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{{基礎情報 武士
'''成田 長親'''(なりた ながちか、[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]]) - [[慶長]]17年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]([[1613年]][[1月24日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[成田泰季]]の嫡男。官職は[[大蔵大輔]]。妻は遠山藤九郎([[遠山綱景]]の子)の娘<ref>長親の母は[[太田資顕]]のであり、資顕没後に成田氏に身を寄せていた。黒田(2004)</ref>。子に長次、正明、勝明ら
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'''成田 長親'''(なりた ながちか、[[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]]) - [[慶長]]17年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]([[1613年]][[1月24日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[成田泰季]]の嫡男。官職は[[大蔵省|大蔵大輔]]。妻は遠山藤九郎([[遠山綱景]]の子)の娘<ref name="岩付太田24">{{Cite book|和書|author=[[黒田基樹]]|title=論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏|publisher=岩田書院|year=2013|isbn=978-4872947977|page=24}}</ref><ref name="扇谷上杉">{{Cite book|和書|author=黒田基樹|title=扇谷上杉氏と太田道灌|publisher=岩田書院|year=2004|isbn=978-4872943269|page=189-190}}</ref>{{#tag:ref|遠山藤九郎の娘母は[[太田資顕]]のであり、藤九郎と資顕が相次いで亡くなったため祖、母、娘の3人忍城に身を寄せていた<ref name="扇谷上杉"/>。|group=注}}


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]])、[[成田泰季]]の嫡男として生まれる<ref name="扇谷上杉"/>。明確な時期は定かでないが、[[成田長泰]]の意向により遠山藤九郎の娘(天文16年生まれと推測される<ref name="扇谷上杉"/>)と結婚し、長男・長季([[永禄]]10年生まれ)、次男・泰家([[天正]]2年生まれ)をもうけた<ref name="扇谷上杉"/>。
天文14年(1545年)、成田泰季の嫡男として誕生。


天正2年([[1574年]])の[[羽生城]]をめぐる[[上杉氏|上杉勢]]との戦いの後、同年閏11月に[[上杉謙信]]の命により同城が破却され上杉勢が撤退すると、羽生領の支配権は[[後北条氏|後北条方]]についた[[成田氏長]]に戦功として与えられた<ref name="成田氏42">[[#黒田 2012|黒田 2012]]、42頁</ref>。氏長は城を修築した後、家臣を配置したが<ref>[[#黒田 2012|黒田 2012]]、144頁</ref>、『[[関八州古戦録]]』によれば「氏長則成田大蔵少輔、桜井隼人佐を以て羽生の警固をなさしめり」とあり<ref>[[#槙島、中丸 1976|槙島、中丸 1976]]、209頁</ref>、『[[日本城郭大系]]』では「成田大蔵少輔」を長親としている<ref>{{Cite book|和書|title=[[日本城郭大系]] 5 埼玉・東京|publisher=[[新人物往来社]]|year=1979|isbn=978-4404009760|page=186-189}}</ref>{{#tag:ref|『成田系図』には「善照寺向用斎([[成田長泰]]、泰季の弟)が田中加賀、野沢信濃と共に羽生城代となった。善照寺はその最なり」と記されている<ref name="古代中世530">[[#行田市史編さん委員会 2012|行田市史編さん委員会 2012]]、530頁</ref>。|group=注}}。一方、『成田系図』や『士林泝洄』によれば「数々の軍功あり」とのみ記されている<ref>[[#行田市史編さん委員会 2012|行田市史編さん委員会 2012]]、542頁</ref>。
[[天正]]18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]と[[後北条氏]]の戦い([[小田原征伐]])が始まると、主君の[[成田氏長]]は北条氏に味方して[[小田原城|小田原]]籠城に参加した。[[成田氏]]の本拠[[忍城]]は氏長の叔父にあたる泰季が[[城代]]となって守ったが、泰季が開戦直後に没したためその子・長親が代わって城代となり、防衛の指揮を執った。忍城を攻める上方勢は[[石田三成]]を総大将とし[[大谷吉継]]、[[長束正家]]などの秀吉子飼いの諸将が名を連ね23,000騎もの大軍であったと伝えられている。三成は巨大な[[堤防]]([[石田堤]])を作って忍城を[[水攻め]]するなど総力を挙げて攻城するものの、北条方の本城である小田原城が降伏するまで長親は500騎と、士分や武装した農民も含め、計3,000名の手勢で城を守り切った<ref>ただし、当時の書状の中で三成は忍城水攻めを批判しており、またこの時点では一介の奉行でしかなかった三成の身分からしても、独断でこれだけの規模の水攻めを行えたかは疑問である。また、包囲に加わった[[浅野長政]]にも秀吉から水攻めを続行するようにとの命令が届き、士気が下がる事この上なかった、と浅野家文書に記されている。</ref>([[忍城の戦い]])。


