「ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)」の版間の差分
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{{基礎情報 君主 |
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| 人名 |
| 人名 = ムハンマド・シャー・ランギーラー |
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| 各国語表記 = |
| 各国語表記 = {{lang|ur|محمد شاہ رنگیلا}} |
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| 君主号 |
| 君主号 = [[ムガル帝国の君主|ムガル皇帝]] |
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| 画像 |
| 画像 = File:Muhammad Shah at the jharoka, c.1735 - 40.jpg |
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| 画像サイズ = |
| 画像サイズ = 250px |
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| 画像説明 |
| 画像説明 = ムハンマド・シャー |
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| 在位 |
| 在位 = [[1719年]][[9月27日]] - [[1748年]][[4月26日]] |
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| 戴冠日 |
| 戴冠日 = [[1719年]][[9月29日]] |
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| 別号 |
| 別号 = [[パードシャー]] |
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| 全名 |
| 全名 = ナーシルッディーン・ムハンマド・ラウシャン・アフタール(ムハンマド・シャー) |
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| 出生日 |
| 出生日 = [[1702年]][[8月17日]] |
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| 生地 |
| 生地 = [[ガズニー]] |
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| 死亡日 |
| 死亡日 = [[1748年]][[4月26日]] |
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| 没地 |
| 没地 = [[デリー]]、[[デリー城]] |
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| 埋葬日 |
| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 |
| 埋葬地 = |
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| 継承者 |
| 継承者 = |
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| 継承形式 |
| 継承形式 = |
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| 配偶者1 = [[マリカ・ウッザマーニー・ベーグム]]<br>[[ウドハム・バーイー]]<br>ほか |
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| 配偶者1 = |
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| 配偶者2 |
| 配偶者2 = |
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| 配偶者3 |
| 配偶者3 = |
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| 配偶者4 |
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| 配偶者5 = |
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| 配偶者7 |
| 配偶者7 = |
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| 配偶者8 |
| 配偶者8 = |
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| 配偶者9 |
| 配偶者9 = |
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| 配偶者10 |
| 配偶者10 = |
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| 子女 |
| 子女 = [[アフマド・シャー (ムガル皇帝)|アフマド・シャー]]<br>ほか |
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| 王家 |
| 王家 = |
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| 王朝 |
| 王朝 = [[ムガル朝]]([[ティムール朝]]) |
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| 王室歌 |
| 王室歌 = |
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| 父親 |
| 父親 = [[ジャハーン・シャー (ムガル皇子)|ジャハーン・シャー]] |
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| 母親 |
| 母親 = [[クードシヤ・ベーグム]] |
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| 宗教 |
| 宗教 = [[イスラーム教]]([[スンナ派]]) |
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| サイン |
| サイン = |
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}} |
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'''ムハンマド・シャー'''( |
'''ムハンマド・シャー'''({{lang-ur|محمد شاہ}}, Muhammad Shah, [[1702年]][[8月17日]] - [[1748年]][[4月26日]])は、[[北インド]]、[[ムガル帝国]]の第12代君主(在位:[[1719年]] - 1748年)。'''ムハンマド・シャー・ランギーラー'''(Muhammad Shah Rangeela)の名でも知られる。父は第7代君主[[バハードゥル・シャー1世]]の皇子[[ジャハーン・シャー (ムガル皇子)|ジャハーン・シャー]]。母は[[クードシヤ・ベーグム]]。 |
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[[1719年]]、ムハンマド・シャーは、前の兄弟[[ラフィー・ウッダラジャート]]と[[ラフィー・ウッダウラ]]に続き、帝国の実権を握っていた[[サイイド兄弟]]の信任を得て即位した。しかし、その治世はまさに前途多難の日々であった。 |
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== 生涯 == |
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=== 宮廷の混乱 === |
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[[Image:Asaf Jah I, Nizam of Hyderabad.jpg|left |150px|thumb|ミール・カマルッディーン・ハーン]] |
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[[1719年]]ムハンマド・シャーも前の兄弟に続き、サイイド兄弟の信任を得て即位した<ref name=Delhi11>[http://www.royalark.net/India4/delhi11.htm Delhi 11]</ref>。しかしその治世は、まさに前途多難の日々であった。 |
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彼はサイイド兄弟を倒し帝国に一応の安定を取り戻したものの、すぐさま堕落してしまい、その後はずっと宮廷内外の混乱に頭を悩ませられた。宰相・諸州の太守が独立し、[[マラーター]]が勢いを伸ばしたのもまた彼の治世であった。 |
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サイイド家の信任で皇帝の位を手にしたが、宮廷内外の混乱に頭を悩ませられ、従兄弟[[ファッルフシヤル]]以来ムガル宮廷は、皇帝がサイイド兄弟の信任を得て即位してはそのサイイド家によって廃位・暗殺され、同じ西暦1719年のうちに4人の皇帝が次々と交代する、いわゆる「傀儡皇帝」という[[古代ローマ]]の[[軍人皇帝時代]]の如き混乱状態に陥っていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p251-252</ref>。 |
