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「ウィリアム・ウォレス」の版間の差分

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| 氏名 = ウィリアム・ウォレス
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'''ウィリアム・ウォレス'''({{lang-en|William Wallace}}、 [[1270年]]頃 - [[1305年]][[8月23日]])は、[[スコットランド]]の騎士、軍事指導者。[[グラスゴー]]西部のレンフルー([[w:Renfrew]])の生まれ。前半生は不明な点が多く、出生地、生誕年については諸説ある。平民の出身とも[[ジェントリ]]階級の三男とも言われる。[[イングランド]]王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]](長脛王)によるスコットランド支配に抵抗した
[[サー]]・'''ウィリアム・ウォレス'''({{lang-en|Sir '''William Wallace'''}}、[[1270年]]頃 - [[1305年]][[8月23日]])は、[[スコットランド王国|スコットランド]]の愛国者、騎士、軍事指導者。

[[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]の過酷なスコットランド支配に対して、スコットランド民衆の国民感情を高めて抵抗運動を行い、[[1297年]]の[[スターリング・ブリッジの戦い]]でイングランド軍に勝利をおさめた。この戦功で{{仮リンク|スコットランド守護官|en|Guardian of Scotland}}に任じられるも、[[1298年]]の[[フォルカークの戦い]]でイングランド軍に敗れたため、職を辞した。その後もエドワードの支配への抵抗運動を継続したが、[[1305年]]にイングランド軍に捕らえられ、[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]で有罪となり、残虐刑で処刑された。しかし彼の刑死によりスコットランドの国民感情は鼓舞され、ついにはエドワードのスコットランド支配を崩壊させるに至った<ref>[[#世界(1980,2)|世界伝記大事典 世界編2巻(1980)]] p.212-213</ref>。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 出自・前半生など ===
ウィリアム・ウォレスの出自について明らかでない。ウォレスという姓はWelshman、すなわちウェールズ人という意味である。のちの吟遊詩人ブラインド・ハリーは、ウィリアムの祖先は12世紀半ばの宮宰リチャード・ウォレスで、その曾孫マルコムはペイズリー近郊に領地を持っていたと伝える。ウィリアムはマルコムの子ということになっているが、これは伝承にすぎない。記録に出てくるなかでは、[[1296年]]8月にパースでWilliam le Waleysなる盗賊が現れたとあるが、これがウィリアムかどうかは確認されていない<ref>Andrew Fisher, ''Wallace, Sir William'', Oxford Dictionary of National Biography, vol.56, Oxford University Press, 2004, p947.</ref>。
ウォレスの前半生についてはほぼ不明だが<ref name="世界(1980,2)212">[[#世界(1980,2)|世界伝記大事典 世界編2巻(1980)]] p.212</ref>、[[レンフルーシャー]]の{{仮リンク|エルダズリー|en|Elderslie, Scotland}}の地主マルコム・ウォレスの子との伝承がある<ref name="トラ(1997)98">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.98</ref>。しかし後述する「リューベック文書」の印璽から見られるウォレスの父親の名前は「アラン」である{{sfn|今田洋|2006|p=31}}。


ウィリアム・ウォレスの伝承の多くは、[[15世紀]]後半の[[吟遊詩人]]{{仮リンク|ブラインド・ハリー|en|Blind Harry}}の詩から拾い集められた物であり、その詩はウォレスの死後およそ200年後に書かれた物であるため、確証はできない物が多い{{sfn|今田洋|2006|p=24-25}}。
ウィリアム・ウォレスの名が歴史上に出てくる確かな年代は[[1297年]]で、イングランド人の[[w:en:High Sheriff|州長官]]ヘッセルリグを殺害した事件がそれである。この殺害について、ウォレスの愛人マリオン・ブレイドフュートがヘッセルリグの息子を振って殺され、その復讐と言われてきたが、これも伝承とされる<ref>''Ibid''.</ref>。イングランド式の統治を進めたヘッセルリグのアサイズ(巡回裁判)に反発したスコットランド人の一団が、ヘッセルリグの殺害を計画・実行したのが実際のところで、この一団にウィリアムが関わっていた<ref>''Ibid''.記録はほぼイングランド側のものであり、したがってウィリアムへの記述もThief(盗人)もしくはBrigand(山賊)などと書かれている。</ref>。


「ウォレス」というのは「ウェルシュ」がなまったものだが、スコットランド歴史家{{仮リンク|ナイジェル・トランター|en|Nigel Tranter}}は、これは[[ウェールズ人]]であることを意味せず、北方[[ゲール人|ゲール系]][[ケルト人]]でなく、南部キムルー・ストラスクライド系ケルト人だったことを意味していると主張している<ref name="トラ(1997)98">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.98</ref>。
やがて、彼のもとに集まった民衆を指揮してゲリラ戦を行い、ラウドン・ヒル([[w:Loudoun Hill]])と[[エア (サウス・エアーシャー)|エア]]で勝利を得、同年9月アンドリュー・マリー(Sir [[w:Andrew Moray]])の指揮下[[スターリング・ブリッジの戦い]]でサリー伯の率いるイングランド軍と戦い、これを破った。この戦いの後、ロバート・ブルース(のちのスコットランド王[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]])は彼を[[ナイト]]に叙し、「スコットランド王国の守護者及び王国軍指揮官」の称号を与えた。が、平民出身の彼はスコットランド貴族から最後まで積極的な支持を得られなかった(称号を与えたロバート・ブルースさえもウォレスの旗色が悪くなり出すと、途端に支援を打ち切り距離を置いた)。1298年、[[フォルカークの戦い]]で敗れてからは、スコットランド貴族側で講和の機運が高まり、さらに支持者を失った。その後、一時はフランスに亡命し、帰還後の1303年2月24日の[[ロスリンの戦い]](The Battle of RoslinもしくはRosslyn)でイングランド軍に勝利するなど、7年間に渡ってゲリラ戦を続けてきたが、スコットランド貴族の裏切りにより、1305年、[[グラスゴー]]付近で生け捕りにされた。その後ロンドンに移送され、謀反人として残酷な方法([[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑|四つ裂き]]"hanging, drawing, and quartering")で処刑された。


