できる条件でなければ第三国の介入なしには戦争を終結させられなくなると反論した<ref name="ガル(1988)474"/>。

この論争も激しかったらしく、皇太子フリードリヒによるとヴィルヘルム1世の部屋を退去したビスマルクはヴィルヘルム1世から受けた言葉に傷付いて皇太子の前で泣きだし、再びヴィルヘルム1世のもとへ参内することを恐れていたという<ref name="アイク(1996,4)183">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.183</ref>。皇太子もこの問題についてはビスマルクと同意見だったので、ビスマルクを慰めて二人でヴィルヘルム1世のもとへ参内して説得にあたった結果、ようやく7月24日にヴィルヘルム1世が折れたという<ref name="アイク(1996,4)183">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.183</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)577">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.577</ref><ref>[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.482-483</ref>。7月26日に[[ニコルスブルク仮条約]]が締結され、8月23日にプラハ本条約が締結され、普墺戦争は終結した<ref name="望田(1979)139">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.139</ref>。

それでも不満が残っていたヴィルヘルム1世はビスマルクの建白書の欄外に「軍隊と国家が期待して当然の物―つまりオーストリアからの莫大な賠償金と我々の主目的を危うくしない満足のいく新たな領土ーを敗者から獲得できないなら、勝者はウィーンの市門の前で熟していないリンゴをかじり、その審判を後世に委ねなければならない」と書きこんでいる<ref name="望田(1979)139"/><ref name="アイク(1996,4)184">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.184</ref>。

=== 北ドイツ連邦主席 ===
[[File:Wilhelm I Friedrich Ludwig.jpg|180px|thumb|right|1870年頃のヴィルヘルム1世]]
普墺戦争の勝利によりオーストリアが連邦議会議長国を務めていたドイツ連邦は解体され、1867年7月にプロイセン王が連邦主席(Bundespräsidium)を兼務する[[北ドイツ連邦]]が樹立された。この時からすでに連邦のトップは皇帝(Kaiser)にするべきという意見があったが、フランスとバイエルンへの配慮からビスマルクは連邦主席という無難な名前にした<ref name="アイク(1997,5)28">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.28</ref>。

しかし連邦主席の権力は強大であった。北ドイツ連邦憲法によれば連邦主席は北ドイツ連邦軍の統帥権を有し、プロイセンの軍事立法はすべての連邦加盟国にも適用されると定められていた。連邦に軍事に関する省庁は設置されず、プロイセンの軍事機関が北ドイツ連邦軍を支配下に置いていた。連邦の陸軍省が存在しないゆえに連邦主席の統帥権はプロイセン王としてのそれより強大であった<ref>[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.146-148</ref>。また連邦主席は公共の安全が脅かされていると判断した時は[[戒厳令]]を発する権限を有した<ref name="望田(1979)148">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.148</ref>。

この際にヴィルヘルム1世は憎き市民的な郷土軍を正規軍に従属する後備軍に編成替えし、軍隊から民主的な要素を消し去ることに成功した<ref>[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.148-149</ref>。

=== スペイン王位継承問題 ===
1868年9月に[[スペイン君主一覧|スペイン女王]][[イサベル2世 (スペイン女王)|イザベル2世]]が[[フアン・プリム]]将軍らスペイン軍部のクーデタにより王位を追われ、プリム将軍らは次のスペイン王の選定を開始した。ホーエンツォレルン家の分家である[[ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家|ジグマリンゲン家]]のカール・アントン侯(「新時代」期のプロイセン宰相)の息子[[レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン|レオポルト]]が候補者として浮上した<ref>[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.130-132</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)665">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.665</ref><ref>[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.540-541</ref>。

他のスペイン王候補がダメになり、1870年2月26日にスペイン[[枢密顧問官]][[エウセビオ・デ・サラザール]](Eusebio de Salazar)がレオポルトのスペイン王立候補を要請するカール・アントン侯宛ての公的・秘密裏の手紙をもって訪普したことでレオポルトのスペイン王即位の話がいよいよ現実課題になった<ref name="エンゲルベルク(1996)666">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.666</ref><ref name="アイク(1997,5)139">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.139</ref>。カール・アントン侯は「個人的には反対だが、政治的な問題なので陛下とビスマルクに判断をお任せする」という手紙をヴィルヘルム1世とビスマルクに宛てて送った<ref name="アイク(1997,5)139">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.139</ref>。

ヴィルヘルム1世は慎重だったが、ビスマルクは彼にハプスブルク家のスペイン王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]のことを思い起こさせ、もしホーエンツォレルン家がスペイン王冠を継げば、ホーエンツォレルン家はハプスブルク家に匹敵する高い世俗的地位を得ると述べて説得にあたった<ref name="アイク(1997,5)140">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.140</ref>。ヴィルヘルム1世はなおもしばらく反対し続けたが、結局5月24日になってホーエンツォレルン家の者が他国の王位を継ぐことになったとしても止めないとビスマルクに言明を与えるに至った<ref name="アイク(1997,5)143">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.143</ref>。

ビスマルクとプリムはフランスに既成事実だけを突き付けようと秘密裏にレオポルトのスペイン王即位の計画を進めたが、スペイン側の手違いで漏えいし、7月2日にはフランス・パリの新聞に掲載された<ref name="アイク(1997,5)143">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.143</ref>。対プロイセン強硬派のフランス外相[[アジェノール・ド・グラモン]]([[:fr:Agénor de Gramont (1819-1880)|fr]])伯爵は[[フランス下院]]でいかなる手段を持ってもこれを阻止することを宣言した<ref name="ガル(1988)558">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.558</ref>。

ヴィルヘルム1世はフランスの強硬姿勢を危惧したが、国王である自分が他国の顔色をうかがうためにレオポルトに立候補を辞めるよう命じるのは王としてのプライドが許さず、レオポルト自らが立候補を辞退することを希望した。ビスマルクに独断で[[ジグマリンゲン]]に使者を送り、その旨をカール・アントン侯に伝えた。これを受けて7月12日にカール・アントン侯はレオポルトが立候補を断念した旨を発表した<ref>[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.155-156</ref><ref name="ガル(1988)561">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.561</ref>。

=== エムス電報事件 ===
[[File:WilhelmIBenedetti.jpg|250px|thumb|right|1870年7月13日、[[バート・エムス]]の散歩道。ヴィルヘルム1世(左)と駐独フランス大使[[ヴァンサン・ベネデッティ]](右)。[[普仏戦争]]の原因となる[[エムス電報事件]]のきっかけとなった会談の様子。]]
ヴィルヘルム1世はこれで危機は収束すると思っていたが、フランス国内はそれだけでは満足しなかった。ナポレオン3世もヴィルヘルム1世本人からレオポルトのスペイン王立候補への反対、また将来にわたっても立候補をさせないという言質を取らねばならないと考えて、駐プロイセン・フランス大使[[ヴァンサン・ベネデッティ]]([[:fr:Vincent Benedetti|fr]])をヴィルヘルム1世が保養中だった[[バート・エムス]]へ派遣した<ref name="アイク(1997,5)160">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.160</ref>。

ベネデッティは7月13日朝、バート・エムスの散歩道を歩くヴィルヘルム1世に随伴して会談を行い、レオポルト立候補中止を明確に宣言すること、レオポルト立候補に承諾を与えた行為はフランス国民の利益と名誉を害しようという意図で行ったものではなかったと宣言すること、再びレオポルトが立候補する場合には反対すると明言することを求めた。ヴィルヘルム1世は「すでにアントン侯が彼の息子が立候補を断念したことを確認している。私は以前に彼の立候補を承諾した時と同じ意味、同じ規模でそれを承諾する」とだけ述べて、フランスに何か弁解的な宣言を出すことは拒否した<ref name="アイク(1997,5)162">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.162</ref><ref>[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.561-562</ref>。そして後に侍従を通して現時点の情報でベネデッティに言う事はないとしてこれ以上の引見は拒否した<ref name="アイク(1997,5)163">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.163</ref><ref name="ガル(1988)562">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.562</ref>。

そしてこの経緯を電報でビスマルクに伝えさせ、それを公表すべきか否か、公表する場合どのように公表するかの判断を彼に一任した<ref name="アイク(1997,5)162">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.162</ref><ref name="ガル(1988)562">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.562</ref>。ビスマルクは「フランス大使はエムスで陛下に対してホーエンツォレルン家が改めてスペイン王に立候補する場合、将来にわたって二度とそれを承諾しないと宣言することを求めた。その後陛下はフランス大使を引見されることを拒否され、侍従を通してこれ以上何も言う事はないとフランス大使に伝えられた。」と発表した。「これ以上何も言う事はない」の意味を簡略化して伝えることで「交渉の余地はない」という意味かのようにすり替えていた<ref name="アイク(1997,5)164">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.164</ref><ref name="ガル(1988)562">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.562</ref>。

ビスマルクの発表した電報をみたヴィルヘルム1世は「これでは戦争になるぞ」と叫んだという<ref name="アイク(1997,5)164"/>。
{{-}}
=== 普仏戦争 ===
[[File:Emil Volkers Wilhelm I auf dem Weg zur Frontinspektion 1872.jpg|250px|thumb|right|宰相ビスマルク、参謀総長モルトケ、陸軍大臣ローンらを引き連れて前線視察するヴィルヘルム1世]]
[[メキシコ出兵]]の失敗でそれでなくとも政治基盤が不安定になっていたナポレオン3世とその政府はこのような電報を発表されては宣戦布告以外に政治的に延命できる可能性はなかった<ref>[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.562-563</ref>。フランスは7月14日にも動員に入り、7月19日にはプロイセンに宣戦布告した<ref>[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.562-563</ref>。普段反プロイセン的な南ドイツ諸邦国でドイツ・ナショナリズムが爆発し、プロイセンを支持する世論が圧倒的となり、普墺戦争後にプロイセンと結んだ攻守同盟に基づいてプロイセン王の指揮下に軍を送ってきた<ref name="ガル(1988)563">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.563</ref>。フランスを宣戦布告者に仕立て上げることで国際的な批判をフランスへ向かわせ、ドイツ・ナショナリズムを爆発させて南ドイツ諸邦国をプロイセンに取り込んで小ドイツ主義統一を行うというビスマルクの思惑通りの展開となった。

7月31日にヴィルヘルム1世はビスマルクを伴って[[マインツ]]の大本営に入り、そこから全ドイツ軍の指揮をとった<ref name="アイク(1997,5)191">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.191</ref>。フランス側は北ドイツ連邦軍と南ドイツ諸邦国軍の分裂状態を内心期待していたが、無駄であった。ドイツ各邦国軍はドイツ・ナショナリズムによってヴィルヘルム1世の指揮下にしっかりと結合されていた<ref name="望田(1979)171">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.171</ref>。

8月2日に両軍がはじめて軍事衝突した<ref name="望田(1979)171"/>。8月11日にはじめてフランス領へ入ったヴィルヘルム1世は「私は兵士に対して戦争を行っているのであり、フランス市民に対してではない」と宣言した<ref name="アイク(1997,5)221">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.221</ref>。戦闘は緒戦からドイツ軍優位に進み、9月1日の[[セダンの戦い]]の勝利でナポレオン3世と8万7000のフランス将兵を捕虜にした<ref>[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.174-175</ref>。9月2日朝にまずビスマルクとナポレオン3世が会談した後、ナポレオン3世は馬車でヴィルヘルム1世の下へ移送された。その後彼は[[カッセル]]に幽閉された<ref name="前田(2009)298">[[#前田(2009)|前田靖一(2009)]] p.298</ref>。