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さらには、[[1739年]]に[[アフシャール朝]]の[[ナーディル・シャー]]に[[デリー]]を略奪・破壊され、壊滅的な打撃を被り、皇帝権は地に落とされた。ナーディル・シャーの死後、その指揮官だった[[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]もまた[[アフガニスタン]]からインドに攻撃をかけ、そのさなか[[1748年]]にムハンマド・シャーは死亡した。 |
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だが、[[1722年]]ムハンマド・シャーはデカン総督[[ミール・カマルッディーン・ハーン]]などトルコ系貴族の助力でサイイド家の討伐に成功し、帝国に一応の安定を取り戻したものの、その後彼は堕落してしまった<ref name=Robinson253>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p253</ref>。 |
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==生涯== |
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===諸地方の独立=== |
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===即位以前と即位=== |
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[[File:Saadat Ali Khan I.jpg|thumb|right|150 px|サアーダト・アリー・ハーン]] |
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[[ファイル:Muhammad Shah.jpg|thumb|ムハンマド・シャー]] |
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[[1724年]]、宰相ミール・カマルッディーン・ハーンは衰退するムガル帝国を見限り、[[デカン高原|デカン]]に[[ニザーム王国]]をたて、同年にアワド太守[[サアーダト・アリー・ハーン]]は[[アワド]]で独立した<ref name=Robinson253/>。次いで、ベンガル太守[[ムルシド・クリー・ハーン]]も[[ベンガル地方|ベンガル]]の所領で半独立の立場をとるようになり、[[1727年]]その死後継いだ[[シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーン]]は帝国に納税を拒否して独立した<ref name=Robinson253/>。 |
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[[1702年]][[8月17日]]、ムハンマド・シャーは、[[バハードゥル・シャー1世]]の四男[[ジャハーン・シャー (ムガル皇子)|ジャハーン・シャー]]の次男として、[[ガズニー]]で生まれた<ref name=" Delhi 11">[http://www.royalark.net/India4/delhi11.htm Delhi 11]</ref>。即位前の名をラウシャン・アフタールといった<ref name="Delhi 11"/>。 |
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ムハンマド・シャーの父と兄[[ファルフンダ・アフタール]]は、 [[1712年]][[2月]]に皇帝バハードゥル・シャー1世が死んだことで皇位継承戦争に参加していたが、[[3月]]に[[ジャハーンダール・シャー]]に殺された。 |
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このように、有力諸侯が皇帝を見捨てて地方に独立するようになり、ムガル帝国は急速に解体していき、帝国の実質的な領土は[[北インド]]の[[デリー]]とその周辺地域に限られるようになった。 |
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とはいえ、ムハンマド・シャーは処刑されることはなく、母[[クードシヤ・ベーグム]]とともに[[デリー]]に幽閉されることで許された<ref name="Delhi 11"/>。 |
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むろん、帝国の諸州が独立したことにより、帝国の税収が著しく低下したのは言うまでもない。 |
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そうしたなか、[[1719年]][[9月19日]]に皇帝[[ラフィー・ウッダウラ]]が[[サイイド兄弟]]に殺害され、同月[[9月29日|29日]]に新たな皇帝にラウシャン・アフタールを即位させた<ref name="Delhi 11"/><ref name="小谷214">小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.214</ref><ref name="ロビンソン252">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.252</ref>。その治世の始まりは、公的にはファッルフシヤルの廃位された日となっている<ref name="ロビンソン252"/>。また、彼は即位にあたり、「ムハンマド・シャー」を名乗った<ref name="Delhi 11"/>。 |
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一応、これらの政権は[[18世紀]]後半までは帝国の認可で世襲を行ったが、次第に許可なく世襲を行うようになった。また、隣国アワドの太守は帝国の政治・軍事にたびたび関与してくるようになった。 |
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===サイイド兄弟の討伐=== |
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[[File: |
[[File:Muhammad Shah Rangeela of Mughal.JPG|thumb|right|200px|ムハンマド・シャー]] |
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ムハンマド・シャーはサイイド兄弟の信任で皇帝の位を手にしたものの、それは初めは従兄弟[[ファッルフシヤル]]以来、皇帝がサイイド兄弟の信任を得て即位しては彼らによって廃位・暗殺されるという状況の末に至ったものであった。そのため、彼が即位した[[西暦]]1719年のうちに彼を含め4人の皇帝が次々と交代する、いわゆる[[古代ローマ]]の[[軍人皇帝時代]]の如き混乱状態に帝国は陥っていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.251-252</ref>。 |
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ムハンマド・シャーが即位した翌[[1720年]]、デカンの[[マラーター同盟]]では宰相[[バーラージー・ヴィシュヴァナート]]が死に、息子の[[バージー・ラーオ1世]]が後を継いだ。 |
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サイイド家の傀儡であったムハンマド・シャーは自分もファッルフシヤルや[[ラフィー・ウッダラジャート]]、ラフィー・ウッダウラのように、サイイド兄弟に殺されるのではないかと恐れるようになった<ref name="ロビンソン252"/>。彼はサイイド兄弟に不満や恐れを持っていた[[トルコ系]]や[[イラン系]]の貴族たちと組み、彼ら二人を抹殺することに決めた<ref name="ロビンソン252"/>。 |
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この人物は非常に優れた指導者で、即位するとニザーム、アワド、[[ラージプート]]諸王国を抑え、同盟の勢力を急速に拡大した。そして、[[1737年]]バージー・ラーオ1世が率いる軍勢が帝都デリーを攻撃した<ref name=Robinson253/>。デリーは陥落はまぬがれたが、マラーターは近辺を略奪した。 |
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トルコ系やイラン系の貴族たちは、軍務大臣[[フサイン・アリー・ハーン]]がいる[[ファテープル・シークリー]]に刺客を送り、[[1720年]][[10月9日]]にその暗殺に成功した<ref name="ロビンソン252"/>。これが彼の治世における最初の出来事であった。フサイン・アリー・ハーンの軍は主人が暗殺されたことにより、ムハンマド・シャーに帰属した<ref name="ロビンソン252"/>。 |
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この出来事は[[アウラングゼーブ]]の死後、ちょうど30年後のことであり、マラーターの台頭と帝国の衰退をよくあらわしていた。 |
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アブドゥッラー・ハーンは弟の死を知り、ムハンマド・シャーに対抗するため、同月[[10月17日|17日]]に傀儡皇帝として[[イブラーヒーム (ムガル皇帝)|イブラーヒーム]]を擁立し、軍を集めた<ref name="Delhi 11"/>。その後、ムハンマド・シャーも軍を率いて、宰相であり財務大臣[[アブドゥッラー・ハーン]]の討伐のため進軍し、 [[11月15日]]にアーグラ付近[[ハサンプル]]で交戦した([[ハサンプルの戦い]])。 |
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===デリーの占領・略奪=== |
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[[Image:Nader Shah Afshar.jpg|thumb|left|180px|ナーディル・シャー]] |
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隣接の[[イラン]]からも大敵が迫りつつあった。かつて第2代皇帝[[フマーユーン]]を匿った[[サファヴィー朝]]は完全に衰退しており、混乱に乗じて軍人出身の[[ナーディル・シャー]]が[[1736年]]に[[アフシャール朝]]を創始し、サファヴィー朝の[[アッバース3世]]は廃位された。 |