=== 抵抗運動の始まり ===
== 関連項目 ==
記録に出てくるなかでは、[[1296年]]8月にパースで「William le Waleys」なる盗賊が現れたとあるが、これがウィリアムかどうかは確認されていない<ref name="Fi(2004)947">[[#Fi(2004)|Fisher(2004)]] p.947</ref>。
* [[ナショナル・ウォレス・モニュメント]]
* [[ブレイブハート]]
* [[テンプル騎士団]]


ウィリアム・ウォレスの名が歴史上に出てくる確かな年代は[[1297年]]5月で、[[ラナーク]]の{{仮リンク|ハイ・シェリフ|en|High Sheriff}}を務めるイングランド人ウィリアム・ヘッセルリグ(William Heselrig)を殺害した事件がそれである{{sfn|今田洋|2006|p=24}}。この殺害について、ブラインド・ハリーが伝える伝承ではウォレスの愛人マリオン・ブレイドフュートがヘッセルリグの息子を振って殺され、その復讐とされるが{{sfn|今田洋|2006|p=24}}、実際にはイングランド式の統治を推し進めていたヘッセルリグのアサイズ(巡回裁判)に反発したスコットランド人の一団がヘッセルリグの殺害を計画・実行し、この一団にウィリアムが関わっていたものと見られる<ref name="Fi(2004)947" />。
<!-- 典拠として用いられているとは思えないためいったんコメントアウトします。ノート参照のこと。 S kitahashi
== 典拠 ==


ウォレスは、イングランドの過酷な統治に反発するスコットランド下級貴族・中間層・下層民の間で急速に支持を広げた<ref name="世界(1980,2)212" /><ref name="青山(1991)354">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.354</ref>。分散的だったスコットランド人の抵抗運動はウォレスの指導下にナショナルなゲリラ的抵抗の形をもって統一されていった<ref name="青山(1991)354" />。一方スコットランド大貴族は親イングランド的だったうえ、ウォレスを身分の低い者と軽蔑していたので、積極的な協力はしなかった<ref name="世界(1980,2)212" /><ref name="トラ(1997)100">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.100</ref>。
*Brown, Chris. ''William Wallace. The True Story of Braveheart''. Stroud: Tempus Publishing Ltd, 2005. ISBN 0-7524-3432-2.
{{-}}
*Clater-Roszak, Christine. "Sir William Wallace ignited a flame." ''Military History'' 14 (1997): 12–15. .
=== スターリング・ブリッジの戦い ===
*''Folklore, Myths and Legends of Britain''. London: The Reader’s Digest Association, 1973, 519-20.
[[File:The Battle of Stirling Bridge.jpg|250px|thumb|[[スターリング・ブリッジの戦い]]を描いた絵画]]
*Harris, Nathaniel. ''Heritage of Scotland: A Cultural History of Scotland & Its People''. London: Hamlyn, 2000. ISBN 0-600-59834-9..
スコットランド北部で抵抗運動を行う{{仮リンク|アンドルー・モレー|en|Andrew Moray}}の軍と合流し、[[1297年]][[9月11日]]には[[スターリング (スコットランド)|スターリング・ブリッジ]]において、スコットランド総督で[[イングランド貴族]]の第6代[[サリー伯爵]][[ジョン・ド・ワーレン (第6代サリー伯爵)|ジョン・ド・ワーレン]]率いるイングランド軍と戦った([[スターリング・ブリッジの戦い]])<ref name="青山(1991)354">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.354</ref>。
*MacLean, Fitzroy. ''Scotland: A Concise History''. London: Thames & Hudson, 1997. ISBN 0-500-27706-0.
*Morton, Graeme. ''William Wallace''. London: Sutton, 2004. ISBN 0-7509-3523-5.
*Reese, Peter. ''William Wallace: A Biography''. Edinburgh: Canongate, 1998. ISBN 0-86241-607-8.
*Scott, Sir Walter. "Exploits and death of William Wallace, the 'Hero of Scotland'."
*Stead, Michael J., and Alan Young. ''In the Footsteps of William Wallace''. London: Sutton, 2002.
*Wallace, Margaret. ''William Wallace: Champion of Scotland''. Musselborough: Goblinshead, 1999. ISBN 1-899874-19-4.
-->


兵力はイングランド軍の方が優勢であり<ref name="世界(1980,2)212" />、またイングランド軍は騎兵隊やウェールズ弓隊を擁していた<ref name="青山(1991)354">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.354</ref>。しかしウォレスは[[フォース川]]の架橋地点とその先の湿地帯が一本道になっているという地の利を生かしてイングランド軍の騎兵隊の機動力を奪い、勝利を収めることに成功した<ref name="トラ(1997)100">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.100</ref>。
== 脚註 ==

<references/>
イングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]が前月8月からフランス出兵でイングランドを不在にしており、直接指揮をとっていなかったとはいえ、この勝利はスコットランド人の自信を大いに高めた<ref name="トラ(1997)100">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.100</ref>。

=== スコットランド守護官 ===
スターリング・ブリッジの戦い後、{{仮リンク|セルカーク (スコットランド)|en|Selkirk, Scottish Borders|label=セルカーク}}における会議で<ref name="トラ(1997)102" />、モレーとともに{{仮リンク|スコットランド守護官|en|Guardian of Scotland}}に任じられた{{sfn|今田洋|2006|p=29}}。1296年にスコットランド王[[ジョン・ベイリャル (スコットランド王)|ジョン・ベイリャル]]がイングランド王エドワード1世に敗れて退位のうえイングランドに連行されて以来、スコットランドは王位が不在となっており、スコットランド王権はエドワード1世が接収していた<ref name="青山(1991)353">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.353</ref>。ウォレスのスコットランド守護官への就任はそれを認めず、ロンドン塔で幽閉されているジョン・ベイリャルを真のスコットランド王に見立てて、ジョン王のスコットランド王国を守護するという立場を示すものだった<ref name="世界(1980,2)212" />

