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{{画像提供依頼|尼港殉難者追悼碑( 小樽市手宮公園)|date=2012年8月}}
{{独自研究|date=2011年9月}}
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{{正確性|date=2011年9月}}
[[ファイル:Nikolayevsk Incident-3.jpg|thumb|right|350px|廃墟となったニコラエフスク(尼港)]]
{{Wikify|date=2011年8月}}
[[ファイル:Niko-hannin.jpg|350px|thumb|虐殺事件を引き起こした赤軍パルチザン幹部の集合写真。中央の白衣の人物が虐殺の中心人物[[トリャピーツィン]]。左の女性は宣伝部指導者、次いで参謀長を務めた[[ニーナ・レペデワ]]。背後には日本人から略奪した[[屏風]]が見える。]]
{{参照方法|date=2011年8月}}


'''尼港事件'''(にこうじけん、{{lang-ru-short|Николаевский инцидент}}, Nikoláyevskiy Intsidyént, Nikolayevsk Massacre<ref name="JSO268">{{Cite book|洋書
'''尼港事件'''(にこうじけん、{{lang-ru-short|Николаевский инцидент}} (Nikoláyevskiy Intsidyént))は、[[シベリア出兵]]中の[[1920年]]([[大正]]9)3月から5月にかけて[[黒竜江]](アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在の[[ニコラエフスク・ナ・アムーレ]])で発生した、二度にわたる住民虐殺事件の総称。第一次は日本人居留民ならびに守備隊の集団自決事件、第二が[[パルチザン]](遊撃隊)による日本人俘虜ならびにロシア系住民数千人の虐殺事件として扱われている。
|author = James Stuart Olson
|year = 1998
|title = An Ethnohistorical Dictionary of China
|pages = 268
|publisher = Greenwood Pub Group
|isbn = 0313288534
}}</ref><ref name="MM">{{Cite book|洋書
|author = Mark Metzler
|year = 2006
|title = Lever Of Empire: The International Gold Standard And The Crisis Of Liberalism In Prewar Japan (Twentieth Century Japan: the Emergence of a World Power)
|pages = 364
|publisher = University of California Press
|isbn = 0520244206
}}</ref>)は、[[ロシア内戦]]中の[[1920年]]([[大正]]9年)3月から5月にかけて[[アムール川]]の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在の[[ニコラエフスク・ナ・アムーレ]])で発生した、[[赤軍]][[パルチザン]]による大規模な住民虐殺事件。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名([[ロシア人]]3,000名<ref name=NFDT91s773/>、[[朝鮮人]]1,000名<ref name=NFDT91s773/><ref name=hochi19200427/>、[[中国人]]300名<ref name=NFDT91s773/>)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪を行った末に、[[中国海軍]]による[[艦砲射撃]]と[[重火器]]の貸与により装備の勝る[[日本軍]]守備隊を殲滅し<ref name=NFDT91s773/><ref name=chinaview20100827>[http://www.chinareviewnews.com/doc/1014/2/7/7/101427764_5.html?coluid=6&kindid=26&docid=101427764&mdate=0827093535 辛亥革命之後哪一年中國版圖最大?] 中国評論新聞網 2010-08-27</ref>、老若男女の別なく数千人を虐殺した。虐殺されたものには、[[日本人]]居留民、日本[[領事]]一家、駐留日本軍守備隊を含む。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた<ref name="isiduka-giseisya">『アムールのささやき』p207-232</ref><ref name="watanabeparu160">{{Cite book|和書
|author = [[渡部昇一]]
|year = 2008
|title = 『パル判決書』の真実 いまこそ東京裁判史観を断つ
|pages = 160
|publisher = [[PHP研究所]]
|isbn = 4569700543
}}</ref>。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。[[小樽市]]の[[手宮公園]]に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑<ref name="satou14">{{Cite book|和書
|author = [[佐藤 誠治]]
|year = 2011
|title = 尼港事件の背景を探る
|pages = 14
|publisher = [[文芸社]]
|isbn = 4286096556
}}</ref>、また[[天草市]][[五和町]]手野、[[水戸市]]堀原、[[札幌市]]の[[護国神社]]にも殉難碑がある<ref>『アムールのささやき』p295-305</ref>。


==事件の背景==
なお同事件は各干渉国政府による[[プロパガンダ]]の材料として活用された結果、また戦後は冷戦の結果、学問的な手続きをふまえた事件の正確な記述が、現在にいたるまで少ない。
====シベリア出兵の混迷====
{{see also|ロシア内戦|シベリア出兵}}
[[File:Bolshveki killed at Vladavostak.jpg|250px|thumb|[[ウスリースク]]([[ロシア極東]])で赤軍に殺害されたチェコ軍団将兵([[1918年]])]]
[[File:Wladiwostok Parade 1918.jpg|250px|thumb|left|シベリア出兵中の連合軍によるパレード。アメリカ・フランス・大英帝国・日本国など各国の国旗が掲げられている([[1918年]])]]
[[1918年]](大正7年)8月に始まった日本のシベリア出兵は、[[アメリカ合衆国]]の呼びかけによる共同出兵であり、当初はアメリカの提議に従って「[[チェコ軍団]]救援」を目的とし、「ロシア内政不干渉」を謳ったものだった。しかし、チェコ軍団は[[赤軍]]と戦闘状態にあり、[[ボリシェヴィキ]]政権とは敵対していたので、ロシア内戦への干渉なくして救援は不可能であり、そもそもアメリカの提議自体に大きな矛盾があった。<ref>『初期シベリア出兵の研究』p22-30</ref>


つまりシベリア出兵の前提は、対独戦の一環としてのものであったが、1918年末には、ドイツ軍と連合国軍との間に休戦協定が成立し、[[チェコスロバキア]]も独立を果たして、前提が崩れた。そのため、連合国側、主に英仏は、反ボルシェヴィキを鮮明にし、日本もそれに同調して、反革命派によるロシア統一をめざしていたが、反革命派の[[アレクサンドル・コルチャーク|コルチャーク]]政権([[オムスク]]政権とも)は一年ほどしか続かず、1919年末に崩壊した。<ref>『初期シベリア出兵の研究』p192</ref>
==前史==
1920年1月コルチャーク政権の崩壊とともにチェコ軍のシベリア撤退が決定され、同軍救出というシベリア出兵の大義名分が消滅した。そこで英仏につづきアメリカなど主要な干渉国のほとんどが1月中に撤退を決定、同年3月末に撤退を完了した。また1919年度支出構成比中48%が戦費となるなど出兵にからむ出費が財政を圧迫し、人民戦争化にともなう戦線の泥沼化のなか日本国内で撤退圧力が強まった。しかし、政府・軍部は事態の成りいきにまかせて根本的な態度決定を遷延した。こうした態度の背後には、植民地獲得・勢力圏の死守という出兵の真の目的が存したからであった(参照:外交調査会 3月5日決定「帝国ト一衣帯水ノ浦潮(引用者注:ウラジヴォストークの日本側呼称)方面モ全然過激派ノ掌中ニ帰シ接譲地タル朝鮮ニ対スル一大脅威ヲ現出(中略)カクノ如キハ帝国ノ自衛上黙視シ難キ所タリ」<ref name="h512">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』512頁</ref>。そこで日本軍は、コルチャーク政権崩壊後の混乱のなか、陸軍大臣指示「西30号」を1月17日布告し派遣軍の革命勢力にたいする中立政策を暫定的に採用した。つまり「我軍ニ対シ攻撃的態度ヲ採ラサル限リ団体ノ如何ヲ問ハス自ラ求メテ之ヲ攻撃スルコト」(同指示)はないと声明した。もちろんこうした布告はあくまで時間稼ぎの戦略という側面が強く、状況によっては武力行使を許可する「西第49号」や「西第62号」が3月に入って布告されるなど、この時期の日本政府と軍部中央の方針は朝令暮改と形容するほかなく、全体として矛盾だらけだった。


1920年1月9日、アメリカが単独撤兵を通告してきたが、これは日本の出兵にとって大きな転換点となった<ref name="izao-yamaguti2">『尼港事件と日本社会、一九二〇年』</ref>。この1月から2月にかけ、革命派の勢力は[[ウスリースク|ニコリスク]]、[[ウラジオストク]]、[[ブラゴヴェシチェンスク]]、[[ハバロフスク]]の反革命勢力を倒し、それぞれに地方政権を掌握した<ref>『総力戦とデモクラシー』p259</ref>。1月17日付、[[陸軍省|陸軍大臣]]の指示により、日本軍は中立姿勢をとることになったが、不穏な情勢の中、それまで反革命側に肩入れしてきた現地日本軍は困惑した<ref>『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』p513</ref>。
他方、シベリアではエスエル([[社会革命党]])や[[ボリシェヴィキ]](ロシア共産党)、そして両派のパルチザンが革命勢力を構成していた。かれらは1月から2月にかけてウラジヴォストーク、ニコリスク、ハバロフスクなどを白軍からあいついで解放した。しかし日本軍が駐留をつづけるなか早急なソヴィエト化政策は双方により放棄された。ボリシェヴィキにとり、労農赤軍がシベリアにおいて日本軍と直接対峙した場合、ヨーロッパ・ロシアにおいて内戦がいまだ終結していないなか、ポーランドなどによる新たな介入の口実をみずから与えることになることを恐れたからである。他方、エスエルは「日本の略奪的占領」からも「ボリシェヴィキの破滅的支配」からも領域をまもるためにソヴィエト化に反対した。かくしてブルジョワ民主主義の体裁をとる緩衝国家の構想がもちあがり、2月18日共産党中央において極東共和国の樹立が決定された。しかし内戦の混乱のなかボリシェヴィキ・シベリア革命支部に同決定が伝えられたのは3月17日、激しい議論のすえ共産党極東地方委員会が同決定を採択したのは3月も押し詰まった29日、同共和国の成立がザバイカル州西部のヴェルフネヂンスクで宣言されたのは4月6日のことであった。


====尼港住人と白軍====
以上のような経緯から日本軍と革命軍は、2月までには一触触発の危機を孕みつつシベリア各地に雑居する格好となった。
[[ファイル:Nikolaevsk-na-amure old00.jpg|250px|thumb|right|1900年頃の尼港(ニコラエフスク港)]]
{{see also|白衛軍}}
[[1850年]]にニコラエフスク港は建設され、ロシアの[[極東]]開港場としては最古のものである<ref name=jiji19200520>[[田淵義一]] [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10126816&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 尼港の大惨事 (上・下)] [[時事新報]] 1920.4.20-1920.4.21</ref>。ロシア官憲は港発展策として[[ユダヤ人]]にロシア人と同様に土地家屋の[[私有権]]を与えたことから有産階級の大部分はユダヤ人によって構成されていた<ref name=jiji19200520/>。


[[ロシア革命]]の進展により、ニコラエフスクは治安が悪くなり白昼でも強盗が行われており少しでも金を持っていそうな人は[[ピストル]]で射殺されたり、銀行も金品を強奪されることから、イギリス、アメリカ、日本の銀行に依頼して預金替がされたり、島田商会が預金依頼されるほどであった<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10024873&TYPE=HTML_FILE&POS=1 在露邦商陳情] [[大阪朝日新聞]] 1917.12.9 [[神戸大学]]</ref>。漁業を営んでいたユダヤ人の資産家たちは革命によって購買組合や労働者に業を奪われるようになり[[ウラジオストク]]に逃れるものも少なくなかった<ref name=jiji19200520/>。
==アムール川下流域におけるパルチザン勢力の布置==
[[ファイル:Nikolaevsk-na-amure old00.jpg|260px|thumb|right|1900年の尼港(ニコラエフスク港)]]


[[1918年]]には、ニコラエフスクにも[[赤軍]]が進駐し、[[ソビエト]]政権が成立していた。しかし赤軍は、[[サハリン州]](当時、ニコラエフスクはサハリン州に含まれていた)全体で300人ほどの少数にすぎず<ref>『西伯利出兵史要』p37</ref>、日本軍の上陸によって追われ、やがて[[コルチャーク政権]]に代わった。「ニコラエフスクの支配階層市民102名が日本軍を呼んだ」という資料も、ソ連側にはあり<ref>『ニコラエフスクの破壊 』p3 米訳者前文</ref>、日本側も「尼港市民と内外居留民([[イギリス人]]などもいた)が日本海軍陸戦隊の上陸を請願した」と記している<ref>『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻p778 </ref>。
ニコラエフスクも1月末までに総勢二千というパルチザン軍(ニコラエフスク区赤軍と自称)によって包囲された。アムール川下流域におけるパルチザン運動の展開は他の地域より遅れ、1919年末ハバロフスク近郊で開かれた諸部隊代表者会議がその出発点であった。同地域のパルチザンの組織的特色としては、将校の選挙制や作戦計画にかんする戦闘員間の全員一致制など他の地域と同様の組織構成・運営方法のほかに、共産党組織がたとえば沿海州やアムール州南部よりはるかに弱体であり、統制が弱かった点が指摘されている<ref name="h538">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』538頁</ref>。事実、ニコラエフスク進駐後の3月16日同市で開催された州ソヴィエト執行委員会における指導部の党派別構成をみると、司令官のトリャピーツィンはアナキスト、第一次尼港事件により大会直前の3月13日死亡した参謀長ナウーモフはボリシェヴィキ、同参謀長が戦死したのち後任となった女性闘士レベヂェヴァはエスエル・マクシマリストといった具合であり、事実上ニコラエスク・パルチザンはソヴィエト制度を支持するアナキスト・共産党・社会革命党マクシマリストの三派による連合組織(コレクチフ)であった。(典型的なプチ・ブル革命家と評されるレベヂェヴァが、とくにこのコレクチフを主唱したとされる。)ただし、「トリャピーツィンの独裁者風の性癖を抑える力をもって」<ref name="h538"/>いたとされるナウーモフの死後、アナキスト=マクシマリスト連合の傾向がつよまったとされる。そしてこのような雑多な党派構成はその戦略にも反映した。すなわちエスエルや共産党の統制がパルチザンの統一戦線組織にたいして弱いゆえに、彼らは党中央の緩衝国家路線にたいして強固に反対していた。この時点では日本に対して政治解決を斥け、武戦路線にあくまで固執していたのである。


ニコラエフスクとその周辺では、[[白衛軍]]系の守備隊が治安維持にあたっていた<ref name=shiberiashuppeishi125/>。1919年の夏には将校以下350人ほどの人数がおり、日本軍と協力していた<ref name=shiberiashuppeishi125>『西伯利出兵史要』p125</ref>。
このような戦略上の無統制ぶりはパルチザンの一般戦闘員のあいだにも見られた。アルタイ地方に進出した労農赤軍第五軍の1コミサールの証言によれば、農家の収穫や家財に手を触れることのなかった同地域の農民パルチザンが、都市ではすべてが他人のもの、ブルジョワのもの、コルチャークのものだから何をしても構わないという気分になっていると報告している。「パルチザンシチナ(ロシア語で「パルチザン的な; 無計画・行き当たりばったりの」の意)」と否定的に語られる風潮がニコラエフスクのパルチザンにはとくに強かったとされる。ただしバランスをとるために付言すれば、アムール川下流域のロシア人農民・漁民の都市住民、とりわけ日本人居留民にたいする反感は、日露戦争後の漁業権益問題が遠因を形成していることも指摘されている。同問題に関してはしかし、次章で詳述する。また、他地域のパルチザン組織(例えばスーチャン渓谷でのそれ)におけると同様、同パルチザン組織中の朝鮮人部隊(ワシリー朴中隊長指揮、韓人第二中隊)は大義への専心と敬愛の模範をしめしており、規律が最も厳格だった<ref name="h543">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』486、543頁</ref>。かれらは第二次尼港事件のさいにも略奪や暴行にいっさい加わることはなかったとされる。そして後にトリャピーツィンを逮捕するさいの核となったのも同中隊であった。以上から結論するに、ニコラエフスク・パルチザンは政治・軍事組織として雑多な組織体であったゆえ、玉石混交といた体の組織であった模様である。


====尼港在住の日本人と駐留日本軍====
かかる無統制ぶりの背景として、さきにもふれたトリャピーツィンの軍事偏重の戦略があげられる。戦闘的資質を重んずるあまり、トリャピーツィンはパルチザンの前歴と政治的・道義的資質を不問に付したとされる。結果、古参ボルシェヴィキ党員のアッセムの証言によれば、トリャピーツィンは、帝政ロシア体制における拷問係など「怪しげな前歴の連中からなる親衛隊」を作り上げ、かかる取り巻き連中をみずからの独裁権力を維持するために活用していたとされる<ref name="h538"/>。たとえば、こうした取り巻の一人ラプタに率いられた部隊は、第一次尼港事件のさい、戦闘中のどさくさに紛れて監獄・民警署留置場に押し入り、釈放予定の50人と取調べ予定の数十人を殺害するなどの不法を働いたとされる。事件後ラプタ部隊の解散を他の党派が要求すると、トリャピーツィンは同部隊の戦闘能力の高さを理由として解散要求を拒絶したとされる。こうした事件はトリャピーツィンの軍事中心的思考・戦略と、ニコラエフスク・パルチザン部隊の道義的な質の頽落をしめす事例であると言えよう。要するに、ニコラエフスク・パルチザンは権力構造が不安定であり、また指導者の独裁的傾向が強く、さらに日本とのみならず各党中央の路線とも対立する強硬路線を採用し、対外・対内的な緊張関係にたえずさらされていた。結果、他のパルチザンと比較して道義的に頽落していったといえる。
[[ファイル:Nikolayevsk Incident-4.jpg|250px|thumb|1918年9月、尼港に到着した日本海軍陸戦隊]]
ニコラエフスクにおける日本企業進出の中心は、[[1896年]]に[[島田元太郎]]が設立した島田商会であり、市内随一の商社となっていた<ref name=hokudailib/>。[[ロシア革命]]による経済混乱期には自らの肖像入り[[商品券]]を流通させるほどの信用が築かれていた<ref name=hokudailib>[http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/news/111/news111-16.html スラブ研究センターニュース 季刊 2007年秋号 No.111 図書館だより] [[北海道大学]]</ref>。また、島田だけではなく日本人漁業資本家による進出もなされていた。これは、[[1907年]]に調印された[[日露漁業協約]]に保障されたもので、これらの邦人利益保護のために領事館が設けられていた<ref name="hara-kenkyuu23">『「尼港事件」の諸問題』より</ref>。


事件の一年前、[[1919年]](大正8年)1月の調査によれば、ニコラエフスクの人口は12,248人で、そのうち日本人は291人だった。1919年(大正8年)6月調査(1920年6月16日の[[外務省]]公表)では日本人は領事以下353人(男169人、女184人)であり<ref name=NFDT91s775/>。職業の主な内訳は商業、大工、指物、裁縫業、理髪、金銀細工、錺職等であった<ref name=NFDT91s775>『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻p775</ref>。なお、1918年1月の調査では499人であり、男女比はほぼ半々であった<ref name="hara-kenkyuu23"/>。職業についている女性としては、[[娼婦|娼妓]]90人、家事被雇人([[家政婦]]や[[乳母]]、[[女中]]として雇われている者)61人が主であり、残り100人の女性には既婚者が多いのではないかと思われる<ref name="hara-kenkyuu23">『「尼港事件」の諸問題』より</ref>。
==日本人居留民の構成と日本資本による鮭鱒漁の支配==
日本人の沿海州・シベリアへの進出は早く、1870年ごろ南樺太の出稼ぎ漁師が沿海州の漁業経営にも手を出したのが嚆矢とされる。同地域の居留民の職業別内訳をみると、醜業婦(売春)業と漁業労働者がその主な内実をなしていた。醜業婦にかんしていえば、ウラジヴォストークなど沿海地はいわゆる「女旱」であり、ロシア側統計によれば1897年時点で沿海州全人口中、男は女の約二倍、都市部に限って言えば前者は後者の約四倍だった。また総領事館への届出にもとづく日本側統計によれば、1910年度におけるシベリア各地在住日本人居留民の男女比は女性が若干多く(男:女 = 1,538:1,616)、後者の約半数(738名)が醜業婦に従事していたとされる。ニコラエスクも事情は同じで、男は169名、女は184名の民間人が居留していた。彼女らの多くは長崎、熊本両県の貧農出身であった。いわゆる明治以降の「[[からゆきさん]]」の実情は江戸時代中期以降の「長崎奉行」の延長だった。身売りされ苦界に身を沈めた彼女らの悲惨を歌った『浦潮節』(「長崎の埠頭に小褄からげて上陸たい」)は、当時シベリアから満州にかけて広く人口に膾炙したという<ref name="h009">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』9頁</ref>。


日本軍のニコラエフスク駐留は、1918年9月、[[海軍陸戦隊]]の上陸にはじまった。同月のうちに、陸戦隊は、陸軍[[第12師団 (日本軍)|第12師団]]の一部と交代し、1919年5月、[[第14師団 (日本軍)|第14師団]]の部隊が交代した<ref name=shiberiashuppeishi124125/>。また海軍は、航行可能な夏期にはニコラエフスクを根拠に沿岸警備を行っていたため、無線電信隊を常駐させていた<ref name=shiberiashuppeishi124125>『西伯利出兵史要』p124-125</ref>。
他方、明治初期から猟師が沿海州へ進出していたことはすでに触れたが、日露戦争後の1907年締結された日露漁業協約により、日本国臣民は日本海・オホーツク海・ベーリング海のロシア沿岸水域での捕獲・採取・製造にかんしロシア帝国臣民と同等の権益をえた。結果、日本の漁業資本が北洋で漁夫の酷使に支えられつつ飛躍的に発展した(漁獲高は1908年の1.34万トンから1917年には6.66万トンと約5倍、租借漁業区数は約2倍、見積もり生産額は約10倍)。北洋漁業経営者の代表とのちに目されるようになる堤清六と平塚常次郎などがかかる資本の代表である。男性居留民のなかにはこうした漁業資本のもとで働く労働者が多かった。


====尼港の中国人と中国艦隊====
ところでかかる躍進を技術的にささえたのが「日本式ザイェズドク」とよばれる漁法であった。ザイェズドクとは「進路を遮断する方法による捕獲」の意のロシア語である。河口で魚群を一網打尽にする一種の簗漁であるこの略奪的漁法は、漁業資源の枯渇を沿海州上流地域にもたらし、結果ロシア人漁業者は貧窮化した。たとえば1915-16年にわたる乱獲による不漁時には、アムール河沿岸やカムチャッカのロシア人漁師は飢餓に苦しめられることになった。ロシアの歴史家はかかる事態を以下のように記述する。「いずれ後世の歴史家は、1904年の日露戦争から1920年までの北部極東の生活の全期間をザイェドクをめぐる闘争の期間と名づけ、この闘争が和解せる露日の資本とロシア勤労民とのあいだで戦われたことに注目するであろう」<ref name="h541">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』541頁</ref>。
ニコラエフスクに住む中国人は、1919年1月の調査でおよそ2,314人であり、うち女性は15人にすぎず、男性の単身者が圧倒的に多かった<ref>『アムールのささやき 』p4-5</ref>。市内には、ある程度裕福な商人などもいて、中国人居留民会を組織していた。この自治会は、秩序を乱す者を市外へ追放したりもしていて、ロシア人指導者層から信頼を得ていた<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p109</ref>。


1919年9月、[[中華民国海軍]]の艦隊がアムール川に姿を現した。江享、利綏(旧ドイツ海軍「[[ファーターラント (砲艦)|ファーターラント]]」, [[:de::SMS Vaterland|de]])、利棲(旧ドイツ海軍「[[オッター (砲艦・2代)|オッター]]」, [[:de:SMS Otter (1909)|de]])、利川の[[砲艦]]4隻(利川は運送船ともいわれる)である。これは、ロシア内戦の混乱の中で、シベリア河川の航行権を拡張しようとする中国の試みだったが、コルチャーク政権はロシア政権の弱体化につけこむ行為として航行を認めなかった。[[ハバロフスク]]に向けて航行する中国艦隊は、白軍の[[アタマン]]・[[カルムイコフ]]の砲撃を受けてニコラエフスクへ引き返し、やむなく越冬することになった。<ref name=NFDT91s773/><ref name="tyugokuhoukan">『ニコラエフスク事件と中国砲艦』より</ref>
しかし内水面にかんしては、日露漁業協約によれば買魚・製制魚(塩漬けなど)・出荷が認められるのみだった。そこでニコラエスクなど内水面では、架空のロシア人名義人(ダミー)を立て、表向き前者の使用人になりすました日本人漁業資本家が買魚契約の名目でザイェドクによる実質的な漁場経営をおこなった。ところで、このもぐりの買魚方式経営をおこなうためには、ロシア地方当局と日本人漁業者のあいだにたち、買魚契約などをまとめる仲介業者が必要となる。ニコラエスクにおいて、かかる業務を一手にひきうけていたのが、「ニコラエスクの総督」と呼ばれた島田元太郎であった。島田商会は19世紀後半からニコラエスクで商売を展開していたが、第一次世界大戦における成金ブームで資産をなし、さらにロシア革命後には独自の紙幣を発行するなどニコラエスクでの経済的な支配を強めたとされる。


中国艦隊のニコラエフスク入港までには、紆余曲折があった。当時、日本は北京政府と[[日華共同防敵軍事協定]]を結んでおり、中国は連合国の一員として、[[巡洋艦]][[海容級防護巡洋艦|海容]]をウラジオストクに派遣していた。北京政府は、ロシア側が日本の艦船のアムール川航行を黙認しているにもかかわらず、中国船の航行を認めないことは[[アイグン条約]]に反するとして交渉していたが、ロシア側は認めず、中国側は、日本がロシアにそうさせているのではないか、と疑っていた。北京政府は、日、米、英、仏各国に、ロシア側との仲介を依頼したが、アメリカをのぞく各国の反応は冷淡であり、中国側は、日本がこの問題のイニシャティブをとっているとの確信を強めた。一方、ウラジオストクの日本全権は、この問題に日本が関係する意志がないことを中国側に明言し、中国艦隊のニコラエフスクでの越冬について、コルチャーク政権にとりなした。しかし、中国の新聞は日本の航行妨害を書き立てているとして、10月1日、北京の[[小幡酉吉]]公使は、北京政府に抗議している。<ref name="tyugokuhoukan"/>
かくして、日露戦争後の鮭鱒乱獲から内戦期の経済的支配をつうじて、沿海州周辺住民の反日感情は強化されたのであった。彼らにとり「すべての権力をソヴィエトへ」という革命のスローガンは「ザイェドク廃止」と読み替えられた<ref name="h541"/>。パルチザンに包囲された時点での尼港からの通信の一つに以下のようなものがある。「彼等ハ『ニ』市ニ至リ島田商店及び『リュリー』(漁業家ニシテ『ニ』市唯一ノ金満家)ヲ襲フヘキ旨揚言シツツアリト」。なぜなら「彼らはこの点(引用者注:不漁の原因)で責めを負うべきは賄賂をとったツァーリ政府の役人だけではない、日本人たち、誰よりもまず日本人『ニコライ』(引用者注:島田元太郎のロシア名)に罪があるとみていた」<ref name="h541"/>からである。以上からわかるように、一般住民から構成されたパルチザンの反都市・反日本人感情の背後には、日露戦争以降の日本漁業資本による搾取構造が存したのである。


日本の航行妨害については、当時から中国の新聞記事になっていただけに、現在の中国でも事実として受けとめられ、極端な場合は、日本軍が中国艦隊を砲撃した、というような話になっていたりもする<ref>([http://big5.ce.cn/culture/history/200712/11/t20071211_13881101.shtml 経済網-世界新聞報2007年12月11日])</ref>。
==極東の中国人・朝鮮人==
ロシア帝国が新たに獲得した人口稀少な領土、沿海州とアムール州に植民事業をおこなううえで、外国人労働者は不可欠な存在であった。そのなかで中国人と朝鮮人の存在が突出していた。前者はとりわけ初期の開発において大きな役割を果たした。たとえば1884年当時、ウラジヴォストーク市の人口構成はロシア人6,222名、中国人3,019人、日本人419名、朝鮮人354名と、中国人が30%を占めていた。彼等は農業・林業・建設(例えばシベリア鉄道の工事現場等)・商業・下僕などに従事した。しかし中国人居留民の定住化傾向はそれほど強くなかったとされる。対して朝鮮人移住者の特徴は、家族ぐるみ、時には村ぐるみの越境移住を行い、移住後はロシア社会への同化傾向が強かったことがあげられる。しかしロシア帝国の同化政策は世紀の変わり目に発生した義和団事件を経て変化する。ロシア側は当時一般的風潮となった「[[黄禍論]]」にのって帰化奨励政策を打ちきった。ゆえにアジア系居留民のロシア国籍取得が困難となり、朝鮮人居留民社会にも階層変化が生まれた。すなわち帰化を条件に一定面積の土地をロシア政府から分与されていた古参の移住者を上層とし、あらたに移住した無土地の非帰化者を下層とする階級構造へと再編成をへることになった。そして後者は義和団事件に関連して鉱山から放逐された中国人労働者を埋め合わせる形で鉱山労働者あるいは都市の雑役夫となるものが多かった。結果、1910年以降、中国人・朝鮮人鉱山労働者の占める割合が80%を超える状態となった。


ニコラエフスクの[[華僑]]商業会議所は、食料の提供などで艦隊を援助していた<ref name="tyugokuhoukan"/>。中国艦隊には、領事・[[張文換]]が乗り込んでおり、ニコラエフスク当局は砲艦の乗組員こそ歓迎しなかったものの領事の歓迎会は催した。また日本領事も歓迎会を開いて交流を持ち、パルチザンが街に迫るまでの関係は悪いものではなかった<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p109</ref>。
さらに総力戦となった第一次大戦のもとで「黄人労働者」の需要が激増し、中国人・朝鮮人労働者のなかには沿海州のみならず、ヨーロッパ・ロシアの炭鉱等でも働くものも出てきた。また帰化した朝鮮人のなかにはロシア兵として従軍したものも多かった。結果、ヨーロッパ・ロシアで革命を経験することになる中国人・朝鮮人がかなりの数にのぼったことは確かだとされる。要するに、山内封介が指摘したように「朝鮮人と支那人とは、沿海州の経済生活中に食い込んで行ったが、日本人の発展は(中略)何処までも寄生的」だったのである<ref name="h020">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』20頁</ref>。