ナポレオン3世が捕虜になったことでパリで革命が発生して[[フランス第二帝政]]は崩壊し、共和政の臨時政府が誕生した。フランス臨時政府はビスマルクの要求した[[アルザス=ロレーヌ]]地方の割譲を拒否したため、ナポレオン3世が捕虜となった後も戦争は続行され、ドイツ軍は9月19日にはパリを包囲した<ref name="望田(1979)175">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.175</ref>。[[ヴェルサイユ]]に大本営が移され、ここでビスマルクはドイツ各邦国代表と戦後のドイツ統一に向けた交渉を行ったが、バイエルン王国には大きな自治権を認めざるをえなかった。軍事に一家言あるヴィルヘルム1世は、バイエルン軍への彼の指揮権が平時には査閲権に落ちることに最も反発していたが、結局しぶしぶ認めた<ref name="アイク(1997,5)238">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.238</ref>。またこの交渉で新たな国名は「連邦」ではなく「[[ドイツ帝国]](Deutsches Reich)」、またその盟主は「連邦主席(Bundespräsidium)」ではなく「[[ドイツ皇帝]](Deutscher Kaiser)」とすることが決まった<ref name="成瀬(1996,2)389">[[#成瀬(1996,2)|成瀬・山田・木村(1996) 2巻]] p.389</ref><ref>[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.583-584</ref>。皇帝即位宣言は出征軍統領選出制度{{#tag:ref|古代ゲルマン民族や中世ドイツでは共同して出征する場合に統領を選出していた<ref name="ヴェーラー(1983)95">[[#ヴェーラー(1983)|ヴェーラー(1983)]] p.95</ref>。|group=#}}などの先例に倣って敵地の[[ヴェルサイユ宮殿]]で行われることとなった。

{{Gallery
|File:Adolph von Menzel - William I Departs for the Front, July 31, 1870 - WGA15056.jpg|1870年7月31日、カッセルの大本営へ向けて出発するヴィルヘルム1世にエールを贈るベルリン市民を描いた絵画([[アドルフ・メンツェル]]([[:de:Adolph Menzel|de]])画)
|File:Battle of Sedan - Surrender of Napoleon III.jpg|[[セダンの戦い]]勝利後。捕虜になったフランス皇帝ナポレオン3世と会見するヴィルヘルム1世を描いた絵([[ジョージ・シュレーゲル]]([[:en:George Schlegel|en]])画)
|File:German Headquarters in Versailles. 1870 .jpg|[[ヴェルサイユ]]に置かれたドイツ軍司令部を描いた絵。中央左に座っているのがヴィルヘルム1世。テーブルを囲う順に右隣から王太子フリードリヒ、宰相ヴィルヘルム、陸相ローン、参謀総長モルトケ([[アントン・フォン・ヴェルナー]]([[:de:Anton von Werner|de]])画)
}}

=== ドイツ皇帝即位 ===
[[File:Proclamation of the Empire.jpg|thumb|right|250px|フランス、ヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツ皇帝即位を布告するヴィルヘルム1世]]
1871年1月18日に[[ヴェルサイユ宮殿]]鏡の間で諸侯や軍人たちが集まる中、ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝に即位した<ref name="エンゲルベルク(1996)704">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.704</ref>。

しかしそもそもヴィルヘルム1世は皇帝位につくことを嫌がっていた。プロイセンがドイツに吸収されると恐れていたためである。彼は1870年9月にドイツの帝冠を「汚冠」と表現し、そのような物を「栄光あるプロイセン王冠」と交換するつもりはないことを明言した<ref name="アイク(1997,5)250">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.250</ref>。

またもし皇帝位を受けるとしても1849年の時のようにドイツ帝国議会の選出によって帝冠を受けたくなかった。王権神授説の信条から帝冠は王侯たちから推戴されて受けることを希望していた。この点についてはビスマルクも異論はなかった(ビスマルクの場合は王権神授説への拘りというより帝国議会の力が巨大化することを恐れたからであったが)<ref name="アイク(1997,5)239">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.239</ref>。ビスマルクは[[バイエルン王国]]と交渉を進め、バイエルン王[[ルートヴィヒ2世]]が推戴者になるよう取り計らった。これについてヴィルヘルム1世は正統性の形式が保たれることを喜んだ<ref name="アイク(1997,5)248">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.248</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)704">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.704</ref>。

さらに皇帝即位の前日になってヴィルヘルム1世は皇帝の正式名称について「ドイツ皇帝(Deutscher Kaiser)」ではなく、「ドイツラントの皇帝(Kaiser von Deutschland)」とすることを望んだ<ref name="ガル(1988)584">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.584</ref><ref name="ハフナー(2000)268">[[#ハフナー(2000)|ハフナー(2000)]] p.268</ref>。ドイツという修飾語がプロイセンを吸収しているように感じたためであった<ref name="エンゲルベルク(1996)705">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.705</ref>。だが今更変更するわけにもいかず、ビスマルクがヴィルヘルム1世の説得にあたった。ヴィルヘルム1世は泣きながら拳をテーブルに叩きつけ、「そんなことはフリッツ(王太子フリードリヒ)にやらせろ。彼なら誠心誠意その役職をやり遂げるだろう。私はごめんだ。私はプロイセンに留まる」と述べて退位さえ口にした<ref name="アイク(1997,5)249">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.249</ref><ref name="ハフナー(2000)268">[[#ハフナー(2000)|ハフナー(2000)]] p.268</ref>。結局ヴィルヘルム1世が譲歩する羽目になったが、彼は涙を流しながら「明日は我が生涯でもっとも不幸な日だ。プロイセン王国を墓に葬るのだから」と述べた<ref name="ハフナー(2000)268">[[#ハフナー(2000)|ハフナー(2000)]] p.268</ref>。

ヴィルヘルム1世はこの件でビスマルクに強い怒りを感じ、皇帝即位宣言式でもビスマルクに一言も声をかけなかった<ref name="アイク(1997,5)249">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.249</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)706">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.706</ref>。

=== 皇帝として ===
[[File:LenbachWilhelmI.jpg|thumb|right|180px|晩年のヴィルヘルム1世の肖像画([[フランツ・フォン・レンバッハ]]([[:de:Franz von Lenbach|de]])画]]
ドイツ統一を成し遂げたヴィルヘルム1世の人気は不動のものとなり、民族的英雄バルバロッサ(赤髭王)になぞらえて「バルバブランツァ」(Barbablanca:白髭王)と呼ばれるほどだった。1871年3月にビスマルクに褒賞として侯爵位とラウエンブルクに莫大な所領を与えた<ref>[[#アイク(1998,6)|アイク(1998) 6巻]] p.14-15</ref>。モルトケには普仏戦争中に戦功により伯爵位を与えており、1871年6月に元帥位を贈った<ref name="大橋(1984)241">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]] p.241</ref>。

プロイセン王は「プロイセン領邦教会首長」でもあるが、ヴィルヘルム1世はこれを自由主義思想が[[プロテスタント教会]]に入りこんでこないよう守るための地位と心得ていた。[[文化闘争]]については、それが[[カトリック]]への改革・弾圧に留まる限り理解を示したが、プロテスタントにも影響する場合は許さず、文化闘争の指揮を執った文相[[アダルベルト・ファルク]]([[:de:Adalbert Falk|de]])はヴィルヘルム1世の説得に苦労した<ref name="アイク(1998,6)113">[[#アイク(1998,6)|アイク(1998) 6巻]] p.113</ref>。

ヴィルヘルム1世は息子である皇太子フリードリヒと皇太子妃[[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]]の自由主義者ぶりを警戒し、しばしば彼らの長男ヴィルヘルム皇子(後の[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]])の教育に干渉した<ref name="アイク(1998,6)114">[[#アイク(1998,6)|アイク(1998) 6巻]] p.114</ref>。ヴィルヘルム皇子は近衛将校団に囲まれて保守的に育っており、ヴィルヘルム1世としても期待するところが大であった<ref name="アイク(1999,8)83">[[#アイク(1999,8)|アイク(1999) 8巻]] p.83</ref>。
{{Gallery
|File:MenzelCerde beiKaiserWilhelmI1879.jpg|1879年、パーティーの席上でのヴィルヘルム1世を描いた絵画(アドルフ・メンツェル画)
|File:Grundsteinlegung Reichstag.jpg|1884年6月1日、帝国議会議事堂の起工式に出席するヴィルヘルム1世
}}
=== 暗殺未遂事件と社会主義者鎮圧法 ===
1878年に2度ヴィルヘルム1世の暗殺未遂事件が発生し、ビスマルクによって[[社会主義者鎮圧法]]制定に利用された。

最初の暗殺未遂事件は1878年5月11日に発生した。ヴィルヘルム1世が娘の[[ルイーゼ・フォン・プロイセン (1838-1923)|ルイーゼ]](バーデン大公妃)とともにオープンカーで[[ウンター・デン・リンデン]]通りを通過中に21歳のブリキ職人[[マックス・ヘーデル]]([[:de:Max Hödel|de]])が2発発砲したが、誰にも当たらなかった。そもそも本当に皇帝を狙ったのかさえ不明で少なくともヴィルヘルム1世やルイーゼはそういう印象は受けなかったという<ref name="アイク(1998,6)209">[[#アイク(1998,6)|アイク(1998) 6巻]] p.209</ref>。このへーデルはかつて[[ドイツ社会主義労働者党]]の党員だった<ref name="尾鍋(1968)40">[[#尾鍋(1968)|尾鍋(1968)]] p.40</ref>。ビスマルクはこの犯人を社会主義労働者党に結び付けて、社会主義者弾圧に利用することとし、事件直後に社会主義者鎮圧法案を帝国議会に提案したが、議会多数派の[[国民自由党]]が例外法に反対するのを原則としていたため、5月21日に法案は否決された<ref>[[#アイク(1998,6)|アイク(1998) 6巻]] p.211-212</ref>。

二度目の暗殺未遂事件は6月2日に発生した。ヴィルヘルム1世がウンター・デン・リンデン通りを馬車で散策していると統計事務所で働く[[カール・エドゥアルト・ノビリンク]]博士([[:de:Karl Eduard Nobiling|de]])が鹿狩り用の[[散弾銃]]を皇帝に向けて発射し、命中させた<ref name="アイク(1998,6)214">[[#アイク(1998,6)|アイク(1998) 6巻]] p.214</ref><ref name="前田靖一(2009)391">[[#前田靖一(2009)|前田靖一(2009)]] p.391</ref>。皇帝の出血は激しく、すぐに宮殿へと運ばれた。その後皇帝は数日間危篤状態になっていたが、なんとか蘇生して5か月の入院生活を送った<ref>[[#前田靖一(2009)|前田靖一(2009)]] p.391-392</ref>。犯人のノビリンクは逮捕される直前に自分の頭に銃を撃ち込んだ。即死はしなかったが、取り調べ不可能な状態になり、9月にはこの傷がもとで獄中死した。特定の政治思想に熱を入れていた傾向もなく、売名欲の模倣犯ではないかと言われた<ref name="アイク(1998,6)215">[[#アイク(1998,6)|アイク(1998) 6巻]] p.215</ref><ref name="尾鍋(1968)42">[[#尾鍋(1968)|尾鍋(1968)]] p.42</ref>。

ビスマルクはこの二度目の皇帝暗殺未遂事件の報告を受けると「それなら帝国議会は解散だ」と宣言し、その後になって皇帝の容体を気にしたという<ref name="アイク(1998,6)216">[[#アイク(1998,6)|アイク(1998) 6巻]] p.216</ref><ref>[[#尾鍋(1968)|尾鍋(1968)]] p.42-43</ref>。皇太子フリードリヒは訪英中だったが、事件を聞いて急遽帰国した。ビスマルクは議会の解散に反対するフリードリヒを摂政に就任させないために1857年の時のように「国王代理」に任ずる旨の勅書を出させた。フリードリヒには不満があったが、結局「国王代理」を引き受けた<ref name="アイク(1998,6)218">[[#アイク(1998,6)|アイク(1998) 6巻]] p.218</ref>。

御用新聞が二人の暗殺犯を社会主義運動に結び付けて、社会主義への恐怖を煽った結果、解散選挙は保守政党が勝利した<ref name="アイク(1998,6)220">[[#アイク(1998,6)|アイク(1998) 6巻]] p.220</ref>。選挙後、保守政党と「帝国の敵」のレッテル貼りを恐れた国民自由党の賛成で[[社会主義者鎮圧法]]が可決されるに至った<ref name="ガル(1988)743">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.743</ref><ref name="成瀬(1996,2)442">[[#成瀬(1996,2)|成瀬・山田・木村(1996) 2巻]] p.442</ref>。

