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|身 = 161cm(1995年<ref>『優駿』1995年5月号、p.106</ref>) |
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|団 = [[日本中央競馬会]] |
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|厩 = 高木良三 |
|厩 = [[高木良三]](1965年-1976年)<br />[[高木嘉夫]](1976年-1983年)<br />フリー(1983年-1996年) |
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|区 = [[平地競走]]・[[障害競走]] |
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|重 = 85勝 |
|重 = 85勝 |
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|G1 = 10勝(八大競走・GI競走) |
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|通 = 8476戦1024勝 |
|通 = 8476戦1024勝 |
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|調初 = 1996年(1997年開業) |
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|調重 = 21勝 |
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|調G1 = 5勝 |
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|調通 = |
|調通 = |
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|所 = [[美浦トレーニングセンター|美浦T.C.]] |
|所 = [[美浦トレーニングセンター|美浦T.C.]](1996年-現在) |
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'''小島 太'''(こじま ふとし、[[1947年]][[4月 |
'''小島 太'''(こじま ふとし、[[1947年]][[4月11日]] - )は、[[日本中央競馬会]](JRA)に所属する[[調教師]]、元騎手である。[[美浦トレーニングセンター]]所属。 |
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1966年に騎手デビュー。若手時代から「サクラ」を[[冠名]]とする[[さくらコマース|全演植]]所有馬の[[主戦騎手]]を務め、[[サクラショウリ]]、[[サクラチヨノオー]]による[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]制覇をはじめ、1996年の引退までにGI級競走11勝を含む重賞84勝を挙げた。通算8476戦1024勝。大競走における勝負強さや独特のキャラクターから華のある騎手と見なされたが、他方では平凡なミスにより数々の勝利を逃した騎手ともされ、毀誉褒貶の激しい存在であった。ファンからは「フトシ」の愛称で親しまれた。 |
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次男・[[小島良太]]はJRA[[調教助手]]、三男・[[小島勝三]]もJRA調教助手、四男・[[小島太一]]はJRA騎手。 |
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1996年3月より調教師に転身。主な管理馬にはGI競走2勝の[[イーグルカフェ]]や同3勝の[[マンハッタンカフェ]]などがいる。 |
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[[調教助手]]の[[小島良太]]は次男、小島勝三は三男<ref>木村(1997)p.149</ref>、騎手の[[小島太一]]は四男<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20060228160156/http://www.keibado.ne.jp/keibabook/050228/plaza_t.html#05 |title=競馬ブックコーナー「平成17年度調教師、騎手試験合格者」 |author= |publisher=[[競馬ブック]] |accessdate=2015年3月20日 |date=2005-2-28}}</ref>。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== 生い立ち === |
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1947年、馬商と[[装蹄師]]を兼ねる一家の次男として生まれる(JRAの発表では、誕生日が4月11日となっているが、騎手養成所に入る際の手続きにミスがあったもので、実際は21日)。家業の関係から幼少期より馬に親しんで育ち、7歳の時に[[ゴールデンウエーブ]]が優勝した[[東京優駿]] (日本ダービー)を見て騎手を志す<ref>木村 48頁。</ref>。中学校卒業後に[[上京]]し、日本中央競馬会の[[馬事公苑]]騎手養成長期課程に第14期生として入所。同期には [[田島良保]]、[[安田富男]]、[[目野哲也]]、[[平井雄二]]、[[池上昌弘]](安田は2年、平井は3年、池上は1年遅れでデビュー)らがいる。 |
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1947年、[[北海道]][[斜里郡]][[小清水町]]に馬商と[[装蹄師]]を兼ねる小島竹次郎、母・ツネの間に次男として生まれる<ref name="kimura">木村(1998)pp.46-48</ref>。家業の関係から幼少のころより馬に親しんで育ち、[[草競馬]]にも出場していた<ref name="kojima">小島(1993)pp.54-56</ref>。小学生になると夏休みには手伝いとして[[ホッカイドウ競馬|道営競馬]]に出入りし、高学年に入ってからは武芳彦([[武邦彦]]の父)に許可を得て[[中央競馬]]の競馬場にも足を運んだ<ref name="kojima" />。同時期に10戦無敗の名馬[[トキノミノル]]の生涯をモデルとした映画『[[幻の馬]]』に強い感銘を受け<ref name="kojima" />、またNHKが放送した日本ダービーの様子([[ゴールデンウエーブ]]優勝)などにも触れ<ref name="kimura" />、騎手への憧れを募らせた。 |
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少年時代は騎手になることについて強迫的な心情を抱いており、成長期に背が伸び始めると、それ以上伸びないよう[[箪笥]]の引き出しで眠った、足が大きい子供は大きく育つという話を聞き、包帯で足を巻き付けて眠った、という話も伝えられている<ref name="yushun0709">『優駿』2007年9月号、pp.137-140</ref>。騎手養成課程を受験するときも、「もし落第したら[[青函連絡船]]から飛び降りて死ぬ」という覚悟であったという<ref name="yushun0709" />。また中学生の時、小清水の町営牧場でたまたま出くわした競馬関係者という高校生に対し「東京で騎手になりたいんです」と打ち明けたところ、「無理だね。君は背が大きすぎるようだ」と突き放されたという話がある。この高校生は、後に[[三冠馬]][[ミスターシービー]]などを管理する[[松山康久]]で、東京から[[修学旅行]]で北海道を訪れていた<ref name="terayama">寺山(1992)p.187</ref>。実際に小島は騎手課程受験時点で身長163cm、体重50kgと、騎手を目指すにはかなり大柄だった<ref name="terayama" />。 |
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1962年秋に中央競馬の騎手養成長期課程を受験し合格<ref name="kojima2">小島(1993)pp.57-58</ref>。翌1963年春、中学校卒業後に騎手課程第14期生として入所した<ref name="kimura" />。同期生には[[田島良保]]、[[安田富男]]、[[目野哲也]]、[[平井雄二]]、[[池上昌弘]]などがいる。なかでも田島良保とは「血を分けた兄弟みたいなもの」と語る親友となり、2年次の[[厩舎]]実習は共に[[東京競馬場]]の[[高木良三]][[厩舎]]で行った<ref>小島(1993)pp.63-64</ref>。高木厩舎からは、小島・田島が騎手課程に合格した直後から入門を誘う手紙が送られていた<ref name="kojima2" />。父・竹次郎は当時最大の勢力であった[[尾形藤吉]]厩舎への入門を望んでいたが、小島は「一流騎手が多く所属する尾形のもとでは騎乗機会に恵まれない。自分を欲しいと言ってくれる厩舎へ行く方がいい」と主張し、騎手課程修了後にそのまま高木厩舎所属となった<ref name="kojima2" />。これに伴い、当時高木厩舎に1頭だけ馬を預託していたさくらコマースの全演植と出会う<ref name="kojima5">小島(1993)pp.77-78</ref>。竹次郎が厩舎へ挨拶に訪れた際、同座していた数人の馬主のうち竹次郎はに小島の後援を頼み、全もこれを引き受けた<ref>木村(1998)p.48</ref>。 |
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=== 騎手時代 === |
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1966年3月に騎手としてデビューし、7月に初勝利を挙げた<ref name="yushun0709" />。翌年に5月にはグローリーターフで[[東京障害特別|東京障害特別(春)]]を制し重賞初勝利を挙げ、当年[[重賞]]3勝を含む37勝と躍進<ref name="yushun0709" />。以後名騎手が揃う関東にあって頭角を現していき、1972年には48勝を挙げ、関東の[[リーディングジョッキー]](年間最多勝騎手)となった(全国3位)<ref name="yushun0709" />。なお、前年末から流行した[[馬インフルエンザ]]の影響で当年は1、2月の東京・中山開催が中止となっており、勝利数は比較的少ないものとなった<ref name="yushun0709" />。 |
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翌1973年には[[サクライワイ]]で[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]を制し、全に初の重賞をもたらした。1978年には[[久保田彦之]]厩舎の[[サクラショウリ]]で日本ダービーに優勝、[[八大競走]]初制覇を幼少期に憧れた競走で果たした。翌1979年には[[ビンゴガルー]](久保田厩舎)による皐月賞優勝を含む[[重賞]]8勝を挙げ、以後も毎年の重賞勝利を重ねた。 |
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こうした活躍の他方、1976年頃から公私に大きな変化が訪れた。同年に師匠の高木が病気で引退、小島は新規開業した高木の長男・[[高木嘉夫|嘉夫]]の厩舎に移籍したが、同時期に調教師・[[境勝太郎]]の長女と結婚し、全の預託馬の比重は境厩舎へ大きく傾いていった<ref name="kimura97">木村(1997)pp.313-314</ref>。これによって、長らく競馬界の名物ともされた「馬主・さくらコマース(全演植)、調教師・境勝太郎、騎手・小島太」のトライアングルが形成された<ref name="kimura97" />。1978年には[[ビンゴガルー]]で[[皐月賞]]に優勝したが、これは小島が「サクラ」以外で勝った唯一の八大競走である。 |
