コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「塩野季彦」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m WP:BOTREQ: Category:東京都区部出身の人物新設に伴う貼り変え作業
93行目: 93行目:
[[Category:A級戦犯容疑者]]
[[Category:A級戦犯容疑者]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1880年生]]
[[Category:1880年生]]
[[Category:1949年没]]
[[Category:1949年没]]

2016年6月8日 (水) 01:49時点における版

塩野 季彦
しおの すえひこ
生年月日 (1880-01-01) 1880年1月1日
出生地 大日本帝国の旗 大日本帝国東京府東京市神田区
没年月日 (1949-01-07) 1949年1月7日(69歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学
前職 検事

日本の旗 第38代 司法大臣
内閣 林内閣→第1次近衛内閣→平沼内閣
在任期間 1937年2月2日 - 1939年8月30日

日本の旗 第43代 逓信大臣
内閣 平沼内閣
在任期間 1939年1月5日 - 1939年4月7日
テンプレートを表示

塩野 季彦(しおの すえひこ、明治13年(1880年1月1日 - 昭和24年(1949年1月7日)は、日本司法官僚政治家司法大臣である。思想検事の主流として活動し、「塩野閥」などと言われた派閥を形作っていたことで知られている。(特捜検察と公安検察の対立参照。)

略歴

東京府神田区(現在の東京都千代田区)に司法省官吏で旧松代藩士の山寺信炳の三男として生まれるが、父の病死により叔父にあたる塩野宜健の養子となった。養父は東京地裁検事局検事正だった。松代の山寺家は藩の郡奉行や寺社奉行を務める、謂わば「司法の家系」であった。

番町小から、一中一高を経て、明治39年(1906年)7月に東京帝国大学法科大学法律学科(独法科)卒業。同年、司法官試補

静岡地裁予備検事から大阪区裁判所検事、東京区裁判所・東京地裁検事を経て、大正11年(1922年)に東京地裁専任次席検事に。

以後、司法省参事官から東京控訴院次席検事、東京地裁検事正。この頃、東京地裁検事局に思想部を設けた。さらに昭和5年(1930年)に司法省行刑局長、昭和9年(1934年)名古屋控訴院検事長、昭和11年(1936年)12月、大審院検事局次長(後の次長検事)就任。

昭和12年(1937年)2月から昭和14年(1939年)8月にかけて、林内閣第一次近衛内閣平沼内閣司法大臣就任[1]、昭和14年(1939年)1月から4月の間逓信大臣を兼務。

思想検事のドン

戦前にかけて、俗に司法・検察人事では平沼騏一郎鈴木喜三郎らの流れを汲み、初期の社会主義運動、大逆事件の指揮にあたった小山松吉らを経てのち、思想検事は「塩野閥」が主流とされ、刑事警察を常道とすべきとする小原直らの「小原派」と対立関係にあったが、小原派は超弱小派閥ゆえ問題とならなかった。三・一五事件などで実質的指揮をとった松阪広政、思想検察を確立した池田克、戦後でも経済検事の流れを汲む馬場義続と対立関係にあった岸本義広井本台吉らに辿れる[2]

師匠にあたる小林芳郎や、武富済小原直らは葉隠の思想の体現者のごとく、政治家が今にいなくなり、政府がじきに成り立たなくなるとの批判が出るまで政治汚職追及に厳しかった。塩野らの拠って立つ「国家有用論」はいわば清濁併せ呑む融通性をもって古くは桂太郎、そして平沼騏一郎の支持を取り付け、一大派閥を形成した。他方で検察首脳の裁量やさじ加減により国家有為かで政治家や官僚の選別、政治犯の選別が起訴予審段階で成され、「検察ファッショ」につながるとの批判もあった[3][4]。だが、一方では受刑者の社会復帰を重視し、日本の行刑の近代化・刑務所の待遇改善に貢献。こうした事績や人に慕われる性格もあったことから、検事のみならず受刑者からも慕われることもあったという。

係わった事件には、シーメンス事件三・一五事件四・一六事件東京市会疑獄事件などがある。三・一五事件では私有財産否定を要綱に掲げる秘密結社共産党に戦後に至るまで再起できない程の壊滅的打撃を与え、さらに、司法省行刑局長から司法大臣時代に関わった帝人事件では影の主役ともいわれている。司法大臣の地位に長くあったが、昭和14年(1939年)8月に下野、日本法理研究会を主宰し、忠君愛国への戦時司法体制づくりに積極的に関わっていくこととなる。戦後、昭和20年(1945年)12月から昭和21年(1946年)8月にかけて、A級戦犯容疑にて巣鴨プリズンに収容された[4][5]

息子の塩野宜慶(やすよし)は、東京高検検事長法務事務次官を経て最高裁判所判事を務めた。孫の健彦(中大法卒)は、最高検検事、福島地検検事正等を務めた。

著書

  • 『暴力行為等処罰法釈義』巌翠堂書店 1926
  • 『警察犯処罰令釈義』巌翠堂書店 1927
  • 『警察法要論』巌翠堂書店 1929
  • 『塩野季彦回顧録』塩野季彦回顧録刊行会 1958

脚注

  1. ^ 大審院次長検事という高等官一等でも、それより序列上では位が上の親任官(大審院長、検事総長)や、先順位の高等官一等(各控訴院長、各検事長)らがひしめいていた中で、8名から12名を追い越して異例の司法大臣抜擢に至った背景には、塩野の人物にその素質があったことは勿論、国本社総帥・平沼騏一郎の推挙が大いに力があったという。『鬼検事』(向江璋悦,法学書院,1974年6月10日発行) P114
  2. ^ 「塩野閥」として、松阪広政、黒川渉の二人に、その下部の佐藤祥樹、岸本義広、佐野茂樹太田耐造らが当時の「塩野閥四天王」と括られ、特に戦後の「岸本派」の実態は「太田派」というように太田耐造が中心にいたとする。『鬼検事』(向江璋悦,法学書院,1974年6月10日発行) P118
  3. ^ ただ塩野と対立していた小原派にしても追及に妥協が無く、それに連なる戦後の特捜経済検事の「正義」を基調とした捜査手法もあながち検察ファッショともいえなくもない。
  4. ^ a b 『思想検事』(荻野富士夫,岩波新書,2000年9月)
  5. ^ 『CD 現代日本人名録 物故者編 1901 - 2000』(日外アソシエーツ
公職
先代
永井柳太郎
日本の旗 逓信大臣
第43代:1939
次代
田邊治通
先代
林頼三郎
日本の旗 司法大臣
第38代:1937 - 1939
次代
宮城長五郎