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「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の版間の差分

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|各国語表記={{Lang|de|Franz Joseph I.}}
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|君主号=[[オーストリア皇帝]]・[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー国王]]
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|全名={{Lang|de|Franz Josef Karl von Habsburg-Lothringen}}<br />フランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
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'''フランツ・ヨーゼフ1世'''({{Lang-de|Franz Joseph I.}}、[[1830年]][[8月18日]] - [[1916年]][[11月21日]])は、[[オーストリア帝国]]、のち[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[オーストリア皇帝]]および[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー国王]](在位:[[1848年]] - [[1916年]])。全名は'''フランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン'''(ドイツ語:Franz Josef Karl von Habsburg-Lothringen)。ハンガリー国王としては'''フェレンツ・ヨージェフ1世'''({{Lang-hu|I. Ferenc József}} [ˈɛlʃøːˈfɛrɛnʦˌjoːʒɛf])、オーストリア帝国内のベーメン国王としては'''フランティシェク・ヨゼフ1世'''({{Lang-cs|František Josef I.}})である。68年に及ぶ長い在位と、国民からの絶大な敬愛から晩年はオーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の「[[国家の父|国父]]」とも称された。晩年は「不死鳥」とも呼ばれ、オーストリアの象徴的存在でもあった。しばしばオーストリア帝国の実質的な「最後の」皇帝と呼ばれる。皇后は美貌で知られる[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]である。
'''フランツ・ヨーゼフ1世'''({{Lang-de|Franz Joseph I.}}、[[1830年]][[8月18日]] - [[1916年]][[11月21日]])は、[[オーストリア帝国]]、のち[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[オーストリア皇帝]]および[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー国王]](在位:[[1848年]] - [[1916年]])。全名は'''フランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン'''(ドイツ語:Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen)。ハンガリー国王としては'''フェレンツ・ヨージェフ1世'''({{Lang-hu|I. Ferenc József}} [ˈɛlʃøːˈfɛrɛnʦˌjoːʒɛf])、オーストリア帝国内のベーメン国王としては'''フランティシェク・ヨゼフ1世'''({{Lang-cs|František Josef I.}})である。


68年に及ぶ長い在位と、国民からの絶大な敬愛から、晩年はオーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の「[[国家の父|国父]]」とも称された。晩年は「不死鳥」とも呼ばれ、オーストリアの象徴的存在でもあった。しばしばオーストリア帝国の実質的な「最後の」皇帝と呼ばれる。皇后は美貌で知られる[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]である。
== 生涯 ==

[[ファイル:Sophiebayern franzjoseph.jpg|thumb|left|180px|母ゾフィーに抱かれたフランツ・ヨーゼフ・カール皇子]]
== 概要 ==
[[ファイル:Franz joseph1.jpg|thumb|left|180px|フランツ・ヨーゼフ1世(1865年)]]
[[1848年革命|3月革命]]によって伯父のオーストリア皇帝[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]が退位したため、18歳の若さで即位する。
[[ファイル:Emperor Francis Joseph of Austria.ogv|thumb|250px|フランツ・ヨーゼフ1世(1910年)]]
[[オーストリア皇帝]][[フランツ2世|フランツ1世]]の三男[[フランツ・カール・フォン・エスターライヒ|フランツ・カール]]大公と[[バイエルン王国|バイエルン]]王女である[[ゾフィー (オーストリア大公妃)|ゾフィー]]大公妃の長男として生まれる。ゾフィーは凡庸な夫よりも愛息の養育に心血を注ぎ、皇位を一足飛びにフランツ・ヨーゼフに継承させることを狙っていた。[[1848年革命|3月革命]]によって、伯父のオーストリア皇帝[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]が退位したため、18歳の若さで即位する。


治世当初は首相[[フェリックス・シュヴァルツェンベルク]]公爵に補佐され、[[ロンバルド=ヴェネト王国|イタリア]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の独立運動を抑圧、革命を鎮圧した。フランツ・ヨーゼフ1世は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする[[王権神授説]]を固く信じて疑わない人物であり、[[自由主義]]、[[国民主義]]の動きを抑圧し、「新絶対主義」(ネオアプゾルーティスムス)と称する[[絶対王政|絶対主義]]的統治の維持を図った。
治世当初は首相[[フェリックス・シュヴァルツェンベルク]]公爵に補佐され、[[ロンバルド=ヴェネト王国|イタリア]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の独立運動を抑圧、革命を鎮圧した。フランツ・ヨーゼフ1世は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする[[王権神授説]]を固く信じて疑わない人物であり、[[自由主義]]、[[国民主義]]の動きを抑圧し、「新絶対主義」(ネオアプゾルーティスムス)と称する[[絶対王政|絶対主義]]的統治の維持を図った。
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[[リソルジメント|イタリア統一戦争]]に敗北し、[[北イタリア]]の帝国領[[ロンバルディア州|ロンバルディア]]を[[1859年]]に、[[ヴェネト州|ヴェネト]]を[[1866年]]に相次いで失う。さらに、[[ドイツ統一]]に燃える[[プロイセン王国|プロイセン王国]]首相の[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の罠にかかり、[[1866年]]の[[普墺戦争]]では、消極的な自軍指揮官に決戦を命じた結果、[[ケーニヒグレーツの戦い]]で大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。このような対外的な動きに押される形で、国内では[[1861年]]、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。
[[リソルジメント|イタリア統一戦争]]に敗北し、[[北イタリア]]の帝国領[[ロンバルディア州|ロンバルディア]]を[[1859年]]に、[[ヴェネト州|ヴェネト]]を[[1866年]]に相次いで失う。さらに、[[ドイツ統一]]に燃える[[プロイセン王国|プロイセン王国]]首相の[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の罠にかかり、[[1866年]]の[[普墺戦争]]では、消極的な自軍指揮官に決戦を命じた結果、[[ケーニヒグレーツの戦い]]で大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。このような対外的な動きに押される形で、国内では[[1861年]]、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。


[[1867年]]、[[ハンガリー人]]との[[アウスグライヒ]](妥協)を実現させ、オーストリア=ハンガリー二重君主国が成立した。これにより、[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]を[[ツィスライタニエン|オーストリア帝国領]]と[[ハンガリー王冠領|ハンガリー王国領]]に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。しかし、この後も民族問題は先鋭化の一途をたどり、[[1908年]]に[[ボスニア]]と[[ヘルツェゴヴィナ]]を併合したことは、[[汎スラヴ主義]]の先頭に立つ[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]との関係を悪化させ、に民族問題を複雑化させることに繋がった。
[[1867年]]、[[ハンガリー人]]との[[アウスグライヒ]](妥協)を実現させ、オーストリア=ハンガリー二重君主国が成立した。これにより、[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]を[[ツィスライタニエン|オーストリア帝国領]]と[[ハンガリー王冠領|ハンガリー王国領]]に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。しかし、この後も民族問題は先鋭化の一途をたどり、[[1908年]]に[[ボスニア]]と[[ヘルツェゴヴィナ]]を併合したことは、[[汎スラヴ主義]]の先頭に立つ[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]との関係を悪化させ、さらに民族問題を複雑化させることに繋がった。


普墺戦争後は、[[普仏戦争]]で中立を守り、ビスマルクび[[ドイツ帝国]]と接近・協調していった([[パン=ゲルマン主義|パン=ゲルマン主義]])。[[1873年]]にはドイツ、[[ロシア帝国|ロシア]]と[[三帝同盟]]を、[[1882年]]にはドイツ、[[イタリア王国|イタリア]]と[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]を結ぶ。
普墺戦争後は、[[普仏戦争]]で中立を守り、ビスマルクおよび[[ドイツ帝国]]と接近・協調していった([[パン=ゲルマン主義|パン=ゲルマン主義]])。[[1873年]]にはドイツ、[[ロシア帝国|ロシア]]と[[三帝同盟]]を、[[1882年]]にはドイツ、[[イタリア王国|イタリア]]と[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]を結ぶ。


帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、[[1914年]]の[[サラエボ事件]]で皇位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]が暗殺され、オーストリアはセルビアに宣戦を布告、[[第一次世界大戦]]が勃発する。戦争中の[[1916年]]、肺炎のためウィーンにて86歳で崩御した。
帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、[[1914年]]の[[サラエボ事件]]で皇位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]が暗殺され、オーストリアはセルビアに宣戦を布告、[[第一次世界大戦]]が勃発する。戦争中の[[1916年]]、肺炎のためウィーンにて86歳で崩御した。


== 人物 ==
== 生涯 ==
=== 皇族時代 ===
[[ファイル:Franz Joseph Austria with Brothers.jpg|thumb|left|220px|フランツ・ヨーゼフ1世と兄弟(1863年)]]
==== 誕生 ====
[[ファイル:Francis joseph family 1861.png|thumb|left|220px|フランツ・ヨーゼフ1世と家族(1861年)]]
[[ファイル:Sophiebayern franzjoseph.jpg|thumb|right|160px|母・ゾフィー大公妃に抱かれたフランツ・ヨーゼフ・カール王子。]]
非常に勤勉で時間に正確で、判で押したような規則正しい生活を送った。皇帝になって以後は死の直前まで、日々3時間睡眠で激務に当たったという。しかし、母であるゾフィー大公妃の尽力により皇帝に即位したため、母親に頭が上がらない部分もあった。君主や政治家というよりは、軍人ないし官僚のような人物であった。そのためか、正反対の性格の[[イギリス君主一覧|イギリス国王]]・[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]とは仲が悪かったというが、その母親である[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]には敬意を抱いていたようである。
[[1830年]]8月18日、[[オーストリア皇帝]][[フランツ2世|フランツ1世]]の三男[[フランツ・カール・フォン・エスターライヒ|フランツ・カール]]大公と[[バイエルン王国|バイエルン]]王女である[[ゾフィー (オーストリア大公妃)|ゾフィー]]大公妃の長男として生まれる。ゾフィーはなかなか懐妊しなかったが、宮廷の侍医からの勧めにより[[バート・イシュル]]の塩泉で治療したところ、この王子が生まれるに至った。そのような経緯から「塩の王子」と呼ばれるようになった<ref name="江村(1995) p.17"> 江村(1995) p.17</ref>。


[[洗礼]]の際には祖父フランツ1世が代父を務めた。当時、皇太子の地位にあった[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント]]は生来の病弱であり、彼が子孫を儲けることは不可能だと考えられていた。その弟である父フランツ・カール大公は政治に関心がなく、(強制される可能性はあったが)即位しない意志をすでに表明していた<ref name="江村(1995) p.17"/>。よって、生まれたばかりの王子が将来的に帝位を継ぐことはほぼ確定しており、皇帝となることを予期して育てられた<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.327"> ウィートクロフツ(2009) p.327</ref>。
69年の治世の中で、政治的には数々の難題に直面したが、オーストリアの文化、経済は発展をみている。フランツ・ヨーゼフ1世の命でそれまでウィーン市内を囲んでいた城壁は撤去され、[[リングシュトラーセ|リング]]と呼ばれる環状線が引かれ、歴史主義的な建造物による[[都市計画]]が行われた。


洗礼名は「フランツ・ヨーゼフ・カール」と定められた。それには、祖父フランツ1世と、偉大な先祖である[[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ2世]]の二人の名前が含まれていた<ref name="江村(1995) p.17"/>。今日「フランツ・ヨーゼフ1世」として知られる彼であるが、しかし即位するまでは複合名は用いられず、幼少期には「フランツィ」と、つまり「フランツ」と呼ばれた<ref name="ベラー(2001) p.42"> ベラー(2001) p.42</ref><ref>ジェラヴィッチ(1994) p.40</ref>。
一方、家庭的には悲劇が繰り返された。[[1854年]]にフランツ・ヨーゼフ1世は、バイエルン王家である[[プファルツ=ビルケンフェルト家|ヴィッテルスバッハ家]]の一族で母方の従妹に当たる[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]と、母ゾフィー大公妃の反対を押し切って結婚した。皇帝は皇后エリーザベトを終生心から愛していたといわれるが、そのエリーザベトは、政務に忙殺される夫との心のすれ違い、姑のゾフィー大公妃との確執などもあって、窮屈な宮廷生活を嫌い、ウィーンに留まることなく放浪にも似た旅を続けた。


ライヒシュタット公と呼ばれた[[ナポレオン2世]]が、彼のことを「泡立てたクリームの載ったストロベリー・アイスクリーム」と表現しているように、フランツはその愛らしさで宮廷の人々を魅了させた<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.327"/>。フランツ1世は初孫であるフランツ王子を溺愛し、自身の護衛にフランツ王子に対しても皇帝と同様の敬礼をさせた<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.327"/>。また、フランツ1世はこの幼い孫を自身の膝に乗せ、初歩の[[イタリア語]]を自ら教えたという<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.327"/>。
皇帝はその淋しさを紛らわすため、エリーザベトから紹介された舞台女優[[カタリーナ・シュラット]]と親しくなり、しばしば会話を楽しむようになった。また、そのような境遇のためか、聡明で将来を嘱望された長男[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]は、保守的な父帝と対立、[[1889年]]に[[マリー・フォン・ヴェッツェラ|マリー・ヴェッツェラ]]男爵令嬢とマイヤーリンクで謎の心中を遂げた(暗殺説もある)。


==== 幼少期 ====
[[ファイル:FranzJosephTotenbett.jpg|thumb|right|220px|フランツ・ヨーゼフ1世の遺体]]
母ゾフィーはフランツを厳しくしつける一方で弟マックス(マクシミリアン)を甘やかした。兄弟が一緒にいたずらをしても母はフランツだけをきつく叱ったが、これは将来の皇帝として長男に大きな期待をかけ、むしろ次男以下を差別した結果だった<ref name="菊池(1991) p.110"> 菊池(1991) p.110</ref>。皇族の子女による子供劇場がゾフィーの肝煎りで催された時、主演は性格からしてマックスが相応しいと誰もが思ったが、ゾフィーが指名したのは未来の皇帝たるべきフランツであった<ref>菊池(1991) p.111</ref>。わずか4歳で宮中での祝宴への参列を許されたフランツは、万事折り目正しくという母の言いつけを完璧に守り、大人たちを感嘆させたという<ref name="菊池(1991) p.110"/>。
[[ファイル:Kaiser Franz Joseph tomb - Vienna.jpg|thumb|right|220px|フランツ・ヨーゼフ1世の墓]]


[[1835年]]、フランツィは5歳のクリスマスの際に「私が一番好きなのは軍隊のものです。」と語るなど、幼い頃から非常に軍隊を愛した<ref name="ベラー(2001) p.44"> ベラー(2001) p.44</ref>。幼少期にねだった玩具は、軍隊に関連するものばかりであった<ref>菊池(1991) p.109</ref>。フランツィはとても頑固な性格で、それは総司令官に適していた。さらに、几帳面、厳格さ、実直さ、責任感、義務感など、その性格のすべてが軍隊生活において尊重される美徳だった<ref name="ベラー(2001) p.44"/>。生涯にわたって軍服を好んで着用し、軍隊を愛したフランツ・ヨーゼフ1世であるが、すでにこの頃からその兆候が表れていたのである。
悲劇は続き、皇帝の弟[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]大公は[[フランス第二帝政|フランス]]皇帝[[ナポレオン3世]]によって傀儡の[[メキシコ第二帝政|メキシコ]]皇帝に擁立されたが、メキシコ共和国の[[ベニート・フアレス]]に逮捕され、銃殺された。さらに[[1898年]]、最愛の妻エリーザベトが旅先でイタリア人[[無政府主義]]者[[ルイジ・ルキーニ]]に暗殺されたことは、皇帝に大きな衝撃を与えた。


1835年5月2日、祖父フランツ1世が[[崩御]]し、伯父フェルディナントが即位した。
息子ルドルフに代わる皇位継承者とした甥の[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]とは政治的対立が見られた。オーストリア=ハンガリー帝国の成立に見られる、皇帝のハンガリーの政治的独立を半ば認め、帝国内の民族融和を図る政策に対し、フランツ・フェルディナント大公はドイツ人の優位の上で、スラブ人の「保護」を主張したためである。またフランツ・フェルディナント大公は[[ゾフィー・ホテク]]伯爵令嬢との[[貴賎結婚]]を成しており、この結婚をめぐっても結婚式に出席を拒否し、その子供たちの相続権も認めなかった。フランツ・ヨーゼフ1世は[[シェーンブルン宮殿]]に好んで住み、またフランツ・フェルディナント大公は[[ベルヴェデーレ宮殿]]に居を構えていたため、この対立はさながらシェーンブルン対ベルヴェデーレの様相を呈していた。


==== 帝王学の日々 ====
このフランツ・フェルディナント大公夫妻の結婚に対し、その次の皇位継承者と目されていたカール大公(後の[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]])の妃[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]は皇位継承者に相応しい身分の出身([[パルマ公の一覧|パルマ公]]女であり[[スペイン・ブルボン朝|スペイン]]・[[ブルボン朝|フランス]]の両[[ブルボン家]]の血を引く)であったため、フランツ・ヨーゼフ1世は喜び、カール大公の結婚式ではわざわざバルコニーに出て民衆に手を振るという、久しく民衆と触れ合うことのなかった老帝としては珍しいサービスを行うほど上機嫌であった。
[[File:Archduke Franz Joseph (1840).jpg|thumb|left|160px|画家{{仮リンク|モリッツ・ミヒャエル・ダッフィンガー|en|Moritz Michael Daffinger}}に描かれた当時10歳のフランツ。(1840年)]]
[[ファイル:Erzherzog Franz Joseph mit seinen Brüdern Ferdinand Max und Carl Ludwig 1844.jpg|thumb|right|180px|弟[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]、[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ]]と共に描かれたフランツ。(1844年)]]
将来の皇帝たるフランツは、[[ハプスブルク家]]の伝統に則って教育された。フランツは6歳の時に傅母の手から引き離され、宰相[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]から傅育官に任命された{{仮リンク|ハインリッヒ・フランツ・フォン・ボンベル|de|Heinrich Franz von Bombelles}}伯爵のもとで、週13時間の授業を、7歳の時には32時間の授業を受けるようになった<ref name="ベラー(2001) p.42"/>。この時点でフランツが受けた授業には、[[ドイツ語]]、[[正書法]]、[[地理]]、[[宗教]]、[[図画]]、[[ダンス]]、[[体操]]、[[フェンシング]]、[[水泳]]、[[軍事訓練]]、[[フランス語]]、[[ハンガリー語]]、[[チェコ語]]が含まれていた<ref name="ベラー(2001) p.43"> ベラー(2001) p.43</ref>。その後さらに、[[歴史]]、[[馬術]]、[[音楽]]、[[イタリア語]]が追加された。母ゾフィーが嘆くほどに、フランツに対する教育は峻烈なものだった。


12歳の時には週に50時間にも及ぶ授業時間が設けられ、13歳の時には勉強しすぎのストレスから病気になったが、しばらく休んだ後、さらに多くの科目が追加された<ref name="ベラー(2001) p.43"/>。[[1844年]]以降は[[哲学]]、[[法律学]]や[[政治学]]、[[天文学]]、[[工学]]、[[ポーランド語]]も追加された<ref name="ベラー(2001) p.43"/>。フランツが1週間に学ばねばならない科目は37に及び<ref name="江村(1994) p.20"/>、授業は朝6時に始まり、夜の9時まで続いた<ref name="ベラー(2001) p.43"/>。苦手な科目は[[数学]]と正書法であり、好きな科目は歴史と地理であった<ref name="江村(1994) p.20"/>。母ゾフィーは宗教と歴史を大切に思っていたことから、この両教科の授業には必ず同席した<ref name="江村(1994) p.20"/>。
[[1914年]]にフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されると([[サラエボ事件]])、この事件に端を発して[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]への[[宣戦布告]]を行うこととなる。この一連の流れは[[第一次世界大戦]]の引き金ともなり、フランツ・ヨーゼフ1世が生涯をかけて守ろうとしたハプスブルク帝国そのものを崩壊に導くのである。


国語であるドイツ語や当時の外交言語であったフランス語のほか、[[ラテン語]]、ハンガリー語、チェコ語、ポーランド語、イタリア語といったように多くの言語が含まれているが、これは多民族国家[[ハプスブルク君主国]]として重要な言語がカリキュラムに組み込まれた結果である<ref name="ベラー(2001) p.43"/><ref name="江村(1994) p.20"/>。
== 家族 ==

軍事関係については、陣営での指揮、連隊の配置、歩兵、砲兵、騎兵の任務などの訓練を受けるようになった<ref name="江村(1994) p.20"> 江村(1994) p.20</ref>。16歳で[[大佐]]となったフランツは[[1846年]]7月、故フランツ1世の記念碑の除幕式に出席するために[[モラヴィア|メーレン]]の[[オルミュッツ]]に足を運んだ。フランツが公の場に姿を現したのはこの時が初めてで、この日初めてフランツは自分の指揮すべき連隊を視察した<ref name="江村(1994) p.20"/>。この地でフランツはしばし牧歌的な生活を楽しんだが、間もなくウィーンで容易ならぬ騒動が発生することになる。