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1983年、小島は方々に預託されていたさくらコマース所有馬への騎乗を円滑にするため、高木嘉夫の厩舎を離れフリーとなる。これと同時に、全と500万円で正式な騎乗契約を交わした<ref>小島(1993)p.82</ref>。当時、騎手が特定の馬主と正式契約を結んだのは画期的な出来事であった<ref name="yushun0709" />。1986年に[[サクラユタカオー]]で[[天皇賞#天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]に優勝し、全の所有馬ではサクラショウリ以来の大競走制覇を遂げる。しかし間もなく小島と全は契約を解消。完全にフリーとなった小島は、[[塩崎利雄]]の紹介により<ref>鶴木(1997)p.286</ref>、当時[[バブル景気]]に乗って高額馬を続々と購買していた[[早坂太吉]]との関係を深めていった<ref name="kojima4">小島(1993)pp.84-89</ref>。これをきっかけとして全との関係に齟齬が生じ始め、1987年春頃より一時的に絶縁状態となった<ref name="kojima4" />。高木良三厩舎での弟々子である<ref>小島(2006)p.72</ref>松本重春の仲介によって数ヶ月後には和解したが<ref name="kojima4" />、関係途絶の間に[[サクラスターオー]]への騎乗機会を失っている。小島は同馬のデビューから3戦に騎乗していたが、4戦目の弥生賞を前にして全は調教師の[[平井雄二]]へ「小島を乗せるな」という指示を出し<ref>境(1998)p.68</ref>、以後同馬には[[東信二]]が騎乗して皐月賞、[[菊花賞]]のクラシック二冠を制した。 |
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全との復縁後は再び「サクラ」の馬で活躍をはじめ、1989年には前年に[[JRA賞最優秀2歳牡馬|最優秀3歳牡馬]]に選出されていた[[サクラチヨノオー]]で自身二度目の日本ダービー優勝を果たす。1993年12月に全が死去すると、その9日後にサクラユタカオーの仔・[[サクラバクシンオー]]で[[スプリンターズステークス]]を制覇。勝利騎手インタビューで小島は「寝ても覚めてもオヤジのことばかり考えていた。絶対に勝たなくちゃいけない、絶対に負けられないと思っていた。これまでの騎手人生で最高の仕事ができた。オヤジにありがとうと言いたい」と語った<ref>『優駿』1994年2月号、p.140</ref>。以後全の所有馬は息子の全尚烈に引き継がれる。翌1994年12月4日には[[サクラキャンドル]]による勝利で史上13人目の通算1000勝を達成し<ref>『優駿』1995年2月号、p.135</ref>、18日にはサクラバクシンオーでスプリンターズステークスを連覇した。 |
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翌1995年秋に翌年2月一杯での引退を発表。その秋のGI戦線では[[サクラチトセオー]]、サクラキャンドル兄妹で天皇賞(秋)と[[エリザベス女王杯]]に優勝し、引退を惜しむ声が数多く上がった<ref>『優駿』1996年4月号、p.5</ref>。翌1996年2月25日をもって騎手を引退。最後の騎乗は[[中山牝馬ステークス]]でサクラキャンドルに騎乗しての9着であった。引退式ではファンの間から起きた「フトシ」コールで送られた<ref>『優駿』1996年3月号、p.62</ref>。JRA通算8476戦1024勝、うち八大競走・GI競走10勝を含む重賞84勝。重賞勝利の半分は「サクラ」によるものであった<ref name="yushun0709" />。 |
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=== 調教師時代 === |
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1997年3月、境勝太郎の定年引退に伴い、管理を引き継ぐ形で[[美浦トレーニングセンター]]に厩舎を開業した。同年秋には[[サクラローレル]]でフランス遠征に臨んだが、目標とした[[凱旋門賞]]の前哨戦・[[フォワ賞]]の段階で故障、引退という形となった。 |
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調教師としては「カフェ」を冠名とする[[西川清]]とその家族の所有馬を数多く管理している。小島と西川の出会いは1995年の天皇賞(秋)に優勝した夜、寿司店でたまたま席が隣り合い競馬談義をしたことにはじまる<ref name="yushun0202">『優駿』2002年2月号、pp.59-60</ref>。2000年2月に[[イーグルカフェ]]が[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]]を制し、調教師としての重賞初勝利を挙げると、5月には同馬が[[NHKマイルカップ]]を制し、GI競走初勝利も果たした。2001年から2002年にかけては[[マンハッタンカフェ]]がGI競走3勝を挙げた。なお、西川(死後は息子の西川光一)使用の勝負服柄「黄、黒襷、黒袖」は、「黄色と黒を使って、空いている図案で」という注文に沿って小島の妻が考えたものである<ref name="yushun0202" />。 |
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騎手課程修了後に[[東京競馬場]]の[[高木良三]][[厩舎]]に入り、1966年3月に正騎手としてデビュー、7月に初勝利を挙げた。この年は11勝に留まったが、翌年には[[重賞]]3勝を含む37勝と躍進。その後、さくらコマースの全演植に才能を見出され、その所有馬の主戦騎手に抜擢された。 1972年に48勝を挙げ、初の関東[[リーディングジョッキー]]を獲得<ref>全国リーディングは関西所属の[[福永洋一]]で、105勝と圧倒的な勝利数だった。 |
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イーグルカフェ、マンハッタンカフェ以降はGI競走制覇から遠ざかっているが、2002年、2004年、2006年には関東の[[優秀調教師賞]]を受賞している<ref>[http://www.jra.go.jp/ 日本中央競馬会公式サイト 調教師名鑑「小島太」](直接リンク不可) </ref>。 |
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一方、関東では年頭に発生した[[馬インフルエンザ]]の影響で1、2月の東京開催が中止、また、[[加賀武見]]らベテラン騎手が絶頂期で勝利が分散したこともあり、この時期の最多勝では最も少ない勝利数である。</ref>。翌年には[[サクライワイ]]で[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]を制し、演植に初の重賞をもたらした。以降も安定して年間40勝程度を挙げる中堅上位騎手として定着。同期の池上がこの頃より重賞を勝てなくなり、騎乗数も徐々に減ったのとは対照的な活躍振りであった。1978年には[[サクラショウリ]]で東京優駿に優勝、[[八大競走]]初制覇を幼少期の憧れであったダービーで果たした。1983年には[[フリーランス|フリー]]に転向し、全演植と正式に騎乗契約を結ぶ。当時、騎手が特定の馬主と正式契約することは珍しいことであった<ref>『優駿』2007 年9月号 140頁。</ref>。以降も[[サクラユタカオー]]、[[サクラチヨノオー]]など「サクラ」の馬を中心に活躍を続けた。1988年にはサクラチヨノオーで自身2度目の東京優駿優勝を果たした。 |
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== 騎手としての特徴 == |
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通算1000勝を越えているものの、年度別の勝利数でみると自己最多勝は58勝、30代後半以降の勝利数は概ね30勝前後と、「安定した中堅騎手」という実績ではあった<ref name="yushun0709" />。しかし大舞台での勝負強さと数々の印象的な騎乗もあって「華のある男」と評され、表面的な実績以上の強い存在感を放った<ref name="yushun0709" />。[[寺山修司]]はその印象について「[[パリ]]の[[ジゴロ]]か伯爵夫人のつばめか、とでもいった身のこなしで、背も高くなかなか粋である。美しい馬に乗って華麗なレースをする、というのが小島太の特色であり、その点でも目立つ騎手であった」と評した<ref>寺山(1992)p.194</ref>。また境勝太郎は「勝負強いというのか、重賞や大レースでそつなく乗って、いい結果を出すところが[[大向こう]]受けした理由だろう」としている<ref name="sakai">境(1998)pp.66-67</ref>。 |
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他方、人気馬に騎乗してあっけなく敗れることも度々あった。江面弘也は小島を評して「負けっぷりがいい、とでも言うのだろうか。小島太という騎手は不思議と負けたときの印象が強い騎手だった。それゆえに罵声を浴びることも多く、おそらく歴代の名騎手と呼ばれる人たちのなかでは、最も罵声を浴びた騎手ではないか」と述べている<ref name="yushun0709" />。また小島自身、「負ける時には、負けっぷりよく負けた方がいいと思うんです。3着を狙うレースをするより、勝つか、ドンジリに負けるかというレース。やっぱり大事なのは勝つっていうことですからね」と述べている<ref name="yushun9405">『優駿』1994年5月号、pp.48-51</ref>。 |
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1993年に全が死去すると、その9日後に[[サクラバクシンオー]]で[[スプリンターズステークス]]に優勝した。翌1994年12月には、[[サクラキャンドル]]で中央競馬史上12人目の通算1000勝を達成。デビューから28年8ヶ月での達成は、最も遅い記録である。 |
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[[市丸博司]]は、「まったくの推論に過ぎないが、小島太騎手には、熱狂的なファンと完全な[[アンチ]]ファン、その2種類しかいないような気がする。中間派というのはあまり聞いたことがない<ref name="ichimaru">『名馬列伝サクラバクシンオー』p.104</ref>」と述べ、そうしたギャップが生じる理由について「素人目にも分かるぐらいの凡ミス」による敗戦と、その一方にあった「ほとんど天才的と言えるぐらい」の勝利によって、「ファンはどんどん熱狂的になり、アンチファンはますますキライになるのだろう」と論じている<ref name="ichimaru" />。こうした二極化については小島自身も「ファンからしたら、日本一下手だと思う奴が半分で……。<small>''(中略)''</small>まあ、上手いと言ってくれる奴も半分いるかも知れないけど、その位の評価だと思うよ」と語っている<ref>田原(1996)p.215</ref>。 |
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翌1995年秋に騎手引退を発表、その後[[サクラチトセオー]]、サクラキャンドル兄妹でGI競走2勝を挙げ、1996年2月25日を以て騎手を引退した。通算1024勝は歴代14位記録(当時)。主戦騎手を務めていた「サクラ」の騎乗馬は、[[横山典弘]]、[[蛯名正義]]等に引き継がれた。 |
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境勝太郎は小島の凡ミスの例として、[[サクラホクトオー]]が最終コーナーで外埒沿いまで膨らんで5着に敗れた菊花賞や、コーナーを曲がり切れずに競走を中止した[[サクラエイコウオー]]の新馬戦などを挙げ、「太のおかげで何億円損したか分からない」、「調教師席の僕が何度倒れそうになったことか」、「ファンにとっては話題の多い、見ていて楽しいジョッキーだったかもしれないが、馬を託すこちらとしてはたまったものじゃない」と、その騎乗への苦言を残している<ref name="sakai" />。一方で好騎乗の代表例として挙げるのが、サクラユタカオーで制した天皇賞(秋)と、サクラチヨノオーで制した日本ダービーである。小島に対して辛辣な言葉が多い境をして、これらの競走については「彼の完璧な騎乗で勝たせてもらったと感謝している。どちらも馬の実力以上のレースだった」と賛辞を送っている<ref name="sakai" />。また境は小島の美点に騎乗フォームを挙げ、「いまだにあれだけの格好で乗れる騎手は、そうはいない。馬に柔らかく当たって、負担を掛けずに軽く乗っている姿は見ためにもきれいだった。『太のあの姿勢だけは日本一だぞ。せっかくそばで見ているのだから、ああいう風に乗れるように勉強しろよ』僕はいつも弟子たちにそう言ったものだ」と述懐している<ref name="sakai" />。 |