しかし、パルチザン部隊には数百人規模で中国人が加わっていた。1920年6月19日に中国領事は会談した[[津野一輔]][[少将]]に中国人の過激派は300人であると説明している<ref name=NFDT91s773>『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻p773</ref>。事件後に尼港から脱出できたアメリカ人マキエフは600名であるとしている<ref name=hochi19200427>[http://133.30.51.93/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10126695&TYPE=HTML_FILE&POS=1 尼港邦人全滅 言語に絶せる過激派の惨虐 米人の報告=陸軍省発表] [[報知新聞]] 1920.4.27</ref>。これについてグートマンは「最下層階級の者達であって、社会的不適合者」とし、「中国人商人達は同胞パルチザンを疎んでいた」という<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p112</ref>。一方、 [[原暉之]]は、市内で編入された者ばかりではなく、「尼港周辺の鉱山労働者が加わっていたのではないか」としている<ref name="hara-kenkyuu23">『「尼港事件」の諸問題』より</ref>。
ところで政治面においては、[[朝鮮独立運動]]は中国・アメリカ・日本とならんで極東ロシアにも在外拠点をもっていた。最大のそれはウラジヴォストークの新韓村であった。同村では毎年8月29日(1910年韓国併合条約発布の日)を国辱記念寒食日と称して、各戸で炊煙をあげず抵抗の意思表示を続けていたが、日本軍進駐後も同村における民族解放運動は沈静することはなかった。逆にレーニン・ウイルソンの民族自決権宣言を契機として3・1運動が朝鮮本土において始まると、それに呼応して1919年3月後半以降、同村でも各戸がいっせいに大極旗を掲げ、大規模なデモ・集会が繰り広げられた。占領者の日本はしかし連合国とのあいだの国際的紛糾を恐れ、なんら効果的な対策を講じ得なかった<ref name="h483">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』483頁</ref>。


====パルチザンの進軍====
日本の官憲にとってさらに由々しい事態は、パルチザン運動に身を投ずる朝鮮人や中国人が相当数いたことである。具体的には1919年2月前線から復員した帰化朝鮮人のあいだで結成されたスーチャン河谷集落出身のパルチザン部隊(指揮官: グレゴリー・エリセエヴィッチ・韓)が嚆矢とされる。やがて同年6月オリガ郡には朝鮮人パルチザン部隊2個中隊が編成された。そのなかには少なからぬ非帰化朝鮮人もいたと考えられる。朝鮮人パルチザンの政治的要求は朝鮮人社会内に存在する格差是正であり、具体的には無償の土地用益権をふくむすべての権利での平等であった。また朝鮮人ほどではないが同時期、中国人のなかにもパルチザン部隊に参加したものが多かった。パルチザンに参加したスーチャン地区のある中国人の証言によれば、日本の進駐とともに瀰漫した困窮と社会的不正義がパルチザンへの参加を動機付けたとされる。「(引用者付記:中国人労働者は)ツァーリ時代の苦役囚よりひどい暮らしをしていたが、1918年に日本軍が進駐すると、生きていくことがまったく不可能となった。私たちは犬ころ同然に慰みに撲殺され、射殺された。スーチャンの山中でスモーリンの指揮下に第5シントゥヘ・パルチザン支隊が組織されたという噂を耳にするや、私は夜陰にまぎれて、当時富農のもので作男をしていた労働者と一緒に抜け出してパルチザンに入った」<ref name="h486">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』486頁</ref>。
1919年11月、[[ハバロフスク地方]]アナスタシエフカ村で、沿アムール地方パルチザン部隊指揮官協議会が催された。この会において、ソビエト権力復活のために、アムール川下流地帯にパルチザン部隊を派遣することが検討され、指揮官にはトリャピーツィン<ref group="注釈">グートマンによれば、トリャピーツィンは年齢26歳から28歳ほどで、[[ペトログラード]]の工場労働者だった。離職して、ボルシェビキの地下活動に従っていたが、1919年春に[[イルクーツク]]へ行き、同年夏にはハバロフスクにいたという。強制動員され、パルチザン軍司令部で働かされていたE.エーメリアノフは、トリャピーツィンについて次のように述べていた。「強い意志を持った男で、不遜といえるほど断固としていた。ロシア国民の無学な階層の心理をよく知っており、目的のためには手段を選ばなかった。トリャピーツィンと直接話したことはないが、知人から聞いた話から判断すると、彼の話は常に脅しであった。(中略)トリャピーツィンを見た他の人たちは『感情のない怪物』と表現した。彼の演説は、恐ろしいほどの怒りに満ちており、無教養な群衆を、磁石のように引きつけていった。彼自身が同じような階層の出であり、彼らに対する演説の仕方とか、復讐のためにその動物的本能を呼び覚ますすべを熟知していた」(参照『ニコラエフスクの破壊 』本文p30)</ref>が任命された。トリャピーツィン率いる部隊は、二ヵ月あまり諸村をめぐって人員を募り、一月半ばにアムール河口のニコラエフスクを包囲したときには、4000人以上の部隊にふくれあがっていたという。<ref name="fuzimoto-kenkyuu45">『ニコラエフスク事件』より</ref> 人数が多数にのぼったについては、強制動員されたという証言もある<ref group="注釈">以下、『ニコラエフスクの破壊 』付録A、1920年、事件直後の宣誓証言集より。Ya.V.ワシリエフ(森林監視員)「(2月の初め)サソフが、私ともう一人漁場監視員ラズモフを呼び、こう言った。『今後、公式監視員は不要である。全ての者が、人民の敵と闘うパルチザン軍に参加する義務がある。これを拒否する者は、生命の保障はされない』その少し前、70人ほどのサハリンの農民パルチザンが、ワッセに向かう途中に、通りかかったことがあった。最初は、総動員が発せられたが、その後、彼らは43から45歳までの砲兵、特殊技能者を選別し始めた。それ以外の動員者は、全員が35歳以下であった」 I.E.カザチコフ(農民パルチザン)「私は、ウダ郡サハロウカ村出身のギリシャ正教徒のロシア人農民である。(中略)結婚しており、1歳の娘がいる。前科はない。ニコラエフスクでは、要塞砲兵隊にいた。私は、暴徒達とともにニコラエフスクに来た。弟やその他大勢と一緒に、動員されたのである。弟は目の病のせいで放免されて、今は村に戻っている。私は、日本軍の攻撃の間、戦闘に参加した。その後、しばらく警備兵として働いたが、やがてチヌイラフ要塞に砲兵として送られた。そこに、ニコラエフスク待避の時までいた。逮捕や殺人には間与していない。そういったことには、特別な人たちだけが任命されたのだ」 G.I.ツゴフツォフ(アイヌ系パルチザン)「私は、コルサコフスキイ港生まれの、ギリシャ正教を信仰するアイヌ人である。私の永住地はサハリン州にあり、そこで農業をしている。有罪判決を受けたことは、1度もない。結婚していて、4人の子供がいる。一番上の子は8歳だ。私は、サカロフスカ村の4人の農民と一緒に、強制的に動員された」 E.S.プガエンコ(パルチザン)「私は27歳である。ドン州で生まれ、ウドスク郡セルギエボ=ロズデストペンスコエ準郡ノボポクロフスエコエ村に住んでいる。結婚している。現在、妻は、初めての子供を身ごもっている。旧暦の1月中旬、その時には、すでにトリャピーツィンの地位は、カベルで確立されていたのであるが、彼からの電話による緊急声明が、ワッセ岬から馬で届けられて来た。声明文には、この地方は赤軍の法のもとに置かれた、全ての健全な農民とギリヤーク人は動員されるだろう、馬や橇用の犬も同様である、とあった。動員は、16または17歳以上が対象だった。ある会合が召集された。逃げようにも場所がなく、そして、声明文で、動員に従わなかったりと拒否したりした場合は処刑する、と脅されていた」</ref>。


====朝鮮人パルチザン====
==第一次尼港事件:ニコラエフスク守備隊の全滅==
[[ファイル:이동휘.JPG|thumb|150px|シペリアで朝鮮人への朝鮮共産革命を指導した[[李東輝]]]]
日本軍陸戦隊がニコラエフスクを占領したのは1918年9月であった。歩兵1大隊を基幹とする守備隊が配置され、1919年6月から水戸歩兵第二連隊第三大隊(隊長: 石川正雅少佐、約350名)がその任についた。日本軍は治安維持の面でも白衛軍に代わって前面にでた。たとえば、20年1月19日には石川守備隊長は市民と周辺住民に夜間外出禁止令を発し、これに違反した場合は即刻死刑に処すむね布告した
{{main|抗日パルチザン}}
ニコラエフスクにおける朝鮮人過激派は中国政府の調べでは1,000名であった<ref name=NFDT91s773/>。アメリカ人マキエフも1,000名であるとしている<ref name=hochi19200427/>。朝鮮人過激派は掠奪した軍服を着用していた<ref name=hochi19200427/>。1919年1月、ニコラエフスクに住む朝鮮人は916人で、日本人の3倍ほどだった<ref name="hara-kenkyuu23"/>。しかし、ロシア国籍を持った[[高麗人]]を加えると、もっと多かったと思われる<ref name="hara-kenkyuu23">『「尼港事件」の諸問題』より</ref>。


朝鮮人パルチザンが、中国人のそれと違っていたのは、抗日独立運動の一環としてパルチザン部隊に加わる者が多数いたことである。[[ウラジオストク]]にいた朝鮮独立運動指導者[[李東輝]]が、[[ウラジーミル・レーニン]]から資金援助を受け、赤軍と協力する方針が示されていた<ref>『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』p208</ref>。
1月24日、パルチザンの軍使オルロフが日本軍守備隊を訪れ和平を提案した。ところが守備隊長はパルチザン軍を「一ノ強盗団体ト目シテ」その提議を峻拒し、軍使の身柄を憲兵隊に留置した。そして白衛軍司令官メドヴェーヂェフ大佐が身柄引き渡しを日本軍に要求すると、同軍の防諜部へ軍使を引き渡した。白衛軍は、多くの政治犯と同様、軍使を拷問したうえ殺害した。石川少佐の措置は中立を布告した「西30号」に対する明らかな命令違反であったが、かかる措置の背後には日本軍軍人のパルチザンにたいする蔑視と過小評価が存していたとされる<ref name="h519">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』519頁</ref>。


グートマンによれば、ニコラエフスクの朝鮮人は近郊で農業を営む者が多く、市内では富家の使用人がほとんどで、商人はごく少なかった<ref name=nikohakai112113/>。「[[ボルシェヴィキ]]に入ることに無関心」だったが、トリャピーツィンが朝鮮独立への赤軍の援助を確約したことで、市内の朝鮮人会は部隊を組織し、パルチザンの傘下に入ると忠実な手先となり、監獄の監視、死刑執行などを確実に行ったが、軍規は厳格で、挑発、没収、略奪には参加しなかった<ref name=nikohakai112113>『ニコラエフスクの破壊 』本文p112-113</ref>。原暉之によれば、グートマンが述べている「軍規が厳格な朝鮮人部隊」は、トリャピーツィンに批判的だった朝鮮人会書記の[[ワシリー朴]]に率いられた市内で編成された100名ほどの第2[[中隊]]である<ref name=siberiashuppei543544/>。外部から来た[[朴イリア]]率いる第1中隊(サハリン部隊の名で知られる)は横暴で士気が低かった<ref name=siberiashuppei543544>『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』p543-544</ref>。
その後1月29日ニコラエスク・チヌイラフ(ニコラエスクから約12キロ下流にある要塞所在地)間の電信電話線がパルチザンにより切断。2月2日チヌイラフ軍守備隊がパルチザンを攻撃、しかし逆にパルチザン勢力により要塞と海軍無線電信所を6日に占領された。結果、ニコラエスクは外界から完全に孤立した。陸軍中央部はこれを受け、救援隊の派遣方針を定め、21日に旭川第7師団にたいして尼港派遣隊編成が下令された。


==事件の経過==
同じ21日パルチザン軍の司令官トリャピーツィンはハバロフスクの日本軍司令官宛に電報をおくり、無益な犠牲をさけるため、外界と遮断されて日本軍の局外中立方針を了知していない尼港守備隊に所要の指示をあたえるよう提議した。これをうけ2月2日すでにチヌイラフへ発せられ、同地守備隊長が拒絶した中立を命じる訓練が、師団長たる白水中将の名で再度打電された。結果、2月28日和平協定が成立した。相互の内政不干渉、白衛軍の武装解除などがその内容であった。
===包囲される尼港===
1919年11月、コルチャーク政権が崩壊したことによって、白軍は求心力をなくし、勢力を弱めていた。ニコラエフスクにおいても、近郊の村々が次々に占領されていたが、白軍の反撃はことごとく失敗に終わった。白軍司令部は、日本軍の支援なくしてパルチザンに対することができなくなったことを悟ったが、1920年1月には極東の指令本部があったウラジオストクでも政変が起こり、そこで日本軍が白軍を支持しなかったことが手伝い、日本軍との関係も微妙なものになっていた。市内においても、港湾労働者などを中心に、パルチザンの到来を待つ人々も増えてきていた。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p25-26</ref>


=====パルチザンの攻勢=====
和平協定を結んだ翌29日、パルチザンはニコラエフスクに進駐した。かれらは直ちに市ソヴィエトを組織。臨時執行委員会を設置し、労働者・市民から志願兵を募集しはじめた。また、革命派の政治犯や軍使等の拷問・処刑に対する報復措置として白衛軍将校(司令官メドヴェーヂェフ大佐はパルチザン進駐時に自殺)・資本家らを逮捕・銃殺した。(一説によれば最初の数日間で400名以上が逮捕され、革命法廷の審理の後、数十人が銃殺されたとされる。)さらにパルチザンは、中国人(1919年1月当時、2,329人居住)、朝鮮人(同、916人居住)を部隊に編成しはじめた。この事態にたいして日本軍幹部は憤慨し、つぎは自分たちの番だとみて戦慄した可能性があるとされる。
冬期(11月から5月)のニコラエフスクは、港が氷に閉ざされ、陸路のみとなる。ニコラエフスクに駐屯していた第14師団の主力は、ハバロフスクにいたが、その間は、氷結したアムール川の氷上通行があるのみだった。しかも、パルチザンが横行するようになった1919年の末ころから、それも不可能に近くなっていた。<ref>『西伯利出兵 憲兵史』p492-493</ref>


1919年10月、ハバロフスク・ニコラエフスク間のロシアの電線をパルチザンが遮断し、街と外部との連絡は、日本海軍の無線電信に頼るのみになっていた<ref>『西伯利出兵史要』p127</ref>。
====日本軍による奇襲と開戦の原因にかんする記述の検討====
以下、日本軍による奇襲へいたる過程に関して日ソ文献は異なる記述をしている<ref name="h522">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』522頁</ref>。<!--そこで両者の記述を併記したうえで、その信憑性にかんしてコメントする。-->


1920年1月、ニコラエフスクに駐留していた日本陸軍は、[[石川正雅]][[少佐]]以下、水戸[[歩兵第2連隊]]第3大隊のおよそ300名に、通信、衛生、[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]、野戦郵便局員を加えて、330余名だった。海軍は、[[石川光儀]]少佐、[[三宅駸吾]]少佐<ref group="注釈">ウラジオ派遣海軍の参謀であり、ロシア通で、冬期調査のため客分としてニコラエフスクに滞在していた。(『アムールのささやき』p17、p289)</ref>以下40数名だったので、総計370余名である。<ref>『校訂 国辱記』p145-157</ref>
ソヴィエト・ロシア側文献に基く記述: 事件参加者ドネプロフスキーの著書には3月11日の武装解除の最後通知に関する記述はなく、逆に市進駐後の日本軍とのあいだの関係が友好的であったとしている(ニコラエフスク地区赤軍本部の公式声明では以下のように描写している。「日本軍は武装したまま自由に市内を往来していた。関係はきわめて友好的なものに思われた。(中略)彼ら将校たちはしばしばわれわれを本部に訪ね、実務的な会話のほかに仲睦まじい話し合いも交わし、ソビエト政権に共感をもっているといい、じぶんはボリシェヴィキだと称し、赤いリボンをつけたりした。武力でも、できることなら何でも赤軍を助けたい、と約束した」)。そして3月11日には夕刻パルチザン本部で宴会が催され、石川少佐、石田領事も招待されて出席。やがて日本人や若干のパルチザン側の出席者が帰宅したが、多くのものが宴会場で深夜まで度外れに深酒。そこへ日本側が奇襲攻撃を開始。ゆえに日本側の友好的態度は、警戒心を緩ませ攻撃を有利にすすめるための計画的な欺瞞と主張している<ref name="Dneprovskiy">Dneprovskii, S. ''Sbornik materialov istorii revoliutsionnogo divizheniia na Dal’nem Vostoke'', 3 Vols., Vladivostok,, 1966, 106-109頁</ref>。ドネプロフスキーの記述が事実だとすれば、武装解除という停戦協定に抵触しかねない重大な案件の最後通牒を突きつけ挑発しながら、その晩に敵の大将とともに深夜まで本部員多数が泥酔するとは考えにくい。


白軍の弱体化により、ニコラエフスク市内の治安維持は、白軍司令官メドベーデフ大佐を前面に出しながらも、実質的には日本軍が担うことになり、1月10日には、夜間外出禁止令などが布告され、[[戒厳]]に近い状態となった<ref>『西伯利出兵史要』p128-129</ref>。
日本側文献に基く記述: 参謀本部編『昭和三年支那事変出兵史』(以下『出兵史』)によれば3月7-8日頃、石川少佐は白衛軍や資本家の逮捕・銃殺あるいは中国人や朝鮮人のパルチザン部隊への編入に関してトリャピーツィンにたいして詰問、しかし後者は内政問題として取り合わず。ついで11日午後、ナウーモフ参謀長が守備隊本部へ来て12日正午までの回答期限つきで武器弾薬の引き渡し、すなわち武装解除を要求。そこで攻撃をひそかに準備してきた日本軍は、12日午前2時を期して攻撃を開始することを決定<ref name="shuppei891">『昭和三年支那事変出兵史』第3巻、891-892頁</ref>。
また当時の日記によれば、11日の武装解除要求の件にかんして「武器弾薬ノ借受ヲ要求」つまり武器を借りたいとの申し出でがあったとされており、武器引き渡しの最後通知とは記述されていない<ref name="nikki1920">津野少将より山梨陸軍次官宛「尼港戦闘状況・香田一等兵日記」1920・6・30、旧陸海軍記録「西受大日記」1920・7</ref>。ゆえに、『出兵史』に記述されているような日本軍守備隊に対する武器の引き渡し要求というものが、作り話ではないとしても、誤ってあるいは奇襲攻撃を正当化するために故意に曲解した筋書きである可能性を排除することはできないとされる。


1月23日、300人ほどのパルチザン部隊が、氷結したアムール川の対岸から、ニコラエフスクを襲撃してきたが、ロシアの旧式[[野砲]]を修理して用意していた日本軍が、砲撃を加えたために、すぐに退散した<ref>『西伯利出兵史要』p129-130</ref>。
====戦闘の経過====
日本軍は12日午前1時30分行動を起こし、宴会が終わって寝静まっているパルチザン本部を包囲し戦闘の火蓋を切った。本部は火焔につつまれ、トリャピーツィンは炸裂した手榴弾で足に負傷、ナウーモフは窓の外に飛び降りたところをつかまり殺害された。不意の闇討ちをうけて狼狽したパルチザン側はしかしまもなく勢力をもりかえし、日本側は守勢にまわった。


翌24日と26日には、三宅海軍少佐と[[石田虎松]]副領事<ref group="注釈">副領事だったが、後日、殉難した3月14日の日付で、領事に昇格した。石田領事は明治7年([[1874年]])、[[石川県]]に生まれ、母子家庭だったために苦学した。東京のニコライ神学校から東洋協会露語学校に転じて卒業。明治31年外務省留学試験に合格してウラジオストク留学、明治35年外務書記生に任じられ、大正6年([[1917年]])ニコラエフスク赴任。翌年、副領事に任じられていた。(『アムールのささやき』p142、『校訂 国辱記』p61) [http://www.yasukuni.or.jp/history/12.html 石田領事一家および館員(前列左端が石田虎松領事)] [[靖国神社]]</ref>より、[[海軍軍令部長]]および[[外務大臣]]に対し、陸戦隊の派遣を求める無線連絡があり、ニコラエフスク救援隊派遣の検討がはじまった<ref>『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 p781</ref>。
ここで停泊中の中国砲艦の動向が戦闘の帰趨を決する重要な意味をもった。ニコラエフスクには松花江の防衛のため上海からハルビンへ赴く途中で冬篭りを余儀なくされていた4隻の中国砲艦が停泊していた。同砲艦はパルチザン入城に先立つ攻防戦では中立の姿勢をとっていた。また同市在住の中国人や朝鮮人のなかに、パルチザンの進駐以前に白衛軍や自警団に参加するものは見られなかった。しかし3月12日の戦闘では中国砲艦が自発的にパルチザン側につき日本軍に対して砲撃を加え、日本軍の敗北を決定的にした。砲艦の乗務員は中国人居留民と結びついており、後者のなかにはパルチザンに参加したものが多数存在したのが理由とされる。すでに述べたとおりパルチザンには中国人・朝鮮人部隊が存在し、かれらは市にはいった後、同胞の応募者を得て勢力を増大した。ことほどパルチザン勢力と中国人・朝鮮人居留民の結合は親密であった一方、日本軍ならびに日本人居留民は完全に孤立していた。


=====トリャピーツィンの使者=====
戦闘は2日目に概ね終わった。12日の戦闘における日本軍兵力は陸軍戦闘員288、同非戦闘員32、海軍無線電信隊43、在留民自警団・在郷軍人から構成されていたが、13日に残った兵力は100(内居留民13)、ほかに陸軍病院分院に院長以下8、患者18を数えるのみであった。そして18日には中隊兵舎に立て篭もっていた兵士に対して、ハバロフスク歩兵第27旅団長山田少将と杉野領事の戦闘中止命令が伝えられ、18日朝日本軍は降伏し、残存する兵士と居留民は俘虜として収監された。
この24日、トリャピーツィンの使者オルロフが日本軍守備隊を訪れて、ニコラエフスクの明け渡しを申し入れたが、守備隊長は「このパルチザンは強盗団である」という認識から、白軍の求めに応じて、白軍探偵局へオルロフを引き渡した。白軍は、引き取った使者オルロフを殺してしまった。<ref>『西伯利出兵史要』p130、『ニコラエフスクの破壊 』本文p35、『ニコラエフスク事件 』</ref>


実はオルロフは、実際に山賊をしていたという証言もある。虐殺から生きのびた市民E.I.ワシレフスキイ(課税評価人)が、1920年7月の宣誓証言で、こう言っている。「オルロフは、1918年のボルシェビキ委員のベベーニンとスレポフとともに逃亡し、逮捕処刑されるまで、山賊をやっていた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p203</ref>
====居留民全滅の原因にまつわる検討====
日本人居留民(男169人、女184人)全滅にまつわる記述にも混乱が見られる。そこで以下ふたたび文献の比較検討を行う。


オルロフの処刑について、スモリャークが述べるソ連側の言い分では、「白軍は使者を残虐に責め殺した」ということである<ref name="fuzimoto-kenkyuu45">『ニコラエフスク事件』より</ref>。一方、白軍将校の中で奇跡的に虐殺をまぬがれたグリゴリエフ中佐<ref group="注釈">グリゴリエフは、ロシア帝国正規軍の将校として、[[東部戦線 (第一次世界大戦|対独戦の前線]]に立っていたが、病気を理由に革命の嵐を避けて軍務を離れ、コルチャーク政権ができると同時に、軍に復帰した。パルチザンのニコラエフスク入城直後に捕らわれたが、正規軍で3年半の間生活をともにした従卒イワノフが、偶然トリャピーツィンの側近になっていて、助けられた。白軍将校では唯一の生き残りであり、貴重な証言を残している。(参照『ニコラエフスクの破壊 』付録A宣誓証言集 p170-178)</ref>は、次のように証言している。「パルチザンが町に入った後、彼らは軍使オルロフの死体を発見した。トリャピーツィンの命令で、ロシア人および日本人医師からなる委員会が組織され、オルロフの死体を検視した。そして、銃痕以外には、なにも傷がないことが確認された。(両耳は鳥につつかれていたが、それは死後に起ったことである)私は、このことを委員会の一員だったポブロフ医師から聞いた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p177</ref> 
ふたたび『出兵史』によれば、戦闘の局外にあった民間人が敵軍の手で皆殺しになったかのような記述をしている。「敵ハ(中略)我居留民ヲ襲ヒ老若ヲ問ハス虐殺シテソノ財貨ヲ奪ヒ辛ウシテ難ヲ免レ中隊兵舎ニ入リシ居留民僅ニ十三に過ス」<ref name="shuppei900">『昭和三年支那事変出兵史』第3巻、900頁</ref>。しかし多門二朗大佐より参謀本部総務部長宛1920年5月6日付報告によれば、3月末に尼港を出てサハリン島に帰来したアメリカ人毛皮商人は全滅の過程にかんして、居留民全員は日本軍とともに一団となって島田商店に立て篭もり、同商店が戦闘の過程で火災にみまわれると兵士ともども「共ニ万歳ヲ叫ビ悉ク火中ニ投ゼリ」という証言をおこなったとされる<ref name="gaimu-siberia>外務省記録: 「西比利亜政情」</ref>。また救援隊とともに現地入りした外務省の花岡止朗書記官より内田外相宛1920年6月22日報告にも「当地居留民ハ今春3月12日事件ノ際領事及軍隊ト行動ヲ共ニシ大部分戦死」<ref name="gaimu-nikou">外務省記録: 「尼港ニ於ケル帝国官民虐殺事件」(アジ暦)尼港ニ於ケル帝国官民虐殺事件 第一巻【 レファレンスコード 】B08090305000 (65/87)。</ref>と報告している。以上から居留民の一部が略奪・殺害された可能性は否定できないが、さきの『出兵史』の記述の不確かさを鑑みると、大半が軍と行動をともにし戦死したとみるのがもっとも妥当と思われる。


リューリ兄弟商会の社員だったYa.G.ドビソフにも、同じような証言がある。「トリャピーツィンによって公開された情報は、実際の事実とは一致しなかった。『我らの軍使オルロフは、拷問によって殺され、このことは国際調査団によって確認された』という彼の主張は全くのデタラメであった。反対に、ロシア人と日本人の医師からなる調査団は、オルロフの死体を検査し、数ヶ所の銃弾の痕以外は、他に傷がないことを照明した。私は、ボブロフが、調査団のロシア人医師の一人であったことを覚えている。トリャピーツィンは、この結論に大変不機嫌であった。そして、検査の報告を公表しなかった」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p189</ref>
そして重大なことは、敗戦の過程で集団自決が発生した事実である。先のアメリカ人目撃証言もそうだが、自ら領事館に火を付け、妻子を道連れにして三宅海軍少佐と差し違えして自刃した石田虎松副領事のケース、あるいは自分が助かるために「女たちが足でまといになるのを恐れて」楼主に拳銃で射殺された酌婦十数人のケース<ref name="matsunaga">『子守唄の人生』53頁</ref>等が記録に残っている。ゆえに「日本人居留民全滅は敗戦の過程での集団自決を抜きにしては考えられない」<ref name="h524">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』524頁</ref>。


木材工場主のI.R.ベルマントもこう証言する。「トリャピーツィンは町に入市するとすぐ、ロシア人と日本人の医師、住民の代表からなる合同委員会を任命した。委員会は、数発の弾痕以外、オルロフの遺体には、何らの傷あとも、拷問のあとも認められない、と断定した。このことは、委員会のメンバーだった、ユダヤ人住民代表のデルザベットとボブロフ医師に聞いた。トリャピーツィンは以前から、オルロフは拷問によって殺された、と触れ回っていたが。委員会によってその結論が出たにもかかわらず、同じ事を言い続けた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p243</ref>
==日本の北サハリン占領==
3月末に「尼港の惨劇」が、背信的な奇襲をかけた結果の自殺行為に近い全滅であったことは伏せて報道されると、国民は「過激派」暴虐に憤慨し、マスコミと世論に後押しされた皇軍中央は、4月9日救援部隊の出動を決定した。日本政府の方針は、真相の究明はこれからという段階であるにもかかわらず、すでに確定していた。4月18日2艘の軍艦で出発した日本軍救援部隊(隊長多門二郎大佐)2,000名は、22日北サハリンの亜港に到着。そして占領宣言を公式に発することなくそのまま北サハリンを報復占領した。そして解氷期がはじまった5月13日、後続部隊とともに韃靼海峡を越え対岸のデカストリへ上陸。ニコラエフスクを目指した。


=====チヌイラフ要塞と海軍無線電信所への攻撃=====
==第二次尼港事件:パルチザン指導部の分裂と軍事革命本部体制==
[[File:Japanese battleship Mikasa.jpg|thumb|200px|ニコラエフスク救援に向かった[[戦艦三笠]]。堅氷に阻まれ救援は失敗した]]
ニコラエフスクでは3月16日に開催されたサハリン州ソヴィエト大会以降、市はソヴィエト執行委員会の掌握下にあった。しかしすでに述べたように、共産党極東地方委員会が中央の指示にもとづきソヴィエト化政策を3月末に放棄。4月6日ザバイカル州西部のヴェルフネヂンスクで緩衝国家である極東共和国の建国が宣言された。にもかかわらず、ニコラエフスク・パルチザンはボルシェヴィキをふくめこの決定に反対した。古参共産党員パルチザンのアウッセムの回想録によれば、かれらは緩衝国家の存在に「ソヴィエトの大義への裏切り」を見た。
ニコラエフスクの町の入り口は、町から10キロあまり離れた丘陵地帯にあり、町を一望できるチヌイラフ要塞によって守られていて、その近在には、日本海軍の無線電信所があった<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p33、『校訂 国辱記』p8-9</ref>。


すでに白軍にはチヌイラフ要塞にまわす兵力がなくなり、日本軍が守備を引き受けていた<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p34</ref>。
しかし極東の共産党組織が緩衝国家構想の方向へしだいに整除されていくにつれ、ニコラエフスクのボルシェヴィキ・パルチザンにもこれに同調する分子が増大。5月には司令官の権威を脅かすまでになった。


1月28日、パルチザンの斥候8名がチヌイラフ要塞に姿を現し、戦いははじまった。翌29日、小競り合いがあり、チヌイラフ要塞とニコラエフスクの間の電線がパルチザンによって切断された。2月4日になって、ブラゴエシチェンスクにいた第14師団長[[白水淡]]中将からニコラエフスク守備隊へ、「パルチザン側から日本軍を攻撃してこないかぎり、自ら進んで攻撃をすることはやめよ」という新方針の無線連絡があった。要塞守備隊の人数が少なかったところへ、この指示が来て、翌5日には要塞を明け渡した。[[2月7日]]、要塞を占領したパルチザンは、海軍無線電信所を砲撃してきて、電信室が破壊された。やむなく陸海の守備隊はニコラエフスクへ引き上げることに決したが、その際の戦闘で、陸軍兵2名が死亡し、榊原[[機関科|機関]][[大尉]]は下腹部貫通銃創の重傷を負い(後日死亡)、陸海各1名が軽傷を負った。<ref name=NFDT91s783>『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻p783</ref>
そうしたなか日本軍接近の知らせが入ると、トリャピーッインはソヴィエト執行委員会を解散、軍事革命本部へ5月中旬全権をうつした。その構成は、議長がアナキストのトリャピーッイン、社会革命党マクシマリストのレベヂェヴァが書記、アナーキスト・サークルの影響下にあった農民教員出身のジェレージン、古参ボルシェヴィキのアウッセム、地元農民のベレグートフが委員、以上総勢5名で構成されていた。以上から明らかなように、軍事革命本部はアナキストとエスエル・マクシマリスト連合の傾向が強かった。権力基盤を固めたトリャピーツィンはミージン民警隊長、ブードリ鉱産コミッサールなどボルシェヴィキ緩衝国家派を陰謀罪で逮捕、かくして3派コレクチフ(連合)は崩壊し、パルチザン組織は内部分裂状態へと陥った。そこで軍事革命本部は、パルチザン組織の存亡にかかわる危機的事態に対処すべく反対派に対するテロルを武器とする強権発動を通じて指導体制の維持を図ることになる<ref name="h537">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』537頁</ref>。