==== 1848年革命 ====
[[ファイル:Barricade bei der Universität am 26ten Mai 1848 in Wien.jpg|thumb|left|210px|[[1848年革命|3月革命]]下のウィーン市街。至る所にバリケードが築かれた。]]
[[フランス王国]]で発生した[[1848年のフランス革命|2月革命]]がヨーロッパ中に飛び火して、オーストリア帝国では[[1848年革命|3月革命]]が発生する。ウィーンでは、およそ27年にわたって帝国宰相を務めていたメッテルニヒの罷免を求める声が、学生や労働者を中心に高まった<ref name="江村(1994) p.26"> 江村(1994) p.26</ref>。3月13日に群衆が[[シェーンブルン宮殿]]前の下オーストリア領邦議会議事堂に殺到し、[[検閲]]の廃止、[[出版の自由]]や自主憲法の制定を要求した<ref name="江村(1994) p.26"/>。翌14日にメッテルニヒが職を辞してウィーンから逃亡すると、メッテルニヒを悪政の象徴とみなしていた民衆は歓喜した。伯父フェルディナント帝がフランツ・カール大公、フランツとともに馬車に乗って市内を駆け巡ると、民衆はこれを歓声をもって迎えた。かくしてウィーンには一時平穏が戻ったが、やがて[[バイエルン王国]]で[[ルートヴィヒ1世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ1世]]が退位したとの知らせが届く。ウィーンはふたたび混迷に陥り、皇帝の安全さえ保証できない情勢になった<ref name="江村(1994) p.29"> 江村(1994) p.29</ref>。

[[ファイル:Battaglia di Santa Lucia (particolare).jpg|thumb|right|220px|サンタ・ルチアの会戦の様子。]]
このような不穏な情勢の中で、ハプスブルク家の次代を担うフランツは病弱な皇帝よりも大事な存在だった<ref name="江村(1994) p.29"/>。母ゾフィー大公妃はイタリアの[[ヨーゼフ・ラデツキー]]将軍のもとにフランツを託し、軍隊での経験を積ませることにした。当時のイタリア戦線はけっして思わしいものではなかったが、それでも革命的な様相を呈するウィーンよりはましだった。帝国騎兵隊の制服に身を固めたフランツは、4月25日にイタリアへの旅路につき、4月29日にラデツキー将軍のもとに到着する<ref name="江村(1994) p.30"> 江村(1994) p.30</ref>。ラデツキー将軍は若き大公を安全な場所に避難させようとしたが、フランツはこれを拒絶した<ref name="江村(1994) p.30"/>。5月6日に始まった{{仮リンク|サンタ・ルチアの会戦|en|Battle of Santa Lucia}}では{{仮リンク|コンスタンティン・ダスプレ|de|Konstantin d’Aspre}}中将の部隊に所属した<ref>江村(1994) p.31-32</ref>。ラデツキー将軍の報告書には、フランツについて次のように記されている<ref name="江村(1994) p.33"> 江村(1994) p.33</ref>。「殿下は幾度となく、迫りくる砲火のもとに身をさらされ、しかも平然と落ち着き、冷静そのものであられた。これは私のいたく喜びとするところである。敵の砲弾が殿下のごく間近にまで飛来したにもかかわらず、微動だにされなかったのを、私自身が目にした。」

フランツがイタリア戦線に発った4月25日、ウィーンではフェルディナント帝が[[欽定憲法]]を発布し、またしばらくは平穏が戻っていた<ref name="江村(1994) p.33"/>。しかし5月15日、多くの民衆が[[普通選挙法]]の制定などの新たな要求を掲げて王宮前広場に集まり、宮殿の中に殺到しかねないありさまになった<ref name="江村(1994) p.33"/>。フェルディナント帝は皇族や宮廷人をすべて引き連れて、やむなく[[チロル]]州都[[インスブルック]]に避難した<ref name="江村(1994) p.33"/>。フランツはそのままイタリア戦線に留まることを望んだが、インスブルックへ来るようにとの指令を受け、やむなく両親らの待つインスブルックに入った。ここでは将来の花嫁となる従妹のエリーザベトとの対面もあったが、まだこの時には彼女に対して何の感情も抱かなかった<ref name="江村(1994) p.55"> 江村(1994) p.55</ref>。

やがて[[プラハ]]の暴動を鎮圧した[[アルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ]]侯爵がウィーンに帰り、こちらの動乱も収束させていった。こうして8月初頭に宮廷はウィーンに帰還したが、ほんの2、3週間も経たないうちに、またしても急進的な学生や労働者が宮殿前に集った。宮殿を守る軍隊によって一時的に彼らは撃退されたものの、両者の溝は深まる一方だった。10月16日、暴徒と化した民衆が[[陸軍省]]を襲い、{{仮リンク|テオドール・ラトゥール|de|Theodor Baillet von Latour}}伯爵を殺害し、路上で吊るし首にした<ref name="江村(1994) p.36"> 江村(1994) p.36</ref>。ウィーンは予断を許さぬ情勢に陥り、宮廷はふたたび都落ちする。今度の行き先はメーレンのオルミュッツであった<ref name="江村(1994) p.36"/>。フランツは馬に乗り、一族の馬車に付き添うようにしてこれに同行した<ref name="江村(1994) p.36"/>。オルミュッツに逃れた宮廷では会議が行われ、伯父フェルディナント1世の退位が決定する<ref name="江村(1994) p.38"> 江村(1994) p.38</ref>。フェルディナント帝では国家の安泰を維持できず、その弟フランツ・カール大公も適任ではないという結論から<ref name="江村(1994) p.38"/>、フランツが18歳の若さで即位することとなった。

=== 即位 ===
==== オルミュッツでの即位 ====
[[ファイル:Franz Joseph I of Austria Bauer color lithograph by and after Bauer, dated 1848 by artist; oval bust portrait in uniform and orders.jpg|thumb|right|180px|1848年、即位したばかりのフランツ・ヨーゼフ1世。]]
[[1848年]]12月2日に伯父フェルディナント帝から譲位され、即位する。儀典長{{仮リンク|アレクサンダー・フォン・ヒュープナー|de|Alexander von Hübner}}伯爵の回顧録によると、まずフランツ大公の成年証書が、次にその父フランツ・カール大公の皇位放棄証書が、最後にフェルディナント帝の退位についての詔勅が首相[[フェリックス・シュヴァルツェンベルク]]公爵によって読み上げられ、フェルディナント帝とフランツがこれに署名した<ref name="菊池(1991) p.102"> 菊池(1991) p.102</ref>。フランツは伯父の前に跪き、その祝福を受けた。フェルディナント帝は声を震わせながら「しっかりおやり、きっとうまくいくさ。」と語りかけたという<ref name="菊池(1991) p.102"/>。傍系の[[オーストリア大公]]は20歳が成人年齢とされていた<ref>菊池(1991) p.123</ref>が、フランツは特例だった。

ウィーンから遠く離れたオルミュッツでの帝位継承ゆえ、[[戴冠式]]は執り行われなかった。また、しばらくはこの地で親政が行われた。「フランツ2世」ではなく「'''フランツ・ヨーゼフ1世'''」という複合名が用いられることになったのは、それだけ当時の革命の状況が危機的なものだったことを示している<ref name="ベラー(2001) p.45"> ベラー(2001) p.45</ref>。急進的な改革を行ったことによって自由主義者から敬愛される[[ヨーゼフ2世]]を彷彿とさせるこの名前を用いることで、革命勢力をなだめる意味も込められていたのである<ref name="ベラー(2001) p.45"/><ref name="ベラー(2001) p.64"> ベラー(2001) p.64</ref>

しかし当のフランツ・ヨーゼフ1世は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする[[王権神授説]]を固く信じて疑わない人物であった<ref name="リケット(1995) p.94"> リケット(1995) p.94</ref><ref name="ベラー(2001) p.70"> ベラー(2001) p.70</ref>。このような思想をもつ新皇帝にとって[[憲法]]とは、その内容いかんにかかわらず、神から与えられた「信念が命ずるままに統治する」という統治者の義務に背くものであった<ref name="ベラー(2001) p.70"/>。そのためフランツ・ヨーゼフ1世は、[[自由主義]]、[[国民主義]]の動きを抑圧しようとした。新皇帝は軍服に身を包み、軍靴の足音を響かせながらウィーンの宮殿に入り、ただちに戒厳令を布いた<ref>小宮(2000) p.62</ref>。

これに多くのウィーン市民は失望したが、その一方でウィーンの平穏を取り戻すためには戒厳令が必要なのだと擁護する声も多く聞かれた<ref name="小宮(2000) p.67"> 小宮(2000) p.67</ref>。革命運動に身を投じた市民の中でいち早く皇帝派に変節したのが、音楽家[[ヨハン・シュトラウス2世]]であった。フランツ・ヨーゼフ1世の即位以降、彼は矢継ぎ早に『皇帝フランツ・ヨーゼフ行進曲』『戦勝行進曲』『ウィーン守備隊行進曲』などの体制側を賛美する楽曲を作った<ref name="小宮(2000) p.67"/>。もっとも、革命運動に深く関わったシュトラウス2世に対してフランツ・ヨーゼフ1世は何の反応も示さず、なかなか許そうとしなかった<ref name="小宮(2000) p.67"/><ref name="渡辺(1997) p.154"> 渡辺(1997) p.154</ref>。シュトラウス2世を宮廷舞踏会の指揮者に任命する動議が出ても、フランツ・ヨーゼフ1世はこれを二回も却下した<ref name="渡辺(1997) p.154"/>。

==== 新絶対主義 ====
[[ファイル:KaiserFranzjosef1853-1-.jpg|thumb|left|180px|フランツ・ヨーゼフ1世。(1853年)]]
母であるゾフィー大公妃の尽力により皇帝に即位したため、フランツ・ヨーゼフ1世はゾフィー大公妃の意見にほとんど逆らえなかった。そのため治世当初は保守的なゾフィー大公妃がしばしば政治に介入した。首相[[フェリックス・シュヴァルツェンベルク]]公爵は、貴族でありながら伝統的貴族をハプスブルク家にとっての脅威とみなし<ref name="ベラー(2001) p.64"/>、むしろ農民層の大衆を信頼できる同盟者と考えた<ref name="ベラー(2001) p.65"> ベラー(2001) p.65</ref>。彼の補佐を受けながらフランツ・ヨーゼフ1世が行った統治は「'''新絶対主義'''」(ネオアプゾルーティスムス)と称される。それは古い[[絶対王政|絶対主義]]を復活させようとするものではなく、近代的な新しい絶対主義を生み出そうとしたからである<ref name="ベラー(2001) p.65"/>。また王権神授説を信じるフランツ・ヨーゼフ1世自身も、即位後ただちに内閣と議会の関係を変えようとはしなかった<ref name="ベラー(2001) p.64"/>。「新絶対主義」の理論的拠り所は、万人のための近代的な経済・行政・教育システムを有無を言わさず与えることによって、万人への政治的諸権利の譲渡を不要にするというものである<ref>ベラー(2001) p.73</ref>。

[[1851年]]12月31日、「大晦日勅書」を発する。これは皇帝の絶対的権威をうたったものであり、政治や立法への国民の関与を認めず、出版の自由や検閲の廃止などを暫定的に認めた1849年3月の欽定憲法を完全に廃止するものであった<ref>江村(1994) p.48</ref>。これに先立つ8月にフランツ・ヨーゼフ1世は「イギリス的・フランス的憲法をオーストリア帝国に適用することの不可能なることは、見識あるすべての人々によって認められている。」と断言しており<ref>ベラー(2001) p.71</ref>、明らかに皇帝の意志が反映された結果である。9月には亡命していたメッテルニヒがウィーンに帰還する。かくしてオーストリアはふたたび絶対主義国家に戻った。

[[1852年]]にシュヴァルツェンベルク公爵が世を去ると、若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は首相を空席とし<ref name="江村(1994) p.49"> 江村(1994) p.49</ref>、真の絶対君主として君臨することになる<ref name="リケット(1995) p.94-95"> リケット(1995) p.94-95</ref>。シュヴァルツェンベルク公爵の後継者たりうる人物は、誰も見当たらなかったのである<ref name="江村(1994) p.49"/>。[[アレクサンダー・フォン・バッハ]]内相が政府内で枢要な地位にあったが、それはほとんど内政問題のみに関してであった。この時代は内相の名から「バッハ時代」と呼ばれる<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.47</ref>。

==== ハンガリー蜂起の弾圧 ====
[[ファイル:Armee Bulletin XXXIX.jpg|thumb|right|230px|ハンガリーの都市[[ジェール]]に進軍するフランツ・ヨーゼフ1世。]]
オーストリア帝国内の領邦であった[[ハンガリー王国|ハンガリー]]では、三月革命以前からハンガリー貴族[[コシュート・ラヨシュ]]らを中心とした独立闘争が活発に行われていた。これに対しフランツ・ヨーゼフ1世は1848年12月16日に[[アルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ|ヴィンディシュ=グレーツ]]侯爵をハンガリーに派遣して[[ブダペスト]]を陥落させた<ref name="江村(1994) p.42"> 江村(1994) p.42</ref>。コシュートは国外に逃亡したが、[[1849年]]4月には再びハンガリー人勢力によってブカレストを奪われてしまう<ref name="江村(1994) p.42"/>。広大なハンガリーを抑えるのは困難であり、またハンガリー人は支配層であるオーストリア人(ドイツ人)に根強い反感を抱いていたので、オーストリアのみではハンガリー人を完全に屈服させることができなかった。ヴィンディシュ=グレーツ侯爵は[[ロシア帝国]]に援助を求めるよう皇帝に要請したが、母ゾフィーが反対を唱えたためにフランツ・ヨーゼフ1世は躊躇した<ref name="江村(1994) p.43"> 江村(1994) p.43</ref>。しかし事態を打破するにはやむを得ない状況であったので、ロシア皇帝[[ニコライ1世]]に援助を依頼することを決めた<ref name="江村(1994) p.43"/>。1849年4月、[[ワルシャワ]]でニコライ1世と会談して支援を求めた。

また、6月26日には皇帝のハンガリー親征が行われた<ref name="菊池(1991) p.121"> 菊池(1991) p.121</ref>。これに付き従った弟マクシミリアン大公が母ゾフィーに宛てた手紙によると、フランツ・ヨーゼフ1世は今にも焼け落ちそうな橋を疾駆し、両陣営を唖然とさせたという<ref name="菊池(1991) p.121"/>。前線の部隊に踊り込むなどのフランツ・ヨーゼフ1世の行動は、兵士の士気と忠誠心を大いに高める効果があったが、同時にあまりに危険すぎるものだった<ref name="菊池(1991) p.122"> 菊池(1991) p.122</ref>。。シュヴァルツェンベルク公爵は諸将との話し合いの上で、マクシミリアン大公の誕生日である7月6日にシェーンブルンへ帰還するよう皇帝兄弟に求め、フランツ・ヨーゼフ1世はこれに応じた<ref name="菊池(1991) p.122"/>。

オーストリアの申し出に応諾したロシアは、8月13日にハンガリー東部へ出兵した。ほとんどオーストリアの功績であるにも関わらず、ハンガリーの将軍{{仮リンク|アルトゥール・ゲルゲイ|de|Artúr Görgei}}の降伏を受理したのはロシア軍だった<ref name="ベラー(2001) p.68"> ベラー(2001) p.68</ref>。

[[File:Bstthyány kivégzése.jpg|thumb|right|240px|ハンガリー元首相{{仮リンク|バッチャーニュ・ラヨシュ|de|Lajos Batthyány}}伯爵の処刑。]]
[[1849年]]10月6日、独立を企てたとされるハンガリー元首相{{仮リンク|バッチャーニュ・ラヨシュ|de|Lajos Batthyány}}伯爵を始めとする計114名の[[マジャル人]]の要人を粛清させた<ref name="江村(1994) p.44"> 江村(1994) p.44</ref>。バッチャーニュ伯爵は引退してすでに久しく、革命後期の暴動にはいっさい責任がないと当時の世論は考えていた<ref name="ベラー(2001) p.68"/>。これによって即位後まもなくのフランツ・ヨーゼフ1世は、「血に染まった若き皇帝(der blut-junge kaiser)」としてハンガリー人に恐れられた<ref name="江村(1994) p.44"/>。ハンガリーの反逆者に対して取られた措置はヨーロッパの世論にショックを与え、さらにハンガリー人の心情に大きな影響を及ぼすこととなった<ref name="ベラー(2001) p.68"/>。

1852年、ハンガリー各地へ行幸し、ハンガリー人の熱狂的な歓迎を受けた。しかし、ある村を通り過ぎた際、村人たちがドイツ語で万歳を叫んでいたのに疑問を抱き、なぜハンガリー語で叫ばなかったのかを村長に訊ねた<ref name="ベラー(2001) p.79"> ベラー(2001) p.79</ref>。すると村長は、それを命じたのは自分であると言った。村人たちはハンガリー語で「万歳、コシュート」と叫ぶのに慣れており、ハンガリー語で万歳を叫ぶと、つい同じことを叫んでしまうのではないかと恐れたのがその理由であった<ref name="ベラー(2001) p.79"/>。かつて宰相メッテルニヒはこう言った。「ハンガリー人を熱狂させるのは簡単だが、彼らを統治するのは困難である。」と<ref name="江村(1994) p.51"> 江村(1994) p.51</ref>。まさにこのメッテルニヒの言葉のように、彼らは心の奥底から忠誠を誓ったわけではなかった。

==== 暗殺未遂事件 ====
[[File:J.Reiner - Attentat auf Kaiser Franz Joseph.jpg|thumb|right|210px|襲撃事件の様子を描いたもの。]]
[[1853年]]2月18日の昼、副官{{仮リンク|マクシミリアン・カール・オドネル|de|Maximilian O'Donell von Tyrconell}}伯爵のみを伴っての散歩中に<ref name="平田(1996) p.52"> 平田(1996) p.52</ref><ref name="江村(1994) p.52"> 江村(1994) p.52</ref>、ブルク稜堡の胸壁に身を乗り出し、下の堀のところで行われていた軍事訓練の様子を眺めていた<ref name="平田(1996) p.63"> 平田(1996) p.63</ref>。そこを2週間前から暗殺の機会をうかがっていたハンガリー人の仕立物師ヤーノシュ・リーベニに襲われた<ref name="平田(1996) p.63"/>。ヤーノシュが突進しようとした瞬間、たまたま近くにいた女性がそれを見て大声で叫んだ。フランツ・ヨーゼフ1世はその叫び声に驚いて後ろを振り向いたために、致命傷は逃れることができた<ref name="江村(1994) p.52"/>。しかし首から胸に突き刺されてフランツ・ヨーゼフ1世は血みどろになり、数秒後にその場に崩れ落ちた<ref name="江村(1994) p.52"/>。近くの古物市場で買い求めた刃物が凶器であった<ref name="平田(1996) p.63"/>。副官はただちにサーベルを抜いて犯人の第二の突きを牽制し、そこに[[ヴィーデン (ウィーン)|ヴィーデン]]地区の肉屋{{仮リンク|ヨーゼフ・エッテンライヒ|de|Josef Ettenreich}}が駆けつけ、犯人を素手で殴り倒して取り押さえた<ref name="平田(1996) p.63"/>。フランツ・ヨーゼフ1世は刺された後、駆けつけた人々に向かって「彼を殴ってはならない。殺したりしてはならない。」と叫んだという<ref name="江村(1994) p.53"/>。

フランツ・ヨーゼフ1世は傷口にハンカチを当てて近くの[[アルブレヒト宮殿]]に運び込まれ<ref name="平田(1996) p.63"/><ref name="江村(1994) p.53"> 江村(1994) p.53</ref>、宮廷劇場付きの医師フリードリヒ・シュティルナーの手当てを受けた<ref name="平田(1996) p.63"/>。これ以降、医師団は12日の間に30の特別広報を出して、皇帝の容体・回復の様子を逐一伝えた<ref name="平田(1996) p.63"/><ref name="平田(1996) p.64"> 平田(1996) p.64</ref>。初診によると、後頭部の骨が損傷しており、安物のナイフの刀身が不潔なものだったために、傷が化膿し始めていた<ref name="江村(1994) p.53"/>。しばらくの間は視力が衰え、一時は失明の恐れさえあった<ref name="江村(1994) p.53"/>が、フランツ・ヨーゼフ1世は次第に快方に向かった。

この暗殺未遂事件をハンガリーの武力蜂起の新たな兆候かと疑った軍部は、2万の兵を動員して警戒にあたった<ref name="平田(1996) p.64"/>。しかしこの事件に背後関係はなく、コシュートによる[[ハンガリー革命 (1848年)|ハンガリー革命]]の失敗を無念に思うハンガリー[[愛国主義]]者の単独犯行であることが判明する<ref name="平田(1996) p.64"/><ref>『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.123</ref>。フランツ・ヨーゼフ1世は刑一等を減じてやりたいと願っていたとも伝えられるが、即時裁判によって死刑が確定し、ヤーノシュは2月26日の朝にウィーン南郊外の刑場で処刑され、その母親には年金が交付された<ref name="平田(1996) p.64"/>。

