「ハンガリー」の版間の差分

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m ドイツ語呼称をコメントアウト、日本における「マジャール」表記の起源について、マジャルをハンガリーに置換、など。ノート参照。
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標語 =なし|
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位置画像 =LocationHungary.png|
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公用語 =[[マジャル語]]|
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首都 =[[ブダペスト]]|
首都 =[[ブダペスト]]|
最大都市 =ブダペスト|
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時間帯 =+1|
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夏時間 =+2|
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国歌名 =神よマジャル人を祝福し賜え|
国歌名 =神よハンガリーを祝福し賜え|
ccTLD =HU|
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国際電話番号 =36|
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== 国名 ==
== 国名 ==
正式名称はマジャル(ハンガリー語で ''Magyar Köztársaság''(マジャル・ケスタールシャシャーグ/日本語訳:マジャル共和国)。通称 ''Magyarország''(マジャロルサーグ)。
正式名称はハンガリー語で ''Magyar Köztársaság''(マジャル・ケスタールシャシャーグ<!--/日本語訳:マジャル共和国-->)。通称 ''Magyarország''(マジャロルサーグ)。


ドイツ語の表記は ''Republik Ungarn''(レプブリーク・ウンガルン)、通称 '' Ungarn''('''ウンガルン''')。
<!-- ドイツ語の表記は ''Republik Ungarn''(レプブリーク・ウンガルン)、通称 '' Ungarn''('''ウンガルン''')。 -->


公式の英語表記は ''Republic of Hungary''、通称 ''Hungary''。
公式の英語表記は ''Republic of Hungary''、通称 ''Hungary''。
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日本語の表記は '''ハンガリー共和国'''、通称 '''ハンガリー'''。
日本語の表記は '''ハンガリー共和国'''、通称 '''ハンガリー'''。


自称国名の「マジャル」は、[[ハンガリー人]]の自称民族名[[マジャル人|マジャル]]と同じである。''Magyar'' は日本では「マジャール」と表記されることが多いが、ハンガリー語は母音の長短をはっきり区別する特性をもち、''Magyar'' の語は全て短母音なので、「'''マジャル'''」のほうが正確な表記である。
<!--自称国名の「マジャル」は、[[ハンガリー人]]の自称民族名[[マジャル人|マジャル]]と同じである。-->


ハンガリー語において、ハンガリー人もしくはハンガリーを指す''Magyar'' は日本では「マジャール」と表記されることが多いが、これはおそらく英語の発音に基いた表記である。[http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=magyar&kind=ej goo辞書]
他称の「ハンガリー」「ウンガルン」は、[[ラテン語]]で「[[フン族|フン人]]の[[ガリア]]」を意味したという説と、マジャル人の故地である[[ウラル山脈]]方面で活動しマジャル人にも文化的影響を与えた遊牧民[[オノグル]]の名が訛ったという説があり、後者の説が有力視されている。文献によっては、前者の説を誤りと断定している。
ハンガリー語は母音の長短をはっきり区別する特性をもち、''Magyar'' の語は全て短母音なので、ハンガリー語の発音に倣うならば「'''マジャル'''」という表記がもっとも近くなる。
歴史上では、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。

国際的に用いられる、「ハンガリー」「ウンガルン」と言った呼称は、[[ラテン語]]で「[[フン族|フン人]]の[[ガリア]]」を意味したという説と、ハンガリー人の故地である[[ウラル山脈]]方面で活動しハンガリー人にも文化的影響を与えた遊牧民[[オノグル]]の名が訛ったという説があり、後者の説が有力視されている。文献によっては、前者の説を誤りと断定している。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
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ハンガリーの国土は[[ハンガリー平原]]と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。
ハンガリーの国土は[[ハンガリー平原]]と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。