またこれ以降ウォレスは「[[サー]]・ウィリアム・ウォレス」と呼ばれるようになっており、守護官に任じられると同時に勲爵位が与えられたと見られる{{sfn|今田洋|2006|p=32}}。誰がウォレスに勲爵位を与えたかは判然としない。理論上では[[騎士]]であればだれでも別の騎士を任命することは可能だったが{{sfn|今田洋|2006|p=34}}、イングランドの年代記には「逆賊がスコットランドの大伯爵の手で騎士に叙された」と記されている<ref name="トラ(1997)102">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.102</ref>。この記述からナイジェル・トランターは[[キャリック伯爵 (スコットランド貴族)|キャリック伯爵]][[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ブルース]](後のスコットランド王ロバート1世)がウォレスに勲爵位を与えたと主張している。当時の12人のスコットランド伯爵の中で、ある者は未成年、ある者はイングランド側、ある者は闘争から遠く離れて生きていたなどの消去法によって出された結論である。ただ新たなる文書による裏付けができない限り、これも確定することはできない{{sfn|今田洋|2006|p=34-35}}{{#tag:ref|ナイジェル・トランターは、当時イングランドに対して蜂起していたスコットランド伯爵は{{仮リンク|レノックス伯爵|en|Earl of Lennox}}{{仮リンク|メオル1世 (レノックス伯爵)|label=メオル1世|en|Maol Choluim I, Earl of Lennox}}と[[キャリック伯爵 (スコットランド貴族)|キャリック伯爵]][[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ブルース]]の2人だけであり、この2人のどちらかのはずだが、レノックス伯はスターリングブリッジの戦い以前はイングランド派だった人物で、戦いの後にスコットランド派に寝返った日和見的な貴族なので、ウォレスが彼に好感を持っていたとは思えないとして、ブルースがウォレスを騎士に叙したのであろうと推測している<ref name="トラ(1997)102" />。|group=注釈}}。

守護官となって実質的にスコットランドの国政を任されたウォレスはスコットランドのかつての交易・外交関係を取り戻すべく、ヨーロッパと接触を図ったと見られ、1297年10月には[[神聖ローマ帝国|ドイツ]]の[[リューベック]]と[[ハンブルク]]に宛てて「リューベックとハンブルク、2つの町の商人は今やスコットランド王国の全ての地域に自由に出入りできる。その自由は、神の恩顧によって、戦争によって、イングランド人の権限から取り戻されたものである」という内容の[[ラテン語]]の手紙をモレーとの共同署名で送っている{{sfn|今田洋|2006|p=30/31-32}}。この文書は「リューベック文書(The Lübeck letter)」と呼ばれるが、[[第二次世界大戦]]末に[[ソ連軍]]が東側へ持っていたために行方不明となり、大戦中の{{仮リンク|リューベック空襲|de|Luftangriff auf Lübeck am 29. März 1942}}で焼失したと考えられていたが、1970年代にソ連の文書館で発見され、1990年に交渉の結果リューベック市に返還された<ref>{{cite web|url=https://www.scottisharchivesforschools.org/WarsOfIndependence/LubeckLetter.asp|title= The Lübeck letter, 1297|date=2012年6月|work=[https://www.scottisharchivesforschools.org/default.asp Scottish Archives for Schools (SAfS)]|publisher={{仮リンク|スコットランド国立公文書館|en|National Records of Scotland}} |accessdate=2019年6月30日}}</ref>。この文書は印璽からウォレスの父親の名前は「アラン」だったと伝えている{{sfn|今田洋|2006|p=31}}。

ウォレス軍は勢いに乗ってイングランド北部[[ノーサンバーランド]]や[[カンバーランド]]に進攻した<ref name="青山(1991)354">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.354</ref>。しかしモレーはスターリング・ブリッジの戦いで負傷していたため同道しなかった(彼は負傷が原因で1297年終わりごろに死去している){{sfn|今田洋|2006|p=29}}。

1298年3月29日付けでウォレスと[[スコットランド議会 (スコットランド王国)|スコットランド議会]]の名義でスコットランド軍世襲の旗手{{仮リンク|アレクサンダー・ル・スクリムジャー|en|Alexander le Scrimgeour}}に書簡が送られているのが確認できる{{sfn|今田洋|2006|p=38}}<ref name="Clan.Encyclopedia.Scrymgeour">Way, George and Squire, Romily. ''Collins Scottish Clan & Family Encyclopedia''. (Foreword by The Rt Hon. The Earl of Elgin KT, Convenor, The Standing Council of Scottish Chiefs). Published in 1994. Pages 182 - 183.</ref>。
{{-}}

=== フォルカークの戦い ===
ウォレスの破竹の勢いも長くは続かなかった。彼は貴族階級から軽蔑され続け、またベイリオル家の名のもとで戦ったため、ブルース家から支持を得られなかった<ref name="青山(1991)355">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.355</ref>。またフランスにいたエドワード1世は、ウォレス軍の勝利の報告を受けて、[[1298年]]1月に急遽フランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]と講和し、イングランドに舞い戻ってきた<ref name="青山(1991)355">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.355</ref>。

エドワード1世は破壊的な報復を開始し、ウォレスはゲリラ戦でこれに抵抗したが、徐々に追い詰められていき、[[1298年]][[7月22日]]にウォレス軍はエドワード1世率いるイングランド軍と[[フォルカーク]]での野戦を余儀なくされた([[フォルカークの戦い]])<ref>[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.102-103</ref>。ウォレス軍は数に勝るイングランド軍を相手によく奮戦したが、戦闘中、{{仮リンク|バデノッホ卿|en|Lord of Badenoch}}[[ジョン・カミン3世 (バデノッホ卿)|ジョン・カミン]]率いる主として貴族から成る騎兵隊が一戦も交えずにウォレスを見捨てて撤退したため、ウォレスは騎兵無しで戦うことになり、決戦に持ち込めないまま、撤退を余儀なくされた<ref name="世界(1980,2)212" /><ref name="トラ(1997)103">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.103</ref>{{sfn|今田洋|2006|p=36}}。