ウィーン市民の多くはそれまでフランツ・ヨーゼフ1世に対してあまり良い感情を抱いていなかったが、この事件のあとは一種の同情心からか親しみが生まれた<ref name="江村(1994) p.54"> 江村(1994) p.54</ref>。弟[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]大公は、皇帝の命が救われたことを神に感謝するために新しい教会を建立しようと呼びかけると<ref name="平田(1996) p.64"/><ref name="江村(1994) p.54"/>、30万人の市民がこれに賛同し、寄付金によって[[ヴォティーフ教会]]が建立された。シュトラウス2世は、皇帝の命が救われたことを祝って、作品126『フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』(『フランツ・ヨーゼフ1世万歳!』とも日本語訳される)という行進曲を皇帝に捧げた<ref name="小宮(2000) p.77"> 小宮(2000) p.77</ref>。なお、皇帝の命を救った肉屋エッテンライヒはその勲功により世襲貴族に叙せられた<ref name="平田(1996) p.64"/><ref name="江村(1994) p.53"/>。また、この事件をきっかけに帝都改造論が勢いづいた<ref name="平田(1996) p.52"/>。フランツ・ヨーゼフ1世の傷の後遺症はしばらく続き、完治するまでに一年近くを要した<ref name="江村(1994) p.53"/>。

==== 皇后の選定 ====
[[File:Anna porosz hercegnő (1836–1918).jpg|thumb|left|160px|第一候補、プロイセン王女マリア・アンナ。]]
若き皇帝のために、宮中では皇后選びの作業が進められていた。先頭に立って妃選びにあたった母ゾフィー大公妃がまず候補に挙げたのは、プロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]の姪にあたる[[マリア・アンナ・フォン・プロイセン|マリア・アンナ王女]]であった<ref name="江村(1994) p.51"/><ref name="『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.124"> 『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.124</ref>。[[1852年]]の冬、かつてプロイセン王がウィーンを訪れたことへの答礼としてフランツ・ヨーゼフ1世は[[ベルリン]]を訪れており<ref name="江村(1994) p.51"/>、その際に美しいと評判の彼女に会って心を奪われていたことによる。また、好戦的な姿勢を隠さなかった[[フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]への対処のために、当時ぎすぎすしていたオーストリアとプロイセンの関係を改善したいという意図もあった<ref name="江村(1994) p.51"/>。しかし、プロイセンは自国主導の[[ドイツ統一]]を目論んでおり、その足枷となるオーストリア帝室との婚姻をこの時期に結ぶことはありえなかった<ref name="江村(1994) p.51"/>。それに、[[プロテスタント]]の[[ホーエンツォレルン家]]と[[カトリック]]のハプスブルク家では宗旨が違うという理由もあるので<ref name="『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.124"/>、この縁談はプロイセン側に断られた。

[[File:Helena Thurn Taxis.jpg|thumb|right|140px|第二候補、バイエルン公女ヘレーネ。]]
次善の策として母が目をつけたのは、バイエルン王家である[[プファルツ=ビルケンフェルト家|ヴィッテルスバッハ家]]傍系の公女で、皇帝にとっては母方の従妹にあたる[[ヘレーネ・イン・バイエルン]]だった。1853年2月18日の夜、フランツ・ヨーゼフ1世とヘレーネのお見合いを兼ねて、外国からの賓客を招いた舞踏会が催される予定だった<ref name="江村(1994) p.51"/>が、当日の昼にヤーノシュによる皇帝襲撃事件が起こり、お見合いは延期となった<ref name="江村(1994) p.54"/>。

8月18日に満23歳になる皇帝の誕生日の祝賀をするという名目で、母ゾフィーは[[ミュンヘン]]から妹[[ルドヴィカ・フォン・バイエルン|ルドヴィカ]]と姪を招待した<ref name="江村(1994) p.55"/>。こうして8月16日、ウィーンとミュンヘンのほぼ中間に位置する避暑地バート・イシュルの地で両者のお見合いが行われたが、この時フランツ・ヨーゼフ1世は、社交界に慣れさせるためにヘレーネと一緒に連れてこられたその妹[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]に一目惚れをしてしまった<ref name="『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.124"/><ref>倉田(2006) p.199</ref>。顔合わせの際にはヘレーネには見向きもせずにエリーザベトに熱い視線を注ぎ、その後の夜会でも、ヘレーネにはほとんど無関心でエリーザベトとばかり言葉を交わしていた<ref>江村(1994) p.56</ref>。

翌17日の朝、母ゾフィーの部屋を訪れると、エリーザベトがいかに魅力的であるかを情熱的に語った<ref name="江村(1994) p.57"> 江村(1994) p.57</ref>。ゾフィーがヘレーネについての意見を訊ねても、フランツ・ヨーゼフ1世はすぐにその話をエリーザベトについてのものに変えてしまった<ref name="江村(1994) p.57"/>。夕べに舞踏会が催されたが、そこでもエリーザベトとしか踊ろうとしなかった<ref name="江村(1994) p.57"/>。今まで自分の言うことにはすべて従っていた息子が、自分の選んだヘレーネには目もくれないというこの状況を前にして、母ゾフィーは非常に困惑した<ref name="江村(1994) p.57"/>。

誕生日である18日の午後、ふたりの従妹とともに母ゾフィーに連れられて、近隣にある[[ヴォルフガング湖]]へ馬車で散策に出掛けた<ref name="江村(1994) p.58"> 江村(1994) p.58</ref>。この外出から帰るとすぐに、エリーザベトに結婚する意志があるかどうか確認してほしいと母に懇願した<ref name="江村(1994) p.58"/>。8月19日の早朝、母に呼ばれ、結婚申し込みを承諾した旨の叔母ルドヴィカの書き付けを見せられた<ref name="江村(1994) p.60"> 江村(1994) p.60</ref>。かくしてふたりの婚約は成立した。その日のうちにふたりは当地の教会に行き、祭壇の前で司祭から祝福を受け、婚約の儀式を終えた<ref name="江村(1994) p.60"/>。

==== エリーザベトとの結婚 ====
[[ファイル:MAraige de Sissi et François-Joseph.png|thumb|left|260px|1854年4月24日、アウグスティーナー教会で執り行われた結婚式。]]
[[1854年]]4月22日の午後4時、エリーザベトとその家族を乗せた蒸気船がウィーンのヌスドルフの波止場に到着した<ref name="江村(1994) p.64"> 江村(1994) p.64</ref>。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、ハプスブルク家の一族や高位高官の者をその背後に並ばせて、花嫁の一行を出迎えた<ref name="江村(1994) p.64"/>。そして24日、ウィーンの{{仮リンク|アウグスティーナー教会|en|Augustinian Church, Vienna}}で枢機卿ラウシャーのもと、午後6時半に結婚式が挙行された<ref name="倉田(2006) p.201"> 倉田(2006) p.201</ref>。

[[シェーンブルン宮殿]]の「鏡の間」で祝賀舞踏会が行われ、招待客は3000人に及んだ<ref name="倉田(2006) p.201"/>。この舞踏会の指揮を担当したのは[[ヨハン・シュトラウス2世]]であり、また彼は皇帝の結婚を祝賀するために作品154『ミルテの冠』(『ミルテの花束』とも)というワルツを作曲した<ref name="小宮(2000) p.77"/>。この結婚によって皇帝の人気は高まり、夜に皇帝夫妻が馬車で町を巡遊すると、沿道には大勢の人々が詰めかけた。

新婚の皇帝夫妻は、まず{{仮リンク|ラクセンブルク|en|Laxenburg}}の宮殿で新生活を始めた<ref name="倉田(2006) p.201"/>。しかし、新婚早々[[クリミア戦争]]が激化したため、フランツ・ヨーゼフ1世は早朝から深夜まで会議や閣議、応接に追われ、あまり新妻を顧みる余裕がなかった。

母ゾフィーはエリーザベトにウィーン流の宮廷教育を施し、ハプスブルク家の皇后としてふさわしい振る舞いを常に求めた<ref name="江村(1994) p.72"> 江村(1994) p.72</ref>。そもそも母ゾフィーはヘレーネ公女を皇后にと考えていたのであって、その妹であるエリーザベトについてはあまり快く思っていなかった<ref name="江村(1994) p.72"/>。このような状況の中で、フランツ・ヨーゼフ1世は妻と母の間で板挟みになった。両者が何かをめぐって対立した際、「皇帝になれたのは私のおかげ」だと母に常々言い聞かされてきたフランツ・ヨーゼフ1世はいつも母ゾフィーの側につかざるをえなかったが、母のいないときには妻エリーザベトに理解を示した<ref name="江村(1994) p.81"> 江村(1994) p.81</ref>。

{{Gallery
|ファイル:Sissi&Franz.jpg|新婚の皇帝夫妻。(1854年)
|File:Ignaz Lechleitner Franz Joseph I und Elisabeth vor1860 ubs G 0940 III.jpg|エリーザベトとともに散歩するフランツ・ヨーゼフ1世。
}}

==== ウィーン改造 ====
[[File:Bau Staatsoper.jpg||thumb|left|230px|城壁の取り壊しと建設中の[[リングシュトラーセ]]。(1863年)]]
1853年の皇帝襲撃事件が起きる前から、ウィーン城壁を撤去しようという意見は多く聞かれた。市街地区に建設用地はまったくなく、19世紀初頭以来、くりかえし建物禁止令が発された<ref name="平田(1996) p.60"> 平田(1996) p.60</ref>。用地の慢性的な不足により建物を建設できないのに対して、ウィーンの人口は19世紀前半の50年でほぼ倍増し<ref name="平田(1996) p.60"/>、住まいを求める人口が20万人にも達していた<ref name="平田(1996) p.62"> 平田(1996) p.62</ref>。このような状況下で、当時のウィーン市長{{仮リンク|ヨハン・カスパール・フォン・ザイラー|de|Johann Kaspar von Seiller}}や通産大臣{{仮リンク|カール・ルートヴィヒ・フォン・ブルック|de|Karl Ludwig von Bruck (Politiker)}}などは熱心にウィーン改造を主張した<ref name="平田(1996) p.62"/>。皇帝襲撃事件の数日前にフランツ・ヨーゼフ1世は、美術アカデミーの教授{{仮リンク|ルートヴィヒ・フェルスター|de|Ludwig Förster}}からウィーン改造案についての説明を受けて大いに関心を示し、基本的に帝都改造に同意していた<ref name="平田(1996) p.62"/>。そこに襲撃事件が発生し、ますますウィーン改造への追い風となった。

[[1857年]]7月、長年の懸案となっていたウィーン城壁の撤去計画がまとまり、12月20日にフランツ・ヨーゼフ1世は帝都改造の勅書に署名した<ref>平田(1996) p.66</ref><ref name="『ウィーン 他民族文化のフーガ』 p.291"> 『ウィーン 他民族文化のフーガ』 p.291</ref>。皇帝の決断が30年後の[[世紀末ウィーン]]の栄華を導くことになる。警察長官{{仮リンク|ヨハン・フランツ・ケンペン|de|Johann Franz Kempen}}のように、この決定を性急かつ無思慮なものと見なす軍人や保守派市民もいたが、大部分のウィーン市民に受け入れられた<ref name="平田(1996) p.67"> 平田(1996) p.67</ref>。とりわけ労働者は、撤去工事と新たな建設工事によって仕事が増えると歓迎した<ref name="平田(1996) p.67"/>。市民はフランツ・ヨーゼフ1世の決断を絶賛し、皇帝の人気は急上昇した<ref>平田(1996) p.68</ref>。

[[共和主義者]]は城壁が撤去されることによって宮殿が無防備になると考えた<ref name="平田(1996) p.67"/>が、そもそもこの古い城壁は、武器の飛躍的な発達によって有効性を失いつつあった<ref name="『ウィーン 他民族文化のフーガ』 p.291"/> 。むしろ複雑に入り組んだ街区を整理することによって、1848年革命のようにバリケードが築かれる余地がなくなり、治安はより保たれることになる。それまでは狭い城門を通らねばならなかったが、城壁を撤去すれば大量の部隊を周辺から呼び寄せることもできる。支配者側としてはこのような考えのもとでウィーン改造を計画した<ref name="小宮(2000) p.67"> 小宮(2000) p.67</ref>。これらは、フランス皇帝[[ナポレオン3世]]が[[ジョルジュ・オスマン]]とともに断行した[[パリ改造]]の先例にいくらか影響を受けたものである<ref>ベラー(2001) p.78</ref>。

それまでウィーン市内を囲んでいた城壁は長い時間をかけてすべて撤去され、旧市街と34ある郊外地区との間に横たわる、防備のための広々としたグラーシ(Glacis)と呼ばれる空間に、[[リングシュトラーセ]]と呼ばれる環状線が設けられることとなった。リングシュトラーゼの両側に[[ネオ・ゴシック建築|ネオ・ゴシック様式]]の市庁舎や[[新古典主義建築|新古典様式]]の帝国議会を建設するなど、[[歴史主義]]的な建造物による[[都市計画]]が行われた。また、巨大な兵舎や[[国防省]]、警察の中枢がリングシュトラーセの両端に配置された<ref name="小宮(2000) p.67"/>。こうしてウィーンの街は、ヨーロッパ随一の文化メトロポーレとして変貌を遂げていった。ハプスブルク帝国の長い歴史において、フランツ・ヨーゼフ1世の統治した時代こそが、ウィーンが最も強い輝きを放った時代であった。新興の都ベルリンなど足元にも及ばぬ美しい帝都の完成に、フランツ・ヨーゼフ1世は非常に満足していたと伝えられる<ref>平田(1996) p.281</ref>。

フランツ・ヨーゼフ1世は芸術・音楽・文学などには疎かった<ref name="リケット(1995) p.94-95"/>にも関わらずそれらの庇護者であり、当時ウィーンの批評家に酷評されていた[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]に対する支持をシュトラウス2世とともに表明している<ref>[http://www5f.biglobe.ne.jp/~strauss/nyconcert/ny13.pdf ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2013曲目解説]〈メロディー・カドリーユ〉を参照。</ref>。[[1870年]]1月5日に[[ウィーン楽友協会]]の落成式に臨席する<ref>[http://www5f.biglobe.ne.jp/~strauss/nyconcert/ny12.pdf ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2012曲目解説]〈騎手〉を参照。</ref>など、フランツ・ヨーゼフ1世は公私を問わずさまざまな行事に姿を見せ、あらゆる芸術文化を庇護した<ref>小宮(2000) p.97</ref>。

==== イタリア戦線の敗退 ====
{{main|ソルフェリーノの戦い}}
[[ファイル:Francesco Giuseppe fra le truppe a Solferino 1859.jpg|thumb|right|280px|[[ソルフェリーノの戦い]]におけるフランツ・ヨーゼフ1世。]]
[[1815年]]の[[ウィーン会議]]の結果、[[北イタリア]]に位置する[[ロンバルディア州|ロンバルディア]]と[[ヴェネト州|ヴェネト]]はオーストリア帝国に帰属することとなり、[[ロンバルド=ヴェネト王国]]となっていた。しかし、イタリア民族主義の高まりから、現地ではオーストリアからの分離運動が盛んに行われるようになっており、フランス皇帝ナポレオン3世がこれを密かに支援していた<ref name="江村(1994) p.82"> 江村(1994) p.82</ref>。

そこで、政情不安を和らげるためにフランツ・ヨーゼフ1世は、[[1856年]]11月17日から4か月間にわたって皇后エリーザベトを伴って北イタリアへの巡幸を行った<ref name="江村(1994) p.82"/>。[[ヴェネチア]]では、ロンバルド=ヴェネト王国の副王を務めていたラデツキー元帥との再会を果たした<ref name="江村(1994) p.82"/>。北イタリアに睨みを利かせていたラデツキー元帥は90歳の高齢となっており、著しく老衰していた。そこでフランツ・ヨーゼフ1世はラデツキー元帥の任務を解き、自身の弟[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン大公]]を後任の副王に就かせた。

マクシミリアン大公は[[サルデーニャ王国]]とフランスとの間に頻繁な接触があることを察知し、ウィーンの政府に相手を挑発しないよう警告したが、強硬派のオーストリア外相[[カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタイン]]は状況を正確に判断することなく、サルデーニャ王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]に対してオーストリア領ロンバルディアから撤退するよう最後通牒を突きつけた<ref name="江村(1994) p.88"> 江村(1994) p.88</ref>。皇帝の侍従長は{{仮リンク|フェレンツ・ジュライ|de|Ferencz József Gyulay}}伯爵を総司令官に抜擢したが、彼はマクシミリアン大公が無能と評する人物であった<ref name="江村(1994) p.88"/>。数ではサルデーニャ・フランス連合軍に勝っていたものの、ジュライ将軍を含めてオーストリア軍の士気は低く、軍備も不足していたことから、[[1859年]]6月4日の[[マジェンタの戦い]]で退却を余儀なくされ、ロンバルディアの要衝[[ミラノ]]を奪われてしまう<ref>江村(1994) p.89</ref>。6月18日にフランツ・ヨーゼフ1世はジュライ将軍を解任し、自ら指揮を執ることを軍隊に公表した。

[[ソルフェリーノの戦い]]においてフランツ・ヨーゼフ1世は陣営を鼓舞して回ったが、砲弾も食糧も不足するなかで敗戦を喫する。7月11日、[[ヴィッラフランカ・ディ・ヴェローナ]]の地においてナポレオン3世との交渉の場が設けられた<ref name="江村(1994) p.92"> 江村(1994) p.92</ref>。会談の結果、ヴェネトはオーストリア領のまま維持し、ロンバルディアはサルデーニャ王国に割譲することとなった<ref name="江村(1994) p.92"/>。[[トスカーナ大公国]]、[[モデナ公国]]、[[パルマ公国]]の亡命君主の復位も取り決められた<ref name="江村(1994) p.92"/>が、その翌年には国民投票によっていずれもサルデーニャ王国に併合される。

==== 「新絶対主義」の終焉 ====
一連の[[リソルジメント|イタリア統一戦争]]の敗北、とりわけソルフェリーノの戦いに完敗したことは、オーストリア人にとって屈辱的なことであった<ref name="江村(1994) p.92"/>。フランツ・ヨーゼフ1世は侍従長グリュンネ伯爵を更迭し、内相バッハを閑職に追いやるなどして体制を一新した。職務にとどまった政府要人は皇帝ただ一人という徹底ぶりだったが、世論はなかなか収まらずに皇帝への不満が高まった。王朝そのものの威信も傷つき、コシュートを中心とするハンガリーの民族主義勢力も再び活動を開始した<ref>江村(1994) p.94</ref>。

戦争によって財政状態はいっそう悪化したため、フランツ・ヨーゼフ1世は改革を迫られた。19世紀半ばの銀行家たちは代議制議会を求めており、これがなければ外国債を募ることはできなかったのである<ref name="ベラー(2001) p.91"> ベラー(2001) p.91</ref>。[[1860年]]5月31日、帝国議会が拡大され、「新絶対主義」の時代は終焉を迎えた<ref name="ベラー(2001) p.91"/>。また[[1861年]]には、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。それはオーストリアを[[立憲君主国]]とするものだったが、しかしフランツ・ヨーゼフ1世は依然として外務と軍事に関する多くの権力を保持した<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.59</ref>。急進的なハンガリー人は皇帝に権力が集中しすぎるとして反対し、その中にはさまざまな形で抵抗運動を続ける勢力もあった<ref name="江村(1994) p.101"> 江村(1994) p.101</ref>。そのためフランツ・ヨーゼフ1世は怒り、軍隊を派遣してハンガリー議会を解散させた<ref name="江村(1994) p.101"/>。

二月勅許を発した後のオーストリアは、中央集権的な自由主義国家のようであり、ほとんどのドイツ諸国の自由主義・立憲主義的な路線に合致していた<ref name="ベラー(2001) p.102"> ベラー(2001) p.102</ref>。反自由主義的なプロイセンに対抗して、自由主義的なドイツの盟主となる可能性がオーストリアには開かれていた<ref name="ベラー(2001) p.102"/>。ドイツの中規模諸国にとってオーストリアの立憲主義的立場は最大の魅力であったにも関わらず、フランツ・ヨーゼフ1世は強制されない限り立憲主義を受け入れようとしなかった<ref name="ベラー(2001) p.103"> ベラー(2001) p.103</ref>。1864年の初めに、公然と立憲主義を称賛したシュメアリング内相を厳しく叱責していることからもそれは明らかである<ref name="ベラー(2001) p.103"/>。

==== メキシコ帝冠をめぐって ====
[[ファイル:Dell'Acqua Arrival of Empress Elisabeth in Miramare.jpg||thumb|right|260px|マクシミリアン大公夫妻を見送るフランツ・ヨーゼフ1世夫妻。]]
フランス皇帝[[ナポレオン3世]]は、メキシコに傀儡政権を樹立しようとしていた。そしてフランツ・ヨーゼフ1世の弟[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]大公にメキシコ皇帝への就任を打診してきた。マクシミリアンは妃の説得によってこれを受ける決意を固め、1861年からその翌年にかけてフランツ・ヨーゼフ1世と協議した<ref name="江村(1994) p.104"> 江村(1994) p.104</ref>。