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騎手引退後は調教師に転向。1997年、「サクラ」の主戦調教師であり、義父でもあった[[境勝太郎]]の定年引退に伴い、管理を引き継ぐ形で[[美浦トレーニングセンター]]に小島太厩舎を開業した。調教師としては演植から代替わりした全尚烈の所有馬に加え、「カフェ」を冠名とする[[西川清]]の所有馬を数々管理しており、 2000年の[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]]<ref>騎手時代から共同通信杯に強く、前身の東京4歳ステークスから数えて騎手時代に4勝、調教師時代に2勝の計6勝(2008年終了時点)を挙げており、最多勝記録を保持している。</ref>、[[NHKマイルカップ]] をそれぞれ[[イーグルカフェ]]で制し、厩舎の重賞・GI競走初勝利を挙げている。その後もGI競走3勝を挙げた[[マンハッタンカフェ]]などを管理し、西川が使用する勝負服色(黄色と黒が基調)を厩舎の[[ジャンパー (衣服)|ジャンパー]]に採用するなど、深い関係を続けた。 |
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== 人物 |
== 人物 == |
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騎手時代の小島は公私に渡り「品行方正」という評価は皆無であった。境勝太郎は「呑んべえ野郎でどうしようもない。レースでも私生活でも、あんなにハラハラさせる奴はいない<ref>『Number Plus』p.118</ref>」と語り、小島も自らを「元祖・不良」と認じている<ref name="tabara">田原(1996)pp.162-164</ref>。[[黒鉄ヒロシ]]は「馬に乗ってても[[侠客]]の匂いがする」と評し<ref name="yushun9405" />、また[[大川慶次郎]]は「小島太の生き様は誰もが真似して成功する生き様じゃないんですよ」と語り<ref>『競馬名馬&名勝負読本』p.26</ref>、田原成貴は自身の騎手生活を省みて「太さんを見て、こんな生き方をしちゃいけないな、いけないなと思いながら、おんなじ様な生き方をしちゃったのが……失敗したよな」と述べた<ref name="tabara" />。 |
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=== 騎手時代のエピソード === |
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;騎手としての特徴 |
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当時最多勝タイ記録であった東京優駿2勝をはじめ、通算1024勝のうち84勝を重賞で挙げており、ヨーロッパスタイルを取り入れた派手な騎乗フォームもあって「華のある男」と称された。他方、人気馬に騎乗してあっけなく敗れることも度々あり、「猫とフトシは呼んでも来ない」等と揶揄され<ref>競馬歴史新聞編纂委員会編『競馬歴史新聞』(日本文芸社、1999年)231頁。</ref>、ファンからの好悪がはっきり分かれる騎手であった<ref>小島自身も「ファンからしたら、日本一下手だと思う奴が半分で、まあ、上手いと言ってくれる奴も半分いるかも知れないけど、その位の評価だと思うよ」と語っている。(田原 215頁)</ref>。[[東京優駿]]では[[1981年]]に[[サンエイソロン]]、[[1982年]]に[[アズマハンター]]と2年連続で[[単枠指定]]の圧倒的一番人気の馬に騎乗するも、共にスタートで出遅れ敗れている。騎手としては[[野平祐二]]の影響を強く受けており、ヨーロッパスタイルを取り入れた事も、海外経験豊富であった野平に感化されてのものだった<ref>『優駿』2007年9月号 139頁。</ref>。1983年からは毎年8月に[[フランス]]への遠征を行っており、同地では1990年に[[ドーヴィル競馬場]]で勝利を挙げている。 |
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調教師になって以後は派手な遊びは鳴りを潜めている。本人曰く、騎手時代は「現実の自分とはまったく別の"騎手・小島太"というフィクションが独り歩きしていた」といい、厩舎開業以後は「裏方に徹することにした」と語っている。厩舎を自ら掃除するのが日課で「厩舎を訪ねてきた新米記者が、掃除中の小島太に対し『先生いますか?』と聞いてきた」「それまでプライベートでは無駄金の使い放題だったのに、厩舎経営になると水や電気は節約しろだの口を酸っぱくしていう」など、かつてのイメージとは180度異なる経営者としての顔を見せている<ref name=saikyo201005>『[[競馬最強の法則]]』2010年4月号、p.76</ref>。 |
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また、自らを「気持ちで乗る騎手」としており、特にサクラチヨノオーに騎乗した東京優駿では、[[メジロアルダン]]に一度交わされながら、残り50メートルでの差し返しを見せ優勝した。この勝利に関しては、騎手に厳しい境勝太郎が「太だから勝てた」と号泣し<ref>『Number PLUS』119頁。</ref>、小島と親しい[[田原成貴]]も「太さんの魂が入った」と評する<ref>田原 205頁。</ref>など、小島ならではの名騎乗とされている。 |
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;全演植との関係 |
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前述の通り、サクラの初代オーナー・全演植とは関係が深く、その結び付きは馬主と騎手という関係以上のものがあった。演植は小島を「太」と呼んで息子のように溺愛し、小島もまた演植を「親父」と呼んでいた。演植は[[在日朝鮮人]]であり、「自分の国籍のせいでもし太に迷惑が掛かることがあるなら、[[帰化]]しようかと考えている」と小島に漏らしたこともあったという<ref>この時小島は「感謝する事こそあれ、迷惑など毛ほども受けていない。そんな事はしなくていい」と返答している。(木村 54頁)</ref>。1993年に急性[[肺炎]]で入院した際にも、最期まで小島を気に掛けており、その死去から9日後のスプリンターズステークスで優勝した際、小島は「絶対に勝たなくてはいけない、命を賭けても負けられないと思っていた。せめてこのレースまで親父に見ていて欲しかった」と語った<ref>小島は1987年に実父が死去した際にも、6日後にサクラチヨノオーで朝日杯3歳ステークスに優勝している。</ref>。 |
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== 関連する人物 == |
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ただし、1987年頃は一時的にその関係に齟齬が生じており<ref>木村 247頁。</ref>、この時期だけはサクラの馬への騎乗はなかった<ref>この時期にはクラシック二冠を制した[[サクラスターオー]]がいたが、同馬は旧4歳2戦目の弥生賞から[[東信二]]が主戦騎手を務めた。弥生賞出走は小島には知らせずに行った。</ref>。 |
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;全演植 |
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;人柄 |
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全演植とは前述の通り騎手デビュー前から親交があり、その関係の深さは「親子以上」ともいわれた<ref name="kojima5" />。全は小島を「太」と呼んで実子のように可愛がり<ref name="kimura97" />、小島もまた全をオヤジと呼んだ<ref>小島(1993)p.9</ref>。死の床にあっても小島の成績を気に掛けていたといわれる<ref name="kimura4">木村(1998)p.54</ref>。また全は[[在日朝鮮人]]であったが、あるとき「朝鮮人であることでJRAとの間で何かあったとき、お前に迷惑を掛けるより帰化しようかと思っている」と漏らしたこともあったという<ref name="kimura4" />。小島は全について「僕の裏側まで分かってくれる理解者でした。そして全さんも親や奥さんや兄弟に言えないことを僕に打ち明けてくれたところがあって、五分五分に理解し、五分五分に遊んでつき合えた最大の友であり親父でした」と述べている<ref name="kimura4" />。 |
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騎手時代の小島は公私に渡り「品行方正」という評価は皆無であった。境勝太郎は「呑んべえ野郎でどうしようもない。レースでも私生活でも、あんなにハラハラさせる奴はいない<ref> 『Number Plus』118頁。</ref>」と語り、小島も自らを「元祖・不良」と認じている<ref>田原 162頁。</ref>。一方で、同期生の平井、安田、田島、池上や、田島の弟弟子である田原成貴、後輩の横山典弘など、その砕けた人柄を慕う者もおり、関東では「小島ライン」と呼ばれる騎手の繋がりができていたとされる。同時に、[[岡部幸雄]]を筆頭として構成された「岡部ライン」の存在も囁かれ、両者は互いに反目しているとも[[噂]]された。しかし小島はそうした噂を否定しており、田原との対談において「岡部だって来る者拒まずで色々教えたりしてるんだろうけど、マスコミが必要以上に『軍団』や『グループ』を強調して馴れ合いみたいに受け止められるのは、岡部の本意じゃないはず」と語っている<ref>田原 166頁。</ref>。なお、小島が調教師として重賞・GIを初制覇した際は岡部が鞍上を務めており、晩年の岡部は毎日小島厩舎の調教に参加していたという。<ref>小島良太公式ブログ 2011.5.21</ref>。岡部より1歳年上であるが、騎手時代は岡部に「小島君」と呼ばれていた。 |
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;野平祐二 |
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酒を通じての交流は競馬界以外にも幅広く、中でも大相撲の元横綱・[[北勝海信芳|北勝海]](現在の[[八角 (相撲)|八角]]親方)とは飲み友達という<ref name=saikyo201005 />。 |
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小島が騎手として強い影響を受けたのは[[野平祐二]]であった。「ごつい競馬をしていた時代に、ひとりだけかっこいい競馬をしていた」野平に憧れ、「野平祐二の真似をしようと思ってこの世界に入ってきた」と述べている<ref name="yushun9604">『優駿』1996年4月号、p.46</ref>、ヨーロッパ志向が強かった野平の影響を受けて自身もフランスで騎乗し<ref name="yushun9604" />、また競馬の奥深さ、面白さを積極的に発信しようとした野平に倣い、各種媒体にも積極的に登場した<ref>小島(1993)pp.70-72</ref>。 |
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;少年期 |
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少年時代は騎手になることに対して強迫的な思いを抱いており、背が伸びないように[[箪笥]]の引き出しで眠ったその際に「足が大きいと背が伸びる」という話から足を包帯で小さく巻き付けていた<ref>『優駿』2007年9月号 137頁。</ref>、「大きくなったね」という親戚の言葉に逆上し、包丁を持ち出して家から追い出した等数々のエピソードが伝えられている。騎手養成課程を受験した時も「もし落第したら[[青函連絡船]]から飛び降りて死ぬ」という覚悟であったという<ref>『優駿』 2007年 9月号 138頁。</ref>。また中学生の時、たまたま出くわした競馬関係者という高校生に対し「東京で騎手になりたいんです」と打ち明けた所「無理だね。君は背が大きすぎる」と突き放されたという話がある。この高校生は、後に[[三冠馬]][[ミスターシービー]]等を管理する[[松山康久]]で、東京から[[修学旅行]]で北海道を訪れていた<ref>寺山 187頁。</ref>。実際に小島は騎手課程受験時点で身長163cm、体重50kgと、騎手を目指すにはかなり大柄だった。 |
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;高木良三 |
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=== 調教師時代のエピソード === |
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師である高木良三について小島は「競馬界に入ったばかりの若い時期に、高木良三という素晴らしいホースマンと出会えたことは、幸運としか言いようがない」「私にとっての調教師の理想像」と高く評価し、その人柄や調教法、馬との接し方を間近でみた経験を、同じ調教師となった立場において「いまでは本当にかけがえのないものとなっている」と述べている<ref>小島(2006)pp.20-21</ref>。なお、息子・良太の「良」の字は親友である田島良保と高木良三の双方に掛けたものである。 |