天正6年([[1578年]])の『成田御家臣分限帳』(柴崎家文書)には、氏長配下の11人の家門侍の一人として「永三百貫 成田大蔵」と記されている<ref>[[#行田市史編さん委員会 2012|行田市史編さん委員会 2012]]、626頁</ref>。
その後は当主氏長とともに[[会津]]の[[蒲生氏郷]]のもとに一時身を寄せたのち、[[下野国]][[烏山藩|烏山]]へと移り住むが氏長と不和になり[[出奔]]。[[出家]]して自永斎と称し、晩年は[[尾張国]]に住んだ。


=== 忍城の戦い ===
慶長17年12月4日(1613年1月24日)、死去。菩提寺は[[名古屋市]]の[[大須]]にある[[大光院 (名古屋市)|大光院]]<ref name="A">{{citeweb|url=http://news.walkerplus.com/article/33988/ |title=成田長親を演じた野村萬斎が、長親の子孫と400年の時を超えて名古屋で対面! |publisher=ニュースウォーカー |date=2012-10-18 |accessdate=2014-03-26}}</ref>。戒名は青岩義伯菴主で墓碑は名古屋市千種区の[[平和公園 (名古屋市)]]大光院墓地にある。
{{main|忍城の戦い}}
天正18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]が始まると、当主の氏長は北条氏に味方して[[小田原城]]に籠城したが、成田氏の本拠・[[忍城]]は長親の父・泰季が城代を務め、500余の兵と城下の民たち合わせて3,000人が立て籠もった<ref>[[#埼玉県 1988|埼玉県 1988]]、716頁</ref>。秀吉は武蔵国の[[岩槻城|岩付城]]が落城すると、同城の攻撃軍を率いた[[浅野長政]]と[[木村重茲]]の両名に対して[[上杉景勝]]と[[前田利家]]ら北国勢と共に早急に[[鉢形城]]を攻囲するように命じた<ref>[[#埼玉県 1988|埼玉県 1988]]、709頁</ref>。一方、秀吉は忍城攻めの大将に[[石田三成]]を任じると、[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]、[[宇都宮国綱]]、[[結城晴朝]]、[[多賀谷重経]]、[[水谷勝俊]]、[[佐野房綱]]ら北関東の諸将をはじめ2万余人の軍勢を率いて侵攻した<ref>[[#埼玉県 1988|埼玉県 1988]]、715頁</ref>。