フランツ・ヨーゼフ1世はこれに迷いを見せ、それまで弟には後継者たる権利がないことをしばしば言い含めていたにも関わらず<ref name="江村(1994) p.104"/>、頑強とはいえない皇太子ルドルフに万一のことがあった際にはマクシミリアンが帝位を継ぐものであることを指摘して慰留した<ref name="リケット(1995) p.108-109"> リケット(1995) p.108-109</ref>。しかしマクシミリアンの決意は変わらず、フランツ・ヨーゼフ1世は、弟の居城である{{仮リンク|ミラマール城|en|Miramare Castle}}まで出かけていって皇位継承権を放棄するという署名を取りつけることしかできなかった<ref name="リケット(1995) p.108-109"/>。

メキシコ皇帝となったマクシミリアンは結局、メキシコ共和国の[[ベニート・フアレス]]に逮捕され、1867年6月19日に銃殺刑に処されることになる。

==== 普墺戦争の敗戦 ====
{{main|普墺戦争}}
[[ファイル:Franz joseph1.jpg|thumb|left|180px|フランツ・ヨーゼフ1世(1865年)]]
イタリアで失敗した後、オーストリアの関心はもう一つの主要な利益圏であるドイツに向けられ、ドイツ連邦の指導的地位を再び主張するようになった<ref name="ベラー(2001) p.101"> ベラー(2001) p.101</ref>。これはプロイセン主導の小ドイツ主義的な関税同盟に対する挑戦であり、[[プロイセン王国]]との伝統的な対抗関係が復活した<ref name="ベラー(2001) p.101"/>。イタリア戦線に援軍を送らなかったことを「背信行為」として、フランツ・ヨーゼフ1世はプロイセンを公然と非難した<ref name="ベラー(2001) p.101"/>。

プロイセン主導の[[ドイツ統一]]に燃えるプロイセン首相[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]は、ハプスブルク支配下の諸民族の民族主義者たちを援助して扇動したり<ref name="江村(1994) p.116"> 江村(1994) p.116</ref>、ナポレオン3世にはフランス語圏の支配権移譲をちらつかせる<ref name="江村(1994) p.116"/>などして、オーストリアとの決戦に備えて準備を進めていた。それに対してオーストリアはほとんど何も準備せず、開戦を望んでいる者はほとんどいなかった。フランツ・ヨーゼフ1世はあくまで平和的解決を願っており、[[1866年]]4月8日の閣議でもオーストリア政府の和平の意志が再確認された<ref name="江村(1994) p.119"> 江村(1994) p.119</ref>。しかしプロイセンはさまざまな形でオーストリアを挑発し<ref name="江村(1994) p.119"/>、ついには[[普墺戦争]]の開戦に至った。[[1865年]]にオーストリアは自由主義的憲法を停止していたが、それでも自由主義的なドイツ諸国家のほとんどはオーストリア側に付いた。

消極的な自軍指揮官{{仮リンク|ルートヴィヒ・フォン・ベネディク|en|Ludwig von Benedek}}に決戦を命じた結果、[[ケーニヒグレーツの戦い]]で大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。この際、北イタリアに残されていたオーストリア領ヴェネトは、プロイセンに味方していた[[イタリア王国]]に割譲された。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝としてドイツの君主の首位を占めてきたし、ドイツ連邦の議長職にあったことでその後も象徴的な指導権を維持していたが、敗戦によってオーストリアはこれらの威信と権力を喪失した<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.57"> ジェラヴィッチ(1994) p.57</ref>。

普墺戦争後も、オーストリアはドイツから完全に締め出されたわけではなかった<ref name="ベラー(2001) p.110"> ベラー(2001) p.110</ref>。その後の数年間、フランツ・ヨーゼフ1世は自国の地位の回復を試み、ドイツ統一問題における発言権を取り戻そうとした<ref name="ベラー(2001) p.110"/>。[[大ドイツ主義]]ではなく[[小ドイツ主義]]が勝利したことによってオーストリアはドイツから締め出され、従来の西方重視の政策を東方主体に転換せざるをえなくなった<ref name="江村(1994) p.134"> 江村(1994) p.134</ref>。また、イタリアの領土を失ったことで南方からも追い払われ、オーストリアは必然的に中・東欧に活路を見出すほかなくなった<ref name="江村(1994) p.134"/><ref>馬場(2006) p.27</ref>。この敗戦後に、ベーメン、メーレン、ハンガリーに目を向けた「'''ドナウ君主国'''」という観念が急浮上した。

==== アウスグライヒ ====
[[ファイル:Ferenc József arcképe a Vasárnapi Újságban.JPG|thumb|right|200px|[[聖イシュトヴァーンの王冠]]をかぶってハンガリー王として戴冠したフランツ・ヨーゼフ1世。]]
帝国内の諸地域では、民族主義が高揚して反政府運動が盛んになっていた<ref name="江村(1994) p.136"> 江村(1994) p.136</ref>。プロイセンに敗戦したことによる諸々の喪失は、自国を支配する能力にも影響を及ぼしたのである<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.57"/>。とりわけ警戒を要したのは、皇帝に対する恨みがいまだ残存しているハンガリーだった。ウィーンはこのような状況下において、ベーメンのチェコ人と組んでハンガリーを抑えるか、ハンガリーのマジャル人と組んでスラブ民族を抑えるかという二者択一を迫られることになったのである<ref name="江村(1994) p.136"/>。

民族や人口比、宗教が同じカトリックであること、ウィーンとブダペストの近さなどからみて、ハンガリーとの協調が適切だと考えられた。また、皇后エリーザベトがハンガリーを愛してその熱烈な擁護者になっていたことも大きな影響を及ぼした。アウスグライヒについてのハンガリーとの交渉はプロイセンとの戦前から行われており、オーストリアがプロイセンに大敗した後も、ハンガリーは足元を見ることなく戦前と同じ条件のみを求めた<ref name="ベラー(2001) p.113"> ベラー(2001) p.113</ref>。フランツ・ヨーゼフ1世はこれに感謝しつつ、[[1867年]]に[[ハンガリー人]]との[[アウスグライヒ]](妥協)を実現させ、二重君主国である[[オーストリア=ハンガリー帝国]]を成立させた。これにより、[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]を[[ツィスライタニエン|オーストリア帝国領]]と[[ハンガリー王冠領|ハンガリー王国領]]に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。

1867年6月、フランツ・ヨーゼフ1世はエリーザベトとともに[[マーチャーシュ聖堂]]へ赴き、ハンガリー国王としての戴冠式を執り行った。ハンガリー議会は二重帝国成立の記念として、皇帝夫妻に{{仮リンク|ゲデレ城|de|Schloss Gödöllő}}と10万ドゥカーテン金貨を献上した。メキシコ皇帝となった弟マクシミリアンが処刑されたという知らせを受けたのは、ブダペストでの祝賀の最中であった<ref>ウィートクロフツ(2009) p.350</ref>。

フランツ・ヨーゼフ1世はアウスグライヒが成立した後、ハンガリー人以外の民族とも関係を自由に改善する余地があると考えていた<ref>ベラー(2001) p.112</ref>。チェコやポーランドにも、ハンガリーにとったのと同様の措置をとろうと考えた<ref name="江村(1994) p.164"> 江村(1994) p.164</ref>。具体的な構想が提出され、帝国を[[連邦制]]に改める[[ドナウ連邦構想]]が公式に議論された<ref name="江村(1994) p.164"/>。不満を抱くチェコ人のためにボヘミア王として戴冠することを約束したが、これを二重制を壊すものだとするハンガリー首相[[アンドラーシ・ジュラ]]の猛烈な反対に遭い、断念せざるをえなかった<ref name="ベラー(2001) p.113"/>。また、フランツ・ヨーゼフ1世は歳を取るにつれてますます頑固になっていき、連邦制への移行案を拒絶するようになった。

{{Gallery
|ファイル:Felséges I Ferencz József Magyar Ország Királya 1867.jpg|戴冠式のためにハンガリーに向かうフランツ・ヨーゼフ1世。
|ファイル:Koronázás Budán.jpg|王冠を受けているのがフランツ・ヨーゼフ1世。左側中央に座っているのがエリーザベト妃。
|ファイル:Ferenc József koronázása Budán.jpg|ハンガリー王としての戴冠式に臨むフランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベト妃。
}}

==== ユダヤ人の庇護 ====
[[File:Karl Lueger um 1900.jpg|thumb|left|160px|ウィーンの「名市長」と称されたカール・ルエーガー。(1900年)]]
即位当初のフランツ・ヨーゼフ1世はユダヤ人の解放を拒んでいたが、[[1867年]]以降はユダヤ人の臣民としての身分を尊重するようになった。[[反ユダヤ主義]]の社会的風潮の中で、大きな資本を握るユダヤ人の権利の庇護者となったのである<ref name="ベラー(2001) p.268"> ベラー(2001) p.268</ref>。

[[1895年]]、ウィーン市長選挙で{{仮リンク|キリスト教社会党|en|Christian Social Party (Austria)}}の[[カール・ルエーガー]]は、[[ユダヤ人]]を激しく攻撃する演説をおこなって人気を獲得し、市議会での投票で過半数を得た。しかしフランツ・ヨーゼフ1世はこれを承認せず、「余の目の黒いうちは、わが帝都の市長として彼を批准することはなかろう」と拒否し続けた<ref name="平田(1996) p.113"> 平田(1996) p.113</ref>。当時、市長は皇帝の任命する州の総督に承認されなければならなかった。そのため皇帝の同意を得られないルエーガーを総督は承認せず、ルエーガーは正式な市長になれなかったが、しかしいくら皇帝が拒否しても彼は繰り返し市長に選出された<ref name="平田(1996) p.113"/>。この確執は3年にもわたって続き、皇帝による市民無視との印象をウィーン市民に与えた<ref name="平田(1996) p.114"> 平田(1996) p.114</ref>。一般市民の間では「ルエーガー万歳」の声が一段と高まり、ルエーガーは皇帝と人気を競うほどになった<ref name="平田(1996) p.114"/>。この頃、市民は「バデーニくたばれ」を合言葉とした。「皇帝くたばれ」と不敬なことばを吐くわけにはいかなかったので、時の首相[[カジミール・フェリクス・バデーニ]]伯爵が皇帝の身代わりとなったのである<ref name="平田(1996) p.114"/>。

[[1897年]]、五度目の選出を受けたルエーガーに対して、フランツ・ヨーゼフ1世はついに折れて、4月16日にウィーン市長就任に同意した<ref name="平田(1996) p.116"> 平田(1996) p.116</ref>。4月20日にはルエーガーと謁見し、市長就任の宣誓が執り行われた<ref name="平田(1996) p.116"/>。しかしこの一連の流れからフランツ・ヨーゼフ1世は、帝国内のユダヤ人から「反ユダヤ主義の盾になって下さるわれらの庇護者<ref name="『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.122"> 『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.122</ref>」としてますます敬愛されるようになった。

また、[[1914年]]にユダヤ人難民をウィーンから放逐すると{{仮リンク|キリスト教社会党 (オーストリア)|label=キリスト教社会党|en|Christian Social Party (Austria)}}が政府を脅したのに対し、フランツ・ヨーゼフ1世は追われたユダヤ人にシェーンブルン宮殿を開放するという脅しでこれに応じたという<ref name="ベラー(2001) p.268"/>。

==== 相次ぐ家族の不幸 ====
聡明で将来を嘱望された長男[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]皇太子は、保守的な父帝と対立、[[1889年]]に[[マリー・フォン・ヴェッツェラ|マリー・ヴェッツェラ]]男爵令嬢とマイヤーリンクで謎の心中を遂げた(暗殺説もある)。息子ルドルフに代わる皇位継承者は、その後しばらく決定されなかった。

[[1898年]]、皇后エリーザベトが旅先の[[ジュネーブ]]でイタリア人[[無政府主義]]者[[ルイジ・ルキーニ]]に暗殺されたことは、皇帝に大きな衝撃を与えた。その突然の訃報に接した際、悲嘆のあまり「この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか」と泣き崩れたと伝えられている<ref name="『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.126"> 『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.126</ref>。

==== フランツ・フェルディナント大公との対立 ====
[[ファイル:F Behrens – Kaiserfest.jpg|thumb|right|250px|1900年、イタリアの都市[[メラーノ]]でフランツ・フェルディナント大公と馬車に同乗するフランツ・ヨーゼフ1世。]]
弟[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ大公]]が[[1896年]]に死去すると、その長男で皇帝にとっては甥にあたる[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]を帝位継承者に指名した。オーストリア=ハンガリー帝国の成立に見られる、皇帝のハンガリーの政治的独立を半ば認め、帝国内の民族融和を図るフランツ・ヨーゼフ1世の政策に対し、フランツ・フェルディナント大公は、多くの特権を得ているにも関わらず、なお完全な独立を要求するハンガリー人を「厚顔」として批判する<ref>江村(1994) p.329</ref>など、両者の間には政治的対立がたびたび見られた。フランツ・ヨーゼフ1世が諸民族の融和を信条とし、「一致団結して」をスローガンに掲げているのに対し、フランツ・フェルディナント大公はオーストリアの強化を目指し、[[国粋主義]]的な思想を展開していたのである<ref>江村(1994) p.352</ref>。

また、フランツ・フェルディナント大公は結婚問題をも引き起こしていた。将来の皇后としては身分不相応な[[ゾフィー・ホテク]]伯爵令嬢との[[貴賎結婚]]を欲していたのである。再三にわたって結婚の許可を求められたフランツ・ヨーゼフ1世は、「それでは帝位か結婚か、どちらかを選べ。」と迫ったが、これに対してフランツ・フェルディナント大公は帝位と結婚の両方を願った<ref>江村(1994) p.325</ref>。故カール・ルートヴィヒ大公の後妻、すなわちフランツ・フェルディナント大公の義母[[マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル|マリア・テレサ]]大公妃が皇帝を説得した<ref name="江村(1994) p.326"> 江村(1994) p.326</ref>。その結果、ゾフィーを皇后の身分にせず、また彼女との間に生まれる子孫には帝位継承権を与えないという条件のもとで、フランツ・ヨーゼフ1世はこの結婚を承認した<ref name="江村(1994) p.326"/><ref name="ベラー(2001) p.221"> ベラー(2001) p.221</ref>。1900年7月1日に結婚式が催されたが、フランツ・ヨーゼフ1世は出席を拒否した。

フランツ・ヨーゼフ1世はシェーンブルン宮殿に好んで住み、またフランツ・フェルディナント大公は結婚後に[[ベルヴェデーレ宮殿]]に居を構えるようになった<ref>江村(1994) p.331</ref>ため、この対立はさながらシェーンブルン対ベルヴェデーレの様相を呈していた<ref>馬場(2006) p.23</ref>。[[1906年]]から、フランツ・フェルディナント大公は次第に政府内でいくらかの発言権を認められるようになり、[[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]や{{仮リンク|マックス・ウラディミール・フォン・ベック|en|Baron Max Wladimir von Beck}}など、ベルヴェデーレ派の人々が政府上層部で影響力を持つようになっていった<ref name="ベラー(2001) p.221"/>。参加するようになった彼らは、ベルヴェデーレ側ではなくシェーンブルン側の意に従う人間になった<ref name="ベラー(2001) p.222"> ベラー(2001) p.222</ref>。この後も政府を支配したのは依然としてフランツ・ヨーゼフ1世であった<ref name="ベラー(2001) p.222"/>が、やがて彼らに流される形で第一次世界大戦の開戦に至るのである<ref>江村(1994) p.353</ref>。

==== カール大公の結婚式 ====
[[ファイル:Hochzeit Erzh Karl und Zita Schwarzau 1911bb.jpg|thumb|right|150px|カール大公の結婚に笑みを浮かべるフランツ・ヨーゼフ1世。]]
フランツ・フェルディナント大公が貴賤結婚に走った一方、その次の皇位継承者と目されるカール大公は相応しい身分の出身である[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]と結婚した。そのためフランツ・ヨーゼフ1世は夫妻にとても好意的であった<ref name="江村(1994) p.366"> 江村(1994) p.366</ref>。[[1911年]]10月21日に行われたカール大公の結婚式の際には、わざわざ列車でシュヴァルツアウ城館に赴いた<ref name="江村(1994) p.366"/>。カメラマンの注文にも喜んで応じ、さらにはバルコニーに出て民衆に手を振るという、久しく民衆と触れ合うことのなかった老帝としては珍しいサービスを行うほど上機嫌であった。

シェーンブルンに戻ったフランツ・ヨーゼフ1世は風邪を引き、胸の苦しみを訴えた<ref name="江村(1994) p.366"/>。休養を勧める侍医の言にもいっさい耳を傾けず、仕事を続けた。とはいえさすがに自分の年齢を考えて、11月13日に私財管理の執事を呼び、愛人[[カタリーナ・シュラット]]に250万クローネンを手渡すように伝えた<ref name="江村(1994) p.367"> 江村(1994) p.367</ref>。また、侍従ラマシュには「フランツ・フェルディナントが帝位に就く場合でも、ホーエンベルク侯爵夫人(ゾフィー)は皇后になれないであろうな。」と訊ね、改めて確認させた<ref name="江村(1994) p.367"/>。

[[1912年]]にカール大公夫妻の間に男児が生まれた際には随喜の涙を流し、その洗礼式の際には代父となった。皇帝にあやかって男児は「フランツ・ヨーゼフ」と名付けられた。その男児とは、のちに最後の皇太子として知られる[[オットー・フォン・ハプスブルク]]のことである。

==== ボスニア・ヘルツェゴビナの併合 ====
[[ファイル:Bosnian Crisis 1908.jpg|thumb|right|150px|1908年の風刺画。]]
[[1908年]]、フランツ・ヨーゼフ1世は[[ボスニア]]と[[ヘルツェゴヴィナ]]の併合に踏み切った。この両地域は、[[1878年]]の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]において、オーストリアが統治の委任を受けたものである<ref name="リケット(1995) p.116-117"> リケット(1995) p.116-117</ref>。[[1881年]]、フランツ・ヨーゼフ1世とドイツ皇帝ヴィルヘルム1世、そしてロシア皇帝[[アレクサンドル3世]]は秘密同盟を結んだ。ドイツもロシアも、オーストリア=ハンガリー帝国が時期を問わずにボスニア・ヘルツェゴビナを併合するのに反対しないと表明した<ref>江村(1994) p.224</ref>。

なお、この併合宣言は同盟国であったドイツとイタリアにも通知せずに行われたものであり、ヨーロッパは騒然となった。これはヨーロッパ戦争を引き起こす恐れがあったが、ひとまずドイツによって戦争は回避された<ref name="リケット(1995) p.116-117"/>。ドイツがロシアに併合を受諾すべしと強硬な態度に出て、ロシアが外交的に譲歩することによって緊張状態が解決されたのである<ref>馬場(2006) p.55</ref>。フランツ・ヨーゼフ1世には、世襲した領土をそのまま次代に譲渡したいとの思いがあったので、ボスニア・ヘルツェゴビナが多少なりとも失われたイタリア半島の領土の代わりになると考えてのことであった<ref name="リケット(1995) p.116-117"/><ref>馬場(2006) p.29</ref>。

この併合は[[汎スラヴ主義]]の先頭に立つ[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]との関係を悪化させ、さらに民族問題を複雑化させることに繋がった。帝国内のスラヴ系民族を刺激したのである。

=== 第一次世界大戦 ===
==== サラエボ事件の勃発 ====
[[ファイル:1914 Mindent meggondoltam, mindent megfontoltam.jpg|thumb|left|150px|祈るフランツ・ヨーゼフ1世。(1914年)]]
[[ファイル:Vierbund05h.jpg|thumb|right|230px|[[中央同盟国]]の君主たち。左からドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、オスマン帝国皇帝[[メフメト5世]]、ブルガリア国王[[フェルディナンド1世 (ブルガリア王)|フェルディナンド1世]]。]]
帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、[[1914年]]に[[サラエボ事件]]が起こり、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された。この一報を耳にしたフランツ・ヨーゼフ1世が発したとされる最初の言葉は、「恐ろしいことだ。全能の神に逆らって報いなしには済まない。余が不幸にも支えられなかった古い秩序を、より高い力が立て直して下さった。」であると伝えられている<ref name="ベラー(2001) p.245"> ベラー(2001) p.245</ref>。王朝の継承者たるフランツ・フェルディナント大公が貴賤結婚を成して王朝の義務に反したことに対して、神が天罰を下したのだとフランツ・ヨーゼフ1世は見なしたのである<ref name="ベラー(2001) p.245"/>。