=== 崩御 ===
1888年3月9日、ヴィルヘルム1世は91歳を目前にして崩御した<ref>[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.896-897</ref>。後を継いだ[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]も[[喉頭癌]]に侵されており、わずか99日で崩御しており、皇位は[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]に受け継がれた。ヴィルヘルム1世の崩御後、彼の葬られた[[ベルリン大聖堂]]には約20万人もの臣下たちが弔問に訪れた。

{{Gallery
|File:WilhelmITotenbett.jpg|ヴィルヘルム1世の崩御を描いた絵画。左から参謀総長モルトケ、ビスマルク、バーデン大公フリードリヒ1世の娘でスウェーデン王妃の[[ヴィクトリア・フォン・バーデン|ヴィクトリア]]、[[フリードリヒ1世 (バーデン大公)|バーデン大公フリードリヒ1世]]、[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム皇子]](アントン・フォン・ヴェルナー画)
|File:Die Gartenlaube (1888) b 216.jpg|ヴィルヘルム1世の棺の葬列を描いた絵(『Die Gartenlaube』誌の挿絵)
|File:Berlin.Dom 072.jpg|[[ベルリン大聖堂]]に安置されるヴィルヘルム1世の遺体を描いた絵([[ヴィルヘルム・パペ]]([[:en:William Pape|en]]画)
}}

== 顕彰 ==
崩御後、ドイツ各地に数多くのヴィルヘルム1世像が建立された。多くは騎馬像である。[[キフホイザー記念碑]]([[:de:Kyffhäuserdenkmal|de]])や[[ポルタ・ヴェストファーリカ]]の[[ヴィルヘルム皇帝記念碑 (ポルタ・ヴェストファーリカ)|ヴィルヘルム皇帝記念碑]]([[:de:Kaiser-Wilhelm-Denkmal an der Porta Westfalica|de]])、[[コブレンツ]]の[[ドイチェス・エック]]([[:de:Deutsches Eck|de]])、かつてベルリンにあった[[ヴィルヘルム皇帝国民記念碑]]([[:de:Kaiser-Wilhelm-Nationaldenkmal|de]])([[東ドイツ]]の社会主義政権に破壊されて現存しない)などの銅像が著名である<ref name="LeMO"/>。
{{Gallery
|File:Kyffhaeuser Wilhelm.JPG|キフホイザー記念碑の像
|File:Porta Westfalica, 2009-Nov 104.jpg|ポルタ・ヴェストファーリカのヴィルヘルム皇帝記念碑の像
|File:Deutsches Eck 2008a.jpg|コブレンツのドイチェス・エックの像
|File:Berlin Nationaldenkmal Kaiser Wilhelm 1900.jpg|1900年のベルリン。ヴィルヘルム皇帝国民記念碑。
}}

== 人物 ==
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1970-077-18, Kaiser Wilhelm I..jpg|thumb|right|180px|1884年のヴィルヘルム1世]]
宰相ビスマルクに行政のほとんど全てを委ねたようにヴィルヘルム1世は主体的に政治を行う事は少なかった。ビスマルクは「国王が身を入れて何かやりだすのは、反対された場合に限る」と語っている<ref name="アイク(1996,4)33">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.33</ref>。しかしヴィルヘルム1世は宰相からの助言であってもそれが納得できぬ説明であれば、徹底的に検討しなければ受け入れようとはしなかった。それは自身の良心への忠実さ、真剣な態度の証左であり、その態度によって広く尊敬された<ref name="アイク(1994,2)35">[[#アイク(1994,2)|アイク(1994) 2巻]] p.35</ref>。

また軍人気質の騎士的心情の持ち主であり、嘘をつく事が出来ず、約束を破ることができず、一度決断したなら揺らぐことがなかった<ref name="渡部(2009)166">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]] p.166</ref>。それについてビスマルクは「御老体の腰をあげさせるのは難しいことだったが、一度彼から支持を得れば彼はそれを守り通した。誠実で正直で信頼のできる人物だった。」と語っている<ref name="ガル(1988)310">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.310</ref>。

信条として王権神授説を信奉していたが、他人に対する気遣いを忘れない謙虚な人物であった。彼は自室に絨毯を敷かせて自分の足音が響かないようにしていた<ref name="アイク(1994,2)34">[[#アイク(1994,2)|アイク(1994) 2巻]] p.34</ref>。またエムス電報事件の記念碑をいつも避けていた。それは自分の一人の力で成し遂げたことではないことを自戒するためだったという<ref name="アイク(1994,2)34">[[#アイク(1994,2)|アイク(1994) 2巻]] p.34</ref>。ビスマルクやモルトケの名声が自分のそれを上回ることを恐れたり、妬んだりするようなこともなかった<ref>[[#アイク(1994,2)|アイク(1994) 2巻]] p.34-35</ref>。ナポレオン3世を捕虜にした[[セダンの戦い]]の戦勝祝賀パーティーでも「ローンが剣を研いで準備し、モルトケがこの剣を振るい、ビスマルクは外交で他国の干渉を防いでプロイセンを今日の勝利に導いた」と自分の功績ではなく3人の功績であることを演説している<ref name="渡部(2009)166">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]] p.166</ref>。

前述したように軍隊を革命から王権を守れる唯一の物と考えていたため軍隊を何よりも愛した。「軍と国家」という軍を国家に優先させる表現を好んで使用したことにもそれが表れている<ref name="アイク(1996,4)184"/>。
{{-}}
== ビスマルクとの関係 ==
[[File:30 f. Вильгельм I и Бисмарк.jpg|180px|thumb|right|ヴィルヘルム1世とビスマルク]]
ヴィルヘルム1世は1862年9月23日にビスマルクをプロイセン宰相に任じて以来、1888年3月9日の崩御まで25年以上にわたってビスマルクを宰相として重用し続けた。しかし二人は人間的に惹きあうところはなかった。ビスマルクを宰相に任命した直後にヴィルヘルム1世は「この男は私には不気味だ。心の内に反発の念を抱かせる」と語っていた<ref name="ハフナー(2000)241">[[#ハフナー(2000)|ハフナー(2000)]] p.241</ref>。後世にもヴィルヘルム1世は「このような宰相の許で皇帝であるのはたやすいことではない」と語っている<ref name="アイク(1998,6)24">[[#アイク(1998,6)|アイク(1998) 6巻]] p.24</ref><ref name="加納(2001)98">[[#加納(2001)|加納(2001)]] p.98</ref>。それでもヴィルヘルム1世はビスマルクを「帝国にとって私よりも重要な人物である」と認め<ref name="アイク(1998,6)24">[[#アイク(1998,6)|アイク(1998) 6巻]] p.24</ref>、ビスマルクの幾度もの辞職願いを「宰相は余人を持って代えがたい」として却下し続けた<ref name="加納(2001)98"/>。

[[イギリス外相]][[第4代クラレンドン伯爵ジョージ・ヴィリーズ]]([[:en:George Villiers, 4th Earl of Clarendon|en]])はヴィルヘルム1世をビスマルクの操り人形と看做して、「国王ビスマルク1世」などというジョークを飛ばしている<ref name="ハフナー(2000)240">[[#ハフナー(2000)|ハフナー(2000)]] p.240</ref>。だが孫のヴィルヘルム2世がビスマルクを簡単に辞職させたようにヴィルヘルム1世もその気になればいつでもビスマルクを罷免できた<ref name="ハフナー(2000)242">[[#ハフナー(2000)|ハフナー(2000)]] p.242</ref>。クリスティアン・ハフナーは「ビスマルクはヴィルヘルム1世から常に必要とされるべく危機を煽り、危機を解決し、成功し続けなければならなかった」と評価している<ref name="ハフナー(2000)242">[[#ハフナー(2000)|ハフナー(2000)]] p.242</ref>。

また軍事に関してはヴィルヘルム1世は常に自ら主導権を握ろうとし<ref name="デアゴスティーニ(2004)15">[[#デアゴスティーニ(2004)|デアゴスティーニ・ジャパン(2004)]] p.15</ref>、ビスマルクが軍事にでしゃばってくることを好まなかった<ref name="アイク(1997,5)218">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.218</ref>。軍制改革はヴィルヘルム1世の指導下に断行されたものである。参謀のもとに軍隊指揮権を置くというプロイセン軍のやり方もヴィルヘルム1世によって確立された。参謀総長[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ|モルトケ]]の任用もヴィルヘルム1世の功績である。ヴィルヘルム1世の軍制改革がなければビスマルクがあれほど軍事的に成功することは難しかったともいわれる<ref name="ハフナー(2000)241">[[#ハフナー(2000)|ハフナー(2000)]] p.241</ref>。

ただ晩年には老衰で自主性が衰えていき、ビスマルクにとって便利な存在と化していったことも否めなかった<ref name="アイク(1999,8)77">[[#アイク(1999,8)|アイク(1999) 8巻]] p.77</ref>。
{{Gallery
|File:Dame Europa Page 15.png|ヴィルヘルム1世とビスマルクの[[カリカチュア]]([[トーマス・ネスト]]([[:en:Thomas Nast|en]])画)
}}

{{-}}
== 日本との関係 ==
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1998-028-13A, Kaiser Wilhelm I..jpg|180px|thumb|right|背広姿のヴィルヘルム1世]]
=== 伊藤博文ヘの忠告 ===
伊藤博文は[[明治]]15年([[1882年]])に近代憲法の研究のためドイツに滞在し、同年8月28日にヴィルヘルム1世から陪食を許された。かつて軍制改革の予算をめぐってプロイセン下院と対立した苦い経験のあるヴィルヘルム1世はこの席上で「[[明治天皇|日本天子]]の為めに、国会の開かるるを賀せず。」「其権([[予算審議権]])を国会に譲れば、内乱の基と知るべし」と述べて、議会は開かない方がよいこと、開いたとしても議会に予算審議権を認めてはならないことを力説した。これは伊藤にとっては「意外の言」であったという<ref name="伊藤(2004)44">[[#伊藤(2004)|伊藤(2004)]] p.44</ref>。

しかし伊藤は議会制導入をためらう兆しを見せなかった。伊藤の考えるところでは国民なき国制のもとでは階級や民族やイデオロギーで引き裂かれて議会政治は機能しないが、国民精神の支柱が存在すれば機能し、日本には国民統合の支柱となる天皇が存在するため議会政治を根付かせることができるのであった。また議会は不安定な存在だが、議会が破たんした時に立憲君主が外から高権的に救済できる制度があれば無問題と考えていた(こうした伊藤の天皇感は恐らくヴィルヘルム1世よりもオーストリア=ハンガリー皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]を投影したものと考えられる。彼は他民族国家の皇帝でありながら絶大な国民の敬愛を集めていた)<ref name="伊藤(2004)54">[[#伊藤(2004)|伊藤(2004)]] p.54</ref>。

=== 宮古島に記念碑贈呈 ===
{{See also|宮古島#ドイツ商船遭難事件}}
{{See also|宮古島#ドイツ商船遭難事件}}
[[1873年]][[7月9日]]、[[宮古島]]の旧[[上野村 (沖縄県)|上野村]](現[[沖縄県]][[宮古島市]])沖に、ドイツ[[船#商船|商船]]R・J・ロベルトソン号が[[台風]]のため[[座礁]]した。島の[[役人]]と島民が生存者8人を救出し、その後世話と看病をし続けた。そしてドツに帰国た[[船長]]は、その一連の出来事[[新聞]]に公表たところ、反響を呼んだ。それを知った皇帝も深く感銘を受け、[[1876年]]、[[軍艦]]宮古島に派遣し、感謝の[[石碑]]を建立した
[[明治]]6年([[1873年]][[7月9日]]、[[宮古島]]の旧[[上野村 (沖縄県)|上野村]](現[[沖縄県]][[宮古島市]])沖に、ドイツ[[船#商船|商船]]R・J・ロベルトソン号が[[台風]]のため[[座礁]]した。島の[[役人]]と島民がエドワルド・ヘルンツハイム船長以下生存者8人を救出し、その後世話と看病をし続けた。ヘルンツハム船長らは帰国途中に立ち寄った[[香港]]でドイツ領事にその報告し、[[ハンブルク]]帝国宰相官房経て皇帝ヴィルヘルム1世耳に入った<ref name="九頭見(2002)33">[[#九頭見(2002)|九頭見(2002)]] p.33</ref>