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だが、アブドゥッラー・ハーンも負ければ殺されるとわかっており必死であった。戦いは昼に始まり夕方になっても決着がつかずに夜通し続けられ、翌[[11月16日|16日]]の昼に決着が着いた<ref name="ロビンソン253">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.253</ref>。 |
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[[1739年]]、ナーディル・シャーは帝都デリーに侵攻し、30,000人もの住民が殺され、略奪が行われた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p253-254</ref>。ペルシア軍は「孔雀の玉座」(Peacock Throne)を含む非常に多くの宝物を盗み、デリーは廃墟と化した。 |
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ムハンマド・シャーの軍は激戦の末に勝ち、アブドゥッラー・ハーンを捕え、サイイド兄弟の横暴はここに終わりを告げた<ref name="ロビンソン253"/>。その後、ムハンマド・シャーの命により、[[1722年]][[10月12日]]にサイイド・アブドゥッラー・ハーンは毒殺された<ref name="ロビンソン253"/><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=yoI8AAAAIAAJ&pg=PA348&lpg=PA348&dq=abdullah+khan+12+october+1722&source=bl&ots=iR0wb1RLFb&sig=4WyLRPZsweX4j7Cu801XBce1UMU&hl=ja&sa=X&ei=KCJTVOaTIaHcmgWfjYCYBQ&ved=0CCoQ6AEwAQ#v=onepage&q=abdullah%20khan%2012%20october%201722&f=false The Cambridge History of India - Edward James Rap;son, Sir Wolseley Haig, Sir Richard Burn - Google ブックス]</ref>。 |
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[[1748年]][[アフガニスタン]]の[[ドゥッラーニー朝]]が帝国領に侵入して、帝国はアワド太守[[サフダル・ジャング]]の助力を借りなければ撃退することができなかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p254</ref>。 |
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===ムハンマド・シャーの堕落=== |
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侵攻のさなか、ムハンマド・シャーは失意のうちに死亡し、帝位は子の[[アフマド・シャー (ムガル皇帝)|アフマド・シャー]]が継いだ<ref name=Delhi11/>。 |
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[[File:The Fall of Muhammad Shah.jpg|thumb|堕落したムハンマド・シャー]] |
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いずれにせよ、サイイド兄弟により一年のうちにムガル帝国の皇帝が三度も代えられて、三人の皇帝が殺されたことは、帝権の衰退をあらわしていた。そのサイイド兄弟の横暴も終わり、安定期に入った帝国は新たな方向へ向かうと思われた。 |
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だが、実権を握ったムハンマド・シャーはサイイド兄弟を討つや、すぐに宰相や大臣らに帝国の運営を委ねた<ref name="ロビンソン253"/>。彼は気晴らしに動物を戦わせたり、後宮で快楽にふけるようになった<ref name="ロビンソン253"/>。 |
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[[1722年]][[2月]]、「[[ニザームル・ムルク]]」の称号をもつトルコ貴族[[カマルッディーン・ハーン]]が宰相に任命された<ref name="チャンドラ14">チャンドラ『近代インドの歴史』、p.14</ref>。彼はムハンマド・シャーのサイイド兄弟の打倒に全身全霊で尽くし、宰相として様々な行政改革を行おうとしたが、ムハンマド・シャーの干渉ですべて徒労に終わった<ref name="チャンドラ14"/>。 |
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さすがに、かつてムハンマド・シャーに味方した者たちの多くが、これらに失望させられ、内憂外患の帝国に未来が見いだせず、衰退する帝国から独立を考えるようになった。 |
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===地方の実質的独立=== |
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[[Image:Asaf Jah I, Nizam of Hyderabad.jpg|right|200px|thumb|[[カマルッディーン・ハーン]]]] |
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こうして、1720年代にムガル帝国では、[[ハイダラーバード]]や[[アワド]]、[[ベンガル]]の諸州が帝国を見限り、独立を宣言することとなる<ref name="ロビンソン253"/>。 |
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[[1723年]][[10月]]、宰相カマルッディーン・ハーンがその職を辞して、[[デカン]]のハイダラーバードに下降して実質的に独立し、翌[[1724年]]に[[ニザーム王国]]を樹立した<ref name="チャンドラ14"/><ref name="チャンドラ9">チャンドラ『近代インドの歴史』、p.9</ref>。ムガル帝国はこの行動に対して軍を派遣したが、[[シャカル・ケーダーの戦い]]で打ち破られたため、この独立を認めなければならず、ムハンマド・シャーはデカン総督の位と「アーサフ・ジャー」の称号を与えて独立を認めた<ref>[http://www.preservearticles.com/2011101915822/short-essay-on-british-supremacy-in-south-india.html Short Essay on British Supremacy in South India]</ref><ref>[http://travel.indiafolks.com/hyderabad/eventa-dates.php Hyderabad Events and dates, Important history dates for hyderabad]</ref><ref name=Karashima172>辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.172</ref>。この宰相の独立をある歴史家はこう記している<ref name="チャンドラ9"/>。 |
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{{Cquote3| |
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「彼の出立は、帝国からの忠誠と美徳の遁走を象徴した」 |
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同年には、[[アワド太守]][[サアーダト・アリー・ハーン]]も[[ファイザーバード]]を拠点に、[[アワド地方]]で実質的に独立した<ref name="ロビンソン253"/>。彼はムガル帝国に仕えた[[イラン系]]貴族の一人で、「ブルハーヌル・ムルク」の称号を持ち、1722年にアワド太守に任命された人物だった。 |
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[[ベンガル地方]]では、[[ベンガル太守]][[ムルシド・クリー・ハーン]]の統治のもと半独立的立場が保たれていたが、税収を中央政府に律儀に払っていた<ref name="ロビンソン253"/>。だが、[[1727年]]にムルシド・クリー・ハーンが死ぬと、新太守[[シュジャー・ハーン]]彼は帝国に対して税の納入を拒否し、半独立的立場だったベンガルも実質的に帝国の支配から独立した<ref name="ロビンソン253"/>。 |
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これらの地方の実質的独立にムガル帝国はなす術が無く、ムガル帝国から次々と重要な州が離れたことで帝国の領土と歳入は大きく削減され、事実上ムガル帝国の解体を意味した。これにより、帝国は各地の独立政権が名目上の皇帝として仰ぐ単なる名目的主権国家となった。 |
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===マラーター王国の台頭=== |
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[[File:Peshwa Baji Rao I riding horse.jpg|thumb|right|200px|[[バージー・ラーオ]]]] |
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そして、これらの地方の独立は[[マラーター王国]]の更なる増長とその版図拡大を招く結果となり、強力な指導者が現れたことで最盛期を迎えることとなった。皇帝ムハンマド・シャーがサイイド家の横暴を終わらせた年、マラーター王国でもある転機がおとずれた。 |