このような反応をみせたフランツ・ヨーゼフ1世であるが、王朝の体面を守るためには、皇位継承者を殺されて黙っているわけにはいかなかった。ハンガリー首相[[ティサ・イシュトヴァーン]]は、現状のままセルビアと開戦するのはバルカン半島にまともな軍事基地を持たない帝国側が不利であるとして反対したが、皇帝以下のウィーン政府は、セルビアが十分な謝罪をしなければ軍の動員も辞さない構えを示した<ref>江村(1994) p.380</ref>。

帝国共通の外務大臣[[レオポルト・ベルヒトルト]]から戦争への署名を求められ、バート・イシュルにある夏の別荘で宣戦布告の文書に署名した<ref>リケット(1995) p.121</ref>。7月28日にオーストリアはセルビアに宣戦を布告し、[[第一次世界大戦]]が勃発する。7月末にフランツ・ヨーゼフ1世は、[[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]に対して「もし帝国が滅亡しなければならないなら、少なくとも品位をもって滅亡すべきである。」と語っている<ref name="ベラー(2001) p.253"> ベラー(2001) p.253</ref>。

開戦の結果、フランツ・ヨーゼフ1世は自らの権力を手放すことになった<ref name="ベラー(2001) p.253"/>。あらゆる権力がヘッツェンドルフの束ねる陸軍総司令部に集中し、84歳の誕生日が近づいていたフランツ・ヨーゼフ1世はシェーンブルン宮殿で、ただ作戦についての情報を与えられるだけになってしまった<ref name="ベラー(2001) p.253"/>。皇帝はもはや帝国の実際上の支配者ではなくなってしまったのである<ref name="ベラー(2001) p.253"/>。

大戦の緒戦でオーストリア軍が勝利したとの一報が届いた時、[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]から祝いの言葉をかけられたフランツ・ヨーゼフ1世はこう述べたという<ref>ウィートクロフツ(2009) p.363</ref>。「そうだ。勝利だよ。しかし、余の戦いはいつもこんな風に始まり、敗北に終わるのだよ。そして、今度はもっと悪い結果になるかもしれない。みんなはいうだろう。余が老い果てて、もはや戦うことができない、革命でも勃発すれば、一巻の終わりだろう、と。」

==== カール大公を帝位継承者に指名 ====
帝位継承者フランツ・フェルディナント大公をサラエボ事件で失った後、フランツ・フェルディナント大公の弟[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ大公]]の長男であるカール大公(後の[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]])を新たな帝位継承者とした。

晩年のフランツ・ヨーゼフ1世の喜びのひとつは、カール大公夫妻が親愛な態度で接してくれることだった。フランツ・ヨーゼフ1世たっての願いで、カール大公一家はシェーンブルン宮殿で皇帝と同居するようになった<ref name="江村(1994) p.390"> 江村(1994) p.390</ref>。フランツ・ヨーゼフ1世の楽しみは、よちよち歩きをするようになった[[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]]を見ることだった<ref name="江村(1994) p.390"/>。

カール大公のことをフランツ・ヨーゼフ1世は大いに信頼し、次のことを述べている。「余はカールを非常に高く評価している。彼は余に明確に意見を表明する。しかし余が考えを固執するときには、それに従う気持ちを失ってはいない<ref name="江村(1994) p.390"/>。」

{{gallery
|ファイル:Frajochar.jpg|カール大公に寄り添われて歩くフランツ・ヨーゼフ1世。(1914年)
|ファイル:Franz Joseph Karl Otto of Austria.jpg|カール大公、その長男オットーとともに。(1915年)
}}

==== 崩御 ====
帝国内部では、しだいに大戦疲れの兆候がみえるようになる。ハンガリー当局は[[ライタ川]]以西への食料の供給を抑えるようになった<ref name="ベラー(2001) p.258"> ベラー(2001) p.258</ref>。そして銃後の経済的困窮によって労働争議とストライキが増加した<ref name="ベラー(2001) p.258"/>。[[1916年]]7月、フランツ・ヨーゼフ1世は侍従武官の{{仮リンク|アルバート・マルグッティ|de|Albert von Margutti}}にこう語ったとされる。
{{Quotation|われわれの状況は悪くなっている。ことによると、思っているよりもずっと悪い。飢えた国民はもう多くは耐えられないだろう。われわれが冬を持ちこたえられるか、どうやって持ちこたえるかを見ていなければならない。何としてでも来春には戦争を終わらせるつもりだ。余は、余の帝国を希望なく破滅させることはできない<ref name="ベラー(2001) p.258"/>。}}
ベルヒトルト外相の後任となった[[シュテファン・ブリアン]]伯爵も、10月には和平を結ぶ必要について言及し始めた<ref name="ベラー(2001) p.258"/>。

11月に入るとフランツ・ヨーゼフ1世は衰弱し、9日には高熱を発した<ref name="江村(1994) p.392"> 江村(1994) p.392</ref>。11日には熱は38度4分となり、ますます病状が悪化した。皇帝自身が「今度は助からないかもしれない」と呟いたほどだった<ref name="江村(1994) p.392"/>。しかし12日には熱が下がって食欲も出るなど、病状は少し回復した。再び書類の山に向かい、客人を接待できるほどになったものの、17日には再び高熱を発した<ref name="江村(1994) p.394"> 江村(1994) p.394</ref>。20日の11時半にカール大公夫妻が見舞いに訪れると、ふたりに向かって「早く回復したい。仕事が多く残っている。とても病気になどなっておられない。」と口にした<ref name="江村(1994) p.394"/>。

11月21日の夜、明朝3時半に起こすように言いおいて、ハプスブルク家の大勢の縁者たちに見守られながら眠りについた<ref>江村(1994) p.395</ref>。死亡時刻は午後9時5分、死因は[[肺炎]]、享年86歳だった。11月30日に[[カプツィーナー納骨堂]]の霊廟に葬られた。フランツ・ヨーゼフ1世が生涯をかけて守ろうとしたハプスブルク帝国は、老帝の崩御のわずか2年後に世界地図から姿を消すことになる。

{{Gallery
|ファイル:FranzJosephTotenbett.jpg|死の床に横たわるフランツ・ヨーゼフ1世。
|ファイル:Kaiser Franz Joseph tomb - Vienna.jpg|[[カプツィーナー納骨堂]]内部にあるフランツ・ヨーゼフ1世の墓。
}}

== 評価 ==
[[ファイル:Emperor Francis Joseph of Austria.ogv|thumb|right|200px|フランツ・ヨーゼフ1世。(1910年)]]
戦争には負け続け、皇太子にも皇后にも先立たれ、民族問題にも悩まされた不幸な皇帝だと一般的に評価される<ref name="リケット(1995) p.94"/><ref name="『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.127"> 『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.127</ref>。数多くの過ちを繰り返したものの、その忍耐と不屈の精神、そして温厚にして誠実な人柄から、晩年には帝国内のすべての民族に慕われた<ref name="『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.122"/>。

神聖ローマ皇帝の由緒正しい血統、68年にもわたる最長在位記録。そして皇太子ルドルフの情死、美貌の皇妃エリーザベトの暗殺事件といった帝室の悲劇。これらの要素は、フランツ・ヨーゼフ1世をよりいっそう皇帝らしく見せ、オーストリア国民の理想の君主像に限りなく近づけた<ref>平田(1996) p.277</ref>。幼年学校や将校クラブはもちろん、安宿や娼家にも皇帝の肖像が飾られていた<ref name="平田(1996) p.278"> 平田(1996) p.278</ref>。オーストリア各地のみやげもの屋には皇帝の[[似顔絵]]入りの[[絵はがき]]や[[コーヒーカップ]]が並び、皇帝の[[プロマイド]]が人気を呼んでいた<ref name="平田(1996) p.278"/>。今なおウィーンの街ではフランツ・ヨーゼフ1世の銅像やポスターを至るところで見ることができる<ref name="『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.127"/>。これはホーエンツォレルン家の王都だったベルリンでは見られぬ光景である<ref name="『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.127"/>。

69年の治世の中で、政治的には数々の難題に直面したが、オーストリアの文化・経済は大きな発展をみた。それすら沈みゆく帝国の最後の光芒であったが、この文化発展への貢献、とりわけ19世紀末にウィーンを文化メトロポーレに変貌させたことこそがフランツ・ヨーゼフ1世の最大の功績だといえる<ref name="『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.122"/><ref>平田(1996) p.280</ref>。

== 逸話 ==
[[ファイル:19080130 unser kaiser als jager.jpg|thumb|right|170px|狩りに興じる際の恰好。]]
*[[王権神授説]]を信じる絶対主義的な君主であり、かつ[[貴賤結婚]]を断固として認めない古いタイプの君主であった。実際にフランツ・ヨーゼフ1世も自らを「旧時代の最後の君主」であると認めており<ref>江村(1994) p.218</ref>、[[1910年]]にアメリカ大統領[[セオドア・ルーズベルト]]と会談した際にも「もし[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]が最後の騎士とするなら、フランツ・ヨーゼフは最後の君主である」と自ら語っている<ref name="リケット(1995) p.94-95"/>。王朝と国家は、彼の心の中では同一の概念であった。そのわりには質素な生活ぶりであったが、その代わりに宮廷の儀礼や儀式の厳守を強く主張した<ref name="ジェラヴィッチ(1994) p.46"> ジェラヴィッチ(1994) p.46</ref>。また、晩年にはこのように語っている<ref>江村(1994) p.315</ref>。「余は久しい以前からよくわかっていた。今日の世界にあって、われわれがいかに変わり者であるかを。」
*非常に勤勉で時間に正確で、判で押したような規則正しい生活を送った。皇帝になって以後は死の直前まで、日々3時間睡眠で激務に当たったという。君主や政治家というよりは、軍人ないし官僚のような人物であった。そのためか、正反対な性格の[[イギリス君主一覧|イギリス国王]][[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]とは仲が悪かったというが、その母親である[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]には敬意を抱いていたようである。
*新しいもの、すなわち「文明の利器」である[[機械]]にアレルギーを示し、[[自動車]]と[[電話]]は決して用いようとしなかった。自動車については77歳の時に、エドワード7世の求めに応じて一度だけ彼と同乗したことがある<ref name="リケット(1995) p.116"> リケット(1995) p.116</ref>が、電話については一度も使ったことがなかった<ref>スナイダー(2014) p.130</ref>。ただし、電信機だけはよく利用した。どのようなことも[[電報]]で通信し、シェーンブルン宮殿の他の部屋への連絡にも用いた<ref>江村(1994) p.217</ref>。
*皇后エリーザベトは、政務に忙殺される夫との心のすれ違い、姑のゾフィー大公妃との確執などもあって、窮屈な宮廷生活を嫌い、ウィーンに留まることなく放浪にも似た旅を続けた。その淋しさを紛らわすため、エリーザベトから紹介された舞台女優[[カタリーナ・シュラット]]と親しくなり、しばしば会話を楽しむようになった。なお、エリーザベトを終生心から愛していたことに変わりはなく、旅に明け暮れる彼女をしばしば滞在先に訪ねている<ref name="『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.126"/>。
*[[狩猟]]が少年期からの趣味であり、ウィーン近郊のいたるところに狩りのための別荘を建てている。休暇日や保養に出かけた際にはよく鹿狩りを楽しんだ。息子ルドルフへしばしば送る手紙に「今日はどこぞでイノシシを何頭、シカを何頭射た」と得意げに書き添えた<ref>江村(1994) p.113</ref>。しかしルドルフに先立たれてしばらくの間は、「鹿を見るとルドルフのことを思い出してしまう」と言って狩猟から足を遠のけた<ref>江村(1994) p.283</ref>。
*芝居は好んだが音楽にはほとんど関心を示さず、芝居を見に行った際に聴衆が一斉に起立しているのを見るまでは、皇帝讃歌『[[神よ、皇帝フランツを守り給え]]』を知らなかったという<ref>江村(1994) p.296</ref>。
*宮廷舞踏会の指揮者となったシュトラウス2世とはたびたび顔を合わせる機会があったが、1848年革命に参加した彼に対していい感情を抱いていなかったので、当初フランツ・ヨーゼフ1世は「こんにちは、機嫌はどうだね?(Grüss Gott, wie geht's?)」と問いかけるだけだったという<ref name="渡辺(1997) p.156"> 渡辺(1997) p.156</ref>。しかしシュトラウス2世の音楽に親しむにつれ、しだいに彼への反感をやわらげていった。後年には彼の手掛けた『[[ジプシー男爵]]』を見て大いに気に入り、劇場の皇帝席にシュトラウス2世を呼び寄せて褒めちぎった<ref name="渡辺(1997) p.156"/>。

== 子女 ==
[[ファイル:Francis joseph family 1861.png|thumb|right|280px|フランツ・ヨーゼフ1世と家族(1861年)]]
皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]との間に一男三女を儲けた。
皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]との間に一男三女を儲けた。
* [[ゾフィー・フォン・エスターライヒ|ゾフィー]](1855年 - 1857年)
* [[ゾフィー・フォン・エスターライヒ|ゾフィー]](1855年 - 1857年)
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* [[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]](1858年 - 1889年) オーストリア皇太子
* [[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]](1858年 - 1889年) オーストリア皇太子
* [[マリー・ヴァレリー・フォン・エスターライヒ|マリー・ヴァレリー]](1868年 - 1924年)
* [[マリー・ヴァレリー・フォン・エスターライヒ|マリー・ヴァレリー]](1868年 - 1924年)
なお、幾人かの[[落胤]]がいたとされる。そのうちの一人は、愛人の[[アンナ・ナホフスキー]]に産ませた娘で、[[新ウィーン楽派]]の中心人物となった[[アルバン・ベルク]]の妻になった<ref name="『ウィーン 他民族文化のフーガ』 p.173"> 『ウィーン 他民族文化のフーガ』 p.173</ref>。また、あくまで噂の域を出ないが、指揮者[[クレメンス・クラウス]]もフランツ・ヨーゼフ1世の落胤だという話がある<ref name="『ウィーン 他民族文化のフーガ』 p.173"/>。


== 関連作品 ==
== 関連作品 ==
79行目: 331行目:
*[[フランチョット・トーン]]
*[[フランチョット・トーン]]
*[[クルト・ユルゲンス]]
*[[クルト・ユルゲンス]]
*[[ジャン・ドビュクール]]([[:fr:Jean Debucourt|Jean Debucourt]])
*{{仮リンク|ジャン・ドビュクール|fr|Jean Debucourt}}
*[[ルドルフ・フォルスター]]([[:de:Rudolf Forster|Rudolf Forster]])
*{{仮リンク|ルドルフ・フォルスター|de|Rudolf Forster}}
*[[カールハインツ・ベーム]]
*[[カールハインツ・ベーム]]
*[[ジェームズ・メイソン]]
*[[ジェームズ・メイソン]]
89行目: 341行目:


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[オットー・バウアー]]|translator=[[酒井晨史]]|date=1989年|title=オーストリア革命|publisher=[[早稲田大学出版部]]|isbn=4-657-89619-9}}
*スティーヴン・ベラー著/坂井榮八郎監訳・川瀬美保訳『フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国』[http://www.tousuishobou.com/index.htm 刀水書房]
* {{Cite book|和書|author=[[増谷英樹]]|date=1993年|title=歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち|publisher=[[日本エディタースクール出版部]]|isbn=4-88888-207-X|ref=増谷(1993)}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|バーバラ・ジェラヴィッチ|en|Barbara Jelavich}}|translator=[[矢田俊隆]]|date=1994年(平成6年)|title=近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-65600-0|ref=ジェラヴィッチ(1994)}}
* {{Cite book|和書|author=[[江村洋]]|date=1994(平成6)年9月20日|title=フランツ・ヨーゼフ オーストリア「最後」の皇帝|publisher=[[東京書籍]]|isbn=4-487-79143-X}}
* [https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/5016/1/kyouyoronshu_235_101.pdf 菊池良生「悲劇の皇帝マクシミリアンⅠ世(Ⅱ)」](『明治大学教養論集』235号、1991年3月1日)
* {{Cite book|和書|author=[[リチャード・リケット]]|translator=[[青山孝徳]]|date=1995年(平成7年)|title=オーストリアの歴史|publisher=[[成文社]]|isbn=4404021305}}
* {{Cite book|和書|author=[[平田達治]]|date=1996(平成8)年5月25日|title=輪舞の都ウィーン|publisher=[[人文書院]]|isbn=4-409-51040-1|ref=平田(1996)}}
* {{Cite book|和書|author=[[渡辺護]]|date=1997(平成9)年7月31日|title=ハプスブルク家と音楽―王宮に響く楽の音|publisher=[[音楽之友社]]|isbn=4-276-37076-0|ref=渡辺(1997)}}
* {{Cite book|和書|author=[[マーティン・シェーファー]]|translator=[[大津留厚]]監訳、[[永島とも子]]|date=2000年7月7日|title=エリザベート――栄光と悲劇|publisher=[[刀水書房]]|isbn=4-88708-265-7|ref=シェーファー(2000)}}
*{{Cite book|和書|author=[[小宮正安]]|year=2000|month=12|title=ヨハン・シュトラウス ワルツ王と落日のウィーン|series=[[中公新書]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4-12-101567-3|ref=小宮2000}}
* {{Cite book|和書|author=[[スティーヴン・ベラー]]|translator=[[坂井榮八郎]]監訳、[[川瀬美保]]|date=2001年9月4日|title=フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国|publisher=[[刀水書房]]|isbn=4-88708-281-9|ref=ベラー(2001)}}
* {{Cite book|和書|author=[[馬場優]]|date=2006(平成18)年2月|title=オーストリア=ハンガリーとバルカン戦争――第一次世界大戦への道|publisher=[[法政大学出版局]]|isbn=978-4-588-62515-2|ref=馬場(2006)}}
* {{Cite book|和書|author=[[倉田稔]]||date=2006年(平成18年)|title=ハプスブルク文化紀行|publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn=4-14-091058-5}}
* {{Cite book|和書|author=[[アンドリュー・ウィートクロフツ]]|translator=[[瀬原義生]]|date=2009(平成21)年7月15日|title=ハプスブルク家の皇帝たち 帝国の体現者|publisher=[[文理閣]]|isbn=978-4-89259-591-2}}
* {{Cite book|和書|author=[[饗庭孝男]]、[[伊藤哲夫]]、[[加藤雅彦]]、[[小宮正安]]、[[西原稔]]、[[檜山哲彦]]、[[平田達治]]||date=2010年(平成22年)|title=ウィーン 多民族文化のフーガ|publisher=[[大修館書店]]|isbn=4-469-21328-7}}
* {{Cite book|和書|author=[[新人物往来社]]|date=2010年(平成22年)|title=ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝|publisher=新人物往来社|isbn=978-4-404-03899-9}}
* {{Cite book|和書|author=[[ティモシー・スナイダー]]|translator=[[池田年穂]]|date=2014(平成26)年4月|title=赤い大公――ハプスブルク家と東欧の20世紀|publisher=[[慶応義塾大学出版会]]|isbn=978-4-7664-2135-4|ref=スナイダー(2014)}}

=== 脚注 ===
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== 関連項目 ==
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* [[フランツ・ヨーゼフ諸島]]
* [[フランツ・ヨーゼフ諸島]]
* [[自由橋]](旧称フェレンツ・ヨージェフ橋)
* [[自由橋]](旧称フェレンツ・ヨージェフ橋)
* [[皇帝円舞曲]] - フランツ・ヨーゼフ1世の在位40周年記念を祝うために作曲された。



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2015年9月19日 (土) 15:47時点における版

フランツ・ヨーゼフ1世
Franz Joseph I.
オーストリア皇帝ハンガリー国王
フランツ・ヨーゼフ1世(1905年)
在位 1848年12月2日1916年11月18日
戴冠式 1867年6月8日、於マーチャーシュ聖堂(ハンガリー国王)

全名 Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen
フランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
出生 (1830-08-18) 1830年8月18日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーンシェーンブルン宮殿
死去 (1916-11-21) 1916年11月21日(86歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンシェーンブルン宮殿
埋葬 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンカプツィーナー納骨堂
配偶者 エリーザベト・イン・バイエルン
子女
家名 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 フランツ・カール・フォン・エスターライヒ
母親 ゾフィー・フォン・バイエルン
宗教 キリスト教カトリック教会
サイン
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フランツ・ヨーゼフ1世ドイツ語: Franz Joseph I.1830年8月18日 - 1916年11月21日)は、オーストリア帝国、のちオーストリア=ハンガリー帝国オーストリア皇帝およびハンガリー国王(在位:1848年 - 1916年)。全名はフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語:Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen)。ハンガリー国王としてはフェレンツ・ヨージェフ1世ハンガリー語: I. Ferenc József [ˈɛlʃøːˈfɛrɛnʦˌjoːʒɛf])、オーストリア帝国内のベーメン国王としてはフランティシェク・ヨゼフ1世チェコ語: František Josef I.)である。

68年に及ぶ長い在位と、国民からの絶大な敬愛から、晩年はオーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の「国父」とも称された。晩年は「不死鳥」とも呼ばれ、オーストリアの象徴的存在でもあった。しばしばオーストリア帝国の実質的な「最後の」皇帝と呼ばれる。皇后は美貌で知られるエリーザベトである。