=== フランスやローマで交渉 ===
この戦いで多くの兵を失ったため、ウォレスは1298年7月にトーフィカンにおいて開いた[[スコットランド議会 (スコットランド王国)|スコットランド議会]]で、責任を取る形で「スコットランドの守護官」の職を辞した<ref name="世界(1980,2)212" />{{sfn|今田洋|2006|p=37}}。完全にはウォレスを支持していなかった貴族たちに引きずり降ろされたのか、嫌気がさして辞めたのは不明である{{sfn|今田洋|2006|p=37}}。ウォレスの退任後はブルースとジョン・コミンが同職に就任した<ref name="トラ(1997)104">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.104</ref>。

この後の[[1298年]]から[[1303年]]にかけてのウォレスの動向はよく分かっていないが、[[フランス王国|フランス]]や[[ローマ]]を訪問してエドワード1世への抵抗運動の援助を求める交渉にあたったことはいくつかの資料から判明している{{sfn|今田洋|2006|p=37-38}}。ローマへは{{仮リンク|セント・アンドリューズ司教|en|Bishop of St Andrews}}{{仮リンク|ウィリアム・ド・ランバートン|en|William de Lamberton}}と共に行き、ローマ教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]はランバートンの訴えを聞いて、[[1299年]]にイングランド軍のスコットランド侵攻を批判し「スコットランドはローマ教皇の権威の支配下にある」「スコットランドとイングランド間のいかなる論争も、ローマ教皇自身によってしか修正されることはない」とする宣言を出すとともに、エドワード1世にジョン・ベイリャルの釈放とその身柄をローマ教皇の権威に引き渡すことを命じた{{sfn|今田洋|2006|p=39}}。フランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]からは金銭的な手当てといくつかの称号と地所を与えられたというが、ウォレスの愛国心は強く、1303年にはスコットランドへ帰国した<ref name="世界(1980,2)213">[[#世界(1980,2)|世界伝記大事典 世界編2巻(1980)]] p.213</ref>。

一方フォルカークの戦いに勝利したエドワード1世は、[[1300年]]からスコットランド侵攻を繰り返し、とうとう[[1303年]]5月に制圧に成功した<ref name="青山(1991)355">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.355</ref>。

=== 捕縛・処刑 ===
[[File:The Trial of William Wallace at Westminster.jpg|250px|thumb|大逆罪により[[ウェストミンスター宮殿|ウェストミンスター・ホール]]の法廷で裁判にかけられるウォレスを描いた絵画([[ダニエル・マクリース]]画)]]
ウォレスはスコットランドに帰国したが、エドワード1世から執拗な追撃を受けた<ref name="世界(1980,2)213" />。エドワード1世は「大逆者」ウォレスを捕らえようと血眼になり、賄賂と脅迫によってウォレスの部下たちにウォレスに対する裏切りを仕向けた<ref name="トラ(1997)103" />。

[[1305年]][[8月5日]]、ウォレスはかつての部下だった[[ダンバートン]]総督{{仮リンク|ジョン・ド・メンティス|en|John de Menteith}}の裏切りにあってイングランドに引き渡された<ref name="世界(1980,2)213" /><ref name="トラ(1997)103" />{{#tag:ref|このためジョン・ド・メンティスは「不実なるメンティス」と呼ばれ、今日に至るまでスコットランド人から忌み嫌われている<ref name="トラ(1997)103" />。しかしナイジェル・トランターは直接ウォレスを裏切って捕らえたラルフ・ド・ハリバートンが最も罪が重く、メンティスの罪は副次的であるとしている<ref name="トラ(1997)103" />。|group=注釈}}。

その後17日間かけて[[カーライル城]]を経てロンドンへ移送された。その道中の様々な町や村で市中引き回しにされた。エドワード1世の勝利を印象付けようという狙いだった{{sfn|今田洋|2006|p=39}}。

[[8月22日]]にロンドンへ到着したウォレスは、ロンドン塔へ送られる予定だったが、ウォレス捕縛を一目見ようと雑多な群衆が集まってきてロンドン塔までの道が塞がれたため、フェンチャーチ通りにある市参事会員の館に預けられ、そこで一晩監禁された{{sfn|今田洋|2006|p=39}}。

翌日、[[ウェストミンスター宮殿]]の[[ウェストミンスター宮殿|ウェストミンスター・ホール]]へ連行され、そこに召集された法廷の裁判にかけられた{{sfn|今田洋|2006|p=39}}。審理中、月桂樹の王冠を被らされて嬲り者にされた{{sfn|今田洋|2006|p=40}}。裁判官のサー・ピーター・マロリー(Sir Peter Mallorie)によりエドワード1世への[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]を問われたが、裁判でウォレスは「自分はイングランド王に忠誠を誓ったことはなく、彼の臣民ではないので大逆罪など犯していない」と主張した<ref name="enc">[[#enc|1911 Encyclopædia Britannica(1911)]]</ref>。

しかし有罪判決が下り、判決後には2頭の馬の尻尾に結わえられ、平民用処刑地のある[[スミスフィールド]]までの8キロメートルの道を引きずられた。引きずられながら石やゴミを投げつけられた{{sfn|今田洋|2006|p=40}}。処刑場到着後、[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]]という残虐刑で処刑された<ref name="世界(1980,2)213" /><ref name="トラ(1997)104">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.104</ref>。遺体の首は[[ロンドン橋]]に串刺しとなり、4つに引き裂かれた胴体はイングランドとスコットランドの4箇所([[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]]、[[ベリック・アポン・ツイード|ベリック]]、[[パース (スコットランド)|パース]]、[[アバディーン]])で晒し物とされた<ref name="世界(1980,2)213" />{{sfn|今田洋|2006|p=40}}。

エドワード1世としてはウォレスに残虐刑を課すことでスコットランドの抵抗運動を恐怖で抑えつけようという意図であったが、それは成功しなかった<ref name="トラ(1997)103" /><ref name="世界(1980,2)213" />。逆にスコットランド国民感情を鼓舞する結果となり、幾月もたたぬうちにエドワード1世のスコットランド支配は崩れ去ることになる<ref name="世界(1980,2)213" />。
{{-}}