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1720年[[4月12日]]、[[マラーター王国]]の宰相[[バーラージー・ヴィシュヴァナート]]が死亡し、息子[[バージー・ラーオ]]が20歳で新たな宰相に就任した<ref name="小谷213">小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.213</ref>。 |
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宰相就任後、バージー・ラーオはすぐにニザーム王国との戦争を開始し、その後北に転戦してムガル帝国と戦った<ref name="小谷214"/>。マラーター軍は彼自身によって率いられており、士気はとても高く、各地でムガル帝国軍を打ち破った。 |
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バージー・ラーオは[[マールワー]]や[[グジャラート]]、[[ハーンデーシュ]]を支配下に置き、[[1730年]]後半までマラーター王国の版図を帝国と呼べる広大なものとした<ref name=チャンドラ32>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.32</ref>。また、彼は随行した武将であるマラーター諸侯([[サルダール]])に征服地を領有させ、諸侯が王国宰相に忠誠と貢納を誓い、宰相がその領土の権益を認める形をとった([[マラーター同盟]])<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.31</ref>。 |
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そして、[[1737年]][[3月]]にマラーター王国軍はムガル帝国の首都デリーを攻撃した([[デリーの戦い (1737年)|デリーの戦い]])<ref name="ロビンソン253"/><ref name="小谷219">小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.219</ref>。帝都デリーは陥落を免れたものの、マラーター軍にデリー近郊を略奪され、帝国の北インドにおける支配がマラーターに移ったことを示す出来事だった。 |
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こうして、アウラングゼーブが[[デカン戦争]]で獲得したデカンの支配権はその死後30年でマラーターに取って代わられ、過去の皇帝たちが獲得した領土までマラーターに奪われてしまった。事実上、インドの支配権はムガル帝国からマラーター同盟に移り、ムガル帝国に取って代わる強大な国家となり、マラーター同盟のインドの3分の2近くを支配する広大な領土は、「マラーター帝国」とも呼ばれた。 |
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===イランの強国化=== |
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[[File:Bahram 001.jpg|thumb|right|250px|[[ナーディル・シャー]]]] |
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18世紀初頭にムガル帝国が衰退に入ったとき、イランを支配していた[[サファヴィー朝]]は、それより前の17世紀の[[アッバース1世]]の死後から衰退に入っていた。 |
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アッバース1世の死後、サファヴィー朝では無能な王が続き、宮廷の内部争いなどで王国は乱れ、[[アゼルバイジャン]]と[[バグダード]]、[[タブリーズ]]を含む南イラクはオスマン帝国に奪い返された。さらに、17世紀末、サファヴィー朝支配下の[[アフガニスタン]]では[[アフガン系]]民族の反乱が起こり、アフガン系[[ギルザイ族]]の反乱は深刻で、[[1722年]]には王朝の首都[[イスファハーン]]が占領された<ref name="ロビンソン312">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.312</ref>。 |
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そのころ、1720年代から[[トルコ系]][[アフシャール朝|アフシャール族]]の[[ナーディル・ハーン]](ナーディル・クリー・ベグ)という人物が頭角をあらわした<ref name="ロビンソン312"/>。この人物は盗賊の首領であったが、サファヴィー朝の混乱に乗じ各地を制圧して力をつけ、[[カズヴィーン]]へ亡命していたサファヴィー朝の王[[タフマースプ2世]]と組み、[[1729年]]にイスファハーンを奪還した<ref name="小谷226">小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.226</ref>。 |
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その後、[[1730年]]までにナーディル・ハーンはイランからギルザイ族を駆逐してアフガニスタン方面へと追いやった<ref name="ロビンソン312"/>。ムガル帝国のムハンマド・シャーに対しては、ギルザイ族がイランに侵入せぬようにアフガニスタンを統治することを要請しているが、衰退している帝国にそのような力はなかった<ref name="ロビンソン312"/>。 |
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[[1732年]]、サファヴィー朝がオスマン帝国に敗北してタフマースプ2世が屈辱的な条件の講和を結ぶと、ナーディル・ハーンはタフマースプ2世を捕えて廃位した<ref name="ロビンソン313">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.313</ref><ref name="小谷226"/>。彼はその息子[[アッバース3世]]を新たな王に即位させ、その摂政となりサファヴィー朝を支配した<ref name="ロビンソン313"/>。 |
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その後、ナーディル・ハーンは[[トルコ]]や[[ロシア]]と戦い、軍事的天才である彼は周辺諸国より優位に立ち、サファヴィー朝末期にイランの国力は急速に上がった<ref name="ロビンソン313"/><ref name="小谷226"/>。そして、1736年にナーディル・ハーンはアッバース3世から王位を簒奪してサファヴィー朝を廃し、「シャー」を名乗りナーディル・シャーとなり、新たに[[アフシャール朝]]を創始した<ref name="ロビンソン313"/><ref name="小谷226"/>。 |
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18世紀にインドのムガル帝国が衰退していたのに対し、イランのほうでは勢力が回復しているのを見ると、両国は実に対照的であるといえる。 |
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===ナーディル・シャーのデリー占領と略奪・破壊=== |
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[[File:7 Muhammad Shah and Nadir Shah. 1740, Musee Guimet, Paris.jpg|thumb|right|250px|ナーディル・シャーと交渉するムハンマド・シャー(左)]] |
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[[File:Nadir Shah at the sack of Delhi - Battle scene with Nader Shah on horseback, possibly by Muhammad Ali ibn Abd al-Bayg ign Ali Quli Jabbadar, mid-18th century, Museum of Fine Arts, Boston.jpg|thumb|right|デリーを略奪・破壊するナーディル・シャー]] |
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その後、ナーディル・シャーはムガル帝国の富を求めて、[[1737年]]にアフガニスタンへと侵攻した。インドとの中継地アフガニスタンにおいては、サファヴィー朝の衰退で1720年代にアフガン系[[ギルザイ族]]が支配するなど、イランもアフガニスタンの支配権を失っていた<ref name="ロビンソン316"/>。 |
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同年にナーディル・シャーは[[カンダハール]]をギルザイ族から奪還しのち、翌[[1738年]]にはムガル帝国がアフガン人の統治を失敗したことを口実に帝国領へ侵攻した<ref name="ロビンソン316"/>。彼はアフガニスタンの主要都市[[カーブル]]を占領し、アフガニスタン全域を支配下に置いた。 |
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同年末、イラン軍は北西インドにまで侵入し、帝国は[[ラホール]]が占領されたときになって、ようやく大急ぎで防衛準備を始めた<ref name="チャンドラ10">チャンドラ『近代インドの歴史』、p.10</ref>。だが、派閥争いをしていた貴族らは派閥争いをやめず、防衛の指揮系統や防衛方法すら合意に至らずにあいまいなまま、ムハンマド・シャーを連れて戦場に赴いた<ref name="チャンドラ10"/><ref name="小谷227">小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.227</ref>。彼らは相互に猜疑心と嫉妬心に駆られていた<ref name="チャンドラ10"/>。 |
|||