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境勝太郎から管理を引き継ぐ形で厩舎を開業したが、直後に境の娘である前夫人と離婚。この際に意見した横山典弘と、その後一時疎遠になった。 |
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;大川慶次郎 |
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また、境から引き継いだ[[サクラローレル]]の[[引退#競馬|引退式]]の際、調教師台に自ら上った。しかし高い素質を持ちながら[[故障]]を繰り返したサクラローレルをGI馬に仕上げたのは境の手腕によるところが大きく、さらにサクラローレルがGIを2勝した際の管理調教師も境であったため、この行為は物議を醸した。特に[[大川慶次郎]]は著書『大川慶次郎が選ぶ「個性派」名馬18頭』([[ザ・マサダ]])の中で、「小島太という人間に疑いを持ちました」と痛烈に批判した。 |
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競馬評論家で「競馬の神様」とも呼ばれた[[大川慶次郎]]と小島は、一般媒体において互いに名指しで批判的言動を行っていた。小島は著書において、大川が解説で「この馬だけはいりません」とコメントした馬(サクラシンボリ)を勝たせた競走を「会心のレース」として取り上げ、「八方美人的な予想よりは、大川慶次郎さんのような予想の方が潔いのだろうけど、そういう潔い方というのは、どうも、こっちがあまり大したことはないと思ってる馬を、過大評価してくれたりするね」と皮肉っている<ref>小島(1993)p.119</ref>。一方の大川は、サクラローレルの引退式において、故障がちなローレルをGI競走を2勝するまでに育てた境勝太郎を差し置いて、小島が自ら表彰台に上がったことを問題視し「小島太という人間に疑いを持ちました」と述べた<ref>大川(1999)</ref>。なお、次男の良太も、大川の死後10年以上が経った2011年に、自身のブログにおいて大川の生前の発言を「知識不足」と批判している<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20130909072223/http://ameblo.jp/ryon518/entry-10988945997.html |title=ALL TIME SUPER GUEST 発売日! |author=小島良太 |publisher=小島良太公式ブログ「馬なりぃ」 |accessdate=2015年3月20日 |date=2011-8-11}}</ref>。 |
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== 逸話 == |
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騎手時代とは打って変わって、調教師になって以後は派手な遊びは鳴りを潜めている。本人曰く、騎手時代は「現実の自分とはまったく別の"騎手・小島太"というフィクションが独り歩きしていた」といい、厩舎開業以後は「裏方に徹することにした」と語っている。今は厩舎を自ら掃除するのが日課で「厩舎を訪ねてきた新米記者が、掃除中の小島太に対し『先生いますか?』と聞いてきた」「それまでプライベートでは無駄金の使い放題だったのに、厩舎経営になると水や電気は節約しろだの口を酸っぱくしていう」など、かつてのイメージとは180度異なる経営者としての顔を見せている<ref name=saikyo201005>『[[競馬最強の法則]]』([[KKベストセラーズ]])2010年4月号・p.76</ref>。 |
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=== 好角家 === |
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好角家(相撲ファン)として知られ、NHKの大相撲中継に出演したり、相撲の話題についてマスメディアから論評を求められることもある。相撲関係者とも親交が深く、なかでも第8代[[八角 (相撲)|八角]]親方(第61代横綱・[[北勝海信芳|北勝海]])とは飲み友達という<ref name=saikyo201005 />。なお騎乗馬のサクラホクトオーは北勝海から、サクラチヨノオーは第58代横綱・[[千代の富士貢|千代の富士]](第13代[[九重 (相撲)|九重]]親方)から名前をもらっている<ref>小島(1993)p.109</ref>。 |
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== 成績 == |
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=== 騎手成績 === |
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;通算成績(中央競馬のみ) |
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{| class="wikitable" |
{| class="wikitable" |
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!通算成績!!1着!!2着!!3着!!4着以下!!騎乗回数!!勝率!![[連対率]] |
!通算成績!!1着!!2着!!3着!!4着以下!!騎乗回数!!勝率!![[連対率]] |
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113行目: | 143行目: | ||
|GI級初勝利||1978年5月28日||東京優駿||サクラショウリ||20頭||2||1着 |
|GI級初勝利||1978年5月28日||東京優駿||サクラショウリ||20頭||2||1着 |
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|} |
|} |
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※中央競馬成績のみ。 |
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*関東リーディングジョッキー1回(1972年・48勝) |
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*年間最多59勝(1981年) |
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*重賞競走85勝(うちGI級競走11勝、[[ダートグレード競走|交流重賞]]1勝) |
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;年度別成績(中央競馬のみ) |
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=== 主な騎乗馬 === |
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※勝利数が斜体になっている年は関東リーディングを獲得したことを意味する。太字の競走名は[[グレード制]]が導入された1984年以降はGI競走を、1983年以前は八大競走を指す。 |
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※括弧内は小島騎乗による優勝重賞競走。太字はGI級競走([[グレード制]]導入以前の[[安田記念]]、[[スプリンターズステークス]]除く<ref>現行はGI競走であるが、前者はグレード制導入以前は[[ハンデキャップ競走]]、後者はGIII競走であったため。</ref>)。 |
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*タマクイン([[関屋記念]]、[[毎日王冠]]) |
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*ハードウェイ([[フローラステークス|4歳牝馬特別・東]]、[[クイーンステークス]]) |
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*トキノシンオー(毎日王冠、[[新潟記念]]) |
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*[[トーヨーアサヒ]]([[ダイヤモンドステークス]]、[[アルゼンチン共和国杯|アルゼンチンジョッキークラブカップ]]) |
|||
*[[サクライワイ]]([[スプリンターズステークス]]2回、[[安田記念]]、函館3歳ステークス) |
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*[[ヒシスピード]]([[札幌2歳ステークス|北海道3歳ステークス]]、[[京成杯]]、[[共同通信杯|東京4歳ステークス]]) |
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*[[サクラショウリ]](1978年'''東京優駿'''、'''[[宝塚記念]]'''、[[セントライト記念]]、[[アメリカジョッキークラブカップ]]、[[目黒記念]]、東京4歳ステークス) |
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*[[スリージャイアンツ]](ダイヤモンドステークス) |
|||
*[[ビンゴガルー]]('''[[皐月賞]]'''、[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯オータムハンデキャップ]]) |
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*[[サクラシンゲキ]](京王杯オータムハンデキャップ2回) |
|||
*[[サンエイソロン]]([[スプリングステークス]]、[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]、[[京都新聞杯]]、[[大阪杯]]) |
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*ピュアーシンボリ([[ステイヤーズステークス]]2回) |
|||
*アズマスカレー([[シュンエイ記念]]、[[セイユウ記念]]) |
|||
*ウルフケイアイ(セイユウ記念2回) |
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*[[サクラサニーオー]](アルゼンチン共和国杯、京成杯) |
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*[[サクラユタカオー]]('''[[天皇賞|天皇賞・秋]]'''、大阪杯、毎日王冠、共同通信杯4歳ステークス) |
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*[[サクラチヨノオー]]('''[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]'''、'''東京優駿'''、[[弥生賞]]) |
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*[[サクラホクトオー]]('''朝日杯3歳ステークス'''、セントライト記念、アメリカジョッキークラブカップ) |
|||
*ビッグファイト([[京王杯2歳ステークス|京成杯3歳ステークス]]、[[新潟2歳ステークス|新潟3歳ステークス]]) |
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*[[サクラバクシンオー]]('''スプリンターズステークス'''2回、[[スワンステークス]]、[[ダービー卿チャレンジトロフィー]]、[[クリスタルカップ]]) |
|||
*[[サクラチトセオー]]( '''天皇賞・秋'''、[[中山記念]]、アメリカジョッキークラブカップ、京王杯オータムハンデキャップ) |
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*[[サクラローレル]]([[中山金杯|金杯・東]]) |
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*[[サクラキャンドル]]('''[[エリザベス女王杯]]'''、クイーンステークス) |
|||
*[[サクラスピードオー]](京成杯、共同通信杯4歳ステークス) |
|||
{|class="wikitable" |
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== 調教師成績 == |