[[ファイル:Gyoda Suijo Park 1.JPG|thumb|250px|right|忍城址にある水城公園]]
== 逸話 ==
これに対し成田方は『成田系図』によれば本丸に泰季、持田口に長親と新田常陸守、下忍口に本庄越前守、皿尾口に成田土佐と田山又十郎、行田口に松岡豊前と山田河内守、酒巻靱負を遊軍に配置<ref name="古代中世530"/>、『忍城戦記』によれば長野口に吉田和泉守と柴崎和泉守、佐間口に正木丹波守、下忍口に酒巻靱負、行田口に島田出羽守らを配置するなどして城の防備を固めた<ref>[[#行田市史編さん委員会 2012|行田市史編さん委員会 2012]]、591頁</ref>。『成田記』によれば6月7日に城代の泰季が急死したため、奥方([[太田資正]]の娘)は[[甲斐姫]]と相談の上、一門と家臣を集め、長親を総大将とすることを命じたと記されている<ref>[[#小沼、大澤 1980|小沼、大澤 1980]]、166頁</ref>。
[[平成]]24年([[2012年]])、『[[のぼうの城#映画|のぼうの城]]』公開に際して成田長親の子孫と、映画中での長親役・[[野村萬斎]]、[[石田三成]]役・[[上地雄輔]]が大光院に集結し成田長親公四百回忌特別法要が執り行われた<ref name="A"/>。

一方、秀吉は三成に対して忍城[[攻城戦|水攻め]]のための様々な施策を指示しており、[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[7月14日]])付けの三成から浅野、木村の両名に宛てた書状には秀吉から「忍の城の儀、御手筋をもって大方相済ますについて、先手の者引き取るべきの由、仰せを蒙り候」と指示があったと記されている<ref name="水攻め8-9">[[#行田市郷土博物館 2011|行田市郷土博物館 2011]]、8-9頁</ref>。三成の築いた堤は[[石田堤]]と呼ばれ、全長14キロメートルとも28キロメートルとも言われる<ref name="水攻め8-9"/>。『成田系図』によれば、長親らの計略により水に慣れた者を深夜に城の外に出し、郭外の堤を断ち切ると水を敵陣に注いだ。水は逆行して敵陣が漂溺したが、城中は小勢故に城を出て敵を撃つことはかなわずと記されている<ref name="古代中世531">[[#行田市史編さん委員会 2012|行田市史編さん委員会 2012]]、531頁</ref>。

6月下旬、秀吉の命により鉢形城攻略を終えた浅野長政の軍勢が援軍として差し向けられると、[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]([[7月31日]])に皿尾口を突破し城兵の首を30余りほど討ち取る戦功をあげたが<ref name="埼玉718">[[#埼玉県 1988|埼玉県 1988]]、718頁</ref>、秀吉は長政の戦功を賞しつつも、あくまでも水攻めを行う旨を伝えた<ref name="埼玉718"/>。[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]([[8月5日]])、小田原城の落城後も抵抗を続ける忍城に対し、秀吉は木村重茲、上杉景勝、[[山崎片家|山崎堅家]]に対して忍城攻めに参陣するように命じると共に、堤をより頑強に修築するように命じた<ref name="埼玉718"/><ref>[[#行田市史編さん委員会 2012|行田市史編さん委員会 2012]]、480-481頁</ref>。一方、寄せ手の側も多数の負傷者を出していたが<ref>[[#埼玉県 1988|埼玉県 1988]]、489頁</ref>、『成田系図』によれば酒巻靱負の計略によるもの<ref name="古代中世531"/>、『忍城戦記』によれば正木丹波守らの加勢によるものと記している<ref>[[#行田市史編さん委員会 2012|行田市史編さん委員会 2012]]、594-595頁</ref>。

『成田系図』によれば忍城の抵抗が続く中、当主の氏長は籠城軍を説得するため家臣の松岡石見守、秀吉の家臣・神谷備後守を派遣した<ref name="古代中世531"/>。長親らは、三成や長政ら攻城側からの「退城の際に運び出せる荷物は一人につき馬一頭分」という条件に反発し、籠城を継続する構えを見せたが、秀吉の仲裁により開城を決意したと記されている<ref name="古代中世532">[[#行田市史編さん委員会 2012|行田市史編さん委員会 2012]]、532頁</ref>。