古代には[[パンノニア]]と呼ばれたこの地域は、[[古代ローマ|ローマ]]の属州イリュリクム、[[ローマ帝国]]の属州パンノニアを経て[[ゲルマン人]]の激しい侵入を受け、[[5世紀]]には[[フン族|フン]]、[[6世紀]]には[[アヴァール]]が東方からやってきて定着した。[[8世紀]]にはアヴァールを倒した[[フランク王国]]の支配下に移るが、[[9世紀]]には東方から新たにやってきた遊牧民[[マジャル人]]に征服された。
古代には[[パンノニア]]と呼ばれたこの地域は、[[古代ローマ|ローマ]]の属州イリュリクム、[[ローマ帝国]]の属州パンノニアを経て[[ゲルマン人]]の激しい侵入を受け、[[5世紀]]には[[フン族|フン]]、[[6世紀]]には[[アヴァール]]が東方からやってきて定着した。[[8世紀]]にはアヴァールを倒した[[フランク王国]]の支配下に移るが、[[9世紀]]には東方から新たにやってきた遊牧民[[ハンガリー人]]に征服された。


[[10世紀]]末に即位したマジャル人の君主[[イシュトヴァーン1世]]は、西暦[[1000年]]に[[キリスト教]]に改宗し、[[西ヨーロッパ]]の[[カトリック]]諸王国の一員である[[ハンガリー王国]]を建国した。ハンガリー王国はやがて[[トランシルヴァニア]]、[[ヴォイヴォディナ]]、[[クロアチア]]、[[ダルマチア]]などを広く支配する大国に発展する。[[13世紀]]には[[モンゴル帝国]]軍の襲来を受け大きな被害を受けたが、その後の[[14世紀]]から[[15世紀]]頃には特に周辺の諸王国とも[[同君連合]]を結んで[[中央ヨーロッパ]]の強国となった。
[[10世紀]]末に即位したハンガリー人の君主[[イシュトヴァーン1世]]は、西暦[[1000年]]に[[キリスト教]]に改宗し、[[西ヨーロッパ]]の[[カトリック]]諸王国の一員である[[ハンガリー王国]]を建国した。ハンガリー王国はやがて[[トランシルヴァニア]]、[[ヴォイヴォディナ]]、[[クロアチア]]、[[ダルマチア]]などを広く支配する大国に発展する。[[13世紀]]には[[モンゴル帝国]]軍の襲来を受け大きな被害を受けたが、その後の[[14世紀]]から[[15世紀]]頃には特に周辺の諸王国とも[[同君連合]]を結んで[[中央ヨーロッパ]]の強国となった。


しかし、15世紀後半から[[オスマン帝国]]の強い圧力を受けるようになり、[[1526年]]に[[モハーチの戦い]]に敗れて国王[[ラヨシュ2世]]が戦死した。[[1541年]]に[[ブダ]]が陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国、北西部の3分の1を[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア]]によって分割支配され、両帝国のぶつかりあう最前線となった。
しかし、15世紀後半から[[オスマン帝国]]の強い圧力を受けるようになり、[[1526年]]に[[モハーチの戦い]]に敗れて国王[[ラヨシュ2世]]が戦死した。[[1541年]]に[[ブダ]]が陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国、北西部の3分の1を[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア]]によって分割支配され、両帝国のぶつかりあう最前線となった。
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オスマン帝国の軍事的後退とともに[[1699年]]の[[カルロヴィッツ条約]]でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲されたが、ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。[[1848年]]の[[1848年革命|3月革命]]において[[コッシュート・ラヨシュ]]が指導した独立運動こそ[[ロシア]]軍の介入により失敗したが、オーストリア側は民族独立運動を抑えるためにハンガリー人との妥協を決断し、[[1867年]]に[[アウスグライヒ]](和協)が結ばれた。これによりハプスブルク家がオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨し、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合する[[オーストリア・ハンガリー帝国]]となった。
オスマン帝国の軍事的後退とともに[[1699年]]の[[カルロヴィッツ条約]]でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲されたが、ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。[[1848年]]の[[1848年革命|3月革命]]において[[コッシュート・ラヨシュ]]が指導した独立運動こそ[[ロシア]]軍の介入により失敗したが、オーストリア側は民族独立運動を抑えるためにハンガリー人との妥協を決断し、[[1867年]]に[[アウスグライヒ]](和協)が結ばれた。これによりハプスブルク家がオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨し、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合する[[オーストリア・ハンガリー帝国]]となった。