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|- |
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!年!!勝利数!!騎乗数!!勝率!!主な騎乗馬(優勝競走) |
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|- |
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|1966年||11勝||125回||.088|| |
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|- |
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|1967年||37勝||271回||.136||グローリーターフ(東京障害特別・春)<br />タマクイン([[関屋記念]]、[[毎日王冠]]) |
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|- |
|||
|1968年||23勝||168回||.137||ダイパレード([[目黒記念|目黒記念・春]])<br />ハードウェイ([[フローラステークス|サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別]]、[[クイーンステークス]]) |
|||
|- |
|||
|1969年||13勝||197回||.066|| |
|||
|- |
|||
|1970年||37勝||257回||.144|| |
|||
|- |
|||
|1971年||32勝||277回||.115||トキノシンオー(新潟記念、毎日王冠) |
|||
|- |
|||
|1972年||''48勝''||303回||.158||ランドジャガー([[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]) |
|||
|- |
|||
|1973年||46勝||319回||.144||[[トーヨーアサヒ]]([[ダイヤモンドステークス]])<br />[[レデースポート]](サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別)<br />[[サクライワイ]]([[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]) |
|||
|- |
|||
|1974年||21勝||269回||.078||[[タケホープ]]([[アメリカジョッキークラブカップ]])<br />トーヨーアサヒ([[アルゼンチン共和国杯|アルゼンチンジョッキークラブカップ]])<br />サクライワイ([[スプリンターズステークス]]) |
|||
|- |
|||
|1975年||41勝||304回||.134||トウホーパール(サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別)<br />サクライワイ([[安田記念]]、スプリンターズステークス)<br />ハクチカツ([[ラジオNIKKEI賞|日本短波賞]])<br />ツアールターフ([[福島記念]]) |
|||
|- |
|||
|1976年||41勝||371回||.110||[[ヒシスピード]]([[札幌2歳ステークス|北海道3歳ステークス]])<br />タイホウヒーロー(目黒記念・秋) |
|||
|- |
|||
|1977年||40勝||311回||.128||ヒシスピード([[京成杯]]、[[共同通信杯|東京4歳ステークス]]) |
|||
|- |
|||
|1978年||44勝||307回||.143勝||シマノカツハル([[中山金杯|日刊スポーツ賞金杯]])<br />[[サクラショウリ]](東京4歳ステークス、'''[[東京優駿]]'''、[[セントライト記念]]) |
|||
|- |
|||
|1979年||43勝||371回||.116||サクラショウリ(アメリカジョッキークラブカップ、目黒記念・春、[[宝塚記念]])<br />[[スリージャイアンツ]](ダイヤモンドステークス)<br />[[ビンゴガルー]]('''[[皐月賞]]'''、[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯オータムハンデキャップ]])<br />ホクセーミドリ(ラジオたんぱ賞)<br />ユキフクオー([[オールカマー]]) |
|||
|- |
|||
|1980年||39勝||314回||.124||[[サクラシンゲキ]](京王杯オータムハンデキャップ)<br />サクラゴッド(スプリンターズステークス) |
|||
|- |
|||
|1981年||59勝||415回||.142||[[サンエイソロン]]([[スプリングステークス]]、NHK杯、[[京都新聞杯]])<br />サクラシンゲキ(京王杯オータムハンデキャップ)<br />ピュアーシンボリ([[ステイヤーズステークス]]) |
|||
|- |
|||
|1982年||43勝||389回||.110||アズマカレー([[シュンエイ記念]]、[[セイユウ記念]])<br />サンエイソロン([[大阪杯]])<br />ピュアーシンボリ(ステイヤーズステークス) |
|||
|- |
|||
|1983年||39勝||349回||.111|| |
|||
|- |
|||
|1984年||37勝||283回||.130||サクラシンボリ([[エプソムカップ]])<br />ウルフケイアイ(セイユウ記念) |
|||
|- |
|||
|1985年||35勝||309回||.113||サクラサニーオー(京成杯)<br />サクラガイセン(アメリカジョッキークラブカップ)<br />[[サクラユタカオー]](共同通信杯4歳ステークス)<br />ウルフケイアイ(セイユウ記念) |
|||
|- |
|||
|1986年||43勝||307回||.140||サクラユタカオー(大阪杯、毎日王冠、'''[[天皇賞|天皇賞・秋]]''') |
|||
|- |
|||
|1987年||28勝||246回||.113||[[モガミヤシマ]](NHK杯)<br />[[サクラチヨノオー]]([[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]) |
|||
|- |
|||
|1988年||36勝||299回||.120||サクラチヨノオー([[弥生賞]]、'''東京優駿''')<br />[[サクラホクトオー]]('''朝日杯3歳ステークス''') |
|||
|- |
|||
|1989年||25勝||250回||.100||サクラホクトオー(セントライト記念)<br />モガミチャンピオン(カブトヤマ記念) |
|||
|- |
|||
|1990年||31勝||252回||.123||サクラホクトオー(アメリカジョッキークラブカップ)<br />[[ビッグファイト]]([[新潟2歳ステークス|新潟3歳ステークス]]、[[京王杯2歳ステークス|京成杯3歳ステークス]]) |
|||
|- |
|||
|1991年||26勝||261回||.099||シーキャリアー(七夕賞) |
|||
|- |
|||
|1992年||29勝||227回||.127||[[サクラバクシンオー]]([[クリスタルカップ]]) |
|||
|- |
|||
|1993年||30勝||261回||.115||サクラセカイオー(エプソムカップ)<br />サクラバクシンオー('''スプリンターズステークス''') |
|||
|- |
|||
|1994年||25勝||230回||.108||[[サクラエイコウオー]](弥生賞)<br />[[サクラチトセオー]]([[中山記念]])<br />サクラバクシンオー([[ダービー卿チャレンジトロフィー]]、[[スワンステークス]]、'''スプリンターズステークス''') |
|||
|- |
|||
|1995年||19勝||208回||.091||[[サクラローレル]](日刊スポーツ賞金杯)<br />サクラチトセオー(アメリカジョッキークラブカップ、'''天皇賞・秋''')<br />[[ノーブルグラス]]([[函館スプリントステークス|札幌スプリントステークス]])<br />[[サクラキャンドル]](クイーンステークス、'''[[エリザベス女王杯]]''') |
|||
|- |
|||
|1996年||3勝||26回||.115||[[サクラスピードオー]](京成杯、共同通信杯4歳ステークス) |
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|} |
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※年度別成績記録は『優駿』2007年9月号「名ジョッキー列伝・小島太」より |
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=== 調教師成績 === |
|||
;通算成績(中央競馬成績のみ) |
|||
{| class="wikitable" |
{| class="wikitable" |
||
!通算成績!!1着!!2着!!3着!!4着以下!!出走回数!!勝率!!連対率 |
!通算成績!!1着!!2着!!3着!!4着以下!!出走回数!!勝率!!連対率 |
||
193行目: | 264行目: | ||
|} |
|} |
||
※中央競馬成績のみ。2008年終了時点。 |
※中央競馬成績のみ。2008年終了時点。 |
||
{|class="wikitable" |
|||
|- |
|||
!年!!勝利数!!出走数!!勝率!!主な管理馬(優勝競走) |
|||
|- |
|||
|1997年||9勝||111回||.081|| |
|||
|- |
|||
|1998年||14勝||198回||.071|| |
|||
|- |
|||
|1999年||27勝||250回||.108|| |
|||
|- |
|||
|2000年||20勝||294回||.068||[[イーグルカフェ]](共同通信杯4歳ステークス、'''[[NHKマイルカップ]]''') |
|||
|- |
|||
|2001年||32勝||288回||.111||[[マンハッタンカフェ]]('''[[菊花賞]]'''、'''[[有馬記念]]''') |
|||
|- |
|||
|2002年||40勝||302回||.132||マンハッタンカフェ('''天皇賞・春''')<br />イーグルカフェ(七夕賞、'''[[ジャパンカップダート]]''')<br />[[サクラプレジデント]](札幌2歳ステークス) |
|||
|- |
|||
|2003年||18勝||315回||.057||サクラプレジデント([[札幌記念]]) |
|||
|- |
|||
|2004年||40勝||308回||.130||サクラプレジデント(中山記念)<br />アンブロワーズ(函館2歳ステークス)<br />[[ストーミーカフェ]](札幌2歳ステークス)<br />[[プレシャスカフェ]]([[CBC賞]]) |
|||
|- |
|||
|2005年||31勝||307回||.101||ストーミーカフェ(共同通信杯)<br />プレシャスカフェ(シルクロードステークス) |
|||
|- |
|||
|2006年||37勝||306回||.121|| |
|||
|- |
|||
|2007年||21勝||268回||.078|| |
|||
|- |
|||
|2008年||20勝||254回||.079|| |
|||
|- |
|||
|2009年||24勝||281回||.085|| |
|||
|- |
|||
|2010年||27勝||302回||.089||[[アプリコットフィズ]](クイーンカップ、クイーンステークス)<br />アロマカフェ(ラジオNIKKEI賞) |
|||
|- |
|||
|2011年||14勝||271回||.052|| |
|||
|- |
|||
|2012年||13勝||244回||.053||[[ミッドサマーフェア]](フローラステークス) |
|||
|- |
|||
|2013年||21勝||247回||.085|| |
|||
|- |
|||
|2014年||14勝||260回||.054||ディサイファ(エプソムカップ) |
|||
|- |
|||
|2015年||||||||ディサイファ([[中日新聞杯]]) |
|||
|} |
|||
※年度別成績記録は日本中央競馬会サイト:調教師名鑑「小島太」より |
|||
;受賞歴 |
|||
*[[優秀調教師賞|優秀調教師賞(関東)]]3回(2002年、2004年、2006年) |
*[[優秀調教師賞|優秀調教師賞(関東)]]3回(2002年、2004年、2006年) |
||
== 主な厩舎所属者 == |
|||
{{出典の明記|section=1|date=2015年3月}} |
|||
*[[ディサイファ]](2015年[[中日新聞杯]]<ref>[http://db.netkeiba.com/race/201507020111/ 2015年中日新聞杯レース結果] - netkeiba.com 2015年3月16日閲覧</ref>) |