=== 忍城退出後の動静 ===
[[ファイル:Ruins of Karasuyama Castle.JPG|thumb|250px|right|烏山城址]]
忍城の開城後、氏長は領地を没収され[[蒲生氏郷]]の下に身柄が預けられることになり、氏郷が[[奥州仕置]]によって[[陸奥国]][[会津]]に移封されると、これに従った<ref name="水攻め8-9"/><ref>[[#埼玉県 1988|埼玉県 1988]]、718頁</ref>。氏郷の下、天正19年([[1591年]])の[[九戸政実の乱]]に参陣するなど着実に功績を挙げた氏長は[[下野国]][[烏山城]]2万石を与えられ、ふたたび大名となった<ref name="埼玉724">[[#埼玉県 1988|埼玉県 1988]]、724頁</ref>。こうした中、成田氏の家臣団は氏長に同行し[[烏山藩]]士となる者、氏長と袂を分かち忍城の新領主となった[[松平忠吉]]の家臣となる者、在地に留まり帰農する者などに別れた<ref>{{Cite book|和書|author=[[埼玉県]] 編|title=新編埼玉県史 通史編 3 近世1|publisher=埼玉県|year=1988|page=75}}</ref>。忠吉の家臣となった者の中には、長親の長男・長季や、忍城の戦いに参加した田山又十郎も含まれている<ref>[[#埼玉県 1988|埼玉県 1988]]、729-731頁</ref>。

『成田系図』によれば[[京都]]に上洛した氏長は浅野長政と石田三成に会い、「忍城の戦いの際、成田氏と同姓の持田口の者と密かに内通したが、故あって謀略は行われなかった」という話を聞いた。氏長は成田近江守{{#tag:ref|成田長泰、泰季、善照寺向用斎の弟<ref name="成田記258-259">[[#小沼、大沢 1980|小沼、大澤 1980]]、258-259頁</ref>。『成田系図』や『関八州古戦録』によれば近江守は、長親らが協議して久下城主・市田太郎と共に持田口の外郭の守備を命じられたことに憤慨、反逆を計り長政に密使を送ったと記されている<ref name="古代中世531"/><ref>[[#槙島、中丸 1976|槙島、中丸 1976]]、503頁</ref>。|group=注}}の逆心を知らず、長親に疑いの目を向けた。これを知った長親は烏山を去り流浪の身となった。氏長は後に近江守の逆心を知ると大いに後悔し、長親に書状を送り陳謝したが、長親はこれに従わなかったと記している<ref name="古代中世532"/>。一方、『断家譜』には「小田原落城後浪人」とのみ記されている<ref>[[#行田市史編さん委員会 2012|行田市史編さん委員会 2012]]、551頁</ref>。

=== 晩年と死 ===
『成田系図』によれば、氏長からの謝罪を断った後に剃髪して自永斎と号し、[[尾張国]]にて隠居したと記されている<ref>[[#行田市史編さん委員会 2012|行田市史編さん委員会 2012]]、545頁</ref>。なお、尾張は長男・長季が仕えていた松平忠吉が[[慶長]]6年(1601年)に[[関ヶ原の戦い]]の戦功により移封された地であるが<ref>[[#行田市史編さん委員会 2010|行田市史編さん委員会 2010]]、4頁</ref><ref>[[#行田市史編さん委員会 2010|行田市史編さん委員会 2010]]、41頁</ref>、長親は息子に従って尾張に移り住んだものと考えられる<ref name="水攻め60-61">[[#行田市郷土博物館 2011|行田市郷土博物館 2011]]、60-61頁</ref>。