これにより、ニコラエフスクと外界との連絡網はすべて絶たれた<ref>『西伯利出兵史要』p131-132、日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 p781-783</ref>。
====軍事革命本部体制によるテロとニコラエフスクの焦土化====
日本軍による再占領が避けられなくなると、ニコラエフスクのパルチザンはニコラエフスクの住民をアムグニ河谷のケルビ村に疎開させ、部隊もこの方面に撤退する措置を講じた。中国人居留民も砲艦とともに尼港から遠くないマゴへと疎開した。トリャピーツィンの思惑では、同村からさらにエスエル・マクシマリストが支配するアムール州ブラゴヴェシチェンスクまで撤退し、そこで同派と合流することで反緩衝国家・反日闘争を継続する予定だったとされる<ref name="h539">『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』539頁</ref>。かかる状況下で、トリャピーッインとその取り巻きは、5月下旬から反対派と目される住民にたいしても恣意的かつ大規模なテロルを敢行。その規模は大きく、犠牲者は3000人とも、後の人民裁判の判決によれば「サハリン州住民の約半数」ともいう。このテロルの一環として5月24日―25日、約130人(内居留民13人)いたといわれる獄中の日本人俘虜も殺害された。一般にいわれるところでは、アムール河畔へ連行され、そこで殺害されたとされる。パルチザン軍は撤収をおえると、6月1から2日にかけて市の大部分に火を放った。三日後の6月5日日本軍が同市に到着したとき、同市は廃墟と化していた。以上から明らかなように、第二次尼港事件の要因としては、内圧(パルチザン勢力の内部分裂)・外圧(日本軍の接近)によりパニックに陥ったパルチザン指導部が、大量の住民とともに撤退する混乱のなか前後の見境もなく粛清へと突っ走った結果発生した惨劇であると思われる。


最後の無線連絡で、事態を知った陸軍当局は、ニコラエフスクへの増援を検討したが、各地で不穏な情勢が続いていたため、ウラジオストク、ハバロフスクともに兵員の余力が無く、可能になり次第、本土から増援部隊を送ることとした。2月13日、北海道の[[第7師団 (日本軍)|第7師団]]より増援部隊を編成する手続きをとった。一方、海軍は、[[樺太#北樺太(北サハリン)|北樺太(北サハリン)]]の[[アレクサンドロフスク・サハリンスキー|アレクサンドロフスク]]からも不穏な情報が入っていたことから、[[三笠 (戦艦)|三笠]]と[[見島 (海防艦)|見島]](砕氷船)を視察に出したが、ニコラエフスクの方は堅氷に閉ざされて、艦船の近接、上陸は不可能だった。結局、陸軍の増援は延期された。<ref>日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 p781-782</ref>
====軍事革命本部体制の終焉と指導者の処刑====
6月上旬に反トリャピーツィン派の秘密組織がトリャピーツィン指導部の転覆工作を開始。6月末までにアムグイ=トゥルイ戦線のパルチザンほぼ全員が彼の逮捕を支持するに至った。そして7月2日にボリシェヴィキのアンドレーエフを長とする臨時軍事革命本部が結成され、逮捕を実行するための特殊チームが編成された。その中核となったのが朝鮮人パルチザン部隊(韓人第二中隊)であったことはすでに述べたとおりである。結果、7月3日から4日にかけての夜、避難先のケルビでトリャピーツィン指導部は逮捕された。6日に行われた兵士総会は本部の活動を承認し、トリャピーツィン指導部を公開人民裁判にかけることを決議。ケルビにはニコラエフスクからの引揚者5,000人がいたが、全住民から代表が選出され、8日に「103人」から構成される法廷が開廷。トリャピーツィン、レベヂェヴァ、ジェレージンら7名に対して銃殺刑が宣告され、刑は翌日執行された。刑の執行の2日後、ウラジヴォストークの共産党沿海州協議会は決議し、トリャピーツィンとレベヂェヴァがニコラエフスクにおける正式のソヴィエト政権代表ではなく、ソヴィエト政権中央諸組織の指令には意図的にたえず反対してきたこと、彼らが党とは無縁の冒険主義者であることを内外にアピールした。かくしてニコラエフスクの軍事革命本部体制は清算された。しかしそれが日本人に与えた衝撃は大きかった。


===尼港の開城===
==日本における反過激派キャンペーンと政府による同事件の活用==
ニコラエフスク開城の条件は、日ソで見解が食い違っている。開城の条件は、次項で述べる日本軍蜂起の原因にも深くかかわってくるので、ここで、開城の経緯とともに子細に双方の主張をまとめる。
[[ファイル:12PM-May-24-1920 Do not forget.JPG|thumb|right|240px|監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書<br />「大正九年五月24<small>日</small>午后 1 2 時 忘ルナ」]]


=====尼港開城の経緯=====
3月の時点でマスコミは「尼港の惨劇」を伝えていた。しかし6月救援隊によって現地の凄惨な状況が伝えられると、新聞各紙はこれを大々的に報道。「凶悪言語に絶する尼港の過激派」、「板壁に残る同胞の絶筆『五月二十四日を忘れるな』」(『大阪朝日』、6月7日、14日)といった4段抜きの見出しが読者の目を引いた。また報道キャンペーンに加えて、殉難者の慰霊祭と従軍記者の「真相報告会」が連日のように開催された。たとえば石田副領事の遺児芳子が書いた作文「敵を討って下さい」が全国へ流布されて涙をさそい、このようにしてかきたてられた「過激派」にたいする敵意と憎悪はたちまち国民的世論となった。
チヌイラフ要塞を占領したパルチザンは、ニコラエフスクに砲撃を加えたが、それほどの被害はもたらさなかった。2月21日、砲撃は止まり、トリャピーツィンは再び使者を派遣して、「我々に町を引き渡さなければ、砲撃で破壊する」という手紙を、日本軍守備隊に届けた。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p35</ref>


同じ21日、トリャピーツィンは、ハバロフスクの日本軍無線電信所宛にも、「ニコラエフスクの日本軍は通信手段を失っているので、われわれの無線電信仲介によって、そちらが戦闘停止を指示してもらいたい」と打診していた。この報を受けて、陸軍当局は、ウラジオストクの派遣軍に「ニコラエフスクにおける衝突は、パルチザンの攻撃に始まっているのだから、わが日本の守備隊は正当防衛をしているにすぎず、以降、日本軍と居留民に損害が出たならば、その責任はパルチザン側にある。パルチザンは攻撃を中止し、日本の守備隊が無線電信を使えるようにして、守備隊長石川少佐と、ハバロフスクの山田旅団長が直接連絡できるようにしてくれ」とパルチザンに回答するよう、指示した。<ref>日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 p782</ref>
政府は6月半ばの時点で同事件の真相をある程度把握していたが、あえて事実を隠蔽。シベリア干渉を継続するために同事件を徹底的に利用した。結果、きびしい検閲体制のなか、戦後にいたるまで真相が国民に知らされる機会が訪れることはついになかった<ref>『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』540頁</ref>。

ニコラエフスクのロシア人指導者、市長と市参事会、地方議会の代表たちは、日本軍宛のトリャピーツィンの手紙を検討し、市民の命の安全と町の繁栄の保持を条件に、赤軍との交渉をはじめることを決めた。5日以来、外部とのすべての通信が遮断されていたため、他の都市の状況を知る手段もなく、それが知りたかったこともあって、ロマロフスキイ市議会議長、カルペンコ市長、ネムチノフ大尉が使者となり、トリャピーツィンが本営をかまえていたチヌイラフ要塞に向かった。トリャピーツィンは彼らを使者と認め、およそ以下のような条件を提示した。<ref name="hakai35-36">『ニコラエフスクの破壊 』本文p35-36</ref>
#白軍は武器と装備を日本軍に引き渡す。
#軍隊と市民の指導者は、赤軍入城までその場にとどまる。
#ニコラエフスクの住民にテロは行わない。資産と個人の安全は保障される。
#赤軍入城までの市の防衛責任は、日本軍にある。赤軍入城後も日本軍は、居留民保護の任務を受け持つ。
市の指導者たちは、これを受け入れる方向で動いたが、白軍は「赤軍はかならず裏切って、合意はやぶられる」と主張し、開城を受け入れなかったので、最終的な判断は、日本軍にゆだねられた。<ref name="hakai35-36"/>

23日、パルチザンの無線を通して、白水師団長から石川少佐宛に、「パルチザン部隊が日本の居留民に害を加えたり、日本軍に対して攻撃的態度をとらないかぎり、これまでのいきさつにこだわらず、平和的解決に努めよ」との指令が届いた。石川少佐は海軍と相談し、24日から停戦に入り、28日、パルチザン部隊と講和開城の合意が成立した。<ref>日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 p782-783</ref>

=====尼港開城の条件=====
尼港開城にあたって、日本軍とパルチザンの間でかわされた合意条項に関して、双方の見解を比較する。

まず日本側だが、『西伯利出兵史要』は「日露(パルチザン)両軍が治安を維持すること。裁判なくして市民を銃殺しないこと。ほしいままに市民を捕縛したり、略奪したりしないこと」が合意事項であったようだとし<ref>『西伯利出兵史要』p133-134</ref>、『西伯利出兵 憲兵史』は「ニコラエフスク市内においては反革命派を検束しないこと。規定数以上のパルチザンを市内に入れないこと」だったのだろうとする<ref>『西伯利出兵 憲兵史』p493</ref>。

一方、スモリャークが述べるソ連側の見解では、一応、日本側は交渉の席で、「人格と住居の完全な不可侵、白軍や官吏、政府機関職員を含む全市民の財産の不可侵。過去の完全な免責。新政権と同一の見解に立たない白軍の全将校と兵士は、日本軍司令部の保護下におかれ、航行が再開され次第、その護衛の下に自由に外国に出国する権利をもち、また出国にいたるまでの期間軍服を着用する権利を保持する」という保障を求めたが、パルチザン側はこれを認めなかった、としている<ref name="fuzimoto-kenkyuu45">『ニコラエフスク事件』より</ref>。原暉之もまた、ソ連側文献を根拠に、日本側からは「砲を日本軍にわたすこと。入市するパルチザンの数を制限すること。新政権と意見のあわない将兵は日本軍と日本領事館の保護を受け、解氷とともに出国する権利を保障されること」といった条件が出されたが、パルチザン側はこれをつっぱね、日本軍が折れて合意に達した、とする<ref>『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』p520-521</ref>。

これに関して、事件直後の宣誓証言から、引用する。

グリゴリエフ中佐「私は、町の引渡しに関する赤軍との交渉が、どのように始まったのか正確には知らない。秘密裏に行われていたからである。その後、我々(白軍司令部)の代表数人も参加した。これらの代表者は、ムルガボフ少尉とネムチノフ大尉である。これら軍の代表者に、町の代表者たちが加わった。町の代表者は、市長カルペンコ、市議会議長コマロフスキイ、ゼムストヴォ(地方自治会)の議長シェルコブニコフ であった。交渉が終ると、メドベーデフ大佐は会合を召集し、白水中将の宣言によって、日本軍は赤軍との交渉を始め、町を引渡すことを決定し、しかも引渡しの条件もすでに決定している、と文書を読み上げて、我々に伝えた。全部は憶い出せないが、最も重要なポイントは次のようなものであった。ロシア軍(白軍)部隊は、個々人の免責は保障される、そして、アムール河の航行が可能となったら、町を自由に離れることも許可される。日本軍は武器を保持するが、ロシア軍は赤軍が町に入る前に、武器と装備を日本軍に引き渡す。また、町の住民は、一切の免責と平和を保障される」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p171-172</ref>

E.I.ワシレフスキイ「町を引渡すときの条件は、以下のようなものであった。日本軍は武器を保持する。ロシア軍(白軍)部隊は、パルチザン入市以前に日本軍によって武装解除され、全ての町の警備は一時的に日本軍によって代行される。ロシア軍のその後の処遇については、ソビエト政府の法律によって決定される。市民は、その自由を制限されることはない。この最後の項目は、希望的な表現になっていた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p202</ref>

S.I.バルナシェフ「誰もが、『流血が起らない限り、日本軍は、権力の移譲に反対しない』という白水中将の声明に驚いた。日本軍は、休戦に合意した。一方ロシア軍(白軍)は、武装解除を要求された。合意によれば、ロシア軍派遣隊は、パルチザンの到着前に日本軍に武器を引き渡すこと、そして市内の治安維持活動も日本軍に引き継がれることになっていた。パルチザンとの戦闘に参加した者に対しては、全員の罪の免除が保障されていた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p210</ref>

V.N.クワソフ(女子学生)「降伏に関して、その条件案が話し合われました。それによると、逮捕されるのは諜報機関のメドベーデフ大佐と参謀長スレズキンだけとなっていました。全ての市民とその資産は、無傷で保全されることになっていました。この降伏に関する条件が、町中に張り出されました」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p243</ref>

I.R.ベルマント「合意では、日本軍は、日本人居留民ならびにロシア人を含む一般住民の、護衛権を保持することになっていた。その他の合意条件は、次の通りであった。パルチザンの到着以前にロシア軍(白軍)は武器を日本軍に引渡すこと、日本軍は武器の保有権を有すること、パトロールを継続できること、日本人所有の建物の護衛権を保持すること」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p239</ref>

=====ブラゴヴェシチェンスクの場合=====
ちなみに、ニコラエフスク開城交渉に先立つ[[2月5日]]、[[アムール川]]を遡った内陸部にある[[ブラゴヴェシチェンスク]]においても、政変が起こっていた。赤軍が政権をとるにおよんで、白軍などは家族とともに日本軍に保護を求めてきたが、ここでは白水師団長が自ら赤軍側と交渉し、「一般人民の生命財産の安全を保障し、市内の安寧秩序を確保すること。市内にこれ以上の武装勢力を入れないこと」などを求めて、ついに呑ませ、白軍の軍人も助けた。日本軍は政治的中立は守るけれども、治安維持に責任を持っている以上、ロシア人の生命、財産の安全にも口をはさむ、という姿勢だったのである。<ref>『西伯利出兵 憲兵史』p488-489</ref>

=====開城合意の波紋=====
2月27日、ニコライエフスクの市民代表団と赤軍の間で、開城合意文書が調印された。同日夕刻、市のホールで報告会が開催され、代表団の一人、市議会議長のコマロフスキイが、開城にあたっての条件に関して市民に報告した。代表団のメンバーは、[[メンシェビキ]]および[[社会革命党]]だったが、このとき、政治的に相容れないはずのボルシェヴィキ革命の勝利を、心から歓迎していた。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p36</ref>

白軍のメドベーデフ大佐は、合意文書調印の夜、日本軍の本部を訪れてこれまでの謝辞を述べ、自宅に帰って自決した。参謀長スレズキンと、諜報機関の将校2人も、メドベーデフ大佐に習って命を絶った。グートマンは、「彼らは、仲間の将校や、ニコラエフスクの市民より幸福であった」としている。<ref name=nikoraefusukuhakai37>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p37</ref>

===日本軍蜂起の要因===
パルチザンのニコラエフスク入城は2月28日正午に行われた<ref name=nikoraefusukuhakai37/>。日本軍の蜂起は、3月12日未明に始まった<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p48</ref>。この項では、その間の状況とともに、蜂起に至った要因の研究状況をまとめる。

=====赤軍支配下の尼港=====
ニコラエフスクに入城したパルチザン部隊は、資産家の自宅や公共施設、アパートなどを接収し、分宿した。入城セレモニーの後、トリャピーツィンは、赤軍司令部によって、自身がニコラエフスク管区赤軍の司令官に任命されたことを宣言し、本部はノーベリ商会の館に置くことと、赤軍の人事を発表した。参謀長はナウモフ。レホフとニーナ・レベデワが本部宣伝部門指導者。[[チェーカー]]3人、軍事革命裁判所メンバー5人、などである。続いて、全公共機関には監視員が派遣され、印刷所が接収されて、町の新聞はすべて発行禁止となった。またすべての職場で[[労働組合]]を組織することが命令され、組合員に加入しなかったり、受け入れられなかった者は、「人民の敵として抹殺される」と発表された。同時に、チェーカーとパルチザン部隊の活動が始まり、公共機関、ビジネス界で重要な地位にある市民たちの資産没収、逮捕が発令された。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p39-41</ref>

ソ連側文献によれば、2月29日、ニコラエフスクにおいて第一回州革命執行委員会が開催され、ロシア人が所有する大企業、銀行、共同組合を国有化し、ロシア人所有の小企業と外国人所有の大企業を監査して、必要な場合は徴発することが決められた。また組合員となった市民の労働に対しては、現物支給を行い、[[配給 (物資)|配給制]]が計画されていた。<ref name="fuzimoto-kenkyuu45"/>

最初の逮捕者は、400人を超えたといわれる。白軍の将校にはじまり、ついで白軍兵士や出入り商人、企業家、資産家、[[立憲民主党]]員、公務員、知識人、聖職者、個人的にパルチザンの恨みを買っていた者<ref group="注釈">赤軍ににらまれた場合は、労働者も投獄された。労働者でボルシェヴィキのF.T. パツルナークは3月6日に投獄されたと証言している。(『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p218)</ref>など、女性も年少の者も区別無く投獄され、拷問にあい、処刑された者も多数にのぼった。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p41-42</ref>

銀行や企業、産業、商業の国有化が開始され、投獄された人々の資産は没収された。徴発委員会が組織され、個人宅に押し入って金銭、貴金属類などを奪ったが、それに名を借りて、個人的な略奪も横行した。逮捕者の数は増え続け、ニコラエフスクの住人は、パニックに陥っていた。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p43-44</ref>

=====蜂起についての日ソの見解=====
1920年6月30日、日本外務省公表の『尼港事件ニ関する件』によれば、ニコラエフスクにいた中国領事や惨殺を逃れたロシア人たちの話、新聞情報を総合して、日本軍蜂起の要因は次のようなものだった。「日本軍はパルチザンとの間に協定を結び、白軍を虐殺しないこと、としていたが、パルチザンは約束を破って惨殺した。またパルチザン部隊は、ニコラエフスク市内で朝鮮人、中国人を集めて部隊を編成し、革命記念日に日本軍を抹殺するとの風評が流れた。3月11日午後になって、日本軍は武装解除を求められ、しかも期限を翌12日正午と通告されたので、自衛上、蜂起した」<ref>『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻p793</ref>

「西白利出兵 憲兵史」も、事件直後の外務省見解と基調は変わらず、蜂起にいたった状態を次のように述べている。「開城の合意条項において、ニコラエフスク市内では白軍であっても検束しない、ということになっていたにもかかわらず、入城するや否や、ほしいままに白軍、有産者を捕縛、陵辱、略奪し、日本軍に保護を願ってくる者が多数にのぼった。そこで、守備隊長の石川少佐は石田虎松領事と相談して、3月10日、トリャピーツィンに暴虐行為をやめるように勧告したが、かえってトリャピーツィンは、日本軍に'''武器弾薬全部の貸与方'''を要求して、翌12正午までの回答を迫った」<ref>『西伯利出兵 憲兵史』p493-494</ref>。

事件により、400名近い日本軍守備隊は全滅したにもかかわらず、ある程度、戦闘状況などがわかったについては、ニコラエフスクの廃墟から、香田[[一等兵]]の日記などが発見されたためである<ref name="hara-kenkyuu23">『「尼港事件」の諸問題』より</ref>。原暉之は、香田日記の表現が、「'''武器弾薬ノ借受ヲ要求'''」となっていることから、トリャピーツィンが日本軍に武装解除を迫ったという日本側の見解に疑問をはさみ、次に述べるソ連側の言い分に理解を示す<ref>『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』p522-523</ref>。

ソ連側、スモリャークの論文では、事件に関係した赤軍の一人、オフチーンニコフの回想録により、「赤軍と日本軍の関係は友好的なものであった。しかしながら、これは日本側が赤軍を欺いていたのである」とし、「日本軍は講和条約の条件を破り、突然攻撃してきた」と結論づけられている<ref name="fuzimoto-kenkyuu45">『ニコラエフスク事件』より</ref>。

これは、日本軍蜂起鎮圧直後に、トリャピーツィンがニーナ・レベデワ(ナウモフの死により参謀長になっていた)と連名で、各地に打電した声明文に基づいた回想と思われる。トリャピーツィンは、日本軍との友好関係を、次のように宣伝していた。「日本軍将校達は、頻繁に我々の本部を訪れて、仕事をする以外に、友人であるかのように議論に加わったり、ソビエト政府に対する賛同を表明したり、自分達をボルシェヴィキと呼んでみたり、赤いリボンを服に着けたりしていた。彼らは、武器の供給であるとか、その他可能なあらゆる方法で、赤軍を援助すると約束した。しかし、後に明らかになるように、それは、計画していた裏切り行為を隠蔽するために、彼らが被った仮面に過ぎなかった」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録B p306-309</ref>

これについて、虐殺を生き延びたE.I.ワシレフスキイは、1920年7月に、こう宣誓証言をしている。「パルチザン本部への、日本軍の攻撃は、3月12日の午前2時か3時ごろに始まった。その攻撃の前に、日本軍の武装解除の通告に関する件と、パルチザン本部に来た日本軍の人たちに行った、赤いネクタイにピンを付けさせるような件による侮辱と、一連の挑発的な行動によって意図的にパルチザン達が、情報を流しているとの噂が、広まっていた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p203</ref>

アメリカ人マキエフは赤軍はニコラエフスク市街に侵入後、旧[[ロシア軍人]]、[[官吏]]等2,500名を捕縛し、そのうち200名を惨殺するなどの暴虐を行ったため、日本守備隊長が抗議を申込むと赤軍は却て日本軍の[[武装解除]]を要求し、日本守備隊長がこれを拒絶しついに日本軍と赤軍との間に戦闘が開始されたと証言している<ref name=hochi19200427/>。

=====宣誓証言に見る蜂起の要因=====
事件生存者による1920年の宣誓証言から、日本軍蜂起の要因に関する部分を次に引用する。

Ya.G.ドビソフ「噂によれば、日本軍は、武器引渡勧告に対して、それを議論するために軍事会議を開かなければならない、旨を回答した。3月11日の夜に、参謀長ナウモフは石川を呼び、鋭い語気で、『交渉は、もう時間切れだ。もし、明日の11時までに武器を引渡さない時は、こちらも必要な処置を取る』と、彼に言った。私はこの話を、パルチザン本部で聞いた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p187</ref>

G.B.ワチュイシビリ(グルジア人)「3月10日に、日本軍は、『引渡しの条件の下では、ボルシェビキは何人をも逮捕することはできない。赤軍の処刑による“人々の抹殺”のような暴力行為が行われた場合には、日本軍は、それに対して行動を起こすであろう』と、書かれたビラを配った(同様のものが、赤軍が町に入る以前にも、配布されていた)。にもかかわらず、逮捕は続き、その数は日増しに増えていった。3月11日の晩に、赤軍は、反革命による犠牲者の葬儀を、翌12日に開催するので出席するようにとの招待と、その日の昼までに、保有する武器を引渡すようにとの勧告を、日本軍司令部に通達した」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p235</ref>

V.N.クワソフ「3月12日午前2時、私たちは、大砲、機関銃、ライフルの音で目を覚ましました。そして、眠れぬ一夜を過ごしました。翌朝、日本軍が、赤軍の武装放棄要求を拒否して、攻撃を開始したことがわかりました」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p241</ref>

I.R.ベルマント「3月11日午後5時、島田鉄工所の管理者で日本人の森氏が、電話をかけてきた。すぐに来てくれ、という。行ってみると、彼は、龍岡氏から今聞いたばかりだという話をした。軍関係者によると、トリャピーツィンが日本軍に対し、武器および機関銃を3月12日正午までに放棄せよ、と要求してきたと言う。私は尋ねた、『どうなるのだろうか?』『私の考えでは、日本軍司令部が武器を放棄するはずがない。その先どうなるかは、私にも見当がつかない』と、彼は言った」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p244</ref>

『ニコラエフスクの破壊 』の著者グートマンは、上のような証言を含む調査報告書をもとに、「日本軍本部は、血に飢えた人々に接収された町の中で、ボルシェビキの残虐な行為に対して、不平を言い、住民を困難な状況での避けがたい死から救うことを喜んでしようとする唯一の人間的な公共機関であった」とし、およそ次に要約するようなことを述べている。「赤軍が開城合意条項を裏切り、文化教養のある層を殺戮している中で、ロシア人はひそかに日本領事を頼り、日本人居留民も、次は自分たちではないかと不安を訴えた。日本軍は、毎日のように、合意遵守の必要を赤軍本部に訴え、略奪、殺人、拘束に抗議したが、無視され続けた。そこで、『日本軍と赤軍との合意条件の下では、市民の殺人、逮捕、資産の略奪は許されない』というビラを刷って配ったが、パルチザンによって破棄された。日本軍将校が、トリャピーツィン本人に抗議したときには、『内政問題なのであなた方には関係がない』と言い捨てた。しかし、トリャピーツィンにとって日本軍は邪魔だったので、挑発して片付けてしまうことを目論み、武装解除と武器引渡しを求める最後通牒をつきつけた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p45-47</ref>

『ニコラエフスクの破壊 』の米訳者エラ・リューリ・ウイスエルも、次のように述べている。「ソビエト政府は、残酷な結末となった日本軍守備隊によるパルチザン部隊攻撃が、トリャピーツィンの挑発行為によって誘発されたものであることを絶対に容認しなかった。ソビエト側の文献では、ニコラエフスク占領は、英雄的パルチザンによる誉れ高い偉業として言及されている」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』米訳者前文 p2</ref>

===戦闘と虐殺===
日本軍蜂起にともなって、日本人居留民のほぼ全員が惨殺された。しかしソ連側文献は、「居留民の死は蜂起した日本軍にあり、パルチザン側にはない」という見解をとっている<ref name="fuzimoto-kenkyuu45">『ニコラエフスク事件』より</ref>。原暉之はこのソ連側の見解を受け、参謀本部編『西伯利出兵史』の「戦闘の局外にあった民間人が敵軍の手で皆殺しになったような書き方」に疑問を呈している<ref>『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』p524</ref>。

この項では、蜂起後の日本軍の戦闘を追うとともに、居留民虐殺の状況についてまとめる。

=====戦闘の経過=====
[[ファイル:Nikolayevsk Incident-5.jpg|270px|thumb|食料が備蓄されていたニコラエフスクの島田商会。上部の楕円の中は日本軍兵営。]]

ニコラエフスクにおける日本軍の兵力概数と配置は、以下のようだった。<ref>『西伯利出兵史要』p135、『西伯利出兵 憲兵史』p495-496</ref>
{| class="wikitable"
! 所属 !! 兵力 !! 所在 !! 指揮官
|-
| 陸軍守備隊 || style="text-align:right" | 290人 || 日本軍兵営 || 石川正雅少佐
|-
| 陸軍憲兵隊 || style="text-align:right" | 15人 || アムール河畔の宿営 ||
|-
| 海軍無線電信隊 || style="text-align:right" | 40人 || 日本領事館 || 石川光儀少佐、三宅駸吾少佐
|-
| [[予備役|在郷軍人]]など || style="text-align:right" | 70人 || 各所に散在 ||
|}
;赤軍本部襲撃
計画は、およそ以下のようなものであったのではないか、と推測されている。陸軍部隊のうち、水上大尉率いる90人ほどが赤軍本部とその護衛部隊(ノーベリ商会と市民倶楽部)を襲撃。石川陸軍少佐は、60人ほどを率いて、赤軍本部付近の掃討をなしつつ北方から赤軍本部を攻撃する。後藤大尉率いる90名ほどについては、監獄を襲って、赤軍に捕らえられていた白軍や市民を解放しようとしていたのではないか、とされる。海軍部隊は、半分が赤軍本部の襲撃に参加し、半分は領事館の警備に残った。<ref>『西伯利出兵 憲兵史』p494</ref>

日本軍は3月12日未明、赤軍本部を襲った。参謀長ナウモフが死に、トリャピーツィンも足に負傷を追ったが、ニーナ・レベデワに助けられて逃げた。しかし、クンストアルベルト商会を宿舎としていた赤軍副司令ラプタは、攻撃の圏外にいて、ただちに分宿したパルチザン部隊に連絡をとり、指揮をとった。市街戦となり、数に劣る日本軍は劣勢となっていった。市街戦は、ほぼ2日間続いた。島田商会は、赤軍本部に近かったこともあり、ここに立てこもった部隊もいたとされる。石川陸軍少佐がまず倒れ、12日夕刻、配下の生存者13名は、[[三等主計]]の指揮のもと、兵営に帰り着いた。水上大尉も、部下の過半数を失い、ある家屋にたてこもって闘っていた。<ref name="sentou">『西伯利出兵史要』p137-143、『西伯利出兵 憲兵史』p494-497、『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 p768-769</ref>

;中国軍による日本軍兵営への砲撃
[[ファイル:SMS Vaterland.jpg|thumb|270px|right|中国海軍砲艦「[[利綏 (砲艦)|利綏]]」。前身のドイツ海軍砲艦「[[ファーターラント (砲艦)|ファーターラント]]」([[:de:SMS Vaterland|de]])時代の写真。]]

3月12日、後藤大尉隊は、早めに兵営を出て街の東方のはずれにある監獄をめざし、捕らえられていた人々を解放しようとしたが、守備が厳重で果たさなかった。あきらめて、本隊に合流しようと市中を進むうちに市街戦になった。戦闘相手の中心は、リューリ商会とスターエフの事務所に宿営していた中国人、朝鮮人からなるパルチザン部隊だった。路上の後藤大尉隊は、建造物を占拠しているパルチザンから狙い撃たれ、手榴弾を投げられるなどで苦戦し、生き延びた30余名がアムール河畔の憲兵隊に合した。<ref name="Amur-sentou">『アムールのささやき』p132-146</ref>

[[3月13日]]、中国軍砲艦による砲撃で日本軍兵営を悽惨極めるほどに破壊された<ref name=NFDT91s773/>。憲兵隊と合した後藤隊の生存者は、砲撃してきた中国軍砲艦目がけて突撃して全滅したと思われると香月昌三一等兵は書きとめている<ref name=NFDT91s773/>。11時には2月7日の戦闘で重傷を負った榊原海軍機関大尉が[[陸軍病院]]で息を引き取った<ref name=NFDT91s783/>。