|||
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。 |
|||
* [[小島良太]](1997年-現在 調教厩務員、調教助手) |
|||
* 松本重春(1997年-2011年 調教厩務員) |
|||
* [[蛯沢誠治]](2000年-2003年 調教助手) |
|||
* [[橋本広喜]](2003年-2004年 調教助手) |
|||
* '''[[小島太一]]'''(2005年-2007年、2008年-現在 騎手) |
|||
* 松田幸吉(2006年-2010年 調教厩務員) |
|||
* [[吉永護]](2009年-現在 調教助手) |
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== 関連著作 == |
== 関連著作 == |
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204行目: | 329行目: | ||
;映像 |
;映像 |
||
* 『小島太 -我が騎手人生-』([[ポニーキャニオン]]、1996年) |
* 『小島太 -我が騎手人生-』([[ポニーキャニオン]]、1996年) |
||
== 関連項目 == |
|||
*[[中央競馬通算1000勝以上の騎手・調教師一覧]] |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
===注釈=== |
|||
{{Reflist|group="注"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
{{Reflist|2}} |
||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
*寺山修司『競馬への望郷(文庫版)』(角川書店、1992年)ISBN 978-4041315149 |
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*木村幸治『騎手物語』(洋泉社、1998年)「三人の親父 - 小島太」 |
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*小島太『競馬八方破れ言いたい放題』(ベストブック、1993年) ISBN 978-4831491787 |
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*田原成貴『競馬場の風来坊 - 騎手・田原成貴の爆弾エッセイ』(マガジン・マガジン、1996年) |
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*光栄出版部(編)『名馬列伝サクラバクシンオー 』(光栄、1995年)ISBN 978-4877192761 |
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*[[日本中央競馬会]]『優駿』 江面弘也「名ジョッキー列伝 - 小島太」 |
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*田原成貴『競馬場の風来坊 - 騎手・田原成貴の爆弾エッセイ』(マガジンマガジン、1996年)ISBN 978-4914967147 |
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*寺山修司『競馬への望郷』(角川文庫、1993年)「騎手伝記 - 小島太」 |
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*鶴木遵『チャンピオンは眠らない』(ベストセラーズ、1997年)ISBN 978-4584183083 |
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*木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 978-4896912920 |
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== 関連項目 == |
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*木村幸治『騎手物語』(洋泉社、1998年)ISBN 978-4896912982 |
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*[[中央競馬通算1000勝以上の騎手・調教師一覧]] |
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*境勝太郎『我が人生に名馬あり』(新紀元社、1998年)ISBN 978-4883177110 |
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*大川慶次郎『大川慶次郎が選ぶ「個性派」名馬18頭 』(ザ・マサダ、1999年)ISBN 978-4915977992 |
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*小島太『馬を走らせる』(光文社、2006年)ISBN 978-4334033460 |
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*『[[優駿]]』1994年5月号(日本中央競馬会) |
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*『優駿』1996年4月号(日本中央競馬会) |
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*『優駿』2002年2月号(日本中央競馬会) |
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*『優駿』2007年9月号(日本中央競馬会) |
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*『[[競馬最強の法則]]』2010年10月号(ベストセラーズ) |
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2015年3月20日 (金) 12:41時点における版
小島太 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 北海道斜里郡小清水町 |
生年月日 | 1947年4月11日(77歳) |
身長 | 161cm(1995年[1]) |
体重 | 52kg(〃) |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会 |
所属厩舎 |
高木良三(1965年-1976年) 高木嘉夫(1976年-1983年) フリー(1983年-1996年) |
初免許年 | 1966年 |
免許区分 | 平地競走・障害競走 |
騎手引退日 | 1996年2月28日 |
重賞勝利 | 85勝 |
G1級勝利 | 10勝(八大競走・GI競走) |
通算勝利 | 8476戦1024勝 |
調教師情報 | |
初免許年 | 1996年(1997年開業) |
重賞勝利 | 21勝 |
G1級勝利 | 5勝 |
経歴 | |
所属 | 美浦T.C.(1996年-現在) |
小島 太(こじま ふとし、1947年4月11日 - )は、日本中央競馬会(JRA)に所属する調教師、元騎手である。美浦トレーニングセンター所属。
1966年に騎手デビュー。若手時代から「サクラ」を冠名とする全演植所有馬の主戦騎手を務め、サクラショウリ、サクラチヨノオーによる東京優駿(日本ダービー)制覇をはじめ、1996年の引退までにGI級競走11勝を含む重賞84勝を挙げた。通算8476戦1024勝。大競走における勝負強さや独特のキャラクターから華のある騎手と見なされたが、他方では平凡なミスにより数々の勝利を逃した騎手ともされ、毀誉褒貶の激しい存在であった。ファンからは「フトシ」の愛称で親しまれた。
1996年3月より調教師に転身。主な管理馬にはGI競走2勝のイーグルカフェや同3勝のマンハッタンカフェなどがいる。
調教助手の小島良太は次男、小島勝三は三男[2]、騎手の小島太一は四男[3]。
経歴
生い立ち
1947年、北海道斜里郡小清水町に馬商と装蹄師を兼ねる小島竹次郎、母・ツネの間に次男として生まれる[4]。家業の関係から幼少のころより馬に親しんで育ち、草競馬にも出場していた[5]。小学生になると夏休みには手伝いとして道営競馬に出入りし、高学年に入ってからは武芳彦(武邦彦の父)に許可を得て中央競馬の競馬場にも足を運んだ[5]。同時期に10戦無敗の名馬トキノミノルの生涯をモデルとした映画『幻の馬』に強い感銘を受け[5]、またNHKが放送した日本ダービーの様子(ゴールデンウエーブ優勝)などにも触れ[4]、騎手への憧れを募らせた。
少年時代は騎手になることについて強迫的な心情を抱いており、成長期に背が伸び始めると、それ以上伸びないよう箪笥の引き出しで眠った、足が大きい子供は大きく育つという話を聞き、包帯で足を巻き付けて眠った、という話も伝えられている[6]。騎手養成課程を受験するときも、「もし落第したら青函連絡船から飛び降りて死ぬ」という覚悟であったという[6]。また中学生の時、小清水の町営牧場でたまたま出くわした競馬関係者という高校生に対し「東京で騎手になりたいんです」と打ち明けたところ、「無理だね。君は背が大きすぎるようだ」と突き放されたという話がある。この高校生は、後に三冠馬ミスターシービーなどを管理する松山康久で、東京から修学旅行で北海道を訪れていた[7]。実際に小島は騎手課程受験時点で身長163cm、体重50kgと、騎手を目指すにはかなり大柄だった[7]。
1962年秋に中央競馬の騎手養成長期課程を受験し合格[8]。翌1963年春、中学校卒業後に騎手課程第14期生として入所した[4]。同期生には田島良保、安田富男、目野哲也、平井雄二、池上昌弘などがいる。なかでも田島良保とは「血を分けた兄弟みたいなもの」と語る親友となり、2年次の厩舎実習は共に東京競馬場の高木良三厩舎で行った[9]。高木厩舎からは、小島・田島が騎手課程に合格した直後から入門を誘う手紙が送られていた[8]。父・竹次郎は当時最大の勢力であった尾形藤吉厩舎への入門を望んでいたが、小島は「一流騎手が多く所属する尾形のもとでは騎乗機会に恵まれない。自分を欲しいと言ってくれる厩舎へ行く方がいい」と主張し、騎手課程修了後にそのまま高木厩舎所属となった[8]。これに伴い、当時高木厩舎に1頭だけ馬を預託していたさくらコマースの全演植と出会う[10]。竹次郎が厩舎へ挨拶に訪れた際、同座していた数人の馬主のうち竹次郎はに小島の後援を頼み、全もこれを引き受けた[11]。
騎手時代
1966年3月に騎手としてデビューし、7月に初勝利を挙げた[6]。翌年に5月にはグローリーターフで東京障害特別(春)を制し重賞初勝利を挙げ、当年重賞3勝を含む37勝と躍進[6]。以後名騎手が揃う関東にあって頭角を現していき、1972年には48勝を挙げ、関東のリーディングジョッキー(年間最多勝騎手)となった(全国3位)[6]。なお、前年末から流行した馬インフルエンザの影響で当年は1、2月の東京・中山開催が中止となっており、勝利数は比較的少ないものとなった[6]。
翌1973年にはサクライワイで函館3歳ステークスを制し、全に初の重賞をもたらした。1978年には久保田彦之厩舎のサクラショウリで日本ダービーに優勝、八大競走初制覇を幼少期に憧れた競走で果たした。翌1979年にはビンゴガルー(久保田厩舎)による皐月賞優勝を含む重賞8勝を挙げ、以後も毎年の重賞勝利を重ねた。
こうした活躍の他方、1976年頃から公私に大きな変化が訪れた。同年に師匠の高木が病気で引退、小島は新規開業した高木の長男・嘉夫の厩舎に移籍したが、同時期に調教師・境勝太郎の長女と結婚し、全の預託馬の比重は境厩舎へ大きく傾いていった[12]。これによって、長らく競馬界の名物ともされた「馬主・さくらコマース(全演植)、調教師・境勝太郎、騎手・小島太」のトライアングルが形成された[12]。1978年にはビンゴガルーで皐月賞に優勝したが、これは小島が「サクラ」以外で勝った唯一の八大競走である。
1983年、小島は方々に預託されていたさくらコマース所有馬への騎乗を円滑にするため、高木嘉夫の厩舎を離れフリーとなる。これと同時に、全と500万円で正式な騎乗契約を交わした[13]。当時、騎手が特定の馬主と正式契約を結んだのは画期的な出来事であった[6]。1986年にサクラユタカオーで天皇賞(秋)に優勝し、全の所有馬ではサクラショウリ以来の大競走制覇を遂げる。しかし間もなく小島と全は契約を解消。完全にフリーとなった小島は、塩崎利雄の紹介により[14]、当時バブル景気に乗って高額馬を続々と購買していた早坂太吉との関係を深めていった[15]。これをきっかけとして全との関係に齟齬が生じ始め、1987年春頃より一時的に絶縁状態となった[15]。高木良三厩舎での弟々子である[16]松本重春の仲介によって数ヶ月後には和解したが[15]、関係途絶の間にサクラスターオーへの騎乗機会を失っている。小島は同馬のデビューから3戦に騎乗していたが、4戦目の弥生賞を前にして全は調教師の平井雄二へ「小島を乗せるな」という指示を出し[17]、以後同馬には東信二が騎乗して皐月賞、菊花賞のクラシック二冠を制した。