[[1739年]][[2月24日]]、デリーから110キロの地点[[カルナール]]で、ムガル帝国の大軍はイラン軍に打ち破られ、帝国軍は主だった指揮官をはじめ、数万人の犠牲を払う大痛手を被った([[カルナールの戦い]])<ref name="ロビンソン254"/><ref name="チャンドラ10"/>。そのため、ムハンマド・シャーはナーディル・シャーと講和を結ぶことにし、自らその交渉にあたった<ref name="ロビンソン254"/>。 |
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こうして、同年[[3月20日]]、ナーディル・シャーは軍とともにデリーへ入城し、デリーを占領した。だが、これに不服だったデリーの住人はムハンマド・シャーの意に反して、[[3月21日|21日]]にイラン軍に反撃に出始め、ナーディル・シャーは軍に市民を皆殺しにするよう命じた<ref name="チャンドラ10"/><ref name="小谷227"/>。 |
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この虐殺による死者は30,000人にも及んだとされ、イラン軍による殺戮、略奪、放火はすさまじく、デリーは無法地帯と化した。帝室の財産があるデリー城にも略奪が及び、宝物庫からは[[コーヒ・ヌール]]、[[ダリヤーイェ・ヌール]]の[[ダイヤモンド]]など、多数の財宝を運び出され、[[シャー・ジャハーン]]の「[[孔雀の玉座]]」も持ち出されてしまった(のち孔雀の玉座はイランで解体された)<ref name="ロビンソン254"/><ref name="チャンドラ10"/>。また、主だった貴族からは献納金を徴収し<ref name="チャンドラ10"/>、虐殺から辛うじて生き延びた市中の人々にも身代金が課せられた<ref name="ロビンソン254"/>。 |
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ナーディル・シャーはこの略奪により、じつに総額7億ルピーに相当すると推定される戦利品を得たという<ref name="チャンドラ10"/>。それは兵士に未払いの給料と6カ月分の給料に相当する特別手当の支払いを可能にし、イランにおいて3年間にわたる免税さえも可能にした<ref name="ロビンソン316">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.316</ref>。 |
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その後、同年[[5月]]、ナーディル・シャーは皇帝ムハンマド・シャーにもはや戦意がないとわかると、彼はデリーから軍を撤退させることにし、その際に[[インダス川]]以西の帝国領を割譲させた<ref name="チャンドラ10"/><ref name="小谷227"/>。こうして、彼は途方もなく莫大な戦利品とともにイランへと帰還し、撤退後の首都デリーについてある文献はこう語る<ref name="ロビンソン254">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.254</ref>。 |
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{{Cquote3| |
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「長い間、通りには遺体が散乱していた。まるで、枯れた花や葉に覆われたように通庭園の小道のように。平原は辺り一面、火に焼きつくされた」 |
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===晩年と死=== |
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[[File:Chitarman II, Emperor Muhammad Shah with Falcon Viewing his Garden at Sunset from a Palanquin ca 1730 Metmuseum.jpg|thumb|right|250px|輿に乗るムハンマド・シャー]] |
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[[File:Emperor Muhammad Shah LACMA AC1997.127.1.jpg|thumb|ムハンマド・シャー]] |
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ナーディル・シャーの侵略はムガル帝国の権威を完全に失墜させ、行政機構と財政を破壊し、中央機構から統制はもはや不可能となった<ref name="チャンドラ10"/>。宮廷の貴族らは落ちぶれ、自分らの失った財産を取り戻すために、領地の農民らに高額の小作料をかけたため、国土の経済水準すら下がるありさまだった<ref name="チャンドラ10"/>。また、彼らは豊かな[[ジャーギール]]と高位の官職をめぐり、これまで以上に熾烈な争いを繰り広げた<ref name="チャンドラ10"/>。 |
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また、ナーディル・シャーによるこの決定的な一撃は帝国の弱体化をあらゆる勢力にさらけ出し、デリーへの侵入を許すことになった。それはマラーターや外国の交易会社などである<ref name="チャンドラ10"/>。 |
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[[1740年]]初頭、マラーター王国の宰相バージー・ラーオが再び軍を率いてデリーへ進軍したが、[[4月]]にその道中で死亡したため、帝都デリーは危機を免れた。しかし、その息子バーラージー・バージー・ラーオもまた有能であり、彼はアーグラにまで進み、[[1741年]][[7月14日]]に皇帝ムハンマド・シャーにこの領有を認めさせた<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.216</ref> <ref>[https://marathachronicles.blogspot.com/2010/11/peshwas-part-3-peak-of-peshwas-and.html Peshwas (Part 3) : Peak of the Peshwas and their debacle at Panipat]</ref> |
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[[1747年]][[6月]]にナーディル・シャーは暗殺され、そのイランとアフガニスタンにまたがる広大な領土は分裂状態に陥った。[[10月]]、アフガニスタンは[[ドゥッラーニー朝]]を創始した[[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]の支配するところとなった。インダス川以西の地域を喪失したムガル帝国の北西方面における守りは薄くなっており、防衛の生命線はすでに失われていた。 |
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[[1747年]][[12月]]、アフマド・シャー・ドゥッラーニーは首都カンダハールを出発し、翌[[1748年]]初頭にはインド北西部へと侵入し、ラホールを奪った<ref name="小谷228">小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.228</ref>。ムガル帝国はこの危機に対し、アワド太守[[サフダル・ジャング]]の援軍を借りて、同年[[3月11日]]にデリー近郊[[マヌープル]]でアフガン軍に勝利を収めた([[マヌープルの戦い]])<ref name="ロビンソン254"/><ref name="小谷228"/>。 |
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その後、アフマド・シャー・ドゥッラーニーのほうは首都カンダハールで反乱が起きたため、アフガニスタンに引き返さざるを得なくなった。しかし、その侵入は[[1760年]]まで |
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断続的に続き、その回数は10回余りに及んた<ref name="ロビンソン254"/>。 |
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[[1748年]][[4月26日]]、皇帝ムハンマド・シャーはこうした情勢の中、帝都デリーで死亡した<ref name="ロビンソン254"/><ref name="Delhi 11"/>。このとき、ムハンマド・シャーの息子の[[アフマド・シャー (ムガル皇帝)|アフマド・シャー]]は軍とともにアフガン軍を追撃中であり、彼がデリーに戻るまでその死を隠す必要があった<ref name="ロビンソン254"/>。そのため、その遺体は王宮の[[テーブルクロス]]に包まれたのち、ヨーロッパ製の大時計の中に入れられ、その到着まで埋めてあったという<ref name="ロビンソン254"/>。 |
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==人物・評価== |
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[[File:Silver rupee of Muhammad Shah.jpg|thumb|right|ムハンマド・シャーの治世の貨幣]] |
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[[File:French issued rupee in the name of Mohammed Sha 1719 1758 for Northern India trade cast in Pondicherry.jpg|thumb|right|150px|[[フランス東インド会社]]がムハンマド・シャーの名で鋳造した貨幣]] |
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ムハンマド・シャーは、知性にすぐれた母による養育を受け、行動力と決断力に優れた人物だった。歴史家[[ハーフィー・ハーン]]はムハンマド・シャーについて、「彼は美しい若者で、数々の資質を備え、知性も抜きん出ていた」と述べている<ref name="ロビンソン252"/>。 |