払暁、水上大尉隊は包囲を突破して兵営に帰ることに決し突出し、水上大尉は戦死したが、20名ほどは河本中尉の指揮で無事帰り着いた。海軍部隊も攻撃に出た者はほとんどが倒れ、わずかな人数が領事館に帰った。<ref name="sentou"/>

;日本領事館陥落
[[ファイル:Nikolayevsk Incident-1.jpg|270px|thumb|焼け落ちた日本領事館]]
[[3月14日]]早朝、パルチザン部隊は、日本領事館を包囲すると火を放ち、中国軍から日本軍を砲撃するためとして貸与された[[艦載砲]]と[[ガトリング砲]]で攻撃した<ref name="tyugokukaiso"/><ref name=chinaview20100827/>。

グートマンは、包囲突撃に参加したパルチザンの、次のような話を紹介している。「石田領事は、領事館前の階段に現れて、『領事館とここにいる人は、国際法によって保護されている。そして、領事館は、不可侵である』と説得をはじめたが、一斉射撃が浴びせられ、領事は血まみれで倒れた」 しかし一方でグートマンは、生き延びた領事館の使用人が、「領事は妻と子供を射殺し、火を放って自殺した」と語ったとも記している。領事館の隣人・カンディンスカヤ夫人は、ボルシェビキからの保護を求めて領事館に駆け込んだところが、領事は「領事館の日本人は死を覚悟している。あなたが生存を望むなら早くお逃げなさい」と言い、また領事夫人は、子供に晴れ着を着せながら泣いていた、といった証言を行っていることから、結局、グートマンは、領事と夫人は最初から死を覚悟していたのだろう、と結論づけ、しかし、領事館の火災については、パルチザン部隊が投げた[[手榴弾]]によるものだった、としている。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p49-50</ref>

ともかく、領事館は炎につつまれ、領事館を守護していた海軍無線電信隊は、石川少佐、三宅少佐以下、全員戦死。石田領事とその妻子、領事館にいた在留邦人も、すべて死亡した<ref>『西伯利出兵史要』p142-143</ref>。

グートマンは、このとき、「凍結した港内にいた中国砲艦は、日本領事館の方向から突進してきた日本軍兵士と日本人居留民に発砲し、人々は、パルチザンと中国人の十字砲火の中で、全員死亡した」としている<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p110</ref>。これについて、グートマンと同じ生き延びたロシア人からの聞き取り調査を資料としたと思われる石塚教二の『アムールのささやき 』は<ref name="hara-kenkyuu23"/>、「憲兵隊と合流していた後藤隊の残存者たちが、領事館から逃れて来た居留民たちを中国砲艦に助けてもらおうとしたところ、砲艦は居留民に発砲したので、後藤隊は砲艦に突進して全滅した」と解釈している<ref name="Amur-sentou"/>。

なお、グートマンは、日本軍の戦闘について、こう書いている。「明らかに、日本軍は、無用な血を流すことを意図してはいなかった。あらゆる可能性の中で、日本軍が目標としたものは、単にパルチザンの武装解除であった。このことは、日本軍に取り囲まれた建物のパルチザンの多くが、殺されていなかったのみならず、傷ついてさえもいなかったという事実がこれを説明している。パルチザンによる報告では、日本軍は、単に彼らの武器を持ち去り、彼らを自由にさせた。9人の医助手が、巡回裁判所の反対側の建物で逮捕された後、解放された。建物に駆け込んだ時、日本軍兵士たちは、単にそこに武器があるかを質問したのみで、否定的な返事を受け取ると、彼らはロシア人を害することもなく立ち去った」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p53</ref>

;日本軍武装解除
領事館が焼け落ちた後、生き残った日本兵は、守衛のため兵営に残っていた者、帰り着いた者をあわせて、およそ80人あまりだった。女性を含む民間人も13人ほどが兵営に逃れてきていて、ともにたてこもっていた。また、アムール河畔の第二陸軍病院分院に、分院長内田[[大尉|一等]][[軍医]]以下8人、患者18人がいた。<ref>『西伯利出兵史要』p144、『西伯利出兵 憲兵史』p495、『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』p525</ref>

香月日記によれば「数門の砲および中国砲艦より砲撃を受け、兵舎の破壊は凄惨をきわめた」ということで<ref name=NFDT91s773/>、大隊本部は破壊されたが、中隊兵営に立てこもった100人ほどは、河本中尉の指揮下、四昼夜の籠城戦に耐えていた。ところが[[3月17日]]夕刻、突然、パルチザン側から、[[ハバロフスク]]の山田旅団長、杉野領事の名入りの電報を提示された<ref>『西伯利出兵史要』p144</ref>。この電報は、ハバロフスクの革命軍司令官[[ブルガルコフ]]と外交部長[[ゲイツマン]]が、山田旅団長と杉野領事に対し、「ニコラエフスクで戦闘が起こっているので、おたがい戦闘中止に尽力しようではないか」ともちかけ、評議の上、4人の連名で、日本軍とトリャピーツィン双方に、中止を勧告したものだった<ref name=NFDT91s746>『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 p746</ref>。

[[3月18日]]、河本中尉は「戦友が倒れただけでなく、同胞がみな虐殺されている中で、降伏はできない。しかし、われわれの戦闘が国策のさわりになるというので、旅団長がこう言ってきたのならば、逆らうこともできない」と述べて、戦闘を中止した<ref name=shiberiashuppei144147/>。ニコラエフスクでの日本軍最高級者になっていた内田一等軍医が、武装解除を決め、民間人をも含めて兵営に立てこもっていた全員、そして軍医以下の衛生部員もみな、監獄に収容され、衣服も奪われ、過酷な労役を課された<ref name=shiberiashuppei144147>『西伯利出兵史要』p144-147</ref>。3月31日にニコラエフスクを脱出し[[アレクサンドロフスク・サハリンスキー]]に逃れてきたアメリカ人マキエフの当時の証言では拘禁された日本人の待遇は日々冷酷を極めつつあり、その惨虐行為は外部に対し極力秘匿されていたが今や一人も生残るものはないであろうと語っている<ref name=hochi19200427/>。

=====日本人虐殺=====
;グートマンによる総括
グートマンによれば、パルチザンが最初に襲った日本人居留民は、[[花街]]の娼妓たちだった。「残酷な獣の手で見つけ出された不幸な婦人に降りかかった災難については、話す言葉もない。泣きながら、後生だからと婦人は、拷問者と殺人者に容赦を嘆願し、膝を落とした。しかし、誰も恐ろしい運命から救うことはできなかった。別の婦人は、かろうじて着物を着て通りを駆け出し、その場でパルチザンに銃剣で突かれた。通りは、血の海と化し、婦人の死体が散乱した」 また、即座に殺されなかった女性と子供についても、運命は過酷だった。「3月13日の夜の間に、12日の午前中に監禁された日本人の女性と子供が、アムール河岸に連れて行かれ、残酷に殺された。彼らの死体は、雪の穴の中に投げ込まれた。3歳までの特に幼い子供は、生きたまま穴に投げ込まれた。野獣化したパルチザンでさえ、子供を殺すためだけには、手を上げられなかった。まだ生きたまま、母親の死体の側で、雪で覆われた。死にきれていない婦人のうめき声や小さなか弱い体を雪で覆われた子供の悲鳴や泣き叫ぶ声が、地表を這い続けた。そして、突き出された小さな手や足が、人間の凶暴性と残酷性を示す気味悪い光景を与えていた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p50-51</ref>

;『出兵史』に対する原暉之の疑念
パルチザンによる日本居留民の虐殺について、『西伯利出兵史要』は、次のように述べている。「敵は、わが軍の攻撃を撃退するや、直ちに市内の日本居留門を襲ってその全部を虐殺し、その家産を奪った。屈強の男だけというならまだしもの事、なんら抵抗力なき老若婦女もことごとく虐殺せられたのである。はなはだしきに至っては、小児なぞ投げ殺されたものもあるとの事で、その残忍凶悪ほとんど類を見ないのである。かくて彼らの魔手をのがれ幸に兵営に遁るるを得たものは400有余名の居留民中わずかに13名にすぎないのである」<ref>『西伯利出兵史要』p143-144</ref>

これに対して原暉之は、「たしかに三月の戦闘時点で尼港日本人居留民の一部が略奪されたり殺されたりしたことは否定できない」としながら、全体としては、軍隊と行動をともにしての戦死と敗戦の過程での集団自決が多かったのではないか、と憶測する。原が、その根拠としているのは、主に以下の三点である。まず、現地入りした外務省の花岡止朗書記官の、6月22日付け内田外相宛報告に、「当地居留民ハ今春3月12日事件ノ際領事及軍隊ト行動ヲ共ニシ大部分戦死」と書かれていること。次に、救援隊の多門大佐が、ニコラエフスクを脱出してサハリンに現れたアメリカ人毛皮商人から、「脱出するとき、知り合いの日本人を誘ったが断られた。日本人はみな一団となって日本軍とともに抵抗する決心をして、知り合いの日本人も島田商店に立てこもった。憲兵隊の宿営も全焼したが、居留民も兵士と共に火中に身を投じた」というような話を聞き、5月6日付で参謀本部に報告していること。最後は、領事館の二人の海軍大佐が自決したともいわれ、また石田領事が妻子を道連れに自決したのではないかと推測されること、である。<ref>『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』p524</ref>

原暉之が理解を見せるソ連側言い分の基本には、日本軍蜂起の要因と同じく、トリャピーツィンとニーナ・レベデワ連名の宣伝電文がある。「日本軍の主力部隊は、日本領事館、兵舎、守衛隊本部に集結された。さらに、本隊から切り離されてしまった兵士達は、日本人が居住していた全ての家屋で籠城した。日本人居留民の全員が武装し、攻撃に参加していた」と、彼らは各地に打電していたのである。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録B p306-309</ref>

トリャピーツィンとニーナ・レベデワは、仲間割れによって処刑されるが、そのときの人民裁判の罪状に、日本人居留民の虐殺は含まれていない<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p125-135<</ref>。

;生き残った人々の証言
[[ファイル:Nikolayevsk Incident-2.jpg|270px|thumb|アムール河岸に打ち上げられた虐殺死体]]
原暉之の疑念に関して、生き残ったニコラエフスクの人々の宣誓証言を引用する。

S.D.ストロッド(学生)「日本軍の攻撃の間に、女子供も慈悲のかけらもなく殺された。近所の人が、日本人女性2人と、子供2人がアムール河の方へ連れて行かれるのを見た、と言っていた。(中略)3月16日に、アムール河岸に放置されている死体の中に、兄がいないかと、探しに行った。死体の数は大変な数であった。最初の山には30体が積み上げられており、その多くは日本人の男女であった。1体だけロシア人の死体が混じっていた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p180</ref>

Ya.G.ドビソフ「私は後に、『お前が日本軍に隠れ家を提供したから、やつらはそこから発砲してきた』という口実で、多くのロシア人が、パルチザンによって殺されたことを知った。また彼らは、平和的な日本人居留民の家に押入り、金目の物を要求した後、彼らを殺した。日本人居留民は、攻撃に参加していなかったばかりでなく、攻撃があることさえ知らされていなかった。もし、日本軍司令部が居留民に、これから起こることを警告したり、武器を与えたりしていたら、後に起こったようなことは起こらなかったであろう。その場合には、おそらく、パルチザン達は持ちこたえられなかったであろう。監獄と民兵営舎に収容されていた800人を超える囚人が、解放されていたに違いないからである。しかしあいにく、女子供を含めて、日本人居留民はすでに全員殺されていた。私自身、多くの囚人がどこかに連れ去られるのを見た。その後、銃声と打撃音、悲鳴が聞こえてきた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p188</ref>

A.P.アフシャルモフ(学生)「日本人居留民は、日本軍による攻撃を、全く誰も知らされていなかった。それどころか、予測すらしていなかった。日本人の歯科医嵩山は、隣の叔父の家に住んでいた。パルチザンが我が家に来て、日本人が住んでいないか尋ねた。誰もいないと答えた。すると、隣の叔父の家へ行った。そして、ことは起った。叔父の家から銃声が聞こえた。パルチザン達は、叔父家族に外に出るように命令し、手榴弾を投げ込んだ。手榴弾3発が爆発した後、彼らは家の回りに干し草を置き、それに灯油をかけて、家に火をつけた。私は、この様子をずっと、窓越しに見ていた。家に火が放たれると、歯科医とその妻の側に、逃げ込んでいた3人の負傷兵がいたことがわかった。その3人の日本人は、炎の中を飛び出して来て、射殺された。歯科医は、爆発で吹き飛ばされて首がなかった。彼の妻は、焼死した。リューリ家の門のところで、日本人乳母の死体を見かけた。中国人パルチザンは、日本軍兵士の死体をあざけりながら、銃の台尻で、頭蓋骨を砕いていた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p195-196</ref>

E.I.ワシレフスキイ「日本領事とその家族は殺され、領事館は焼け落ちた。この攻撃に関与したしないに関わらず、女子供を含め、全ての日本人居留民が虐殺された。人々は、ベッドからたたき起こされて殺された。日本人の時計修理工も、自宅のすぐ近くで、同じように殺された。日本人居留民の行動をみていると、我々ロシア人と同様に、まさに寝耳に水、という様子であった。この未明の攻撃に関して、彼らは何も知らされていなかった、としか思えなかった」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p203</ref>

S.I.パルナシェフ「日本人居留民の中に、この攻撃に関して、未決定の段階での情報を与えられたものは、いく人かはいたかもしれないが、大多数の日本人は、全く知らされていなかった。多くの人達が、その時までに義勇隊から動員が解除されていた。日本人居留民は、女性や子供を含めて、寝ていたベッドから掴み出されて、あるいはその場で、あるいは通りに連れ出されて、殺された。監獄に連れて行かれ、殺された者も大勢いた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p212</ref>

N.K.ズエフ(学生)「日本軍の攻撃中の3月12日か13日か(おそらく12日)朝10時に、パルチザンがラマキンの家に入って行った。そこには、6人の日本人が住んでいた。彼らは軍人ではなく、ただの職人であったが、全員が剣で斬り殺された。午後4時頃に、彼らの内、2人の男女が意識を取り戻した。指を切り落とされ、血まみれのまま何とか我々のフェンスにたどり着き、助けを求めて我が家に駆け込んできた。数人のパルチザンが、我が家の一階に住んでいた。そして、日本人が内側にたどり着く前に、銃を持って飛び出して行った。日本人は、膝を着いて叫んだ。『殺さないでくれ。何でも話すから』 しかし、この願いは無駄だった。パルチザンは、女を撃ったが、あまりに頭に近づけて回転銃を撃ったため、髪の中に額の部分が陥没した。それから、男を撃った。死体は、裏庭に3日間放置された。夕方、パルチザンの一人の中国人が、日本人のズボンを脱がしていたが、古くて擦り切れているのを見て、投げ捨てた」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p230</ref>

G.B.ワチュイシビリ「3月12日の午前2時、日本軍の攻撃が始まった。日本人居留民はこの攻撃には参加しておらず、その計画さえも知らされていなかった。それにもかかわらず、パルチザンは、日本人居留民に突進し、彼らをベッドから引き摺り出し、外に連れ出し、資産を略奪している間に、有無を言わせず殺した。日本人の床屋と時計修理工とその子供は、私の家の通りを挟んだ向かい側に住んでいた。8時頃、彼らは家から追い立てられ、私の家の前を連行されて行った。12歳から14歳の4人の子供が、逃げようとした。中国人パルチザンが、後を追いかけ、4人とも射殺した。私の家から、川口乾物店まではそう遠くはなかった。3月12日の夜、中国人、朝鮮人パルチザンが、川口商店のドアを壊して、店を略奪し、住んでいた4人の事務員を殺した」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p235</ref>

I.R.ベルマント「私は、日本人の一般住民が、攻撃に関しては何も知らなかったことを事実として知っている。日本人の女性達が、パルチザンに向けて発砲した、などというのは、全くの事実無根である。パルチザン達から聞いたのだが、朝鮮人と中国人パルチザンは女、子供もかまわず、狂ったように日本人を殺した、もっともロシア人の中にも、50歩100歩の輩もいたが、という。多くのパルチザンが、自分の戦果を自慢し合っていた。しかし、そうすることに憤りを感じているパルチザンが大勢いたことも、事実である」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p244</ref>

A.リューリ(エラの祖母)「うちの御者がやって来ました。その男は、孫達の乳母が日本人で、私たちと一緒にいることを知っていました。彼は、私に言いました。『ばば様、お前さまもつらいだろうが、日本人のうばさんに今すぐ出てってもらった方がいい』 そして、彼女の方を向くと、言いました。『さあ、出て行きな』 すがり付くすべもなく、彼女は外に出ました。そして、裏庭から通りへ、突き出されました。彼女はそこで殺されました」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p249</ref>

I.I.ミハイリク(会計係)「日本人居留民は、日本軍の攻撃には参画していなかった。これは、知っているパルチザンから聞いたのだが、他にも彼らが逮捕した日本人についても話してくれた。例えば、床屋の森とパン屋の百合野は、寝ていたベッドから裸のまま連行された。森は、『何故、私たちを殺すのか? 私たちは敵じゃない。ロシア人市民がそうであるように、もう長い間、あなた達と一緒に暮らしているし、一緒に仕事もしている』と言って、何とか助けてくれと懇願した。しかし、何の効果もなく、彼らは殺された。女、子供でさえも殺された。私は、腕に子供を抱えた女性達が、通りを連れて行かれるのを目撃した、彼女たちは、足を取られては、雪の上で転んでいた。そのたびに、早く立て、と銃尾で小突かれていた。彼女たちは、民兵隊の営舎に連行されて行った」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p276</ref>

=====同時に行われたロシア人虐殺=====
日本軍の蜂起に至るまで、赤軍が投獄した人々の処刑は、一応、赤軍裁判の手続きを経て行われていた。しかし、3月12日未明から14日の夜中の12時まで、3昼夜の間、裁判、審理なしで、一般住民の処刑が許されていたことが、残された書類でわかる。その書類と同時に、8日付けで、監獄の向かいの家に、死刑執行にあたった赤軍第一中隊の宿泊願いが出されていることから、グートマンは、「赤軍は、日本軍蜂起を挑発し、同時に手続きなしの市民殺戮を企てていたのではないか」と推測している。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p54-56</ref>

日本人居留民の虐殺が始まると同時に、町の監獄と軍の留置所では、投獄されていた人々の惨殺がはじまった。監獄にいた160人のうち、生き残ったのは4人のみである。パルチザンは、銃弾を節約するために、囚人を裸にし、手を縛り、裏庭に連れ出して斧の背で頭を打ち、銃剣で突き、剣で斬った。死体は、町のゴミ捨て場に捨てられるか、アムール川の氷の中に投げ込まれた。街中で、一般の人々の家に押し入った場合は、銃殺した。資産家の妻から坑夫の娘まで、女性にも容赦がなかった。3月12日から16日までの5日間で、殺された日本人とロシア人の数は、1500人にのぼった。ロシア人のうち、600人は、企業家や知識人層として、町の誇りとなり、もっとも尊敬されていた人々だった。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p56-59</ref>

続いて引き起こされる大量殺戮前の3月31日にニコラエフスクを脱出したアメリカ人マキエフは過激派がロシア人も日本人も関係なく掠奪惨殺を行い罪なき婦女子を銃剣で蜂の巣のごとく刺殺するのを目撃している<ref name=hochi19200427/>。

=====中国艦艇による砲撃問題=====
中国艦隊が日本軍を砲撃した件については、6月に日本軍の救援隊がニコラエフスク入りした直後、香田一等兵の日記ではっきりと確かめられ、生き延びたロシア人の証言も多数あって、調査が進められた<ref name=NFDT91s773774>『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 p773-774</ref>。[[6月8日]]、[[中国海軍]]吉黒江防司令[[王崇文]](<small>[[:zh:王崇文|中国語]]</small>)[[海軍少将]]は[[石坂善次郎]][[陸軍少将]]を訪れ配下の砲艦3隻はいまだ尼港にあるため確認は取れていないが調査を行っているので真偽は判明するであろうと答えている<ref name=NFDT91s777>『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻p777</ref>。

香月一等兵の日記が記した中国砲艦の砲撃は、「日本軍の兵営攻撃」と「後藤隊の残存者が砲撃によって全滅させられたようだ」という二点である<ref name=NFDT91s773/>。これに対して、中国側の資料としては、砲艦利捷の副官だった陣抜の回顧談を記述した『ニコラエフスクの回想』が残っているが<ref name="tyugokuhoukan"/>、関与は認めながら、直接的な砲撃ではなく「パルチザン部隊に砲を貸し出した」ということになっている<ref name="tyugokukaiso">『ニコラエフスクの回想』</ref>。
陣抜の回顧談によれば、以下のようなことになる。「中国艦隊は幾度も日本軍に行く手をはばまれ、白軍と日本軍に好意を持ってはいなかった。ニコラエフスクにパルチザンが進駐してくると、すばらしい軍隊だと感動し、友好関係を持った。12日夜、ニーナ・レベデワから日本領事館を攻撃するために大砲2門を借りたいと申し出があって、陣世栄艦長が江亨艦の3インチ[[舷側砲]]1門と利川艦の[[ガトリング砲]]1門を貸し、側砲の鋼鉄弾と榴散弾それぞれ3発、ガトリング砲の砲弾15発を与えた」<ref name="tyugokukaiso"/>

石塚教二は、「パルチザンは、領事館を砲撃した砲を今度は日本軍兵営に向けた」としている<ref name="Amur-sentou"/>。領事館を砲撃した砲が中国艦隊のものだったとすれば、香月一等兵の日記の記述とあわせて、合理的な解釈である。

日本政府は、北京政府に共同調査を申し入れ、9月、両国の委員がニコラエフスクにおいて中国艦隊の関与を確かめた。調査内容は公表されなかったが、当時の新聞報道によれば、日中間には、砲艦の乗員が上陸していたかどうか、直接的荷担か間接的荷担かで、事実認識にくいちがいがあったとみられる。10月26日、この共同調査の結果に基づき、小幡公使は北京政府に以下の和解案を示した。<ref name="tyugokuhoukan"/>
# 中国政府が遺憾の意を表すこと
# 中国砲艦の艦長が日本軍司令部に遺憾の意を表すこと
# 関係将校下士卒の処罰
# 中国艦の砲撃によって死亡した日本人遺族に慰謝料を支払うこと
北京政府は、このうちの1と4に難色を示した。しかし年末に至って、中華民国政府は、共同調査報告書の字句修正(陸上交戦を武器貸与に変更)と、報告書と公文書の非公開を条件に、全項目を受諾し、三万元の慰謝料を払うこととなった。<ref name="tyugokuhoukan"/>

[[陣世栄]]艦長は「解任して永久に叙任せず」という処分を受けたが[[李良才]]([[陳季良]]<ref name=xinhuanet20041028/>)と名を改めて再び任務につき<ref name="tyugokukaiso"/>、[[文虎勳章]]を授与され[[将官]]に昇進すると第一艦隊司令などの重職を任され没後は[[上将]]を追贈された<ref name=xinhuanet20041028/>。また、共同調査の報告書が「武器貸与」に修正されたことから、現代の中国でも、関与は直接的なものではなく、間接的なものであった、と認識されている<ref name=xinhuanet20041028>[http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/mil/2004-10/28/content_2149617.htm 人民網-環球時報2004年10月28日]</ref>。現在、[[中国共産党]]は日本政府の要求を受諾した当時の中華民国政府を軟弱無能であるとしている<ref name=xinhuanet20041028/>。

===大量殺戮と焦土化===
グートマンによれば、トリャピーツィンはニコラエフスク住民の大量殺戮と街の破壊を、事件の大分前に計画していたという。彼は、「町の代わりに、血溜まりと灰の山を残すだろう」と宣言し、その通りに実行した。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p108</ref>

=====大量虐殺と破壊=====
[[ファイル:12PM-May-24-1920 Do not forget.JPG|thumb|right|270px|監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書<br />「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」]]
ニコラエフスクでは、日本軍蜂起に続く市民虐殺の後、一時、手続きのない殺人は行われなくなっていた。3月16日には、第1回サハリン州ソビエト大会が開催された。大会では、ハバロフスクにおいて、革命委員会とゼムストヴォ自治政府の妥協主義が非難され、トリャピーツインの独裁的な革命体制が確立されようとしていた。配給制度が推し進められ、挑発は日常茶飯事となり、恣意的な逮捕、投獄は続いた。そんな中で、かつてパルチザン鉱山連隊の司令官を務めていたブードリンがトリャピーツインを批判し、ブードリンは逮捕された。しかしブードリンには、解散させられた鉱山連隊を中心に支持者が多く、死刑にはならなかったが、後に大虐殺の最中に殺された。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p60-69</ref>

ニコラエフスクの惨事を知った日本軍は、赤軍との妥協的な態度を捨てた。4月4日、ウラジオストクにおいて、日本軍の歩哨が射撃を受けたことをきっかけに日本軍は軍事行動を起こし、赤軍に武装解除を求め、ウラジオストクの赤軍はこれを受け入れた。ハバロフスクでは戦闘が起こったが、4月6日には日本軍が勝利をおさめ、赤軍は武装解除された。4月29日になって、日本はウラジオストク臨時政府と、以下のような条件で講和した。「ロシアの武装団体はどのような政治団体に属するものであっても日本軍駐屯地および[[東清鉄道|ウスリー鉄道]]幹線ならびに[[パルチザンスク|スーチャン]]支線から30キロ以内には侵入できない。また、この圏内のロシア艦船、兵器、爆弾その他の軍需材料、兵営、武器製造所など、すべて日本軍が押収する」<ref>『西伯利出兵史要』p162-166、『ニコラエフスクの破壊 』本文 p88-94</ref>。

日本軍が赤軍を武装解除した4月6日、ちょうど[[極東共和国]]が樹立され、ソビエト・ロシアの了承のもと、ロシア東部、シベリア一帯が独立した民主国家を名乗って、日本を含む連合国側に承認を求めた。ソビエト・ロシアとの間の緩衝国家となり、日本に撤兵を呑ませようとしていたのである。極東共和国のこの目的からしても、赤軍の武装解除は、受け入れを拒否する問題ではなかった。<ref>『極東共和国の夢』p67-74</ref>

ニコラエフスクには、4月20日ころから、ハバロフスクにおける日本軍と赤軍との戦闘の噂が届きはじめた。やがて、ハバロフスクの赤軍は武装解除されたこと、解氷とともに日本軍は確実にニコラエフスクへ至ることなど、詳しいことが伝わった。赤軍の武装解除、極東共和国の樹立は、トリャピーツインには思惑外であり、ただちに、全権が執行委員会から革命委員会に移され、非常態勢がとられた。最初に行われたことは、アムール川の日本船の航行を妨害するため、障害物を置くことである。[[バージ]]を航路に沈めるため、女子供までがかり出され、重労働に従った。また、資金もつきていて、トリャピーツインは新ソビエト紙幣を刷った。中国商人はこれを受け取ろうとはせず、必要物資を調達するためには、金塊で支払うしかなかった。しかし、貯金が封鎖され、全紙幣の廃止、新ソビエト紙幣へ交換するための期限設定が布告されると、逮捕を怖れた人々は、争って交換した。交換された旧紙幣は、革命委員に分配された。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p95-96</ref>

革命委員会とチェーカーの特別会議において、トリャピーツインとニーナ・レベデワは、「パルチザンとその家族を[[アムグン川]]上流のケルビ村に避難させ、残ったニコラエフスクの住民を絶滅し、町を焼きつくす」という提案をし、了承された。それは秘密にされていたが、噂が流れ出した。5月20日、中国領事と砲艦、そして中国人居留民がみな、全財産を持って、アムール川の少し上流にあるマゴ(マヴォ)へ移動した。この直後、21日の夜から、逮捕と処刑がはじまった。日本軍蜂起のときに殺された人々の家族、以前に収監されたことのある人々が投獄され、次々に処刑された。80歳の老人から1歳の子供、弁護士や銀行家から郵便局員や無線局員、ユダヤ人は名指しで狙われていたが、ポーランド人やイギリス人も、無差別に殺された。21日から24日までの間に、3,000人が殺されたのではないか、と言われている。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p96-98</ref>

[[ファイル:Khabarovsk intervention.jpg|270px|thumb|シベリア上空を飛ぶ日本軍機『救露討獨遠征軍画報』より(1919年2月1日に描かれたもの)]]
5月24日、収監されていた日本兵、陸軍軍人軍属108名、海軍軍人2名、居留民12名、合計122名が、アムール河岸に連れ出されて虐殺され、さらには、病院に収容されていた傷病日本兵17名も、ことごとく殺された<ref>『西伯利出兵史要』p147-148</ref>。日本の救援隊は、生存者の生命の安全を確保するために、交渉する用意はあったが相手がつかまらず、意志を伝えようと、海軍の飛行機を使ってびらをまいた<ref>日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 p785</ref>。目的は果たせなかったが、元気づけられた人もいた。父、姉、弟を殺された女子学生V.N.クワソワは、こう語っている。「5月29日、日本軍の飛行機が飛んできて、市民を元気づける内容の、宣伝ビラを散布していきました」<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p242</ref>

住人は、街から逃げ出して、近郊の村や[[タイガ]]へ隠れたが、赤軍は武装探索隊を出して殺害してまわった。殺戮は10日間続き、ケルビへの移動がはじまった。町を離れるには通行証が必要で、もらえなかった人々は、殺される運命にあった。町の破壊は、28日にはじまった。最初に川向こうの漁場に火がつけられ、30日には製材所が焼かれ、31日には、町中が炎につつまれた。その間にも、虐殺は行われた。建物に閉じ込めたまま焼き殺し、バージに乗せて集団で川に沈めた。最終的に、何千人が殺されたのか、正確な数は不明である。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p98-102</ref>

事件全体の日本人犠牲者は、軍属を含む陸軍関係者が336名、海軍関係者44名、外務省関係者(石田領事とその家族)4名、判明している民間人347名。合計731名とされている。民間人については、領事館が消失して書類がなく、後日、政府が全国の町村役場に照会して調査したが、つかみきれず、さらに多いのではないか、とも考えられている。<ref name="isiduka-giseisya">『アムールのささやき』p207-232</ref>

この無差別な殺戮から逃れることができた人々の中には、個人的に中国人の家にかくまわれたり、中国の砲艦で脱出させてもらったりした場合が多くあった<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文 p111-112</ref>。日本人も、中国人にかくまわれた16人の子女が、中国の砲艦によってマゴへ逃れ、かろうじて命拾いをした。ニコラエフスク市内にいて助かった邦人は、単身自力で市外へ逃れ出た毛皮商人が一人いたことをのぞいて、これがすべてである。<ref>『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻p792、『校訂 国辱記』p80-82</ref><ref group="注釈">ニコラエフスク市内の話ではないが、山本灸三郎と日高たつのは、ニコラエフスクの西200キロの山中に夫婦として暮らしていたが、6月になってからトリャピーツィン部隊による危険が迫り、ギリヤーク人とロシア人によって助けられて逃げ、日本海軍部隊に救助された。(『アムールのささやき』p248-249)</ref>