オーストリア・ハンガリーのもとハンガリーでは[[資本主義]]経済が発展し、[[ナショナリズム]]が高揚したが、[[第一次世界大戦]]で敗戦国となり、オーストリアと分離された。戦後の[[1920年]]に結ばれた[[トリアノン条約]]によりハンガリーはトランシルヴァニアなど二重帝国時代の王国領のうちの面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人(マジャル人)の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。
オーストリア・ハンガリーのもとハンガリーでは[[資本主義]]経済が発展し、[[ナショナリズム]]が高揚したが、[[第一次世界大戦]]で敗戦国となり、オーストリアと分離された。戦後の[[1920年]]に結ばれた[[トリアノン条約]]によりハンガリーはトランシルヴァニアなど二重帝国時代の王国領のうちの面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。


戦間期のハンガリー王国では、ハプスブルク家に代わる国王が選出されないまま、[[ホルティ・ミクローシュ]]が[[摂政]]として君臨したが、領土を失った反動から次第に右傾化した。[[第二次世界大戦]]では失地回復を目指して[[枢軸国]]側について敗戦、[[ソビエト連邦]]に占領された。
戦間期のハンガリー王国では、ハプスブルク家に代わる国王が選出されないまま、[[ホルティ・ミクローシュ]]が[[摂政]]として君臨したが、領土を失った反動から次第に右傾化した。[[第二次世界大戦]]では失地回復を目指して[[枢軸国]]側について敗戦、[[ソビエト連邦]]に占領された。
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ハンガリーとその周辺は、独特の豊かな[[文化]]をもった様々な[[民族]]が居住していることが[[19世紀]]以来よく知られている。
ハンガリーとその周辺は、独特の豊かな[[文化]]をもった様々な[[民族]]が居住していることが[[19世紀]]以来よく知られている。


ハンガリー共和国の国民の95%以上は[[マジャル人]](ハンガリー人である。マジャル人は[[フィン・ウゴル語族]]の[[ハンガリー語]](マジャル語)を[[母語]]とし、[[ウラル山脈]]の方面から移ってきた[[歴史]]をもつため、[[日本]]には「[[アジア]]系民族」と紹介されることもある。その文法構造のため、マジャル人の人名は正式に表記した際に[[姓]]が名の前につく、[[ヨーロッパ]]で唯一の民である。
ハンガリー共和国の国民の95%以上は[[ハンガリー人]]である。ハンガリー人は[[フィン・ウゴル語族]]の[[ハンガリー語]]を[[母語]]とし、[[ウラル山脈]]の方面から移ってきた[[歴史]]をもつため、[[日本]]には「[[アジア]]系民族」と紹介されることもある。その文法構造のため、ハンガリー国民の人名は正式に表記した際に[[姓]]が名の前につく、[[ヨーロッパ]]で唯一の民である。


マジャル人は旧[[ハンガリー王国]]領に広まって居住していたため、[[セルビア・モンテネグロ]]の[[ヴォイヴォディナ]]、[[クロアチア]]北部、[[スロバキア]]南部、[[ルーマニア]]の[[トランシルヴァニア]]などにもかなりのマジャル人[[人口]]が残る。また、マジャル人の中には[[モルダヴィア]]の[[チャーンゴー]]、トランシルヴァニアの[[セーケイ人|セーケイ]]や、ハンガリー共和国領内の[[ヤース]]、[[マチョー]]、[[クマン人|クン]]、[[パローツ]]などの個性的な文化をもつサブ・グループが知られるが、ヤース人が[[アラン人]]の末裔、クン人が[[クマン人]]の末裔であることが知られるように、これらは様々な出自をもち、ハンガリー王国に移住してマジャルに部分的に同化されていった人々である。
ハンガリー人は旧[[ハンガリー王国]]領に広まって居住していたため、[[セルビア・モンテネグロ]]の[[ヴォイヴォディナ]]、[[クロアチア]]北部、[[スロバキア]]南部、[[ルーマニア]]の[[トランシルヴァニア]]などにもかなりのハンガリー人[[人口]]が残る。また、ハンガリー人の中には[[モルダヴィア]]の[[チャーンゴー]]、トランシルヴァニアの[[セーケイ人|セーケイ]]や、ハンガリー共和国領内の[[ヤース]]、[[マチョー]]、[[クマン人|クン]]、[[パローツ]]などの個性的な文化をもつサブ・グループが知られるが、ヤース人が[[アラン人]]の末裔、クン人が[[クマン人]]の末裔であることが知られるように、これらは様々な出自をもち、ハンガリー王国に移住してハンガリーに部分的に同化されていった人々である。