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ムハンマド・シャーは、宮廷を牛耳っていたサイイド兄弟の横暴を止めるべく、トルコ系及びイラン系貴族を結集し、その討伐に成功した点では評価できる。 |
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だが、ムハンマド・シャーはサイイド家の討伐後、突如として堕落し、ひたすら快楽に走り続けたたことは、彼の評価を下げてしまっている。また、ナーディル・シャーの侵略時、貴族らをまとめることができず、結果的に軍を敗北に導いたところも同様である。 |
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とはいえ、カルナールでの敗北後、ムハンマド・シャーはこれ以上犠牲を避けるため、自ら敵陣へと交渉にいった点では、正しい判断をしたと評価することもできるだろう。 |
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==家族== |
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===父母=== |
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*[[ジャハーン・シャー]] |
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*[[クードシヤ・ベーグム]] |
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===后妃=== |
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====正室==== |
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*[[マリカ・ウッザマーニー・ベーグム]](パードシャー・ベーグム) |
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*[[サーヒバ・マハル]](マリカ・イ・ジャハーン・ベーグム) |
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*[[ウドハム・バーイー]](クードシヤ・ベーグム) |
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*サフィーヤ・スルターン・ベーグム |
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計4人<ref name="Delhi 11"/>。 |
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====側室==== |
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*ループ・バーイー |
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*ファトフプリー・バーイー |
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*ラウシャナーバーディー・マハル |
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計3人。 |
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===息子=== |
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*シャフリヤール・シャー |
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*[[アフマド・シャー (ムガル皇帝)|アフマド・シャー]] |
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*タージュ・ムハンマド |
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計3人<ref name="Delhi 11"/>。 |
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===娘=== |
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*パードシャー・ベーグム |
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*ジャハーン・アフルーズ・バーヌー・ベーグム |
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*サーヒバ・ウッザマーニー・ハズラト・ベーグム([[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]の妃) |
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計3人<ref name="Delhi 11"/>。 |
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==脚注== |
==脚注== |
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==参考文献== |
==参考文献== |
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* |
*{{Cite|和書|author =フランシス・ロビンソン|authorlink = フランシス・ロビンソン| translator=月森左知|title =ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)|publisher =創元社|date =2009年|isbn =}} |
||
*{{Cite|和書|author =アンドレ・クロー|authorlink =アンドレ・クロー| translator=杉村裕史|title =ムガル帝国の興亡|publisher =法政大学出版局|series =|volume = |edition =| date =2001年| isbn =}} |
|||
*{{Cite|和書|author =ビパン・チャンドラ|authorlink =ビパン・チャンドラ| translator=栗原利江|title =近代インドの歴史|publisher =山川出版社| date =2001年|isbn =}} |
|||
* [[辛島昇]]編修、『新版 世界各国史7 南アジア史』、[[山川出版社]]、[[2004年]]、ISBN 978-4-634-41370-2 |
|||
*{{Cite|和書|author =小谷汪之|authorlink =小谷汪之|translator=|title =世界歴史大系南アジア史2―中世・近世―|publisher =山川出版社|date =2007年| isbn =}} |
|||
*{{Cite|和書|author =辛島昇|authorlink =辛島昇|translator=|title =世界歴史大系 南アジア史3―南インド―|publisher =山川出版社| date =2007年| isbn =}} |
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==関連項目== |
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{{ムガル帝国皇帝|||[[ムガル帝国]]第12代皇帝:1719年 - 1748年}} |
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{{Commons category|Muhammad Shah|ムハンマド・シャー}} |
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*[[ムガル帝国]] |
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*[[サイイド兄弟]] |
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*[[ナーディル・シャーのインド侵攻]] |
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{{ムガル帝国皇帝|第12代:1719年 - 1748年}} |
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[[Category:ムガル帝国の君主]] |
[[Category:ムガル帝国の君主]] |
2023年12月24日 (日) 04:27時点における最新版
ムハンマド・シャー・ランギーラー محمد شاہ رنگیلا | |
---|---|
ムガル皇帝 | |
ムハンマド・シャー | |
在位 | 1719年9月27日 - 1748年4月26日 |
戴冠式 | 1719年9月29日 |
別号 | パードシャー |
全名 | ナーシルッディーン・ムハンマド・ラウシャン・アフタール(ムハンマド・シャー) |
出生 |
1702年8月17日 ガズニー |
死去 |
1748年4月26日 デリー、デリー城 |
配偶者 |
マリカ・ウッザマーニー・ベーグム ウドハム・バーイー ほか |
子女 |
アフマド・シャー ほか |
王朝 | ムガル朝(ティムール朝) |
父親 | ジャハーン・シャー |
母親 | クードシヤ・ベーグム |
宗教 | イスラーム教(スンナ派) |
ムハンマド・シャー(ウルドゥー語: محمد شاہ, Muhammad Shah, 1702年8月17日 - 1748年4月26日)は、北インド、ムガル帝国の第12代君主(在位:1719年 - 1748年)。ムハンマド・シャー・ランギーラー(Muhammad Shah Rangeela)の名でも知られる。父は第7代君主バハードゥル・シャー1世の皇子ジャハーン・シャー。母はクードシヤ・ベーグム。
1719年、ムハンマド・シャーは、前の兄弟ラフィー・ウッダラジャートとラフィー・ウッダウラに続き、帝国の実権を握っていたサイイド兄弟の信任を得て即位した。しかし、その治世はまさに前途多難の日々であった。