====救援部隊の出動====
[[ファイル:Jiro Tamon Close-up.jpg|thumb|150px|救援隊を指揮した[[多門二郎]][[大佐]](写真は陸軍中将時)]]
[[File:Nomaguchi.jpg|thumb|150px|[[第三艦隊]]司令長官[[野間口兼雄]][[中将]]]]
ハバロフスクの革命委員会は、日本軍と共同で戦闘中止要請をした手前もあり、トリャピーツィンに状況の説明を求めた。それに応じてトリャピーツィンは、電報を打った。さらに後日、参謀長ニーナ・レベデワと連名で、[[モスクワ]]をはじめ、[[イルクーツク]]、[[チタ]]、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、アレクサンドロフスク、[[ペトロパブロフスク・カムチャツキー|ペトロパブロフスク]]など、各地へ、長文の声明文を打電したが、内容の骨子は、最初のものと似たものだった。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p81</ref> 長文の声明の冒頭は、「ニコラエフスク管区赤軍本部は、ここに、ニコラエフスク・ナ・アムーレにおける日本軍による攻撃という血なまぐさい事件を、全ての者に報告する。さらに、事件の詳細および事件に先立つ諸事情についても、情報提供する。それによって、我々との平和協定締結後に、ソビエト赤軍に対し背信的攻撃を加えた、日本軍の裏切り行為と犯罪の本性が、明確に暴露されるであろう」というもので、さらに、「日本人居留民の全員が武装し」、「兵舎に立てこもった130名の日本軍が白旗を揚げて武器を放棄したので捕虜として捕らえた」以外は、「武器を取った日本人のほとんどが戦死した」とあった。ちなみに、赤軍側の死者は50名、負傷者は100名以上としている。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』付録B p306-309</ref>

最初に、トリャピーツィンの電文の現物に接したのは、ペトロパブロフスクの塩田領事館事務代理で、3月18日、「電文を見たところ、ニコラエフスクで戦闘があり、在留民およそ700名が殺され、100名が負傷し、司令部、領事館、その他邦人家屋はすべて焼き払われたのではないか」と、内田外務大臣に打電した。21日には、トリャピーツィンの電文がウラジオストクの新聞に載り、それを見た海軍第5戦隊司令官より海軍省へも、ニコラエフスクにて異常事態発生の連絡があった。<ref>日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 p746-747</ref> 

その後、当局が各方面から情報を集め、早急な救援隊の派遣が決定された。まずは、すでに2月、第7師団より編成されていた増援隊を、アレクサンドロフスクへ派遣して、解氷を待つこととした。この部隊は、[[多門二郎]]大佐率いる歩兵1[[大隊]]、砲、工兵各1中隊、無線電信隊1隊で、主に北海道で編成されていた。4月16日、多門隊は、小樽を出発し、軍艦三笠と見島の援護のもと、22日にアレクサンドロフスクへ上陸した。<ref>『西伯利出兵史要』p155-156、日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 p784</ref>

当局はさらなる情報収集を行ない、多門隊のみでは兵力不足だと認定した。[[第7師団]]からの歩兵1[[連隊]]を基幹とし、多門隊も含めて、[[津野一輔]]少将の下、北部沿海州派遣隊が編成された。多門隊は、5月13日に[[デカストリ]]に上陸し、津野隊は、5月下旬に[[小樽]]を発した。津野隊とともに、[[第三艦隊 (日本海軍)|海軍第三艦隊]]の主力(司令長官[[野間口兼雄]]中将)と第3水雷戦隊(司令官桑島少将)が、直接、ニコラエフスクへ向かった。一方、ハバロフスクの[[第14師団]]は、できるかぎりの兵力を集め、国分中佐の指揮下、海軍臨時派遣隊(中村少将指揮)の砲艦3隻の護衛を受け、5月14日にハバロフスクを出て、アムール川を下った。途中、ラプタの指揮するおよそ200の赤軍部隊を破り、25日、多門隊と合流して、ニコラエフスクをめざした。多門隊のニコラエフスク進入は、6月3日だったが、すでにそのときニコラエフスクは、遺体が散乱する焦土となっていた。<ref>『西伯利出兵史要』p156-157、日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 p784</ref>

====トリャピーツィンの処刑====
ニコラエフスクを焦土にしたトリャピーツィン一行が、ケルビ(ニコラエフスクから96キロ)に到着するまでに、人数は相当に少なくなっていた。強制動員されていた農民たちは、逃げ出して村に帰り、日本軍の報復を怖れた中国人や朝鮮人たちも、タイガへと逃れた者が多かった。6月3日にニコラエフスクを占領した日本軍は、トリャピーツィン一行を捕らえるつもりではあったが、アムール川からアムグン川にかけて、日本軍が跡を追えないようにバージなどの障害物が沈められていて、すぐに航路を使うことは不可能であり、またタイガに逃げ散ったパルチザンを捕まえることも難しかった。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p123</ref>

その間、ニコラエフスクからの避難民が、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、ウラジオストク、日本に現れ、事件の全容が外部に知られはじめた。ソビエト政権系のジャーナリズムは、当初、トリャピーツィンの言い分をそのままに、赤軍の正義と日本軍の裏切りを言い立てていたが、労働者が大半である数千人の市民の虐殺と街の破壊を、日本軍の責任にできるわけもなく、ボルシェヴィキは困惑せざるをえなかった。危機感を持ったハバロフスクのソビエト代表団は、6月の終わりにアムグン地域に出向き、反トリャピーツィングループと接触した。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p123-124</ref>

反トリャピーツィングループを指導していたのは、殺されたブードリンと友人だった砲手アンドレーエフである。協力者には、朝鮮人第2中隊を率いていたワシリー朴がいた。ソビエト代表団と接触したことによって、アンドレーエフは行動を起こした。ケルビのパルチザン本部は、アムグン川に停泊する蒸気船の中にあったが、7月3日の夜、本部で眠るトリャピーツィンとニーナ・レベデワが逮捕され、続いて指導部全員が捕らえられた。9日、人民裁判が行われ、トリャピーツィンとニーナ・レベデワ以下7名が銃殺となった。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p124-130</ref>

裁判の中でトリャピーツィンは、「もし自分がニコラエフスクで行った全てのことのために裁かれるのならば、その時の同志や自分を裏切って裁判に渡し、逮捕した人々も含めて一緒に裁かれるべきだ」と述べた。判決文におけるトリャピーツィンの主な罪状は、5月22日から6月2日までのニコラエフスク大殺戮を許容したこと、さらに7月4日まで、サハリン州諸村でも虐殺命令を発していたこと、ブードリンなど数名の仲間の共産主義者を射殺したこと、であって、日本人の虐殺については、まったく触れられていない。同時に、「ニコラエフスク管区赤軍司令官として在職中、ソビエト政治の方針に従わず、職権者を圧迫し、ロシア共和国政府のもとで活動していた労働者間の共産主義に対する信頼を傷つけた」ことを罪状に上げ、トリャピーツィンとニーナ・レベデワは、ソビエト政権への反逆者であったと、位置づけている。<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p127-129</ref>

===北樺太進駐===
日本政府は、7月3日に以下のようなことを官報告知した。「今年の3月12日から5月末まで、ニコライエフスクにおいて、日本軍、領事館員および在留民およそ700名、老幼男女の別なく虐殺されたが、しかし現在、シベリアには交渉すべき政府がない。将来、正当な政府が樹立され、事件の満足な解決が得られるまで、サハリン州内の必要と認められる地点を占領するつもりである」<ref>『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻p796</ref>「必要と認められる地点」とは、北樺太であり、宣言と同時に[[サガレン州派遣軍]]が編成され、児島中将の指揮下、8月上旬アレクサンドロフスクに上陸し、駐屯した<ref>『西伯利出兵史要』p158-159</ref>。

==日本における事件の波紋==
====政治的な反響====
[[File:Giichi Tanaka Rekidai Shusho tou Shashin.jpg|thumb|150px|大失態の責任を取って陸軍大臣を辞した[[田中義一]]<ref name="nakanoseigo201"/>]]
尼港事件に関して、日本国内で大々的に報道されるようになったのは、6月、救援隊が現地入りし、凄惨な全容が明らかになってからである<ref>『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』p540</ref>。

すぐに議会で取り上げられ、野党[[憲政会]]の激しい政府批判がはじまった。この年5月の[[衆議院]]選挙で、与党[[立憲政友会]]は圧勝していたが、野党側の言い分では、「与党は尼港事件を隠して解散、総選挙に踏み切った」というのである。[[原敬|原]]首相が「惨劇が起こったのは'''不可抗力'''だった」と言ったとの報道があり、「責任逃れではないのか」と追及された。「治安維持に十分な兵力を置いていないにもかかわらず、居留民の引揚げを考慮しなかったのは不注意だ」というところから、ついには、「チェコ軍団の救援目的は達したにもかかわらず、なんのために兵を残したのか。過激派の勢力をそぐこともできなければ、日本人居留民の生命財産を守ることもできなかったではないか」と、シベリア出兵そのものへの批判になった。<ref name="izao-yamaguti2"/>

この年、7月号の[[中央公論]]には、尼港事件に関して、二つの論評が出ている。[[吉野作造]]は、「真の責任者は明白に政府殊に軍事当局者にある」としながら、野党が事件を利用して、内閣の倒壊を企てていることへの批判に重点を置いている<ref>『中央公論』p9-11</ref>。[[三宅雪嶺]]もやはり、「反対党がなにかといへば総辞職を迫るのも褒めた事ではない」としているが、こちらは、政府側が責任を負うことを言明しないでおいて、「権力争奪に利用するな」とばかりいうのは誤っていると、政府側に点が辛い<ref>『中央公論』p16-20</ref>。

[[田中義一]][[陸軍大臣]]に対しても、責任問題が追及され、田中義一は国務大臣としての責任をとり「断じて臣節を全うす」と称して陸軍大臣の職を辞した<ref name="nakanoseigo201">{{Cite book|和書
|author = [[中野正剛]]
|date = 1929年4月5日
|title = 國民に訴ふ 中野正剛大演説集
|pages = 201
|publisher = [[平凡社]]
}}</ref>。そして、占領宣言をした北樺太をのぞけば、シベリア出兵は撤退の方向にむかう、という大方針は変わらなかったのである<ref name="izao-yamaguti2"/>。

====社会的な反響====
井竿富雄は、政治の場で出てきた'''不可抗力'''論は、社会的には'''見殺し'''として受けとめられた、という。新聞社が特派員を派遣して、領事とその家族、居留民、武装解除された日本軍部隊が惨殺された状況、そして、そうなるに至った事情を、こと細かく報道したのである<ref name="izao-yamaguti2">『尼港事件と日本社会、一九二〇年』より</ref>。悲惨な状況が伝わるにつれ、どうしてそんなことが起こってしまったのか、陸軍ならびに政府のシベリア出兵の方針に、問題があったのではないかという疑念が満ちてくる。1920年の秋に9000部刷られた[[五百木良三]]のパンフレットは、以下のように慨嘆する。「日本軍は中立を保つという政策がやむをえなかったのだとすれば、兵力を増強しておくべきだった。それを怠って、突然、方針を一転し、赤軍と妥協せよと命じたために、昨日まで友軍だった白軍が残忍きわまる虐殺の下に全滅し、これを見ながら日本軍はなにもできず、見殺しにするしかなかった。たちまち順番は自分たちの上にまわってきて、白軍と同じ運命に突き落とされた。そして、悪戦苦闘の末に生き残った百余人の勇士が、最後の一戦に死に花を咲かそうとした時、またしても停戦命令である。痛恨を忍んで命令に従った結果、武器を奪われ牢獄に入れられ、あらゆる屈辱を加えられた末が、一同生きながらに焚き殺されたという始末。なんというみじめな運命であろう」<ref>『尼港問題を通して』p12-13</ref> あまりに残酷な事件であったため別々の馬で両足を引き裂いて殺害されたなどの話が昭和になっても多く伝えられることとなった<ref name="watanabeparu160"/>。

石田虎松領事の遺児である[[石田芳子]]はたまたま尼港にいなかったため難を逃れることができた<ref name="izao-yamaguti2"/>。芳子が『敵を討ってください』という詩を発表すると、全国各地で開かれる追悼集会で引っ張りだことなった<ref name="izao-yamaguti2"/>。日本軍犠牲者の遺族の声には、次のようなものがあった。「派遣しておいて孤立無援に陥らせ、新聞報道のような残虐なことに至った当局の処置は、合点がいかず、残念でたまらない」「名誉の戦死ではない。全く徒死だ」「堂々と戦ったのではなく、無惨に殺されたのは遺憾だ」 こういった不満は、政府や軍への批判にほかならず、遺族の割り切れない思いは報いられることなく、むしろ警戒された<ref name="izao-yamaguti2">『尼港事件と日本社会、一九二〇年』より</ref>。[[三宅駸吾]]海軍少佐の兄である[[三宅驥一]]博士は、「無策のうちに虐殺を受けさせるとは何事だ。弟だからというのではなく、救援の方法はあったのに、政府がやらせなかったのだ」と憤慨して同情を集めた<ref>『アムールのささやき』p17、p289</ref>。

====北樺太占領と救恤金====
白系ロシア人のグートマンは、日本の北樺太占領に領土欲を見て、「ロシア国民は侵略を受け入れることは決してない」と非難している<ref>『ニコラエフスクの破壊 』本文p140-141</ref>。この北樺太占領に関しては、撤兵反対論者で、対外強硬論者といわれる五百木良三も、「サガレン(サハリン)占領のごときは大道商人のそれにも比すべき最もケチ臭い現金取引きで、あらずもがなのことだ」と反対し<ref>『尼港問題を通して』p38</ref>、『国辱記』でセンセーショナルに尼港事件を取りあげた溝口白羊も、「尼港事件への寄付金には応じない富豪が、サガレンの漁業、林業、鉱業の利権獲得に夢中になっている」と批判する<ref>『校訂 国辱記』p3-4</ref>。

[[1922年]]に尼港事件被害者と[[オホーツク事件]]被害者のための[[露国政変及西比利亞事変ノ為損害ヲ被リタル者ノ救恤ニ関スル法律]]が施行され救恤金が支払われた<ref name=izaotomio2010/>。しかし、救恤金額が少ないことや申請が出来なかったものなどがいたため、尼港事件時に内地にいたため難を逃れることができた島田商会の島田元太郎は<ref name=hokudailib/>、東京に事務所を設け全国の被害者の中心となって再度の救恤金運動を行い続けた<ref name=izaotomio2010/>。

[[1925年]]、日本はソビエト・ロシアと国交を回復し、保障占領していた北樺太を返還した。しかしその交渉の過程で、尼港事件は政治的に棚上げされ、北樺太の石油長期利権<ref group="注釈">[[1925年]](大正14年)12月14日から45ヵ年という長期利権で、第二次大戦が終わるまでの20年間、工業、軍事に利用できた。(『アムールのささやき』p36-37)</ref>と引きかえに、賠償は求めないことになった。1925年12月には救恤金の再給付を求める請願書が島田元太郎等によって提出されたことなどから、日本政府は、「本来はソビエトの責任で日本政府が賠償を肩代わりする理由はない」としながらも、救恤金という形で、遺族を慰撫した<ref name=izaotomio2010>『尼港事件・オホーツク事件損害に対する再救恤、一九二六年』より</ref>。

====慰霊碑・納骨堂の建立====
[[ファイル:Nikolayevsk Incident Memorial.jpg|thumb|180px|尼港殉難者記念碑(茨城県水戸市堀原)。1922年3月建立。]]
事件が大々的に報道された6月以降、各地で法要、招魂祭が催され、また、遺族や婦人団体、在郷軍人団体、宗教家などが現地を訪れて、慰霊につとめた<ref>『アムールのささやき』p288-293</ref>。

北海道の小樽市は、樺太、シベリア方面への物資積み出し港であり、ニコラエフスクとも縁が深かった。[[1924年]](大正13年)になって、小樽市民の総意で軍部に請願し、遭難者の遺灰払い下げの運動を起こした。ニコラエフスクで焼却された遺骨は、アレクサンドロフスクの慰霊碑に保管されていたが、これを小樽で永久保存しようということになったのである。軍からの許可が出て、市民に迎えられた遺骨は、市内浄応寺で保管された。[[1937年]](昭和12年)になって、市内の素封家・藤山要吉が私財をなげうち、市民に呼びかけて、手宮の丘に慰霊碑や納骨堂を建てた。戦前には、毎年、尼港記念日の5月24日に法要が行われていた。[[第二次大戦]]後、小樽に進駐してきたアメリカの進駐軍から、「破壊せよ」と命令があったが、小樽市民はこれを拒んで、守り通した。<ref>『アムールのささやき』p293-295</ref>

尼港事件の民間人殉難者には、[[熊本県]]天草の出身者が多い。他県在住の縁者も加えると110名にのぼり、ほぼ三分の一に達する。[[1895年]](明治28年)、天草北部の二組の夫婦が、それぞれに若い女性たちを連れてニコラエフスクへ渡り、水商売を始めた。以来、水商売に限らず、洗濯業や洋服仕立業で、家族ぐるみの移住者も増え、中には成功して、貿易業や旅館経営をする者も現れていた。小樽と同じく昭和12年、遺族たちの手によって、[[天草市]][[五和町]]手野に、尼港事変殉難者碑が建てられている<ref>[http://www.city.amakusa.kumamoto.jp/bunkazai/pub/detail.asp?c_id=151&id=52&kbnmst=0&shumst=1&ckimst=0 尼港事変殉難者碑] [[天草市]] 2009年2月23日</ref>。こちらは、毎年3月12日に慰霊祭が行われ、[[1970年]](昭和45年)には50年祭が盛大に催された。<ref>『アムールのささやき』p295-303</ref>

全員が犠牲となった第14師団尼港守備隊の出身地、[[茨城県]]水戸の堀原、もと練兵場のあった場所にも、尼港殉難者記念碑が建っている。戦前は、毎年かかさず慰霊祭が行われていたが、戦後は行われなくなり、碑のいわれを知る市民もほとんどいなくなっている。その他、札幌の護国神社境内にも尼港殉難碑があるが、これは、[[1927年]](昭和2年)、救援隊の兵士達が旧丸山村界川に建立したもので、戦後、現在地に移された。<ref>『アムールのささやき』p303-305</ref>

====南京事件====
[[1927年]]の[[南京事件 (1927年)|南京事件]]の際にも日本領事館は襲撃され、領事一家以下、在留邦人、日本軍将兵等が殺傷された<ref name=asahi19270330>[http://133.30.51.93/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00789375&TYPE=HTML_FILE&POS=1 全身血を浴びて倒れた根本少佐と木村署長 鬨を揚げて押寄せた暴兵] 大阪朝日新聞 1927.3.30</ref>。この事件の際には、海軍陸戦隊の[[荒木亀男]]大尉は「反抗は徒らに避難民全部を尼港事件同様の虐殺に陥らしむるだけだから、一切手向いせず、暴徒のなすがままにせよ」と命令し、陸戦隊員は中国人の暴行に反抗しなかった<ref name=asahi19270330/>。このため領事館内では駐在武官の[[根本博]]少佐、[[領事館警察]]木村署長を始め多くが重傷を負い、婦女子も丸裸にされ金品・衣服などすべてを奪われ領事館内は木端微塵となったものの邦人虐殺事件に発展しなかったが<ref name=asahi19270330/>、荒木大尉は事件後に責任を取り自決を図った<ref name=asahi19270330/>。[[1945年]]の[[ソ連対日参戦]]の際には[[北支那方面軍]]兼[[駐蒙軍]]司令官となった[[根本博]]は[[大本営]]の武装解除命令を拒否し殺到するソ連軍と戦い抜き4万人の在留邦人の脱出を成功させた<ref>[http://www.kadotaryusho.com/news/ 「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」が発売になりました。(2010.04.26)] [[門田隆将]] </ref>。

==参考史料について==
尼港事件に関する史料は、日本側のもの、[[ソビエト連邦|ソ連]]側のもの、生存者の証言を[[白系ロシア人]]が記録したもの、という三種類に大別できる。

基本的な日本側史料は、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]編 『西伯利出兵史―大正七年乃至十一年』と[[外務省]]編『日本外交文書 大正九年』である。ソ連側のものは、パルチザン指導者などの回想録が2点ほどある他はめぼしいものがない。白系ロシア人の記録のうち、グートマンの『尼港の災禍』(『ニコラエフスクの破壊 =尼港事件総括報告書=』)は、百ページにのぼる生存者の証言、その他の史料(パルチザン側の文書を含む)を収録しており、貴重である<ref name="hara-kenkyuu23">『「尼港事件」の諸問題』より</ref>。

『西伯利出兵史』をもとに概略が述べられている日本の編纂物としては、『西伯利出兵 憲兵史』『西伯利出兵史要』などがあるが、それらの事件著述と、ソ連の歴史家の一般的な見解<ref group="注釈">例えばВ. Г. スモリャーク著『ニコラエフスク事件』。藤本和貴夫の和訳があるため、原暉之『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』とともに、ソ連側見解を知る文献として活用した。</ref>には、事実関係において大きな食い違いがある。双方の見解を併記し、主には『ニコラエフスクの破壊 』掲載の証言を参考として供した。

『ニコラエフスクの破壊 』(原題:Gibel Nikolaevska-na-Amure 米題:THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMUR)は、[[1924年]]に[[ベルリン]]で出版された。著者のグートマン(A.Ya.Gutman)は、事件当時、日本に在住し、ロシア語新聞紙の編集長をしていた。生存者数名にインタビューするとともに、1920年夏、事件直後に実施された調査活動の報告書を入手し、それをもとに執筆した。報告書には生存者57名の口述証言が含まれていた<ref>『ニコラエフスクの破壊 』p2 米訳者前文</ref>。グートマンは反[[ボリシェヴィキ]]ではあったが、日本軍にも批判を持ち、『ニコラエフスクの破壊 』に収録された生存者の証言は、反革命派に限らず広範にわたる<ref name="hara-kenkyuu23">『「尼港事件」の諸問題』より</ref>。

『ニコラエフスクの破壊 』は後年、英訳、和訳出版されることとなった。[[1993年]]に、ニコラエフスクのユダヤ系のリューリ商会のリューリ家で生まれたエラ・リューリ・ウイスエル(Ella.Lury.Wiswell)は、生まれ故郷の悲劇を子細に記録したグートマンのGibel Nikolaevska-na-AmureをTHE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMURとして米語訳を出版した。<ref group="注釈">エラはユダヤ系で、ニコラエフスクの漁業交易事業家、リューリ家の一員だった。エラの祖父は[[リトアニア]]の生まれで、[[11月蜂起]]に加わってサハリン徒刑となり、ニコラエフスクに強制移住させられた。エラの父、メイエルは、弟とともにリューリ兄弟商会を設立し、日本人島田元太郎が経営する島田商会と協力して、ニコラエフスク経済界の中心的存在になっていた。エラとその両親は、尼港事件当時日本にいて惨禍をまぬがれたが、叔父、叔母をはじめ、親族、知人の多くが虐殺された。事件直後、メイエルは船をチャーターし、日本海軍の許可を得て、妻とともにニコラエフスクへ乗り込んで、生存者を救助した。その中には、かろうじて生きのびたエラの祖母と、両親と日本人の乳母を失った幼いいとこたちがいた。(参照『ニコラエフスクの破壊 』の米訳者前文。沢田和彦著『白系ロシア人と日本文化』成文社、2007年)[http://library.manoa.hawaii.edu/departments/russian/?wiswell UNIVERSITY OF HAWAII ATMANOA LIBRARY Russian Collections]</ref><ref>『ニコラエフスクの破壊 』p332 和訳者あとがき</ref>。2001年に斎藤学により『ニコラエフスクの破壊 』として和訳された。

==尼港事件を題材とした作品==
* 熊谷敬太郎『ピコラエヴィッチ紙幣 日本人が発行したルーブル札の謎』[[ダイヤモンド社]]、2009年。 ISBN 978-4-478-01127-0
:第2回[[城山三郎経済小説大賞]]受賞<ref>[http://www.diamond.co.jp/go/old/novel/ 城山三郎経済小説大賞]</ref>
*[[小堺昭三]]『赤い風雪 小堺昭三全集15』ココデ出版、2011年。 ISBN 978-4-903703-48-0
* 丹地甫『ニコラエフスクの長い冬』[[茨城新聞社]]、2012年。 ISBN 978-4-87273-271-9


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* アナトリイ・ヤコフレビッチ・グートマン(A.Ya.Gutman)著 エラ・リューリ・ウィスウェル(Ella.Lury.Wiswell)米訳 斎藤学和訳『ニコラエフスクの破壊 =尼港事件総括報告書=』(原題:Gibel Nikolaevska-na-Amure 米題:THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMUR) ユーラシア貨幣歴史研究所、2001年
* [[原暉之]]『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』筑摩書房、1989年
* 原暉之『「尼港事件」の諸問題』ロシア史研究23 (1975年)収録
* [[笠原十九司]]『東アジア近代史における虐殺の諸相』(上掲論文を再整理した論文)[http://72.14.235.132/search?q=cache:DCafnpgpK2YJ:www.cgs.c.u-tokyo.ac.jp/pdf/2004_09_05/Kasahara%2520Paper%25202004.09.05.pdf+%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E8%AB%B8%E7%9B%B8&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp])
* 参謀本部編昭和三年支那事変出兵巌南堂1971
*原暉之シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 [[筑摩房]]1989
* В. Г. スモリャーク著 [[藤本和貴夫]]訳『ニコラエフスク事件』ロシア史研究45(1987年)収録
* 松永伍一『子守唄の人生』中央公論社、1976
* 外務省編『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻 「14尼港事件及樺太内必要地点ノ一時占領ニ関スル件」([http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/index.html 外務省外交史料館] 日本外交文書デジタルアーカイブ)
* 香月鍈一『西伯利出兵史要』財団法人偕行社、大正14年( [http://kindai.ndl.go.jp/ 近代デジタルライブラリー])
*憲兵司令部編『西伯利出兵 憲兵史』[[国書刊行会]]、昭和51年復刻
*井竿富雄『初期シベリア出兵の研究』九州大学出版会、2003年
*井竿富雄『尼港事件と日本社会、一九二〇年』山口県立大学学術情報 2(2009年)収録 
*井竿富雄『尼港事件・オホーツク事件損害に対する再救恤、一九二六年』山口県立大学学術情報 3(2010年)収録( [http://www.l.yamaguchi-pu.ac.jp/archives/2010/part1/01.Intercultural%20Studies/Inter_01_IZAO.pdf 山口県立大学学術情報])
*小林啓治『総力戦とデモクラシー 第一次世界大戦・シベリア干渉戦争』[[吉川弘文館]]、2008年
*伊藤秀一『ニコラエフスク事件と中国砲艦』ロシア史研究23 (1975年)収録
*陳抜談、陳鐸記、伊藤秀一和訳『ニコラエフスクの回想』ロシア史研究23 (1975年)収録
*佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、昭和60年
*溝口白羊『校訂 国辱記』日本評論社出版部、大正10年
*堀江則雄『極東共和国の夢』[[未来社]]、1999年
* 五百木良三『尼港問題を通して 所謂時代精神の暴露』純労倶楽部、大正9年
* 石塚経二『尼港事件秘録 アムールのささやき』千軒社、昭和47年
* 『中央公論 七月号』[[中央公論社]]、大正9年


== 脚註 ==
== 注釈 ==
<references group="注釈" />
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== 参照元 ==
{{Reflist|2}}

== 関連項目 ==
* [[ソビエト連邦による戦争犯罪]]
* [[葛根廟事件]]
* [[通化事件]]
* [[敦化事件]]
* [[真岡郵便電信局事件]]
* [[シベリア抑留]]
* [[通州事件]]
* [[メードヴィン反乱]]


==外部リンク==
==外部リンク==
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*[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B09072854300?IS_KIND=SimpleSummary&IS_KEY_S1=%E7%9F%B3%E7%94%B0%E8%8A%B3%E5%AD%90&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InfoD& 標題:22.石田芳子](アジ暦)【 レファレンスコード 】B09072854300
*[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B09072854300?IS_KIND=SimpleSummary&IS_KEY_S1=%E7%9F%B3%E7%94%B0%E8%8A%B3%E5%AD%90&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InfoD& 標題:22.石田芳子](アジ暦)【 レファレンスコード 】B09072854300

*[http://goo.gl/maps/pLN8J Google Map 尼港事件 (Nikolayevsk Incident)の理解を助ける地図]
*[http://www.yasukuni.or.jp/history/12.html 尼港事件の犠牲となった石田領事一家と領事館員の集合写真] [[靖国神社]]


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2012年8月19日 (日) 13:23時点における版

座標: 北緯53度8分 東経140度44分 / 北緯53.133度 東経140.733度 / 53.133; 140.733

廃墟となったニコラエフスク(尼港)
虐殺事件を引き起こした赤軍パルチザン幹部の集合写真。中央の白衣の人物が虐殺の中心人物トリャピーツィン。左の女性は宣伝部指導者、次いで参謀長を務めたニーナ・レペデワ。背後には日本人から略奪した屏風が見える。

尼港事件(にこうじけん、: Николаевский инцидент, Nikoláyevskiy Intsidyént, Nikolayevsk Massacre[1][2])は、ロシア内戦中の1920年大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名[3]朝鮮人1,000名[3][4]中国人300名[3])が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪を行った末に、中国海軍による艦砲射撃重火器の貸与により装備の勝る日本軍守備隊を殲滅し[3][5]、老若男女の別なく数千人を虐殺した。虐殺されたものには、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含む。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた[6][7]。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。小樽市手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑[8]、また天草市五和町手野、水戸市堀原、札幌市護国神社にも殉難碑がある[9]

事件の背景

シベリア出兵の混迷

ウスリースクロシア極東)で赤軍に殺害されたチェコ軍団将兵(1918年
シベリア出兵中の連合軍によるパレード。アメリカ・フランス・大英帝国・日本国など各国の国旗が掲げられている(1918年

1918年(大正7年)8月に始まった日本のシベリア出兵は、アメリカ合衆国の呼びかけによる共同出兵であり、当初はアメリカの提議に従って「チェコ軍団救援」を目的とし、「ロシア内政不干渉」を謳ったものだった。しかし、チェコ軍団は赤軍と戦闘状態にあり、ボリシェヴィキ政権とは敵対していたので、ロシア内戦への干渉なくして救援は不可能であり、そもそもアメリカの提議自体に大きな矛盾があった。[10]

つまりシベリア出兵の前提は、対独戦の一環としてのものであったが、1918年末には、ドイツ軍と連合国軍との間に休戦協定が成立し、チェコスロバキアも独立を果たして、前提が崩れた。そのため、連合国側、主に英仏は、反ボルシェヴィキを鮮明にし、日本もそれに同調して、反革命派によるロシア統一をめざしていたが、反革命派のコルチャーク政権(オムスク政権とも)は一年ほどしか続かず、1919年末に崩壊した。[11]