概要

3月革命によって伯父のオーストリア皇帝フェルディナント1世が退位したため、18歳の若さで即位する。

治世当初は首相フェリックス・シュヴァルツェンベルク公爵に補佐され、イタリアハンガリーの独立運動を抑圧、革命を鎮圧した。フランツ・ヨーゼフ1世は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする王権神授説を固く信じて疑わない人物であり、自由主義国民主義の動きを抑圧し、「新絶対主義」(ネオアプゾルーティスムス)と称する絶対主義的統治の維持を図った。

イタリア統一戦争に敗北し、北イタリアの帝国領ロンバルディア1859年に、ヴェネト1866年に相次いで失う。さらに、ドイツ統一に燃えるプロイセン王国首相のビスマルクの罠にかかり、1866年普墺戦争では、消極的な自軍指揮官に決戦を命じた結果、ケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。このような対外的な動きに押される形で、国内では1861年、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。

1867年ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、オーストリア=ハンガリー二重君主国が成立した。これにより、ハプスブルク帝国オーストリア帝国領ハンガリー王国領に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。しかし、この後も民族問題は先鋭化の一途をたどり、1908年ボスニアヘルツェゴヴィナを併合したことは、汎スラヴ主義の先頭に立つセルビア王国との関係を悪化させ、さらに民族問題を複雑化させることに繋がった。

普墺戦争後は、普仏戦争で中立を守り、ビスマルクおよびドイツ帝国と接近・協調していった(パン=ゲルマン主義)。1873年にはドイツ、ロシア三帝同盟を、1882年にはドイツ、イタリア三国同盟を結ぶ。

帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、1914年サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺され、オーストリアはセルビアに宣戦を布告、第一次世界大戦が勃発する。戦争中の1916年、肺炎のためウィーンにて86歳で崩御した。

生涯

皇族時代

誕生

母・ゾフィー大公妃に抱かれたフランツ・ヨーゼフ・カール王子。

1830年8月18日、オーストリア皇帝フランツ1世の三男フランツ・カール大公とバイエルン王女であるゾフィー大公妃の長男として生まれる。ゾフィーはなかなか懐妊しなかったが、宮廷の侍医からの勧めによりバート・イシュルの塩泉で治療したところ、この王子が生まれるに至った。そのような経緯から「塩の王子」と呼ばれるようになった[1]

洗礼の際には祖父フランツ1世が代父を務めた。当時、皇太子の地位にあったフェルディナントは生来の病弱であり、彼が子孫を儲けることは不可能だと考えられていた。その弟である父フランツ・カール大公は政治に関心がなく、(強制される可能性はあったが)即位しない意志をすでに表明していた[1]。よって、生まれたばかりの王子が将来的に帝位を継ぐことはほぼ確定しており、皇帝となることを予期して育てられた[2]

洗礼名は「フランツ・ヨーゼフ・カール」と定められた。それには、祖父フランツ1世と、偉大な先祖である神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の二人の名前が含まれていた[1]。今日「フランツ・ヨーゼフ1世」として知られる彼であるが、しかし即位するまでは複合名は用いられず、幼少期には「フランツィ」と、つまり「フランツ」と呼ばれた[3][4]

ライヒシュタット公と呼ばれたナポレオン2世が、彼のことを「泡立てたクリームの載ったストロベリー・アイスクリーム」と表現しているように、フランツはその愛らしさで宮廷の人々を魅了させた[2]。フランツ1世は初孫であるフランツ王子を溺愛し、自身の護衛にフランツ王子に対しても皇帝と同様の敬礼をさせた[2]。また、フランツ1世はこの幼い孫を自身の膝に乗せ、初歩のイタリア語を自ら教えたという[2]

幼少期

母ゾフィーはフランツを厳しくしつける一方で弟マックス(マクシミリアン)を甘やかした。兄弟が一緒にいたずらをしても母はフランツだけをきつく叱ったが、これは将来の皇帝として長男に大きな期待をかけ、むしろ次男以下を差別した結果だった[5]。皇族の子女による子供劇場がゾフィーの肝煎りで催された時、主演は性格からしてマックスが相応しいと誰もが思ったが、ゾフィーが指名したのは未来の皇帝たるべきフランツであった[6]。わずか4歳で宮中での祝宴への参列を許されたフランツは、万事折り目正しくという母の言いつけを完璧に守り、大人たちを感嘆させたという[5]

1835年、フランツィは5歳のクリスマスの際に「私が一番好きなのは軍隊のものです。」と語るなど、幼い頃から非常に軍隊を愛した[7]。幼少期にねだった玩具は、軍隊に関連するものばかりであった[8]。フランツィはとても頑固な性格で、それは総司令官に適していた。さらに、几帳面、厳格さ、実直さ、責任感、義務感など、その性格のすべてが軍隊生活において尊重される美徳だった[7]。生涯にわたって軍服を好んで着用し、軍隊を愛したフランツ・ヨーゼフ1世であるが、すでにこの頃からその兆候が表れていたのである。

1835年5月2日、祖父フランツ1世が崩御し、伯父フェルディナントが即位した。

帝王学の日々

画家モリッツ・ミヒャエル・ダッフィンガー英語版に描かれた当時10歳のフランツ。(1840年)
マクシミリアンカール・ルートヴィヒと共に描かれたフランツ。(1844年)

将来の皇帝たるフランツは、ハプスブルク家の伝統に則って教育された。フランツは6歳の時に傅母の手から引き離され、宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒから傅育官に任命されたハインリッヒ・フランツ・フォン・ボンベルドイツ語版伯爵のもとで、週13時間の授業を、7歳の時には32時間の授業を受けるようになった[3]。この時点でフランツが受けた授業には、ドイツ語正書法地理宗教図画ダンス体操フェンシング水泳軍事訓練フランス語ハンガリー語チェコ語が含まれていた[9]。その後さらに、歴史馬術音楽イタリア語が追加された。母ゾフィーが嘆くほどに、フランツに対する教育は峻烈なものだった。

12歳の時には週に50時間にも及ぶ授業時間が設けられ、13歳の時には勉強しすぎのストレスから病気になったが、しばらく休んだ後、さらに多くの科目が追加された[9]1844年以降は哲学法律学政治学天文学工学ポーランド語も追加された[9]。フランツが1週間に学ばねばならない科目は37に及び[10]、授業は朝6時に始まり、夜の9時まで続いた[9]。苦手な科目は数学と正書法であり、好きな科目は歴史と地理であった[10]。母ゾフィーは宗教と歴史を大切に思っていたことから、この両教科の授業には必ず同席した[10]

国語であるドイツ語や当時の外交言語であったフランス語のほか、ラテン語、ハンガリー語、チェコ語、ポーランド語、イタリア語といったように多くの言語が含まれているが、これは多民族国家ハプスブルク君主国として重要な言語がカリキュラムに組み込まれた結果である[9][10]

軍事関係については、陣営での指揮、連隊の配置、歩兵、砲兵、騎兵の任務などの訓練を受けるようになった[10]。16歳で大佐となったフランツは1846年7月、故フランツ1世の記念碑の除幕式に出席するためにメーレンオルミュッツに足を運んだ。フランツが公の場に姿を現したのはこの時が初めてで、この日初めてフランツは自分の指揮すべき連隊を視察した[10]。この地でフランツはしばし牧歌的な生活を楽しんだが、間もなくウィーンで容易ならぬ騒動が発生することになる。

1848年革命

3月革命下のウィーン市街。至る所にバリケードが築かれた。

フランス王国で発生した2月革命がヨーロッパ中に飛び火して、オーストリア帝国では3月革命が発生する。ウィーンでは、およそ27年にわたって帝国宰相を務めていたメッテルニヒの罷免を求める声が、学生や労働者を中心に高まった[11]。3月13日に群衆がシェーンブルン宮殿前の下オーストリア領邦議会議事堂に殺到し、検閲の廃止、出版の自由や自主憲法の制定を要求した[11]。翌14日にメッテルニヒが職を辞してウィーンから逃亡すると、メッテルニヒを悪政の象徴とみなしていた民衆は歓喜した。伯父フェルディナント帝がフランツ・カール大公、フランツとともに馬車に乗って市内を駆け巡ると、民衆はこれを歓声をもって迎えた。かくしてウィーンには一時平穏が戻ったが、やがてバイエルン王国ルートヴィヒ1世が退位したとの知らせが届く。ウィーンはふたたび混迷に陥り、皇帝の安全さえ保証できない情勢になった[12]

サンタ・ルチアの会戦の様子。

このような不穏な情勢の中で、ハプスブルク家の次代を担うフランツは病弱な皇帝よりも大事な存在だった[12]。母ゾフィー大公妃はイタリアのヨーゼフ・ラデツキー将軍のもとにフランツを託し、軍隊での経験を積ませることにした。当時のイタリア戦線はけっして思わしいものではなかったが、それでも革命的な様相を呈するウィーンよりはましだった。帝国騎兵隊の制服に身を固めたフランツは、4月25日にイタリアへの旅路につき、4月29日にラデツキー将軍のもとに到着する[13]。ラデツキー将軍は若き大公を安全な場所に避難させようとしたが、フランツはこれを拒絶した[13]。5月6日に始まったサンタ・ルチアの会戦英語版ではコンスタンティン・ダスプレドイツ語版中将の部隊に所属した[14]。ラデツキー将軍の報告書には、フランツについて次のように記されている[15]。「殿下は幾度となく、迫りくる砲火のもとに身をさらされ、しかも平然と落ち着き、冷静そのものであられた。これは私のいたく喜びとするところである。敵の砲弾が殿下のごく間近にまで飛来したにもかかわらず、微動だにされなかったのを、私自身が目にした。」

フランツがイタリア戦線に発った4月25日、ウィーンではフェルディナント帝が欽定憲法を発布し、またしばらくは平穏が戻っていた[15]。しかし5月15日、多くの民衆が普通選挙法の制定などの新たな要求を掲げて王宮前広場に集まり、宮殿の中に殺到しかねないありさまになった[15]。フェルディナント帝は皇族や宮廷人をすべて引き連れて、やむなくチロル州都インスブルックに避難した[15]。フランツはそのままイタリア戦線に留まることを望んだが、インスブルックへ来るようにとの指令を受け、やむなく両親らの待つインスブルックに入った。ここでは将来の花嫁となる従妹のエリーザベトとの対面もあったが、まだこの時には彼女に対して何の感情も抱かなかった[16]

やがてプラハの暴動を鎮圧したアルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ侯爵がウィーンに帰り、こちらの動乱も収束させていった。こうして8月初頭に宮廷はウィーンに帰還したが、ほんの2、3週間も経たないうちに、またしても急進的な学生や労働者が宮殿前に集った。宮殿を守る軍隊によって一時的に彼らは撃退されたものの、両者の溝は深まる一方だった。10月16日、暴徒と化した民衆が陸軍省を襲い、テオドール・ラトゥールドイツ語版伯爵を殺害し、路上で吊るし首にした[17]。ウィーンは予断を許さぬ情勢に陥り、宮廷はふたたび都落ちする。今度の行き先はメーレンのオルミュッツであった[17]。フランツは馬に乗り、一族の馬車に付き添うようにしてこれに同行した[17]。オルミュッツに逃れた宮廷では会議が行われ、伯父フェルディナント1世の退位が決定する[18]。フェルディナント帝では国家の安泰を維持できず、その弟フランツ・カール大公も適任ではないという結論から[18]、フランツが18歳の若さで即位することとなった。

即位

オルミュッツでの即位

1848年、即位したばかりのフランツ・ヨーゼフ1世。

1848年12月2日に伯父フェルディナント帝から譲位され、即位する。儀典長アレクサンダー・フォン・ヒュープナードイツ語版伯爵の回顧録によると、まずフランツ大公の成年証書が、次にその父フランツ・カール大公の皇位放棄証書が、最後にフェルディナント帝の退位についての詔勅が首相フェリックス・シュヴァルツェンベルク公爵によって読み上げられ、フェルディナント帝とフランツがこれに署名した[19]。フランツは伯父の前に跪き、その祝福を受けた。フェルディナント帝は声を震わせながら「しっかりおやり、きっとうまくいくさ。」と語りかけたという[19]。傍系のオーストリア大公は20歳が成人年齢とされていた[20]が、フランツは特例だった。

ウィーンから遠く離れたオルミュッツでの帝位継承ゆえ、戴冠式は執り行われなかった。また、しばらくはこの地で親政が行われた。「フランツ2世」ではなく「フランツ・ヨーゼフ1世」という複合名が用いられることになったのは、それだけ当時の革命の状況が危機的なものだったことを示している[21]。急進的な改革を行ったことによって自由主義者から敬愛されるヨーゼフ2世を彷彿とさせるこの名前を用いることで、革命勢力をなだめる意味も込められていたのである[21][22]

しかし当のフランツ・ヨーゼフ1世は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする王権神授説を固く信じて疑わない人物であった[23][24]。このような思想をもつ新皇帝にとって憲法とは、その内容いかんにかかわらず、神から与えられた「信念が命ずるままに統治する」という統治者の義務に背くものであった[24]。そのためフランツ・ヨーゼフ1世は、自由主義国民主義の動きを抑圧しようとした。新皇帝は軍服に身を包み、軍靴の足音を響かせながらウィーンの宮殿に入り、ただちに戒厳令を布いた[25]

これに多くのウィーン市民は失望したが、その一方でウィーンの平穏を取り戻すためには戒厳令が必要なのだと擁護する声も多く聞かれた[26]。革命運動に身を投じた市民の中でいち早く皇帝派に変節したのが、音楽家ヨハン・シュトラウス2世であった。フランツ・ヨーゼフ1世の即位以降、彼は矢継ぎ早に『皇帝フランツ・ヨーゼフ行進曲』『戦勝行進曲』『ウィーン守備隊行進曲』などの体制側を賛美する楽曲を作った[26]。もっとも、革命運動に深く関わったシュトラウス2世に対してフランツ・ヨーゼフ1世は何の反応も示さず、なかなか許そうとしなかった[26][27]。シュトラウス2世を宮廷舞踏会の指揮者に任命する動議が出ても、フランツ・ヨーゼフ1世はこれを二回も却下した[27]

新絶対主義

フランツ・ヨーゼフ1世。(1853年)

母であるゾフィー大公妃の尽力により皇帝に即位したため、フランツ・ヨーゼフ1世はゾフィー大公妃の意見にほとんど逆らえなかった。そのため治世当初は保守的なゾフィー大公妃がしばしば政治に介入した。首相フェリックス・シュヴァルツェンベルク公爵は、貴族でありながら伝統的貴族をハプスブルク家にとっての脅威とみなし[22]、むしろ農民層の大衆を信頼できる同盟者と考えた[28]。彼の補佐を受けながらフランツ・ヨーゼフ1世が行った統治は「新絶対主義」(ネオアプゾルーティスムス)と称される。それは古い絶対主義を復活させようとするものではなく、近代的な新しい絶対主義を生み出そうとしたからである[28]。また王権神授説を信じるフランツ・ヨーゼフ1世自身も、即位後ただちに内閣と議会の関係を変えようとはしなかった[22]。「新絶対主義」の理論的拠り所は、万人のための近代的な経済・行政・教育システムを有無を言わさず与えることによって、万人への政治的諸権利の譲渡を不要にするというものである[29]

1851年12月31日、「大晦日勅書」を発する。これは皇帝の絶対的権威をうたったものであり、政治や立法への国民の関与を認めず、出版の自由や検閲の廃止などを暫定的に認めた1849年3月の欽定憲法を完全に廃止するものであった[30]。これに先立つ8月にフランツ・ヨーゼフ1世は「イギリス的・フランス的憲法をオーストリア帝国に適用することの不可能なることは、見識あるすべての人々によって認められている。」と断言しており[31]、明らかに皇帝の意志が反映された結果である。9月には亡命していたメッテルニヒがウィーンに帰還する。かくしてオーストリアはふたたび絶対主義国家に戻った。

1852年にシュヴァルツェンベルク公爵が世を去ると、若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は首相を空席とし[32]、真の絶対君主として君臨することになる[33]。シュヴァルツェンベルク公爵の後継者たりうる人物は、誰も見当たらなかったのである[32]アレクサンダー・フォン・バッハ内相が政府内で枢要な地位にあったが、それはほとんど内政問題のみに関してであった。この時代は内相の名から「バッハ時代」と呼ばれる[34]

ハンガリー蜂起の弾圧

ハンガリーの都市ジェールに進軍するフランツ・ヨーゼフ1世。

オーストリア帝国内の領邦であったハンガリーでは、三月革命以前からハンガリー貴族コシュート・ラヨシュらを中心とした独立闘争が活発に行われていた。これに対しフランツ・ヨーゼフ1世は1848年12月16日にヴィンディシュ=グレーツ侯爵をハンガリーに派遣してブダペストを陥落させた[35]。コシュートは国外に逃亡したが、1849年4月には再びハンガリー人勢力によってブカレストを奪われてしまう[35]。広大なハンガリーを抑えるのは困難であり、またハンガリー人は支配層であるオーストリア人(ドイツ人)に根強い反感を抱いていたので、オーストリアのみではハンガリー人を完全に屈服させることができなかった。ヴィンディシュ=グレーツ侯爵はロシア帝国に援助を求めるよう皇帝に要請したが、母ゾフィーが反対を唱えたためにフランツ・ヨーゼフ1世は躊躇した[36]。しかし事態を打破するにはやむを得ない状況であったので、ロシア皇帝ニコライ1世に援助を依頼することを決めた[36]。1849年4月、ワルシャワでニコライ1世と会談して支援を求めた。

また、6月26日には皇帝のハンガリー親征が行われた[37]。これに付き従った弟マクシミリアン大公が母ゾフィーに宛てた手紙によると、フランツ・ヨーゼフ1世は今にも焼け落ちそうな橋を疾駆し、両陣営を唖然とさせたという[37]。前線の部隊に踊り込むなどのフランツ・ヨーゼフ1世の行動は、兵士の士気と忠誠心を大いに高める効果があったが、同時にあまりに危険すぎるものだった[38]。。シュヴァルツェンベルク公爵は諸将との話し合いの上で、マクシミリアン大公の誕生日である7月6日にシェーンブルンへ帰還するよう皇帝兄弟に求め、フランツ・ヨーゼフ1世はこれに応じた[38]

オーストリアの申し出に応諾したロシアは、8月13日にハンガリー東部へ出兵した。ほとんどオーストリアの功績であるにも関わらず、ハンガリーの将軍アルトゥール・ゲルゲイドイツ語版の降伏を受理したのはロシア軍だった[39]

ハンガリー元首相バッチャーニュ・ラヨシュドイツ語版伯爵の処刑。

1849年10月6日、独立を企てたとされるハンガリー元首相バッチャーニュ・ラヨシュドイツ語版伯爵を始めとする計114名のマジャル人の要人を粛清させた[40]。バッチャーニュ伯爵は引退してすでに久しく、革命後期の暴動にはいっさい責任がないと当時の世論は考えていた[39]。これによって即位後まもなくのフランツ・ヨーゼフ1世は、「血に染まった若き皇帝(der blut-junge kaiser)」としてハンガリー人に恐れられた[40]。ハンガリーの反逆者に対して取られた措置はヨーロッパの世論にショックを与え、さらにハンガリー人の心情に大きな影響を及ぼすこととなった[39]

1852年、ハンガリー各地へ行幸し、ハンガリー人の熱狂的な歓迎を受けた。しかし、ある村を通り過ぎた際、村人たちがドイツ語で万歳を叫んでいたのに疑問を抱き、なぜハンガリー語で叫ばなかったのかを村長に訊ねた[41]。すると村長は、それを命じたのは自分であると言った。村人たちはハンガリー語で「万歳、コシュート」と叫ぶのに慣れており、ハンガリー語で万歳を叫ぶと、つい同じことを叫んでしまうのではないかと恐れたのがその理由であった[41]。かつて宰相メッテルニヒはこう言った。「ハンガリー人を熱狂させるのは簡単だが、彼らを統治するのは困難である。」と[42]。まさにこのメッテルニヒの言葉のように、彼らは心の奥底から忠誠を誓ったわけではなかった。

暗殺未遂事件

襲撃事件の様子を描いたもの。

1853年2月18日の昼、副官マクシミリアン・カール・オドネルドイツ語版伯爵のみを伴っての散歩中に[43][44]、ブルク稜堡の胸壁に身を乗り出し、下の堀のところで行われていた軍事訓練の様子を眺めていた[45]。そこを2週間前から暗殺の機会をうかがっていたハンガリー人の仕立物師ヤーノシュ・リーベニに襲われた[45]。ヤーノシュが突進しようとした瞬間、たまたま近くにいた女性がそれを見て大声で叫んだ。フランツ・ヨーゼフ1世はその叫び声に驚いて後ろを振り向いたために、致命傷は逃れることができた[44]。しかし首から胸に突き刺されてフランツ・ヨーゼフ1世は血みどろになり、数秒後にその場に崩れ落ちた[44]。近くの古物市場で買い求めた刃物が凶器であった[45]。副官はただちにサーベルを抜いて犯人の第二の突きを牽制し、そこにヴィーデン地区の肉屋ヨーゼフ・エッテンライヒが駆けつけ、犯人を素手で殴り倒して取り押さえた[45]。フランツ・ヨーゼフ1世は刺された後、駆けつけた人々に向かって「彼を殴ってはならない。殺したりしてはならない。」と叫んだという[46]