全との復縁後は再び「サクラ」の馬で活躍をはじめ、1989年には前年に最優秀3歳牡馬に選出されていたサクラチヨノオーで自身二度目の日本ダービー優勝を果たす。1993年12月に全が死去すると、その9日後にサクラユタカオーの仔・サクラバクシンオーでスプリンターズステークスを制覇。勝利騎手インタビューで小島は「寝ても覚めてもオヤジのことばかり考えていた。絶対に勝たなくちゃいけない、絶対に負けられないと思っていた。これまでの騎手人生で最高の仕事ができた。オヤジにありがとうと言いたい」と語った[18]。以後全の所有馬は息子の全尚烈に引き継がれる。翌1994年12月4日にはサクラキャンドルによる勝利で史上13人目の通算1000勝を達成し[19]、18日にはサクラバクシンオーでスプリンターズステークスを連覇した。
翌1995年秋に翌年2月一杯での引退を発表。その秋のGI戦線ではサクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹で天皇賞(秋)とエリザベス女王杯に優勝し、引退を惜しむ声が数多く上がった[20]。翌1996年2月25日をもって騎手を引退。最後の騎乗は中山牝馬ステークスでサクラキャンドルに騎乗しての9着であった。引退式ではファンの間から起きた「フトシ」コールで送られた[21]。JRA通算8476戦1024勝、うち八大競走・GI競走10勝を含む重賞84勝。重賞勝利の半分は「サクラ」によるものであった[6]。
調教師時代
1997年3月、境勝太郎の定年引退に伴い、管理を引き継ぐ形で美浦トレーニングセンターに厩舎を開業した。同年秋にはサクラローレルでフランス遠征に臨んだが、目標とした凱旋門賞の前哨戦・フォワ賞の段階で故障、引退という形となった。
調教師としては「カフェ」を冠名とする西川清とその家族の所有馬を数多く管理している。小島と西川の出会いは1995年の天皇賞(秋)に優勝した夜、寿司店でたまたま席が隣り合い競馬談義をしたことにはじまる[22]。2000年2月にイーグルカフェが共同通信杯4歳ステークスを制し、調教師としての重賞初勝利を挙げると、5月には同馬がNHKマイルカップを制し、GI競走初勝利も果たした。2001年から2002年にかけてはマンハッタンカフェがGI競走3勝を挙げた。なお、西川(死後は息子の西川光一)使用の勝負服柄「黄、黒襷、黒袖」は、「黄色と黒を使って、空いている図案で」という注文に沿って小島の妻が考えたものである[22]。
イーグルカフェ、マンハッタンカフェ以降はGI競走制覇から遠ざかっているが、2002年、2004年、2006年には関東の優秀調教師賞を受賞している[23]。
騎手としての特徴
通算1000勝を越えているものの、年度別の勝利数でみると自己最多勝は58勝、30代後半以降の勝利数は概ね30勝前後と、「安定した中堅騎手」という実績ではあった[6]。しかし大舞台での勝負強さと数々の印象的な騎乗もあって「華のある男」と評され、表面的な実績以上の強い存在感を放った[6]。寺山修司はその印象について「パリのジゴロか伯爵夫人のつばめか、とでもいった身のこなしで、背も高くなかなか粋である。美しい馬に乗って華麗なレースをする、というのが小島太の特色であり、その点でも目立つ騎手であった」と評した[24]。また境勝太郎は「勝負強いというのか、重賞や大レースでそつなく乗って、いい結果を出すところが大向こう受けした理由だろう」としている[25]。
他方、人気馬に騎乗してあっけなく敗れることも度々あった。江面弘也は小島を評して「負けっぷりがいい、とでも言うのだろうか。小島太という騎手は不思議と負けたときの印象が強い騎手だった。それゆえに罵声を浴びることも多く、おそらく歴代の名騎手と呼ばれる人たちのなかでは、最も罵声を浴びた騎手ではないか」と述べている[6]。また小島自身、「負ける時には、負けっぷりよく負けた方がいいと思うんです。3着を狙うレースをするより、勝つか、ドンジリに負けるかというレース。やっぱり大事なのは勝つっていうことですからね」と述べている[26]。
市丸博司は、「まったくの推論に過ぎないが、小島太騎手には、熱狂的なファンと完全なアンチファン、その2種類しかいないような気がする。中間派というのはあまり聞いたことがない[27]」と述べ、そうしたギャップが生じる理由について「素人目にも分かるぐらいの凡ミス」による敗戦と、その一方にあった「ほとんど天才的と言えるぐらい」の勝利によって、「ファンはどんどん熱狂的になり、アンチファンはますますキライになるのだろう」と論じている[27]。こうした二極化については小島自身も「ファンからしたら、日本一下手だと思う奴が半分で……。(中略)まあ、上手いと言ってくれる奴も半分いるかも知れないけど、その位の評価だと思うよ」と語っている[28]。
境勝太郎は小島の凡ミスの例として、サクラホクトオーが最終コーナーで外埒沿いまで膨らんで5着に敗れた菊花賞や、コーナーを曲がり切れずに競走を中止したサクラエイコウオーの新馬戦などを挙げ、「太のおかげで何億円損したか分からない」、「調教師席の僕が何度倒れそうになったことか」、「ファンにとっては話題の多い、見ていて楽しいジョッキーだったかもしれないが、馬を託すこちらとしてはたまったものじゃない」と、その騎乗への苦言を残している[25]。一方で好騎乗の代表例として挙げるのが、サクラユタカオーで制した天皇賞(秋)と、サクラチヨノオーで制した日本ダービーである。小島に対して辛辣な言葉が多い境をして、これらの競走については「彼の完璧な騎乗で勝たせてもらったと感謝している。どちらも馬の実力以上のレースだった」と賛辞を送っている[25]。また境は小島の美点に騎乗フォームを挙げ、「いまだにあれだけの格好で乗れる騎手は、そうはいない。馬に柔らかく当たって、負担を掛けずに軽く乗っている姿は見ためにもきれいだった。『太のあの姿勢だけは日本一だぞ。せっかくそばで見ているのだから、ああいう風に乗れるように勉強しろよ』僕はいつも弟子たちにそう言ったものだ」と述懐している[25]。
人物
騎手時代の小島は公私に渡り「品行方正」という評価は皆無であった。境勝太郎は「呑んべえ野郎でどうしようもない。レースでも私生活でも、あんなにハラハラさせる奴はいない[29]」と語り、小島も自らを「元祖・不良」と認じている[30]。黒鉄ヒロシは「馬に乗ってても侠客の匂いがする」と評し[26]、また大川慶次郎は「小島太の生き様は誰もが真似して成功する生き様じゃないんですよ」と語り[31]、田原成貴は自身の騎手生活を省みて「太さんを見て、こんな生き方をしちゃいけないな、いけないなと思いながら、おんなじ様な生き方をしちゃったのが……失敗したよな」と述べた[30]。
調教師になって以後は派手な遊びは鳴りを潜めている。本人曰く、騎手時代は「現実の自分とはまったく別の"騎手・小島太"というフィクションが独り歩きしていた」といい、厩舎開業以後は「裏方に徹することにした」と語っている。厩舎を自ら掃除するのが日課で「厩舎を訪ねてきた新米記者が、掃除中の小島太に対し『先生いますか?』と聞いてきた」「それまでプライベートでは無駄金の使い放題だったのに、厩舎経営になると水や電気は節約しろだの口を酸っぱくしていう」など、かつてのイメージとは180度異なる経営者としての顔を見せている[32]。
関連する人物
- 全演植
全演植とは前述の通り騎手デビュー前から親交があり、その関係の深さは「親子以上」ともいわれた[10]。全は小島を「太」と呼んで実子のように可愛がり[12]、小島もまた全をオヤジと呼んだ[33]。死の床にあっても小島の成績を気に掛けていたといわれる[34]。また全は在日朝鮮人であったが、あるとき「朝鮮人であることでJRAとの間で何かあったとき、お前に迷惑を掛けるより帰化しようかと思っている」と漏らしたこともあったという[34]。小島は全について「僕の裏側まで分かってくれる理解者でした。そして全さんも親や奥さんや兄弟に言えないことを僕に打ち明けてくれたところがあって、五分五分に理解し、五分五分に遊んでつき合えた最大の友であり親父でした」と述べている[34]。
- 野平祐二
小島が騎手として強い影響を受けたのは野平祐二であった。「ごつい競馬をしていた時代に、ひとりだけかっこいい競馬をしていた」野平に憧れ、「野平祐二の真似をしようと思ってこの世界に入ってきた」と述べている[35]、ヨーロッパ志向が強かった野平の影響を受けて自身もフランスで騎乗し[35]、また競馬の奥深さ、面白さを積極的に発信しようとした野平に倣い、各種媒体にも積極的に登場した[36]。
- 高木良三
師である高木良三について小島は「競馬界に入ったばかりの若い時期に、高木良三という素晴らしいホースマンと出会えたことは、幸運としか言いようがない」「私にとっての調教師の理想像」と高く評価し、その人柄や調教法、馬との接し方を間近でみた経験を、同じ調教師となった立場において「いまでは本当にかけがえのないものとなっている」と述べている[37]。なお、息子・良太の「良」の字は親友である田島良保と高木良三の双方に掛けたものである。
- 大川慶次郎
競馬評論家で「競馬の神様」とも呼ばれた大川慶次郎と小島は、一般媒体において互いに名指しで批判的言動を行っていた。小島は著書において、大川が解説で「この馬だけはいりません」とコメントした馬(サクラシンボリ)を勝たせた競走を「会心のレース」として取り上げ、「八方美人的な予想よりは、大川慶次郎さんのような予想の方が潔いのだろうけど、そういう潔い方というのは、どうも、こっちがあまり大したことはないと思ってる馬を、過大評価してくれたりするね」と皮肉っている[38]。一方の大川は、サクラローレルの引退式において、故障がちなローレルをGI競走を2勝するまでに育てた境勝太郎を差し置いて、小島が自ら表彰台に上がったことを問題視し「小島太という人間に疑いを持ちました」と述べた[39]。なお、次男の良太も、大川の死後10年以上が経った2011年に、自身のブログにおいて大川の生前の発言を「知識不足」と批判している[40]。
逸話
好角家
好角家(相撲ファン)として知られ、NHKの大相撲中継に出演したり、相撲の話題についてマスメディアから論評を求められることもある。相撲関係者とも親交が深く、なかでも第8代八角親方(第61代横綱・北勝海)とは飲み友達という[32]。なお騎乗馬のサクラホクトオーは北勝海から、サクラチヨノオーは第58代横綱・千代の富士(第13代九重親方)から名前をもらっている[41]。
成績
騎手成績
- 通算成績(中央競馬のみ)
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 騎乗回数 | 勝率 | 連対率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
平地 | 1,018 | 934 | 870 | 5,638 | 8,460 | .120 | .231 |
障害 | 6 | 3 | 1 | 6 | 16 | .375 | .563 |
計 | 1,024 | 937 | 871 | 5,644 | 8,476 | .121 | .231 |
日付 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
---|---|---|---|---|---|---|
初騎乗 | 1966年3月5日 | - | オモダカ | - | - | 10着 |
初勝利 | 1966年7月9日 | - | アサヒオール | - | - | 1着 |
重賞初騎乗 | 1966年11月6日 | 牝馬特別 | アサヒオール | 10頭 | 7 | 7着 |
重賞初勝利 | 1967年5月13日 | 東京障害特別 | グローリターフ | 7頭 | 5 | 1着 |
GI級初騎乗 | 1967年12月24日 | 有馬記念 | タマクイン | 14頭 | 11 | 10着 |
GI級初勝利 | 1978年5月28日 | 東京優駿 | サクラショウリ | 20頭 | 2 | 1着 |
- 年度別成績(中央競馬のみ)
※勝利数が斜体になっている年は関東リーディングを獲得したことを意味する。太字の競走名はグレード制が導入された1984年以降はGI競走を、1983年以前は八大競走を指す。
年 | 勝利数 | 騎乗数 | 勝率 | 主な騎乗馬(優勝競走) |
---|---|---|---|---|
1966年 | 11勝 | 125回 | .088 | |
1967年 | 37勝 | 271回 | .136 | グローリーターフ(東京障害特別・春) タマクイン(関屋記念、毎日王冠) |
1968年 | 23勝 | 168回 | .137 | ダイパレード(目黒記念・春) ハードウェイ(サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別、クイーンステークス) |
1969年 | 13勝 | 197回 | .066 | |
1970年 | 37勝 | 257回 | .144 | |
1971年 | 32勝 | 277回 | .115 | トキノシンオー(新潟記念、毎日王冠) |
1972年 | 48勝 | 303回 | .158 | ランドジャガー(NHK杯) |