== 人物・評価 ==
当時スコットランドに国民や国家のような概念がほとんどない中で、スコットランド人を愛国精神で立ち上がらせることに成功した人物である点が特筆される<ref name="トレ(1973)210-211">[[#トレ(1973)|トレヴェリアン(1973)]] p.210-211</ref><ref name="トラ(1997)99">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.99</ref>。

これについて{{仮リンク|ナイジェル・トランター|en|Nigel Tranter}}はウォレスを「スコットランド愛国精神の発明者」と評価している<ref name="トラ(1997)99" />。一方[[ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|ジョージ・トレヴェリアン]]は、明確に発露したり自覚したりすることこそなかったものの、当時スコットランド国民にはすでに国民的感情や民主的感情があり、ウォレスは行動に移すことを呼びかけた人物であると評価している<ref name="トレ(1973)211">[[#トレ(1973)|トレヴェリアン(1973)]] p.211</ref>。

[[ビュート侯爵]]は「サー・ウィリアム・ウォレスは少なくとも3か国語を読み書きできた。自国語、[[ラテン語]]、[[フランス語]]である。さらに[[ゲール語]]も少し知っていたように窺える。古代の歴史、同時代の歴史、同時代の共通の単純な数学や科学にも造詣があった。『教会』に対して不朽の崇拝の念を綿々と抱き、生涯にわたって『[[詩篇]]』を手沢本として愛した。サー・ウィリアム・ウォレスの願いに応じて、暗くなってゆく目の前で、司祭が『詩篇』の頁を開けたまま持ち、それは死を迎えるまで続いた」と記している{{sfn|今田洋|2006|p=17}}。

15世紀の吟遊詩人ブラインド・ハリーは「平和の時には、サー・ウィリアム・ウォレスは乙女のごとく柔和であった。戦争が近づくと正しい暴慢漢だった。スコットランド人に大きな信用を与えてくれた。名高い敵は、サー・ウィリアム・ウォレスを瞞着することはできなかった」と記している{{sfn|今田洋|2006|p=18}}。

スコットランドでは現在に至るまで英雄として崇拝されている<ref name="トラ(1997)99">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.99</ref>。「スコットランドの[[オリヴァー・クロムウェル]]」とも渾名されている<ref name="青山(1991)355">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.355</ref>。

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== その他 ==
[[1995年]]公開のアメリカ映画『[[ブレイブハート]]』で主人公として描かれた。映画では[[メル・ギブソン]]が演じている<ref>{{Cite web |url=https://www.imdb.com/title/tt0112573/fullcredits?ref_=tt_cl_sm#cast |title=Braveheart (1995) Full Cast & Crew|accessdate= 2014-04-26|author= [[インターネット・ムービー・データベース|IMDb]] |work= [https://www.imdb.com/?ref_=nv_home IMDb] |language= 英語 }}</ref>。

ウォレスが捕らえられた際に[[ダンバートン城]]に残されたとされる[[ウォレスの剣]]が、[[スターリング (スコットランド)|スターリング]]に近い[[ナショナル・ウォレス・モニュメント]]で展示されている。刀身1.7メートルにも及ぶ巨大な剣である{{sfn|今田洋|2006|p=39}}。

== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|editor=青山吉信|editor-link=青山吉信|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈1〉先史~中世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460102|ref=青山(1991)}}
*{{Cite journal|author=[[今田洋]]|year=2006|title=ウィリアム・ウォレス--スコットランドの独立に烽火を上げた闘士|journal=鈴峯女子短期大学人文社会科学研究集報53|publisher=[[鈴峯女子短期大学]]|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ナイジェル・トランター|en|Nigel Tranter}}|translator=[[杉本優]]|date=1997年(平成9年)|title=スコットランド物語|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469244014|ref=トラ(1997)}}
*{{Cite book|和書|author=G.M.トレヴェリアン|authorlink=ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|translator=[[大野真弓]]|date=1973年(昭和48年)|title=イギリス史 1|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622020356|ref=トレ(1973)}}
*{{Cite book|和書|date=1980年(昭和55年)|title=世界伝記大事典〈世界編 2〉ウイーオ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7XCOU|ref=世界(1980,2)}}
*{{Cite book|author=Andrew Fisher|date=2004|title=Wallace, Sir William|series = Oxford Dictionary of National Biography, vol.56|publisher=Oxford University Press|ref=Fi(2004)}}
*{{Cite web |date= 1911|url=https://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Wallace,_Sir_William|title=WALLACE, SIR WILLIAM|work=[[ブリタニカ百科事典第11版|1911 Encyclopædia Britannica]]|accessdate=2014-09-17|ref=enc}}
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.braveheart.co.uk/macbrave/history/wallace/elder01.htm Location of William Wallace's home]
* [http://www.braveheart.co.uk/macbrave/history/wallace/elder01.htm Location of William Wallace's home]
*[http://skyelander.orgfree.com/menu3.html William Wallace and Battles of Stirling and Falkirk]
*[http://www.stirling.gov.uk/services/education-and-learning/local-history-and-heritage/local-history/wallace-and-bruce Wallace and Bruce]
*[http://www.scottisharchivesforschools.org/ffa/lubeck.asp The Lübeck letter]
*[https://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-14959390?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter Wallace letters to go on show]
* {{npg name|id=67461|name=Sir William Wallace}}

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ウィリアム・ウォレス
William Wallace
アバディーンにあるウォレスの像
生誕 1270年
スコットランド王国の旗 スコットランド王国レンフルーシャーエルダズリー英語版
死没 1305年8月23日
イングランド王国の旗 イングランド王国ロンドンスミスフィールド
軍歴 1297年 - 1305年
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サーウィリアム・ウォレス英語: Sir William Wallace1270年頃 - 1305年8月23日)は、スコットランドの愛国者、騎士、軍事指導者。