宮古島島民の行動に感動したヴィルヘルム1世は感謝の意を示すため、事件の経緯を記した「ドイツ皇帝博愛記念碑」と金銀[[懐中時計]]4個、[[望遠鏡]]4本を同島に贈ることに決め、明治9年([[1876年]])3月に東アジアに駐屯しているドイツ軍艦チクロープ号にこれを宮古島へ持って行かせた。[[平良港]]近くの高台に記念碑が建てられ、3月22日にその[[除幕式]]が行われた<ref name="九頭見(2002)33"/>。

この石碑はその後宮古島の島民にも忘れ去られていった。しかし[[昭和]]4年([[1929年]])に日本銀行那覇支店長がこの石碑を発見し、顕彰運動を起こし、昭和8年([[1933年]])に文部省が国定教科書の教材を募集していたところ、この石碑の件が一等に輝いたという。昭和11年([[1936年]])11月、[[日独防共協定]]へ向けて日独友好関係が深まる中、「ドイツ皇帝博愛記念碑60周年記念式典」がドイツ大使館員も出席の上で盛大に行われた。この際に[[上野村 (沖縄県)|上野村]]にも「独逸商船遭難之地」の石碑が建てられた<ref name="九頭見(2002)36">[[#九頭見(2002)|九頭見(2002)]] p.36</ref>。

昭和47年([[1972年]])11月に[[沖縄復帰]]に際してロベルトソン号救助事件100周年を記念して「博愛記念祭」が開催された。[[平成]]12年([[2000年]])には[[九州・沖縄サミット]]に出席したドイツ首相[[ゲルハルト・シュレーダー]]がロベルトソン号救助事件を記念して[[うえのドイツ文化村]]を訪問した<ref name="九頭見(2002)36">[[#九頭見(2002)|九頭見(2002)]] p.36</ref>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist|group=#|1}}
=== 出典 ===
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|4}}</div>

== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[エーリッヒ・アイク]]([[:de:Erich Eyck|de]])|translator=[[救仁郷繁]]|year={{Jdate|1993}}|title=ビスマルク伝 1|publisher=[[ぺりかん社]]|isbn=978-4831506023|ref=アイク(1993,1)}}
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=救仁郷繁|year={{Jdate|1994}}|title=ビスマルク伝 2|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831506559|ref=アイク(1994,2)}}
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=救仁郷繁|year={{Jdate|1995}}|title=ビスマルク伝 3|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831506832|ref=アイク(1995,3)}}
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=救仁郷繁|year={{Jdate|1996}}|title=ビスマルク伝 4|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831507235|ref=アイク(1996,4)}}
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=救仁郷繁|year={{Jdate|1997}}|title=ビスマルク伝 5|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831507440|ref=アイク(1997,5)}}
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=救仁郷繁|year={{Jdate|1998}}|title=ビスマルク伝 6|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831508317|ref=アイク(1998,6)}}
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=救仁郷繁|year={{Jdate|1999}}|title=ビスマルク伝 7|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831508430|ref=アイク(1999,7)}}
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=救仁郷繁|year={{Jdate|1999}}|title=ビスマルク伝 8|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831508867|ref=アイク(1999,8)}}
*{{Cite book|和書|author=[[伊藤之雄]] (編)、[[川田稔]](編)|year={{Jdate|2004}}|title=二〇世紀日本の天皇と君主制―国際比較の視点から一八六七~一九四七|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642037624|ref=伊藤(2004)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ハンス=ウルリヒ・ヴェーラー]]([[:de:Hans-Ulrich Wehler|de]])|translator=[[大野英二]]、[[肥前栄一]]|year={{Jdate|1983}}|title=ドイツ帝国1871‐1918年|publisher=[[未来社]]|isbn=978-4624110666|ref=ヴェーラー(1983)}}
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*{{Cite book|和書|author=[[尾鍋輝彦]]|year={{Jdate|1968}}|title=大世界史〈第19〉カイゼルの髭|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4887214279|ref=尾鍋(1968)}}
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*{{Cite book|和書|author=[[望田幸男]]|year={{Jdate|1972}}|title=近代ドイツの政治構造―プロイセン憲法紛争史研究|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|asin=B000J9HK4G|ref=望田(1972)}}
*{{Cite book|和書|author=望田幸男|year={{Jdate|1979}}|title=ドイツ統一戦争―ビスマルクとモルトケ|publisher=[[教育社]]|asin=B000J8DUZ0|ref=望田(1979)}}
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commons|Wilhelm I., Deutscher Kaiser}}
{{Commons|Wilhelm I., Deutscher Kaiser|ヴィルヘルム1世}}
{{Wikisourcelang|de|Wilhelm I. (Deutsches Reich)|ヴィルヘルム1世}}
*[[ボナパルティズム]]
*[[ドイツ皇帝]]
*[[ドイツ統一]]
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2012年3月20日 (火) 01:46時点における版

ヴィルヘルム1世
Wilhelm I.
ドイツ皇帝・プロイセン王
在位 プロイセン摂政:1858年10月7日 - 1861年1月2日
プロイセン王1861年1月2日 - 1888年3月9日
北ドイツ連邦主席:1867年7月1日 - 1871年1月18日
ドイツ皇帝1871年1月18日 - 1888年3月9日
戴冠式 1861年10月28日

全名 ヴィルヘルム・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・プロイセン
出生 1797年3月22日
プロイセンの旗 プロイセン王国ベルリン
死去 (1888-03-09) 1888年3月9日(90歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国ベルリン
埋葬 1888年3月16日
ベルリンシャルロッテンブルク宮殿
配偶者 アウグスタ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ
子女 フリードリヒ3世
ルイーゼ
家名 ホーエンツォレルン家
王室歌 皇帝陛下万歳(非公式)
父親 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
母親 ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ
サイン
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ヴィルヘルム1世Wilhelm I. 1797年3月22日 - 1888年3月9日)は、第7代プロイセン王(在位:1861年1月2日 - 1888年3月9日)、初代ドイツ皇帝(在位:1871年1月18日 - 1888年3月9日)。

概要

第5代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の次男として生まれた。1848年革命の際には剛直な武断派として自由主義者を弾圧して「榴弾王子」と呼ばれた。兄である第6代国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に子がなかったため、王位継承者であり続け、1857年に兄王が精神病になると「国王代理」となり、1858年に摂政に就任した。摂政の頃には自由主義に一定の理解を示し、自由主義的保守派貴族による「新時代」内閣を誕生させた。

1861年、63歳の時に兄の崩御で第7代プロイセン王に即位。即位後は自由主義勢力の台頭に危機感を持ち、保守化を強めた。保守的な軍制改革を行おうとしたが、自由主義者が牛耳る議会にその予算を拒否され、無予算統治を強行する意思のあるオットー・フォン・ビスマルク宰相に任命した。ビスマルクの主導の下、プロイセンは対デンマーク戦争普墺戦争普仏戦争小ドイツ主義によるドイツ統一の道を進み、普仏戦争の勝利によってドイツ帝国が建設され、ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝に即位した。

ビスマルクとはしばしば意見対立しながらも崩御まで彼を宰相として重用し続けた。1888年に崩御。長男のフリードリヒ3世が即位したが、フリードリヒ3世も在位3ヶ月ほどで崩御したため、ドイツ皇位・プロイセン王位は孫のヴィルヘルム2世に引き継がれた。

生涯

少年・青年期

1810年のヴィルヘルム王子を描いた絵(ヨハン・ホイジンガ―画)

1797年3月22日にプロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(同年11月16日に第5代プロイセン王に即位し、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世となる)とルイーゼ王妃の次男としてベルリン皇太子宮殿(de)に生まれた[1]

兄であるフリードリヒ・ヴィルヘルム(後の第6代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世)と同様に神学者・教育者ヨハン・ゴットリーブ・デルブリュック(Johann Gottlieb Delbrück)から教育を受けた[1]。1807年にプロイセン軍に入隊し、1814年に大尉としてフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの支配に対抗する解放戦争に従軍し、鉄十字章を受けた[1][2]。この戦いを通じてナポレオンを生み落とした革命を激しく憎むようになり、革命から王権を守れるのは軍隊だけであると確信するようになったという[3]。1818年に近衛歩兵旅団の少将、1825年には近衛軍団の中将となる[2]

ヴィルヘルムは兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とは性格も外見も違っており、青年時代はその長身と容姿で社交界に浮名を流したが、遠縁にあたるエリザ・ラジヴィウヴナ公女との恋愛結婚は、家柄の問題など様々な政治的思惑から実現しなかった[1][2]

1829年、ヴィルヘルムはザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公女アウグスタと結婚し、のちのフリードリヒ3世ルイーゼの2子をもうけた[2]。長い平和の間に軍人としての研鑽を積み、またしばしばロシア首都サンクトペテルブルクに派遣されて外交官として活躍した[2]

1848年革命の鎮圧

壮年期のヴィルヘルム王子

1848年3月にベルリンで自由主義者・民主主義者・ナショナリストなどの市民軍と国王軍が衝突したことで三月革命が発生した。宮廷内の軍支持者の代表格として知られていたヴィルヘルム王子は市民の最大の憎悪の対象だった。国王軍の蛮行の責任を彼に求める論調が強まり、彼の名前を入れた市内の御用商人の看板が次々に破壊された[4]

ベルリン警視総監はヴィルヘルム王子が市民から命を狙われていると報告した[5]。兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は第1位王位継承者である弟に万が一がないようにと配慮し、急遽英国女王ヴィクトリアに会見する任務を言い渡され、3月19日にヴィルヘルム王子は亡命に近い形で国を離れた[6][7]

国王自身は脱出計画を思いとどまり、市民軍の管理下に入り、妥協できる自由主義者と結んで革命を穏健化させる道を選んだ[6]。ガス抜きの自由主義内閣を誕生させ、まもなく革命の勢いが落ちてくると、国王は5月12日にヴィルヘルム王子をイギリスから呼び戻すとの発表を行った。これに反発した市民が再び示威行進を行ったが、すでにそれは国王を翻意させるほどの物ではなかった[8]

その後保守主義者が反転攻勢を強め、フランクフルト国民議会(ドイツ国民議会)が定めた人民主権のフランクフルト憲法(ドイツ帝国憲法)と同議会から下された帝冠を兄王が拒否した。これに反発した自由主義者・民主主義者・労働者団体などの間で憲法制定を求める運動が高まり、憲法を拒否した邦国を中心に蜂起が発生した。多くはすぐに鎮圧されたが、バイエルン王国プファルツ地方バーデン大公国での反乱は拡大した。特にバーデンでは革命の影響で常備軍が人民軍に改組されていた事もあり、5月14日にはバーデン大公レオポルトが亡命してプロイセンに助力を請う事態となった[9][10]

これを受けてヴィルヘルム王子を司令官とする二個軍団・約6万人が反乱鎮圧に出征した。バイエルンはプロイセン軍の干渉を嫌い、鎮圧要請をしていなかったが、ヴィルヘルム王子の軍は独断でプファルツ地方に進軍し、バイエルン政府から事後承認を得て6月14日にプファルツ地方を占領した[10]。さらに革命派が政権を掌握して「社会的民主共和国」を宣言していたバーデンへ進攻し、「神聖不可侵の国家理念に背いた者には容赦は無用である」として徹底的な鎮圧を命じ、マンハイムフライブルクラスタットなどで捕虜にした革命家や人民軍志願兵部隊を士官・一般兵問わず無差別に処刑した[9]。その断固たるやり方に対して民衆の間に非常な憎しみを呼び起こし、榴弾王子(Kartätschenprinz)というあだ名をつけられた[3]フリードリヒ・エンゲルスは「ドイツ人民はラスタットの大量銃殺と防弾室を忘れない。この恥ずべき行いを命じた支配者どもを忘れない」と書いている[11]