慶長17年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]([[1613年]][[1月24日]])、死去<ref name="水攻め60-61"/>。67歳没<ref name="水攻め60-61"/>。法名は青岩義栢菴主<ref name="水攻め60-61"/>。菩提寺は[[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[大須]]にある[[大光院 (名古屋市)|大光院]]で<ref>{{Cite web|url=http://news.walkerplus.com/article/33988/|title=成田長親を演じた野村萬斎が、長親の子孫と400年の時を超えて名古屋で対面!|publisher=ニュースウォーカー|date=2012-10-18|accessdate=2014-03-26}}</ref>、墓碑は[[千種区]]にある[[平和公園 (名古屋市)|平和公園]]の大光院墓地にある。なお、氏長の家系は烏山藩時代に家督争いが起こり改易されたが、長親の家系はその後も[[尾張藩]]士として受け継がれた<ref>[[#行田市史編さん委員会 2012|行田市史編さん委員会 2012]]、550頁</ref>{{#tag:ref|松平忠吉は慶長12年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]([[1607年]][[4月1日]])に死去したため家系が断絶したが、長季をはじめとした家臣団の一部は尾張の新たな領主となった[[徳川義直]]に引き継がれ、尾張系成田氏の子孫はその後も尾張藩に仕えた<ref name="水攻め60-61"/>。|group=注}}。

== 家系 ==
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出典<ref name="成田記258-259"/><ref>[[#小沼、大沢 1980|小沼、大澤 1980]]、267頁</ref>
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== 関連作品 ==
== 関連作品 ==
; 小説
; 小説
* 『[[のぼうの城]]』([[和田竜]])- 主人公。作者の和田は成田側の史料において、軍議の場で部下の調整役を務めている点と、農民が能動的に働きたくなる城主という物語上の都合から「のぼう様」という人物ができたと語っている<ref>{{Cite web|url=http://p.booklog.jp/book/58973|title=作家・和田竜インタビュー(映画『のぼうの城』公開記念)|publisher=[[ブクログ]]|accessdate=2016-06-18}}</ref>。
* 『[[のぼうの城]]』([[和田竜]])
* 『[[水の城 いまだ落城せず]]』([[風野真知雄]])
* 『[[水の城 いまだ落城せず]]』([[風野真知雄]])
; 映画
; 映画
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*[[黒田基樹]]『扇谷上杉氏道潅』岩田書院、[[2004年]]。ISBN 978-4-872-94326-9
* {{Cite book|和書|author=[[黒田基樹]]|title=論集戦国大名国衆 7 武蔵成氏|publisher=岩田書院|year=2012|isbn=978-4-87294-728-1|ref=黒田 2012}}
* {{Cite book|和書|author=小沼十五郎保道著、大澤俊吉訳・解説|title=成田記|publisher=歴史図書社|year=1980|ref=小沼、大澤 1980}}
* {{Cite book|和書|author=行田市郷土博物館 編|title=石田三成と忍城水攻め 特別展|publisher=行田市郷土博物館|year=2011|ref=行田市郷土博物館 2011}}
* {{Cite book|和書|author=行田市史編さん委員会|title=行田市史 資料編 古代中世|publisher=行田市教育委員会|year=2012|ref=行田市史編さん委員会 2012}}
* {{Cite book|和書|author=行田市史編さん委員会|title=行田市史 資料編 近世1|publisher=行田市教育委員会|year=2010|ref=行田市史編さん委員会 2010}}
* {{Cite book|和書|author=[[埼玉県]] 編|title=新編埼玉県史 通史編 2 中世|publisher=埼玉県|year=1988|ref=埼玉県 1988}}
* {{Cite book|和書|author=槙島昭武著、中丸和伯校注|title=改訂 関八州古戦録|publisher=新人物往来社|year=1976|ref=槙島、中丸 1976}}


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[[Category:1613年没]]

2016年6月26日 (日) 11:47時点における版

 
成田 長親
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文15年(1546年
死没 慶長17年12月4日1613年1月24日
別名 自永斎(号)
戒名 青岩義栢菴主
墓所 大光院愛知県名古屋市
官位 大蔵大輔
主君 成田氏長
氏族 成田氏
父母 父:成田泰季、母:?
正室:遠山藤九郎(遠山綱景の子)の娘
長季、泰家、元由
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成田 長親(なりた ながちか、天文15年(1546年) - 慶長17年12月4日1613年1月24日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将成田泰季の嫡男。官職は大蔵大輔。妻は遠山藤九郎(遠山綱景の子)の娘[1][2][注 1]