1973年 | 46勝 | 319回 | .144 | トーヨーアサヒ(ダイヤモンドステークス) レデースポート(サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別) サクライワイ(函館3歳ステークス) |
1974年 | 21勝 | 269回 | .078 | タケホープ(アメリカジョッキークラブカップ) トーヨーアサヒ(アルゼンチンジョッキークラブカップ) サクライワイ(スプリンターズステークス) |
1975年 | 41勝 | 304回 | .134 | トウホーパール(サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別) サクライワイ(安田記念、スプリンターズステークス) ハクチカツ(日本短波賞) ツアールターフ(福島記念) |
1976年 | 41勝 | 371回 | .110 | ヒシスピード(北海道3歳ステークス) タイホウヒーロー(目黒記念・秋) |
1977年 | 40勝 | 311回 | .128 | ヒシスピード(京成杯、東京4歳ステークス) |
1978年 | 44勝 | 307回 | .143勝 | シマノカツハル(日刊スポーツ賞金杯) サクラショウリ(東京4歳ステークス、東京優駿、セントライト記念) |
1979年 | 43勝 | 371回 | .116 | サクラショウリ(アメリカジョッキークラブカップ、目黒記念・春、宝塚記念) スリージャイアンツ(ダイヤモンドステークス) ビンゴガルー(皐月賞、京王杯オータムハンデキャップ) ホクセーミドリ(ラジオたんぱ賞) ユキフクオー(オールカマー) |
1980年 | 39勝 | 314回 | .124 | サクラシンゲキ(京王杯オータムハンデキャップ) サクラゴッド(スプリンターズステークス) |
1981年 | 59勝 | 415回 | .142 | サンエイソロン(スプリングステークス、NHK杯、京都新聞杯) サクラシンゲキ(京王杯オータムハンデキャップ) ピュアーシンボリ(ステイヤーズステークス) |
1982年 | 43勝 | 389回 | .110 | アズマカレー(シュンエイ記念、セイユウ記念) サンエイソロン(大阪杯) ピュアーシンボリ(ステイヤーズステークス) |
1983年 | 39勝 | 349回 | .111 | |
1984年 | 37勝 | 283回 | .130 | サクラシンボリ(エプソムカップ) ウルフケイアイ(セイユウ記念) |
1985年 | 35勝 | 309回 | .113 | サクラサニーオー(京成杯) サクラガイセン(アメリカジョッキークラブカップ) サクラユタカオー(共同通信杯4歳ステークス) ウルフケイアイ(セイユウ記念) |
1986年 | 43勝 | 307回 | .140 | サクラユタカオー(大阪杯、毎日王冠、天皇賞・秋) |
1987年 | 28勝 | 246回 | .113 | モガミヤシマ(NHK杯) サクラチヨノオー(朝日杯3歳ステークス) |
1988年 | 36勝 | 299回 | .120 | サクラチヨノオー(弥生賞、東京優駿) サクラホクトオー(朝日杯3歳ステークス) |
1989年 | 25勝 | 250回 | .100 | サクラホクトオー(セントライト記念) モガミチャンピオン(カブトヤマ記念) |
1990年 | 31勝 | 252回 | .123 | サクラホクトオー(アメリカジョッキークラブカップ) ビッグファイト(新潟3歳ステークス、京成杯3歳ステークス) |
1991年 | 26勝 | 261回 | .099 | シーキャリアー(七夕賞) |
1992年 | 29勝 | 227回 | .127 | サクラバクシンオー(クリスタルカップ) |
1993年 | 30勝 | 261回 | .115 | サクラセカイオー(エプソムカップ) サクラバクシンオー(スプリンターズステークス) |
1994年 | 25勝 | 230回 | .108 | サクラエイコウオー(弥生賞) サクラチトセオー(中山記念) サクラバクシンオー(ダービー卿チャレンジトロフィー、スワンステークス、スプリンターズステークス) |
1995年 | 19勝 | 208回 | .091 | サクラローレル(日刊スポーツ賞金杯) サクラチトセオー(アメリカジョッキークラブカップ、天皇賞・秋) ノーブルグラス(札幌スプリントステークス) サクラキャンドル(クイーンステークス、エリザベス女王杯) |
1996年 | 3勝 | 26回 | .115 | サクラスピードオー(京成杯、共同通信杯4歳ステークス) |
※年度別成績記録は『優駿』2007年9月号「名ジョッキー列伝・小島太」より
調教師成績
- 通算成績(中央競馬成績のみ)
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 | 勝率 | 連対率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
平地 | 307 | 294 | 275 | 2,298 | 3,174 | .097 | .189 |
障害 | 2 | 6 | 1 | 18 | 27 | .074 | .296 |
計 | 309 | 300 | 276 | 2,316 | 3,201 | .097 | .190 |
日付 | 競馬場・開催 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
初出走 | 1997年3月8日 | 1回中京3日12R | 5歳上500万下 | ペラリ | 16頭 | 14 | 12着 |
初勝利 | 1997年3月9日 | 2回中山6日3R | 4歳新馬 | ビックアイネス | 16頭 | 1 | 1着 |
重賞初出走 | 1997年3月23日 | 3回中山2日11R | 日経賞 | マウンテンストーン | 10頭 | 2 | 2着 |
GI初出走 | 1997年4月27日 | 3回京都4日10R | 天皇賞(春) | サクラローレル | 16頭 | 1 | 2着 |
重賞初勝利 | 2000年2月6日 | 1回東京4日11R | 共同通信杯4歳S | イーグルカフェ | 11頭 | 4 | 1着 |
GI初勝利 | 2000年5月7日 | 2回東京6日11R | NHKマイルC | イーグルカフェ | 18頭 | 2 | 1着 |
※中央競馬成績のみ。2008年終了時点。
年 | 勝利数 | 出走数 | 勝率 | 主な管理馬(優勝競走) |
---|---|---|---|---|
1997年 | 9勝 | 111回 | .081 | |
1998年 | 14勝 | 198回 | .071 | |
1999年 | 27勝 | 250回 | .108 | |
2000年 | 20勝 | 294回 | .068 | イーグルカフェ(共同通信杯4歳ステークス、NHKマイルカップ) |
2001年 | 32勝 | 288回 | .111 | マンハッタンカフェ(菊花賞、有馬記念) |
2002年 | 40勝 | 302回 | .132 | マンハッタンカフェ(天皇賞・春) イーグルカフェ(七夕賞、ジャパンカップダート) サクラプレジデント(札幌2歳ステークス) |
2003年 | 18勝 | 315回 | .057 | サクラプレジデント(札幌記念) |
2004年 | 40勝 | 308回 | .130 | サクラプレジデント(中山記念) アンブロワーズ(函館2歳ステークス) ストーミーカフェ(札幌2歳ステークス) プレシャスカフェ(CBC賞) |
2005年 | 31勝 | 307回 | .101 | ストーミーカフェ(共同通信杯) プレシャスカフェ(シルクロードステークス) |
2006年 | 37勝 | 306回 | .121 | |
2007年 | 21勝 | 268回 | .078 | |
2008年 | 20勝 | 254回 | .079 | |
2009年 | 24勝 | 281回 | .085 | |
2010年 | 27勝 | 302回 | .089 | アプリコットフィズ(クイーンカップ、クイーンステークス) アロマカフェ(ラジオNIKKEI賞) |
2011年 | 14勝 | 271回 | .052 | |
2012年 | 13勝 | 244回 | .053 | ミッドサマーフェア(フローラステークス) |
2013年 | 21勝 | 247回 | .085 | |
2014年 | 14勝 | 260回 | .054 | ディサイファ(エプソムカップ) |
2015年 | ディサイファ(中日新聞杯) |
※年度別成績記録は日本中央競馬会サイト:調教師名鑑「小島太」より
- 受賞歴
- 優秀調教師賞(関東)3回(2002年、2004年、2006年)
主な厩舎所属者
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
- 小島良太(1997年-現在 調教厩務員、調教助手)
- 松本重春(1997年-2011年 調教厩務員)
- 蛯沢誠治(2000年-2003年 調教助手)
- 橋本広喜(2003年-2004年 調教助手)
- 小島太一(2005年-2007年、2008年-現在 騎手)
- 松田幸吉(2006年-2010年 調教厩務員)
- 吉永護(2009年-現在 調教助手)
関連著作
- 著書
- 映像
- 『小島太 -我が騎手人生-』(ポニーキャニオン、1996年)
関連項目
脚注
注釈
出典
- ^ 『優駿』1995年5月号、p.106
- ^ 木村(1997)p.149
- ^ “競馬ブックコーナー「平成17年度調教師、騎手試験合格者」”. 競馬ブック (2005年2月28日). 2015年3月20日閲覧。
- ^ a b c 木村(1998)pp.46-48
- ^ a b c 小島(1993)pp.54-56
- ^ a b c d e f g h i j k 『優駿』2007年9月号、pp.137-140
- ^ a b 寺山(1992)p.187
- ^ a b c 小島(1993)pp.57-58
- ^ 小島(1993)pp.63-64
- ^ a b 小島(1993)pp.77-78
- ^ 木村(1998)p.48
- ^ a b c 木村(1997)pp.313-314
- ^ 小島(1993)p.82
- ^ 鶴木(1997)p.286
- ^ a b c 小島(1993)pp.84-89
- ^ 小島(2006)p.72
- ^ 境(1998)p.68
- ^ 『優駿』1994年2月号、p.140
- ^ 『優駿』1995年2月号、p.135
- ^ 『優駿』1996年4月号、p.5
- ^ 『優駿』1996年3月号、p.62
- ^ a b 『優駿』2002年2月号、pp.59-60
- ^ 日本中央競馬会公式サイト 調教師名鑑「小島太」(直接リンク不可)
- ^ 寺山(1992)p.194
- ^ a b c d 境(1998)pp.66-67
- ^ a b 『優駿』1994年5月号、pp.48-51
- ^ a b 『名馬列伝サクラバクシンオー』p.104
- ^ 田原(1996)p.215
- ^ 『Number Plus』p.118
- ^ a b 田原(1996)pp.162-164
- ^ 『競馬名馬&名勝負読本』p.26
- ^ a b 『競馬最強の法則』2010年4月号、p.76
- ^ 小島(1993)p.9
- ^ a b c 木村(1998)p.54
- ^ a b 『優駿』1996年4月号、p.46
- ^ 小島(1993)pp.70-72
- ^ 小島(2006)pp.20-21
- ^ 小島(1993)p.119
- ^ 大川(1999)
- ^ 小島良太 (2011年8月11日). “ALL TIME SUPER GUEST 発売日!”. 小島良太公式ブログ「馬なりぃ」. 2015年3月20日閲覧。
- ^ 小島(1993)p.109
参考文献
- 寺山修司『競馬への望郷(文庫版)』(角川書店、1992年)ISBN 978-4041315149
- 小島太『競馬八方破れ言いたい放題』(ベストブック、1993年) ISBN 978-4831491787
- 光栄出版部(編)『名馬列伝サクラバクシンオー 』(光栄、1995年)ISBN 978-4877192761
- 田原成貴『競馬場の風来坊 - 騎手・田原成貴の爆弾エッセイ』(マガジンマガジン、1996年)ISBN 978-4914967147
- 鶴木遵『チャンピオンは眠らない』(ベストセラーズ、1997年)ISBN 978-4584183083
- 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 978-4896912920
- 木村幸治『騎手物語』(洋泉社、1998年)ISBN 978-4896912982
- 境勝太郎『我が人生に名馬あり』(新紀元社、1998年)ISBN 978-4883177110
- 大川慶次郎『大川慶次郎が選ぶ「個性派」名馬18頭 』(ザ・マサダ、1999年)ISBN 978-4915977992
- 小島太『馬を走らせる』(光文社、2006年)ISBN 978-4334033460
- 『優駿』1994年5月号(日本中央競馬会)
- 『優駿』1996年4月号(日本中央競馬会)
- 『優駿』2002年2月号(日本中央競馬会)
- 『優駿』2007年9月号(日本中央競馬会)
- 『競馬最強の法則』2010年10月号(ベストセラーズ)