自由主義勢力への接近

1849年にヴェストファーレン県ライン県の知事に就任し、妃アウグスタとともにコブレンツ選帝侯宮殿(de)で暮らした[1]。これ以降、妻の影響で自由主義派の学者と親交を深め、兄王と対立を深める中、「週報党」[# 1]など自由主義的保守派がヴィルヘルムを取り巻くようになった。国王の周りにはレオポルト・フォン・ゲルラッハ(侍従武官長)をはじめとする側近グループ(カマリア)や「十字新聞派」などの強硬保守勢力が取り巻いていたため、ヴィルヘルムも兄王との違いを強調するために形式的に自由主義的な主張を行うようになった[13]

1854年に元帥位を有する上級大将に昇進の上、マインツ要塞(de)の知事となった[2]

「国王代理」から摂政へ

1857年秋になると兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の精神病が深刻化した[14]。プロイセン憲法上ヴィルヘルムが摂政に就任するべきところだったが、宰相オットー・テオドール・フォン・マントイフェルはじめ国王派は彼が摂政に就任することによって自由主義政策が行われることを恐れていた[15]。そのため摂政の設置に応じようとせず、10月23日にヴィルヘルムを3か月の期限付きで憲法上に規定がない「国王の代理人」なる地位に就けた[13][16]。完全なる君主権を有する摂政ではなく「国王代理人」とすることで国王の従来の方針にヴィルヘルムを縛りつけようとした。ヴィルヘルム派はこれを「憲法違反」として批判し摂政の設置を要求した[13]

しかし当のヴィルヘルム自身は摂政就任を望んでおらず、「国王代理人」の職を神から与えられた使命と感じており、兄の「善良な人柄」と義姉の王妃エリーザベトへの思いやりを念頭に行動した[17]。1858年1月、4月、7月と3か月の期限を迎えるたびに国王の勅書によってヴィルヘルムの「国王代理人」職が更新された[15]。マントイフェル宰相は出来る限りこの状態を継続させたかったが、法相や議会から憲法上の根拠の乏しさを追求され、とうとう内閣でも摂政を設置すべきとの意見が多数派となった[18]。10月7日にヴィルヘルムを摂政に任じる勅書が出された[13][18][14]

「新時代」

1858年頃の摂政ヴィルヘルム

兄王は政治的遺言書の中で「憲法宣誓すべきではない。立憲体制を否定するクーデタをおこすべき」とヴィルヘルムに要求したが、ヴィルヘルムはこれを無視して摂政就任後の10月26日に議会において憲法宣誓を行い、立憲統治を宣言した[18]

11月6日にマントイフェル宰相を解任し[19]、プロイセン王家ホーエンツォレルン家の分家であるジグマリンゲン家カール・アントン侯を宰相、ルドルフ・フォン・アウエルスヴァルト(de)を副宰相とする自由主義的な保守派の貴族による内閣を誕生させた(この体制は「新時代(de)」と呼ばれた)[20][21][22]。「新時代」内閣はマントイフェルやゲルラッハの頃の絶対主義体制と決別し、議会を尊重する姿勢を示した。とはいえこの内閣は完全な自由主義ではなく、君主を議会から独立させることに固執するなど保守的傾向も示した。これについてメーリンクは「自由主義内閣はその自由主義のためにではなく、その自由主義が無害であるために任命された」と評する[22]。ヴィルヘルムも内閣に統治綱領(Regierungsprogramm)を提示し、その中で改革について「恣意的なもの、時代の諸要請に逆行するものが示される部分には細心の改革の手が差し伸べられねばならない」と表現するにとどめた[23]

またゲルラッハなどの強硬保守主義者たちは政府や宮廷から追放したが、軍の実力者である軍事内局局長エドヴィン・フォン・マントイフェル(de)中将だけは強硬保守でも留め置いている[24]

軍制改革

ヴィルヘルムは上記の統治綱領において軍制改革の必要性について言及し[25]、1859年12月3日の閣議にその最終案を提出した[26]

ヴィルヘルムの軍制改革は徴兵数増加と3年兵役の維持と郷土軍から野戦軍の機能を除くことを中心としていた。当時のプロイセン軍では1814年兵役法により兵役3年が定められていたが、財政状況から兵役が2年もしくは2年半に減じられていた。しかしヴィルヘルムには「新兵は最初の2年間教練に圧倒されており、3年目に入ってはじめて軍人の尊厳や職務の重大性、軍に必要不可欠な身分精神を自覚するようになる」「ヨーロッパにおいては軍人のこの身分精神こそが革命や自由主義勢力から王位を保護する」という持論があり、3年兵役制の短縮は国民を「兵士ではなく教練を受けた農夫」にしてしまうとして断固反対であった[27]

同様の理由から郷土軍にも批判的であった。郷土軍は1813年の対フランス開戦に際して常備軍の兵力不足を補うために創設された常備軍に所属しない軍隊だが、戦後もフランスの報復に備えるためとして東プロイセン州議会がこれを存続させた。国王の命令によらずに創設されたため国民的・ナショナリズム的な要素を持つようになり[28]、1848年革命の際には動員令に応じなかった[29]。そのため1848年革命の鎮圧者であったヴィルヘルムは郷土軍を「兵士であることより選挙民であることの意識が強い」と看做し、不信感を持っていた[30]。ヴィルヘルムの軍制改革はこの郷土軍を野戦軍ではなく、常備軍の兵站・要塞守備などを担当する後備軍とするものであった[31]

議会との対立のはじまり

オルミュッツ協定の屈辱の教訓からプロイセン下院の自由主義者たちも軍事力の増強には賛成であったので、徴兵数を増やすことには反対しなかったが、兵役3年と郷土軍縮小には反対した。「長い兵役は国民の自由と所有権に対する経済的な侵害」、「郷土軍縮小は国王と貴族の権力上昇を目的としている」と看做したためであった[31]。そのため1860年1月12日に召集された下院軍事委員会は軍制改革について徴兵数増加に賛成しつつ、3年兵役制と郷土軍の野戦軍からの分離、多額の経費には反対した[32]

「軍の組織については国王と立法、軍の編成については国王と継続行政の管轄であり、兵役義務は組織の問題なので立法が必要」という点は政府も下院も共通認識だったが、政府の見解ではそれはすでに1814年兵役法により定められているのであって、国王はその枠内であれば議会の協賛がなくても統帥権に基づいて自由に兵力決定を行えるという立場であった[33]。したがってヴィルヘルムは軍制改革を拒否している下院は国王の統帥権を干犯していると理解していた[34]。ただし軍制改革のうち郷土軍を野戦軍から分離するという案は兵役法に反しており、これを統帥権の名の下に強行することは、命令による法律の改正にあたるため、後に下院で違法行為として追及される。陸軍省もこの点を指摘していたが、ヴィルヘルムは取り合わなかった[35]

政府は軍制改革は国王の統帥権で実施し、議会にはその予算問題のみ掛けることとし、陸軍大臣に900万ターレルの使用を認める暫定法案を議会に提出した。下院の自由主義者たちはこの金額では3年兵役制は実施できないし、短期間ごとに軍制改革予算を特別経費として議会が審議することを常態化するチャンスと考えた。またヴィルヘルムの提案を拒否しすぎて彼を完全に保守陣営の側に追いやりたくはなかった。そうした意図から自由主義者たちが賛成に回り、暫定法は1860年5月15日の下院本会議においてほぼ満場一致で可決された[36]

ヴィルヘルムはこの大差の可決を単純に軍制改革は国民代表からも支持を得ている証拠と理解し、意気揚々とこの経費を使って新連隊編成に着手した[36]

プロイセン王即位

1861年1月2日に兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が崩御し、摂政ヴィルヘルムが63歳にして正式にプロイセン国王に即位した。ヴィルヘルム1世が即位後に初めて行った統治行為は自らが新設した連隊の戦闘旗を祝別することだった[37]。1月18日には「統帥権行使に関する勅令」(Allerhöchste Kabinettsorder)を発令し、軍事予算・軍事行政に関わる問題に関してのみ国王は陸軍大臣の副署を必要とすることとし、軍勤務事項と軍人事の問題に関しては陸軍大臣の副署を不要とし、可能な限り軍を議会の影響から遠ざけようとした。この勅令は1919年10月まで存続し、プロイセンとドイツ帝国の大元帥の統帥権の基礎となった[38]

1月14日に国王としてはじめて招集した下院開院式の勅語で国民代表が軍制改革に協賛することを要求した[39]。しかしこの会期ではすぐに国王と下院の対立がはじまった。政府は軍制改革問題について統帥権により当然に実施されるものとしてもはやこれを特別な経費とせず、一般会計予算に計上した。一方下院軍事委員会は先の暫定法の措置はあくまで暫定的措置であることを強調し、また「郷土軍は1814年兵役法により定められている制度であり、これを国王が命令で勝手に改変することはできない」点を指摘した[39]。本会議での議論は紛糾したが、最終的には自由主義右派(旧派自由主義)の主導で政府原案の61年下半期の軍制改革経費490万ターレルから75万ターレルを削減し、特別会計予算として決議した[37]。また「軍制改革のために取られた措置を継続させるには1814年兵役法の改正が必要である」とする見解を圧倒的多数で決議した。これに対して陸相アルブレヒト・フォン・ローンは「改正法案は提出するが、それは政府が自らに課した義務であり、議会に対して政府が拘束される義務ではないと理解している」と述べて下院を牽制した[37]

ヴィルヘルム自身は形式にはこだわりはなく、6月5日の閉院式の勅語で「承認の形式は偉大なる措置(軍制改革)の生命原理に関わる問題ではないので、私はこれを無視する」と宣言した[40]

10月28日にフリードリヒ1世の前例に則ってベルリンではなくケーニヒスベルクで戴冠式を行った。参列した下院議員一同に向かって王権神授説の勅語を述べ、自由主義勢力を牽制した[41]

議会との対立激化

1861年11月19日と12月6日に下院選挙が行われたが、自由主義左派のドイツ進歩党(de)が109議席、自由主義右派が95議席、カトリック派が54議席、自由主義中央左派が52議席、ポーランド人派が23議席を獲得した。一方保守派はわずか15議席だった。この議会状況では政府の軍事法案が可決される見通しは皆無だった[42]

1862年1月14日に召集した下院は予想通り進歩党の主導で3年兵役制を拒否した。また進歩党・中央左派・ポーランド人派の賛成により予算の細目化を求める採択がなされた。この情勢から軍制改革続行不可能と判断した「新時代」内閣は3月8日にヴィルヘルム1世に辞表を提出した。しかしヴィルヘルム1世は大臣任免権はあくまで自分にあり、議会にあるのではないと考えていたため総辞職を拒否し、3月11日に議会を解散した。しかし自由主義右派系の閣僚たちは議会内の自由主義右派勢力と強調して進歩党に対抗する必要があると主張し、郡制と大臣責任法の改正、62年度予算案細目化、軍制改革費用削減を要求し、保守派閣僚たちと内部抗争を起こした。ヴィルヘルム1世が保守派を支持した結果、自由主義右派閣僚たちは辞職し、「新時代」内閣は崩壊した[43]

ヴィルヘルム1世は新内閣のトップを高貴な者で飾りたいと願い、政治から離れていたアドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲン公爵を宰相とした。「新時代」内閣からの残留である陸相ローン、外相アルブレヒト・フォン・ベルンシュトルフ伯爵(de)、蔵相アウグスト・フォン・デア・ハイト男爵(de)が内閣の中心であった。特にハイトが事実上の内閣の指導者であった[44]

しかし4月28日と5月6日に行われた解散総選挙の結果は一層壊滅的であった。保守派の議席は11議席にまで落ち込み、軍制改革に賛成したカトリック派や自由主義右派もそれぞれ28議席、65議席と議席を大きく落とした。反政府派の急進的自由主義者である進歩党と中央左派は躍進し、それぞれ135議席、96議席を獲得した。政府と下院の協調の可能性は一層なくなった[45]