彼はサイイド兄弟を倒し帝国に一応の安定を取り戻したものの、すぐさま堕落してしまい、その後はずっと宮廷内外の混乱に頭を悩ませられた。宰相・諸州の太守が独立し、マラーターが勢いを伸ばしたのもまた彼の治世であった。
さらには、1739年にアフシャール朝のナーディル・シャーにデリーを略奪・破壊され、壊滅的な打撃を被り、皇帝権は地に落とされた。ナーディル・シャーの死後、その指揮官だったアフマド・シャー・ドゥッラーニーもまたアフガニスタンからインドに攻撃をかけ、そのさなか1748年にムハンマド・シャーは死亡した。
生涯
[編集]即位以前と即位
[編集]1702年8月17日、ムハンマド・シャーは、バハードゥル・シャー1世の四男ジャハーン・シャーの次男として、ガズニーで生まれた[1]。即位前の名をラウシャン・アフタールといった[1]。
ムハンマド・シャーの父と兄ファルフンダ・アフタールは、 1712年2月に皇帝バハードゥル・シャー1世が死んだことで皇位継承戦争に参加していたが、3月にジャハーンダール・シャーに殺された。
とはいえ、ムハンマド・シャーは処刑されることはなく、母クードシヤ・ベーグムとともにデリーに幽閉されることで許された[1]。
そうしたなか、1719年9月19日に皇帝ラフィー・ウッダウラがサイイド兄弟に殺害され、同月29日に新たな皇帝にラウシャン・アフタールを即位させた[1][2][3]。その治世の始まりは、公的にはファッルフシヤルの廃位された日となっている[3]。また、彼は即位にあたり、「ムハンマド・シャー」を名乗った[1]。
サイイド兄弟の討伐
[編集]ムハンマド・シャーはサイイド兄弟の信任で皇帝の位を手にしたものの、それは初めは従兄弟ファッルフシヤル以来、皇帝がサイイド兄弟の信任を得て即位しては彼らによって廃位・暗殺されるという状況の末に至ったものであった。そのため、彼が即位した西暦1719年のうちに彼を含め4人の皇帝が次々と交代する、いわゆる古代ローマの軍人皇帝時代の如き混乱状態に帝国は陥っていた[4]。
サイイド家の傀儡であったムハンマド・シャーは自分もファッルフシヤルやラフィー・ウッダラジャート、ラフィー・ウッダウラのように、サイイド兄弟に殺されるのではないかと恐れるようになった[3]。彼はサイイド兄弟に不満や恐れを持っていたトルコ系やイラン系の貴族たちと組み、彼ら二人を抹殺することに決めた[3]。
トルコ系やイラン系の貴族たちは、軍務大臣フサイン・アリー・ハーンがいるファテープル・シークリーに刺客を送り、1720年10月9日にその暗殺に成功した[3]。これが彼の治世における最初の出来事であった。フサイン・アリー・ハーンの軍は主人が暗殺されたことにより、ムハンマド・シャーに帰属した[3]。
アブドゥッラー・ハーンは弟の死を知り、ムハンマド・シャーに対抗するため、同月17日に傀儡皇帝としてイブラーヒームを擁立し、軍を集めた[1]。その後、ムハンマド・シャーも軍を率いて、宰相であり財務大臣アブドゥッラー・ハーンの討伐のため進軍し、 11月15日にアーグラ付近ハサンプルで交戦した(ハサンプルの戦い)。
だが、アブドゥッラー・ハーンも負ければ殺されるとわかっており必死であった。戦いは昼に始まり夕方になっても決着がつかずに夜通し続けられ、翌16日の昼に決着が着いた[5]。
ムハンマド・シャーの軍は激戦の末に勝ち、アブドゥッラー・ハーンを捕え、サイイド兄弟の横暴はここに終わりを告げた[5]。その後、ムハンマド・シャーの命により、1722年10月12日にサイイド・アブドゥッラー・ハーンは毒殺された[5][6]。
ムハンマド・シャーの堕落
[編集]いずれにせよ、サイイド兄弟により一年のうちにムガル帝国の皇帝が三度も代えられて、三人の皇帝が殺されたことは、帝権の衰退をあらわしていた。そのサイイド兄弟の横暴も終わり、安定期に入った帝国は新たな方向へ向かうと思われた。
だが、実権を握ったムハンマド・シャーはサイイド兄弟を討つや、すぐに宰相や大臣らに帝国の運営を委ねた[5]。彼は気晴らしに動物を戦わせたり、後宮で快楽にふけるようになった[5]。
1722年2月、「ニザームル・ムルク」の称号をもつトルコ貴族カマルッディーン・ハーンが宰相に任命された[7]。彼はムハンマド・シャーのサイイド兄弟の打倒に全身全霊で尽くし、宰相として様々な行政改革を行おうとしたが、ムハンマド・シャーの干渉ですべて徒労に終わった[7]。
さすがに、かつてムハンマド・シャーに味方した者たちの多くが、これらに失望させられ、内憂外患の帝国に未来が見いだせず、衰退する帝国から独立を考えるようになった。
地方の実質的独立
[編集]こうして、1720年代にムガル帝国では、ハイダラーバードやアワド、ベンガルの諸州が帝国を見限り、独立を宣言することとなる[5]。
1723年10月、宰相カマルッディーン・ハーンがその職を辞して、デカンのハイダラーバードに下降して実質的に独立し、翌1724年にニザーム王国を樹立した[7][8]。ムガル帝国はこの行動に対して軍を派遣したが、シャカル・ケーダーの戦いで打ち破られたため、この独立を認めなければならず、ムハンマド・シャーはデカン総督の位と「アーサフ・ジャー」の称号を与えて独立を認めた[9][10][11]。この宰相の独立をある歴史家はこう記している[8]。
「 | 「彼の出立は、帝国からの忠誠と美徳の遁走を象徴した」 | 」 |
同年には、アワド太守サアーダト・アリー・ハーンもファイザーバードを拠点に、アワド地方で実質的に独立した[5]。彼はムガル帝国に仕えたイラン系貴族の一人で、「ブルハーヌル・ムルク」の称号を持ち、1722年にアワド太守に任命された人物だった。
ベンガル地方では、ベンガル太守ムルシド・クリー・ハーンの統治のもと半独立的立場が保たれていたが、税収を中央政府に律儀に払っていた[5]。だが、1727年にムルシド・クリー・ハーンが死ぬと、新太守シュジャー・ハーン彼は帝国に対して税の納入を拒否し、半独立的立場だったベンガルも実質的に帝国の支配から独立した[5]。
これらの地方の実質的独立にムガル帝国はなす術が無く、ムガル帝国から次々と重要な州が離れたことで帝国の領土と歳入は大きく削減され、事実上ムガル帝国の解体を意味した。これにより、帝国は各地の独立政権が名目上の皇帝として仰ぐ単なる名目的主権国家となった。
マラーター王国の台頭
[編集]そして、これらの地方の独立はマラーター王国の更なる増長とその版図拡大を招く結果となり、強力な指導者が現れたことで最盛期を迎えることとなった。皇帝ムハンマド・シャーがサイイド家の横暴を終わらせた年、マラーター王国でもある転機がおとずれた。
1720年4月12日、マラーター王国の宰相バーラージー・ヴィシュヴァナートが死亡し、息子バージー・ラーオが20歳で新たな宰相に就任した[12]。 宰相就任後、バージー・ラーオはすぐにニザーム王国との戦争を開始し、その後北に転戦してムガル帝国と戦った[2]。マラーター軍は彼自身によって率いられており、士気はとても高く、各地でムガル帝国軍を打ち破った。
バージー・ラーオはマールワーやグジャラート、ハーンデーシュを支配下に置き、1730年後半までマラーター王国の版図を帝国と呼べる広大なものとした[13]。また、彼は随行した武将であるマラーター諸侯(サルダール)に征服地を領有させ、諸侯が王国宰相に忠誠と貢納を誓い、宰相がその領土の権益を認める形をとった(マラーター同盟)[14]。
そして、1737年3月にマラーター王国軍はムガル帝国の首都デリーを攻撃した(デリーの戦い)[5][15]。帝都デリーは陥落を免れたものの、マラーター軍にデリー近郊を略奪され、帝国の北インドにおける支配がマラーターに移ったことを示す出来事だった。
こうして、アウラングゼーブがデカン戦争で獲得したデカンの支配権はその死後30年でマラーターに取って代わられ、過去の皇帝たちが獲得した領土までマラーターに奪われてしまった。事実上、インドの支配権はムガル帝国からマラーター同盟に移り、ムガル帝国に取って代わる強大な国家となり、マラーター同盟のインドの3分の2近くを支配する広大な領土は、「マラーター帝国」とも呼ばれた。
イランの強国化
[編集]18世紀初頭にムガル帝国が衰退に入ったとき、イランを支配していたサファヴィー朝は、それより前の17世紀のアッバース1世の死後から衰退に入っていた。
アッバース1世の死後、サファヴィー朝では無能な王が続き、宮廷の内部争いなどで王国は乱れ、アゼルバイジャンとバグダード、タブリーズを含む南イラクはオスマン帝国に奪い返された。さらに、17世紀末、サファヴィー朝支配下のアフガニスタンではアフガン系民族の反乱が起こり、アフガン系ギルザイ族の反乱は深刻で、1722年には王朝の首都イスファハーンが占領された[16]。
そのころ、1720年代からトルコ系アフシャール族のナーディル・ハーン(ナーディル・クリー・ベグ)という人物が頭角をあらわした[16]。この人物は盗賊の首領であったが、サファヴィー朝の混乱に乗じ各地を制圧して力をつけ、カズヴィーンへ亡命していたサファヴィー朝の王タフマースプ2世と組み、1729年にイスファハーンを奪還した[17]。
その後、1730年までにナーディル・ハーンはイランからギルザイ族を駆逐してアフガニスタン方面へと追いやった[16]。ムガル帝国のムハンマド・シャーに対しては、ギルザイ族がイランに侵入せぬようにアフガニスタンを統治することを要請しているが、衰退している帝国にそのような力はなかった[16]。
1732年、サファヴィー朝がオスマン帝国に敗北してタフマースプ2世が屈辱的な条件の講和を結ぶと、ナーディル・ハーンはタフマースプ2世を捕えて廃位した[18][17]。彼はその息子アッバース3世を新たな王に即位させ、その摂政となりサファヴィー朝を支配した[18]。
その後、ナーディル・ハーンはトルコやロシアと戦い、軍事的天才である彼は周辺諸国より優位に立ち、サファヴィー朝末期にイランの国力は急速に上がった[18][17]。そして、1736年にナーディル・ハーンはアッバース3世から王位を簒奪してサファヴィー朝を廃し、「シャー」を名乗りナーディル・シャーとなり、新たにアフシャール朝を創始した[18][17]。
18世紀にインドのムガル帝国が衰退していたのに対し、イランのほうでは勢力が回復しているのを見ると、両国は実に対照的であるといえる。
ナーディル・シャーのデリー占領と略奪・破壊
[編集]その後、ナーディル・シャーはムガル帝国の富を求めて、1737年にアフガニスタンへと侵攻した。インドとの中継地アフガニスタンにおいては、サファヴィー朝の衰退で1720年代にアフガン系ギルザイ族が支配するなど、イランもアフガニスタンの支配権を失っていた[19]。
同年にナーディル・シャーはカンダハールをギルザイ族から奪還しのち、翌1738年にはムガル帝国がアフガン人の統治を失敗したことを口実に帝国領へ侵攻した[19]。彼はアフガニスタンの主要都市カーブルを占領し、アフガニスタン全域を支配下に置いた。