生涯

天文15年(1546年)、成田泰季の嫡男として生まれる[2]。明確な時期は定かでないが、成田長泰の意向により遠山藤九郎の娘(天文16年生まれと推測される[2])と結婚し、長男・長季(永禄10年生まれ)、次男・泰家(天正2年生まれ)をもうけた[2]

天正2年(1574年)の羽生城をめぐる上杉勢との戦いの後、同年閏11月に上杉謙信の命により同城が破却され上杉勢が撤退すると、羽生領の支配権は後北条方についた成田氏長に戦功として与えられた[3]。氏長は城を修築した後、家臣を配置したが[4]、『関八州古戦録』によれば「氏長則成田大蔵少輔、桜井隼人佐を以て羽生の警固をなさしめり」とあり[5]、『日本城郭大系』では「成田大蔵少輔」を長親としている[6][注 2]。一方、『成田系図』や『士林泝洄』によれば「数々の軍功あり」とのみ記されている[8]

天正6年(1578年)の『成田御家臣分限帳』(柴崎家文書)には、氏長配下の11人の家門侍の一人として「永三百貫 成田大蔵」と記されている[9]

忍城の戦い

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、当主の氏長は北条氏に味方して小田原城に籠城したが、成田氏の本拠・忍城は長親の父・泰季が城代を務め、500余の兵と城下の民たち合わせて3,000人が立て籠もった[10]。秀吉は武蔵国の岩付城が落城すると、同城の攻撃軍を率いた浅野長政木村重茲の両名に対して上杉景勝前田利家ら北国勢と共に早急に鉢形城を攻囲するように命じた[11]。一方、秀吉は忍城攻めの大将に石田三成を任じると、佐竹義宣宇都宮国綱結城晴朝多賀谷重経水谷勝俊佐野房綱ら北関東の諸将をはじめ2万余人の軍勢を率いて侵攻した[12]

忍城址にある水城公園

これに対し成田方は『成田系図』によれば本丸に泰季、持田口に長親と新田常陸守、下忍口に本庄越前守、皿尾口に成田土佐と田山又十郎、行田口に松岡豊前と山田河内守、酒巻靱負を遊軍に配置[7]、『忍城戦記』によれば長野口に吉田和泉守と柴崎和泉守、佐間口に正木丹波守、下忍口に酒巻靱負、行田口に島田出羽守らを配置するなどして城の防備を固めた[13]。『成田記』によれば6月7日に城代の泰季が急死したため、奥方(太田資正の娘)は甲斐姫と相談の上、一門と家臣を集め、長親を総大将とすることを命じたと記されている[14]

一方、秀吉は三成に対して忍城水攻めのための様々な施策を指示しており、6月13日7月14日)付けの三成から浅野、木村の両名に宛てた書状には秀吉から「忍の城の儀、御手筋をもって大方相済ますについて、先手の者引き取るべきの由、仰せを蒙り候」と指示があったと記されている[15]。三成の築いた堤は石田堤と呼ばれ、全長14キロメートルとも28キロメートルとも言われる[15]。『成田系図』によれば、長親らの計略により水に慣れた者を深夜に城の外に出し、郭外の堤を断ち切ると水を敵陣に注いだ。水は逆行して敵陣が漂溺したが、城中は小勢故に城を出て敵を撃つことはかなわずと記されている[16]