妥協案の拒否と退位の意思表示

8月4日の下院予算委員会は軍制改革の予算を財政における軍事偏重が過ぎる故に特別会計としても認められないと決議した。しかし委員のうち進歩党のカール・トヴェステン(de)、中央左派のフリードリヒ・シュターヴェンハーゲン(de)とハインリヒ・フォン・ジイベル(de)の三者はドイツ問題解決のため軍の強化自体は必要不可欠と考えており、また争議が激化してヴィルヘルム1世が強硬保守内閣を誕生させる恐れがあることから政府と妥協する必要があると考えていた。彼らは兵役2年と多少の軍事予算減額だけを条件とした妥協案を提出した[46]

しかしヴィルヘルム1世に妥協の意思はなく、彼は議会を無視して無予算統治で軍制改革を強行する決意を固めたが、ハイトが無予算統治は憲法上の根拠がないとして反対した。さりとて解散しても良い選挙結果になる見通しはなく、陸相ローンは上記の妥協案で妥協する決意をし、9月17日の下院本会議でそれを発表した結果、下院も融和的な空気になった。しかし同日の国王臨席の閣議において閣僚たちが次々と妥協案に賛成する中、ヴィルヘルム1世は「3年兵役制が拒否されるのであれば退位する」旨を宣言した。この脅迫に閣議の空気はすっかり変わり、ハイトとベルンシュトルフをのぞく全閣僚がヴィルヘルム1世の無予算統治路線を無条件で支持する旨を表明した[47]。ローンは翌18日に前日の妥協案を飲む旨の発言を撤回し、それに激怒した下院は再び政府と徹底抗戦の構えを見せ、妥協案を圧倒的多数で否決した[48]

弟カール王子や国王副官グスタフ・フォン・アルヴェンスレーベン(de)中将、軍事内局局長エドヴィン・フォン・マントイフェル中将らは議会に対するクーデタを進言した[49]。一方内閣指導者ハイトはなおも兵役2年で妥協するよう進言し続けた。ヴィルヘルム1世にはクーデタの意思も妥協の意思もなく退位の準備を開始した[48]。しかし皇太子フリードリヒは父の退位を諌止していた。9月19日の閣議も内閣は分裂状態であったが「国王の退位は王権の継続的弱体化を招く」としてヴィルヘルム1世の退位を諌止することでは一致した。この閣議の後にハイトは無予算統治を行おうとする内閣には所属できないとして辞表を提出したのでヴィルヘルム1世は辞職を許可し、内閣は指導者を失って事実上崩壊した[50]

ビスマルクを宰相に任じる

宰相オットー・フォン・ビスマルク

この状況に陸相ローンは独断で次の宰相候補としてパリ駐在大使ビスマルクをベルリンに召喚した[49]。ヴィルヘルム1世とビスマルクは9月22日にバーベルスベルク離宮で会見した[51][52]。ヴィルヘルム1世は軍制改革を断行する勇気のある大臣が現れないのであれば、退位する旨をビスマルクに伝えたが、ビスマルクは自分は王権に尽くす忠臣であり、軍制改革を断行し、議会が承認しないなら無予算統治を行う覚悟であることを表明した。これを受けてヴィルヘルム1世は「それならば貴下とともに戦うのが私の義務である。私は退位しない。」と述べ、退位の意思を撤回し、ビスマルクを宰相に任命した[53]

宰相となったビスマルクは9月30日の下院予算委員会で鉄血演説を行ってドイツ統一戦争の意思と軍備拡張の必要性を語り、進歩党のナショナリズムを高めて政府の軍制改革を支持させようとしたが、失敗した[54]。結局ヴィルヘルム1世とビスマルクは1866年の普墺戦争勝利に至るまでの4年にわたって無予算統治を行い、軍制改革を強行した。これにより無予算統治を憲法違反と批判する自由主義者と無予算統治を空隙説(de)で正当化する政府との間に憲法闘争(de)が巻き起こった[55]

ビスマルクはこの憲法闘争を小ドイツ主義統一を推し進めることによって解決を図り、最終的に1866年の普墺戦争中に行われた下院総選挙で保守派が圧勝したことにより、事後承認法(免責法とも訳される)(de)が決議されて1862年以来の無予算統治がすべて免責されて終結している[56][57][58][59][60]

ドイツ諸侯会議出席問題

1863年8月3日、ヴィルヘルム1世はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からフランクフルトで行うドイツ諸侯会議への出席を要請された。この頃オーストリアは大ドイツ主義的なドイツ連邦改革案を提起しており、会議はそれについて話し合うためであった。ビスマルクの頭越しに君主間で申し入れられた要請であった。ビスマルクはこの会議への出席に反対の意を示し、ヴィルヘルム1世に欠席するよう激しい圧力をかけた[61]

ヴィルヘルム1世は曖昧な態度をとっていたが、オーストリアは8月17日に諸侯会議を開催し、会議上で改めてヴィルヘルム1世に出席を要請した。ヴィルヘルム1世と親しい関係にあったザクセン王ヨハンがこの要請をバーデン・バーデンに滞在していたヴィルヘルム1世のもとへ届けにきた[61]。ヴィルヘルム1世も立場を明確にする必要に迫られた。彼はビスマルクに対して「25名の統治者が集まっているのに、1人の国王だけが急使として訪れるのは問題がある」と主張して出席する意思を示した。しかしビスマルクはなおも反対し、辞職を脅しに使ってヴィルヘルム1世の説得にあたった。この際の論争はかなり激しい物であったらしく、ヴィルヘルム1世は興奮のあまりむせび泣きし、ビスマルクも国王の部屋を退出した後、自室で洗面器を粉々にしてストレス発散したという[62]

しかし結局ヴィルヘルム1世が折れた。「問題となる連邦体制の変革について、またその変革とプロイセンの力に見合った正当な地位および国民の正当な利益について詳細な検討が加えられた時に初めて(出席の)決意を固めることができます。私は私の国とドイツの大義に対して私が負う責任ゆえに、そのような検討が加えられる以前に私を拘束するような言明を連邦諸侯に与えることはできません」として出席を拒否した[62]

対デンマーク戦争

アルゼン島上陸作戦の戦功に対して授与されるアルゼン十字章(de)。ヴィルヘルム1世の横顔が刻まれている

北ドイツのシュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国ラウエンブルク公国の三公国はデンマーク王が同君連合で統治していたが、住民の大多数がドイツ系であるためデンマークからの独立運動が発生していた。1863年11月にデンマーク国王となったクリスチャン9世第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(de)の時に結ばれたロンドン議定書に違反してシュレースヴィヒ公国をデンマークに併合した。これにより当事国のシュレースヴィヒ、ホルシュタイン、ラウエンブルクの三公国のみならず全ドイツで自由主義ナショナリズムが高まり、アウグステンブルク公フリードリヒが三公国の大公に擁立されてドイツ系住民が蜂起した[63][64][65]

高まるナショナリズムを背景にヴィルヘルム1世も自由主義者の王太子フリードリヒや王太子妃ヴィクトリアの影響を受けるようになり、ロンドン議定書から脱退して三公国からデンマークの支配を廃し、アウグステンブルク公統治の独立公国を誕生させるべきであると考えるようになった[66][67]。またアウグステンブルク公がプロイセン軍将校であった事もヴィルヘルム1世が彼に好感を寄せる要素だった[68]

一方宰相ビスマルクはアウグステンブルク公の独立公国が自由主義者の集合場所となって反プロイセン的になることを恐れており、この地をプロイセンに併合したがっていた。しかしそれは国際的にも国内的にも支持を得られないのは明らかだったので、さしあたってデンマークにロンドン議定書を守らせる(=シュレースヴィヒ公国の独立を維持したうえでデンマーク王の同君連合状態)という立場を取った[67]

この問題はヴィルヘルム1世が政治路線をはっきり示した珍しいケースであったが[69]、結局ビスマルクに「列強と対立しないためにはロンドン議定書を守らねばならない」と口説き落とされた[70]

プロイセンとオーストリアの主導でドイツ連邦議会はロンドン議定書を守らせるため三公国を強制執行することを決議した[71][72]。1864年2月より開始された第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(de)でデンマークに勝利したプロイセンとオーストリアはロンドン議定書もアウグステンブルク公の統治も認めず、ガシュタイン条約によって三公国を併合した。ヴィルヘルム1世は自らが軍制改革で育て上げたプロイセン軍がデュッペル防塁攻略アルゼン島上陸に戦果をあげたことを大いに喜んだ[73]。ラウエンブルク(ガシュタイン条約でオーストリアが権利をプロイセンに売却)を正式に獲得した1865年9月15日にヴィルヘルム1世はその功績としてビスマルクに伯爵位を与えている[74]

普墺戦争

シュレースヴィヒとホルシュタインの支配権をめぐってプロイセンとオーストリアの対立は深まった。ヴィルヘルム1世は英国女王ヴィクトリアに仲裁を頼むなどオーストリアとの和解を希望していたが、ビスマルクにその意思はなかった。またビスマルクと同様にヴィルヘルム1世もシュレースヴィヒとホルシュタインの併合を断念する意思はなく、それが是認された上での和解を考えていたので、英国女王ヴィクトリアがこの併合を侵略と看做していた以上、ヴィルヘルム1世の希望通りの和解が成立する見込みはなかった[75]

結局ヴィルヘルム1世は両公国に対する彼の主権がオーストリアによって妨害されているというビスマルクの言を信じて、1866年6月9日にプロイセン軍をホルシュタインへ進駐させた[76]。これによりオーストリア・バイエルンの主導でドイツ連邦軍を動員する決議がなされ、ビスマルクはプロイセンをドイツ連邦から脱退させた。それがきっかけとなって普墺戦争が勃発した[77]

戦況はケーニヒグレーツの戦いにプロイセン軍が勝利したことでプロイセン優位に傾いた。ヴィルヘルム1世は開戦前はオーストリアとの戦争に慎重だったが、ケーニヒグレーツの勝利に舞い上がって将校たちと同じようにウィーン入城を希望するようになっていた[78]。しかしフランス皇帝ナポレオン3世が講和交渉を斡旋すると介入してきたためプロイセンも講和に入る必要に迫られた。その講和をめぐってヴィルヘルム1世とビスマルクは7月22日からニコルスブルクの大本営において鋭く対立した[79]

オーストリアはナポレオン3世を介して自国と最もオーストリアに忠実に戦ったザクセン王国の領土保全を休戦協定の条件として提示していた。しかしヴィルヘルム1世はザクセンがこの戦争の「主犯」と考えており、オーストリアとザクセンの領土を削減したがっていた[80][81][82]。一方ビスマルクはオーストリアを将来にわたるまで敵としないため、オーストリアの要求を飲み、この二国の領土には手出しすべきではないと主張した[83]。代わりにビアリッツの密約でフランスが小ドイツ主義統一を行うことを許可していた北ドイツ敵国(ザクセン以外)に対して過酷な処置を行うべきであると主張し、ハノーファー王家やヘッセン選帝侯家などの君主家を廃絶しプロイセンに併合すべきと主張した[83]。しかしヴィルヘルム1世は正統主義の立場から君主家の廃絶を嫌がり[84][85][86]、また「主犯格」が「無罪放免」にされてハノーファーやヘッセン選帝侯国だけが併合されることに納得しなかった[86]。これに対してビスマルクはオーストリアが納得できる条件でなければ第三国の介入なしには戦争を終結させられなくなると反論した[86]

この論争も激しかったらしく、皇太子フリードリヒによるとヴィルヘルム1世の部屋を退去したビスマルクはヴィルヘルム1世から受けた言葉に傷付いて皇太子の前で泣きだし、再びヴィルヘルム1世のもとへ参内することを恐れていたという[87]。皇太子もこの問題についてはビスマルクと同意見だったので、ビスマルクを慰めて二人でヴィルヘルム1世のもとへ参内して説得にあたった結果、ようやく7月24日にヴィルヘルム1世が折れたという[87][88][89]。7月26日にニコルスブルク仮条約が締結され、8月23日にプラハ本条約が締結され、普墺戦争は終結した[90]

それでも不満が残っていたヴィルヘルム1世はビスマルクの建白書の欄外に「軍隊と国家が期待して当然の物―つまりオーストリアからの莫大な賠償金と我々の主目的を危うくしない満足のいく新たな領土ーを敗者から獲得できないなら、勝者はウィーンの市門の前で熟していないリンゴをかじり、その審判を後世に委ねなければならない」と書きこんでいる[90][91]