イングランドエドワード1世の過酷なスコットランド支配に対して、スコットランド民衆の国民感情を高めて抵抗運動を行い、1297年スターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍に勝利をおさめた。この戦功でスコットランド守護官英語版に任じられるも、1298年フォルカークの戦いでイングランド軍に敗れたため、職を辞した。その後もエドワードの支配への抵抗運動を継続したが、1305年にイングランド軍に捕らえられ、大逆罪で有罪となり、残虐刑で処刑された。しかし彼の刑死によりスコットランドの国民感情は鼓舞され、ついにはエドワードのスコットランド支配を崩壊させるに至った[1]

生涯

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出自・前半生など

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ウォレスの前半生についてはほぼ不明だが[2]レンフルーシャーエルダズリー英語版の地主マルコム・ウォレスの子との伝承がある[3]。しかし後述する「リューベック文書」の印璽から見られるウォレスの父親の名前は「アラン」である[4]

ウィリアム・ウォレスの伝承の多くは、15世紀後半の吟遊詩人ブラインド・ハリー英語版の詩から拾い集められた物であり、その詩はウォレスの死後およそ200年後に書かれた物であるため、確証はできない物が多い[5]

「ウォレス」というのは「ウェルシュ」がなまったものだが、スコットランド歴史家ナイジェル・トランター英語版は、これはウェールズ人であることを意味せず、北方ゲール系ケルト人でなく、南部キムルー・ストラスクライド系ケルト人だったことを意味していると主張している[3]

抵抗運動の始まり

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記録に出てくるなかでは、1296年8月にパースで「William le Waleys」なる盗賊が現れたとあるが、これがウィリアムかどうかは確認されていない[6]

ウィリアム・ウォレスの名が歴史上に出てくる確かな年代は1297年5月で、ラナークハイ・シェリフ英語版を務めるイングランド人ウィリアム・ヘッセルリグ(William Heselrig)を殺害した事件がそれである[7]。この殺害について、ブラインド・ハリーが伝える伝承ではウォレスの愛人マリオン・ブレイドフュートがヘッセルリグの息子を振って殺され、その復讐とされるが[7]、実際にはイングランド式の統治を推し進めていたヘッセルリグのアサイズ(巡回裁判)に反発したスコットランド人の一団がヘッセルリグの殺害を計画・実行し、この一団にウィリアムが関わっていたものと見られる[6]

ウォレスは、イングランドの過酷な統治に反発するスコットランド下級貴族・中間層・下層民の間で急速に支持を広げた[2][8]。分散的だったスコットランド人の抵抗運動はウォレスの指導下にナショナルなゲリラ的抵抗の形をもって統一されていった[8]。一方スコットランド大貴族は親イングランド的だったうえ、ウォレスを身分の低い者と軽蔑していたので、積極的な協力はしなかった[2][9]

スターリング・ブリッジの戦い

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スターリング・ブリッジの戦いを描いた絵画

スコットランド北部で抵抗運動を行うアンドルー・モレー英語版の軍と合流し、1297年9月11日にはスターリング・ブリッジにおいて、スコットランド総督でイングランド貴族の第6代サリー伯爵ジョン・ド・ワーレン率いるイングランド軍と戦った(スターリング・ブリッジの戦い[8]

兵力はイングランド軍の方が優勢であり[2]、またイングランド軍は騎兵隊やウェールズ弓隊を擁していた[8]。しかしウォレスはフォース川の架橋地点とその先の湿地帯が一本道になっているという地の利を生かしてイングランド軍の騎兵隊の機動力を奪い、勝利を収めることに成功した[9]

イングランド王エドワード1世が前月8月からフランス出兵でイングランドを不在にしており、直接指揮をとっていなかったとはいえ、この勝利はスコットランド人の自信を大いに高めた[9]

スコットランド守護官

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スターリング・ブリッジの戦い後、セルカーク英語版における会議で[10]、モレーとともにスコットランド守護官英語版に任じられた[11]。1296年にスコットランド王ジョン・ベイリャルがイングランド王エドワード1世に敗れて退位のうえイングランドに連行されて以来、スコットランドは王位が不在となっており、スコットランド王権はエドワード1世が接収していた[12]。ウォレスのスコットランド守護官への就任はそれを認めず、ロンドン塔で幽閉されているジョン・ベイリャルを真のスコットランド王に見立てて、ジョン王のスコットランド王国を守護するという立場を示すものだった[2]

またこれ以降ウォレスは「サー・ウィリアム・ウォレス」と呼ばれるようになっており、守護官に任じられると同時に勲爵位が与えられたと見られる[13]。誰がウォレスに勲爵位を与えたかは判然としない。理論上では騎士であればだれでも別の騎士を任命することは可能だったが[14]、イングランドの年代記には「逆賊がスコットランドの大伯爵の手で騎士に叙された」と記されている[10]。この記述からナイジェル・トランターはキャリック伯爵ロバート・ブルース(後のスコットランド王ロバート1世)がウォレスに勲爵位を与えたと主張している。当時の12人のスコットランド伯爵の中で、ある者は未成年、ある者はイングランド側、ある者は闘争から遠く離れて生きていたなどの消去法によって出された結論である。ただ新たなる文書による裏付けができない限り、これも確定することはできない[15][注釈 1]

守護官となって実質的にスコットランドの国政を任されたウォレスはスコットランドのかつての交易・外交関係を取り戻すべく、ヨーロッパと接触を図ったと見られ、1297年10月にはドイツリューベックハンブルクに宛てて「リューベックとハンブルク、2つの町の商人は今やスコットランド王国の全ての地域に自由に出入りできる。その自由は、神の恩顧によって、戦争によって、イングランド人の権限から取り戻されたものである」という内容のラテン語の手紙をモレーとの共同署名で送っている[16]。この文書は「リューベック文書(The Lübeck letter)」と呼ばれるが、第二次世界大戦末にソ連軍が東側へ持っていたために行方不明となり、大戦中のリューベック空襲ドイツ語版で焼失したと考えられていたが、1970年代にソ連の文書館で発見され、1990年に交渉の結果リューベック市に返還された[17]。この文書は印璽からウォレスの父親の名前は「アラン」だったと伝えている[4]