その他の民族では、[[ロマ]](ジプシー)と[[ドイツ人]]がある程度の数が知られる。ハンガリーのロマは個性的な民族文化で知られる。また、ドイツ人は[[東方植民地運動]]の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、[[トランシルヴァニア]]のサース人([[ザクセン人]])や[[スロヴァキア]]の[[ツィプス・ドイツ人]]のようにハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。
その他の民族では、[[ロマ]](ジプシー)と[[ドイツ人]]がある程度の数が知られる。ハンガリーのロマは個性的な民族文化で知られる。また、ドイツ人は[[東方植民地運動]]の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、[[トランシルヴァニア]]のサース人([[ザクセン人]])や[[スロヴァキア]]の[[ツィプス・ドイツ人]]のようにハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。

2006年3月21日 (火) 01:58時点における版

ハンガリー共和国(―きょうわこく)、通称ハンガリーは、東ヨーロッパオーストリアスロバキアウクライナルーマニアセルビア・モンテネグロクロアチアスロベニアに囲まれた内陸国で、ドナウ川などのヨーロッパの有名なが通っている。

ハンガリー共和国
Magyar Köztársaság
ハンガリーの国旗 ハンガリーの国章
国旗 (国章)
国の標語:なし
国歌神よハンガリーを祝福し賜え
ハンガリーの位置
公用語 ハンガリー語
首都 ブダペスト
最大の都市 ブダペスト
政府
大統領 ショーヨム・ラースロー
首相 ジュルチャーニ・フェレンツ
面積
総計 93,030km2108位
水面積率 0.7
人口
総計(2004年 10,032,375人(80位
人口密度 108人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(xxxx年 xxx,xxxフォリント
GDP(MER
合計(xxxx年xxx,xxxドル(???位
1人あたり xxxドル
GDP(PPP
合計(2003年1,397億ドル(48位
1人あたり 13,900ドル
独立
 - 日付
オーストリア・ハンガリー帝国から
1918年10月31日
通貨 フォリントHUF
時間帯 UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1 不明
ccTLD HU
国際電話番号 36

国名

正式名称はハンガリー語で Magyar Köztársaság(マジャル・ケスタールシャシャーグ)。通称 Magyarország(マジャロルサーグ)。


公式の英語表記は Republic of Hungary、通称 Hungary

日本語の表記は ハンガリー共和国、通称 ハンガリー


ハンガリー語において、ハンガリー人もしくはハンガリーを指すMagyar は日本では「マジャール」と表記されることが多いが、これはおそらく英語の発音に基いた表記である。goo辞書 ハンガリー語は母音の長短をはっきり区別する特性をもち、Magyar の語は全て短母音なので、ハンガリー語の発音に倣うならば「マジャル」という表記がもっとも近くなる。 歴史上では、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。

国際的に用いられる、「ハンガリー」「ウンガルン」と言った呼称は、ラテン語で「フン人ガリア」を意味したという説と、ハンガリー人の故地であるウラル山脈方面で活動しハンガリー人にも文化的影響を与えた遊牧民オノグルの名が訛ったという説があり、後者の説が有力視されている。文献によっては、前者の説を誤りと断定している。

歴史

詳細はハンガリーの歴史を参照

ハンガリーの国土はハンガリー平原と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。

古代にはパンノニアと呼ばれたこの地域は、ローマの属州イリュリクム、ローマ帝国の属州パンノニアを経てゲルマン人の激しい侵入を受け、5世紀にはフン6世紀にはアヴァールが東方からやってきて定着した。8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、9世紀には東方から新たにやってきた遊牧民ハンガリー人に征服された。