1920年1月9日、アメリカが単独撤兵を通告してきたが、これは日本の出兵にとって大きな転換点となった[12]。この1月から2月にかけ、革命派の勢力はニコリスクウラジオストクブラゴヴェシチェンスクハバロフスクの反革命勢力を倒し、それぞれに地方政権を掌握した[13]。1月17日付、陸軍大臣の指示により、日本軍は中立姿勢をとることになったが、不穏な情勢の中、それまで反革命側に肩入れしてきた現地日本軍は困惑した[14]

尼港住人と白軍

1900年頃の尼港(ニコラエフスク港)

1850年にニコラエフスク港は建設され、ロシアの極東開港場としては最古のものである[15]。ロシア官憲は港発展策としてユダヤ人にロシア人と同様に土地家屋の私有権を与えたことから有産階級の大部分はユダヤ人によって構成されていた[15]

ロシア革命の進展により、ニコラエフスクは治安が悪くなり白昼でも強盗が行われており少しでも金を持っていそうな人はピストルで射殺されたり、銀行も金品を強奪されることから、イギリス、アメリカ、日本の銀行に依頼して預金替がされたり、島田商会が預金依頼されるほどであった[16]。漁業を営んでいたユダヤ人の資産家たちは革命によって購買組合や労働者に業を奪われるようになりウラジオストクに逃れるものも少なくなかった[15]

1918年には、ニコラエフスクにも赤軍が進駐し、ソビエト政権が成立していた。しかし赤軍は、サハリン州(当時、ニコラエフスクはサハリン州に含まれていた)全体で300人ほどの少数にすぎず[17]、日本軍の上陸によって追われ、やがてコルチャーク政権に代わった。「ニコラエフスクの支配階層市民102名が日本軍を呼んだ」という資料も、ソ連側にはあり[18]、日本側も「尼港市民と内外居留民(イギリス人などもいた)が日本海軍陸戦隊の上陸を請願した」と記している[19]

ニコラエフスクとその周辺では、白衛軍系の守備隊が治安維持にあたっていた[20]。1919年の夏には将校以下350人ほどの人数がおり、日本軍と協力していた[20]

尼港在住の日本人と駐留日本軍

1918年9月、尼港に到着した日本海軍陸戦隊

ニコラエフスクにおける日本企業進出の中心は、1896年島田元太郎が設立した島田商会であり、市内随一の商社となっていた[21]ロシア革命による経済混乱期には自らの肖像入り商品券を流通させるほどの信用が築かれていた[21]。また、島田だけではなく日本人漁業資本家による進出もなされていた。これは、1907年に調印された日露漁業協約に保障されたもので、これらの邦人利益保護のために領事館が設けられていた[22]

事件の一年前、1919年(大正8年)1月の調査によれば、ニコラエフスクの人口は12,248人で、そのうち日本人は291人だった。1919年(大正8年)6月調査(1920年6月16日の外務省公表)では日本人は領事以下353人(男169人、女184人)であり[23]。職業の主な内訳は商業、大工、指物、裁縫業、理髪、金銀細工、錺職等であった[23]。なお、1918年1月の調査では499人であり、男女比はほぼ半々であった[22]。職業についている女性としては、娼妓90人、家事被雇人(家政婦乳母女中として雇われている者)61人が主であり、残り100人の女性には既婚者が多いのではないかと思われる[22]

日本軍のニコラエフスク駐留は、1918年9月、海軍陸戦隊の上陸にはじまった。同月のうちに、陸戦隊は、陸軍第12師団の一部と交代し、1919年5月、第14師団の部隊が交代した[24]。また海軍は、航行可能な夏期にはニコラエフスクを根拠に沿岸警備を行っていたため、無線電信隊を常駐させていた[24]

尼港の中国人と中国艦隊

ニコラエフスクに住む中国人は、1919年1月の調査でおよそ2,314人であり、うち女性は15人にすぎず、男性の単身者が圧倒的に多かった[25]。市内には、ある程度裕福な商人などもいて、中国人居留民会を組織していた。この自治会は、秩序を乱す者を市外へ追放したりもしていて、ロシア人指導者層から信頼を得ていた[26]

1919年9月、中華民国海軍の艦隊がアムール川に姿を現した。江享、利綏(旧ドイツ海軍「ファーターラント」, de)、利棲(旧ドイツ海軍「オッター」, de)、利川の砲艦4隻(利川は運送船ともいわれる)である。これは、ロシア内戦の混乱の中で、シベリア河川の航行権を拡張しようとする中国の試みだったが、コルチャーク政権はロシア政権の弱体化につけこむ行為として航行を認めなかった。ハバロフスクに向けて航行する中国艦隊は、白軍のアタマンカルムイコフの砲撃を受けてニコラエフスクへ引き返し、やむなく越冬することになった。[3][27]

中国艦隊のニコラエフスク入港までには、紆余曲折があった。当時、日本は北京政府と日華共同防敵軍事協定を結んでおり、中国は連合国の一員として、巡洋艦海容をウラジオストクに派遣していた。北京政府は、ロシア側が日本の艦船のアムール川航行を黙認しているにもかかわらず、中国船の航行を認めないことはアイグン条約に反するとして交渉していたが、ロシア側は認めず、中国側は、日本がロシアにそうさせているのではないか、と疑っていた。北京政府は、日、米、英、仏各国に、ロシア側との仲介を依頼したが、アメリカをのぞく各国の反応は冷淡であり、中国側は、日本がこの問題のイニシャティブをとっているとの確信を強めた。一方、ウラジオストクの日本全権は、この問題に日本が関係する意志がないことを中国側に明言し、中国艦隊のニコラエフスクでの越冬について、コルチャーク政権にとりなした。しかし、中国の新聞は日本の航行妨害を書き立てているとして、10月1日、北京の小幡酉吉公使は、北京政府に抗議している。[27]

日本の航行妨害については、当時から中国の新聞記事になっていただけに、現在の中国でも事実として受けとめられ、極端な場合は、日本軍が中国艦隊を砲撃した、というような話になっていたりもする[28]

ニコラエフスクの華僑商業会議所は、食料の提供などで艦隊を援助していた[27]。中国艦隊には、領事・張文換が乗り込んでおり、ニコラエフスク当局は砲艦の乗組員こそ歓迎しなかったものの領事の歓迎会は催した。また日本領事も歓迎会を開いて交流を持ち、パルチザンが街に迫るまでの関係は悪いものではなかった[29]

しかし、パルチザン部隊には数百人規模で中国人が加わっていた。1920年6月19日に中国領事は会談した津野一輔少将に中国人の過激派は300人であると説明している[3]。事件後に尼港から脱出できたアメリカ人マキエフは600名であるとしている[4]。これについてグートマンは「最下層階級の者達であって、社会的不適合者」とし、「中国人商人達は同胞パルチザンを疎んでいた」という[30]。一方、 原暉之は、市内で編入された者ばかりではなく、「尼港周辺の鉱山労働者が加わっていたのではないか」としている[22]

パルチザンの進軍

1919年11月、ハバロフスク地方アナスタシエフカ村で、沿アムール地方パルチザン部隊指揮官協議会が催された。この会において、ソビエト権力復活のために、アムール川下流地帯にパルチザン部隊を派遣することが検討され、指揮官にはトリャピーツィン[注釈 1]が任命された。トリャピーツィン率いる部隊は、二ヵ月あまり諸村をめぐって人員を募り、一月半ばにアムール河口のニコラエフスクを包囲したときには、4000人以上の部隊にふくれあがっていたという。[31] 人数が多数にのぼったについては、強制動員されたという証言もある[注釈 2]

朝鮮人パルチザン

シペリアで朝鮮人への朝鮮共産革命を指導した李東輝

ニコラエフスクにおける朝鮮人過激派は中国政府の調べでは1,000名であった[3]。アメリカ人マキエフも1,000名であるとしている[4]。朝鮮人過激派は掠奪した軍服を着用していた[4]。1919年1月、ニコラエフスクに住む朝鮮人は916人で、日本人の3倍ほどだった[22]。しかし、ロシア国籍を持った高麗人を加えると、もっと多かったと思われる[22]

朝鮮人パルチザンが、中国人のそれと違っていたのは、抗日独立運動の一環としてパルチザン部隊に加わる者が多数いたことである。ウラジオストクにいた朝鮮独立運動指導者李東輝が、ウラジーミル・レーニンから資金援助を受け、赤軍と協力する方針が示されていた[32]

グートマンによれば、ニコラエフスクの朝鮮人は近郊で農業を営む者が多く、市内では富家の使用人がほとんどで、商人はごく少なかった[33]。「ボルシェヴィキに入ることに無関心」だったが、トリャピーツィンが朝鮮独立への赤軍の援助を確約したことで、市内の朝鮮人会は部隊を組織し、パルチザンの傘下に入ると忠実な手先となり、監獄の監視、死刑執行などを確実に行ったが、軍規は厳格で、挑発、没収、略奪には参加しなかった[33]。原暉之によれば、グートマンが述べている「軍規が厳格な朝鮮人部隊」は、トリャピーツィンに批判的だった朝鮮人会書記のワシリー朴に率いられた市内で編成された100名ほどの第2中隊である[34]。外部から来た朴イリア率いる第1中隊(サハリン部隊の名で知られる)は横暴で士気が低かった[34]

事件の経過

包囲される尼港

1919年11月、コルチャーク政権が崩壊したことによって、白軍は求心力をなくし、勢力を弱めていた。ニコラエフスクにおいても、近郊の村々が次々に占領されていたが、白軍の反撃はことごとく失敗に終わった。白軍司令部は、日本軍の支援なくしてパルチザンに対することができなくなったことを悟ったが、1920年1月には極東の指令本部があったウラジオストクでも政変が起こり、そこで日本軍が白軍を支持しなかったことが手伝い、日本軍との関係も微妙なものになっていた。市内においても、港湾労働者などを中心に、パルチザンの到来を待つ人々も増えてきていた。[35]

パルチザンの攻勢

冬期(11月から5月)のニコラエフスクは、港が氷に閉ざされ、陸路のみとなる。ニコラエフスクに駐屯していた第14師団の主力は、ハバロフスクにいたが、その間は、氷結したアムール川の氷上通行があるのみだった。しかも、パルチザンが横行するようになった1919年の末ころから、それも不可能に近くなっていた。[36]

1919年10月、ハバロフスク・ニコラエフスク間のロシアの電線をパルチザンが遮断し、街と外部との連絡は、日本海軍の無線電信に頼るのみになっていた[37]

1920年1月、ニコラエフスクに駐留していた日本陸軍は、石川正雅少佐以下、水戸歩兵第2連隊第3大隊のおよそ300名に、通信、衛生、憲兵、野戦郵便局員を加えて、330余名だった。海軍は、石川光儀少佐、三宅駸吾少佐[注釈 3]以下40数名だったので、総計370余名である。[38]

白軍の弱体化により、ニコラエフスク市内の治安維持は、白軍司令官メドベーデフ大佐を前面に出しながらも、実質的には日本軍が担うことになり、1月10日には、夜間外出禁止令などが布告され、戒厳に近い状態となった[39]

1月23日、300人ほどのパルチザン部隊が、氷結したアムール川の対岸から、ニコラエフスクを襲撃してきたが、ロシアの旧式野砲を修理して用意していた日本軍が、砲撃を加えたために、すぐに退散した[40]

翌24日と26日には、三宅海軍少佐と石田虎松副領事[注釈 4]より、海軍軍令部長および外務大臣に対し、陸戦隊の派遣を求める無線連絡があり、ニコラエフスク救援隊派遣の検討がはじまった[41]

トリャピーツィンの使者

この24日、トリャピーツィンの使者オルロフが日本軍守備隊を訪れて、ニコラエフスクの明け渡しを申し入れたが、守備隊長は「このパルチザンは強盗団である」という認識から、白軍の求めに応じて、白軍探偵局へオルロフを引き渡した。白軍は、引き取った使者オルロフを殺してしまった。[42]

実はオルロフは、実際に山賊をしていたという証言もある。虐殺から生きのびた市民E.I.ワシレフスキイ(課税評価人)が、1920年7月の宣誓証言で、こう言っている。「オルロフは、1918年のボルシェビキ委員のベベーニンとスレポフとともに逃亡し、逮捕処刑されるまで、山賊をやっていた」[43]

オルロフの処刑について、スモリャークが述べるソ連側の言い分では、「白軍は使者を残虐に責め殺した」ということである[31]。一方、白軍将校の中で奇跡的に虐殺をまぬがれたグリゴリエフ中佐[注釈 5]は、次のように証言している。「パルチザンが町に入った後、彼らは軍使オルロフの死体を発見した。トリャピーツィンの命令で、ロシア人および日本人医師からなる委員会が組織され、オルロフの死体を検視した。そして、銃痕以外には、なにも傷がないことが確認された。(両耳は鳥につつかれていたが、それは死後に起ったことである)私は、このことを委員会の一員だったポブロフ医師から聞いた」[44] 

リューリ兄弟商会の社員だったYa.G.ドビソフにも、同じような証言がある。「トリャピーツィンによって公開された情報は、実際の事実とは一致しなかった。『我らの軍使オルロフは、拷問によって殺され、このことは国際調査団によって確認された』という彼の主張は全くのデタラメであった。反対に、ロシア人と日本人の医師からなる調査団は、オルロフの死体を検査し、数ヶ所の銃弾の痕以外は、他に傷がないことを照明した。私は、ボブロフが、調査団のロシア人医師の一人であったことを覚えている。トリャピーツィンは、この結論に大変不機嫌であった。そして、検査の報告を公表しなかった」[45]

木材工場主のI.R.ベルマントもこう証言する。「トリャピーツィンは町に入市するとすぐ、ロシア人と日本人の医師、住民の代表からなる合同委員会を任命した。委員会は、数発の弾痕以外、オルロフの遺体には、何らの傷あとも、拷問のあとも認められない、と断定した。このことは、委員会のメンバーだった、ユダヤ人住民代表のデルザベットとボブロフ医師に聞いた。トリャピーツィンは以前から、オルロフは拷問によって殺された、と触れ回っていたが。委員会によってその結論が出たにもかかわらず、同じ事を言い続けた」[46]

チヌイラフ要塞と海軍無線電信所への攻撃
ニコラエフスク救援に向かった戦艦三笠。堅氷に阻まれ救援は失敗した

ニコラエフスクの町の入り口は、町から10キロあまり離れた丘陵地帯にあり、町を一望できるチヌイラフ要塞によって守られていて、その近在には、日本海軍の無線電信所があった[47]

すでに白軍にはチヌイラフ要塞にまわす兵力がなくなり、日本軍が守備を引き受けていた[48]

1月28日、パルチザンの斥候8名がチヌイラフ要塞に姿を現し、戦いははじまった。翌29日、小競り合いがあり、チヌイラフ要塞とニコラエフスクの間の電線がパルチザンによって切断された。2月4日になって、ブラゴエシチェンスクにいた第14師団長白水淡中将からニコラエフスク守備隊へ、「パルチザン側から日本軍を攻撃してこないかぎり、自ら進んで攻撃をすることはやめよ」という新方針の無線連絡があった。要塞守備隊の人数が少なかったところへ、この指示が来て、翌5日には要塞を明け渡した。2月7日、要塞を占領したパルチザンは、海軍無線電信所を砲撃してきて、電信室が破壊された。やむなく陸海の守備隊はニコラエフスクへ引き上げることに決したが、その際の戦闘で、陸軍兵2名が死亡し、榊原機関大尉は下腹部貫通銃創の重傷を負い(後日死亡)、陸海各1名が軽傷を負った。[49]

これにより、ニコラエフスクと外界との連絡網はすべて絶たれた[50]

最後の無線連絡で、事態を知った陸軍当局は、ニコラエフスクへの増援を検討したが、各地で不穏な情勢が続いていたため、ウラジオストク、ハバロフスクともに兵員の余力が無く、可能になり次第、本土から増援部隊を送ることとした。2月13日、北海道の第7師団より増援部隊を編成する手続きをとった。一方、海軍は、北樺太(北サハリン)アレクサンドロフスクからも不穏な情報が入っていたことから、三笠見島(砕氷船)を視察に出したが、ニコラエフスクの方は堅氷に閉ざされて、艦船の近接、上陸は不可能だった。結局、陸軍の増援は延期された。[51]

尼港の開城

ニコラエフスク開城の条件は、日ソで見解が食い違っている。開城の条件は、次項で述べる日本軍蜂起の原因にも深くかかわってくるので、ここで、開城の経緯とともに子細に双方の主張をまとめる。

尼港開城の経緯

チヌイラフ要塞を占領したパルチザンは、ニコラエフスクに砲撃を加えたが、それほどの被害はもたらさなかった。2月21日、砲撃は止まり、トリャピーツィンは再び使者を派遣して、「我々に町を引き渡さなければ、砲撃で破壊する」という手紙を、日本軍守備隊に届けた。[52]

同じ21日、トリャピーツィンは、ハバロフスクの日本軍無線電信所宛にも、「ニコラエフスクの日本軍は通信手段を失っているので、われわれの無線電信仲介によって、そちらが戦闘停止を指示してもらいたい」と打診していた。この報を受けて、陸軍当局は、ウラジオストクの派遣軍に「ニコラエフスクにおける衝突は、パルチザンの攻撃に始まっているのだから、わが日本の守備隊は正当防衛をしているにすぎず、以降、日本軍と居留民に損害が出たならば、その責任はパルチザン側にある。パルチザンは攻撃を中止し、日本の守備隊が無線電信を使えるようにして、守備隊長石川少佐と、ハバロフスクの山田旅団長が直接連絡できるようにしてくれ」とパルチザンに回答するよう、指示した。[53]

ニコラエフスクのロシア人指導者、市長と市参事会、地方議会の代表たちは、日本軍宛のトリャピーツィンの手紙を検討し、市民の命の安全と町の繁栄の保持を条件に、赤軍との交渉をはじめることを決めた。5日以来、外部とのすべての通信が遮断されていたため、他の都市の状況を知る手段もなく、それが知りたかったこともあって、ロマロフスキイ市議会議長、カルペンコ市長、ネムチノフ大尉が使者となり、トリャピーツィンが本営をかまえていたチヌイラフ要塞に向かった。トリャピーツィンは彼らを使者と認め、およそ以下のような条件を提示した。[54]

  1. 白軍は武器と装備を日本軍に引き渡す。
  2. 軍隊と市民の指導者は、赤軍入城までその場にとどまる。
  3. ニコラエフスクの住民にテロは行わない。資産と個人の安全は保障される。
  4. 赤軍入城までの市の防衛責任は、日本軍にある。赤軍入城後も日本軍は、居留民保護の任務を受け持つ。

市の指導者たちは、これを受け入れる方向で動いたが、白軍は「赤軍はかならず裏切って、合意はやぶられる」と主張し、開城を受け入れなかったので、最終的な判断は、日本軍にゆだねられた。[54]

23日、パルチザンの無線を通して、白水師団長から石川少佐宛に、「パルチザン部隊が日本の居留民に害を加えたり、日本軍に対して攻撃的態度をとらないかぎり、これまでのいきさつにこだわらず、平和的解決に努めよ」との指令が届いた。石川少佐は海軍と相談し、24日から停戦に入り、28日、パルチザン部隊と講和開城の合意が成立した。[55]

尼港開城の条件

尼港開城にあたって、日本軍とパルチザンの間でかわされた合意条項に関して、双方の見解を比較する。

まず日本側だが、『西伯利出兵史要』は「日露(パルチザン)両軍が治安を維持すること。裁判なくして市民を銃殺しないこと。ほしいままに市民を捕縛したり、略奪したりしないこと」が合意事項であったようだとし[56]、『西伯利出兵 憲兵史』は「ニコラエフスク市内においては反革命派を検束しないこと。規定数以上のパルチザンを市内に入れないこと」だったのだろうとする[57]

一方、スモリャークが述べるソ連側の見解では、一応、日本側は交渉の席で、「人格と住居の完全な不可侵、白軍や官吏、政府機関職員を含む全市民の財産の不可侵。過去の完全な免責。新政権と同一の見解に立たない白軍の全将校と兵士は、日本軍司令部の保護下におかれ、航行が再開され次第、その護衛の下に自由に外国に出国する権利をもち、また出国にいたるまでの期間軍服を着用する権利を保持する」という保障を求めたが、パルチザン側はこれを認めなかった、としている[31]。原暉之もまた、ソ連側文献を根拠に、日本側からは「砲を日本軍にわたすこと。入市するパルチザンの数を制限すること。新政権と意見のあわない将兵は日本軍と日本領事館の保護を受け、解氷とともに出国する権利を保障されること」といった条件が出されたが、パルチザン側はこれをつっぱね、日本軍が折れて合意に達した、とする[58]

これに関して、事件直後の宣誓証言から、引用する。

グリゴリエフ中佐「私は、町の引渡しに関する赤軍との交渉が、どのように始まったのか正確には知らない。秘密裏に行われていたからである。その後、我々(白軍司令部)の代表数人も参加した。これらの代表者は、ムルガボフ少尉とネムチノフ大尉である。これら軍の代表者に、町の代表者たちが加わった。町の代表者は、市長カルペンコ、市議会議長コマロフスキイ、ゼムストヴォ(地方自治会)の議長シェルコブニコフ であった。交渉が終ると、メドベーデフ大佐は会合を召集し、白水中将の宣言によって、日本軍は赤軍との交渉を始め、町を引渡すことを決定し、しかも引渡しの条件もすでに決定している、と文書を読み上げて、我々に伝えた。全部は憶い出せないが、最も重要なポイントは次のようなものであった。ロシア軍(白軍)部隊は、個々人の免責は保障される、そして、アムール河の航行が可能となったら、町を自由に離れることも許可される。日本軍は武器を保持するが、ロシア軍は赤軍が町に入る前に、武器と装備を日本軍に引き渡す。また、町の住民は、一切の免責と平和を保障される」[59]

E.I.ワシレフスキイ「町を引渡すときの条件は、以下のようなものであった。日本軍は武器を保持する。ロシア軍(白軍)部隊は、パルチザン入市以前に日本軍によって武装解除され、全ての町の警備は一時的に日本軍によって代行される。ロシア軍のその後の処遇については、ソビエト政府の法律によって決定される。市民は、その自由を制限されることはない。この最後の項目は、希望的な表現になっていた」[60]

S.I.バルナシェフ「誰もが、『流血が起らない限り、日本軍は、権力の移譲に反対しない』という白水中将の声明に驚いた。日本軍は、休戦に合意した。一方ロシア軍(白軍)は、武装解除を要求された。合意によれば、ロシア軍派遣隊は、パルチザンの到着前に日本軍に武器を引き渡すこと、そして市内の治安維持活動も日本軍に引き継がれることになっていた。パルチザンとの戦闘に参加した者に対しては、全員の罪の免除が保障されていた」[61]

V.N.クワソフ(女子学生)「降伏に関して、その条件案が話し合われました。それによると、逮捕されるのは諜報機関のメドベーデフ大佐と参謀長スレズキンだけとなっていました。全ての市民とその資産は、無傷で保全されることになっていました。この降伏に関する条件が、町中に張り出されました」[62]

I.R.ベルマント「合意では、日本軍は、日本人居留民ならびにロシア人を含む一般住民の、護衛権を保持することになっていた。その他の合意条件は、次の通りであった。パルチザンの到着以前にロシア軍(白軍)は武器を日本軍に引渡すこと、日本軍は武器の保有権を有すること、パトロールを継続できること、日本人所有の建物の護衛権を保持すること」[63]

ブラゴヴェシチェンスクの場合

ちなみに、ニコラエフスク開城交渉に先立つ2月5日アムール川を遡った内陸部にあるブラゴヴェシチェンスクにおいても、政変が起こっていた。赤軍が政権をとるにおよんで、白軍などは家族とともに日本軍に保護を求めてきたが、ここでは白水師団長が自ら赤軍側と交渉し、「一般人民の生命財産の安全を保障し、市内の安寧秩序を確保すること。市内にこれ以上の武装勢力を入れないこと」などを求めて、ついに呑ませ、白軍の軍人も助けた。日本軍は政治的中立は守るけれども、治安維持に責任を持っている以上、ロシア人の生命、財産の安全にも口をはさむ、という姿勢だったのである。[64]

開城合意の波紋

2月27日、ニコライエフスクの市民代表団と赤軍の間で、開城合意文書が調印された。同日夕刻、市のホールで報告会が開催され、代表団の一人、市議会議長のコマロフスキイが、開城にあたっての条件に関して市民に報告した。代表団のメンバーは、メンシェビキおよび社会革命党だったが、このとき、政治的に相容れないはずのボルシェヴィキ革命の勝利を、心から歓迎していた。[65]

白軍のメドベーデフ大佐は、合意文書調印の夜、日本軍の本部を訪れてこれまでの謝辞を述べ、自宅に帰って自決した。参謀長スレズキンと、諜報機関の将校2人も、メドベーデフ大佐に習って命を絶った。グートマンは、「彼らは、仲間の将校や、ニコラエフスクの市民より幸福であった」としている。[66]

日本軍蜂起の要因

パルチザンのニコラエフスク入城は2月28日正午に行われた[66]。日本軍の蜂起は、3月12日未明に始まった[67]。この項では、その間の状況とともに、蜂起に至った要因の研究状況をまとめる。

赤軍支配下の尼港

ニコラエフスクに入城したパルチザン部隊は、資産家の自宅や公共施設、アパートなどを接収し、分宿した。入城セレモニーの後、トリャピーツィンは、赤軍司令部によって、自身がニコラエフスク管区赤軍の司令官に任命されたことを宣言し、本部はノーベリ商会の館に置くことと、赤軍の人事を発表した。参謀長はナウモフ。レホフとニーナ・レベデワが本部宣伝部門指導者。チェーカー3人、軍事革命裁判所メンバー5人、などである。続いて、全公共機関には監視員が派遣され、印刷所が接収されて、町の新聞はすべて発行禁止となった。またすべての職場で労働組合を組織することが命令され、組合員に加入しなかったり、受け入れられなかった者は、「人民の敵として抹殺される」と発表された。同時に、チェーカーとパルチザン部隊の活動が始まり、公共機関、ビジネス界で重要な地位にある市民たちの資産没収、逮捕が発令された。[68]

ソ連側文献によれば、2月29日、ニコラエフスクにおいて第一回州革命執行委員会が開催され、ロシア人が所有する大企業、銀行、共同組合を国有化し、ロシア人所有の小企業と外国人所有の大企業を監査して、必要な場合は徴発することが決められた。また組合員となった市民の労働に対しては、現物支給を行い、配給制が計画されていた。[31]

最初の逮捕者は、400人を超えたといわれる。白軍の将校にはじまり、ついで白軍兵士や出入り商人、企業家、資産家、立憲民主党員、公務員、知識人、聖職者、個人的にパルチザンの恨みを買っていた者[注釈 6]など、女性も年少の者も区別無く投獄され、拷問にあい、処刑された者も多数にのぼった。[69]

銀行や企業、産業、商業の国有化が開始され、投獄された人々の資産は没収された。徴発委員会が組織され、個人宅に押し入って金銭、貴金属類などを奪ったが、それに名を借りて、個人的な略奪も横行した。逮捕者の数は増え続け、ニコラエフスクの住人は、パニックに陥っていた。[70]

蜂起についての日ソの見解

1920年6月30日、日本外務省公表の『尼港事件ニ関する件』によれば、ニコラエフスクにいた中国領事や惨殺を逃れたロシア人たちの話、新聞情報を総合して、日本軍蜂起の要因は次のようなものだった。「日本軍はパルチザンとの間に協定を結び、白軍を虐殺しないこと、としていたが、パルチザンは約束を破って惨殺した。またパルチザン部隊は、ニコラエフスク市内で朝鮮人、中国人を集めて部隊を編成し、革命記念日に日本軍を抹殺するとの風評が流れた。3月11日午後になって、日本軍は武装解除を求められ、しかも期限を翌12日正午と通告されたので、自衛上、蜂起した」[71]

「西白利出兵 憲兵史」も、事件直後の外務省見解と基調は変わらず、蜂起にいたった状態を次のように述べている。「開城の合意条項において、ニコラエフスク市内では白軍であっても検束しない、ということになっていたにもかかわらず、入城するや否や、ほしいままに白軍、有産者を捕縛、陵辱、略奪し、日本軍に保護を願ってくる者が多数にのぼった。そこで、守備隊長の石川少佐は石田虎松領事と相談して、3月10日、トリャピーツィンに暴虐行為をやめるように勧告したが、かえってトリャピーツィンは、日本軍に武器弾薬全部の貸与方を要求して、翌12正午までの回答を迫った」[72]

事件により、400名近い日本軍守備隊は全滅したにもかかわらず、ある程度、戦闘状況などがわかったについては、ニコラエフスクの廃墟から、香田一等兵の日記などが発見されたためである[22]。原暉之は、香田日記の表現が、「武器弾薬ノ借受ヲ要求」となっていることから、トリャピーツィンが日本軍に武装解除を迫ったという日本側の見解に疑問をはさみ、次に述べるソ連側の言い分に理解を示す[73]

ソ連側、スモリャークの論文では、事件に関係した赤軍の一人、オフチーンニコフの回想録により、「赤軍と日本軍の関係は友好的なものであった。しかしながら、これは日本側が赤軍を欺いていたのである」とし、「日本軍は講和条約の条件を破り、突然攻撃してきた」と結論づけられている[31]

これは、日本軍蜂起鎮圧直後に、トリャピーツィンがニーナ・レベデワ(ナウモフの死により参謀長になっていた)と連名で、各地に打電した声明文に基づいた回想と思われる。トリャピーツィンは、日本軍との友好関係を、次のように宣伝していた。「日本軍将校達は、頻繁に我々の本部を訪れて、仕事をする以外に、友人であるかのように議論に加わったり、ソビエト政府に対する賛同を表明したり、自分達をボルシェヴィキと呼んでみたり、赤いリボンを服に着けたりしていた。彼らは、武器の供給であるとか、その他可能なあらゆる方法で、赤軍を援助すると約束した。しかし、後に明らかになるように、それは、計画していた裏切り行為を隠蔽するために、彼らが被った仮面に過ぎなかった」[74]

これについて、虐殺を生き延びたE.I.ワシレフスキイは、1920年7月に、こう宣誓証言をしている。「パルチザン本部への、日本軍の攻撃は、3月12日の午前2時か3時ごろに始まった。その攻撃の前に、日本軍の武装解除の通告に関する件と、パルチザン本部に来た日本軍の人たちに行った、赤いネクタイにピンを付けさせるような件による侮辱と、一連の挑発的な行動によって意図的にパルチザン達が、情報を流しているとの噂が、広まっていた」[75]

アメリカ人マキエフは赤軍はニコラエフスク市街に侵入後、旧ロシア軍人官吏等2,500名を捕縛し、そのうち200名を惨殺するなどの暴虐を行ったため、日本守備隊長が抗議を申込むと赤軍は却て日本軍の武装解除を要求し、日本守備隊長がこれを拒絶しついに日本軍と赤軍との間に戦闘が開始されたと証言している[4]