ウォレス軍は勢いに乗ってイングランド北部ノーサンバーランドカンバーランドに進攻した[8]。しかしモレーはスターリング・ブリッジの戦いで負傷していたため同道しなかった(彼は負傷が原因で1297年終わりごろに死去している)[11]

1298年3月29日付けでウォレスとスコットランド議会の名義でスコットランド軍世襲の旗手アレクサンダー・ル・スクリムジャー英語版に書簡が送られているのが確認できる[18][19]

フォルカークの戦い

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ウォレスの破竹の勢いも長くは続かなかった。彼は貴族階級から軽蔑され続け、またベイリオル家の名のもとで戦ったため、ブルース家から支持を得られなかった[20]。またフランスにいたエドワード1世は、ウォレス軍の勝利の報告を受けて、1298年1月に急遽フランス王フィリップ4世と講和し、イングランドに舞い戻ってきた[20]

エドワード1世は破壊的な報復を開始し、ウォレスはゲリラ戦でこれに抵抗したが、徐々に追い詰められていき、1298年7月22日にウォレス軍はエドワード1世率いるイングランド軍とフォルカークでの野戦を余儀なくされた(フォルカークの戦い[21]。ウォレス軍は数に勝るイングランド軍を相手によく奮戦したが、戦闘中、バデノッホ卿英語版ジョン・カミン率いる主として貴族から成る騎兵隊が一戦も交えずにウォレスを見捨てて撤退したため、ウォレスは騎兵無しで戦うことになり、決戦に持ち込めないまま、撤退を余儀なくされた[2][22][23]

フランスやローマで交渉

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この戦いで多くの兵を失ったため、ウォレスは1298年7月にトーフィカンにおいて開いたスコットランド議会で、責任を取る形で「スコットランドの守護官」の職を辞した[2][24]。完全にはウォレスを支持していなかった貴族たちに引きずり降ろされたのか、嫌気がさして辞めたのは不明である[24]。ウォレスの退任後はブルースとジョン・コミンが同職に就任した[25]

この後の1298年から1303年にかけてのウォレスの動向はよく分かっていないが、フランスローマを訪問してエドワード1世への抵抗運動の援助を求める交渉にあたったことはいくつかの資料から判明している[26]。ローマへはセント・アンドリューズ司教英語版ウィリアム・ド・ランバートン英語版と共に行き、ローマ教皇ボニファティウス8世はランバートンの訴えを聞いて、1299年にイングランド軍のスコットランド侵攻を批判し「スコットランドはローマ教皇の権威の支配下にある」「スコットランドとイングランド間のいかなる論争も、ローマ教皇自身によってしか修正されることはない」とする宣言を出すとともに、エドワード1世にジョン・ベイリャルの釈放とその身柄をローマ教皇の権威に引き渡すことを命じた[27]。フランス王フィリップ4世からは金銭的な手当てといくつかの称号と地所を与えられたというが、ウォレスの愛国心は強く、1303年にはスコットランドへ帰国した[28]

一方フォルカークの戦いに勝利したエドワード1世は、1300年からスコットランド侵攻を繰り返し、とうとう1303年5月に制圧に成功した[20]

捕縛・処刑

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大逆罪によりウェストミンスター・ホールの法廷で裁判にかけられるウォレスを描いた絵画(ダニエル・マクリース画)

ウォレスはスコットランドに帰国したが、エドワード1世から執拗な追撃を受けた[28]。エドワード1世は「大逆者」ウォレスを捕らえようと血眼になり、賄賂と脅迫によってウォレスの部下たちにウォレスに対する裏切りを仕向けた[22]

1305年8月5日、ウォレスはかつての部下だったダンバートン総督ジョン・ド・メンティス英語版の裏切りにあってイングランドに引き渡された[28][22][注釈 2]

その後17日間かけてカーライル城を経てロンドンへ移送された。その道中の様々な町や村で市中引き回しにされた。エドワード1世の勝利を印象付けようという狙いだった[27]

8月22日にロンドンへ到着したウォレスは、ロンドン塔へ送られる予定だったが、ウォレス捕縛を一目見ようと雑多な群衆が集まってきてロンドン塔までの道が塞がれたため、フェンチャーチ通りにある市参事会員の館に預けられ、そこで一晩監禁された[27]

翌日、ウェストミンスター宮殿ウェストミンスター・ホールへ連行され、そこに召集された法廷の裁判にかけられた[27]。審理中、月桂樹の王冠を被らされて嬲り者にされた[29]。裁判官のサー・ピーター・マロリー(Sir Peter Mallorie)によりエドワード1世への大逆罪を問われたが、裁判でウォレスは「自分はイングランド王に忠誠を誓ったことはなく、彼の臣民ではないので大逆罪など犯していない」と主張した[30]

しかし有罪判決が下り、判決後には2頭の馬の尻尾に結わえられ、平民用処刑地のあるスミスフィールドまでの8キロメートルの道を引きずられた。引きずられながら石やゴミを投げつけられた[29]。処刑場到着後、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑という残虐刑で処刑された[28][25]。遺体の首はロンドン橋に串刺しとなり、4つに引き裂かれた胴体はイングランドとスコットランドの4箇所(ニューカッスルベリックパースアバディーン)で晒し物とされた[28][29]

エドワード1世としてはウォレスに残虐刑を課すことでスコットランドの抵抗運動を恐怖で抑えつけようという意図であったが、それは成功しなかった[22][28]。逆にスコットランド国民感情を鼓舞する結果となり、幾月もたたぬうちにエドワード1世のスコットランド支配は崩れ去ることになる[28]

人物・評価

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当時スコットランドに国民や国家のような概念がほとんどない中で、スコットランド人を愛国精神で立ち上がらせることに成功した人物である点が特筆される[31][32]