北ドイツ連邦主席

1870年頃のヴィルヘルム1世

普墺戦争の勝利によりオーストリアが連邦議会議長国を務めていたドイツ連邦は解体され、1867年7月にプロイセン王が連邦主席(Bundespräsidium)を兼務する北ドイツ連邦が樹立された。この時からすでに連邦のトップは皇帝(Kaiser)にするべきという意見があったが、フランスとバイエルンへの配慮からビスマルクは連邦主席という無難な名前にした[92]

しかし連邦主席の権力は強大であった。北ドイツ連邦憲法によれば連邦主席は北ドイツ連邦軍の統帥権を有し、プロイセンの軍事立法はすべての連邦加盟国にも適用されると定められていた。連邦に軍事に関する省庁は設置されず、プロイセンの軍事機関が北ドイツ連邦軍を支配下に置いていた。連邦の陸軍省が存在しないゆえに連邦主席の統帥権はプロイセン王としてのそれより強大であった[93]。また連邦主席は公共の安全が脅かされていると判断した時は戒厳令を発する権限を有した[94]

この際にヴィルヘルム1世は憎き市民的な郷土軍を正規軍に従属する後備軍に編成替えし、軍隊から民主的な要素を消し去ることに成功した[95]

スペイン王位継承問題

1868年9月にスペイン女王イザベル2世フアン・プリム将軍らスペイン軍部のクーデタにより王位を追われ、プリム将軍らは次のスペイン王の選定を開始した。ホーエンツォレルン家の分家であるジグマリンゲン家のカール・アントン侯(「新時代」期のプロイセン宰相)の息子レオポルトが候補者として浮上した[96][97][98]

他のスペイン王候補がダメになり、1870年2月26日にスペイン枢密顧問官エウセビオ・デ・サラザール(Eusebio de Salazar)がレオポルトのスペイン王立候補を要請するカール・アントン侯宛ての公的・秘密裏の手紙をもって訪普したことでレオポルトのスペイン王即位の話がいよいよ現実課題になった[99][100]。カール・アントン侯は「個人的には反対だが、政治的な問題なので陛下とビスマルクに判断をお任せする」という手紙をヴィルヘルム1世とビスマルクに宛てて送った[100]

ヴィルヘルム1世は慎重だったが、ビスマルクは彼にハプスブルク家のスペイン王カール5世のことを思い起こさせ、もしホーエンツォレルン家がスペイン王冠を継げば、ホーエンツォレルン家はハプスブルク家に匹敵する高い世俗的地位を得ると述べて説得にあたった[101]。ヴィルヘルム1世はなおもしばらく反対し続けたが、結局5月24日になってホーエンツォレルン家の者が他国の王位を継ぐことになったとしても止めないとビスマルクに言明を与えるに至った[102]

ビスマルクとプリムはフランスに既成事実だけを突き付けようと秘密裏にレオポルトのスペイン王即位の計画を進めたが、スペイン側の手違いで漏えいし、7月2日にはフランス・パリの新聞に掲載された[102]。対プロイセン強硬派のフランス外相アジェノール・ド・グラモン(fr)伯爵はフランス下院でいかなる手段を持ってもこれを阻止することを宣言した[103]

ヴィルヘルム1世はフランスの強硬姿勢を危惧したが、国王である自分が他国の顔色をうかがうためにレオポルトに立候補を辞めるよう命じるのは王としてのプライドが許さず、レオポルト自らが立候補を辞退することを希望した。ビスマルクに独断でジグマリンゲンに使者を送り、その旨をカール・アントン侯に伝えた。これを受けて7月12日にカール・アントン侯はレオポルトが立候補を断念した旨を発表した[104][105]

エムス電報事件

1870年7月13日、バート・エムスの散歩道。ヴィルヘルム1世(左)と駐独フランス大使ヴァンサン・ベネデッティ(右)。普仏戦争の原因となるエムス電報事件のきっかけとなった会談の様子。

ヴィルヘルム1世はこれで危機は収束すると思っていたが、フランス国内はそれだけでは満足しなかった。ナポレオン3世もヴィルヘルム1世本人からレオポルトのスペイン王立候補への反対、また将来にわたっても立候補をさせないという言質を取らねばならないと考えて、駐プロイセン・フランス大使ヴァンサン・ベネデッティ(fr)をヴィルヘルム1世が保養中だったバート・エムスへ派遣した[106]

ベネデッティは7月13日朝、バート・エムスの散歩道を歩くヴィルヘルム1世に随伴して会談を行い、レオポルト立候補中止を明確に宣言すること、レオポルト立候補に承諾を与えた行為はフランス国民の利益と名誉を害しようという意図で行ったものではなかったと宣言すること、再びレオポルトが立候補する場合には反対すると明言することを求めた。ヴィルヘルム1世は「すでにアントン侯が彼の息子が立候補を断念したことを確認している。私は以前に彼の立候補を承諾した時と同じ意味、同じ規模でそれを承諾する」とだけ述べて、フランスに何か弁解的な宣言を出すことは拒否した[107][108]。そして後に侍従を通して現時点の情報でベネデッティに言う事はないとしてこれ以上の引見は拒否した[109][110]

そしてこの経緯を電報でビスマルクに伝えさせ、それを公表すべきか否か、公表する場合どのように公表するかの判断を彼に一任した[107][110]。ビスマルクは「フランス大使はエムスで陛下に対してホーエンツォレルン家が改めてスペイン王に立候補する場合、将来にわたって二度とそれを承諾しないと宣言することを求めた。その後陛下はフランス大使を引見されることを拒否され、侍従を通してこれ以上何も言う事はないとフランス大使に伝えられた。」と発表した。「これ以上何も言う事はない」の意味を簡略化して伝えることで「交渉の余地はない」という意味かのようにすり替えていた[111][110]

ビスマルクの発表した電報をみたヴィルヘルム1世は「これでは戦争になるぞ」と叫んだという[111]

普仏戦争

宰相ビスマルク、参謀総長モルトケ、陸軍大臣ローンらを引き連れて前線視察するヴィルヘルム1世

メキシコ出兵の失敗でそれでなくとも政治基盤が不安定になっていたナポレオン3世とその政府はこのような電報を発表されては宣戦布告以外に政治的に延命できる可能性はなかった[112]。フランスは7月14日にも動員に入り、7月19日にはプロイセンに宣戦布告した[113]。普段反プロイセン的な南ドイツ諸邦国でドイツ・ナショナリズムが爆発し、プロイセンを支持する世論が圧倒的となり、普墺戦争後にプロイセンと結んだ攻守同盟に基づいてプロイセン王の指揮下に軍を送ってきた[114]。フランスを宣戦布告者に仕立て上げることで国際的な批判をフランスへ向かわせ、ドイツ・ナショナリズムを爆発させて南ドイツ諸邦国をプロイセンに取り込んで小ドイツ主義統一を行うというビスマルクの思惑通りの展開となった。

7月31日にヴィルヘルム1世はビスマルクを伴ってマインツの大本営に入り、そこから全ドイツ軍の指揮をとった[115]。フランス側は北ドイツ連邦軍と南ドイツ諸邦国軍の分裂状態を内心期待していたが、無駄であった。ドイツ各邦国軍はドイツ・ナショナリズムによってヴィルヘルム1世の指揮下にしっかりと結合されていた[116]

8月2日に両軍がはじめて軍事衝突した[116]。8月11日にはじめてフランス領へ入ったヴィルヘルム1世は「私は兵士に対して戦争を行っているのであり、フランス市民に対してではない」と宣言した[117]。戦闘は緒戦からドイツ軍優位に進み、9月1日のセダンの戦いの勝利でナポレオン3世と8万7000のフランス将兵を捕虜にした[118]。9月2日朝にまずビスマルクとナポレオン3世が会談した後、ナポレオン3世は馬車でヴィルヘルム1世の下へ移送された。その後彼はカッセルに幽閉された[119]

ナポレオン3世が捕虜になったことでパリで革命が発生してフランス第二帝政は崩壊し、共和政の臨時政府が誕生した。フランス臨時政府はビスマルクの要求したアルザス=ロレーヌ地方の割譲を拒否したため、ナポレオン3世が捕虜となった後も戦争は続行され、ドイツ軍は9月19日にはパリを包囲した[120]ヴェルサイユに大本営が移され、ここでビスマルクはドイツ各邦国代表と戦後のドイツ統一に向けた交渉を行ったが、バイエルン王国には大きな自治権を認めざるをえなかった。軍事に一家言あるヴィルヘルム1世は、バイエルン軍への彼の指揮権が平時には査閲権に落ちることに最も反発していたが、結局しぶしぶ認めた[121]。またこの交渉で新たな国名は「連邦」ではなく「ドイツ帝国(Deutsches Reich)」、またその盟主は「連邦主席(Bundespräsidium)」ではなく「ドイツ皇帝(Deutscher Kaiser)」とすることが決まった[122][123]。皇帝即位宣言は出征軍統領選出制度[# 2]などの先例に倣って敵地のヴェルサイユ宮殿で行われることとなった。

ドイツ皇帝即位

フランス、ヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツ皇帝即位を布告するヴィルヘルム1世

1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿鏡の間で諸侯や軍人たちが集まる中、ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝に即位した[125]

しかしそもそもヴィルヘルム1世は皇帝位につくことを嫌がっていた。プロイセンがドイツに吸収されると恐れていたためである。彼は1870年9月にドイツの帝冠を「汚冠」と表現し、そのような物を「栄光あるプロイセン王冠」と交換するつもりはないことを明言した[126]

またもし皇帝位を受けるとしても1849年の時のようにドイツ帝国議会の選出によって帝冠を受けたくなかった。王権神授説の信条から帝冠は王侯たちから推戴されて受けることを希望していた。この点についてはビスマルクも異論はなかった(ビスマルクの場合は王権神授説への拘りというより帝国議会の力が巨大化することを恐れたからであったが)[127]。ビスマルクはバイエルン王国と交渉を進め、バイエルン王ルートヴィヒ2世が推戴者になるよう取り計らった。これについてヴィルヘルム1世は正統性の形式が保たれることを喜んだ[128][125]

さらに皇帝即位の前日になってヴィルヘルム1世は皇帝の正式名称について「ドイツ皇帝(Deutscher Kaiser)」ではなく、「ドイツラントの皇帝(Kaiser von Deutschland)」とすることを望んだ[129][130]。ドイツという修飾語がプロイセンを吸収しているように感じたためであった[131]。だが今更変更するわけにもいかず、ビスマルクがヴィルヘルム1世の説得にあたった。ヴィルヘルム1世は泣きながら拳をテーブルに叩きつけ、「そんなことはフリッツ(王太子フリードリヒ)にやらせろ。彼なら誠心誠意その役職をやり遂げるだろう。私はごめんだ。私はプロイセンに留まる」と述べて退位さえ口にした[132][130]。結局ヴィルヘルム1世が譲歩する羽目になったが、彼は涙を流しながら「明日は我が生涯でもっとも不幸な日だ。プロイセン王国を墓に葬るのだから」と述べた[130]

ヴィルヘルム1世はこの件でビスマルクに強い怒りを感じ、皇帝即位宣言式でもビスマルクに一言も声をかけなかった[132][133]

皇帝として

晩年のヴィルヘルム1世の肖像画(フランツ・フォン・レンバッハ(de)画

ドイツ統一を成し遂げたヴィルヘルム1世の人気は不動のものとなり、民族的英雄バルバロッサ(赤髭王)になぞらえて「バルバブランツァ」(Barbablanca:白髭王)と呼ばれるほどだった。1871年3月にビスマルクに褒賞として侯爵位とラウエンブルクに莫大な所領を与えた[134]。モルトケには普仏戦争中に戦功により伯爵位を与えており、1871年6月に元帥位を贈った[135]