宣誓証言に見る蜂起の要因

事件生存者による1920年の宣誓証言から、日本軍蜂起の要因に関する部分を次に引用する。

Ya.G.ドビソフ「噂によれば、日本軍は、武器引渡勧告に対して、それを議論するために軍事会議を開かなければならない、旨を回答した。3月11日の夜に、参謀長ナウモフは石川を呼び、鋭い語気で、『交渉は、もう時間切れだ。もし、明日の11時までに武器を引渡さない時は、こちらも必要な処置を取る』と、彼に言った。私はこの話を、パルチザン本部で聞いた」[76]

G.B.ワチュイシビリ(グルジア人)「3月10日に、日本軍は、『引渡しの条件の下では、ボルシェビキは何人をも逮捕することはできない。赤軍の処刑による“人々の抹殺”のような暴力行為が行われた場合には、日本軍は、それに対して行動を起こすであろう』と、書かれたビラを配った(同様のものが、赤軍が町に入る以前にも、配布されていた)。にもかかわらず、逮捕は続き、その数は日増しに増えていった。3月11日の晩に、赤軍は、反革命による犠牲者の葬儀を、翌12日に開催するので出席するようにとの招待と、その日の昼までに、保有する武器を引渡すようにとの勧告を、日本軍司令部に通達した」[77]

V.N.クワソフ「3月12日午前2時、私たちは、大砲、機関銃、ライフルの音で目を覚ましました。そして、眠れぬ一夜を過ごしました。翌朝、日本軍が、赤軍の武装放棄要求を拒否して、攻撃を開始したことがわかりました」[78]

I.R.ベルマント「3月11日午後5時、島田鉄工所の管理者で日本人の森氏が、電話をかけてきた。すぐに来てくれ、という。行ってみると、彼は、龍岡氏から今聞いたばかりだという話をした。軍関係者によると、トリャピーツィンが日本軍に対し、武器および機関銃を3月12日正午までに放棄せよ、と要求してきたと言う。私は尋ねた、『どうなるのだろうか?』『私の考えでは、日本軍司令部が武器を放棄するはずがない。その先どうなるかは、私にも見当がつかない』と、彼は言った」[79]

『ニコラエフスクの破壊 』の著者グートマンは、上のような証言を含む調査報告書をもとに、「日本軍本部は、血に飢えた人々に接収された町の中で、ボルシェビキの残虐な行為に対して、不平を言い、住民を困難な状況での避けがたい死から救うことを喜んでしようとする唯一の人間的な公共機関であった」とし、およそ次に要約するようなことを述べている。「赤軍が開城合意条項を裏切り、文化教養のある層を殺戮している中で、ロシア人はひそかに日本領事を頼り、日本人居留民も、次は自分たちではないかと不安を訴えた。日本軍は、毎日のように、合意遵守の必要を赤軍本部に訴え、略奪、殺人、拘束に抗議したが、無視され続けた。そこで、『日本軍と赤軍との合意条件の下では、市民の殺人、逮捕、資産の略奪は許されない』というビラを刷って配ったが、パルチザンによって破棄された。日本軍将校が、トリャピーツィン本人に抗議したときには、『内政問題なのであなた方には関係がない』と言い捨てた。しかし、トリャピーツィンにとって日本軍は邪魔だったので、挑発して片付けてしまうことを目論み、武装解除と武器引渡しを求める最後通牒をつきつけた」[80]

『ニコラエフスクの破壊 』の米訳者エラ・リューリ・ウイスエルも、次のように述べている。「ソビエト政府は、残酷な結末となった日本軍守備隊によるパルチザン部隊攻撃が、トリャピーツィンの挑発行為によって誘発されたものであることを絶対に容認しなかった。ソビエト側の文献では、ニコラエフスク占領は、英雄的パルチザンによる誉れ高い偉業として言及されている」[81]

戦闘と虐殺

日本軍蜂起にともなって、日本人居留民のほぼ全員が惨殺された。しかしソ連側文献は、「居留民の死は蜂起した日本軍にあり、パルチザン側にはない」という見解をとっている[31]。原暉之はこのソ連側の見解を受け、参謀本部編『西伯利出兵史』の「戦闘の局外にあった民間人が敵軍の手で皆殺しになったような書き方」に疑問を呈している[82]

この項では、蜂起後の日本軍の戦闘を追うとともに、居留民虐殺の状況についてまとめる。

戦闘の経過
食料が備蓄されていたニコラエフスクの島田商会。上部の楕円の中は日本軍兵営。

ニコラエフスクにおける日本軍の兵力概数と配置は、以下のようだった。[83]

所属 兵力 所在 指揮官
陸軍守備隊 290人 日本軍兵営 石川正雅少佐
陸軍憲兵隊 15人 アムール河畔の宿営
海軍無線電信隊 40人 日本領事館 石川光儀少佐、三宅駸吾少佐
在郷軍人など 70人 各所に散在
赤軍本部襲撃

計画は、およそ以下のようなものであったのではないか、と推測されている。陸軍部隊のうち、水上大尉率いる90人ほどが赤軍本部とその護衛部隊(ノーベリ商会と市民倶楽部)を襲撃。石川陸軍少佐は、60人ほどを率いて、赤軍本部付近の掃討をなしつつ北方から赤軍本部を攻撃する。後藤大尉率いる90名ほどについては、監獄を襲って、赤軍に捕らえられていた白軍や市民を解放しようとしていたのではないか、とされる。海軍部隊は、半分が赤軍本部の襲撃に参加し、半分は領事館の警備に残った。[84]

日本軍は3月12日未明、赤軍本部を襲った。参謀長ナウモフが死に、トリャピーツィンも足に負傷を追ったが、ニーナ・レベデワに助けられて逃げた。しかし、クンストアルベルト商会を宿舎としていた赤軍副司令ラプタは、攻撃の圏外にいて、ただちに分宿したパルチザン部隊に連絡をとり、指揮をとった。市街戦となり、数に劣る日本軍は劣勢となっていった。市街戦は、ほぼ2日間続いた。島田商会は、赤軍本部に近かったこともあり、ここに立てこもった部隊もいたとされる。石川陸軍少佐がまず倒れ、12日夕刻、配下の生存者13名は、三等主計の指揮のもと、兵営に帰り着いた。水上大尉も、部下の過半数を失い、ある家屋にたてこもって闘っていた。[85]

中国軍による日本軍兵営への砲撃
中国海軍砲艦「利綏」。前身のドイツ海軍砲艦「ファーターラント」(de)時代の写真。

3月12日、後藤大尉隊は、早めに兵営を出て街の東方のはずれにある監獄をめざし、捕らえられていた人々を解放しようとしたが、守備が厳重で果たさなかった。あきらめて、本隊に合流しようと市中を進むうちに市街戦になった。戦闘相手の中心は、リューリ商会とスターエフの事務所に宿営していた中国人、朝鮮人からなるパルチザン部隊だった。路上の後藤大尉隊は、建造物を占拠しているパルチザンから狙い撃たれ、手榴弾を投げられるなどで苦戦し、生き延びた30余名がアムール河畔の憲兵隊に合した。[86]

3月13日、中国軍砲艦による砲撃で日本軍兵営を悽惨極めるほどに破壊された[3]。憲兵隊と合した後藤隊の生存者は、砲撃してきた中国軍砲艦目がけて突撃して全滅したと思われると香月昌三一等兵は書きとめている[3]。11時には2月7日の戦闘で重傷を負った榊原海軍機関大尉が陸軍病院で息を引き取った[49]

払暁、水上大尉隊は包囲を突破して兵営に帰ることに決し突出し、水上大尉は戦死したが、20名ほどは河本中尉の指揮で無事帰り着いた。海軍部隊も攻撃に出た者はほとんどが倒れ、わずかな人数が領事館に帰った。[85]

日本領事館陥落
焼け落ちた日本領事館

3月14日早朝、パルチザン部隊は、日本領事館を包囲すると火を放ち、中国軍から日本軍を砲撃するためとして貸与された艦載砲ガトリング砲で攻撃した[87][5]

グートマンは、包囲突撃に参加したパルチザンの、次のような話を紹介している。「石田領事は、領事館前の階段に現れて、『領事館とここにいる人は、国際法によって保護されている。そして、領事館は、不可侵である』と説得をはじめたが、一斉射撃が浴びせられ、領事は血まみれで倒れた」 しかし一方でグートマンは、生き延びた領事館の使用人が、「領事は妻と子供を射殺し、火を放って自殺した」と語ったとも記している。領事館の隣人・カンディンスカヤ夫人は、ボルシェビキからの保護を求めて領事館に駆け込んだところが、領事は「領事館の日本人は死を覚悟している。あなたが生存を望むなら早くお逃げなさい」と言い、また領事夫人は、子供に晴れ着を着せながら泣いていた、といった証言を行っていることから、結局、グートマンは、領事と夫人は最初から死を覚悟していたのだろう、と結論づけ、しかし、領事館の火災については、パルチザン部隊が投げた手榴弾によるものだった、としている。[88]

ともかく、領事館は炎につつまれ、領事館を守護していた海軍無線電信隊は、石川少佐、三宅少佐以下、全員戦死。石田領事とその妻子、領事館にいた在留邦人も、すべて死亡した[89]

グートマンは、このとき、「凍結した港内にいた中国砲艦は、日本領事館の方向から突進してきた日本軍兵士と日本人居留民に発砲し、人々は、パルチザンと中国人の十字砲火の中で、全員死亡した」としている[90]。これについて、グートマンと同じ生き延びたロシア人からの聞き取り調査を資料としたと思われる石塚教二の『アムールのささやき 』は[22]、「憲兵隊と合流していた後藤隊の残存者たちが、領事館から逃れて来た居留民たちを中国砲艦に助けてもらおうとしたところ、砲艦は居留民に発砲したので、後藤隊は砲艦に突進して全滅した」と解釈している[86]

なお、グートマンは、日本軍の戦闘について、こう書いている。「明らかに、日本軍は、無用な血を流すことを意図してはいなかった。あらゆる可能性の中で、日本軍が目標としたものは、単にパルチザンの武装解除であった。このことは、日本軍に取り囲まれた建物のパルチザンの多くが、殺されていなかったのみならず、傷ついてさえもいなかったという事実がこれを説明している。パルチザンによる報告では、日本軍は、単に彼らの武器を持ち去り、彼らを自由にさせた。9人の医助手が、巡回裁判所の反対側の建物で逮捕された後、解放された。建物に駆け込んだ時、日本軍兵士たちは、単にそこに武器があるかを質問したのみで、否定的な返事を受け取ると、彼らはロシア人を害することもなく立ち去った」[91]

日本軍武装解除

領事館が焼け落ちた後、生き残った日本兵は、守衛のため兵営に残っていた者、帰り着いた者をあわせて、およそ80人あまりだった。女性を含む民間人も13人ほどが兵営に逃れてきていて、ともにたてこもっていた。また、アムール河畔の第二陸軍病院分院に、分院長内田一等軍医以下8人、患者18人がいた。[92]

香月日記によれば「数門の砲および中国砲艦より砲撃を受け、兵舎の破壊は凄惨をきわめた」ということで[3]、大隊本部は破壊されたが、中隊兵営に立てこもった100人ほどは、河本中尉の指揮下、四昼夜の籠城戦に耐えていた。ところが3月17日夕刻、突然、パルチザン側から、ハバロフスクの山田旅団長、杉野領事の名入りの電報を提示された[93]。この電報は、ハバロフスクの革命軍司令官ブルガルコフと外交部長ゲイツマンが、山田旅団長と杉野領事に対し、「ニコラエフスクで戦闘が起こっているので、おたがい戦闘中止に尽力しようではないか」ともちかけ、評議の上、4人の連名で、日本軍とトリャピーツィン双方に、中止を勧告したものだった[94]

3月18日、河本中尉は「戦友が倒れただけでなく、同胞がみな虐殺されている中で、降伏はできない。しかし、われわれの戦闘が国策のさわりになるというので、旅団長がこう言ってきたのならば、逆らうこともできない」と述べて、戦闘を中止した[95]。ニコラエフスクでの日本軍最高級者になっていた内田一等軍医が、武装解除を決め、民間人をも含めて兵営に立てこもっていた全員、そして軍医以下の衛生部員もみな、監獄に収容され、衣服も奪われ、過酷な労役を課された[95]。3月31日にニコラエフスクを脱出しアレクサンドロフスク・サハリンスキーに逃れてきたアメリカ人マキエフの当時の証言では拘禁された日本人の待遇は日々冷酷を極めつつあり、その惨虐行為は外部に対し極力秘匿されていたが今や一人も生残るものはないであろうと語っている[4]

日本人虐殺
グートマンによる総括

グートマンによれば、パルチザンが最初に襲った日本人居留民は、花街の娼妓たちだった。「残酷な獣の手で見つけ出された不幸な婦人に降りかかった災難については、話す言葉もない。泣きながら、後生だからと婦人は、拷問者と殺人者に容赦を嘆願し、膝を落とした。しかし、誰も恐ろしい運命から救うことはできなかった。別の婦人は、かろうじて着物を着て通りを駆け出し、その場でパルチザンに銃剣で突かれた。通りは、血の海と化し、婦人の死体が散乱した」 また、即座に殺されなかった女性と子供についても、運命は過酷だった。「3月13日の夜の間に、12日の午前中に監禁された日本人の女性と子供が、アムール河岸に連れて行かれ、残酷に殺された。彼らの死体は、雪の穴の中に投げ込まれた。3歳までの特に幼い子供は、生きたまま穴に投げ込まれた。野獣化したパルチザンでさえ、子供を殺すためだけには、手を上げられなかった。まだ生きたまま、母親の死体の側で、雪で覆われた。死にきれていない婦人のうめき声や小さなか弱い体を雪で覆われた子供の悲鳴や泣き叫ぶ声が、地表を這い続けた。そして、突き出された小さな手や足が、人間の凶暴性と残酷性を示す気味悪い光景を与えていた」[96]

『出兵史』に対する原暉之の疑念

パルチザンによる日本居留民の虐殺について、『西伯利出兵史要』は、次のように述べている。「敵は、わが軍の攻撃を撃退するや、直ちに市内の日本居留門を襲ってその全部を虐殺し、その家産を奪った。屈強の男だけというならまだしもの事、なんら抵抗力なき老若婦女もことごとく虐殺せられたのである。はなはだしきに至っては、小児なぞ投げ殺されたものもあるとの事で、その残忍凶悪ほとんど類を見ないのである。かくて彼らの魔手をのがれ幸に兵営に遁るるを得たものは400有余名の居留民中わずかに13名にすぎないのである」[97]

これに対して原暉之は、「たしかに三月の戦闘時点で尼港日本人居留民の一部が略奪されたり殺されたりしたことは否定できない」としながら、全体としては、軍隊と行動をともにしての戦死と敗戦の過程での集団自決が多かったのではないか、と憶測する。原が、その根拠としているのは、主に以下の三点である。まず、現地入りした外務省の花岡止朗書記官の、6月22日付け内田外相宛報告に、「当地居留民ハ今春3月12日事件ノ際領事及軍隊ト行動ヲ共ニシ大部分戦死」と書かれていること。次に、救援隊の多門大佐が、ニコラエフスクを脱出してサハリンに現れたアメリカ人毛皮商人から、「脱出するとき、知り合いの日本人を誘ったが断られた。日本人はみな一団となって日本軍とともに抵抗する決心をして、知り合いの日本人も島田商店に立てこもった。憲兵隊の宿営も全焼したが、居留民も兵士と共に火中に身を投じた」というような話を聞き、5月6日付で参謀本部に報告していること。最後は、領事館の二人の海軍大佐が自決したともいわれ、また石田領事が妻子を道連れに自決したのではないかと推測されること、である。[98]

原暉之が理解を見せるソ連側言い分の基本には、日本軍蜂起の要因と同じく、トリャピーツィンとニーナ・レベデワ連名の宣伝電文がある。「日本軍の主力部隊は、日本領事館、兵舎、守衛隊本部に集結された。さらに、本隊から切り離されてしまった兵士達は、日本人が居住していた全ての家屋で籠城した。日本人居留民の全員が武装し、攻撃に参加していた」と、彼らは各地に打電していたのである。[99]

トリャピーツィンとニーナ・レベデワは、仲間割れによって処刑されるが、そのときの人民裁判の罪状に、日本人居留民の虐殺は含まれていない[100]

生き残った人々の証言
アムール河岸に打ち上げられた虐殺死体

原暉之の疑念に関して、生き残ったニコラエフスクの人々の宣誓証言を引用する。

S.D.ストロッド(学生)「日本軍の攻撃の間に、女子供も慈悲のかけらもなく殺された。近所の人が、日本人女性2人と、子供2人がアムール河の方へ連れて行かれるのを見た、と言っていた。(中略)3月16日に、アムール河岸に放置されている死体の中に、兄がいないかと、探しに行った。死体の数は大変な数であった。最初の山には30体が積み上げられており、その多くは日本人の男女であった。1体だけロシア人の死体が混じっていた」[101]

Ya.G.ドビソフ「私は後に、『お前が日本軍に隠れ家を提供したから、やつらはそこから発砲してきた』という口実で、多くのロシア人が、パルチザンによって殺されたことを知った。また彼らは、平和的な日本人居留民の家に押入り、金目の物を要求した後、彼らを殺した。日本人居留民は、攻撃に参加していなかったばかりでなく、攻撃があることさえ知らされていなかった。もし、日本軍司令部が居留民に、これから起こることを警告したり、武器を与えたりしていたら、後に起こったようなことは起こらなかったであろう。その場合には、おそらく、パルチザン達は持ちこたえられなかったであろう。監獄と民兵営舎に収容されていた800人を超える囚人が、解放されていたに違いないからである。しかしあいにく、女子供を含めて、日本人居留民はすでに全員殺されていた。私自身、多くの囚人がどこかに連れ去られるのを見た。その後、銃声と打撃音、悲鳴が聞こえてきた」[102]

A.P.アフシャルモフ(学生)「日本人居留民は、日本軍による攻撃を、全く誰も知らされていなかった。それどころか、予測すらしていなかった。日本人の歯科医嵩山は、隣の叔父の家に住んでいた。パルチザンが我が家に来て、日本人が住んでいないか尋ねた。誰もいないと答えた。すると、隣の叔父の家へ行った。そして、ことは起った。叔父の家から銃声が聞こえた。パルチザン達は、叔父家族に外に出るように命令し、手榴弾を投げ込んだ。手榴弾3発が爆発した後、彼らは家の回りに干し草を置き、それに灯油をかけて、家に火をつけた。私は、この様子をずっと、窓越しに見ていた。家に火が放たれると、歯科医とその妻の側に、逃げ込んでいた3人の負傷兵がいたことがわかった。その3人の日本人は、炎の中を飛び出して来て、射殺された。歯科医は、爆発で吹き飛ばされて首がなかった。彼の妻は、焼死した。リューリ家の門のところで、日本人乳母の死体を見かけた。中国人パルチザンは、日本軍兵士の死体をあざけりながら、銃の台尻で、頭蓋骨を砕いていた」[103]

E.I.ワシレフスキイ「日本領事とその家族は殺され、領事館は焼け落ちた。この攻撃に関与したしないに関わらず、女子供を含め、全ての日本人居留民が虐殺された。人々は、ベッドからたたき起こされて殺された。日本人の時計修理工も、自宅のすぐ近くで、同じように殺された。日本人居留民の行動をみていると、我々ロシア人と同様に、まさに寝耳に水、という様子であった。この未明の攻撃に関して、彼らは何も知らされていなかった、としか思えなかった」[104]

S.I.パルナシェフ「日本人居留民の中に、この攻撃に関して、未決定の段階での情報を与えられたものは、いく人かはいたかもしれないが、大多数の日本人は、全く知らされていなかった。多くの人達が、その時までに義勇隊から動員が解除されていた。日本人居留民は、女性や子供を含めて、寝ていたベッドから掴み出されて、あるいはその場で、あるいは通りに連れ出されて、殺された。監獄に連れて行かれ、殺された者も大勢いた」[105]

N.K.ズエフ(学生)「日本軍の攻撃中の3月12日か13日か(おそらく12日)朝10時に、パルチザンがラマキンの家に入って行った。そこには、6人の日本人が住んでいた。彼らは軍人ではなく、ただの職人であったが、全員が剣で斬り殺された。午後4時頃に、彼らの内、2人の男女が意識を取り戻した。指を切り落とされ、血まみれのまま何とか我々のフェンスにたどり着き、助けを求めて我が家に駆け込んできた。数人のパルチザンが、我が家の一階に住んでいた。そして、日本人が内側にたどり着く前に、銃を持って飛び出して行った。日本人は、膝を着いて叫んだ。『殺さないでくれ。何でも話すから』 しかし、この願いは無駄だった。パルチザンは、女を撃ったが、あまりに頭に近づけて回転銃を撃ったため、髪の中に額の部分が陥没した。それから、男を撃った。死体は、裏庭に3日間放置された。夕方、パルチザンの一人の中国人が、日本人のズボンを脱がしていたが、古くて擦り切れているのを見て、投げ捨てた」[106]

G.B.ワチュイシビリ「3月12日の午前2時、日本軍の攻撃が始まった。日本人居留民はこの攻撃には参加しておらず、その計画さえも知らされていなかった。それにもかかわらず、パルチザンは、日本人居留民に突進し、彼らをベッドから引き摺り出し、外に連れ出し、資産を略奪している間に、有無を言わせず殺した。日本人の床屋と時計修理工とその子供は、私の家の通りを挟んだ向かい側に住んでいた。8時頃、彼らは家から追い立てられ、私の家の前を連行されて行った。12歳から14歳の4人の子供が、逃げようとした。中国人パルチザンが、後を追いかけ、4人とも射殺した。私の家から、川口乾物店まではそう遠くはなかった。3月12日の夜、中国人、朝鮮人パルチザンが、川口商店のドアを壊して、店を略奪し、住んでいた4人の事務員を殺した」[107]

I.R.ベルマント「私は、日本人の一般住民が、攻撃に関しては何も知らなかったことを事実として知っている。日本人の女性達が、パルチザンに向けて発砲した、などというのは、全くの事実無根である。パルチザン達から聞いたのだが、朝鮮人と中国人パルチザンは女、子供もかまわず、狂ったように日本人を殺した、もっともロシア人の中にも、50歩100歩の輩もいたが、という。多くのパルチザンが、自分の戦果を自慢し合っていた。しかし、そうすることに憤りを感じているパルチザンが大勢いたことも、事実である」[108]

A.リューリ(エラの祖母)「うちの御者がやって来ました。その男は、孫達の乳母が日本人で、私たちと一緒にいることを知っていました。彼は、私に言いました。『ばば様、お前さまもつらいだろうが、日本人のうばさんに今すぐ出てってもらった方がいい』 そして、彼女の方を向くと、言いました。『さあ、出て行きな』 すがり付くすべもなく、彼女は外に出ました。そして、裏庭から通りへ、突き出されました。彼女はそこで殺されました」[109]

I.I.ミハイリク(会計係)「日本人居留民は、日本軍の攻撃には参画していなかった。これは、知っているパルチザンから聞いたのだが、他にも彼らが逮捕した日本人についても話してくれた。例えば、床屋の森とパン屋の百合野は、寝ていたベッドから裸のまま連行された。森は、『何故、私たちを殺すのか? 私たちは敵じゃない。ロシア人市民がそうであるように、もう長い間、あなた達と一緒に暮らしているし、一緒に仕事もしている』と言って、何とか助けてくれと懇願した。しかし、何の効果もなく、彼らは殺された。女、子供でさえも殺された。私は、腕に子供を抱えた女性達が、通りを連れて行かれるのを目撃した、彼女たちは、足を取られては、雪の上で転んでいた。そのたびに、早く立て、と銃尾で小突かれていた。彼女たちは、民兵隊の営舎に連行されて行った」[110]

同時に行われたロシア人虐殺

日本軍の蜂起に至るまで、赤軍が投獄した人々の処刑は、一応、赤軍裁判の手続きを経て行われていた。しかし、3月12日未明から14日の夜中の12時まで、3昼夜の間、裁判、審理なしで、一般住民の処刑が許されていたことが、残された書類でわかる。その書類と同時に、8日付けで、監獄の向かいの家に、死刑執行にあたった赤軍第一中隊の宿泊願いが出されていることから、グートマンは、「赤軍は、日本軍蜂起を挑発し、同時に手続きなしの市民殺戮を企てていたのではないか」と推測している。[111]

日本人居留民の虐殺が始まると同時に、町の監獄と軍の留置所では、投獄されていた人々の惨殺がはじまった。監獄にいた160人のうち、生き残ったのは4人のみである。パルチザンは、銃弾を節約するために、囚人を裸にし、手を縛り、裏庭に連れ出して斧の背で頭を打ち、銃剣で突き、剣で斬った。死体は、町のゴミ捨て場に捨てられるか、アムール川の氷の中に投げ込まれた。街中で、一般の人々の家に押し入った場合は、銃殺した。資産家の妻から坑夫の娘まで、女性にも容赦がなかった。3月12日から16日までの5日間で、殺された日本人とロシア人の数は、1500人にのぼった。ロシア人のうち、600人は、企業家や知識人層として、町の誇りとなり、もっとも尊敬されていた人々だった。[112]

続いて引き起こされる大量殺戮前の3月31日にニコラエフスクを脱出したアメリカ人マキエフは過激派がロシア人も日本人も関係なく掠奪惨殺を行い罪なき婦女子を銃剣で蜂の巣のごとく刺殺するのを目撃している[4]

中国艦艇による砲撃問題

中国艦隊が日本軍を砲撃した件については、6月に日本軍の救援隊がニコラエフスク入りした直後、香田一等兵の日記ではっきりと確かめられ、生き延びたロシア人の証言も多数あって、調査が進められた[113]6月8日中国海軍吉黒江防司令王崇文中国語海軍少将石坂善次郎陸軍少将を訪れ配下の砲艦3隻はいまだ尼港にあるため確認は取れていないが調査を行っているので真偽は判明するであろうと答えている[114]

香月一等兵の日記が記した中国砲艦の砲撃は、「日本軍の兵営攻撃」と「後藤隊の残存者が砲撃によって全滅させられたようだ」という二点である[3]。これに対して、中国側の資料としては、砲艦利捷の副官だった陣抜の回顧談を記述した『ニコラエフスクの回想』が残っているが[27]、関与は認めながら、直接的な砲撃ではなく「パルチザン部隊に砲を貸し出した」ということになっている[87]

陣抜の回顧談によれば、以下のようなことになる。「中国艦隊は幾度も日本軍に行く手をはばまれ、白軍と日本軍に好意を持ってはいなかった。ニコラエフスクにパルチザンが進駐してくると、すばらしい軍隊だと感動し、友好関係を持った。12日夜、ニーナ・レベデワから日本領事館を攻撃するために大砲2門を借りたいと申し出があって、陣世栄艦長が江亨艦の3インチ舷側砲1門と利川艦のガトリング砲1門を貸し、側砲の鋼鉄弾と榴散弾それぞれ3発、ガトリング砲の砲弾15発を与えた」[87]

石塚教二は、「パルチザンは、領事館を砲撃した砲を今度は日本軍兵営に向けた」としている[86]。領事館を砲撃した砲が中国艦隊のものだったとすれば、香月一等兵の日記の記述とあわせて、合理的な解釈である。

日本政府は、北京政府に共同調査を申し入れ、9月、両国の委員がニコラエフスクにおいて中国艦隊の関与を確かめた。調査内容は公表されなかったが、当時の新聞報道によれば、日中間には、砲艦の乗員が上陸していたかどうか、直接的荷担か間接的荷担かで、事実認識にくいちがいがあったとみられる。10月26日、この共同調査の結果に基づき、小幡公使は北京政府に以下の和解案を示した。[27]

  1. 中国政府が遺憾の意を表すこと
  2. 中国砲艦の艦長が日本軍司令部に遺憾の意を表すこと
  3. 関係将校下士卒の処罰
  4. 中国艦の砲撃によって死亡した日本人遺族に慰謝料を支払うこと

北京政府は、このうちの1と4に難色を示した。しかし年末に至って、中華民国政府は、共同調査報告書の字句修正(陸上交戦を武器貸与に変更)と、報告書と公文書の非公開を条件に、全項目を受諾し、三万元の慰謝料を払うこととなった。[27]

陣世栄艦長は「解任して永久に叙任せず」という処分を受けたが李良才陳季良[115])と名を改めて再び任務につき[87]文虎勳章を授与され将官に昇進すると第一艦隊司令などの重職を任され没後は上将を追贈された[115]。また、共同調査の報告書が「武器貸与」に修正されたことから、現代の中国でも、関与は直接的なものではなく、間接的なものであった、と認識されている[115]。現在、中国共産党は日本政府の要求を受諾した当時の中華民国政府を軟弱無能であるとしている[115]

大量殺戮と焦土化

グートマンによれば、トリャピーツィンはニコラエフスク住民の大量殺戮と街の破壊を、事件の大分前に計画していたという。彼は、「町の代わりに、血溜まりと灰の山を残すだろう」と宣言し、その通りに実行した。[116]

大量虐殺と破壊
監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書
「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」

ニコラエフスクでは、日本軍蜂起に続く市民虐殺の後、一時、手続きのない殺人は行われなくなっていた。3月16日には、第1回サハリン州ソビエト大会が開催された。大会では、ハバロフスクにおいて、革命委員会とゼムストヴォ自治政府の妥協主義が非難され、トリャピーツインの独裁的な革命体制が確立されようとしていた。配給制度が推し進められ、挑発は日常茶飯事となり、恣意的な逮捕、投獄は続いた。そんな中で、かつてパルチザン鉱山連隊の司令官を務めていたブードリンがトリャピーツインを批判し、ブードリンは逮捕された。しかしブードリンには、解散させられた鉱山連隊を中心に支持者が多く、死刑にはならなかったが、後に大虐殺の最中に殺された。[117]

ニコラエフスクの惨事を知った日本軍は、赤軍との妥協的な態度を捨てた。4月4日、ウラジオストクにおいて、日本軍の歩哨が射撃を受けたことをきっかけに日本軍は軍事行動を起こし、赤軍に武装解除を求め、ウラジオストクの赤軍はこれを受け入れた。ハバロフスクでは戦闘が起こったが、4月6日には日本軍が勝利をおさめ、赤軍は武装解除された。4月29日になって、日本はウラジオストク臨時政府と、以下のような条件で講和した。「ロシアの武装団体はどのような政治団体に属するものであっても日本軍駐屯地およびウスリー鉄道幹線ならびにスーチャン支線から30キロ以内には侵入できない。また、この圏内のロシア艦船、兵器、爆弾その他の軍需材料、兵営、武器製造所など、すべて日本軍が押収する」[118]