これについてナイジェル・トランター英語版はウォレスを「スコットランド愛国精神の発明者」と評価している[32]。一方ジョージ・トレヴェリアンは、明確に発露したり自覚したりすることこそなかったものの、当時スコットランド国民にはすでに国民的感情や民主的感情があり、ウォレスは行動に移すことを呼びかけた人物であると評価している[33]

ビュート侯爵は「サー・ウィリアム・ウォレスは少なくとも3か国語を読み書きできた。自国語、ラテン語フランス語である。さらにゲール語も少し知っていたように窺える。古代の歴史、同時代の歴史、同時代の共通の単純な数学や科学にも造詣があった。『教会』に対して不朽の崇拝の念を綿々と抱き、生涯にわたって『詩篇』を手沢本として愛した。サー・ウィリアム・ウォレスの願いに応じて、暗くなってゆく目の前で、司祭が『詩篇』の頁を開けたまま持ち、それは死を迎えるまで続いた」と記している[34]

15世紀の吟遊詩人ブラインド・ハリーは「平和の時には、サー・ウィリアム・ウォレスは乙女のごとく柔和であった。戦争が近づくと正しい暴慢漢だった。スコットランド人に大きな信用を与えてくれた。名高い敵は、サー・ウィリアム・ウォレスを瞞着することはできなかった」と記している[35]

スコットランドでは現在に至るまで英雄として崇拝されている[32]。「スコットランドのオリヴァー・クロムウェル」とも渾名されている[20]

その他

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1995年公開のアメリカ映画『ブレイブハート』で主人公として描かれた。映画ではメル・ギブソンが演じている[36]

ウォレスが捕らえられた際にダンバートン城に残されたとされるウォレスの剣が、スターリングに近いナショナル・ウォレス・モニュメントで展示されている。刀身1.7メートルにも及ぶ巨大な剣である[27]

脚注

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注釈

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  1. ^ ナイジェル・トランターは、当時イングランドに対して蜂起していたスコットランド伯爵はレノックス伯爵英語版メオル1世英語版キャリック伯爵ロバート・ブルースの2人だけであり、この2人のどちらかのはずだが、レノックス伯はスターリングブリッジの戦い以前はイングランド派だった人物で、戦いの後にスコットランド派に寝返った日和見的な貴族なので、ウォレスが彼に好感を持っていたとは思えないとして、ブルースがウォレスを騎士に叙したのであろうと推測している[10]
  2. ^ このためジョン・ド・メンティスは「不実なるメンティス」と呼ばれ、今日に至るまでスコットランド人から忌み嫌われている[22]。しかしナイジェル・トランターは直接ウォレスを裏切って捕らえたラルフ・ド・ハリバートンが最も罪が重く、メンティスの罪は副次的であるとしている[22]

出典

[編集]
  1. ^ 世界伝記大事典 世界編2巻(1980) p.212-213
  2. ^ a b c d e f g 世界伝記大事典 世界編2巻(1980) p.212
  3. ^ a b トランター(1997) p.98
  4. ^ a b 今田洋 2006, p. 31.
  5. ^ 今田洋 2006, p. 24-25.
  6. ^ a b Fisher(2004) p.947
  7. ^ a b 今田洋 2006, p. 24.
  8. ^ a b c d e 青山(1991) p.354
  9. ^ a b c トランター(1997) p.100
  10. ^ a b c トランター(1997) p.102
  11. ^ a b 今田洋 2006, p. 29.
  12. ^ 青山(1991) p.353
  13. ^ 今田洋 2006, p. 32.
  14. ^ 今田洋 2006, p. 34.
  15. ^ 今田洋 2006, p. 34-35.
  16. ^ 今田洋 2006, p. 30/31-32.
  17. ^ The Lübeck letter, 1297”. Scottish Archives for Schools (SAfS). スコットランド国立公文書館英語版 (2012年6月). 2019年6月30日閲覧。
  18. ^ 今田洋 2006, p. 38.
  19. ^ Way, George and Squire, Romily. Collins Scottish Clan & Family Encyclopedia. (Foreword by The Rt Hon. The Earl of Elgin KT, Convenor, The Standing Council of Scottish Chiefs). Published in 1994. Pages 182 - 183.
  20. ^ a b c d 青山(1991) p.355
  21. ^ トランター(1997) p.102-103
  22. ^ a b c d e f トランター(1997) p.103
  23. ^ 今田洋 2006, p. 36.
  24. ^ a b 今田洋 2006, p. 37.
  25. ^ a b トランター(1997) p.104
  26. ^ 今田洋 2006, p. 37-38.
  27. ^ a b c d e 今田洋 2006, p. 39.
  28. ^ a b c d e f g 世界伝記大事典 世界編2巻(1980) p.213
  29. ^ a b c 今田洋 2006, p. 40.
  30. ^ 1911 Encyclopædia Britannica(1911)
  31. ^ トレヴェリアン(1973) p.210-211
  32. ^ a b c トランター(1997) p.99
  33. ^ トレヴェリアン(1973) p.211
  34. ^ 今田洋 2006, p. 17.
  35. ^ 今田洋 2006, p. 18.
  36. ^ IMDb. “Braveheart (1995) Full Cast & Crew” (英語). IMDb. 2014年4月26日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 青山吉信 編『イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460102 
  • 今田洋 (2006). “ウィリアム・ウォレス--スコットランドの独立に烽火を上げた闘士”. 鈴峯女子短期大学人文社会科学研究集報53 (鈴峯女子短期大学). 
  • ナイジェル・トランター英語版 著、杉本優 訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年(平成9年)。ISBN 978-4469244014 
  • G.M.トレヴェリアン 著、大野真弓 訳『イギリス史 1』みすず書房、1973年(昭和48年)。ISBN 978-4622020356 
  • 『世界伝記大事典〈世界編 2〉ウイーオ』ほるぷ出版、1980年(昭和55年)。ASIN B000J7XCOU 
  • Andrew Fisher (2004). Wallace, Sir William. Oxford Dictionary of National Biography, vol.56. Oxford University Press 
  • WALLACE, SIR WILLIAM”. 1911 Encyclopædia Britannica (1911年). 2014年9月17日閲覧。

外部リンク

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