フランツ・ヨーゼフ1世は傷口にハンカチを当てて近くのアルブレヒト宮殿に運び込まれ[45][46]、宮廷劇場付きの医師フリードリヒ・シュティルナーの手当てを受けた[45]。これ以降、医師団は12日の間に30の特別広報を出して、皇帝の容体・回復の様子を逐一伝えた[45][47]。初診によると、後頭部の骨が損傷しており、安物のナイフの刀身が不潔なものだったために、傷が化膿し始めていた[46]。しばらくの間は視力が衰え、一時は失明の恐れさえあった[46]が、フランツ・ヨーゼフ1世は次第に快方に向かった。

この暗殺未遂事件をハンガリーの武力蜂起の新たな兆候かと疑った軍部は、2万の兵を動員して警戒にあたった[47]。しかしこの事件に背後関係はなく、コシュートによるハンガリー革命の失敗を無念に思うハンガリー愛国主義者の単独犯行であることが判明する[47][48]。フランツ・ヨーゼフ1世は刑一等を減じてやりたいと願っていたとも伝えられるが、即時裁判によって死刑が確定し、ヤーノシュは2月26日の朝にウィーン南郊外の刑場で処刑され、その母親には年金が交付された[47]

ウィーン市民の多くはそれまでフランツ・ヨーゼフ1世に対してあまり良い感情を抱いていなかったが、この事件のあとは一種の同情心からか親しみが生まれた[49]。弟マクシミリアン大公は、皇帝の命が救われたことを神に感謝するために新しい教会を建立しようと呼びかけると[47][49]、30万人の市民がこれに賛同し、寄付金によってヴォティーフ教会が建立された。シュトラウス2世は、皇帝の命が救われたことを祝って、作品126『フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』(『フランツ・ヨーゼフ1世万歳!』とも日本語訳される)という行進曲を皇帝に捧げた[50]。なお、皇帝の命を救った肉屋エッテンライヒはその勲功により世襲貴族に叙せられた[47][46]。また、この事件をきっかけに帝都改造論が勢いづいた[43]。フランツ・ヨーゼフ1世の傷の後遺症はしばらく続き、完治するまでに一年近くを要した[46]

皇后の選定

第一候補、プロイセン王女マリア・アンナ。

若き皇帝のために、宮中では皇后選びの作業が進められていた。先頭に立って妃選びにあたった母ゾフィー大公妃がまず候補に挙げたのは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の姪にあたるマリア・アンナ王女であった[42][51]1852年の冬、かつてプロイセン王がウィーンを訪れたことへの答礼としてフランツ・ヨーゼフ1世はベルリンを訪れており[42]、その際に美しいと評判の彼女に会って心を奪われていたことによる。また、好戦的な姿勢を隠さなかったフランス皇帝ナポレオン3世への対処のために、当時ぎすぎすしていたオーストリアとプロイセンの関係を改善したいという意図もあった[42]。しかし、プロイセンは自国主導のドイツ統一を目論んでおり、その足枷となるオーストリア帝室との婚姻をこの時期に結ぶことはありえなかった[42]。それに、プロテスタントホーエンツォレルン家カトリックのハプスブルク家では宗旨が違うという理由もあるので[51]、この縁談はプロイセン側に断られた。

第二候補、バイエルン公女ヘレーネ。

次善の策として母が目をつけたのは、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系の公女で、皇帝にとっては母方の従妹にあたるヘレーネ・イン・バイエルンだった。1853年2月18日の夜、フランツ・ヨーゼフ1世とヘレーネのお見合いを兼ねて、外国からの賓客を招いた舞踏会が催される予定だった[42]が、当日の昼にヤーノシュによる皇帝襲撃事件が起こり、お見合いは延期となった[49]

8月18日に満23歳になる皇帝の誕生日の祝賀をするという名目で、母ゾフィーはミュンヘンから妹ルドヴィカと姪を招待した[16]。こうして8月16日、ウィーンとミュンヘンのほぼ中間に位置する避暑地バート・イシュルの地で両者のお見合いが行われたが、この時フランツ・ヨーゼフ1世は、社交界に慣れさせるためにヘレーネと一緒に連れてこられたその妹エリーザベトに一目惚れをしてしまった[51][52]。顔合わせの際にはヘレーネには見向きもせずにエリーザベトに熱い視線を注ぎ、その後の夜会でも、ヘレーネにはほとんど無関心でエリーザベトとばかり言葉を交わしていた[53]

翌17日の朝、母ゾフィーの部屋を訪れると、エリーザベトがいかに魅力的であるかを情熱的に語った[54]。ゾフィーがヘレーネについての意見を訊ねても、フランツ・ヨーゼフ1世はすぐにその話をエリーザベトについてのものに変えてしまった[54]。夕べに舞踏会が催されたが、そこでもエリーザベトとしか踊ろうとしなかった[54]。今まで自分の言うことにはすべて従っていた息子が、自分の選んだヘレーネには目もくれないというこの状況を前にして、母ゾフィーは非常に困惑した[54]

誕生日である18日の午後、ふたりの従妹とともに母ゾフィーに連れられて、近隣にあるヴォルフガング湖へ馬車で散策に出掛けた[55]。この外出から帰るとすぐに、エリーザベトに結婚する意志があるかどうか確認してほしいと母に懇願した[55]。8月19日の早朝、母に呼ばれ、結婚申し込みを承諾した旨の叔母ルドヴィカの書き付けを見せられた[56]。かくしてふたりの婚約は成立した。その日のうちにふたりは当地の教会に行き、祭壇の前で司祭から祝福を受け、婚約の儀式を終えた[56]

エリーザベトとの結婚

1854年4月24日、アウグスティーナー教会で執り行われた結婚式。

1854年4月22日の午後4時、エリーザベトとその家族を乗せた蒸気船がウィーンのヌスドルフの波止場に到着した[57]。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、ハプスブルク家の一族や高位高官の者をその背後に並ばせて、花嫁の一行を出迎えた[57]。そして24日、ウィーンのアウグスティーナー教会英語版で枢機卿ラウシャーのもと、午後6時半に結婚式が挙行された[58]

シェーンブルン宮殿の「鏡の間」で祝賀舞踏会が行われ、招待客は3000人に及んだ[58]。この舞踏会の指揮を担当したのはヨハン・シュトラウス2世であり、また彼は皇帝の結婚を祝賀するために作品154『ミルテの冠』(『ミルテの花束』とも)というワルツを作曲した[50]。この結婚によって皇帝の人気は高まり、夜に皇帝夫妻が馬車で町を巡遊すると、沿道には大勢の人々が詰めかけた。

新婚の皇帝夫妻は、まずラクセンブルク英語版の宮殿で新生活を始めた[58]。しかし、新婚早々クリミア戦争が激化したため、フランツ・ヨーゼフ1世は早朝から深夜まで会議や閣議、応接に追われ、あまり新妻を顧みる余裕がなかった。

母ゾフィーはエリーザベトにウィーン流の宮廷教育を施し、ハプスブルク家の皇后としてふさわしい振る舞いを常に求めた[59]。そもそも母ゾフィーはヘレーネ公女を皇后にと考えていたのであって、その妹であるエリーザベトについてはあまり快く思っていなかった[59]。このような状況の中で、フランツ・ヨーゼフ1世は妻と母の間で板挟みになった。両者が何かをめぐって対立した際、「皇帝になれたのは私のおかげ」だと母に常々言い聞かされてきたフランツ・ヨーゼフ1世はいつも母ゾフィーの側につかざるをえなかったが、母のいないときには妻エリーザベトに理解を示した[60]

ウィーン改造

城壁の取り壊しと建設中のリングシュトラーセ。(1863年)

1853年の皇帝襲撃事件が起きる前から、ウィーン城壁を撤去しようという意見は多く聞かれた。市街地区に建設用地はまったくなく、19世紀初頭以来、くりかえし建物禁止令が発された[61]。用地の慢性的な不足により建物を建設できないのに対して、ウィーンの人口は19世紀前半の50年でほぼ倍増し[61]、住まいを求める人口が20万人にも達していた[62]。このような状況下で、当時のウィーン市長ヨハン・カスパール・フォン・ザイラードイツ語版や通産大臣カール・ルートヴィヒ・フォン・ブルックドイツ語版などは熱心にウィーン改造を主張した[62]。皇帝襲撃事件の数日前にフランツ・ヨーゼフ1世は、美術アカデミーの教授ルートヴィヒ・フェルスタードイツ語版からウィーン改造案についての説明を受けて大いに関心を示し、基本的に帝都改造に同意していた[62]。そこに襲撃事件が発生し、ますますウィーン改造への追い風となった。

1857年7月、長年の懸案となっていたウィーン城壁の撤去計画がまとまり、12月20日にフランツ・ヨーゼフ1世は帝都改造の勅書に署名した[63][64]。皇帝の決断が30年後の世紀末ウィーンの栄華を導くことになる。警察長官ヨハン・フランツ・ケンペンドイツ語版のように、この決定を性急かつ無思慮なものと見なす軍人や保守派市民もいたが、大部分のウィーン市民に受け入れられた[65]。とりわけ労働者は、撤去工事と新たな建設工事によって仕事が増えると歓迎した[65]。市民はフランツ・ヨーゼフ1世の決断を絶賛し、皇帝の人気は急上昇した[66]

共和主義者は城壁が撤去されることによって宮殿が無防備になると考えた[65]が、そもそもこの古い城壁は、武器の飛躍的な発達によって有効性を失いつつあった[64] 。むしろ複雑に入り組んだ街区を整理することによって、1848年革命のようにバリケードが築かれる余地がなくなり、治安はより保たれることになる。それまでは狭い城門を通らねばならなかったが、城壁を撤去すれば大量の部隊を周辺から呼び寄せることもできる。支配者側としてはこのような考えのもとでウィーン改造を計画した[26]。これらは、フランス皇帝ナポレオン3世ジョルジュ・オスマンとともに断行したパリ改造の先例にいくらか影響を受けたものである[67]

それまでウィーン市内を囲んでいた城壁は長い時間をかけてすべて撤去され、旧市街と34ある郊外地区との間に横たわる、防備のための広々としたグラーシ(Glacis)と呼ばれる空間に、リングシュトラーセと呼ばれる環状線が設けられることとなった。リングシュトラーゼの両側にネオ・ゴシック様式の市庁舎や新古典様式の帝国議会を建設するなど、歴史主義的な建造物による都市計画が行われた。また、巨大な兵舎や国防省、警察の中枢がリングシュトラーセの両端に配置された[26]。こうしてウィーンの街は、ヨーロッパ随一の文化メトロポーレとして変貌を遂げていった。ハプスブルク帝国の長い歴史において、フランツ・ヨーゼフ1世の統治した時代こそが、ウィーンが最も強い輝きを放った時代であった。新興の都ベルリンなど足元にも及ばぬ美しい帝都の完成に、フランツ・ヨーゼフ1世は非常に満足していたと伝えられる[68]

フランツ・ヨーゼフ1世は芸術・音楽・文学などには疎かった[33]にも関わらずそれらの庇護者であり、当時ウィーンの批評家に酷評されていたジュゼッペ・ヴェルディに対する支持をシュトラウス2世とともに表明している[69]1870年1月5日にウィーン楽友協会の落成式に臨席する[70]など、フランツ・ヨーゼフ1世は公私を問わずさまざまな行事に姿を見せ、あらゆる芸術文化を庇護した[71]

イタリア戦線の敗退

ソルフェリーノの戦いにおけるフランツ・ヨーゼフ1世。

1815年ウィーン会議の結果、北イタリアに位置するロンバルディアヴェネトはオーストリア帝国に帰属することとなり、ロンバルド=ヴェネト王国となっていた。しかし、イタリア民族主義の高まりから、現地ではオーストリアからの分離運動が盛んに行われるようになっており、フランス皇帝ナポレオン3世がこれを密かに支援していた[72]

そこで、政情不安を和らげるためにフランツ・ヨーゼフ1世は、1856年11月17日から4か月間にわたって皇后エリーザベトを伴って北イタリアへの巡幸を行った[72]ヴェネチアでは、ロンバルド=ヴェネト王国の副王を務めていたラデツキー元帥との再会を果たした[72]。北イタリアに睨みを利かせていたラデツキー元帥は90歳の高齢となっており、著しく老衰していた。そこでフランツ・ヨーゼフ1世はラデツキー元帥の任務を解き、自身の弟マクシミリアン大公を後任の副王に就かせた。

マクシミリアン大公はサルデーニャ王国とフランスとの間に頻繁な接触があることを察知し、ウィーンの政府に相手を挑発しないよう警告したが、強硬派のオーストリア外相カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタインは状況を正確に判断することなく、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に対してオーストリア領ロンバルディアから撤退するよう最後通牒を突きつけた[73]。皇帝の侍従長はフェレンツ・ジュライドイツ語版伯爵を総司令官に抜擢したが、彼はマクシミリアン大公が無能と評する人物であった[73]。数ではサルデーニャ・フランス連合軍に勝っていたものの、ジュライ将軍を含めてオーストリア軍の士気は低く、軍備も不足していたことから、1859年6月4日のマジェンタの戦いで退却を余儀なくされ、ロンバルディアの要衝ミラノを奪われてしまう[74]。6月18日にフランツ・ヨーゼフ1世はジュライ将軍を解任し、自ら指揮を執ることを軍隊に公表した。

ソルフェリーノの戦いにおいてフランツ・ヨーゼフ1世は陣営を鼓舞して回ったが、砲弾も食糧も不足するなかで敗戦を喫する。7月11日、ヴィッラフランカ・ディ・ヴェローナの地においてナポレオン3世との交渉の場が設けられた[75]。会談の結果、ヴェネトはオーストリア領のまま維持し、ロンバルディアはサルデーニャ王国に割譲することとなった[75]トスカーナ大公国モデナ公国パルマ公国の亡命君主の復位も取り決められた[75]が、その翌年には国民投票によっていずれもサルデーニャ王国に併合される。

「新絶対主義」の終焉

一連のイタリア統一戦争の敗北、とりわけソルフェリーノの戦いに完敗したことは、オーストリア人にとって屈辱的なことであった[75]。フランツ・ヨーゼフ1世は侍従長グリュンネ伯爵を更迭し、内相バッハを閑職に追いやるなどして体制を一新した。職務にとどまった政府要人は皇帝ただ一人という徹底ぶりだったが、世論はなかなか収まらずに皇帝への不満が高まった。王朝そのものの威信も傷つき、コシュートを中心とするハンガリーの民族主義勢力も再び活動を開始した[76]

戦争によって財政状態はいっそう悪化したため、フランツ・ヨーゼフ1世は改革を迫られた。19世紀半ばの銀行家たちは代議制議会を求めており、これがなければ外国債を募ることはできなかったのである[77]1860年5月31日、帝国議会が拡大され、「新絶対主義」の時代は終焉を迎えた[77]。また1861年には、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。それはオーストリアを立憲君主国とするものだったが、しかしフランツ・ヨーゼフ1世は依然として外務と軍事に関する多くの権力を保持した[78]。急進的なハンガリー人は皇帝に権力が集中しすぎるとして反対し、その中にはさまざまな形で抵抗運動を続ける勢力もあった[79]。そのためフランツ・ヨーゼフ1世は怒り、軍隊を派遣してハンガリー議会を解散させた[79]

二月勅許を発した後のオーストリアは、中央集権的な自由主義国家のようであり、ほとんどのドイツ諸国の自由主義・立憲主義的な路線に合致していた[80]。反自由主義的なプロイセンに対抗して、自由主義的なドイツの盟主となる可能性がオーストリアには開かれていた[80]。ドイツの中規模諸国にとってオーストリアの立憲主義的立場は最大の魅力であったにも関わらず、フランツ・ヨーゼフ1世は強制されない限り立憲主義を受け入れようとしなかった[81]。1864年の初めに、公然と立憲主義を称賛したシュメアリング内相を厳しく叱責していることからもそれは明らかである[81]

メキシコ帝冠をめぐって

マクシミリアン大公夫妻を見送るフランツ・ヨーゼフ1世夫妻。

フランス皇帝ナポレオン3世は、メキシコに傀儡政権を樹立しようとしていた。そしてフランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアン大公にメキシコ皇帝への就任を打診してきた。マクシミリアンは妃の説得によってこれを受ける決意を固め、1861年からその翌年にかけてフランツ・ヨーゼフ1世と協議した[82]

フランツ・ヨーゼフ1世はこれに迷いを見せ、それまで弟には後継者たる権利がないことをしばしば言い含めていたにも関わらず[82]、頑強とはいえない皇太子ルドルフに万一のことがあった際にはマクシミリアンが帝位を継ぐものであることを指摘して慰留した[83]。しかしマクシミリアンの決意は変わらず、フランツ・ヨーゼフ1世は、弟の居城であるミラマール城まで出かけていって皇位継承権を放棄するという署名を取りつけることしかできなかった[83]

メキシコ皇帝となったマクシミリアンは結局、メキシコ共和国のベニート・フアレスに逮捕され、1867年6月19日に銃殺刑に処されることになる。

普墺戦争の敗戦

フランツ・ヨーゼフ1世(1865年)

イタリアで失敗した後、オーストリアの関心はもう一つの主要な利益圏であるドイツに向けられ、ドイツ連邦の指導的地位を再び主張するようになった[84]。これはプロイセン主導の小ドイツ主義的な関税同盟に対する挑戦であり、プロイセン王国との伝統的な対抗関係が復活した[84]。イタリア戦線に援軍を送らなかったことを「背信行為」として、フランツ・ヨーゼフ1世はプロイセンを公然と非難した[84]

プロイセン主導のドイツ統一に燃えるプロイセン首相ビスマルクは、ハプスブルク支配下の諸民族の民族主義者たちを援助して扇動したり[85]、ナポレオン3世にはフランス語圏の支配権移譲をちらつかせる[85]などして、オーストリアとの決戦に備えて準備を進めていた。それに対してオーストリアはほとんど何も準備せず、開戦を望んでいる者はほとんどいなかった。フランツ・ヨーゼフ1世はあくまで平和的解決を願っており、1866年4月8日の閣議でもオーストリア政府の和平の意志が再確認された[86]。しかしプロイセンはさまざまな形でオーストリアを挑発し[86]、ついには普墺戦争の開戦に至った。1865年にオーストリアは自由主義的憲法を停止していたが、それでも自由主義的なドイツ諸国家のほとんどはオーストリア側に付いた。

消極的な自軍指揮官ルートヴィヒ・フォン・ベネディク英語版に決戦を命じた結果、ケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。この際、北イタリアに残されていたオーストリア領ヴェネトは、プロイセンに味方していたイタリア王国に割譲された。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝としてドイツの君主の首位を占めてきたし、ドイツ連邦の議長職にあったことでその後も象徴的な指導権を維持していたが、敗戦によってオーストリアはこれらの威信と権力を喪失した[87]

普墺戦争後も、オーストリアはドイツから完全に締め出されたわけではなかった[88]。その後の数年間、フランツ・ヨーゼフ1世は自国の地位の回復を試み、ドイツ統一問題における発言権を取り戻そうとした[88]大ドイツ主義ではなく小ドイツ主義が勝利したことによってオーストリアはドイツから締め出され、従来の西方重視の政策を東方主体に転換せざるをえなくなった[89]。また、イタリアの領土を失ったことで南方からも追い払われ、オーストリアは必然的に中・東欧に活路を見出すほかなくなった[89][90]。この敗戦後に、ベーメン、メーレン、ハンガリーに目を向けた「ドナウ君主国」という観念が急浮上した。

アウスグライヒ

聖イシュトヴァーンの王冠をかぶってハンガリー王として戴冠したフランツ・ヨーゼフ1世。

帝国内の諸地域では、民族主義が高揚して反政府運動が盛んになっていた[91]。プロイセンに敗戦したことによる諸々の喪失は、自国を支配する能力にも影響を及ぼしたのである[87]。とりわけ警戒を要したのは、皇帝に対する恨みがいまだ残存しているハンガリーだった。ウィーンはこのような状況下において、ベーメンのチェコ人と組んでハンガリーを抑えるか、ハンガリーのマジャル人と組んでスラブ民族を抑えるかという二者択一を迫られることになったのである[91]

民族や人口比、宗教が同じカトリックであること、ウィーンとブダペストの近さなどからみて、ハンガリーとの協調が適切だと考えられた。また、皇后エリーザベトがハンガリーを愛してその熱烈な擁護者になっていたことも大きな影響を及ぼした。アウスグライヒについてのハンガリーとの交渉はプロイセンとの戦前から行われており、オーストリアがプロイセンに大敗した後も、ハンガリーは足元を見ることなく戦前と同じ条件のみを求めた[92]。フランツ・ヨーゼフ1世はこれに感謝しつつ、1867年ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、二重君主国であるオーストリア=ハンガリー帝国を成立させた。これにより、ハプスブルク帝国オーストリア帝国領ハンガリー王国領に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。