プロイセン王は「プロイセン領邦教会首長」でもあるが、ヴィルヘルム1世はこれを自由主義思想がプロテスタント教会に入りこんでこないよう守るための地位と心得ていた。文化闘争については、それがカトリックへの改革・弾圧に留まる限り理解を示したが、プロテスタントにも影響する場合は許さず、文化闘争の指揮を執った文相アダルベルト・ファルク(de)はヴィルヘルム1世の説得に苦労した[136]

ヴィルヘルム1世は息子である皇太子フリードリヒと皇太子妃ヴィクトリアの自由主義者ぶりを警戒し、しばしば彼らの長男ヴィルヘルム皇子(後のヴィルヘルム2世)の教育に干渉した[137]。ヴィルヘルム皇子は近衛将校団に囲まれて保守的に育っており、ヴィルヘルム1世としても期待するところが大であった[138]

暗殺未遂事件と社会主義者鎮圧法

1878年に2度ヴィルヘルム1世の暗殺未遂事件が発生し、ビスマルクによって社会主義者鎮圧法制定に利用された。

最初の暗殺未遂事件は1878年5月11日に発生した。ヴィルヘルム1世が娘のルイーゼ(バーデン大公妃)とともにオープンカーでウンター・デン・リンデン通りを通過中に21歳のブリキ職人マックス・ヘーデル(de)が2発発砲したが、誰にも当たらなかった。そもそも本当に皇帝を狙ったのかさえ不明で少なくともヴィルヘルム1世やルイーゼはそういう印象は受けなかったという[139]。このへーデルはかつてドイツ社会主義労働者党の党員だった[140]。ビスマルクはこの犯人を社会主義労働者党に結び付けて、社会主義者弾圧に利用することとし、事件直後に社会主義者鎮圧法案を帝国議会に提案したが、議会多数派の国民自由党が例外法に反対するのを原則としていたため、5月21日に法案は否決された[141]

二度目の暗殺未遂事件は6月2日に発生した。ヴィルヘルム1世がウンター・デン・リンデン通りを馬車で散策していると統計事務所で働くカール・エドゥアルト・ノビリンク博士(de)が鹿狩り用の散弾銃を皇帝に向けて発射し、命中させた[142][143]。皇帝の出血は激しく、すぐに宮殿へと運ばれた。その後皇帝は数日間危篤状態になっていたが、なんとか蘇生して5か月の入院生活を送った[144]。犯人のノビリンクは逮捕される直前に自分の頭に銃を撃ち込んだ。即死はしなかったが、取り調べ不可能な状態になり、9月にはこの傷がもとで獄中死した。特定の政治思想に熱を入れていた傾向もなく、売名欲の模倣犯ではないかと言われた[145][146]

ビスマルクはこの二度目の皇帝暗殺未遂事件の報告を受けると「それなら帝国議会は解散だ」と宣言し、その後になって皇帝の容体を気にしたという[147][148]。皇太子フリードリヒは訪英中だったが、事件を聞いて急遽帰国した。ビスマルクは議会の解散に反対するフリードリヒを摂政に就任させないために1857年の時のように「国王代理」に任ずる旨の勅書を出させた。フリードリヒには不満があったが、結局「国王代理」を引き受けた[149]

御用新聞が二人の暗殺犯を社会主義運動に結び付けて、社会主義への恐怖を煽った結果、解散選挙は保守政党が勝利した[150]。選挙後、保守政党と「帝国の敵」のレッテル貼りを恐れた国民自由党の賛成で社会主義者鎮圧法が可決されるに至った[151][152]

崩御

1888年3月9日、ヴィルヘルム1世は91歳を目前にして崩御した[153]。後を継いだフリードリヒ3世喉頭癌に侵されており、わずか99日で崩御しており、皇位はヴィルヘルム2世に受け継がれた。ヴィルヘルム1世の崩御後、彼の葬られたベルリン大聖堂には約20万人もの臣下たちが弔問に訪れた。

顕彰

崩御後、ドイツ各地に数多くのヴィルヘルム1世像が建立された。多くは騎馬像である。キフホイザー記念碑(de)やポルタ・ヴェストファーリカヴィルヘルム皇帝記念碑(de)、コブレンツドイチェス・エック(de)、かつてベルリンにあったヴィルヘルム皇帝国民記念碑(de)(東ドイツの社会主義政権に破壊されて現存しない)などの銅像が著名である[1]

人物

1884年のヴィルヘルム1世

宰相ビスマルクに行政のほとんど全てを委ねたようにヴィルヘルム1世は主体的に政治を行う事は少なかった。ビスマルクは「国王が身を入れて何かやりだすのは、反対された場合に限る」と語っている[154]。しかしヴィルヘルム1世は宰相からの助言であってもそれが納得できぬ説明であれば、徹底的に検討しなければ受け入れようとはしなかった。それは自身の良心への忠実さ、真剣な態度の証左であり、その態度によって広く尊敬された[155]

また軍人気質の騎士的心情の持ち主であり、嘘をつく事が出来ず、約束を破ることができず、一度決断したなら揺らぐことがなかった[156]。それについてビスマルクは「御老体の腰をあげさせるのは難しいことだったが、一度彼から支持を得れば彼はそれを守り通した。誠実で正直で信頼のできる人物だった。」と語っている[157]

信条として王権神授説を信奉していたが、他人に対する気遣いを忘れない謙虚な人物であった。彼は自室に絨毯を敷かせて自分の足音が響かないようにしていた[158]。またエムス電報事件の記念碑をいつも避けていた。それは自分の一人の力で成し遂げたことではないことを自戒するためだったという[158]。ビスマルクやモルトケの名声が自分のそれを上回ることを恐れたり、妬んだりするようなこともなかった[159]。ナポレオン3世を捕虜にしたセダンの戦いの戦勝祝賀パーティーでも「ローンが剣を研いで準備し、モルトケがこの剣を振るい、ビスマルクは外交で他国の干渉を防いでプロイセンを今日の勝利に導いた」と自分の功績ではなく3人の功績であることを演説している[156]

前述したように軍隊を革命から王権を守れる唯一の物と考えていたため軍隊を何よりも愛した。「軍と国家」という軍を国家に優先させる表現を好んで使用したことにもそれが表れている[91]

ビスマルクとの関係

ヴィルヘルム1世とビスマルク

ヴィルヘルム1世は1862年9月23日にビスマルクをプロイセン宰相に任じて以来、1888年3月9日の崩御まで25年以上にわたってビスマルクを宰相として重用し続けた。しかし二人は人間的に惹きあうところはなかった。ビスマルクを宰相に任命した直後にヴィルヘルム1世は「この男は私には不気味だ。心の内に反発の念を抱かせる」と語っていた[160]。後世にもヴィルヘルム1世は「このような宰相の許で皇帝であるのはたやすいことではない」と語っている[161][162]。それでもヴィルヘルム1世はビスマルクを「帝国にとって私よりも重要な人物である」と認め[161]、ビスマルクの幾度もの辞職願いを「宰相は余人を持って代えがたい」として却下し続けた[162]

イギリス外相第4代クラレンドン伯爵ジョージ・ヴィリーズ(en)はヴィルヘルム1世をビスマルクの操り人形と看做して、「国王ビスマルク1世」などというジョークを飛ばしている[163]。だが孫のヴィルヘルム2世がビスマルクを簡単に辞職させたようにヴィルヘルム1世もその気になればいつでもビスマルクを罷免できた[164]。クリスティアン・ハフナーは「ビスマルクはヴィルヘルム1世から常に必要とされるべく危機を煽り、危機を解決し、成功し続けなければならなかった」と評価している[164]

また軍事に関してはヴィルヘルム1世は常に自ら主導権を握ろうとし[165]、ビスマルクが軍事にでしゃばってくることを好まなかった[166]。軍制改革はヴィルヘルム1世の指導下に断行されたものである。参謀のもとに軍隊指揮権を置くというプロイセン軍のやり方もヴィルヘルム1世によって確立された。参謀総長モルトケの任用もヴィルヘルム1世の功績である。ヴィルヘルム1世の軍制改革がなければビスマルクがあれほど軍事的に成功することは難しかったともいわれる[160]

ただ晩年には老衰で自主性が衰えていき、ビスマルクにとって便利な存在と化していったことも否めなかった[167]

日本との関係

背広姿のヴィルヘルム1世

伊藤博文ヘの忠告

伊藤博文は明治15年(1882年)に近代憲法の研究のためドイツに滞在し、同年8月28日にヴィルヘルム1世から陪食を許された。かつて軍制改革の予算をめぐってプロイセン下院と対立した苦い経験のあるヴィルヘルム1世はこの席上で「日本天子の為めに、国会の開かるるを賀せず。」「其権(予算審議権)を国会に譲れば、内乱の基と知るべし」と述べて、議会は開かない方がよいこと、開いたとしても議会に予算審議権を認めてはならないことを力説した。これは伊藤にとっては「意外の言」であったという[168]

しかし伊藤は議会制導入をためらう兆しを見せなかった。伊藤の考えるところでは国民なき国制のもとでは階級や民族やイデオロギーで引き裂かれて議会政治は機能しないが、国民精神の支柱が存在すれば機能し、日本には国民統合の支柱となる天皇が存在するため議会政治を根付かせることができるのであった。また議会は不安定な存在だが、議会が破たんした時に立憲君主が外から高権的に救済できる制度があれば無問題と考えていた(こうした伊藤の天皇感は恐らくヴィルヘルム1世よりもオーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を投影したものと考えられる。彼は他民族国家の皇帝でありながら絶大な国民の敬愛を集めていた)[169]

宮古島に記念碑贈呈

明治6年(1873年7月9日宮古島の旧上野村(現沖縄県宮古島市)沖に、ドイツ商船R・J・ロベルトソン号が台風のため座礁した。島の役人と島民がエドワルド・ヘルンツハイム船長以下生存者8人を救出し、その後世話と看病をし続けた。ヘルンツハイム船長らは帰国途中に立ち寄った香港でドイツ領事にその件を報告し、ハンブルク市、帝国宰相官房を経て皇帝ヴィルヘルム1世の耳に入った[170]

宮古島島民の行動に感動したヴィルヘルム1世は感謝の意を示すため、事件の経緯を記した「ドイツ皇帝博愛記念碑」と金銀懐中時計4個、望遠鏡4本を同島に贈ることに決め、明治9年(1876年)3月に東アジアに駐屯しているドイツ軍艦チクロープ号にこれを宮古島へ持って行かせた。平良港近くの高台に記念碑が建てられ、3月22日にその除幕式が行われた[170]

この石碑はその後宮古島の島民にも忘れ去られていった。しかし昭和4年(1929年)に日本銀行那覇支店長がこの石碑を発見し、顕彰運動を起こし、昭和8年(1933年)に文部省が国定教科書の教材を募集していたところ、この石碑の件が一等に輝いたという。昭和11年(1936年)11月、日独防共協定へ向けて日独友好関係が深まる中、「ドイツ皇帝博愛記念碑60周年記念式典」がドイツ大使館員も出席の上で盛大に行われた。この際に上野村にも「独逸商船遭難之地」の石碑が建てられた[171]

昭和47年(1972年)11月に沖縄復帰に際してロベルトソン号救助事件100周年を記念して「博愛記念祭」が開催された。平成12年(2000年)には九州・沖縄サミットに出席したドイツ首相ゲルハルト・シュレーダーがロベルトソン号救助事件を記念してうえのドイツ文化村を訪問した[171]

脚注

注釈

  1. ^ 比較的自由主義的な官僚や貴族たちによって構成されていた勢力。1851年に『プロイセン週報』という機関紙を発行するようになったためこう呼ばれる[12]
  2. ^ 古代ゲルマン民族や中世ドイツでは共同して出征する場合に統領を選出していた[124]

出典

  1. ^ a b c d e f Deutsches Historisches Museum LeMO
  2. ^ a b c d e f Deutsches Reich
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  4. ^ シュターデルマン(1978)、p.85
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  16. ^ 前田光夫(1980) p.101
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  • 渡部昇一『ドイツ参謀本部 その栄光と終焉』祥伝社新書エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4396111687 

関連項目

先代
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世
プロイセン王
1861年 - 1888年
次代
フリードリヒ3世
先代
ドイツ皇帝
1871年 - 1888年
次代
フリードリヒ3世