同年末、イラン軍は北西インドにまで侵入し、帝国はラホールが占領されたときになって、ようやく大急ぎで防衛準備を始めた[20]。だが、派閥争いをしていた貴族らは派閥争いをやめず、防衛の指揮系統や防衛方法すら合意に至らずにあいまいなまま、ムハンマド・シャーを連れて戦場に赴いた[20][21]。彼らは相互に猜疑心と嫉妬心に駆られていた[20]。
1739年2月24日、デリーから110キロの地点カルナールで、ムガル帝国の大軍はイラン軍に打ち破られ、帝国軍は主だった指揮官をはじめ、数万人の犠牲を払う大痛手を被った(カルナールの戦い)[22][20]。そのため、ムハンマド・シャーはナーディル・シャーと講和を結ぶことにし、自らその交渉にあたった[22]。
こうして、同年3月20日、ナーディル・シャーは軍とともにデリーへ入城し、デリーを占領した。だが、これに不服だったデリーの住人はムハンマド・シャーの意に反して、21日にイラン軍に反撃に出始め、ナーディル・シャーは軍に市民を皆殺しにするよう命じた[20][21]。
この虐殺による死者は30,000人にも及んだとされ、イラン軍による殺戮、略奪、放火はすさまじく、デリーは無法地帯と化した。帝室の財産があるデリー城にも略奪が及び、宝物庫からはコーヒ・ヌール、ダリヤーイェ・ヌールのダイヤモンドなど、多数の財宝を運び出され、シャー・ジャハーンの「孔雀の玉座」も持ち出されてしまった(のち孔雀の玉座はイランで解体された)[22][20]。また、主だった貴族からは献納金を徴収し[20]、虐殺から辛うじて生き延びた市中の人々にも身代金が課せられた[22]。
ナーディル・シャーはこの略奪により、じつに総額7億ルピーに相当すると推定される戦利品を得たという[20]。それは兵士に未払いの給料と6カ月分の給料に相当する特別手当の支払いを可能にし、イランにおいて3年間にわたる免税さえも可能にした[19]。
その後、同年5月、ナーディル・シャーは皇帝ムハンマド・シャーにもはや戦意がないとわかると、彼はデリーから軍を撤退させることにし、その際にインダス川以西の帝国領を割譲させた[20][21]。こうして、彼は途方もなく莫大な戦利品とともにイランへと帰還し、撤退後の首都デリーについてある文献はこう語る[22]。
「 | 「長い間、通りには遺体が散乱していた。まるで、枯れた花や葉に覆われたように通庭園の小道のように。平原は辺り一面、火に焼きつくされた」 | 」 |
晩年と死
[編集]ナーディル・シャーの侵略はムガル帝国の権威を完全に失墜させ、行政機構と財政を破壊し、中央機構から統制はもはや不可能となった[20]。宮廷の貴族らは落ちぶれ、自分らの失った財産を取り戻すために、領地の農民らに高額の小作料をかけたため、国土の経済水準すら下がるありさまだった[20]。また、彼らは豊かなジャーギールと高位の官職をめぐり、これまで以上に熾烈な争いを繰り広げた[20]。
また、ナーディル・シャーによるこの決定的な一撃は帝国の弱体化をあらゆる勢力にさらけ出し、デリーへの侵入を許すことになった。それはマラーターや外国の交易会社などである[20]。
1740年初頭、マラーター王国の宰相バージー・ラーオが再び軍を率いてデリーへ進軍したが、4月にその道中で死亡したため、帝都デリーは危機を免れた。しかし、その息子バーラージー・バージー・ラーオもまた有能であり、彼はアーグラにまで進み、1741年7月14日に皇帝ムハンマド・シャーにこの領有を認めさせた[23] [24]
1747年6月にナーディル・シャーは暗殺され、そのイランとアフガニスタンにまたがる広大な領土は分裂状態に陥った。10月、アフガニスタンはドゥッラーニー朝を創始したアフマド・シャー・ドゥッラーニーの支配するところとなった。インダス川以西の地域を喪失したムガル帝国の北西方面における守りは薄くなっており、防衛の生命線はすでに失われていた。
1747年12月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーは首都カンダハールを出発し、翌1748年初頭にはインド北西部へと侵入し、ラホールを奪った[25]。ムガル帝国はこの危機に対し、アワド太守サフダル・ジャングの援軍を借りて、同年3月11日にデリー近郊マヌープルでアフガン軍に勝利を収めた(マヌープルの戦い)[22][25]。
その後、アフマド・シャー・ドゥッラーニーのほうは首都カンダハールで反乱が起きたため、アフガニスタンに引き返さざるを得なくなった。しかし、その侵入は1760年まで 断続的に続き、その回数は10回余りに及んた[22]。
1748年4月26日、皇帝ムハンマド・シャーはこうした情勢の中、帝都デリーで死亡した[22][1]。このとき、ムハンマド・シャーの息子のアフマド・シャーは軍とともにアフガン軍を追撃中であり、彼がデリーに戻るまでその死を隠す必要があった[22]。そのため、その遺体は王宮のテーブルクロスに包まれたのち、ヨーロッパ製の大時計の中に入れられ、その到着まで埋めてあったという[22]。
人物・評価
[編集]ムハンマド・シャーは、知性にすぐれた母による養育を受け、行動力と決断力に優れた人物だった。歴史家ハーフィー・ハーンはムハンマド・シャーについて、「彼は美しい若者で、数々の資質を備え、知性も抜きん出ていた」と述べている[3]。
ムハンマド・シャーは、宮廷を牛耳っていたサイイド兄弟の横暴を止めるべく、トルコ系及びイラン系貴族を結集し、その討伐に成功した点では評価できる。
だが、ムハンマド・シャーはサイイド家の討伐後、突如として堕落し、ひたすら快楽に走り続けたたことは、彼の評価を下げてしまっている。また、ナーディル・シャーの侵略時、貴族らをまとめることができず、結果的に軍を敗北に導いたところも同様である。
とはいえ、カルナールでの敗北後、ムハンマド・シャーはこれ以上犠牲を避けるため、自ら敵陣へと交渉にいった点では、正しい判断をしたと評価することもできるだろう。
家族
[編集]父母
[編集]后妃
[編集]正室
[編集]- マリカ・ウッザマーニー・ベーグム(パードシャー・ベーグム)
- サーヒバ・マハル(マリカ・イ・ジャハーン・ベーグム)
- ウドハム・バーイー(クードシヤ・ベーグム)
- サフィーヤ・スルターン・ベーグム
計4人[1]。
側室
[編集]- ループ・バーイー
- ファトフプリー・バーイー
- ラウシャナーバーディー・マハル
計3人。
息子
[編集]- シャフリヤール・シャー
- アフマド・シャー
- タージュ・ムハンマド
計3人[1]。
娘
[編集]- パードシャー・ベーグム
- ジャハーン・アフルーズ・バーヌー・ベーグム
- サーヒバ・ウッザマーニー・ハズラト・ベーグム(アフマド・シャー・ドゥッラーニーの妃)
計3人[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j Delhi 11
- ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.214
- ^ a b c d e f g ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.252
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.251-252
- ^ a b c d e f g h i j ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.253
- ^ The Cambridge History of India - Edward James Rap;son, Sir Wolseley Haig, Sir Richard Burn - Google ブックス
- ^ a b c チャンドラ『近代インドの歴史』、p.14
- ^ a b チャンドラ『近代インドの歴史』、p.9
- ^ Short Essay on British Supremacy in South India
- ^ Hyderabad Events and dates, Important history dates for hyderabad
- ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.172
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.213
- ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.32
- ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.31
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.219
- ^ a b c d ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.312
- ^ a b c d 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.226
- ^ a b c d ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.313
- ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.316
- ^ a b c d e f g h i j k l m チャンドラ『近代インドの歴史』、p.10
- ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.227
- ^ a b c d e f g h i j ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.254
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.216
- ^ Peshwas (Part 3) : Peak of the Peshwas and their debacle at Panipat
- ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.228
参考文献
[編集]- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。
- アンドレ・クロー 著、杉村裕史 訳『ムガル帝国の興亡』法政大学出版局、2001年。
- ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。
- 小谷汪之『世界歴史大系南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。
- 辛島昇『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』山川出版社、2007年。