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2016年6月7日 (火) 23:16時点における版
上田哲 うえだ てつ | |
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生年月日 | 1928年2月26日 |
出生地 | 東京都文京区 |
没年月日 | 2008年12月17日(80歳没) |
死没地 | 東京都文京区 |
出身校 | 京都大学法学部 |
前職 | NHK職員 |
所属政党 |
(日本社会党→) (護憲新党あかつき→) (スポーツ平和党→) 社会党 |
選挙区 | 旧東京2区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1979年10月8日 - 1993年6月18日 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1968年7月7日 - 1979年9月24日 |
上田 哲(うえだ てつ、1928年(昭和3年)2月26日 - 2008年(平成20年)12月17日)は、日本の政治家、ジャーナリスト、労働組合運動家。
来歴
東京都文京区生まれ。旧制東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)、旧制新潟高等学校、京都大学法学部卒業。京大卒業後、高等学校の非常勤講師(英語科)を経て、日本放送協会(NHK)に入局し、社会部に所属。
1961年、生ワクチンによるポリオ根絶をめざす「上田プラン」を提唱し、ポリオ撲滅運動の原動力になる。その後日本放送労働組合中央執行委員長、全日本マスコミ共闘会議の初代議長を務める。当時のニックネームは「NHKの闇将軍」「上田天皇」。
1968年、NHKを退職し、第8回参議院議員通常選挙に参議院全国区から出馬し、高い知名度を生かして石原慎太郎、青島幸男に次ぐ得票数3位で初当選。1974年の第10回参議院議員通常選挙には東京地方区から出馬し、同区トップの得票数で再選(この時の上田の当選以降、社会党は後継政党の社会民主党も含めて、東京地方区及び東京都選挙区で議席を獲得できていない)。1979年、任期途中で参院議員を辞職。第35回衆議院議員総選挙に社会党公認で旧東京2区から出馬し、得票数2位で当選(トップ選は公明党の鈴切康雄)。参院同期当選の石原慎太郎も同じく衆院に鞍替えして旧東京2区から出馬し、上田に次ぐ得票数3位で当選した。この時のみ上田が旧東京2区で石原の得票数を上回ったが、以後は石原の後塵を拝し続け、トップ当選の石原を上田や公明党の鈴切康雄・遠藤乙彦、民社党の大内啓伍、自由民主党の新井将敬、日本共産党の榊利夫・岡崎万寿秀らが追う構図が続いた。1991年、日本社会党委員長選挙に立候補するが、田邊誠に敗れる。旧東京2区では5回連続で当選したが、1993年の第40回衆議院議員総選挙で社会党惨敗の煽りを受け、落選。
1994年、社会党が細川内閣の下で小選挙区比例代表並立制導入を柱にした選挙制度改革に賛成したため、社会党を離党。護憲新党あかつきを結成し、委員長に就任する。
1995年東京都知事選挙に無所属で立候補したが、青島幸男、石原信雄、岩國哲人、大前研一ら有力候補がひしめく中、得票数5位で落選した(当選者は青島幸男)。同年の第17回参議院議員通常選挙では、アントニオ猪木が率いるスポーツ平和党に合流し、名簿2位で比例区から出馬したが落選(なお、都知事選で落選した大前研一も平成維新の会を率いて出馬したが落選)。以後、2000年に社会党を結成し衆議院比例東京ブロックや参議院東京都選挙区から出馬したが、国政復帰は果たせなかった。
2003年には医師で作家のなだいなだが立ち上げたバーチャル政党・老人党に賛同し、落語家で立川流家元の立川談志、探検家の西丸震哉と共に老人党東京を結成。またインターネットTV「世論力TV」の運営や、雑誌「月刊マスコミ市民」の編集にも携わっていた。
2008年(平成20年)12月17日、肺炎のため東京都文京区の病院で死去。享年80。
人物
- 映画「われ一粒の麦なれど」のモデル。
- ロッキード事件では田中角栄らをきびしく追及し、田中に「上田質問が一番嫌だ」と言わしめた[1]。
- 社会党内では外交・安全保障の政策通で知られ、防衛庁長官時代の中曽根康弘や、浜田幸一らとも衆議院予算委員会で激論を交わした。
- 社会党内では中間右派の火曜会に所属。当初のスタンスは右派寄りであったため党内最左派の社会主義協会に敵対する立場であったが、護憲や小選挙区制反対による社会党の主体性を重視する立場から、徐々に左派への傾斜が見られた。そのため、落選した93年の総選挙では土井たか子や岩垂寿喜男同様、社会党公認ながら連合からの推薦を得られなかった。
- 1993年にデータハウス社から「社会党大好き」を出版し、日本地方新聞協会特別賞を受賞した。
- 法案採決に際し、国民の直接投票により可否を決定する「国民投票法」(レファレンダム)制定はライフワーク。市民団体「国民投票・国民会議」も結成していた。
- かつては革マル派の大会でも来賓として呼ばれ演説を行い、中核派などから批判されたこともある。民族派政治団体一水会の鈴木邦男が立川談志、片岡鶴太郎らと共に選挙の応援に駆けつけたこともある。2000年の選挙の当時は十勝花子が街頭活動で応援を行なった。
- 思想的には護憲であったが、立川談志やミッキー安川、一水会の鈴木邦男ら保守派とも親交があり、上田の死後に刊行された追悼本では田原総一朗、立川談志、十勝花子、鈴木邦男、木村三浩らが追悼文を執筆している。
- 田原総一朗は非常勤講師時代に在学をしていた生徒である。
著書
- 「逆想の「非武装中立」」(廣済堂出版 1983)
- 「こんなに損していた日本人―社会党がやると日本はこうなる」(青春出版社 1989)
- 「社会党大好き!」(データハウス 1993)日本地方新聞協会賞特別賞受賞
- 「社会党への涙」(データハウス 1994)小沢遼子共著
- 「日本をダメにする10人の政治家」(データハウス 1994)
- 「政治バカ入門―上田哲の敗戦記」(データハウス 1995)
- 「上田哲が、一人で最高裁を追いつめた本邦初の裁判「国民投票法・合憲」「小選挙区法・違憲」逃げた首相と議長と裁判官たち」(データハウス 2001)
- 「戦後60年軍拡史」(データハウス 2006)
脚注
- ^ 「社会党への涙」(データハウス社 1994)
外部リンク
議会 | ||
---|---|---|
先代 戸田菊雄 |
参議院社会労働委員長 1977年 - 1978年 |
次代 和田静夫 |