6月下旬、秀吉の命により鉢形城攻略を終えた浅野長政の軍勢が援軍として差し向けられると、7月1日7月31日)に皿尾口を突破し城兵の首を30余りほど討ち取る戦功をあげたが[17]、秀吉は長政の戦功を賞しつつも、あくまでも水攻めを行う旨を伝えた[17]7月6日8月5日)、小田原城の落城後も抵抗を続ける忍城に対し、秀吉は木村重茲、上杉景勝、山崎堅家に対して忍城攻めに参陣するように命じると共に、堤をより頑強に修築するように命じた[17][18]。一方、寄せ手の側も多数の負傷者を出していたが[19]、『成田系図』によれば酒巻靱負の計略によるもの[16]、『忍城戦記』によれば正木丹波守らの加勢によるものと記している[20]

『成田系図』によれば忍城の抵抗が続く中、当主の氏長は籠城軍を説得するため家臣の松岡石見守、秀吉の家臣・神谷備後守を派遣した[16]。長親らは、三成や長政ら攻城側からの「退城の際に運び出せる荷物は一人につき馬一頭分」という条件に反発し、籠城を継続する構えを見せたが、秀吉の仲裁により開城を決意したと記されている[21]

忍城退出後の動静

烏山城址

忍城の開城後、氏長は領地を没収され蒲生氏郷の下に身柄が預けられることになり、氏郷が奥州仕置によって陸奥国会津に移封されると、これに従った[15][22]。氏郷の下、天正19年(1591年)の九戸政実の乱に参陣するなど着実に功績を挙げた氏長は下野国烏山城2万石を与えられ、ふたたび大名となった[23]。こうした中、成田氏の家臣団は氏長に同行し烏山藩士となる者、氏長と袂を分かち忍城の新領主となった松平忠吉の家臣となる者、在地に留まり帰農する者などに別れた[24]。忠吉の家臣となった者の中には、長親の長男・長季や、忍城の戦いに参加した田山又十郎も含まれている[25]

『成田系図』によれば京都に上洛した氏長は浅野長政と石田三成に会い、「忍城の戦いの際、成田氏と同姓の持田口の者と密かに内通したが、故あって謀略は行われなかった」という話を聞いた。氏長は成田近江守[注 3]の逆心を知らず、長親に疑いの目を向けた。これを知った長親は烏山を去り流浪の身となった。氏長は後に近江守の逆心を知ると大いに後悔し、長親に書状を送り陳謝したが、長親はこれに従わなかったと記している[21]。一方、『断家譜』には「小田原落城後浪人」とのみ記されている[28]

晩年と死

『成田系図』によれば、氏長からの謝罪を断った後に剃髪して自永斎と号し、尾張国にて隠居したと記されている[29]。なお、尾張は長男・長季が仕えていた松平忠吉が慶長6年(1601年)に関ヶ原の戦いの戦功により移封された地であるが[30][31]、長親は息子に従って尾張に移り住んだものと考えられる[32]

慶長17年12月4日1613年1月24日)、死去[32]。67歳没[32]。法名は青岩義栢菴主[32]。菩提寺は愛知県名古屋市中区大須にある大光院[33]、墓碑は千種区にある平和公園の大光院墓地にある。なお、氏長の家系は烏山藩時代に家督争いが起こり改易されたが、長親の家系はその後も尾張藩士として受け継がれた[34][注 4]

家系

出典[26][35]

成田親泰10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
成田長泰11小田朝興成田泰季
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
成田氏長12成田泰親13成田長親
 
 
 
 
 
 
 
 
 
甲斐姫成田泰之14成田長季
 

関連作品

小説
映画

脚注

注釈

  1. ^ 遠山藤九郎の娘の祖母は太田資顕の妻であり、藤九郎と資顕が相次いで亡くなったため祖母、母、娘の3人で忍城に身を寄せていた[2]
  2. ^ 『成田系図』には「善照寺向用斎(成田長泰、泰季の弟)が田中加賀、野沢信濃と共に羽生城代となった。善照寺はその最なり」と記されている[7]
  3. ^ 成田長泰、泰季、善照寺向用斎の弟[26]。『成田系図』や『関八州古戦録』によれば近江守は、長親らが協議して久下城主・市田太郎と共に持田口の外郭の守備を命じられたことに憤慨、反逆を計り長政に密使を送ったと記されている[16][27]
  4. ^ 松平忠吉は慶長12年3月5日1607年4月1日)に死去したため家系が断絶したが、長季をはじめとした家臣団の一部は尾張の新たな領主となった徳川義直に引き継がれ、尾張系成田氏の子孫はその後も尾張藩に仕えた[32]