10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年キリスト教に改宗し、西ヨーロッパカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国を建国した。ハンガリー王国はやがてトランシルヴァニアヴォイヴォディナクロアチアダルマチアなどを広く支配する大国に発展する。13世紀にはモンゴル帝国軍の襲来を受け大きな被害を受けたが、その後の14世紀から15世紀頃には特に周辺の諸王国とも同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった。

しかし、15世紀後半からオスマン帝国の強い圧力を受けるようになり、1526年モハーチの戦いに敗れて国王ラヨシュ2世が戦死した。1541年ブダが陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国、北西部の3分の1をハプスブルク家オーストリアによって分割支配され、両帝国のぶつかりあう最前線となった。

オスマン帝国の軍事的後退とともに1699年カルロヴィッツ条約でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲されたが、ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。1848年3月革命においてコッシュート・ラヨシュが指導した独立運動こそロシア軍の介入により失敗したが、オーストリア側は民族独立運動を抑えるためにハンガリー人との妥協を決断し、1867年アウスグライヒ(和協)が結ばれた。これによりハプスブルク家がオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨し、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア・ハンガリー帝国となった。

オーストリア・ハンガリーのもとハンガリーでは資本主義経済が発展し、ナショナリズムが高揚したが、第一次世界大戦で敗戦国となり、オーストリアと分離された。戦後の1920年に結ばれたトリアノン条約によりハンガリーはトランシルヴァニアなど二重帝国時代の王国領のうちの面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。

戦間期のハンガリー王国では、ハプスブルク家に代わる国王が選出されないまま、ホルティ・ミクローシュ摂政として君臨したが、領土を失った反動から次第に右傾化した。第二次世界大戦では失地回復を目指して枢軸国側について敗戦、ソビエト連邦に占領された。

戦後のハンガリーはソ連の影響下のもと共産主義国ハンガリー人民共和国として再出発し、冷戦体制の中で東側の共産圏に属した。しかしソ連に対する反発も根強く、1956年にはハンガリー動乱が起こるが、ソ連に鎮圧されてしまった。

1980年代末になると冷戦終結の機運とともに共産党(社会主義者労働党)独裁の限界が明らかとなり、1989年にハンガリーは一党独裁を放棄して平和裏に体制を転換、憲法を改正して国名をハンガリー共和国とし、ハンガリーの民主化が進められた。同年5月、ハンガリーは西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網「鉄のカーテン」を撤去し、国境を開放した。これによりハンガリー国内に西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民がハンガリー国内に殺到、汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こし、冷戦を終結させる大きな引き金となった。

1990年代のハンガリーはヨーロッパ社会の復帰を目指して改革開放を進め、1999年北大西洋条約機構(NATO)、2004年欧州連合(EU)に加盟した。

政治

ハンガリーは議院内閣制を取り、大統領は任期5年で議会によって選ばれるが、首相を任命するなど、儀礼的な職務を遂行するのみの象徴的な元首である。実権は首相にあり、自ら閣僚を選んで行政を行う。

立法府の議会(Országgyűlés)は一院制、民選で、任期は4年、定員は386人である。議会は国家の最高権威機関であり、全ての法は議会の承認を経なければ成立しない。

地方行政区分

ハンガリーは40の地方行政区分に区分される。うち19は郡とも県とも訳されるメジェ(megye)で、20はメジェと同格の市という行政単位(正確には都市郡; megyei város)で、のこりのひとつは首都(főváros)のブダペシュト(ブダペストのハンガリー語による発音)である。

ハンガリーの地図
ハンガリーの地図

旧ハンガリー王国の領土(大ハンガリー)に含まれた地域については、ハンガリー王国の歴史的地域を参照。

地理

ハンガリーの国土はカルパティア山脈の麓に広がるカルパート盆地のうちの平野部をなす。ハンガリー平原と呼ばれる国土の中心部は中央を流れるドナウ川によってほぼ二分され、ティサ川などの大きな支流も流れている。国土の西部にはヨーロッパでも有数の大湖であるバラトン湖がある。トランシルヴァニア地方などのルーマニアとの国境係争地帯を持っている。