日本軍が赤軍を武装解除した4月6日、ちょうど極東共和国が樹立され、ソビエト・ロシアの了承のもと、ロシア東部、シベリア一帯が独立した民主国家を名乗って、日本を含む連合国側に承認を求めた。ソビエト・ロシアとの間の緩衝国家となり、日本に撤兵を呑ませようとしていたのである。極東共和国のこの目的からしても、赤軍の武装解除は、受け入れを拒否する問題ではなかった。[119]

ニコラエフスクには、4月20日ころから、ハバロフスクにおける日本軍と赤軍との戦闘の噂が届きはじめた。やがて、ハバロフスクの赤軍は武装解除されたこと、解氷とともに日本軍は確実にニコラエフスクへ至ることなど、詳しいことが伝わった。赤軍の武装解除、極東共和国の樹立は、トリャピーツインには思惑外であり、ただちに、全権が執行委員会から革命委員会に移され、非常態勢がとられた。最初に行われたことは、アムール川の日本船の航行を妨害するため、障害物を置くことである。バージを航路に沈めるため、女子供までがかり出され、重労働に従った。また、資金もつきていて、トリャピーツインは新ソビエト紙幣を刷った。中国商人はこれを受け取ろうとはせず、必要物資を調達するためには、金塊で支払うしかなかった。しかし、貯金が封鎖され、全紙幣の廃止、新ソビエト紙幣へ交換するための期限設定が布告されると、逮捕を怖れた人々は、争って交換した。交換された旧紙幣は、革命委員に分配された。[120]

革命委員会とチェーカーの特別会議において、トリャピーツインとニーナ・レベデワは、「パルチザンとその家族をアムグン川上流のケルビ村に避難させ、残ったニコラエフスクの住民を絶滅し、町を焼きつくす」という提案をし、了承された。それは秘密にされていたが、噂が流れ出した。5月20日、中国領事と砲艦、そして中国人居留民がみな、全財産を持って、アムール川の少し上流にあるマゴ(マヴォ)へ移動した。この直後、21日の夜から、逮捕と処刑がはじまった。日本軍蜂起のときに殺された人々の家族、以前に収監されたことのある人々が投獄され、次々に処刑された。80歳の老人から1歳の子供、弁護士や銀行家から郵便局員や無線局員、ユダヤ人は名指しで狙われていたが、ポーランド人やイギリス人も、無差別に殺された。21日から24日までの間に、3,000人が殺されたのではないか、と言われている。[121]

シベリア上空を飛ぶ日本軍機『救露討獨遠征軍画報』より(1919年2月1日に描かれたもの)

5月24日、収監されていた日本兵、陸軍軍人軍属108名、海軍軍人2名、居留民12名、合計122名が、アムール河岸に連れ出されて虐殺され、さらには、病院に収容されていた傷病日本兵17名も、ことごとく殺された[122]。日本の救援隊は、生存者の生命の安全を確保するために、交渉する用意はあったが相手がつかまらず、意志を伝えようと、海軍の飛行機を使ってびらをまいた[123]。目的は果たせなかったが、元気づけられた人もいた。父、姉、弟を殺された女子学生V.N.クワソワは、こう語っている。「5月29日、日本軍の飛行機が飛んできて、市民を元気づける内容の、宣伝ビラを散布していきました」[124]

住人は、街から逃げ出して、近郊の村やタイガへ隠れたが、赤軍は武装探索隊を出して殺害してまわった。殺戮は10日間続き、ケルビへの移動がはじまった。町を離れるには通行証が必要で、もらえなかった人々は、殺される運命にあった。町の破壊は、28日にはじまった。最初に川向こうの漁場に火がつけられ、30日には製材所が焼かれ、31日には、町中が炎につつまれた。その間にも、虐殺は行われた。建物に閉じ込めたまま焼き殺し、バージに乗せて集団で川に沈めた。最終的に、何千人が殺されたのか、正確な数は不明である。[125]

事件全体の日本人犠牲者は、軍属を含む陸軍関係者が336名、海軍関係者44名、外務省関係者(石田領事とその家族)4名、判明している民間人347名。合計731名とされている。民間人については、領事館が消失して書類がなく、後日、政府が全国の町村役場に照会して調査したが、つかみきれず、さらに多いのではないか、とも考えられている。[6]

この無差別な殺戮から逃れることができた人々の中には、個人的に中国人の家にかくまわれたり、中国の砲艦で脱出させてもらったりした場合が多くあった[126]。日本人も、中国人にかくまわれた16人の子女が、中国の砲艦によってマゴへ逃れ、かろうじて命拾いをした。ニコラエフスク市内にいて助かった邦人は、単身自力で市外へ逃れ出た毛皮商人が一人いたことをのぞいて、これがすべてである。[127][注釈 7]

救援部隊の出動

救援隊を指揮した多門二郎大佐(写真は陸軍中将時)
第三艦隊司令長官野間口兼雄中将

ハバロフスクの革命委員会は、日本軍と共同で戦闘中止要請をした手前もあり、トリャピーツィンに状況の説明を求めた。それに応じてトリャピーツィンは、電報を打った。さらに後日、参謀長ニーナ・レベデワと連名で、モスクワをはじめ、イルクーツクチタ、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、アレクサンドロフスク、ペトロパブロフスクなど、各地へ、長文の声明文を打電したが、内容の骨子は、最初のものと似たものだった。[128] 長文の声明の冒頭は、「ニコラエフスク管区赤軍本部は、ここに、ニコラエフスク・ナ・アムーレにおける日本軍による攻撃という血なまぐさい事件を、全ての者に報告する。さらに、事件の詳細および事件に先立つ諸事情についても、情報提供する。それによって、我々との平和協定締結後に、ソビエト赤軍に対し背信的攻撃を加えた、日本軍の裏切り行為と犯罪の本性が、明確に暴露されるであろう」というもので、さらに、「日本人居留民の全員が武装し」、「兵舎に立てこもった130名の日本軍が白旗を揚げて武器を放棄したので捕虜として捕らえた」以外は、「武器を取った日本人のほとんどが戦死した」とあった。ちなみに、赤軍側の死者は50名、負傷者は100名以上としている。[129]

最初に、トリャピーツィンの電文の現物に接したのは、ペトロパブロフスクの塩田領事館事務代理で、3月18日、「電文を見たところ、ニコラエフスクで戦闘があり、在留民およそ700名が殺され、100名が負傷し、司令部、領事館、その他邦人家屋はすべて焼き払われたのではないか」と、内田外務大臣に打電した。21日には、トリャピーツィンの電文がウラジオストクの新聞に載り、それを見た海軍第5戦隊司令官より海軍省へも、ニコラエフスクにて異常事態発生の連絡があった。[130] 

その後、当局が各方面から情報を集め、早急な救援隊の派遣が決定された。まずは、すでに2月、第7師団より編成されていた増援隊を、アレクサンドロフスクへ派遣して、解氷を待つこととした。この部隊は、多門二郎大佐率いる歩兵1大隊、砲、工兵各1中隊、無線電信隊1隊で、主に北海道で編成されていた。4月16日、多門隊は、小樽を出発し、軍艦三笠と見島の援護のもと、22日にアレクサンドロフスクへ上陸した。[131]

当局はさらなる情報収集を行ない、多門隊のみでは兵力不足だと認定した。第7師団からの歩兵1連隊を基幹とし、多門隊も含めて、津野一輔少将の下、北部沿海州派遣隊が編成された。多門隊は、5月13日にデカストリに上陸し、津野隊は、5月下旬に小樽を発した。津野隊とともに、海軍第三艦隊の主力(司令長官野間口兼雄中将)と第3水雷戦隊(司令官桑島少将)が、直接、ニコラエフスクへ向かった。一方、ハバロフスクの第14師団は、できるかぎりの兵力を集め、国分中佐の指揮下、海軍臨時派遣隊(中村少将指揮)の砲艦3隻の護衛を受け、5月14日にハバロフスクを出て、アムール川を下った。途中、ラプタの指揮するおよそ200の赤軍部隊を破り、25日、多門隊と合流して、ニコラエフスクをめざした。多門隊のニコラエフスク進入は、6月3日だったが、すでにそのときニコラエフスクは、遺体が散乱する焦土となっていた。[132]

トリャピーツィンの処刑

ニコラエフスクを焦土にしたトリャピーツィン一行が、ケルビ(ニコラエフスクから96キロ)に到着するまでに、人数は相当に少なくなっていた。強制動員されていた農民たちは、逃げ出して村に帰り、日本軍の報復を怖れた中国人や朝鮮人たちも、タイガへと逃れた者が多かった。6月3日にニコラエフスクを占領した日本軍は、トリャピーツィン一行を捕らえるつもりではあったが、アムール川からアムグン川にかけて、日本軍が跡を追えないようにバージなどの障害物が沈められていて、すぐに航路を使うことは不可能であり、またタイガに逃げ散ったパルチザンを捕まえることも難しかった。[133]

その間、ニコラエフスクからの避難民が、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、ウラジオストク、日本に現れ、事件の全容が外部に知られはじめた。ソビエト政権系のジャーナリズムは、当初、トリャピーツィンの言い分をそのままに、赤軍の正義と日本軍の裏切りを言い立てていたが、労働者が大半である数千人の市民の虐殺と街の破壊を、日本軍の責任にできるわけもなく、ボルシェヴィキは困惑せざるをえなかった。危機感を持ったハバロフスクのソビエト代表団は、6月の終わりにアムグン地域に出向き、反トリャピーツィングループと接触した。[134]

反トリャピーツィングループを指導していたのは、殺されたブードリンと友人だった砲手アンドレーエフである。協力者には、朝鮮人第2中隊を率いていたワシリー朴がいた。ソビエト代表団と接触したことによって、アンドレーエフは行動を起こした。ケルビのパルチザン本部は、アムグン川に停泊する蒸気船の中にあったが、7月3日の夜、本部で眠るトリャピーツィンとニーナ・レベデワが逮捕され、続いて指導部全員が捕らえられた。9日、人民裁判が行われ、トリャピーツィンとニーナ・レベデワ以下7名が銃殺となった。[135]

裁判の中でトリャピーツィンは、「もし自分がニコラエフスクで行った全てのことのために裁かれるのならば、その時の同志や自分を裏切って裁判に渡し、逮捕した人々も含めて一緒に裁かれるべきだ」と述べた。判決文におけるトリャピーツィンの主な罪状は、5月22日から6月2日までのニコラエフスク大殺戮を許容したこと、さらに7月4日まで、サハリン州諸村でも虐殺命令を発していたこと、ブードリンなど数名の仲間の共産主義者を射殺したこと、であって、日本人の虐殺については、まったく触れられていない。同時に、「ニコラエフスク管区赤軍司令官として在職中、ソビエト政治の方針に従わず、職権者を圧迫し、ロシア共和国政府のもとで活動していた労働者間の共産主義に対する信頼を傷つけた」ことを罪状に上げ、トリャピーツィンとニーナ・レベデワは、ソビエト政権への反逆者であったと、位置づけている。[136]

北樺太進駐

日本政府は、7月3日に以下のようなことを官報告知した。「今年の3月12日から5月末まで、ニコライエフスクにおいて、日本軍、領事館員および在留民およそ700名、老幼男女の別なく虐殺されたが、しかし現在、シベリアには交渉すべき政府がない。将来、正当な政府が樹立され、事件の満足な解決が得られるまで、サハリン州内の必要と認められる地点を占領するつもりである」[137]「必要と認められる地点」とは、北樺太であり、宣言と同時にサガレン州派遣軍が編成され、児島中将の指揮下、8月上旬アレクサンドロフスクに上陸し、駐屯した[138]

日本における事件の波紋

政治的な反響

大失態の責任を取って陸軍大臣を辞した田中義一[139]

尼港事件に関して、日本国内で大々的に報道されるようになったのは、6月、救援隊が現地入りし、凄惨な全容が明らかになってからである[140]

すぐに議会で取り上げられ、野党憲政会の激しい政府批判がはじまった。この年5月の衆議院選挙で、与党立憲政友会は圧勝していたが、野党側の言い分では、「与党は尼港事件を隠して解散、総選挙に踏み切った」というのである。首相が「惨劇が起こったのは不可抗力だった」と言ったとの報道があり、「責任逃れではないのか」と追及された。「治安維持に十分な兵力を置いていないにもかかわらず、居留民の引揚げを考慮しなかったのは不注意だ」というところから、ついには、「チェコ軍団の救援目的は達したにもかかわらず、なんのために兵を残したのか。過激派の勢力をそぐこともできなければ、日本人居留民の生命財産を守ることもできなかったではないか」と、シベリア出兵そのものへの批判になった。[12]

この年、7月号の中央公論には、尼港事件に関して、二つの論評が出ている。吉野作造は、「真の責任者は明白に政府殊に軍事当局者にある」としながら、野党が事件を利用して、内閣の倒壊を企てていることへの批判に重点を置いている[141]三宅雪嶺もやはり、「反対党がなにかといへば総辞職を迫るのも褒めた事ではない」としているが、こちらは、政府側が責任を負うことを言明しないでおいて、「権力争奪に利用するな」とばかりいうのは誤っていると、政府側に点が辛い[142]

田中義一陸軍大臣に対しても、責任問題が追及され、田中義一は国務大臣としての責任をとり「断じて臣節を全うす」と称して陸軍大臣の職を辞した[139]。そして、占領宣言をした北樺太をのぞけば、シベリア出兵は撤退の方向にむかう、という大方針は変わらなかったのである[12]

社会的な反響

井竿富雄は、政治の場で出てきた不可抗力論は、社会的には見殺しとして受けとめられた、という。新聞社が特派員を派遣して、領事とその家族、居留民、武装解除された日本軍部隊が惨殺された状況、そして、そうなるに至った事情を、こと細かく報道したのである[12]。悲惨な状況が伝わるにつれ、どうしてそんなことが起こってしまったのか、陸軍ならびに政府のシベリア出兵の方針に、問題があったのではないかという疑念が満ちてくる。1920年の秋に9000部刷られた五百木良三のパンフレットは、以下のように慨嘆する。「日本軍は中立を保つという政策がやむをえなかったのだとすれば、兵力を増強しておくべきだった。それを怠って、突然、方針を一転し、赤軍と妥協せよと命じたために、昨日まで友軍だった白軍が残忍きわまる虐殺の下に全滅し、これを見ながら日本軍はなにもできず、見殺しにするしかなかった。たちまち順番は自分たちの上にまわってきて、白軍と同じ運命に突き落とされた。そして、悪戦苦闘の末に生き残った百余人の勇士が、最後の一戦に死に花を咲かそうとした時、またしても停戦命令である。痛恨を忍んで命令に従った結果、武器を奪われ牢獄に入れられ、あらゆる屈辱を加えられた末が、一同生きながらに焚き殺されたという始末。なんというみじめな運命であろう」[143] あまりに残酷な事件であったため別々の馬で両足を引き裂いて殺害されたなどの話が昭和になっても多く伝えられることとなった[7]

石田虎松領事の遺児である石田芳子はたまたま尼港にいなかったため難を逃れることができた[12]。芳子が『敵を討ってください』という詩を発表すると、全国各地で開かれる追悼集会で引っ張りだことなった[12]。日本軍犠牲者の遺族の声には、次のようなものがあった。「派遣しておいて孤立無援に陥らせ、新聞報道のような残虐なことに至った当局の処置は、合点がいかず、残念でたまらない」「名誉の戦死ではない。全く徒死だ」「堂々と戦ったのではなく、無惨に殺されたのは遺憾だ」 こういった不満は、政府や軍への批判にほかならず、遺族の割り切れない思いは報いられることなく、むしろ警戒された[12]三宅駸吾海軍少佐の兄である三宅驥一博士は、「無策のうちに虐殺を受けさせるとは何事だ。弟だからというのではなく、救援の方法はあったのに、政府がやらせなかったのだ」と憤慨して同情を集めた[144]

北樺太占領と救恤金

白系ロシア人のグートマンは、日本の北樺太占領に領土欲を見て、「ロシア国民は侵略を受け入れることは決してない」と非難している[145]。この北樺太占領に関しては、撤兵反対論者で、対外強硬論者といわれる五百木良三も、「サガレン(サハリン)占領のごときは大道商人のそれにも比すべき最もケチ臭い現金取引きで、あらずもがなのことだ」と反対し[146]、『国辱記』でセンセーショナルに尼港事件を取りあげた溝口白羊も、「尼港事件への寄付金には応じない富豪が、サガレンの漁業、林業、鉱業の利権獲得に夢中になっている」と批判する[147]

1922年に尼港事件被害者とオホーツク事件被害者のための露国政変及西比利亞事変ノ為損害ヲ被リタル者ノ救恤ニ関スル法律が施行され救恤金が支払われた[148]。しかし、救恤金額が少ないことや申請が出来なかったものなどがいたため、尼港事件時に内地にいたため難を逃れることができた島田商会の島田元太郎は[21]、東京に事務所を設け全国の被害者の中心となって再度の救恤金運動を行い続けた[148]

1925年、日本はソビエト・ロシアと国交を回復し、保障占領していた北樺太を返還した。しかしその交渉の過程で、尼港事件は政治的に棚上げされ、北樺太の石油長期利権[注釈 8]と引きかえに、賠償は求めないことになった。1925年12月には救恤金の再給付を求める請願書が島田元太郎等によって提出されたことなどから、日本政府は、「本来はソビエトの責任で日本政府が賠償を肩代わりする理由はない」としながらも、救恤金という形で、遺族を慰撫した[148]

慰霊碑・納骨堂の建立

尼港殉難者記念碑(茨城県水戸市堀原)。1922年3月建立。

事件が大々的に報道された6月以降、各地で法要、招魂祭が催され、また、遺族や婦人団体、在郷軍人団体、宗教家などが現地を訪れて、慰霊につとめた[149]

北海道の小樽市は、樺太、シベリア方面への物資積み出し港であり、ニコラエフスクとも縁が深かった。1924年(大正13年)になって、小樽市民の総意で軍部に請願し、遭難者の遺灰払い下げの運動を起こした。ニコラエフスクで焼却された遺骨は、アレクサンドロフスクの慰霊碑に保管されていたが、これを小樽で永久保存しようということになったのである。軍からの許可が出て、市民に迎えられた遺骨は、市内浄応寺で保管された。1937年(昭和12年)になって、市内の素封家・藤山要吉が私財をなげうち、市民に呼びかけて、手宮の丘に慰霊碑や納骨堂を建てた。戦前には、毎年、尼港記念日の5月24日に法要が行われていた。第二次大戦後、小樽に進駐してきたアメリカの進駐軍から、「破壊せよ」と命令があったが、小樽市民はこれを拒んで、守り通した。[150]

尼港事件の民間人殉難者には、熊本県天草の出身者が多い。他県在住の縁者も加えると110名にのぼり、ほぼ三分の一に達する。1895年(明治28年)、天草北部の二組の夫婦が、それぞれに若い女性たちを連れてニコラエフスクへ渡り、水商売を始めた。以来、水商売に限らず、洗濯業や洋服仕立業で、家族ぐるみの移住者も増え、中には成功して、貿易業や旅館経営をする者も現れていた。小樽と同じく昭和12年、遺族たちの手によって、天草市五和町手野に、尼港事変殉難者碑が建てられている[151]。こちらは、毎年3月12日に慰霊祭が行われ、1970年(昭和45年)には50年祭が盛大に催された。[152]

全員が犠牲となった第14師団尼港守備隊の出身地、茨城県水戸の堀原、もと練兵場のあった場所にも、尼港殉難者記念碑が建っている。戦前は、毎年かかさず慰霊祭が行われていたが、戦後は行われなくなり、碑のいわれを知る市民もほとんどいなくなっている。その他、札幌の護国神社境内にも尼港殉難碑があるが、これは、1927年(昭和2年)、救援隊の兵士達が旧丸山村界川に建立したもので、戦後、現在地に移された。[153]

南京事件

1927年南京事件の際にも日本領事館は襲撃され、領事一家以下、在留邦人、日本軍将兵等が殺傷された[154]。この事件の際には、海軍陸戦隊の荒木亀男大尉は「反抗は徒らに避難民全部を尼港事件同様の虐殺に陥らしむるだけだから、一切手向いせず、暴徒のなすがままにせよ」と命令し、陸戦隊員は中国人の暴行に反抗しなかった[154]。このため領事館内では駐在武官の根本博少佐、領事館警察木村署長を始め多くが重傷を負い、婦女子も丸裸にされ金品・衣服などすべてを奪われ領事館内は木端微塵となったものの邦人虐殺事件に発展しなかったが[154]、荒木大尉は事件後に責任を取り自決を図った[154]1945年ソ連対日参戦の際には北支那方面軍駐蒙軍司令官となった根本博大本営の武装解除命令を拒否し殺到するソ連軍と戦い抜き4万人の在留邦人の脱出を成功させた[155]

参考史料について

尼港事件に関する史料は、日本側のもの、ソ連側のもの、生存者の証言を白系ロシア人が記録したもの、という三種類に大別できる。

基本的な日本側史料は、参謀本部編 『西伯利出兵史―大正七年乃至十一年』と外務省編『日本外交文書 大正九年』である。ソ連側のものは、パルチザン指導者などの回想録が2点ほどある他はめぼしいものがない。白系ロシア人の記録のうち、グートマンの『尼港の災禍』(『ニコラエフスクの破壊 =尼港事件総括報告書=』)は、百ページにのぼる生存者の証言、その他の史料(パルチザン側の文書を含む)を収録しており、貴重である[22]

『西伯利出兵史』をもとに概略が述べられている日本の編纂物としては、『西伯利出兵 憲兵史』『西伯利出兵史要』などがあるが、それらの事件著述と、ソ連の歴史家の一般的な見解[注釈 9]には、事実関係において大きな食い違いがある。双方の見解を併記し、主には『ニコラエフスクの破壊 』掲載の証言を参考として供した。

『ニコラエフスクの破壊 』(原題:Gibel Nikolaevska-na-Amure 米題:THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMUR)は、1924年ベルリンで出版された。著者のグートマン(A.Ya.Gutman)は、事件当時、日本に在住し、ロシア語新聞紙の編集長をしていた。生存者数名にインタビューするとともに、1920年夏、事件直後に実施された調査活動の報告書を入手し、それをもとに執筆した。報告書には生存者57名の口述証言が含まれていた[156]。グートマンは反ボリシェヴィキではあったが、日本軍にも批判を持ち、『ニコラエフスクの破壊 』に収録された生存者の証言は、反革命派に限らず広範にわたる[22]

『ニコラエフスクの破壊 』は後年、英訳、和訳出版されることとなった。1993年に、ニコラエフスクのユダヤ系のリューリ商会のリューリ家で生まれたエラ・リューリ・ウイスエル(Ella.Lury.Wiswell)は、生まれ故郷の悲劇を子細に記録したグートマンのGibel Nikolaevska-na-AmureをTHE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMURとして米語訳を出版した。[注釈 10][157]。2001年に斎藤学により『ニコラエフスクの破壊 』として和訳された。

尼港事件を題材とした作品

第2回城山三郎経済小説大賞受賞[158]

参考文献

  • アナトリイ・ヤコフレビッチ・グートマン(A.Ya.Gutman)著 エラ・リューリ・ウィスウェル(Ella.Lury.Wiswell)米訳 斎藤学和訳『ニコラエフスクの破壊 =尼港事件総括報告書=』(原題:Gibel Nikolaevska-na-Amure 米題:THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMUR) ユーラシア貨幣歴史研究所、2001年
  • 原暉之『「尼港事件」の諸問題』ロシア史研究23 (1975年)収録
  • 原暉之『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』筑摩書房、1989年
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  • 伊藤秀一『ニコラエフスク事件と中国砲艦』ロシア史研究23 (1975年)収録
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  • 佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、昭和60年
  • 溝口白羊『校訂 国辱記』日本評論社出版部、大正10年
  • 堀江則雄『極東共和国の夢』未来社、1999年
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  • 石塚経二『尼港事件秘録 アムールのささやき』千軒社、昭和47年
  • 『中央公論 七月号』中央公論社、大正9年

注釈

  1. ^ グートマンによれば、トリャピーツィンは年齢26歳から28歳ほどで、ペトログラードの工場労働者だった。離職して、ボルシェビキの地下活動に従っていたが、1919年春にイルクーツクへ行き、同年夏にはハバロフスクにいたという。強制動員され、パルチザン軍司令部で働かされていたE.エーメリアノフは、トリャピーツィンについて次のように述べていた。「強い意志を持った男で、不遜といえるほど断固としていた。ロシア国民の無学な階層の心理をよく知っており、目的のためには手段を選ばなかった。トリャピーツィンと直接話したことはないが、知人から聞いた話から判断すると、彼の話は常に脅しであった。(中略)トリャピーツィンを見た他の人たちは『感情のない怪物』と表現した。彼の演説は、恐ろしいほどの怒りに満ちており、無教養な群衆を、磁石のように引きつけていった。彼自身が同じような階層の出であり、彼らに対する演説の仕方とか、復讐のためにその動物的本能を呼び覚ますすべを熟知していた」(参照『ニコラエフスクの破壊 』本文p30)
  2. ^ 以下、『ニコラエフスクの破壊 』付録A、1920年、事件直後の宣誓証言集より。Ya.V.ワシリエフ(森林監視員)「(2月の初め)サソフが、私ともう一人漁場監視員ラズモフを呼び、こう言った。『今後、公式監視員は不要である。全ての者が、人民の敵と闘うパルチザン軍に参加する義務がある。これを拒否する者は、生命の保障はされない』その少し前、70人ほどのサハリンの農民パルチザンが、ワッセに向かう途中に、通りかかったことがあった。最初は、総動員が発せられたが、その後、彼らは43から45歳までの砲兵、特殊技能者を選別し始めた。それ以外の動員者は、全員が35歳以下であった」 I.E.カザチコフ(農民パルチザン)「私は、ウダ郡サハロウカ村出身のギリシャ正教徒のロシア人農民である。(中略)結婚しており、1歳の娘がいる。前科はない。ニコラエフスクでは、要塞砲兵隊にいた。私は、暴徒達とともにニコラエフスクに来た。弟やその他大勢と一緒に、動員されたのである。弟は目の病のせいで放免されて、今は村に戻っている。私は、日本軍の攻撃の間、戦闘に参加した。その後、しばらく警備兵として働いたが、やがてチヌイラフ要塞に砲兵として送られた。そこに、ニコラエフスク待避の時までいた。逮捕や殺人には間与していない。そういったことには、特別な人たちだけが任命されたのだ」 G.I.ツゴフツォフ(アイヌ系パルチザン)「私は、コルサコフスキイ港生まれの、ギリシャ正教を信仰するアイヌ人である。私の永住地はサハリン州にあり、そこで農業をしている。有罪判決を受けたことは、1度もない。結婚していて、4人の子供がいる。一番上の子は8歳だ。私は、サカロフスカ村の4人の農民と一緒に、強制的に動員された」 E.S.プガエンコ(パルチザン)「私は27歳である。ドン州で生まれ、ウドスク郡セルギエボ=ロズデストペンスコエ準郡ノボポクロフスエコエ村に住んでいる。結婚している。現在、妻は、初めての子供を身ごもっている。旧暦の1月中旬、その時には、すでにトリャピーツィンの地位は、カベルで確立されていたのであるが、彼からの電話による緊急声明が、ワッセ岬から馬で届けられて来た。声明文には、この地方は赤軍の法のもとに置かれた、全ての健全な農民とギリヤーク人は動員されるだろう、馬や橇用の犬も同様である、とあった。動員は、16または17歳以上が対象だった。ある会合が召集された。逃げようにも場所がなく、そして、声明文で、動員に従わなかったりと拒否したりした場合は処刑する、と脅されていた」
  3. ^ ウラジオ派遣海軍の参謀であり、ロシア通で、冬期調査のため客分としてニコラエフスクに滞在していた。(『アムールのささやき』p17、p289)
  4. ^ 副領事だったが、後日、殉難した3月14日の日付で、領事に昇格した。石田領事は明治7年(1874年)、石川県に生まれ、母子家庭だったために苦学した。東京のニコライ神学校から東洋協会露語学校に転じて卒業。明治31年外務省留学試験に合格してウラジオストク留学、明治35年外務書記生に任じられ、大正6年(1917年)ニコラエフスク赴任。翌年、副領事に任じられていた。(『アムールのささやき』p142、『校訂 国辱記』p61) 石田領事一家および館員(前列左端が石田虎松領事) 靖国神社
  5. ^ グリゴリエフは、ロシア帝国正規軍の将校として、対独戦の前線に立っていたが、病気を理由に革命の嵐を避けて軍務を離れ、コルチャーク政権ができると同時に、軍に復帰した。パルチザンのニコラエフスク入城直後に捕らわれたが、正規軍で3年半の間生活をともにした従卒イワノフが、偶然トリャピーツィンの側近になっていて、助けられた。白軍将校では唯一の生き残りであり、貴重な証言を残している。(参照『ニコラエフスクの破壊 』付録A宣誓証言集 p170-178)
  6. ^ 赤軍ににらまれた場合は、労働者も投獄された。労働者でボルシェヴィキのF.T. パツルナークは3月6日に投獄されたと証言している。(『ニコラエフスクの破壊 』付録A 事件直後の宣誓証言集 p218)
  7. ^ ニコラエフスク市内の話ではないが、山本灸三郎と日高たつのは、ニコラエフスクの西200キロの山中に夫婦として暮らしていたが、6月になってからトリャピーツィン部隊による危険が迫り、ギリヤーク人とロシア人によって助けられて逃げ、日本海軍部隊に救助された。(『アムールのささやき』p248-249)
  8. ^ 1925年(大正14年)12月14日から45ヵ年という長期利権で、第二次大戦が終わるまでの20年間、工業、軍事に利用できた。(『アムールのささやき』p36-37)
  9. ^ 例えばВ. Г. スモリャーク著『ニコラエフスク事件』。藤本和貴夫の和訳があるため、原暉之『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』とともに、ソ連側見解を知る文献として活用した。
  10. ^ エラはユダヤ系で、ニコラエフスクの漁業交易事業家、リューリ家の一員だった。エラの祖父はリトアニアの生まれで、11月蜂起に加わってサハリン徒刑となり、ニコラエフスクに強制移住させられた。エラの父、メイエルは、弟とともにリューリ兄弟商会を設立し、日本人島田元太郎が経営する島田商会と協力して、ニコラエフスク経済界の中心的存在になっていた。エラとその両親は、尼港事件当時日本にいて惨禍をまぬがれたが、叔父、叔母をはじめ、親族、知人の多くが虐殺された。事件直後、メイエルは船をチャーターし、日本海軍の許可を得て、妻とともにニコラエフスクへ乗り込んで、生存者を救助した。その中には、かろうじて生きのびたエラの祖母と、両親と日本人の乳母を失った幼いいとこたちがいた。(参照『ニコラエフスクの破壊 』の米訳者前文。沢田和彦著『白系ロシア人と日本文化』成文社、2007年)UNIVERSITY OF HAWAII ATMANOA LIBRARY Russian Collections

参照元

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関連項目

外部リンク

  • 標題:表紙(アジ暦 尼港ニ於ケル帝国官民虐殺事件 第一巻表紙)【 レファレンスコード 】B08090304600