出典

  1. ^ 黒田基樹『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』岩田書院、2013年、24頁。ISBN 978-4872947977 
  2. ^ a b c d e 黒田基樹『扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院、2004年、189-190頁。ISBN 978-4872943269 
  3. ^ 黒田 2012、42頁
  4. ^ 黒田 2012、144頁
  5. ^ 槙島、中丸 1976、209頁
  6. ^ 日本城郭大系 5 埼玉・東京』新人物往来社、1979年、186-189頁。ISBN 978-4404009760 
  7. ^ a b 行田市史編さん委員会 2012、530頁
  8. ^ 行田市史編さん委員会 2012、542頁
  9. ^ 行田市史編さん委員会 2012、626頁
  10. ^ 埼玉県 1988、716頁
  11. ^ 埼玉県 1988、709頁
  12. ^ 埼玉県 1988、715頁
  13. ^ 行田市史編さん委員会 2012、591頁
  14. ^ 小沼、大澤 1980、166頁
  15. ^ a b c 行田市郷土博物館 2011、8-9頁
  16. ^ a b c d 行田市史編さん委員会 2012、531頁
  17. ^ a b c 埼玉県 1988、718頁
  18. ^ 行田市史編さん委員会 2012、480-481頁
  19. ^ 埼玉県 1988、489頁
  20. ^ 行田市史編さん委員会 2012、594-595頁
  21. ^ a b 行田市史編さん委員会 2012、532頁
  22. ^ 埼玉県 1988、718頁
  23. ^ 埼玉県 1988、724頁
  24. ^ 埼玉県 編『新編埼玉県史 通史編 3 近世1』埼玉県、1988年、75頁。 
  25. ^ 埼玉県 1988、729-731頁
  26. ^ a b 小沼、大澤 1980、258-259頁
  27. ^ 槙島、中丸 1976、503頁
  28. ^ 行田市史編さん委員会 2012、551頁
  29. ^ 行田市史編さん委員会 2012、545頁
  30. ^ 行田市史編さん委員会 2010、4頁
  31. ^ 行田市史編さん委員会 2010、41頁
  32. ^ a b c d e 行田市郷土博物館 2011、60-61頁
  33. ^ 成田長親を演じた野村萬斎が、長親の子孫と400年の時を超えて名古屋で対面!”. ニュースウォーカー (2012年10月18日). 2014年3月26日閲覧。
  34. ^ 行田市史編さん委員会 2012、550頁
  35. ^ 小沼、大澤 1980、267頁
  36. ^ 作家・和田竜インタビュー(映画『のぼうの城』公開記念)”. ブクログ. 2016年6月18日閲覧。

参考文献

  • 黒田基樹『論集戦国大名と国衆 7 武蔵成田氏』岩田書院、2012年。ISBN 978-4-87294-728-1 
  • 小沼十五郎保道著、大澤俊吉訳・解説『成田記』歴史図書社、1980年。 
  • 行田市郷土博物館 編『石田三成と忍城水攻め 特別展』行田市郷土博物館、2011年。 
  • 行田市史編さん委員会『行田市史 資料編 古代中世』行田市教育委員会、2012年。 
  • 行田市史編さん委員会『行田市史 資料編 近世1』行田市教育委員会、2010年。 
  • 埼玉県 編『新編埼玉県史 通史編 2 中世』埼玉県、1988年。 
  • 槙島昭武著、中丸和伯校注『改訂 関八州古戦録』新人物往来社、1976年。