大陸性気候に属する気候は比較的穏やかで四季もあるが、緯度は比較的高く冬は冷え込む。地中海からの海洋性気候の影響を受け冬も湿潤で、曇りがちである。年間平均気温は10度前後。

経済

ハンガリーは1989年の体制転換以来、外国資本を受け入れて積極的に経済の開放を進めた。その結果、1997年以降年間4%以上の高成長を続けるとともに、2004年には経済の民間部門が国内総生産(GDP)の80%以上を占め、「旧東欧の優等生」と呼ばれるほどである。2004年のEU加盟は、好調なハンガリー経済にとって追い風である。

しかしその一方でインフレーション失業率が増加して貧富の差が広がり、社会問題となっている。

伝統的な産業ではアルコールが強い。特にワインブルゲンラントショプロンヴィッラーニなど有名な産地を抱えて有名で、中でもトカイトカイワインはワインの王と言われる。農業ではパプリカが名産品で、ハンガリー料理にもふんだんに使われる。ガチョウの飼育も盛んで、ハンガリー産のフォアグラはよく輸出されている。

ハンガリーの歴史的通貨単位;

国民

ハンガリーとその周辺は、独特の豊かな文化をもった様々な民族が居住していることが19世紀以来よく知られている。

ハンガリー共和国の国民の95%以上はハンガリー人である。ハンガリー人はフィン・ウゴル語族ハンガリー語母語とし、ウラル山脈の方面から移ってきた歴史をもつため、日本には「アジア系民族」と紹介されることもある。その文法構造のため、ハンガリー国民の人名は正式に表記した際にが名の前につく、ヨーロッパで唯一の国民である。

ハンガリー人は旧ハンガリー王国領に広まって居住していたため、セルビア・モンテネグロヴォイヴォディナクロアチア北部、スロバキア南部、ルーマニアトランシルヴァニアなどにもかなりのハンガリー人人口が残る。また、ハンガリー人の中にはモルダヴィアチャーンゴー、トランシルヴァニアのセーケイや、ハンガリー共和国領内のヤースマチョークンパローツなどの個性的な文化をもつサブ・グループが知られるが、ヤース人がアラン人の末裔、クン人がクマン人の末裔であることが知られるように、これらは様々な出自をもち、ハンガリー王国に移住してハンガリーに部分的に同化されていった人々である。

その他の民族では、ロマ(ジプシー)とドイツ人がある程度の数が知られる。ハンガリーのロマは個性的な民族文化で知られる。また、ドイツ人は東方植民地運動の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、トランシルヴァニアのサース人(ザクセン人)やスロヴァキアツィプス・ドイツ人のようにハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。

その他の民族では、ルテニア人ウクライナ人)、チェコ人クロアチア人ルーマニア人などもいるが、いずれもごく少数である。第二次世界大戦以前には、ユダヤ人人口もかなりの数にのぼったが、アメリカ合衆国イスラエルに移住していった人が多い。

言語的には、ハンガリー語が優勢で、少数民族のほとんどもハンガリー語を話し、ハンガリー語人口は98%にのぼる。

宗教カトリック(67.5%)が多数を占め、カルヴァン派もかなりの数にのぼる(20%)。その他ルター派(5%)やユダヤ教(0.2%)も少数ながら存在する。

文化

ハンガリーは多様な民族性に支えられた豊かな文化で有名で、特にハンガリー人の地域ごとの各民族集団ジプシーユダヤ人ドイツ人などを担い手とする民族音楽は有名である(詳細はハンガリーの音楽を参照)。

また、リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)、コダーイ・ゾルターンバルトーク・ベーラ(ベラ・バルトーク)など多数の著名なクラシック音楽作曲家も輩出した。彼らの中には多様な民族音楽にインスピレーションを受けて作曲を行った音楽家も多い。

また、ハンガリー国内にはユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が6件ある。さらにオーストリアとにまたがって1件の文化遺産が、スロバキアとにまたがって1件の自然遺産が登録されている。詳細は、ハンガリーの世界遺産を参照。


関連項目

外部リンク

公式

その他


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