1867年6月、フランツ・ヨーゼフ1世はエリーザベトとともにマーチャーシュ聖堂へ赴き、ハンガリー国王としての戴冠式を執り行った。ハンガリー議会は二重帝国成立の記念として、皇帝夫妻にゲデレ城ドイツ語版と10万ドゥカーテン金貨を献上した。メキシコ皇帝となった弟マクシミリアンが処刑されたという知らせを受けたのは、ブダペストでの祝賀の最中であった[93]

フランツ・ヨーゼフ1世はアウスグライヒが成立した後、ハンガリー人以外の民族とも関係を自由に改善する余地があると考えていた[94]。チェコやポーランドにも、ハンガリーにとったのと同様の措置をとろうと考えた[95]。具体的な構想が提出され、帝国を連邦制に改めるドナウ連邦構想が公式に議論された[95]。不満を抱くチェコ人のためにボヘミア王として戴冠することを約束したが、これを二重制を壊すものだとするハンガリー首相アンドラーシ・ジュラの猛烈な反対に遭い、断念せざるをえなかった[92]。また、フランツ・ヨーゼフ1世は歳を取るにつれてますます頑固になっていき、連邦制への移行案を拒絶するようになった。

ユダヤ人の庇護

ウィーンの「名市長」と称されたカール・ルエーガー。(1900年)

即位当初のフランツ・ヨーゼフ1世はユダヤ人の解放を拒んでいたが、1867年以降はユダヤ人の臣民としての身分を尊重するようになった。反ユダヤ主義の社会的風潮の中で、大きな資本を握るユダヤ人の権利の庇護者となったのである[96]

1895年、ウィーン市長選挙でキリスト教社会党カール・ルエーガーは、ユダヤ人を激しく攻撃する演説をおこなって人気を獲得し、市議会での投票で過半数を得た。しかしフランツ・ヨーゼフ1世はこれを承認せず、「余の目の黒いうちは、わが帝都の市長として彼を批准することはなかろう」と拒否し続けた[97]。当時、市長は皇帝の任命する州の総督に承認されなければならなかった。そのため皇帝の同意を得られないルエーガーを総督は承認せず、ルエーガーは正式な市長になれなかったが、しかしいくら皇帝が拒否しても彼は繰り返し市長に選出された[97]。この確執は3年にもわたって続き、皇帝による市民無視との印象をウィーン市民に与えた[98]。一般市民の間では「ルエーガー万歳」の声が一段と高まり、ルエーガーは皇帝と人気を競うほどになった[98]。この頃、市民は「バデーニくたばれ」を合言葉とした。「皇帝くたばれ」と不敬なことばを吐くわけにはいかなかったので、時の首相カジミール・フェリクス・バデーニ伯爵が皇帝の身代わりとなったのである[98]

1897年、五度目の選出を受けたルエーガーに対して、フランツ・ヨーゼフ1世はついに折れて、4月16日にウィーン市長就任に同意した[99]。4月20日にはルエーガーと謁見し、市長就任の宣誓が執り行われた[99]。しかしこの一連の流れからフランツ・ヨーゼフ1世は、帝国内のユダヤ人から「反ユダヤ主義の盾になって下さるわれらの庇護者[100]」としてますます敬愛されるようになった。

また、1914年にユダヤ人難民をウィーンから放逐するとキリスト教社会党が政府を脅したのに対し、フランツ・ヨーゼフ1世は追われたユダヤ人にシェーンブルン宮殿を開放するという脅しでこれに応じたという[96]

相次ぐ家族の不幸

聡明で将来を嘱望された長男ルドルフ皇太子は、保守的な父帝と対立、1889年マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とマイヤーリンクで謎の心中を遂げた(暗殺説もある)。息子ルドルフに代わる皇位継承者は、その後しばらく決定されなかった。

1898年、皇后エリーザベトが旅先のジュネーブでイタリア人無政府主義ルイジ・ルキーニに暗殺されたことは、皇帝に大きな衝撃を与えた。その突然の訃報に接した際、悲嘆のあまり「この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか」と泣き崩れたと伝えられている[101]

フランツ・フェルディナント大公との対立

1900年、イタリアの都市メラーノでフランツ・フェルディナント大公と馬車に同乗するフランツ・ヨーゼフ1世。

カール・ルートヴィヒ大公1896年に死去すると、その長男で皇帝にとっては甥にあたるフランツ・フェルディナント大公を帝位継承者に指名した。オーストリア=ハンガリー帝国の成立に見られる、皇帝のハンガリーの政治的独立を半ば認め、帝国内の民族融和を図るフランツ・ヨーゼフ1世の政策に対し、フランツ・フェルディナント大公は、多くの特権を得ているにも関わらず、なお完全な独立を要求するハンガリー人を「厚顔」として批判する[102]など、両者の間には政治的対立がたびたび見られた。フランツ・ヨーゼフ1世が諸民族の融和を信条とし、「一致団結して」をスローガンに掲げているのに対し、フランツ・フェルディナント大公はオーストリアの強化を目指し、国粋主義的な思想を展開していたのである[103]

また、フランツ・フェルディナント大公は結婚問題をも引き起こしていた。将来の皇后としては身分不相応なゾフィー・ホテク伯爵令嬢との貴賎結婚を欲していたのである。再三にわたって結婚の許可を求められたフランツ・ヨーゼフ1世は、「それでは帝位か結婚か、どちらかを選べ。」と迫ったが、これに対してフランツ・フェルディナント大公は帝位と結婚の両方を願った[104]。故カール・ルートヴィヒ大公の後妻、すなわちフランツ・フェルディナント大公の義母マリア・テレサ大公妃が皇帝を説得した[105]。その結果、ゾフィーを皇后の身分にせず、また彼女との間に生まれる子孫には帝位継承権を与えないという条件のもとで、フランツ・ヨーゼフ1世はこの結婚を承認した[105][106]。1900年7月1日に結婚式が催されたが、フランツ・ヨーゼフ1世は出席を拒否した。

フランツ・ヨーゼフ1世はシェーンブルン宮殿に好んで住み、またフランツ・フェルディナント大公は結婚後にベルヴェデーレ宮殿に居を構えるようになった[107]ため、この対立はさながらシェーンブルン対ベルヴェデーレの様相を呈していた[108]1906年から、フランツ・フェルディナント大公は次第に政府内でいくらかの発言権を認められるようになり、フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフマックス・ウラディミール・フォン・ベック英語版など、ベルヴェデーレ派の人々が政府上層部で影響力を持つようになっていった[106]。参加するようになった彼らは、ベルヴェデーレ側ではなくシェーンブルン側の意に従う人間になった[109]。この後も政府を支配したのは依然としてフランツ・ヨーゼフ1世であった[109]が、やがて彼らに流される形で第一次世界大戦の開戦に至るのである[110]

カール大公の結婚式

カール大公の結婚に笑みを浮かべるフランツ・ヨーゼフ1世。

フランツ・フェルディナント大公が貴賤結婚に走った一方、その次の皇位継承者と目されるカール大公は相応しい身分の出身であるツィタ・フォン・ブルボン=パルマと結婚した。そのためフランツ・ヨーゼフ1世は夫妻にとても好意的であった[111]1911年10月21日に行われたカール大公の結婚式の際には、わざわざ列車でシュヴァルツアウ城館に赴いた[111]。カメラマンの注文にも喜んで応じ、さらにはバルコニーに出て民衆に手を振るという、久しく民衆と触れ合うことのなかった老帝としては珍しいサービスを行うほど上機嫌であった。

シェーンブルンに戻ったフランツ・ヨーゼフ1世は風邪を引き、胸の苦しみを訴えた[111]。休養を勧める侍医の言にもいっさい耳を傾けず、仕事を続けた。とはいえさすがに自分の年齢を考えて、11月13日に私財管理の執事を呼び、愛人カタリーナ・シュラットに250万クローネンを手渡すように伝えた[112]。また、侍従ラマシュには「フランツ・フェルディナントが帝位に就く場合でも、ホーエンベルク侯爵夫人(ゾフィー)は皇后になれないであろうな。」と訊ね、改めて確認させた[112]

1912年にカール大公夫妻の間に男児が生まれた際には随喜の涙を流し、その洗礼式の際には代父となった。皇帝にあやかって男児は「フランツ・ヨーゼフ」と名付けられた。その男児とは、のちに最後の皇太子として知られるオットー・フォン・ハプスブルクのことである。

ボスニア・ヘルツェゴビナの併合

1908年の風刺画。

1908年、フランツ・ヨーゼフ1世はボスニアヘルツェゴヴィナの併合に踏み切った。この両地域は、1878年ベルリン会議において、オーストリアが統治の委任を受けたものである[113]1881年、フランツ・ヨーゼフ1世とドイツ皇帝ヴィルヘルム1世、そしてロシア皇帝アレクサンドル3世は秘密同盟を結んだ。ドイツもロシアも、オーストリア=ハンガリー帝国が時期を問わずにボスニア・ヘルツェゴビナを併合するのに反対しないと表明した[114]

なお、この併合宣言は同盟国であったドイツとイタリアにも通知せずに行われたものであり、ヨーロッパは騒然となった。これはヨーロッパ戦争を引き起こす恐れがあったが、ひとまずドイツによって戦争は回避された[113]。ドイツがロシアに併合を受諾すべしと強硬な態度に出て、ロシアが外交的に譲歩することによって緊張状態が解決されたのである[115]。フランツ・ヨーゼフ1世には、世襲した領土をそのまま次代に譲渡したいとの思いがあったので、ボスニア・ヘルツェゴビナが多少なりとも失われたイタリア半島の領土の代わりになると考えてのことであった[113][116]

この併合は汎スラヴ主義の先頭に立つセルビア王国との関係を悪化させ、さらに民族問題を複雑化させることに繋がった。帝国内のスラヴ系民族を刺激したのである。

第一次世界大戦

サラエボ事件の勃発

祈るフランツ・ヨーゼフ1世。(1914年)
中央同盟国の君主たち。左からドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、オスマン帝国皇帝メフメト5世、ブルガリア国王フェルディナンド1世

帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、1914年サラエボ事件が起こり、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された。この一報を耳にしたフランツ・ヨーゼフ1世が発したとされる最初の言葉は、「恐ろしいことだ。全能の神に逆らって報いなしには済まない。余が不幸にも支えられなかった古い秩序を、より高い力が立て直して下さった。」であると伝えられている[117]。王朝の継承者たるフランツ・フェルディナント大公が貴賤結婚を成して王朝の義務に反したことに対して、神が天罰を下したのだとフランツ・ヨーゼフ1世は見なしたのである[117]

このような反応をみせたフランツ・ヨーゼフ1世であるが、王朝の体面を守るためには、皇位継承者を殺されて黙っているわけにはいかなかった。ハンガリー首相ティサ・イシュトヴァーンは、現状のままセルビアと開戦するのはバルカン半島にまともな軍事基地を持たない帝国側が不利であるとして反対したが、皇帝以下のウィーン政府は、セルビアが十分な謝罪をしなければ軍の動員も辞さない構えを示した[118]

帝国共通の外務大臣レオポルト・ベルヒトルトから戦争への署名を求められ、バート・イシュルにある夏の別荘で宣戦布告の文書に署名した[119]。7月28日にオーストリアはセルビアに宣戦を布告し、第一次世界大戦が勃発する。7月末にフランツ・ヨーゼフ1世は、フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフに対して「もし帝国が滅亡しなければならないなら、少なくとも品位をもって滅亡すべきである。」と語っている[120]

開戦の結果、フランツ・ヨーゼフ1世は自らの権力を手放すことになった[120]。あらゆる権力がヘッツェンドルフの束ねる陸軍総司令部に集中し、84歳の誕生日が近づいていたフランツ・ヨーゼフ1世はシェーンブルン宮殿で、ただ作戦についての情報を与えられるだけになってしまった[120]。皇帝はもはや帝国の実際上の支配者ではなくなってしまったのである[120]

大戦の緒戦でオーストリア軍が勝利したとの一報が届いた時、ツィタから祝いの言葉をかけられたフランツ・ヨーゼフ1世はこう述べたという[121]。「そうだ。勝利だよ。しかし、余の戦いはいつもこんな風に始まり、敗北に終わるのだよ。そして、今度はもっと悪い結果になるかもしれない。みんなはいうだろう。余が老い果てて、もはや戦うことができない、革命でも勃発すれば、一巻の終わりだろう、と。」

カール大公を帝位継承者に指名

帝位継承者フランツ・フェルディナント大公をサラエボ事件で失った後、フランツ・フェルディナント大公の弟オットー・フランツ大公の長男であるカール大公(後のカール1世)を新たな帝位継承者とした。

晩年のフランツ・ヨーゼフ1世の喜びのひとつは、カール大公夫妻が親愛な態度で接してくれることだった。フランツ・ヨーゼフ1世たっての願いで、カール大公一家はシェーンブルン宮殿で皇帝と同居するようになった[122]。フランツ・ヨーゼフ1世の楽しみは、よちよち歩きをするようになったオットーを見ることだった[122]

カール大公のことをフランツ・ヨーゼフ1世は大いに信頼し、次のことを述べている。「余はカールを非常に高く評価している。彼は余に明確に意見を表明する。しかし余が考えを固執するときには、それに従う気持ちを失ってはいない[122]。」

崩御

帝国内部では、しだいに大戦疲れの兆候がみえるようになる。ハンガリー当局はライタ川以西への食料の供給を抑えるようになった[123]。そして銃後の経済的困窮によって労働争議とストライキが増加した[123]1916年7月、フランツ・ヨーゼフ1世は侍従武官のアルバート・マルグッティドイツ語版にこう語ったとされる。

われわれの状況は悪くなっている。ことによると、思っているよりもずっと悪い。飢えた国民はもう多くは耐えられないだろう。われわれが冬を持ちこたえられるか、どうやって持ちこたえるかを見ていなければならない。何としてでも来春には戦争を終わらせるつもりだ。余は、余の帝国を希望なく破滅させることはできない[123]

ベルヒトルト外相の後任となったシュテファン・ブリアン伯爵も、10月には和平を結ぶ必要について言及し始めた[123]

11月に入るとフランツ・ヨーゼフ1世は衰弱し、9日には高熱を発した[124]。11日には熱は38度4分となり、ますます病状が悪化した。皇帝自身が「今度は助からないかもしれない」と呟いたほどだった[124]。しかし12日には熱が下がって食欲も出るなど、病状は少し回復した。再び書類の山に向かい、客人を接待できるほどになったものの、17日には再び高熱を発した[125]。20日の11時半にカール大公夫妻が見舞いに訪れると、ふたりに向かって「早く回復したい。仕事が多く残っている。とても病気になどなっておられない。」と口にした[125]

11月21日の夜、明朝3時半に起こすように言いおいて、ハプスブルク家の大勢の縁者たちに見守られながら眠りについた[126]。死亡時刻は午後9時5分、死因は肺炎、享年86歳だった。11月30日にカプツィーナー納骨堂の霊廟に葬られた。フランツ・ヨーゼフ1世が生涯をかけて守ろうとしたハプスブルク帝国は、老帝の崩御のわずか2年後に世界地図から姿を消すことになる。

評価

フランツ・ヨーゼフ1世。(1910年)

戦争には負け続け、皇太子にも皇后にも先立たれ、民族問題にも悩まされた不幸な皇帝だと一般的に評価される[23][127]。数多くの過ちを繰り返したものの、その忍耐と不屈の精神、そして温厚にして誠実な人柄から、晩年には帝国内のすべての民族に慕われた[100]

神聖ローマ皇帝の由緒正しい血統、68年にもわたる最長在位記録。そして皇太子ルドルフの情死、美貌の皇妃エリーザベトの暗殺事件といった帝室の悲劇。これらの要素は、フランツ・ヨーゼフ1世をよりいっそう皇帝らしく見せ、オーストリア国民の理想の君主像に限りなく近づけた[128]。幼年学校や将校クラブはもちろん、安宿や娼家にも皇帝の肖像が飾られていた[129]。オーストリア各地のみやげもの屋には皇帝の似顔絵入りの絵はがきコーヒーカップが並び、皇帝のプロマイドが人気を呼んでいた[129]。今なおウィーンの街ではフランツ・ヨーゼフ1世の銅像やポスターを至るところで見ることができる[127]。これはホーエンツォレルン家の王都だったベルリンでは見られぬ光景である[127]

69年の治世の中で、政治的には数々の難題に直面したが、オーストリアの文化・経済は大きな発展をみた。それすら沈みゆく帝国の最後の光芒であったが、この文化発展への貢献、とりわけ19世紀末にウィーンを文化メトロポーレに変貌させたことこそがフランツ・ヨーゼフ1世の最大の功績だといえる[100][130]

逸話

狩りに興じる際の恰好。
  • 王権神授説を信じる絶対主義的な君主であり、かつ貴賤結婚を断固として認めない古いタイプの君主であった。実際にフランツ・ヨーゼフ1世も自らを「旧時代の最後の君主」であると認めており[131]1910年にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトと会談した際にも「もしマクシミリアン1世が最後の騎士とするなら、フランツ・ヨーゼフは最後の君主である」と自ら語っている[33]。王朝と国家は、彼の心の中では同一の概念であった。そのわりには質素な生活ぶりであったが、その代わりに宮廷の儀礼や儀式の厳守を強く主張した[132]。また、晩年にはこのように語っている[133]。「余は久しい以前からよくわかっていた。今日の世界にあって、われわれがいかに変わり者であるかを。」
  • 非常に勤勉で時間に正確で、判で押したような規則正しい生活を送った。皇帝になって以後は死の直前まで、日々3時間睡眠で激務に当たったという。君主や政治家というよりは、軍人ないし官僚のような人物であった。そのためか、正反対な性格のイギリス国王エドワード7世とは仲が悪かったというが、その母親であるヴィクトリア女王には敬意を抱いていたようである。
  • 新しいもの、すなわち「文明の利器」である機械にアレルギーを示し、自動車電話は決して用いようとしなかった。自動車については77歳の時に、エドワード7世の求めに応じて一度だけ彼と同乗したことがある[134]が、電話については一度も使ったことがなかった[135]。ただし、電信機だけはよく利用した。どのようなことも電報で通信し、シェーンブルン宮殿の他の部屋への連絡にも用いた[136]
  • 皇后エリーザベトは、政務に忙殺される夫との心のすれ違い、姑のゾフィー大公妃との確執などもあって、窮屈な宮廷生活を嫌い、ウィーンに留まることなく放浪にも似た旅を続けた。その淋しさを紛らわすため、エリーザベトから紹介された舞台女優カタリーナ・シュラットと親しくなり、しばしば会話を楽しむようになった。なお、エリーザベトを終生心から愛していたことに変わりはなく、旅に明け暮れる彼女をしばしば滞在先に訪ねている[101]
  • 狩猟が少年期からの趣味であり、ウィーン近郊のいたるところに狩りのための別荘を建てている。休暇日や保養に出かけた際にはよく鹿狩りを楽しんだ。息子ルドルフへしばしば送る手紙に「今日はどこぞでイノシシを何頭、シカを何頭射た」と得意げに書き添えた[137]。しかしルドルフに先立たれてしばらくの間は、「鹿を見るとルドルフのことを思い出してしまう」と言って狩猟から足を遠のけた[138]
  • 芝居は好んだが音楽にはほとんど関心を示さず、芝居を見に行った際に聴衆が一斉に起立しているのを見るまでは、皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』を知らなかったという[139]
  • 宮廷舞踏会の指揮者となったシュトラウス2世とはたびたび顔を合わせる機会があったが、1848年革命に参加した彼に対していい感情を抱いていなかったので、当初フランツ・ヨーゼフ1世は「こんにちは、機嫌はどうだね?(Grüss Gott, wie geht's?)」と問いかけるだけだったという[140]。しかしシュトラウス2世の音楽に親しむにつれ、しだいに彼への反感をやわらげていった。後年には彼の手掛けた『ジプシー男爵』を見て大いに気に入り、劇場の皇帝席にシュトラウス2世を呼び寄せて褒めちぎった[140]

子女

フランツ・ヨーゼフ1世と家族(1861年)

皇后エリーザベトとの間に一男三女を儲けた。

なお、幾人かの落胤がいたとされる。そのうちの一人は、愛人のアンナ・ナホフスキーに産ませた娘で、新ウィーン楽派の中心人物となったアルバン・ベルクの妻になった[141]。また、あくまで噂の域を出ないが、指揮者クレメンス・クラウスもフランツ・ヨーゼフ1世の落胤だという話がある[141]

関連作品

映画

フランツ・ヨーゼフ1世を演じた主な俳優は以下の通りである。

ミュージカル

参考文献

脚注

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関連項目